|

桜隧道 2015
空までも薫る
息ぐるしいほどの
満開、満開、満開の下
ああ、きみは
なんどでも
そのたおやかな手をのばす
とどかないねと
つぶやいた声は
去っていった魂に
聴こえたのだろうか
そんなきみの今と
軍靴が遠音する
この国の明日を
思い出のように
花舞いかかる
桜隧道にひざまずき
ぼくはただ祈るのだ
※写真はICUの正門から教会までのマクリーン通りの桜並木。約600メートル。この道は中島飛行機研究所の試験用滑走路で、ぼくたちも滑走路と呼んでいたが、ここから実際に飛行機が飛んだ記録はない。


3月31日のようす。今年はまたいけないので
体育科の高橋伸先生にいただいた。
ラボ・カレンダー卯月
食べることは生きる力の基本のキ

午前五時、三澤製作所の
ラボ・カレンダーをめくった。
例によってフライイングである。
めざせ9秒台(意味不明)。
作品はエリック・カールの絵本
"The Very Hungry Caterpillar"
『はらぺこあおむし』に題材をもとめたもの。
ここでボケをひとつ。
「おっ、2時間ドラマの女王だね」
「なんで?」
「キャタピラなぎさ、なんちゃって」
「いいかげんにしなさい」
描いたのは貞苅依吹さん(小1/北九州市・北名P)。
たいへん申し訳ないが
姓名ともに正しく発音する自信がない。
おそらくは、「さだかり・いぶき」さんで
女性(ジェンダーは作品と関係ないこともない)だろうか。
さらに推理すると2月か3月生まれかな。
※だれかご存じの方よろしく
なんて詮索はともかく、
カレンダー登場キャラランキングでも
毎年上位をしめる「あおむし」の登場だ。
ぼくが現役でカレンダーを担当しているときにも
何百枚、いやそれ以上の点数の「あおむし」をみている。
この物語が刊行されたのは2000年の7月
『ハメルンのふえふき』に収録されている。
前世紀最後のラボ・ライブラリーだ。
あおむしのみならず、だるまちゃんや「かぶ」などの
人気キャラやテーマは
「すんごい作品」が既出しているので
入選はおろか1次選考を通過するのもたいへんだ。
今朝、カレンダーをめくるとき
絵のしたにあるタイトルとクレジットが目に入ったが
正直にいえば「あおむしか、どうかな」という
けっこうブラックな印象をもった。
だが、めくり終えて作品の全貌がみえたとき
思わず声をあげそうになるほど仰天した。
なんという力強さ、迫力だろう。
タッチは大胆でまよいがない。
ごちそうをまえにしたあおむしの
「ぜんぶたべるけんね」マックスパワーが伝わってくる。
このあとあおむしは
かげんをしらぬ一気ぐいがたたり
腹痛で苦しむ。
この過程は子どもにとってはリアルな問題だ。
子どもは幼いほど食べ物を自由に手に入れることができない。
「もうよしなさい」
「おかしはひとつだけといったでしょ」と
つねに保護者から制限をかけられ
かといって自力で贖うこともできない。
子どものときに
チョコレートを一箱食べてみたいとか
アイスクリームをバケツで食べたいとか
ケーキを全種類いっぺんに味わいたいなんていう妄想を
したことのない人はいないだろう。
でも、食べすぎておなかが痛くなるという経験も
少なからずあるはずだ。
too muchで痛い目にあい学習して成長するのは
子どもの特権だ。
この物語が子どもたちに圧倒的に支持されるのは
こうした子どもの生理に正直であり
子どもの身体を通過できるからだ。
依吹さんも、まさにこの絵を
身体を通して描いている。
そのタッチのはげしさだけでもすごいのだが
たぶん依吹さんは、そう大きなほうではない(想像だが)
と思うので、使用した画用紙は
肩幅より広いはずだ。
しかも画材はおそらくクレパスだろうから
これだけの面積を塗るのは
かなりの体力、とくに持久力が必要だ。
そして持久力は、体力のみならず精神力も要求する。
さらに、画材がクレバスかクーピーだとしたら
水彩のように色をまぜてつくることが困難だ。
それを重ねぬりをすることで
単なる「塗り絵」でない厚みと力強さが生まれた。
依吹さんの年齢でここまでやると
ラストのほうでは疲れてしまうのだが、
バランスもきちんとれていてすみずみまで
きっちりしあげている。
全体に大胆なのはすぐわかるが
細部はかなり繊細だ
夢中に描いてはいるが
どこかに冷静な目をもっているのではないか。
ピアニストは鍵盤を叩いている自分を
上から見ている自分がいるという。
信州鎌職人の名人、故中村与平さんも
「槌をふりおろす自分を見ている自分がおるよ」
といった。
おそるべし。

この絵本がでたとき、
「いい絵本、わるい絵本」と区分けするのが
好きな絵本評論家たちから
「穴をあけたりして絵本じゅなくておもちゃ」とか
「ストーリィがない」
「ノンがみたいな絵」などといろいろ批判された。
しかし、世界じゅうの子どもたちが
『はらぺこあおむし』を支持した。
かりにおもちゃでもいいいじゃないか。
ちゃんとも物語だし
漫画(ではないが)のどこがわるい!
食欲は人間の欲のなかても
生命維持に直結する最重要のものだ。
人間はホモサピエンス・サピエンスと分類される
哺乳動物であるから
採集、狩猟をして食料を確保しなければ生存できない。
その後発達して農耕や牧畜などを身につけたが
採集と狩猟の安定度が増しただけで
基本はおなじである。
したがって人間の歴史は飢餓の恐怖とのたたかいであった。
飽食などとといっているのは、
20世紀後半以降のわずかな時間だ。
しかも、それも世界の人口のなかでは少数であり
今も飢餓におびえる人びと子どもたちが
とくに地球の南半分に多いことを
ぼくたちは認識しなければならない。
とくに生命体として不安定な幼いときほど
食べることは切実な問題だ。
日本でもかつて兄弟姉妹がたくさんいたから
おかずやおやつのの確保はきびしいあらそいである。
食べて、歩けて、眠れる。
人間にとってこれ以上の幸せしあまりない。
大病をするとそう思う。
くりかえしになるが
なかでも食べることはいちばんたいせつだ。
野生の力、生きる力が若い世代、幼い世代で弱体化しているという
懸念がいわれてかなりたつ。
たが、依吹さんのように
「たべちゃうぞ」パワーをこれだけ発揮できるのだったら
心配しなくてもいいのかと思う。
その力をうみだすひとつのきっかけに
このライブラリーがなったとしたら
プロデュースした側としてはうれしいかぎりだ。
続いての桜は、現在毎日出勤している
学校法人根津育英会武蔵学園にて。

昨年4月1日に、縁あって
まさかの学校法人で記念室長なるものに就任してから
あっというまに一年がたった。
月日は百代の過客。通り過ぎたら帰ってこないのね。..
当初は体力、気力が週5日、朝から夕方までの定時労働、
しかも責任のある管理職が氏族的につとまるか不安だった。
しかし、生来の「なんとかなる」でスタートして
いきおいでここのできた。
みなさんのおかげである。


3月24日に62歳になってしまった。
朝、5時45分に新聞をとりに外にでた。
花冷え。
天気予報に脅されて
念のためカウチンのカーディガンをはおったが
北からの風が意外にやわらかい。
相談役をおこさないように
キッチンでまずお湯をわかす。
紅茶か珈琲か少し惑う。
2005年の夏の終わり
午後の木漏れ日がゆれる
黒姫・仁の蔵のニコルさんの居間で
彼から紅茶の入れ方についてレクチャーをきいた。
その日、ニコルさんは寝起きがわるかった。
ぼくたちは約束の時間に尋ねたのだが
彼は夜に自分からでかけると勘違いしていたのだ。
ニコルさんはご存じの巨体をかがめながら
「うーん、おいしい鹿肉をもってラボランドにいこうと
思ってたんだよ」と
目をごしごしとこすった。
それでも、庭先の水風呂をあび
おみやげの清酒をうけとると
「これはまかせてください」とだいぶ起源がなおった。
ニコルさんは珈琲を飲まない。
酒は全種類うけいれるが
お茶といえば紅茶しかもミルクティーだ。
ここに暑いティーがあればニコルさんのご機嫌も
完璧になるはずだ。
すると手伝いきていたスタッフの女性が
「すみません牛乳がありません。
子どもたちがさっきみんな飲んでしまいました」
子どもたち? と思ったら
夏休みを利用して二コル夫人のご兄弟や
甥、姪が泊まりにきているという。
するとニコルさんは、かなりドスのきいた声で
「殺す」とつぶやき
悲しそうな顔になった。
それでも、
「ストレートでいいからお茶ちょうだい」と
ニコルさんはいい、こう続けたのだ。
「紅茶をいれるコツは、いろいろあるけれど
とにかくお湯の温度が大事だよ。
これがだめだと、どんなにいい葉でも
どんなに美しいカップでも興ざめ」
「ニック、お湯が熱くなければいけないということ?」
するとニコルさんは意外なことをいった。
「紅茶の本にはboiled waterを使えと書いてあるけど
それではだめだ」
びっくりして
「えーっ、じゃどうしたらいいんですか」
ときかえすとニコルさんはニヤリとわらって
「BOILING WATERさ」
そんななつかしいエピソードを思いかえしながら
アールグレイを入れる。
なんとかグラグラのお湯で勝負できた。
続いて相談役の常用薬を用意し
カップに湯冷ましをつくる。
そのころから、うすく音楽かラボ・ライブラリーを流す。
※今日は『ヒマラヤのふえ』
テレビもオンだが音声は消しておく。
そしてサラダと納豆とご飯150グラムという
おきまりの朝食をとりはじめると
相談役がおきてきた。
いつもなら、かるいおはようのあと
ぼくの向かいにすわり
すぐに血圧をはかり自分で記録するのだが
今朝は、定位置にこしかけるなり
小さなからだをさらに小さくして
「お誕生日、もおめでとうございます」と
頭をさげた。

