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ライブラリーのキヤラクター その9 06月25日 (金)
続続続 トム・ソーヤ
 1865年に南北戦争が終わる。この戦争は奴隷制度をめぐる正義のたたかいで,北軍は自由の解放軍というイメージがあるが、はっきしいってそれはきれいごとで、大ざっぱにいえば北部の産業地帯が、南部農業地帯をうちたおした戦さなのだ。ようするに、いまも昔もどこの国でも正義の戦争なんては存在しない。
 ともあれこの戦争以後、アメリカの産業・経済はがんがんと発展する。新興成金がたくさん生まれ、金銭万能の時代となったのだ。そうなると、衣食たりて礼節を知るではないが(わしら日本人は、衣食たりてなお礼節を知らんがね)、彼らは自分たちが粗野なまんまで、文化のかおりというか精神というか、ようするに心の貧しさに気づいてしまった。
 そこで、ヨーロッパの文化・芸術を輸入し、模倣する。なんてったってアメリカ独自の美の基準なんてなかったからね。それは独立当時からそうで、たとえば首都DCの建築物などは全部ヨーロッパ的価値観のよせあつめだ。連邦議会(市民からデザインを公募したけど、へんなものしかあつまらず。結局フランス人のプロにたのんだ)や最高裁判所、ホワイトハウスなどはギリシア建築だし(ほら、イオニア式とかコリント式とかドーリア氏期とかにならったでしょう)、ワシントン・モニュメントはどうみてもオベリスクだ。この塔とリンカーン・モニュメントの間にひろがるリフレクターとよばれる長方形の池は、どみてもエリゼー宮だ。
 さらに地図でみると、最高裁判所とワシントン・モニュメントとリンカーン・モニュメント(マーチン・キング・ジュニア牧師が有名なI have a dream の演説をした場所)は1本の線分上にあり、ホワイトハウとジエファーソン・モニュメントほ結ぶ線と、ワシントン・モニュメントでみこどに直角に交差する。つまり、上空からみるとDCには重要建造物で十字架を描いているのだ。前回も書いたが、アメリカはやっぱしごった煮的な田舎趣味なのだ。だからギリシアのような人類全体の遺産的な価値にたいしてはめっぽう弱い
というわけだ。ラボ国際交流センターの評議員でもあり、日本を代表する比較神話学の吉田敦彦先生(学習院大学教授)は、30代ですでにアメリカの大学でギリシア神話の講義をしていたすごい人だが、アメリカの教授連は「なんで日本人がギリシアの講義にきているんだ」と納得いかぬようすだったらしい。で、数学や物理の教授たちが「ギリシアは基礎教養。おれらのがよく知ってるぜ」と、休み時間の教授ロビーなどでよじた先生にいろいろと質問をぶつけてきたそうだ。吉田先生は、それらをことごとく論破してしまったという。 
 話をもどすが、独立直後はアメリカもボンビーだったから、そうしたヨーロッパの輸入にたいして金をかけることはできなかった。しかし、前述のように南北戦争以後、産業が発達して金まわりがよくなると、美術品をはじめとしてとにかく「ヨーロッパ」を買い集めた。NYのメトロポリタンやDCのMuseum of National Artには名作、名画がごろごろしているが、これらはみんな19世紀のこの時期に買い集めたものだ。おもしろいことに、その多くが個人コレクションによるものだ。だから、○○氏コレクションといえかたちでまとめられて紹介される場合が多い。コレクターがスポンサーとなって才能を育てる風土は日本にはあまりなかったし、これからもなさそう。100万円くらいなら、その場で小切手をきれる金持ちは日本にもけっこういて、「まあ、このガレの花器が100万円なの。おやすいわ。いただいていこうかしら」ということは多々あるが、おなじ金額をぱっと若い才能に投資するという文化はあんまりないよなあ。
 とにかく、南北戦争以後のアメリカは一種のバブルで、ヨーロッパとの交流も盛んで豪華客船による欧州ツアーなども行なわれた。トウェインも旅行記作家として同乗してルポをかいて、それがストセラーになったりもした。ラフカディオ・ハーンもそうした旅行作家でデビューしたひとりだ。この時代、海外旅行はやはり上流階級の人間にのみゆるされた娯楽で、庶民がそうしたまだ見ぬ外国の情報を知るには本がいちばんだった。
 トゥエインは利代子雨期のなかで、西部の田舎育ちのラフな精神で、東部のお上品にかしこまった連中、そして古いヨーロッパの文化であればなんでもあこがれてしまう彼らを痛烈に皮肉りました。これがあたりにあたった。
 トウェインは、そうした取材の航海で知り合ったある青年の姉に求婚する。たいへんな東部の名家のご令嬢だ。トウェインは酒もたばこもたしなみすぎていたが、そんな人は紳士しゃないと、令嬢にいわれ、すごい努力をして結婚する。はじめ、記者というかフリーライターなんていうあやしげな商売の男など信用ならんという態度だった令嬢の父親もさいごはおれて。トゥェインに事業の経営権をあたえたりしている。 
 1873年にトウェインは初の長編小説をかく。その名も「金メッキ時代」、中身は真鍮のくせに外だけぬりたくったまさに時代を皮肉った作品だ。とくに政治と産業がむすびつき。賄賂がはやりまくつた時代でもあつたので、そのことをトゥエインは徹底的にあざけった。でも、トウェイン自身はお金もすきで、「そうはいっても金っていいよな」という態度だったので、皮肉の先に新しい提案をしめすというようなことはしていない。要するにその程度の作品だ。それはまさに結婚したトゥエインが混乱していることのあらわれだった。つまり、トゥエインはふたつの価値のあいだをゆれ動いていた。それは妻との価値感のちがいを克服しようとする苦しみに起因することはいうまでもない(ここ、ドニファン調で)。自由もいいが、秩序もだいじ、野性もすてがたいが文明も重要、田舎も美しいが都会も魅力的といったぐあいだ。この振れ幅の大きさがじつはトウェインの魅力なのだが……。
 わけがわからなくなったトゥェインが、なつかしく思ったのはあのハンニバルののどがで「ハチがブーンといっている」ようなくらしだった。それでね彼は1876年、ついにトム・ソーヤをかくのである。
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