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おすすめ音楽CDその8 |
02月04日 (水) |
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またまた間宮先生『国生み』
高松次郎氏の絵も、間宮先生の音楽もすんぱらしい。新しくラボ・ライブラリーを担当してもらいたい画家には、この作品をみせればたいていOKをとれます。この作品の前に他の絵本を何冊かみせれば「いやあ、いそがしいので」といっていた画家もかなりぐらぐらし、とどめに『国生み』というわけです。まあ、高松次郎 Ay-O 野見山暁治とならべられたら(絵本をかくなんて考えられない人ですから),いちころであります。
さて、今回は『国生み』のなかから『オオクニヌシ』のことをすこし。
でもその前に『スサノオ』の歌のことを。
『国生み』は、4つの物語をがそれぞれちがう額縁にいられています。語り手の位置や時代や視点をそれぞれかんえてあります。
『スサノオ』はそのなかでも、時代を平安のころにもっていくことで、逆にリアリティと生活感をだしています。その冒頭に「舞え舞え~」という蝸牛の俗謡が子どもたちによって歌われますが、この歌い手はすべてラボっ子です。そのためのオーディションも行なわれましたが、関西地区のラボっ子限定でしたるというのも、あの歌をよく聴くと「まあ~ぃぇ~、まあ~ぃぇ~」とうたっていて、これは関西出身の人しかできないということでした。
いまはほとんどほろびた日本語の発音には,たとえば「Gwa」といった鼻濁音などのがあります、この歌もそのひとつです。すげえ、こだわりですよね。
そのついでに『耳なし芳一』がおさめられたハーンの『怪談』は英語のタイトルはKWAIDANです。ハーンのひ孫にあたる島根女子大の小泉凡さんによると、島根では学校の年配の用務員のおじさんなどが、鐘をならしながら
「しぇんしぇい方,しょくいんくをいぎかはじまります」という人がいるそうです。セツもそういう発音で話したのでしょう。ハーンの耳もたいしたものですね。
さて、やっと『オオクニヌシ』。ぼくは『スサノオ』もすきなのだけど
この『オオクニヌシ』の冒頭の映画的シーンがすきですなあ。砂丘をあるく八十神たちと遅れてついていくオオクニヌシ。
「若い声がカモメのようにとびかい、海がまた光った」
なんと切れ味のある一行でしょう。乾いた硬質のリリシズムがあります。
ぼく自身が目標として、いつかこれをのりこえた文を書きたいと思っている一行です。
さても……「キャンプ手帳」にかいたことわやきなおししておとどけ。
『オオクニヌシ』がおさめられているラボ・ライブラリー『国生み』は,『古事記』『日本書紀』の神話をもとにつくられました。
神話はあちこちの村で語られていた伝説が,村どうしの交流がすすむなかでかたまったものといわれます。ロッジのエールがさいごはキャンプ全体のエールになるのとにています。
神話・伝説は「これは,つくり話だぴょん」という昔話とはちがい,「ほんとうにあったこと」として語られています。『古事記』『日本書紀』は1200年ほどまえにできた書物ですが,その中身は大和朝廷の正しさ伝える目的でかたまってしまったので,自然へのおそれと尊敬といった,そこにえがかれていた人びとの心のかたち,それを生み出した風や光がみえにくくなってしまいました。
ラボ・ライブラリーでは,この日本神話を特別な宗教や政治のかたちと手をつなぐことなく,神話がもつ「とうとさ」をのこし,「物語=つくりばなし」につくりかえました。そうすることで,わたしたちの超大せんぱいたちの経験や感情にふれてテーマ活動に取り組もう。そのなかから,わたしたち日本人はなんなのか,どこから来てどこへ行くのかを考える力にしようというものです。
『オオクニヌシ』は,少年がさまざまな試練をのりこえて,地上の王スサノオの娘スセリヒメとむすばれ,「大きな国のあるじ」となる物語です。ここからわたしたちは,「少年がおとなになるためには,多くの試練をこえねばならぬ」という,大昔の人びとのきびしく,たくましいメッセージを感じとることができます。さらにオオクニヌシは死の世界=ヨミの国にも行き,そこから帰ってくる「ヨミガエリ」も体験しますが,ここにも,「起死回生」という日本人の心のかたちのがあらわれています。
このほかにも,大昔の日本人のきもちをしめすところはいくつもあります。日本にいなかった白ウサギは「イナ(稲)バの国」の米の白さを思わせますし,皮をむかれ海水をあびて苦しむすがたは,潮の害になやまされた地方の農家のくらしがしのばれます。
ところで,『国生み』のテキスト絵本は,高松次郎先生のすてき抽象画です。ほかにもラボの絵本には抽象画がつかわれているものがいくつかありますね。それは,なぜでしょうか。この機会にぜひロッジのなかまと話し合ってみてください。ちょっとヒントをだしておくと,「心のかたちって,そんなにはっきりしてないよね」ってところでしょうか。
コンピューターだらけの21世紀でも,たとえばおさないこどもは,やわらかい世界をつくりだして自分がなにものかをたしかめようとします。「車と飛行機はどちらも燃料をたべるけど車はとべない。でも,夜に飛ぶ練習をしてる」──これも神話といえるかもしれません。神話も民族のとても幼い時代に生まれています。それは,あかちゃんが少年・少女に成長するように,民族が幼い時代にわかれをつげるときに,ひとつのかたちとしてのこす思い出といってよいかもしれません。
ちゃんちゃん
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