母親に頭をさげられるのはせつないし恥ずかしい。
「もう、62だぜ。いまさら誕生日もないよ」
と、素直でない息子はしょうもないかえしをする。
でも、相談役は真顔で
「あんな大きな手術をして、今日までこれて
仕事までできるようになったんだから
めでたくはないでしょう」ときっぱり。
まったくその通りである。
でも、後でわかったことだが
14時間という手術時間の長さと
信じがたいほどやせてしまったぼくの身体
さらに
「腫瘍はすべて摘出したけれど
細胞学レベルでは再発や転移の可能性はわかりません」
という医師のことばから
相談役は覚悟をきめていたらしい。
もっとも、ぼくが回復するのに反比例して
慢性的に肺疾患を急に憎悪して
父がぼくの退院の2か月後に他界したたので
母親はストレスの連続だったと思う。
朝から、たいへん多くの方がたに
誕生日のメッセージをいただいた
こんなうすぎたないおっさんに
もったいないことである。
そして、やっとわかったのは
今朝の相談役のあらたまったあいさつは
今日まで生かされてきたことへの感謝、
そのパワーをあたえてくれた
多くの方がたの感謝とリスペクトを自覚しなさいという
メッセージだったのだ。
そんなことを
数時間たたないと気づかない
自らの蒙を恥じ入るばかりである。
世阿弥は『風姿花伝』の年来稽古条々なかで
五十有余、すなわち50代後半以降について
このころよりは、おほかた、せぬならでは、
てだてあるまじ。
※なにも演じないことしかない。
麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。
※ときびしい
しかし
さり ながら、真に得たらん能者ならば、
物数はみなみな失せて、
善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。
亡父にて候ひし者は、
※観阿弥のことだ。
五十二と申しし五月十九日に死去せしが、
その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽つかまつり、
その日の申楽、ことに花やかにて、
見物の上下、一同に褒美せしなり。
およそそのころ、ものかずをばはや初心にゆづりて、
安きところをすくなすくなと、
色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。
これ真に 得たりし花なるがゆゑに、
能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、
花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、
老骨に残りし花の証拠なり。
『風姿花伝』(「花伝書」という通称名はどうも誤称らしい)は
能の理論書であるが、
芸事全般の修行の哲学書でもあり
日本の美学の古典としても読める。
また、教育者、指導者のテキストとしてもすぐれていると思う。
さきほ引用した「年来稽古条々」は
年代ごとの修行の心構えについてふれているのだが、
幼い子どもに対する指導法などは
ラボにも通じるところがあっておもしろい。
世阿弥はさらに 35歳くらいまでが勝負だという。
この時期までにオリジナルなスタイルができていることがたいせつで、
40歳を過ぎたら技術的な上昇はのぞめないときびしい。
そして、45歳から50歳になれば、
もうあまり大きな役は演じてはいけない。
どんな名手も衰えていくから、
むしろ後継者の育成に力を注げと書いている。
そして、前述した ように50歳をすぎれば
「なにもしないこと」がベストだとさみしいのだが、
本当の名人ならそこに花はのこるとも続けている。
『風姿花伝』は 20年以上の年月をかけて編まれた。
人は成長するにつれて「子どもの愛くるしさ」
「若者のみずみずしさ」「成人の力強さ」などを次々に失っていく。
だがそれは、いずれもが試練の段階であり、
そのたびごとに新しい学びがあり、
そのたびごとに初心者として失敗したり恥をかいたりする。
それこそが「初心 忘れるべからず」の
初心であるとぼくは読む。
初心とは単に始めたときの心ではなく、
人生に何回か訪れる新しい試練やステージに向かうときに、
学ぶ者としての瑞々しい挑戦する精神であり
未熟を自覚するつらさなのだ。
昨年春、学校法人 という未経験の組織で、
歴史という未知の仕事に、
還暦過ぎにして向き合うことになったとき、
やっとその意味が半分わかった。
さきほど紹介した ように
世阿弥の父である観阿弥は、
死の2週間ほど前に浅間神社で奉納の能を舞った。
それは、しずかでおだやかで動きのすくない抑制のきいた舞だったが、
世阿弥はそこに積み重ねた芸がのこした残花を見た。
老木にも花はのこる。
それこそが世阿弥がめざした
修行の果てにたどりつくべき芸術だった。
さて、例によって えらそうなことをだらだらと買いだが、
タイトルにあげたように
自分のなかに存在する二律背反、矛盾は
若いときからかわらずに
心のなかの石ころのようにごろごろとしている。
やさしくありたい と思いながら
おどろくほど冷たい自分がいる。
強くなりたいと意 識しながら
逃げたい心がこわい。
繊細でいたいと願 いながら
基本は大雑把だ。
悟りの境地をめざしたいが
欲望には忠実だ。
みんなの幸せを祈 りながら
自分がかわいい。
人生はいつまでも たっても初心者だ。
ノルウェーの冒険 家、フリーチョフ・ナンセンは
「地球もまた一瞬のできごとにすぎない」といった。
たしかに宇宙史的 スパンでみれば
人間の一生など
10億分の一瞬であろう。
がんばってもせいぜい100年。
その短い時間のな かで
ないたり、笑ったり、怒ったり
愛したり、憎んだりする。
たかだか100年 以内。
そしてみんな時間の渦に消えていく。
むなしい?
いや、ぼくたちは、それを「生きる」というのだ。
それが人間の尊厳であり
それをおびやかすものに
ぼくたちはたちむかわねばならない。
|
|
|
三澤三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる
2月は逃げるとはよくいったものだ。はや弥生である。
1年の6分の1が終わってしまう。
でも、日はずいぶん長くなって
気温もあがり、風もぬるんできた。
あたたかい季節は目の前。
命蘇る春はもうすぐそこだ。

そんな季節にふさわしく
3月の絵はラボ・ライブラリーの千両役者が元気いっぱいに登場だ。
It's a Funny Funny Day 『だるまちゃんとかみなりちゃん』に題材をもとめた作品である。
描いてくれたのは笹本珠緒さん(小1/甲府市・宮田P)。
この達磨大師と雷神という
本来は畏怖と崇拝される歴史的存在をデフォルメし
さらには子どもにしてしまったという原作者の加古里子先生のパワーとセンスにはただ脱帽だ。
ラボっ子のみならず
多くの子どもたちに圧倒的に支持されてきた二大スターがひさしぶりにラボ・カレンダーに登場だ。

ぼくは25年近く、ラボ・カレンダーの絵を中心にラボっ子諸君の絵を見続けてきたが
点数の多いキャラクターでいえば
「だるまちゃんとかみなりちゃん」、そのなかで もだるまちゃんが
ダントツでナンバーワンである。
それゆえに、ラボ・カレンダーでは
これまでに数多くの傑作、力作、名作がとりあげられており
これらをこえる新鮮かつ斬新なパワーや感覚やタッチが
この作品においてはどうしても期待されるのだ。
だから、「おっ、ひさしぶりのだるまちゃん」と思ったのだ。
さて、珠緒さんの作品だが、とにかく元気がいい。
もちろん、だるまちゃんはおおむねみんな元気よく描かれるのだが
珠緒さんのだめまちゃんとんみなりちゃんは
「やさしくたくましく」、ぼくの心のわりと深いところまでおりてきて
「やってらんない世の中だけど、こんくらいはきみなら平気だぜ」
「ほら、めあげてみろよ。空も世界もひろいぜ」
「ひざかかえているひまがあ゛ったら、ともかく前にいこう」
とはげましてくれるのだ。
その理由をつらつら考えてみると
なにより、珠緒さんはこの物語が大好きで
徹底的に楽しんで描いていることに尽きるのだろう。
それも、その大好きさがまったくぶれないところがすごい。
だいたい大人になるとだな、
どんなに好きだ、一生好きだとかいっても
つまんないことで疑心暗鬼になったり
「ほんとに好きなのだろうか」と
ぶれぶれになったりするのだ。
まあ、こういうのを「大人の事情」という。
そんなヨタ話はともかく、もう少し絵を見てみよう。
画面いっぱいにつかったバランスがすばらしい。
かみなりちゃんとだるまちゃんを個別に見ると
フォルムのバランス、
手と足、顔と身体などの関係においては
微妙にゆらいでいるのだが、
画面のなかにふたりできっちりと
きもちよくならんでいるので、
そんな細かいデッサン的正確性は
この差気品の場合はまったく気にならない。
というかそういう問題ではない。
ふたりとも両手両足をフルオープンでジャンプしているようで
みごとにきまったエアは高得点にちがいない。
これも気持ちよさのひとつ。
だるまちゃんは顔のわりにはボディがややスリムで
かみなりちゃんは、ぎゃくにややポチャなのが
じつにほほえましい。
何度も書くが、そのことで全体にバランスがきまっている。
しつこくいうが珠緒さんの年齢(身長などがわからないけれど)からいえば
使用した紙のサイズは彼女の肩幅より広いと想像する。
その紙をいっばいに使いきるのはかなりの体力と持続力がいるのだ。、
さらにこのように対象をめいっばいに描くのはたいへんなことなのだ。
さらに続けよう。
珠緒さんは鉛筆でいわゆる輪郭、アタリをとり
またクレパスでもその上から輪郭を描いている。
そして不透明水彩で彩色しているのだが、
輪郭線に迷いや逡巡がほとんどなく
スッとほぼ一気に描かれているので
彩色も「塗り絵」のような「やっつけ感」がない。
これもすばらしい。
そうそう
だるまちゃんの身体が白のドット柄なのは
これまたおしゃれである。
背景の空は、抜けるような青ではなく
やや押さえた、一歩まちがえば濁ってしまう
渋めの青になっている。
これは偶然なのか意図したものかは不明だが
子どもたちの絵はこうした「結果的にすごい表現」になることは
そあめずらしいことではない。
でもおかげでだるまちゃんの赤がとてもきもちよく見える。
だるまちゃんの場合は、不透明水彩の生の赤で
シンプルにぬられた作品がどうしても多い。
さらにそうした場合は
背景の青も不透明水彩の生の青や水色を
そのまんんまつかっていることがほとんどだ。
絵の具のセットに入っている生色は
もろに顔料の色なので
珠緒さんのように少なくとも薄めり混ぜたりして
自分の色をつくりだしてほしいと思う。
それが水彩を使うおもしろさだからだ。
とにかくこの青と赤、とくにだめまちゃんの赤は
いい感じに抜けていて抑え目の青からうきたっていて
「いい感じ」である。
青も種類が多いが赤もなかなか大変で
朱色(スカーレット)、紅、ワインレッド、イタリアンレッド、
カーマイン、クリムゾンなど枚挙にいとまがない。
かつてニコル氏が
「『たぬき』にでてくるバッキンガムの衛兵の上着の赤は
scarletであってredじゃない。
ふつうの子どもの英語教室の教材で
scarletなんて書くと
No, no, It's difficult. Red!といわれる。
でもラボはオーケー。そこが気に入った」
ちなみに、『たぬき』は彼のプロデヴュー作だ。
赤は絵のみならず、染物でも、陶芸でも難しく
日本では漆のような朱はあっても
紅花のようなふざやかな赤はなかなかなった。
紅(くれない)はまさに紅花の赤だが
これは呉の藍(くれのあい)が転じたものだ。
この呉は今の呉市ではなく中国の呉(ご)の国のことで
これを訓読みしたものだ。
藍は青を連想するが、この場合は「染料全般」のことをさす。
つまり「くれない」は中国渡来のあざやかな紅花の赤なのだ。
対して「あか」は夜が明けるの「あけ」と同根で
照り輝く色の総称であったようだ。
余談が好ぎたが、このだるまちゃんの赤は
なんともよく「珠緒レッド」とでもよびたい。
※レッド玉緒ではない。
さても、この物語について
かつて「らくだ・こぶに」氏と酒席で雑談のような
貴重な話をきいたことがある。
それは、『だるまちゃんとかみなりちゃん』が
神話と科学を往還させているところがすごいという話だった。
かみなりちゃんが、
だるまちゃんの目のまえに落下してきた過程は
「プールの穴はかみなりちゃんが
高飛び込みをしたことによる」と
「かみなりタウン」にあそびにいってからわかる。
となると、地上で雨がふるのは
かみなりタウンで水あそびをするせいではないかと
かなり多くの子どもは気づく。
そのことをおとなや仲間にいうかどうかは別として
きっと気づく。
ホッレおばさんの羽ぶとんと雪のようにね。
このあたりは確かに神話的だなと
いまになって思う。
そして、かみなりちゃんと空の仲間たちは
かれらの水あそびが
へたすると地上では豪雨をもたらすことを知っていて、
だんだんとテンションがあがり、
もっとも調子にのった
※限度をしらない子どもそのもののかみなりちゅんが
無謀なハイダイヴを敢行したのだろうと
これまた子どもたちは思うだろう。
そういう連想をさせる加古先生の絵と展開がすごい。

かみなりちゃんの号泣も
子どもたちにとっては切実勝つ生理的な問題だ。
浮き輪がとりないという単純な悲しさはもちろんだが
恐怖、ばかなことをしたというくやしさ、
お家にかえれない不安。
そんなこんなでもうどうしようもないのだと
子どもたちな直感で理解する。
で、そのあたりのいきさつは、
子どもはわかっているので、
じつはつっこまれたくない。
加古先生は、そのあたりをさらり流して後半の絵のなかで、雨とかみなりの関係を神話的に説明する。
この潔い加古先生の語り口を子どもたちは無条件に信頼し愛するのだと思う。
センダックが『かいじゅうたちのいるところ』の冒頭で
The nighgtという「昼間にマックスがぶちきれるようなる事件」
があったことを連想だけさせて
マックスが夜に大暴れする理由をこまごまかかないように
加古先生も、子どもの心の深いところに寄り添う方なのだと思う。
らくだ・こぶに氏とその話をしたとき
ぼくは「そうした雨とかみなりの関係を物語のプロローグに書けば
因果関係がわってよりおもしろくないですか」と
ばかな質問をした。
すると、たしか彼は、怒るでもなくやさしい顔で
たぶんこんなふうにいった。
「おまえも子どもをもつようになればわかる。まあ、飲め」
その晩ぼくは泥酔し浮き輪の夢を見た。
最近の日常は基本的に
武蔵学園の大講堂一階にある学園記念室事務室で
座り仕事をしている。
たまに学園内のあちこちに打ち合わせにいったり
来客を案内したりするが
多くの時間は資料を読んでいるか
原稿書きか、校正かといった作業だ。
従ってときどきは外に出て
深呼吸やストレッチをする。

