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ライブラリーのキヤラクター その4 06月17日 (木)
 さっそくリクエスト(なんか、やらせつぽいなあ)にお応えして
ロミオとジュリエットのこについて書くのだ。それにしても「ロミジュリ」ってのはやめようね「アリキリ」とか「長ねこ」とかもね。
 こういうのはいわば隠語の世界で、それは仲間どうしの符牒みたいなものて楽しいけれど。まあ、しかしねえ。
 そんな話を牟岐先生にしたら、「そんなのいいほうで、音楽界、しかも高尚なはずのクラシック界でも『ベトコン』とか『ドボコン』とかひどいいい方がありますよ」とのお返事。「なんスカ,それは」「いやあ、ベートーベンのコンツェルト,ドボルザークのコンツェルトですよ」
 みなさん、作者や作品にはリスペクトをもちましょう。
おっと、本題にもどしますぜ。
 『ロミオとジュリエット』はシェイクスピアの比較的初期の作品ですわいな。ラボ・ライブラリーにもなっている『ジュリアス・シーザー』は,1600年ちょうどの作品だけど(この戯曲は彼がテームス河畔にできたTHe Globe=地球座の支配人兼座付き作者になったとき、柿(こけら)おとしにかかれたもの)、この作品を境にしてシェイクスピアの作風は大きくかわる。
 つまりシーザー以前は性善説的な、すなわちいろいろあるけれど、ぼくらはみんな生きている。人間てすばらしい! という作品だらけだ。しかし、シーザー以後はドロドロの人間なんてラララララ、けっきょくは欲望のかたまりよという性悪説的な見方の作品がならぶ(そっちのほうがすごいけどね)。まあとにかく、「ロミオどジュリエット」は、悲劇ではあるけれど人間の可能性や純粋さを作者が信じていたときの作品だ。それにしてもシーザー以後、彼になにがあったのというかわりようだ。
 シェイクスピアの人間への洞察力と強力な想像力にうらうちされた人物描写は、いまだにそれをこえる文学者はいないといわれているが、ストーリィそのものはオリジナルというわけではない。というより、人気のある物語をシェイクスピア風に戯作してしまうところがすごいのだ。「つか版忠臣蔵」みたいなものである。
 「シーザー」にしても、このの物語はプルタークの「英雄伝」がネタ本であり、当時の人びとには、それこそ「忠臣蔵」のように有名な物語なのだ。
シェイクスピアはプロの作家である。したがって、客をよべなきや首だ。そこで柿おとしには、まちがいのない人気話よかけたい。そこで、「シーザー」でいこうとなるわけだ。ところが、ただふつうにシーザーをやってもおもしろくない。そこで、暗殺者というかテロの犯人であるブルータスが事実上の主人公になってしまう、みにきた客はいい意味で、みごとにうらぎられるというわけだ。
 「ロミオどジュリエット」も、この諍うふたつの家のあととりどうしが恋におちて、つまらぬいきちがいから、人がたくさか死に、ついには当のふたりも死んじゃうという話は、シェイクスピア以前からあったのだ。だから、けっこう有名な話だった。シェイクスピアのすごいところは、その仕立て方や設定だ。まず、舞台を情熱の国イタリアにした。彼自身もイタリアには旅行したことがあり、なかなか気に入っていたようだか、当時の英国の観客がそんなにほいほいイタリア旅行ができたはずもない。だいた人びとが楽しみのために大きく移動するのは、せいぜい19世紀のおわりころ。それもまだまだ金持ちの特権だった。だから、イギリスの人はイタリアのことなどよくわからない、知っているのはローマがあること方法がいることくらいだ。
 でも、じめじめしたイギリスとはちがって、太陽サンサンで酒はうまいしねえちゃんはきれいだ! みたいな楽園的イメージはある。あんまり遠い日本のような異国だとリアリティはないが近いけれど、またせよくわからない国という舞台が、「そんな、熱いラブロマンスもあるかもしれん」というリアリティをかきたてる。シェイキスピアはそのへんをきちんと計算していた。それに適当に書いても、だれもいったことないからわからんしね。
 次にわずか4日のできごとにした。これは展開がスピーデイだ。これもすごい。しかし、なによりシェイクスピアが天才っぽいのは、ジュリエットを年端もゆかぬ14歳にしてしまったことだ。当時のイギリスでもヨーロッパでも自由恋愛なんてことばは公式にはNGで、家と教会がみとめなきゃどうしようもない世界だ。ところがこのふたりの少年少女は一目ぼれ、しかも舞踏会でナンパして,速攻でバルコニーから侵入してむすばれてしまったんだんから衝撃的だよなあ。しかも精神と血肉の合一があって婚姻とみとめられるのだが、ロレンスはきちんとOKする。
 ともあれこのイタリア、真夏の4日のできごと、14歳、というシェイクスピア独自の設定がすごい。
 でもなんで、となるわけだが、それにはこの物語の主題をまじめに考えねばならぬ。「家どうしの対立にもめげない、若い純粋な愛」というのが、表面的主題だ。このへんはまあ、「テーマ活動の友」のはじめにのところに書いてあるのだが、読んでない人もいるだろうからかいておくけど、シェイクスピアはじつは恋愛のプロトタイプ、すなをち原恋愛というか、恋というものはこうはじまり、こう燃え上がって、こう終わるという恋愛の普遍的な姿を描きたかったのだ。だからこそ、時をこえてもこの物語は新鮮で、ウエストサイドストーリー」のように現代版にリメイクされたりもする。古典というのは、人間の普遍的真実よわえがいているから、いつも「今の物語」なのだ。そう思わないから「古典はつまらない」となる。ぎやくに「源氏物語」なんか、今のはなしと思えば、こんなに男女の機微に精通した紫式部はなんて女だ! というほどおもしろい。
 これもテーマ活動の友に書いてあるが、ラボは受験戦争にはいるまえのまさに14歳までの子どもたちにこの物語に出会ってほしいと考えた。だから、かれらでも理解しやすいように、現代英語でリトルドした。
 いつの時代でも戦争などの疎外的環境のもとでは、恋愛や性は暗いなかにおしこめられ、ポルノグラフ化する。現代の子どもに対する疎外状況はまさに小学生年代までおしよせており、当然のように性的なトラブルも低年齢化している。その象徴が高校受験かもしれない、その戦争においやられるまえに、ピュアな愛のかたちに出会ってほしい。これはほんとにそう思うよ。
 この作品は日本語音声の吹込みをラボっ子がおこなった。はじめてオーディションをした作品だ。ジュリエットだけは、さいごまでひとりにしぼれず二人で練習した。デイレクターは最後にひとりに決めるとき、ほんとうに断腸の思いだつたという。
 このふたりのジュリエットはいまは、ふたりともよき母親だ。ロミオは学校の先生になっている。
 長く書いたわりには、たいしておもしろくないなあ、まあいいや次は!


 
 
Re:ライブラリーのキヤラクター その4(06月17日)
スミティさん (2004年06月17日 21時51分)

またまた、ふーーーん、と素直に感心させられてしまいました。

シェイクスピアに何があったのか!ていうのもとっても興味があります
が・・・

次は、三蔵法師、美丈夫、玄奘三蔵なんていかがでしょう。今で言うと
誰なんでしょうな??
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