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The night かいじゅうたちよ何処へ 11月30日 (水)
『ジョン・ギルピンのこっけいなできごと』の作者は、
いうまでもなく絵本の父、コールデコットだ。その才能も作品もすごいのだが後の絵本作家たちにあたえた影響はすさまじいといわねばならない。
バーニンガム,ブリッグズなど多くのすぐれた絵本作家がほとんどオマージュといえるような作品を描いている。
 ごぞんじのモーリス・センダックもコールデコットを崇拝するひとりだ。
先日よみかえした『センダックの絵本論』(脇朋子。島多代訳 1990年岩波書店)はこの絵本の父への賛辞でうまっている。
 残念ながら、この本は現在絶版で再版予定もないそうだが(本来なら今夏の参考図書にいれたかったのだ。機会があればぜひ図書館で読むべし)、そのなかでセンダックは「コールデコットの業績は、現代絵本の幕開けを高らかに告げるものだった。ことばと絵を対位法的に併置する天才的なやり方を考案したが、それは以前にはだれもやらなかったことだ。ことばが省かれ、そこを絵が語る。絵が省かれ、そこをことばか語る」と述べ、現代の絵本作家でコールデコットをこえた者はまだいないとさえいいきっている。
 そのセンダックが、コールデコットから学んだものに自らのファンタジーと思いをぜんぶたたきこんだのが1964年の『かいじゅうたのいるところ』だ。前述の『絵本論』にはセンダックがさまざまな絵本賞をゲットしたときのアクセプタンス・スピーチ、すなわち受賞あいさつも載っているのだが、そのなかの『かいじゅうたち』でコールデコット賞をとったときのスピーチがたいへんすばらしい。センダックはコールデコットのすごさととして「人生をいつわりなく反映する」という点をあげている。きれいごとだけの人生の真実の片面だけの表現はけしてしない。そのことは子どもたちがもとめているし、みとめてくれる。それはいいかえれば恐れを知らぬ率直。そして、その率直さは「ギルビン」にも随所にみてとれる。
 さらにセンダックは「かいじゅうたち」の刊行当時、そのモティーフに対してよせられた「きちがいじみた、おそろしいアイディア」という批判に対して、「あなたはなにが真実と思うのか、そしてそれは子どもとどういう関係があるのか」と切り捨てている。そしてこどもの人生の真実とは、恐怖、いかり、憎しみ、不満などのかいじゅうたに常におびやかされていることにほかならないとセンダックはつづける。したがって、子どもはこれらの恐ろしい現実とたたかうために、空想と想像をよびだねばならない。そうした恐怖から子どもたちわまもることもたいせつだが、それらの「かいじゅうたち」は子どもの日常生活の本質的な一部であることもみのがせないというのが、彼の基本的なスタンスなのだ。
 センダックはマックスは自分かつくったキャラのなかで最も勇敢でねそれゆえにセンダック自身が最も愛しているという。空想と現実が混在する世界を信じているのは子どもの本質であり、ふたつの世界わかるがると行き来することができる。ただしマックスはそのスピードがとてもはやく、超音速の飛行機のように物事の核心にとびこんでいく。だからこそ愛される。なぜなら、視覚としてのシンプルさが必要な絵本にはたいせつなことだから。
 そこで『かいじゅうたち』の冒頭の一文を思い出してほしい、
The night あるばん ではじまる。もちろんそのあと、マックスオオカミのぬいぐるみほきておおあばれする。
 しかし、ふつうはOne night あるいは A night すなわち不定冠詞か数詞でばまるものだ。つまり昔話でもファンタジーでもその時を特定する必要がないからだ。ごていねいに「とんとむかと」「いつのことかはわからぬが、あるところに」なとどいつたりもするほうが「おはなし」の世界ではノーマルだ。ではセンダックはなんでThe nightとしたのだろう。Theはいうまでもなく定冠詞で「だれにもわかる 例の その」である。ちなみ不定冠詞というのは「定めることができない」という意味で不定冠詞といわれている。
 前半を読んだ方ならもうおわかりだろう。もちろん、センダックは(本人はしらん顔しているが)わざとやっている。つまり、その日の昼間、きっとマックスにはなにかやばいことがあったのだ。友だちとけんかしのかもしれない。母親にわかつていることわくどくどいわれたのかもしれない。とにかく、彼はかいじゅうとたたかってまけたか、ひきわけたかとにかくたまっていたのだ。だから、「その夜」なのだ。そかつて、そのことに気づいて吉田新一先生におききしたら、やさしく「よく御勉強されましたね。わたしもそう思います」といってくださった。だから、特別な夜なのだ。
 では、日本語は「そのばん」であるのはどうしてか。これは神宮先生もきっとすごく悩んだとだろう。先生は訳は必要以上でも以下でもいけないというお考えの方である。しかし、自然な日本語でなにければならないというお考えもたいせつにされている。そうしてみるとねいきなりはじめに「そのばん」という日本語はつらい。そこに編集者の意見もあっただろう。苦しんで苦しんで、この訳にされたのではないだろうか。
 さて、センダックがらみでもう一冊本をご紹介。『子どもの本の8人 夜明けの笛吹きたち』(ジョナサン・コット 鈴木晶訳 晶文社 3680円 これは絶版じゃない) コットは有名なロック雑誌「ローリング・ストーン」の編集長を長らくつとめた人で、ジャーナリストとしても有名である。その彼がセンダック、リンドグレーン、トラバース、オピー夫妻など子どもの本に関わる8人にインタビューを中心に取材したドキュメントであり評論だ。
 児童文学の評論はときとしてそれ時代がファンタジー化して鼻についてしまうことがあるが、コットは専門家でないすがゆえにじつにクリアでするどい見方を展開する。しかも、なまじの児童文学関係者よりも、深い絵や絵本や文学への見識があり、しかもセンダックわばしめとする絵本作家への愛にみちている。厚い本だがじつに読みやすい。
 ところで、『センダックの絵本論』原題はCALDECOTT & CO. である
つまり直訳すればコールデコットとその一味あるいは仲間である。
 映画の題もそうだか、訳すとわけがわからなくなってしまうことは多い。
というより本質がみえなくなってしまうことがある。外国語を学ぶ理由のひとつは「その国のことばで考えないとわからないことがあるから」だ。
 さいごに、センダックのコーデコット受賞あいさつ(セントルイスで行なわれた)のラストを引用しておこう。
 ――ある7歳の男の子が手紙をくれた。「かいじゅうたちのいるところにいくにはいくらくらいかかりますか。もし高くなければ、夏休みにぼくと妹はそごてすごしたいと思います」わたしはその手紙に返事を書かなかった。なぜなら、その子はおそかれはやかれ、そこへ行く方法をみつけてしまうだろうから。
 おそるべしセンダック。