先週も天気がよいので外に出たら
流れる雲が南に急ぐ
かつて谷川雁は集雲堂の酒席で
「雲よ」のような若き日の詩は
座興、それも即興に近いなと
ニコリともせずいった。
21歳のぼくには衝撃だった
でも、61歳11か月のいま
この雲の果てにあると信じたい
諍いなき大地に
いいじゃないか
連れていけよと
叫びたい。
そして、あの詩は
けして座興なんかじゃないと
やっとわかってきた
先週の日曜日は「わかものフェスティバル」だった。
今年も大人気でティケットが払底しているようなので、
気になる発表もあるのだが遠慮することにした。
空席がたくさんあるならともかく、
それほどの盛況ならリタイアしたものは遠くから応援しよう。
昨年の同日の日記を見ると、
ラボセンターで時本会長と話をしたと書いてあった。
そのときのメモを見返しながら、
この1年で、ぼくたちを取り巻く状況は
けしてよい方向には向かっていないことへの思いを強くした。
今年の「わかもの」のテーマは「闘え」だそうだ。
この「闘え」について、
その定義や認識を実行委員諸君が
どのように吟味したのか知りたいが、
逃げないという意味での「闘え」ならば評価したいと思う。
で、ささやかではあるが、
海老名に集った彼らに激励のようなメッセージを
昨年の時本会長との話のメモを振り返りつつ贈る。
戦争や国際的な諍い、国民への圧迫、
極端にいえばファシズムも、
加速度的に、しかもひそかにやってくる。
そうした人間に内在する危険を常に認識することで、
はじめて人間の尊厳、生きる意味と喜び、信頼を築くことができる。
だから、敵は自分のなかにある。
そして自分と闘うことは、勇気と信念が必要だ。
今、二極化する貧富の構造、
非正規雇用の割合が異常に高いといった
若い人の「出口なし」の環境は、
歴史にてらしてみても、いつか来た道を予感させる。
「物語とことばによる育てあいの教育」という、
ラボが一貫してもってきた志を、
どのように新しい世代の事務局員やテューターに
バトンタッチしていくかがますますたいせつだ。
わかものフェスティバルで発表する諸君は大学生年代であろう。
今、ラボ活動にうちこめる幸せに感謝するとともに
ラボの年長世代としての社会的責任も自覚してほしい。
これまでラボ活動で得てきたものを、
どうやってラボや社会に還元していくのか。
それを考え、行動できるようになることが、
ラボ教育活動のひとつの山頂だろう。
そうした還元の貴重かつ重要な一例が、
明日の発表なのだと信じる。
いつも書いていることだが、
ラボはゴールのないリレーをやっているのだと、
この数年観客席で旗をふっていたぼくは思う。
だが、昨年の春からは観客席からはおりて、
学校法人という、ラボとはまったくちがう、
しかし青少年が集うことではおなじフィールドで
自分の試合をはじめた。
でもかつてのフィールドのラボで学んだことが
その源泉であることは確かだ。
闘え!
|
|
|

↑国際基督教大学協会

↑同大学ロータリー
一月はじめ麻布高校のフットボール部を招いてリクルートもかねて練習試合をした。
ご父母も参加され、みな広いグラウンドとキャンパスに関心していので
ぜひ来年はICUを受験していっしょにフットボールをしようと勧誘。
でも、ほとんどがまずは国立ねらうんだろうな。

写真上は武蔵学園のなか流れる「濯川」(すすきがわ)。
先日の雪の日に撮影した。
いやあ、大学を出てラボにつとめてからは
学校に関わるとは考えてもみなかったし
ましてや受験などはまったく無縁だろうと思っていた。
しかし、縁は異なものとはよくいつた。
1月はセンター試験ら対応し
2月は一般入試にも対応するはめになった。
詳しくは書けぬが、センター試験なんか
リハーサルをするのだよ。
また、試験中の病人発生などの対応も
とっても細かいマニュアネがあるのにびっくり。

さて、
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
睦月が終わり如月となった。
如月の語源は諸説あるが
衣服を重ねる「着更着」が有力な一説で
立春前の寒明けの今頃が最も寒い。
今朝は放射冷気で一層の冷え込みだったが
それ以上に寒い情報で、魂を凍結され打ち砕かれた。
「人間の所業にあらず」と外務大臣はコメントしたが
そんなことばで思考停止しては何も前進しない。
また「テロには屈しない。必ず罪をつぐなわさせる」
という首相の発言は、情として理解を得られても
その根拠と道筋に具体性はなく、
むしろこのことを契機に
自衛隊による邦人の武力による救出へといった
「いつか来た道へ」の布石と勘ぐらざるを得ない。
そうやって戦が始まることは
歴史が証明している。
また、こうしたトップの発言は
当然にもテロリストたちにもチェックされているから、
それがどういう影響を与えるかも
冷静に想像して発信されねばならないと思う。
こんなやりきれない朝。
先月に書いたように、子どもの絵のことを
のんびりと褒めている場合ではないのではという
脅迫観念に襲われている。
しかしかし、最後に理由を書くが
大げさかも知れないが血を吐くおもいで
今月の絵についてふれたい。

作品はロシアの大絵本作家ラチョフの名作
"The Mitten"に題材を求めたものだ。
描いてくれたのは石川美羽さん(小1/岡山市・西原P)。
第一印象は
透明感あふれるきもちのいい絵だ。
透明感。Transparency 好きなことばだ。
ロジャー・パルバース氏と
『雪渡り』の英語テキストを打ち合わせをしたとき。
この物語で最もたいせつにしていキイワードを
ふたりで模索していたとき、
ほぼ同時にでたのがこのTransparencyだった。
「それですよ!」とパルバース氏がいい、ぼくが”This is IT!”といいい
ふたりで手をたたいたのを思い出す。
かくして『雪渡り』の絵も音楽も透明感に満ちている。
まさに賢治のいう「みずみずしい果実」だ。
話をもどそう。
その透明感もさることながら
色味もフォルムも、原作絵本にほとんどとらわれず
自由闊達に描いているのがすがすがしい。
原作は暗い冬の森を背景に
全体に抑制した暗色が使われているが
美羽さんは、逆にスカッと抜けた
明るめの色を大胆に用いている。
このあたりの精神ののびやかさはすごい。
ある程度以上の年齢になったら、
物語の舞台が北国ウクライナの暗い厳冬というイメージから
脱出することがなかなかできないからだ。
美羽さんは暖色も寒色も使用しているが、
どれも澄んでいるので、
ていねいに筆を洗っているのだろう。
だから、これだけの透明感ができたにちがいない。
しかも、雪の大地もてぶくろも、
もちろん動物たちも
ただ塗り絵したのでなく微妙な濃淡をつけている。
とくに、かなりの面積を占めている雪の地面は
美羽さんくらいの年齢なら
太い筆でさあーっと塗って終わりに
してしまいがちである。
でも、彼女はじつにていねいな仕事をしている。
さらに、いちばん奥に描かれている森は
まさに「銀に燃えていて」
「アナ雪」のCGもぶっとぶすばらしい奥行きをつくりだしている。
絵でも写真でも、この奥行き感はけっこう大事なファクターだ。
でも、そうした技術的なことよりもぼくが好きなのは
いちばん最後にあらわれた左端のクマをはじめとして
動物たちが厳寒の冬の森で
無条件に楽しそうにしているノリのよさだ。
強いものも弱いものも、大きいものも小さいものも
そのちがいをまったく気にせず
小さなてぶくろをわかちあい
ばかでかいクマでさえ「ほんのすみっこ」にいれて
共存する姿には、諍い続ける人間として恥ずかしい。
この「わかちあう動物たち」に最大の祝福を
美羽さんはあたえたのだろう。
命あるものたちに、惜しみなく、
わけへだてなく注ぐ愛情がこの絵の本質だ。

原作者のエウゲニー・ラチョフは、
徹底した観察をもとにした
動物たちの精密なデッサンによる擬人化が
高い評価を得ているが
それよりも登場する動物たちに
すぺからく 暖かい愛情が注がれている点が
ラチョフの魅力である。
その点においては、美羽さんは
ラチョフに共通するといっていい。
やはり物語の種子は時と空間を
かるがると飛び越えて
世界の子どもたちの心に芽吹くのだ。
このカレンダーの絵を
もし「なんか、淡くて迫力ないなあ」と感じた人は
以上のようなことを見逃しているのかもしれない。
人間が世界と地球に対してなし得る「よきこと」には
その規模、時間、効果などでいくつかの種類にわかれる。
というより無限に近いやり方があると思う。
それを、とてもざっくりとふたつにわけてしまう。
するとひとつは『たろうのおでかけ』のように
「アイスクリームがとけちゃうんだ」という
緊急を要すること。
いま、このとき、今日、警鐘をならしふれまわらなければ
多くの命が危険にさらさられる
あるいは失われてしまうんだということへの直接的行動。
そうした緊急性をもつ事態は、残念ながら現在も
世界のあちこちで進行している。
その実態を知らしめ、喚起する仕事、
すなわちその史実を映像やテキストで予断や偏見なく伝える
仕事は、まさに「たろう」だ。
すなわち報道である。
また、だれも気づいていない危険をいちはやく察知し
それがたとえ、短期的には経済的にマイナスであっても
世界に公平に知らしめていく
すなわち、科学者の仕事。
これについて、旧ソ連の物理学者で
ソ連水爆の父とよばれながら
後に良心にもとづいてソ連の改革、ペレストロイカに尽力し
ノーベル平和賞を受賞したアンドレイ・サハロフはこういっている。
「科学者はムラサキツユクサにならねばならない。
この花はいちはやく放射線に反応し
色の変化でその期限を教えてくれる。
科学者はその才能によって
市民や政府が気づかぬ科学的危機を発見し
広くしらせねばならない」
そして、もうひとつは
どんな時間がかかっても、まわり道でも
美羽さんのてぶくろのように
わかちあえる世界の構築をめざし
世界のあらゆることに関心をもち
考え、学び、そして小さくても表現していくこと。
そしてそれが人生の目的であり喜びであること。
そのなかから、自分にできることを見つける能力を育むこと。
それもまた、世界と地球に対してなし得る「よき事」のひとつだ。
だから、だから
ラボの子どもたちよ。
いや日本の子どもたちよ
物語をたのしむことができる幸せに感謝してほしい。
絵を描ける時間をもてる幸福をたいせつにしてほしい。
学べることをうれしがってほしい。
そして表現することにほこりとよろこびをもってほしい。
表現することが、自分を成長させ、
いつか世界をよりよくかえていく力になる。
美羽さん、次はなにを書きますか!
追悼 陳舜臣先生

