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妖精とのやくそく FROM CYMRU 3 01月13日 (金)
 ウェールズについたのは現地時間の1/2夜。翌3日は、THE FAIRY COWの絵を担当するRick Villenuve氏との会見だ。午前中に契約をかわし(5つ星のホテルの応接室=ただて借りられた!)、握手したおじようさんにラボ・ライブラリーをプレゼント。午後はアトリエをたずねた。
VILLNUE
この写真はニコルさんに作品の計画を説明するリックさん。彼は人気アニメイターでもありアーティストでもある。フランス系カナダ人だが、カーデイフに長く住んでいてケルト文化にもくわしい。ちなみにVillenuveは新しい村だから新村さんだ。
REST
昼食は隣町との境の丘にある田舎風パブ。リーズナブルな値段で食べられる。量はどっさりねとくにつけあわせの野菜やポテトがすごいたくさん。ニコルさんのおすすめはサーモンやスズキ、さしてウェールズの郷土料理ともいえる子羊のひじの肉。飲物は当然ビター。であるが、ぼくはshundyというビールをサイダーやジュースでわった飲物にはまった。これはいろいろな組み合わせが可能だ。ニコル氏によれば最強の組み合わせはギネスとシャンパンの1対1。2杯でたおれるそうだ。
 今回、ウェールズで録音した"THE FAIRY COW"はウェールズの伝承話(各地にヴァリアントがあるが)をニコルさんが再話したものだ。ウェールズにもアイルランドにまけずおとらず妖精話がのこっている。ケルトの民はすべての植物、動物、ときには無生物にも霊を感じていたわけだが、なにもそれはケルトにかぎったことではなく、すべての先住民は万物に霊を認めていた。すなわち多神である。人間は本来、自らも自然の一部として認識し、自然をres@ectしてきた。その思いと想像力は地域ごと、民族ごとに多様な妖精や精霊をうみだした。ロシア民話にも森の魔女バーバ・ヤガー,水の精ボジャノイ,麦畑の精ルサルカなどじつにうれしくなるほど妖精がてでくる。
 どれもおもしろやつらだが、ルサルカなどは麦畑で踊りまくるというへんな妖精で、おかけでルサルカにふまれた麦畑は麦がりっぱに育つという。しかし、こいつは凶暴なのか、はすがしがりやなのかよくからんが、踊っているところを見られるとその人間をくすぐり殺すというとんでもないやつだ。
 もちろん、これらのロシアの妖精の背後には「母なる 湿った 大地」とよばれる広大で過酷な自然があることはまちがいない。
 日本人も古来、すべてに魂がやどると信じていた。戦後すぎに活躍したアメリカの学者ベネディクトは有名な著書『菊と刀』のなかで、欧米のキリスト教的文化は唯一神とむきあう「罪の文化」であり、日本は村落共同体の規範が基礎となった「恥の文化」であるといいきってしまった。それはつまり日本人には他人を意識した行動はあっても、人間をこえた崇高な存在との対話はないということである。しかし、とんでもない。アイヌはもちろん、日本人は自然を神として対話してきたのだよ。「禊 みそぎ」ということばかあるが、汚れのない自然に対して人間はよごれているから「みそぎ」をするのだ。人間を越えた存在と十分対話しているのだ。どこの国、地域でもおお昔はみな人間は「自然によって生かされている。だから人間は自然の一部」という立場? だったのだ。だからクマとも話せたし、ツグミとも語りあえたし、西風とも泉とも心をかよわすことができたのだ。
 ことわっておくが、ここでキリスト教を批判するつもりはない。いちおうそういう名前のついた大学の出身だから、というわけではないが、キリスト教がはたした文化的役割ははかりしれないものがある。その上であえて書くのだが、キリスト教において霊魂、すなわちスピリットをもつとされるのは人間だけである。「万物の霊長」である。そりゆえに人間は他の動物や植物を利用して幸せになってよいということだ。これが、ある意味、科学の倫理的根拠である。科学すなわちScienceは、ギリシア文化とキリスト教が両親というのはそういうことだ。キリスト教はかくして科学によって自然を利用し人間の幸福追求を認めたが、一方で際限ない人間の欲望増幅への歯止めというか抑止にもなっていのだが……。
 ともあれ、自然のすべてに魂があるという考え方と、人間にのみ魂があるという考え方は、決定的な異文化である。ぼくは異文化ということばを安易につかうことに賛成できないが、こういうことこそ異文化だとおもう。
 現在、先住民の問題がすほとんどが自然環境問題そのものか、ハードにリンクする問題なのはこういうことなのだ。
 ところで、THE FAIRY COWの主人公であるエドウィンは、ハンサムでなまけもので酒飲みで女たらしたが、自然との約束をまもる人だった。人間どうしの約束だってまもれないやつはいっぱいいるが、自然との約束はもっとたいへんだ。何代にもわたって守りつづけねばならないからだ。
 うーむ。きょうは説教くさくなったなあ。
 
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