追 伸というか予告編
 昨日、キャピトル東急というホテルで開催された。「英国式幸福論」という名のイベントに急遽いってきた。これは英国各地の観光庁が日本のプレスや旅行会社などに「もっとイギリスに観光にきてちょ」というための招致を目的としたつどいだ。各地のブースがでて、パンフレットやカレンダーなとがお土産に用意され、そこでもちろん商談や相談もできる。紅茶やビスケットのサービスもあり、ビールまである。じつは、ウェールズ在住の方で現在進行中ま次期新刊ラボ・ライブラリーのなかの一作をお手伝いしてくださっているニコルさんの友人がいらっしゃるのだが、その方が3時ころウェールズからいきなり電話をかけてこられ、「ともかく、そういうイベントがあるから、いって名刺交換してきて。もう先方にははなしてあるから」と、まああわただしいことがあったのだ。
 おっとりがたなでかけつたが、とてもすばらしい資料がもらえた。というのも、1/2からなん、ウェールズにのりこんでニコルさんとともに撮影と録音を行なうのだ。そのための準備のひとつだ。
 作品についすてもクリスマスころには報告できるだろう。とりあえず予告編なのだ。

  
 


 
Re:The night かいじゅうたちよ何処へ(11月30日)
candyさん (2005年11月30日 23時28分)

センダックの絵本論・・・是非読んでみたいですね~。

それと、ウエールズ・・・10月にアリスの別荘を訪ねて行って来た所な
ので、もう少しニコルさんの作品のことが早く解っていれば、そちらに
も回れたのに・・・(~~;)   でも、またイギリスに物語の地を訪ねて
いく所ができたと言うことで、次回の旅の楽しみにしておきます。
ますます新刊が楽しみです(^0^)

1月のウェールズはとても寒いでしょうね。暖かくしてお出かけくださ
い。
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