作家の陳舜臣先生が亡くなられた。享年90歳、老衰とのことだ。
ラボ・ライブラリー関連でいえば『西遊記』の日本語を担当していただいた。
この作品のときは、ぼくは組織担当者だったので
先生との直接の面識はない。
発刊記念の講演会で遠くからにお目にかかったくらいだ。
先生は神戸のご出身だが、本籍は台湾台北市である。
その後、1973年に中華人民共和国の国籍を取得された。
しかし、1989年の天安門事件に抗議して
先生は中国籍を離れ日本に帰化される。
偉ぶらず温厚で控えめな先生の
強い精神のあらわれだったのだろう。
陳先生は『西遊記』に関して
「実在の玄奘は長身でたくましく、
体力、知力、気力ともずばぬけた人だったでしょう。
たいへん魅力があり、
出会ったとたんにだれもが好きになったようです。
しかしインドへの取経の旅は過酷そのもので
4000メートルの高地から動物もすめない砂漠、
海抜マイナス200メートルの灼熱の盆地など
幾多の自然の要害とのたたかいでした。
そんななかで、玄奘は高山病にもかかったでしょうし、
疲労のあまり幻影におそわれたりもしたでしょう。
後年、玄奘の旅が寺院の説話から
縁日の講談などになっていったとき、
そうした自然の驚異がさまざまな妖怪変化となったことは
自然な流れだったと思います。
また、玄奘の強烈なキャラクターは
その情熱や闘争心が孫悟空として、
生身の人間としての欲や煩悩が猪八戒に
といったように異形の弟子たちに分裂したのだと思います。
だから残った玄奘三蔵は無心で
無垢のただピュアな僧侶として描かれています。
じつは、こうしたキャラクターは
中国の人が大好きです。
自身は特別の力はないけれど、ただ心が純粋なために
多くの英雄や豪傑が慕って集まってくる。
『三国志』でいえば劉備でしょうか」
とおっしゃっている。
そして『西遊記』の絵本の絵を担当された
李庚さんを紹介してくださったのも陳先生である。
李庚さんの父上、李可染氏は当時中国芸術家協会副主席で
その書は国外持ち出し禁止といわれた大家であった。
李庚さんは、その息子といわれ続けたことが
大きなプレッシャーとなったていたそうだが、
『西遊記』以降、独自の世界をきりひらき、
ドイツを中心にヨーロッパで高い評価を得て
一躍国際的アーティストになった。
それほど中国に太いパイプをもち、
その歴史や文化を愛した先生が
中国籍を離脱されたのは、たいへんなご心労だったと思う。
陳先生は、江戸川乱歩賞、直木賞など
多数の文学賞を受賞されているが
1991年に『諸葛亮孔明』で吉川英治文学賞を受賞された。
そのときラボの出版を通じて注文したら、
なんと宛名入りの署名本をいただいた。
これはいまでも宝物だ。
陳先生のご冥福を祈念する。
ところで、ラボ・ライブラリーの制作には、
さまざまな分野の専門家が参加するが,
おたがいが顔をあわすということはあまりない。
もちろん,ラボ側とはそれぞれ綿密な打ち合わせをするが
専門家どうしが分野をこえて会うということは少ない。
多忙なメンバーだからスケジュールをあわせるのが
きわめて困難ということもあるが、
あくまでも作品をとおしての協力であるので、
人格的な影響をうけないほうがストレートに
作品と向き合えるという思いも多少はあるかもしれない。
しかし結果としてできあがってくる作品は、
打ち合わせをしたとしか思われないほどシンクロしたものになることが多い。
これにもいくつか理由がある。
それぞれが一流のプロだから
提示された作品のコンセプトをつかまえる理解力と、
それを展開する表現力にすぐれているわけで、
ひとつのテキストをベースに仕事をすれば、
当然にも結果としての表現に通底するものが生まれてくるということだろう。
そしてもうひとつ忘れてはならないのは、
時代の気分というか同時代の精神だろう。
これは偉大 な建築思想家である
ギーディオンが名著『時間 空間 建築』(東京大学出版会 太田実 訳)
のなかでいっていることであるが
「空間の認識、捉え方などは同時代に生きる建築家、
画家、音楽家、数学者、文学者などの
あらゆる分野の専門家共通のものがある」ということだ。
政治・経済といった力学的な時代精神だけでなく、
空間認識こそがイメージの展開において意味をもつとギーディオンはつづける。
彼は20世紀初頭のビカソのキュービズムへの発展を例にとり、
この美術界に衝撃をあたえた画法が
ラバチェフスキーやリーマンなどの
非ユークリッド幾何学の発展に見られる「空間認識変化とひろがり」
という同時代的空間認識と関係すると述べている。
さらに、その非ユークリッド幾何学の概念は、
アインシュタインにも通じるとも。
また、さかのぼって1889年のパリ万国博覧会のエッフェル塔をとりあげ、
塔の内側を移動するエレベーターから見た空間の視覚的変化は
まさにピカソへとつづく空間認識の革新であり、
そうした同時代精神は19世紀末からゆるやかにひろがっていったと指摘する。
以下は『ギルガメシュ王ものがたり』のときの制作メモだが
――ラボ・ラ イブラリーもまた、
世紀末の抑圧から新世紀への期待、
そして落胆という時代の流れと無縁ではないだろう。
その象徴ともいうべきアメリカのイラクへの攻撃は
皮肉にもギルガメシュ叙事詩の舞台への攻撃となった。
今回のラボ・ライブラリーには、音楽家も画家も作家も
「いさかうことをやめぬ人間への怒りと哀しみ」を
その作品にメッセージをこめていることはたしかだろう。
だがそれは表面的な主題であり、
子どもたちに送るテーマの本質はパルバース氏のいう
「虹はかかるか」、すなわち
「人類の救済の可能性はあるのだ」という希望に他ならない。
暗い話、こむずかしい話が続いたので
最後につぶやき。
研究はざっくり大胆に分けて2種類あると思う。
ひとつは、絶対存在するはずだと仮説をたてたものの発見、
あるいは存在を証明する道。
もうひとつは、そこに何があるかわからないけれど、
誰も知らないところだから、とにかく行ってみて、
誰も入ったことのない場所だから、
とにかくがさごそ探して、見つけたものを考える道。
どちらもたいへんだが、どちらも魅力的だ。
理論物理学や分子生物学などは前者であり、
宇宙探査や海底調査などは後者といえるだろう。
そんなことをぼんやり考えていたら、
じゃあテーマ活動を研究という側面で見たらと悩みはじめた。
そして直感的にたぶん宇宙探査に近いんじゃないかと思うに至った。
もちろん、仮説見たいな言語的目標を立てて、
それを目指すテーマ活動もアリだろうれど、
やはり「この物語の先になにがあるかわからないけど、
きっと誰も知らないすてきなものがあるだろうから、
いけるだけいこう」というのがいいね。
そりゃそうだ。ことばの宇宙の旅だからね。
|
|
|
ラボ・カレンダー2015をめくる。

正直にいうと2015年は
カレンダーの絵について感想を書くのは
もうやめようと思っていた。
理由はいくつかある。
ひとつは、もう十分だろうという潮時感。
それとこちらのほうがたいせつなのだが、
のんびりと子どもの絵の話をしている時代ではないのではということ。

20世紀はほとんどが戦争による大量死の時代であった。
21世紀こそは、きっと平和でおだやかであることを
少なくとも紛争の数や規模は縮小の方向にむかうと期待された。
しかし、残念なことに
ぼくたちはいまだに血と汗の巡る地球の岸辺に立ち尽くし
ともすれぱその惨状に目をつむり
ともすれぱその叫喚に耳をふさいでしまう自らの無力と脆弱さに
打ちのめされ続けている。
そうした痛みを感じとるどころか
自らの名前を経済政策の名称に使用するという
世界が後ずさるほど野暮な宰相は
この国をかつてきた道ににひきもどそうとしている。
しかもそれは、
あたかも国民の総意のように幻視させられている。
この間の「特定秘密保護法」「集団的自衛権行使の閣議決定」
さらに大義なき総選挙と続くアペミノタウロスの暴走は
5年前に受けた大手術後の苦痛の数十倍ものダメージだった。
なにか。新しいことを学ぼうとか
新いことに出会おうという意思がきわめて薄弱なってしまった。
そんななかで、とてもラボっ子の絵に
きちんとむきあうことはできないと思ったのだ。
12月の絵をアップしたときには、ほぼやめる決意をしていて
あとは、ごくわずかな定期読者に対し
いつどのように表類するか、
はたまた卑怯な恋愛のように
いつまでも1月の絵をアップしないで
スルーして自然消滅をねらうかと
そんなことばかり考えていた。

だが、先日、ラボの事務所によった夕方
カレンダーが3本とどいたとき
どこからか声がした。
それはずいぶんと恐ろしい声だった。
「なんだよ、それだけかよ。
おまえは絵のことをか書かないかわりに
なにかできるというのかよ。
かっこつけてんじゃねえよ。
おまえはこれからででくるかもしれない
ずこい絵をみないつもりかよ。
なんか楽しようとしているだけじゃね」
その声はおそらく、子どもたちの絵にこめられた
魂たちの恫喝だったのかもしれない。
テーマ活動がそうであるよえに
子どもたちの描画活動にも
時代は反映する。
そしてどんなにきびしい状況のなかでも
子どもは表現しようとし、前にむかって歩こうとする。
いや表現しようとする子どもこそが前を見る。
前を見ることができるから表現できる。
表現する意思は前進の意思だ。
戦火のもとでも子どもたちは絵を描き
歌を歌い本を読む。
未来を信じる能力は子どたちに
わけへだてなくあたえられている。
それを証明するために絵の感想を書いてきたのではなかったか。
子どもたちが物語に深く入り込み
そこで積み重ねた言語体験がぁって
はじめてラボ・カレンダーの絵の活動は成立する。
そこにこめられた子どもたちの思いを
汲み取ろうとする努力を放棄してしまったら
それは人の痛みを感じとる力をなくすことょりも
さらに切なく恥ずかしいたことだ。
少なくともここでやめてしまえば
楽になるどどころか
自分をゆるすみとができないだろう。
なんて、かっこつけてるのもがらじゃない。
先日、宣言したように今年も
好き勝手な応援をしていきたいと思う。

で、新年最初の絵は“Rum Pum Pum”だ。
描いてくれたのは近藤愛里さん(小5/長野市・吉澤P)だ。
ひさびさに小学校高学年の作品が年頭を飾った。
いわば正統派。原画をよく見て、しかも愛里さんなりの
色彩変化やタッチをだしている。
さすがに11歳くらいだから、仕事がていねいである。
※話はそれるが、学齢でものわいうのはなるべくさけたい。
学齢は後ともの変質とは無関係といっていい。
「あなたはもう中1でしょ」といった後の命令形
「まだ中1だから」といった後の否定命令形
どっちやねん! である。
フォルムや構図、色調は基本的に原作のそれを踏襲している。
模写といったしまえばそれまでだが、
彼女くらいの年齢であれば
原画をよく見て描く活動はけして単なる模倣ではない。
書道でいえば臨書にあたるといってもいいだろう。
臨書とは王羲之や欧陽詢などの漢字をマスターした人の作品を手本として
正確に書き写すことだ。
臨書は書の基本中の基本であり
止め、ハネなどの最低八つの筆法がきちんとできていなければならず
さらに筆の運びから姿勢、呼吸まで
原作者のそれに近づけなければ
完璧な臨書はできない。
だから完全な臨書は不可能といっていい。
だか、書家はさまざまな書体をまず古典の臨書から学び
それをくりかえすことで自らの書体ほを完成させていく。
例によって想像だが、愛里さんはゆそらく
絵を描くのが大好きで得意なのだろう。
そして、この物語も大好きなのだろう。
だからこそ、しっかりと原作絵本をながめ
ディテールもよく見て
バランスも色彩も愛里さんなりのきみちよさで
原作に近づいていったのだと確信する。
ラボ・カレンダーの絵で
「原画そっくりまるうつし」は
なかなか入選はしない。
ぼくが携わった22年間のなかにも
すごいテクニックとデッサン力の絵は
特に年齢の高い子の作品で毎年数点見られた。
でも、そっくり、うまい! だけなのだ。
こ れだけ描けますというShow off。すなわち見せびらかし
がすけてみえたりすると、
もうそうした作品ではラボ家庭の壁を1か月飾ることはできない。
また、その力があるなら自分の絵を描けよということでもある。
だから、この絵が1月の絵として目にとびこかんできたとき
「おーつ」と思ったのだ。
だからじっくり見た。
で、さっき書いたように、愛里さんのきもちが見えてきた。
仕事がていねいといったが、たしかに色に濁りがないので
筆を複数本しようしているだめうし、またよく洗っている。
また細い輪郭をさきに書いていて、それほ見るだけでも
デッサン力はたいしたもものだと思う。
こういう流れだと得てしてその輪郭内を「ていねいに塗り絵」
することになってしまいがちなのだが
愛里さんには、この物語のラン・バン・パンというリズムか
しみこんでいて、
そのスピード感やクロドリの決意の強さをそこなわないように
輪郭にあまりとらわれず、かろやかなタッチをで描いている。
しかも色彩には微妙な濃淡をほつけていて
ともみすれば平坦な色彩の原作絵本よりもおもしろい。
その点では「臨書」であり「本歌取り」でもあるといっていい。
なお、左上にタイトル文字をいれているのも
ふつうは失敗してしまうのだが
この作品では隠し絵みたいになっていて
とてもおもしろい。
全体に描きなれている感は満載なのだが
されがちっとも見せびらかしになっていないのは
やはり愛里さんのこの物語への思いなのだろう。
彼女と『ラン・パン・パン』の関係をぜひきいてみたい。
きっと吉沢さんが書き込んでくれるだろう。

