|
 |
 |
 |
 |
[一覧] << 前の日記 |
次の日記 >>
|
おすすめ音楽CDその9 |
02月13日 (金) |
|
抽象画のはなし
音楽CDといいつつ、今日は絵のこと。ラボ・ライブラリーにはてわゆる抽象画による絵本がいくつかあります。『ピーター・パン』『国生み』は高松次郎氏、『ながぐつをはいたねこ』『グリーシュ』は中西夏之、『ひとうちななつ』は野見山暁治、通常の美術フアンなら「なんで絵本を!」とぶったまげるメンバーです。ほかにも『エメリヤン』『十五少年』のかみや・しん、『ノアのはこぶね』の堀越千秋、宮沢賢治作品の司修、『ドゥリトル先生』『ドン・キホーテ』の靉嘔(日本人です)なとなど……。
どれもすばらしいのですが、抽象ということばはどうも日本ではうけが悪く。バブル時代にいろんな企業がゴッホやセザンヌなんかを円で買いあさりましたが、抽象画を落札したという話はほとんどありませんでした。それからよく「きみの話は抽象的だよ」とかいったり、抽象がそんなにわるいのかあ。と、叫びたい気分。たしかに、見てよくわからないものは安心できない
のかも……。でも、見てわかってしまうのもつまりません。じつは抽象を具象に、具象を抽象にかえる力がほんとの頭のよさだと思うのですが。
だけどだけど、
子どもたちは「ほんとに、かっこいいもの」「ほんとに美しいもの」は鋭敏にかぎとりますから、彼らに支持されてラボ・ライブラリーは今日も元気。
それでも、どうしてこんなぐちゃぐちやな絵なの。という素朴な質問がくることもあります。その場合、ぼくはこうこたえることが多いッス。
「心のかたちって、よくわからないんじゃないか。ほら、きみらも夢をみるだろう。それはきっと丸とか四角とかはっきりしたものではなすいんじゃないかい。だから物語の心をかこうとすると、夢みたいになってしまうんだよ」――そうしたらある子が「じやあ心の風景画なんだね」
そう、感じることがたいせつ。ピカソは晩年、こんなことを書いています。「人は私の絵が難解だという。でも、山の宿にとまり、朝、鳥たちの声で目をさましときのことを思ってほしい。そのときは、ああきれいたとか、ああさわやかと感じるだけで、その鳥の声の中身を分析しないはずだ」
また、彼は晩年はほんとに幼児が描くような絵ばかり描きました。これについてこう書いています。「やっと、このように自由に描けるようになった。70年かかった」
ラボ・カレンダーに登場する子の絵をよくみると、ピカソもいますし、ブラックやカンデンスキーやミロもいます(ミロは5歳の子の目わもっていたといわれます)。でも、10歳を過ぎるといろいろとらわれてつまんなくなっちゃうなだよなあ。ぶっとんだ絵をまってるぞい。「こいつはなに考えてるんだ」ってくらいインパクトがある絵と出会いたい。たぶん、ミケランジェロ(身長は160センチに満たなかったそうです)をみたフィレンツェの人はそう感じたでしょう。
最後に、個性をのばす教育ってよくきくけど、どうもうそっぽい。のばさなきゃにらない個性なんて、個性といえないと思うつス。たたいても、つぶしても伸びるのが個性! でもなあ、いまの子はほんとにつぶれちゃうから!
|
|
|
<< 前の日記 |
次の日記 >>
|
|
|
|