じつは『ラン・パン・バン』は
SK23のアジアの昔話を制作したとき
インドの物語として最後まで候補に残った作品だった。
結果としては『ヒマラヤの笛』が収録されたが
物語のおもしろさ、テーマ活動の展開を考えると
『ラン・パン・バン』は魅力的な作品だった。
ただ、権力者との戦いという点で
『不死身の九人きょうだい』とテーマ的にかぶること
また、『ヒマラヤの笛』『おどりトラ』『不死身の九人きょうだい』
『スーボの白い馬』はいずれも『ラン・パン・バン』
と同様に 再話作品ではあるが
原点が北インド、韓国、雲南イ族、モンゴルと比較的
エスニックなルーツがはっきりしており
その文化的歴史的背景が明確に伝わってくるという点で
ロシア、ギリシアと続いてきた地域シリーズのラストとしての
アジアの昔話のパッケージとして
インド代表は『ヒマラヤの笛』になった。
また、『ヒマラヤの笛』はラーマチャンドランというインド人アーティストを
福音館書店の松井直先生が5年がかりでくどいた労作であり
先生からぜひラボでというご支援もあった。
エスニックなしばりがなかったら『ラン・パン・バン』が
はいっていたかもしれない。
その後、ラボの新刊にとりあげられるときき
なにかほっとしている。
ク冒頭に書いたように
ますますハードな時
代がこようとしている。
とくに経済最優先で社会が動くとき
その矛盾としわよせのは
子どもたちゆ、高齢者、障がいをもつ人びとを直撃する。
そのなかで、子どもたち一人ひとりと
あらためて決意と慈しみを両手に
そして物語をハートに携えて
クロドリのごとく前進していきたい。
ラボの社会的責任、使命はきわめて大きい。
さあいこう
ラン・パン・パン!
|
|
|
師走である。
はじめに追悼をせねばならないのはせつない。

『ポアンホワンけのくもたち』の
「なんというゆうやけ」を描かれた元永定正先生、
『きてれつ六勇士』の破壊力ある絵で
ラボっ子を圧倒した赤瀬川源平先生につづき
『はらべこあおむし』『わたしとあそんで』などの
音楽を担当された越部信義先生も旅だた、れてしまった。
どうしたらいいのだろう。
のこされたぼくたち凡人はうろたえるばかりだ。
「前にすすむしかない」と先生たちの声がきこえてはくるが‥‥。
ハイレッドセンターというとぼけた名前で、
日本の前衛芸術をリードした高松次郎先生、赤瀬川源平先生、
中西夏之(『ながぐつをはいたねこ』)先生たちだが
とうとうセンターだけになってしまわれた。
越部先生は、スタジオでもほんとうにおだやかな方で
「サザエさん」や「おもちゃのチャチャチャ」など
多くの人びとに愛された名曲とともに、
そのお人柄も慕われた。
ぼく個人としては、「みんなのうた」の
「地球を7回半回れ」が大好きだった。
そのこと初めてお会いしたとき先生につたえると
「ぼくもあれは気に入っているよ」
とうれしそうにおっしゃられたのがなつかしい。

三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる。
とうとう師走になった。
毎月、好き勝手に激励コメントを書いてきたら、
あっという間に今年もあとひと月になってしまった。
この春からは学校法人で記念室長などという
なにか博物館館長のようなフルタイムの仕事についたので、
フリータイムがずいぶんへったが、
このカレンダーの絵についてだけは続けてきた。
もともとこのカレンダーの活動は、
ラボっ子の描画活動、絵を書くという表現行動を激励しようぜ!
ということではじまった。
だから「ぼくはなんでこの絵が好きなのか」を書くことで、
ちょっとでも励ましになったり、
なんかへんな絵、幼稚な作品としてしか感じない人に
「へぇーっ」といって子どもの絵に
少しでもあたたかい関心をもってもらえたらと思って、
あえて「読みたい人だけ読めや」という
えらそうな態度で綴ることにしたのだ。
さて、本年最後の作品は12月はThe March of Jizo
『かさじぞう』に題材をもとめたものである。
作者は宮川祐輔くん(小3・坂出市/小口P)。
一昨年も書いたが、とても有名なむかしばなしであり、
それゆえにバリアントがいっぱいある。
地蔵の数も六地蔵(六道衆生の救済)が多いが、
五体や七体もある。
さらに御礼に来る地蔵もふつうはこの作品のように
全員で豪華絢爛にやってくるが、
代表一体だけというのもあるし、
食べ物やお宝のかわりにおじいさんとおばあさんを
極楽に連れていってしまうという驚くべきエンディングもある。

この物語もカレンダーの応募テーマとしては大人気だが、
いつも思うのは、雪降りしきる夜の描写がすてきなことだ。
原作の本多先生の青もすばらしいが、
宮川くんの深い青と白い絵の具を吹き散らしたような
雪の描きかたにやられてしまった。
余談だが、青は日本人にとってはとってもたいせつな色だ。
昔からその種類も多い。青、藍、群青、浅葱、浅縹(あさはなだ)、
瓶覗き(かめのぞき・手ぬぐいにつかわれる。
「瓶覗きの手ぬぐいそれときって」=樋口一葉「われから」)など、
これらはほんの一部だが、
日本人は青の微細なちがいにそれぞれ名称をあたえて
ちゃんと生活のなかで区別していたのだ。すごいなあ。
英語でも「スカイ」「プルシャン」「ターコイス」「ネイビー」
「マリーン」「インディゴ」「ウルトラマリン」などと山のようにあり、
ウエストミンスター・プルー、アイスランドブルー
なんてのも含めて100以上もある。
ちなみに母校ICU(秋篠宮の次女がAOで合格して話題だが、
たがいの個性を尊重する風土なのでお姉さんのときもそうだったが、
どうということはない。
たぶんのびのびと学問に集中できるだろう。
入学おめでとう! Welcome to ICU 以上! だとみんないっている)
の旗の色はUnited Nation Blueであると、
日比谷潤子学長からおききした。
宮川くんの青でハッと思い出しのは
1973年、フランソワ・トリュフォー監督の映画「アメリカの夜」
(La Nuit américaine, : Day for Night)である。
ぼくがちょうど大学2年のときの作品だが、
映画を愛する人におくる映画づくりの苦悩とすばらしさを描き、
オスカーの外国語映画賞を受賞した。
アメリカの夜とは、カメラのレンズに
赤や黄色などの暖色系の色をカットするフィルターをつけて
「夜の場面を昼間に撮影する」テクニックのことだ。
カラーになる前のハリウッドで開発されたので、
この名前がある。
だからアメリカでは「アメリカの夜」とはいわずDay for Night と呼ぶ。
現在ではカラー、さらにデジタル化によりほとんど使用されない技だが、
コアな映画通によると注意してみているとたまにあるそうだ。
もちろん、リアルな夜はこうした人工のあかりのない昔の村はずれなら、
基本的には真っ暗なはずだ。
しかしそれでは絵にならない。でも雪降りしきる夜を描きたい。
宮川くんの作品は、なにより「アメリカの夜」の濃い青によって、
地蔵がゆく夜の深さと闇をしっかりと伝えている。
しかし、このように茶色、グレー、ダークブルーという色で
かなりの面積をとると、全体が暗く沈んでしまうので、
物語の大団円があまり明るくない印象になってしまいがちだ。
そうさせずに、なにか希望に近い明るさを感じさせるのは、
なんといっても地蔵たちの福に満ちた表情とイエローオーカー
(土からとった顔料なので自然であり、どんな色ともあう)の荷台と、
その上の米や魚などのギフトの暖色である。
さらに荷台の位置が中央ではなくやや左によっていて、
黄金比に近いバランスになっているのもきもちがいい。
もっこふんどしの地蔵はセンターではなく、
にぎやかしのサイドに立ち位置をとっていておもしろい。
でもしつこいようだが、やっぱり夜の青と雪がすごい。
なんど見ても、微妙かつ絶妙なグラデーションがかっこいい。
単純な「塗り絵」にしたらこうはいかない。
ラボっ子の『かさじぞう』の絵はいつも、
雪の夜を描いているのにあたたかい。
それは子どもたちの心の温度そのままなのだろう。
ラボっ子が育んでいる「シェアする、わかちあう精神」の
あらわれなのだと確信する。
そのシェアは、単に物質だけでなく、
互いの違いを認めあう「価値のシェア」でもある。
世界も物語も解釈や正解はけしてひとつではない。
正解・不正解で二分されがちな公教育、
とくに教科の「こなし」に終始しがちな義務教育にはなじみにくい部分を、
ラボのような非公教育は責任をもって担わなければならない。
年の終わりの絵に、この物語を選んだのは
季節感はもちろんだが、
そうしたラボの社会的責任への決意だとうけとりたい(いいすぎかな)。
地蔵は本来は末法の世(まさに今)、
56億7000万年後にあらわれる弥勒の前に人びとを救う菩薩だ。
一方、この物語の地蔵は「なまはげ」などのように
年の暮れなどに遠くから幸をとどける
「まれびと」であるともいえる。
世界も日本も、残念ながら今年もまた血と涙を忘れることはでなかった。
いや、状況はますますきびしいというべきだろう。
その年もまもなく終る。
宮川くんの絵は、はげしく引っ掻いたような雪と
深いアメリカの夜の青で、世界を覆う夜の深さと寒さを警告しながらも、
地蔵のおだやかで諭すような笑顔と
ゆっくりたがたしかな足取りで、
希望があることを、希望をすててはいけないと語りかけてくる。
地蔵様、お願いです。来年こそおだやかな凪を世界に!
ここからはおまけ「トンチン」の意味がわかります。

タイトル下ならぴに上の写真は濯川(すすぎがわ)といって、
この春から勤務している武蔵学園の中央を流れる小河川だ。
このところ小中学生の郊外学習による見学が多く、
みんな珍しがって写真を撮る。
取材にきた「週刊ポスト」の編集者もイラストレーターも
「校内に池のある学校は数あるけれど
川が流れている学校はなかなかない」といっていた。
現在は水源が限られているため、循環方式で水流量を保っている。
大正11年の旧制武蔵高校開設当時は川の周辺は田畑があったため、
あぜ道の脇を流れる小川といったような風景が想像される。
この川の歴史は古く、元禄9年(1996)に
江戸の下町の上水として武蔵丘陵の背を開削された千川上水に由来する。
その農業用の分水であった。
濯川は学園を東西に流れ、学園を南北にほぼ二分している。
中学生のころはザリガニを釣ったりもしたアホだったが
最近になって濯川のおもしろさがわかってきた。
昼休みに岸辺を散歩するのが楽しみである。
やっとそのくらいには大人になったのだろう。
濯川の名は旧制高校時代に名付けられたが、
その由来は中国紀元前3世紀、楚の詩人屈原の詩である。
滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足
そうろうのみずすまば、もってわがえいをあらうべし、
そうろうのみずにごれば、 もってわがあしをあらうべし
屈原 「漁父」(楚辞 巻七)
※追放された屈原が沼沢地で漁父に出会い、処世について問答する。
屈原は潔白な生き方を貫こうとするのに対して、
漁父は世の清濁に応じて生きなさいという。
滄浪は揚子江の支流漢水の下流の名。纓(えい)は冠のひものこと。
おまけのおまけ。
憂国の詩人屈原は汨羅江(べきらこう)に入水するが、
この川は洞庭湖=トンチンフーに注ぐ長江右岸の支流。
|
|
|

霜月になった。
あまりおだやかでない秋だ。
政治的なはなしはこの日記にはなじまないので
極力書かないできたがそうもいっていられない状況だ。
たが、ラボにできることはこどもたちの希望を激励すること。
その武器はことばとこころ、物語と交流以外にない。
ここからぶれなければ、次の世界をつくりだす人材はきっと育っていくし
すでに育っている。

三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる。
レオ・リオニLeo Lioniの絵本"FREDREICK"に題材をもとめた作品。
描いたのは関根由裕くん(小4/塩谷郡高根沢町・志度P)だ。
前月と前々月が超インパクトのある絵だったので
今月はほっとする感じだ。
生活に追われる4匹の野ネズミと「詩人」フレデリックが描かれている。
原作絵本のもつさまざまなメッセージを由裕くんなりに感じ取り
それをすなおに表現した潔さがきもちいい。
そのテーマについては後ほどふれるとして
彼の絵をじっくり見ていこう。
というのは、本人はかなり力をいれて描いているのに
※けして力んでという意味でなく、思いたっぷりにということだ
ちょっと見だけで、ふわっとした平坦な作品と断じてしまうことがよくあるからだ。
とくにこの物語の絵本はちぎり絵、はり絵でつくられているから
シンプルにデフォルメされた野ネズミたちや岩や植物が
一定の厚みとあたたかさをかもしだしているだけに
単に、「まねして塗り絵」をしようとすると
それこそ、のっぺらで奥行きも味もあまりないものになりがちだ。
だが、由裕くんの作品を昨夜遅くライブラリーを聴きながら眺め
また今朝、コーヒーをのみつつ朝日の自然光のなかで見ていたら
心がほぐされ、彼のこの物語への思いがじわじわと響いてきた。
おだやかな漢方薬といったら、あまりいいたとえではないが
たしかにじんわり効いてくる。
で、なんといっても色とタッチだ。
全体に使用している基本の色数は見ての通り多くはない。
だけど由裕くんは、ひとつの色を微妙な濃淡と
筆のタッチの強弱で多彩な印象に見せている。
画材は不透明水彩だから、濃淡は水のかげんだろう。
さらになんといってもタッチ、筆の運びがとにかくデリケートで
かつ力みのない自然な流れで変化がついている。
これは計算してやったことではきっとなく、
なにか鼻歌でも歌うようなリラックスさと
ものすごい集中が同居した「ゾーン」みたいな状態で
一気にしあげたのではないかと勝手に想像するのだ。
岩にしても背景のイエローにしても
もちろん野ネズミにしても
そうした濃淡やタッチの変化が細かくつけられているので゛
原作のちぎり絵の素材感にも負けない由裕くんの味がでていると思う。
『フレデリック』の物語については何度か触れたので
もうあまりテーマについてぐたぐだ書かぬ。

でも、この物語は読み返すごと、聴き返すごとに多層的に感じる。
「ことばの伝達力と不能」「ことばの強さともろさ」
「詩人は職業か」「芸術と社会」「個性と孤立」「労働と芸術」
といったような、ときに相反し、議論をよびおこすテーゼが
つまっていることにどんどん気がつく。
以下、メモ的なアフォリズムとして列記
現実の野ネズミの寿命は人間のそれと比較すればきわめて短いが
もし、フレデリックがこの後、何年もそうであり続けられるのだろうか。
芸術はある意味で反社会的(社会を転覆するという意味でなく)
な性質をその本質に内包するものだ。
と、高校時代の恩師、故江頭昌平先生はいわれた。
詩人とは職業ではなく生き方である。
というこの物語の翻訳をされた谷川俊太郎氏はいわれている。
個性はときに孤立し、それでものびるのが個性か。
※これはぼくも同感で、「個性を伸ばす教育」などは
かなりイカサマっぽい。「伸ばしてあげなきゃなびない」
なんてのは個性ではない。
たたいてもさらに伸びるののが個性だと思う。
ただ、戦前、戦後も日本の教育は
「個性をふみつぶす」もしくは芽を摘み取り
平均的な兵士、平均的な労働者をつくりだすことに
力を注いだという悲劇。
「あのひとちょっとかわってる」の「ちょっと」は
かなりずれてるというマイナス待遇表現。
かわっているという意味では、
みんなだいたいおなじだがちょっとかわっているのに。
結局ぐたぐだ書いてしまったが
リオニの作品のライブラリーづくりは楽しかった。
『ひとあしひとあし』の冒頭にいくつかのヴァージョンがあることについて
ニューヨーク在住のリオニのお孫さんとメールのやりとりができ
たいへん激励されたこと。
そして『フレデリック』の英日対応で悩んでいたとき、
音楽担当の谷川賢作さんに相談したら
「父にきいてみますよ」とあっさりおっしゃってくださり
その数日後に俊太郎氏からラボのような新訳が
ファックスで届いたこと。
そしてリリース記念の賢作さんのコンサートを
四谷文化センターでできたこと。
まだまだあるけど。
ありがとうリオ・リオニ

武蔵学園につとめだしてはや半年が過ぎた。
今年の正月くらいまでは
まさか学校方針で仕事をするとは夢にも思わなかった。
日本の教育史をふりかえるなかで見えてきたものは多い。
特に戦後の単線型の教育の問題点。
基礎教養、リベラルアーツ教育の衰退。
おそまきながら公教育をまじめにとらえかえすなかで
ラボのような非公教育の意味もよりクリアになってきている。

つい先日、秋篠宮の次女がICUのAO入試に合格したというニュースが流れた。
ひねくれていうわけではないが
ICUにとってはどうでもいいことで
皇族が入学しても大学の価値があがるわけではまったくない。
むしろ取材やセキュリテイなどでめんどくさいだけだ。
ただ、きちんと入試を受けて資格をみたしたのなら
ぼくがどうこういうことではない。
ただ、学習院にしてみればメンツまるつぶれだ。
このプリンセスのためにわざわざ教育学科を新設し、
さらに東大からぼくも敬愛する佐藤学氏を看板教授にひきぬいたのに
在学数か月で退学とはいささかやりすぎだと思う。
せめて学習院をでてから学士入学というてはなかったのかな。
さて、昨日はHalloweenであった。
ラボでもその名を借りた交流会が各地で行われているようだ。
そのことをくさすつもりは毛頭ないが、
ぼく個人としては「異文化の行事の取り扱い」については
慎重でありたいと思っている。
異文化に対してリスペクトし、その本質を学ぶのもラボだからだ。
とくに宗教に関係することがらについては
なおさらセンシティヴでありたいと思う。
さらに信仰に関わることは一層である。
信仰はindividualな心の問題であり土足でふみこんではいけないからだ。
昨日、Facebookでみなさんよくご存じの木島タロー氏が
Halloweenについてこんな一文を寄せていた。
彼は信仰者であり、ぼくは無神論者である。
だが彼の意見に同意してコメントを送った。
このことでラボのハロウィン行事をうんぬんいう気はないし
議論をしようとも思わないが
みんなの好きなタローくんの思いも知って
考えるきっかけにしてほしい。
まずぼくのコメント。
タローちゃん。まったく同感。
昨日渋谷にいたけど、
自己アイデンティティを確かめたい若者が
仮装することで自らをなんとか解放していた。
Halloweenはもはや商業的なinitiationになりつつあるね。
Happy Halloweenは言語矛盾だけど、
彼らにとってはhappyなのかも。
今日は万聖節。冬になっていくね。
以下木島氏の一文
ゴスペルとハロウィーンは相容れない。
基本的に教会ではハロウィーンは祝わない。
多くの教会では、悪魔崇拝に近い祭りだと考えられているからだ。
教会によって、関知しない、奨励しない、禁止する、非難する、
子供達にハロウィーンに対抗する
教会での楽しいイベントを提供する、
など態度は様々だが、
基本的に、ハロウィーンには関わらないという
態度のクリスチャンの方が優等生的な扱いになる。
僕自身は、何を祝っているのか分からないものは祝わない方なので、
ハロウィーンだから騒ぐとか言う事はないが、
年に一回堂々と仮装して歩ける日、
という発想は面白いものだと思う。
うちのムスメも本日は猫の耳をつけ
肉球のおもちゃがついた棒を振って友達と遊びにいった。
ちなみに、先日DUCで教会をおとずれた際、
牧師から、10月なので黒とオレンジで来ないか、と言われた。
おっと、ハロウィーンカラーじゃないよ、
ハーベスト(収穫祭)カラーだよ、との事で、
面白いものだと思った。
ゴスペルを指導する人々は、
少なくとも、ハロウィーンがゴスペルとは
相容れないことについて良く認識しておく必要がある。
知らずにまさか「ハロウィーン・ゴスペル」
みたいなイベントをやった日には大変だ。
それをアメリカのゴスペル人達が見たら多分、
僕がアメリカ人の友人がご飯に醤油をかけて食べ
それを日本食だと人に言っているのを見た時のような気分になるだろう。
P.S. さあDUCの、大阪 Black Music History は、,11/23。
|
|
|

がらにもない歌をタイトルで読んだが
秋がゆっくりと確実に雲のように流れている。
空はいつのまにか高く。
夜やさしく、そして深くなった。

三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
彼岸も過ぎて神無月である。
出雲大社のオオクニヌシのもとに全国の神がみが集い
縁結びのサミットをするという話は有名だが
じつはこの伝承は中世以降、出雲大社のスタッフたちが
プロモーションしてひろめたものだというのが定説のようだ。
で、神無月そのものの語源は諸説あって明確にはなっていない。
さあ、あざやかで力のある作品が目にとびこんできた。
ジェラルド・マクダーモットがコールデコット賞を授賞した絵本
“Arrow to the Sun”『太陽へとぶ矢』に題材をもとめた絵だ。
描いたのは堀部奈央さん(小4/徳島市・鈴江P)。
はっきりいって「好きな絵」だ。
基本的に絵は「好き嫌い」があっていいと思う。
さらにいえばその日の気分でかわったっていい。
美術館のピカソより、
友だちが5分で描いたリンゴの絵にいやされることだってある。
で、この作品のどこが好きなのかといえば
力強いけれど無理なく心にはいってくるところかな。
その要因にはいくつかあるが
まずは個性的な色づかいだ。
原画を見ていないので印刷のかげんもあるのだろうが
抑制がきいてどっしりとした重量感があり、それでいて暗くはない。
ふつうここにあるような色をもってくると、もっと沈んだ感じなる。
もうひとつは、というよりこちらのほうがだいじなのだが
全体のバランスのよさだ。
「おやなし子」すなわち太陽の子が試練としてたちむかう
四つのキバで彼をまちかまえるもののうち、
蛇、ハチの大群、そして稲妻が迫力に満ちて描かれているが
このおそろしいものたちの躍動感がすごい。
これだけの画面にこれだけの要素をおしこめると
「たた置いただけ」、すなわちテーマ活動でいえば
「語られているからとりあえずかたちをなぞっただけ」
みたいになりがちである。
しかし奈央さんは、みごとにこの怪物たちをいきいきと動かした。
色彩のところで書き忘れたが、
中央を横切る大蛇の朱色があざやかな印象と奥行きをつくり
稲妻のヤマブキがかった黄色と背景の闇の黒(濃淡、潤滑があるのも
すばらしい!)と
ハチの黄色と黒がすばらしいコンボになっている。
そして、これまた好きなのは太陽の子の低くかまえた
どうどうとした姿勢とするどい眼光もお気に入りのひとつだ。
10歳の画力としてはとびぬけていることはたしがだが
この絵をもっとも支えているのは
上記のようなスキルではなく
この物語への奈央さんの思いの強さだだろう。
『太陽へとぶ矢』を相当に聴き込み
はげしくインスパイアされているからこそ
この絵が描けたとぼくは思う。

さて、この絵本のもとになった物語は
Native Americanの共同体Puebloの神話だ。
Pueblo を共同体と書いたのは、
そのなかに20を越える部族があるからである。
だからPueblo People、あるいはPueblosといういい方はあっても
プエブロ族というのは大雑把すぎる。
原画はNative Americanのアートによく見られる
モザイク調のデザインをベースにした
とても洗練されたグラフィックだ。
一方、この絵本は、後年、
Native Americanの研究者から批判を受けた作品でもある。
そのなかで重要なのは、Puebloには、
「おやなし子」非嫡子という概念は存在しないというものである。
ただ、これにも意見が別れるところがるので、
ぼくはこれ以上言及はしない。
いつもいうことだが
ラボ・ライブラリーは文化人類学の研究資料ではないので、
あまり歴史的整合性や時代考証にこだわり過ぎるとへんなことになる。
ただ、エスニックなストーリィをあつかうときは、
そのオリジナルの文化にリスペクトをもつことを忘れてはいけない。
もうひとつ、先住民に関する表現はその意味や成立も含めて
きわめて複雑な判断がせまられる。
いわゆるPC(バソコンではなく政治的に正しいの意)として
Native Americanということばが使用されただしたのは
じつは1960年代にさかのぼる。
アメリカ先住民の総称としてすつかり定着した感があるが
先住民最大の団体である
The American Indian Movement (AIM)
はNative Americanの呼称を拒否しており
1977年には国連にその旨を伝える代表団をおくっている。
彼らにいわせれば
「インディアンはたしかにインドの人という意味の誤った表現ではあるが
Native Americanといういいかたは
アメリカインディアンを名称ごと消滅させる一種の民族浄化」ときびしい。
さらに「Native Americanは内務省の出先機関が使用しはじめた用語で
インディアンからでたことばではない。合衆国の囚人としての先住民を
ひとくくりにした政治用語だ」と断定している。
たしかに彼らのいうようにNative Americanとして全部族せくくってしまうと
それぞれの文化の個性が埋没してしまう危険がある。
アメリカスタンダードがグローバルスタンダードになる危惧と同様に
多様性の否定につながりかねない。
たとえばよく知られたティピーは平原地方独特の住居であり
「Native Americanの典型的な住居としてのティピー」という
表現はまさにくくってしまったことによる誤りである。
アメリカのみならず世界各地、
たとえば中国にも54の先住民、少数民族がいる。
それぞれに独自の文化があることはいうまでもない。
だから、今回のように
それぞれの芸術などをとりあつかうときは
Puebloといった個別の名称を使用するのが
リスペクトというものだめろう。
一方で現代の人類、ホモ・サピエンス・サピエンスは
生物学的には一種であり、いわゆる人種は亜種にすぎない。
なんとなれば人類はすべせて交配か真能だからだ。
だから「人種問題」「人種差別」ということば言語矛盾であり
「人間どうしの問題」「人間どうしの差別」なのだ。
ただむしかえすようだが
physical anthropology 形質人類学的な学問的分類では
人種てきな表現をつかわざるを得ない。
そのなかでアメリカ先住民の多くは
およそ2万年前から1万年間かけて
アジアから南北アメリカにひろがった(古)モンゴロイドの
流れをくんでいる。
そう考えると、この奈央さんの絵も
遠いDNAで海のかなたとつながっている気がしてならない。

すこしさかのぼるが
21日の日曜、秋の彼岸会の墓参をした。
本来なら中日に行くべきだが、
朝刊をとりに外にでたら巻雲が美しいので今日に変更。
巻雲、シーラスは不連続線あるいは不連続面の上部にできやすい雲なので、
二三日後には天気はくずれるからだ。
彼岸会の7日間のうち中日が先祖に感謝する日であ残りの6日は、
布施をする檀那などの6種の修養を積まねばならない。
ぼくなどは仏陀もドン引きする破戒人生なので
いまさら修養をつんでもどうにもならないが、
せめて墓参はしている
その6種の修養が六波羅蜜だが、
波羅蜜はサンスクリット語でもパーリ語でも
「到達」という意味だと宝仙寺の僧侶にうかがった。
ただし波羅蜜は中国語訳だが、
玄奘三蔵はインドから帰国後の作業のなかで波羅蜜多と改訳した。
で、こちらがより正確らしい。
そういえば般若心経は玄奘の訳だが、
たしかに出だしは般若波羅蜜多であるな。
春の彼岸はこれから暖かくなり、
新しい命が息づくときだから心がほっこりする。
比べて秋の彼岸は美しく玲瓏で切ない。
墓参では、5年前にぼくの病をもっていくように他界した父親と対話しにいく。
対話といってもぼくが一方的に報告するだけだが、
ときおりさっと風がぬけたり墓の後の木がゆれるくらいだ。
寺に着いたのは10時すぎだが(三澤制作所から徒歩5分)
空はますます高く、泣きたいくらい美しい。
その空のせいだろうか、いきなり父親のみらず、
ぼくが関わり、ぼくが学び、
そして彼の岸に渡った人たちへの想いがあふれてきて、
涙がとまらなくなった。でもそれはぼくへの叱咤と激励に思えた。
だから、ぼくは空に向かって花束をふった。
もう何度も何度も書いたが、
心のなかに生かしているかぎり人は消滅しない。
そのことからぶれないかぎり、
彼らが心にいるかぎり死に臨んでは
なに一つ携えてゆけぬ此岸の旅で幾度躓こうとも
ぼくは幾度でも立ち上がるだろう。
巻雲の彼方 旅する人に
花のオベイションく
|
|
|

夏の終わりはさみしい。
今年は海を見なかった。
おことわりしておくが、この日記は異常に長い。
本来は数回にわけるべきだろう。
しかしめんどくさいので
この間、書き溜めたものを整理しつつ一気にアッブする。
内容はラボに関係あることも多いが
ほぼ関係ないこともある。
なんとなく推測して、おもしろそうなところだけ読んでほしい。
タイトル写真は東京青山の国連大学。
子どもの城のとなり、ようするに246号線の青山学院大学のむかい。
先週、ここで2日間にわたって開催されたESD地球市民会議に
技術サポートで参加した。


会場はかつての国連事務総長の名を冠した
ウ・タント国際会議場ほか。
ESD、すなわち持続可能な開発にむけた教育は、
それ自体言語矛盾ではあるけれど、
また、企業、自治体、NPOなどステークホルダー(利害関係者)
ごとのズレや一致しにくい状況はあるけれど、
いろいろ学ぶことはあった。
ちがうべ! と叫びたくなることもあったが、
さまざまに実践をしている
NPOやNGOからの報告はさすがにリアル。
なかでも西淀川の公害訴訟から生まれた
「あおぞら財団」の話はショックだった。
なぜなら日本人の根っこにくすぶる差別感情を
改めて考えさせてくれたから。

三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
長月。
今年も残り三分の一だ。
作品は”MOMOTARO”に題材をとめたもの。
いわずとしれた日本昔話の代表のエース、10番である。
描いてくれたのは戸梶璃音(小2/郡山市・山崎P)さん。
お名前は推測で申しわけないが「りおん」か「るね」と読むのだろうか。
絵はきわて力強くていねいだが
男性か女性かはさすがにわからない。
ていねいだから女性とはかぎらないし
男の子だからパワフルときめつけることもできない。
どちらか無理にきめろというなら男子に100ドル。
理由としてはすみずみまで力が落ちない精神的持久力か。
と、えらそうにいっていたら
「りおん」さんで、
元気な少女であることが判明。
ああ恥ずかし。
とにかく圧倒される作品である。
夏バテぎみで弛緩した魂をゆさぶりおこしてくれる。
フォルムも色彩も構図のバランスも描き込みのしつこさも
ただおそれいるばかりだ。
小学二年生7歳の作品だぞ。
自由闊達、天衣無縫。
それでいてゆるぎない造形のたしかさがある。
桃太郎の手の長さや家来の動物たちのフォルムが
一見、ふしぎに感じられるかもしれないが
「正確に描こう」などという邪念がまったくないから
かえって、ものすごいスピード感と
鬼が島へむかう迫力になった。
なかでも桃太郎の目力と
髪の毛の爆発がすばらしいぜ。
家来たちのかなりあぶない目つきもイカす。
全体に元気よく描かれているのはだれにもわかるが
ラフなようでいて、
じつは肝腎のところはていねいな仕事をしている。
さらに細部をよく見ると、かなり細かい筆が入っていて
キャラクターはもちろん、川の水面や草原、背景の山まで
まったく隙がない。
だからこそ、中心である桃太郎が
まるで3Dのように立体的になり
奥行きのある作品となって
より一層、力強さが増した。
色彩も同系の濃淡を緻密につかいながらも
スカッと抜けた、鮮やかさできもちがいい。

「桃太郎」の物語は、戦時中に利用されたことがある。
日の丸の鉢巻に鎧を身につけた完全武装で
鬼が島にむかう少年は
「鬼畜米英」にたちむかう報国の年少勇者としてかっこうのモデルだった。
そんな不幸な過去をぶっとばすかのように
この作品の題材となったラボ・ライブラリーでは
絵本を担当した本多豊國先生が
やんちゃで元気な
本来のワイルドボーイ的な桃太郎の本質部分を
見事によみがえらせてくれた。
その思いをきっちりうけためたこの戸梶さん。
絵を描くことはもちろん大好きだと思うが
この物語にどっぷりはいりこんでいることもまちがいない。
最近話題になったポスターに
鬼の子どもが泣きべそをかいていて
「ぼくのお父さんは桃太郎というやつに殺されました」
というコビーがついているものがある。
立場と視点を変えて考えることの意味をうったえたものだが
たしかに物語だけ裏返すと
桃太郎と家来たちは、
正当な報復攻撃のようではあるが
あきらかに無謀なテロを鬼が島にしかけ
鬼たちを全滅させてしてしまう。
そうしたことからその暴力性がとりざたされる物語でもある。
有名な文部省唱歌の歌詞も後半を略する場合があったり
福沢諭吉も鬼の宝をうばい
お祖父さんやおばあさんにあげたのは
私利的行為でよろしくないといったことを書いている。
さらには最近では「桃太郎」という呼称には
ジェンター・バイアスがかかっているという声もあり
それはいささか考えすぎな気もするが
シンプルななかにさまざまな思考を喚起する話ではある。
ただ、口承文芸研究の第一人者、小澤俊夫先生
(小沢征爾氏の兄で小沢健一の父)によれば
鬼が島攻撃についてもその描写はきわめて大雑把で
具体性がない。
どのように扉をあけさせたとか、
攻撃の詳細がない。
だからリアルな残虐性がないということだ。
また芥川や子規、白秋など多くの作家が
桃太郎を題材にした作品を書いている。
だから桃太郎は日本人の心の奥のほうに
なにかを語りかけるなんともふしぎなパワーがあるといえる。
そのことを最初に考えたのは柳田國男だ。
昔話のなかに日本の信仰のかたちを見ようとしたことは有名だが
桃から生まれた(別のかたちもあったようだが)小さな男の子
という異常出生と成長に着目し
桃、川、異界などのキイワードから
日本神話、さらには古代ローマの神話にまで論考をひろげた
柳田の研究は、後の多くの人類学、神話学における
桃太郎研究の先達となった。
さらに鬼について書けば…。
これはとっても長くなるのでやめておこう。
ともあれ、こむずかし話はぶっとばし
この迫力に満ちた桃太郎に毎朝元気づけられて
秋のはじめを大股で歩こうではないか。
夏のおわりを嘆いてぼやぼやしてると
「おい、寝てんじゃねえぞ!」
と彼にどやされる。
※シニアメイトと少年と力学

武蔵学園に勤めにでるようになって4か月が過ぎた。
基本的には月~金の850から1720まで
大講堂1階の事務室か書庫か展示室にいる。
1928年に建てられたそれ自体が文化財的建造物は
なかなかいこごちがいいが
宮澤喜一氏などの歴代の超大先輩の
オーラがいまものこっている気がして
なにやらおそろしくもある。
一昨日、その学園記念室に
シンガポールのラッフルズ高校の生徒が30名くらい訪問された。
引率の教員も3名。
きけば同校は国際交流に積極的で
校長どうしがなにかの会で知り合った際に、
教育談義で意気投合し、是非交流をとなったそうだ。
今回は他のプログラムで来日しているので
2時から5時の3時間だけの訪問である。
しかし興味深いというか、いたく感心したのは、
今日のプログラム、武蔵学園ツアーと交流会は、
段取りから実行まで全て両校の生徒どうしで行ない、
学校は報告だけきいて口も手も出していないことだ。
様子を見にきた武蔵校長の梶取くん(同期)にきくと、
彼も今日の午後くるということしか知らず、
基本的に生徒を信頼してまかせているというではないか。
そう、キャンプのシニアメイトもそうだけど、
少年はまかせればやるんだよね。
かつて少年は青年になる過程で、
それぞれの地域社会のなかで役割があった。
しかし戦後の経済成長、都市化、核家族化のなかで
少年少女は幼児からも高齢者からも断切させられ、
地域社会のなかでの役割も消滅していった。
生徒、未成年者として括られ、
活動領域も学校となかば強制される部活動、さらには塾に限定されていった。
すなわち社会の力学にタッチすることができなくなった。
そしてある日、突然に成人、おとなだといわれる。
ぼくは行政によって一律に行われる成人式は否定したい。
それよりも、段階をおって自立にむかって歩むための
体験を重ねる機会、プログラムを数多く用意するべきだ。
身体と同様に魂の成長にも個人差、個性があるのだから。
世界各地の先住民の多くはイニシエーション、
通過儀礼を段階的に持っていて、
それに日常のなかで年齢に応じた狩猟や採集、
あるいは農耕のスキルや祭事のマナーなどのOJTがある。
それは集団の持続に不可欠な世代交代を
順調に行うための知恵にほかならない。
社会の力学や上下の世代から切り離された少年少女は、
その生命エネルギーの出口を求めて時として逸脱する。
そうした若さによる逸脱はいつの時代にも存在した。
しかし現代ではその逸脱が、
とりかえしのつかない、
しかも救済性のない残虐で悲惨なかたちで終焉したりする。
ラッフルズ高校の訪問のホストリーダーをしていたのは高1の生徒だった。
当たり前のことだが、事前の連絡も共通言語は英語だけ。
また20名の武蔵の生徒はすべて希望者で中1も入っていた。
記念室で展示物の説明を求められたが、
あえて日本語でリーダーたちに伝え彼らが通訳するかたちにした。
なかなかやるじゃないか若い衆。
やはり成長したいと自ら思っている若者たちと
向き合うのが性にあっているな。
ラッフルズ高校はシンガポール建設者の
ラッフルズの名をいただく名門校(ホテルもあるね)らしい。ラ
ッフルズはイギリスの植民地づくりにがんばった人だけど、
世界最大の花を発見しその名を残している。そう、ラフレシア。
※『銀のしずく』そして『不死身の九人兄弟』
このところ長袖ででかけている。
そして昼間の雨が美しい。

金田一京助のアイヌ語研究に
大きく貢献し19歳で夭折した知里幸恵の
梟の神の自ら歌った謡
Kamuycikap Kamuy Yayeyukar
「銀の滴降る降るまわりに」
“Sirokanipe Ranran Piskan”
を思い出す。
冒頭を少しだけ引用する。
「銀の滴降る降るまわりに
金の滴降る降るまわりに」
という歌を私は歌いながら
“Sirokanipe ranran piskan
konkanipe ranran piskan,”
arian rekpo ci=ki kane
流れに沿って下ってから
人間の村の上を通りながら
下を眺めると
pet esoro sap=as ayne,
aynu kotan enkasike ci=kus kor
sicorpok un inkar=as ko
昔の貧者が今の富者になっていて
昔の富者が今の貧者に
なっている様だ。
teeta wenkur tane nispa ne,
teeta nispa tane wenkur ne kotom siran.
アイヌ語に文字はない。
ではあるが
文字がないことが文化が低いという、
とんでもない勘違いをしているやつがどうもいるらしい。
そいつのオツムのほうがやばい。
そもそも地域や民族固有の文化に
高低の価値をつけること自体が無意味である。
箸とフォークはどっちがえらいといっているようなものだ。
むしろ文字をもたない言語のもつ力強さ、
詩的感動力、創造性に、
わしら散文的日常をおくっている都市生活者は
深く頭をたれねばならない。
1991年の12月、とんでもなく寒い北京にいた。
中国語版の『はだかの王様』『ありときりぎりす』
『幸福な王子』『ブレーメンの音楽隊』録音のためである。
その橋渡しをしてくださったのは
ラボとの交流がある月壇中学卒業生の母親である平さんだった。
彼女は北京放送(ラジオ)日本語部のアナウンサーで、
もちろん日本語はぼくよりうまい。
北京放送日本語部に国際電話すると「
はい、北京放送日本語部です」という見事な滑舌とアクセントの応答におどろく。
平さんにきくと、当時20名ほどいる同部のアナウンサーで
訪日した経験をもつものは2名ほどだというのでまたびっくり。
吹き込みに参加してくれたのは「北京放送テレビ劇団」の人気俳優のみなさん。
忙しいスケジュールを割いて、
まる2日間5名が予定を組んでくれた。
リーダーの女性は李林さんといって
中国でも大人気となったドラマ「おしん」の
中国語版でおとなになったおしんの吹き替えを担当した大女優である。
録音の数週間前に中国語の台本を送った。
すると「今出でいる英語と日本語版のライブラリーも送ってほしい」
というリクエストが出演者サイドからきた。
「英語は少しだけわかる。
日本語はほとんどわからないけれど音で
演出のニュアンスをつかんでおきたい。
また、歌も数曲あるので中国語が
メロディにのるようにリハーサルしておきたい」という理由だった。
成田発の北京行きChina Airの最終便で北京にはいった。
第三回ラボ・中国交流で訪れて以来だ。
録音は翌日朝から始まった。
当時はまだアナログのオープンリール10インチテープを
38m/secでまわす。
だからTDKの録音テープだけでスーツケースをひとつつくった。
中国にもテープはあったが当時のクオリティはわからないので
持参したほうがいいと中国側から助言があった。
朝一は俳優でも歌手でも声はでにくい。
基本録音は午後か夕方からだ。しかし彼らはだいじょうぶという。
たしかにばっちり声はてでいるし、
なによりおどろいたのは、
ぼくらは集合時刻の30分以上前にスタジオ入りしたのだが、
李林さん以下出演者たちは、
それよりもさらに早く来ていて
ぎりぎりまで日本から送った英日版のライブラリーを聴いていたことだ。
もちろん実力はある人たちだから心配はしていなかったが
ライブラリーから各キャラクターの感情を見事につかみとっていた。
スタジオは廊下の天井が旧ソビエト型でやたらと高い(底冷えする)以外は、
まったく普通の録音スタジオである。
マシンがほとんどアメリカ製なのがおもしろい。
どうもニクソン外交の後にどっとセールスしたらしい。
台本はもちろん中国語。
録音演出をするぼくは中国語と日本語の台本をもった。
横に通訳とチェッカーとして平さんについてもらい、
読みちがえやアクセントなどもチェックしてもらった。
また彼女は前述したように日本語は完璧なので
日本語のニュアンスとのずれについても
気になった場合はぼくに伝えてもらうようにした。
はじめはたしか『ブレーメンの音楽隊』である。
テストをしてオーケーなら本番。
当時の日本でならエンジニアに
「本番です。まわしてください」※ここで録音スタート。
で「『はだかの王様』日本語版シーン1 テイクワン」
とクレジットをいれてから
(※後で編集するときわからなくならないように。
これはデジタルでハードディスクの今でも入れることが多い。
自動で番号付けも可能だが、
なかにはシーン1の二行目三行目だけテイクスリー
とかいうのもでてくるので、
やはり声でクレジットはいれておいたほうが無難)
キューランプを押すとブースのなかで
それを見た俳優が語りはじめるという段取りだ。
はじめのうちはいちいち平さんに訳してもらっていたが
「まわしてください」が「走(ツォ)」だとわかると、
すぐに連発するようになった。
2編録音したところで昼食である。
通常はいわゆるスタジオ弁当であるが、
さすが食は中国にあり。北京放送の職員食堂に案内された。
めったに入れないところである。
けして華美なつくりではないが整っていてちゃんと円卓がある。
それで簡単なコース料理がでた。
みんなガンガン食べている。やはりこのエネルギーなのだな。
みるとエンジニアの責任者の録音課長の女性がいない。
きくと、彼女はまだスタジオでチェックと次の準備をしているという。
※後できくと集中がとぎれるし満腹すると
聴こえ方がかわるので本番中は水しか飲まないといっていた。
うーむこれもまたプロである。
だが、驚くべきことにアシスタントの若い兄ちゃんが
大女優のとなりでだれよりも必死に食べているではないか
「お前、ボスがはたらいてるのにいいのかよ」と呆然としてしまった。
スタジオのお兄ちゃんは、
録音のトップに名前がでるようなエンジニアめざして
それこそくるくると動きまわり、
チーフのミキサーを助けてすべてに気を配り、
機械の準備から操作をこなし、
もしマイクに不具合があれば飛んでいってなおし、
みんなかず休憩しているときでも次の準備やこれまでの録音の確認など
だれよりもはたらく。
それによって技術や緊急時の対応、
アーティストととの接し方などを身につけていく。
でも、この目の前で昼飯をぱくついている兄ちゃんの仕事は、
なんとテープの録音ボタンを押すこととストップするだけ。
後の操作や調整などはすべせて録音課長がゃっていた。
したがって、演者と打ち合わせをしている間などは
彼はとっても暇なのでなんと新聞を読んでいる。
ありえねー。
天安門事件から2年後、1991年の話である。
共産党独裁でありながら事実上の市場経済につきすすみ、
個人財産の所有が認められていくなかで、
都市と地方、もてるものともたざるものの格差が広がるという
大きな可能性と矛盾のなかで、
出口のない若もの焦燥と無力感を見たのだろうか。
それでも長い昼食が終わり、
3編目の『幸福な王子』を終わると冬の日はすっかり暮れていた
おそらく19時近かったろう。
スタジオと俳優は48時間の契約である。
しかし、さすがに声も限界のはずだ。
どんなにきたえていても朝からこれだけやれば声もへたるし、
表現する力も低下する。
技術でカバーしても声に疲労感がにじんだら使い物にならない。
ぼくは、「辛苦了 お疲れ様でした。
残りの『ありときりぎりす』は
明日の11時くらいらゆっくりやりましょう」と伝えた。
するとリーダーの李林さんから提案があった。
「今日はとても楽しく仕事ができている。
みんなも気分がいい。
時間はまだ7時だから後3時間から4時間は録音できる。
この調子をくずしたくないから続けて録音したい。
そうすれば、われわれもあなたがたも明日は自由な時間がとれる」
「いや、きもちはわかるけど
ぼくの経験上はすでにオーバーワークだ。
契約をもちだして恐縮だが、
これはだいじな作品だからていねいに録音したい。
明日、別に録音させてほしい」
「では、これならどうだろう。
われわれの自由な意思として
またお願いとしてとにかく録音してみてほしい。
それで、どうしても気に入らない、
あるいは部分的に録音しなおしたいということがあれば、
明日もまた録音するということでどうだろうか」
たしかに彼らが「のっている」のはわかった。
「わかった。そこまでおっしゃるならやってみましょう。
でもくりかえしますが、これは日本と中国の子どもたちにおくる
友情のあかしの物語です。
単なる教材ではなく作品です。
それはあなたがたもプロの役者だからおわかりでしょう。
声に疲労感がでたりしたら、
その場ですべてNG。明日の朝からとりなおしますが、いいですか。
いっさい妥協はできません」
「もちろん。了解です」
そういいきった李林さんの目は
ふしぎなくらい静かに落ち着いていたが、とても力強さむを感じた。
夜11時、結果は脱帽である。
李林さんはトランポリーナをじつにわかわかしくすてきに
そしてナレーターをあざやかに語り終えた。
終了後、夜はふけていたが
みな名残おしく感想をいいあった。うれしいかったのは
「子どもむきということではなく、
子どもに届けるのだからこそ高い質のものを」
という思いを共有できたこと(例の兄ちゃん以外は)。
ちなみに例の兄ちゃんは延長戦がきまったときめまいがしたらしい。
そんななかでわかったのは、
彼ら北京放送テレビ劇団のメンバーはみな幼いときから
歌や演劇のみならず、京劇や民謡、
はては少林寺など伝統的芸能や武術をかなりしっかりと学んでいた。
やはりきたえかたのスケールがすさまじいし、
伝統から学ぶものの基礎力を思いしらされた。
わかれ際、李さんは
「明日はオフになったから家で次のドラマの台本を読みます。
リテイクする部分があったらいつでも電話してね」
「いい仕事だったわ。またなにかしたいわね」
といってから軽く手をふって
すらりとした長身を猫のようにしなやかにひるがえして
北京の夜のなかにきえた。
その二日後、李林さんや関係者をまねいて
ささやかな打ち上げを日本食レストランで行なった。
その席に参加した北京放送日本語部長の李順然氏と親しく話すことができた。
氏は日本生れで30歳まで赤坂でくらしていたとのことでほぼ日本人のようである。
彼に、次のライブラリーでは「アジアの物語」をつくることがきまっている。
韓国、インド、モンゴルのおはなしは概ねきまっているのだが、
中国の物語をなににしようかと検討している。
『西遊記』はすでにリリースしているのだが……、
という話をした。
すると氏は
「それなら、雲南省を中心とした文字をもたない先住民の
伝承話が想像性にとんでいるし、なんといってもおもしろいですよ。
文字がないがゆえに詩的ですし、
自然とともにな生きてきているから自由奔放です。
中国の文学や伝承話もおもしろいけれど
基本的には文字の国の物語です。
どうしても長いし漢字は概念をひっばってくるから
ラボさんのような音声作品ならやはり先住民のお話がびったりですよ」
これが『不死身の九人きょうだい』のヒントになったことはいうまでもない。
話は知里幸恵にもどる。
幸恵は1903年に登別のアイヌ(アイヌは人間という意味なので
アイヌ人という表記は同語反復になる。
ここではアイヌ文化をテーマにするので便宜上アイヌとする)家庭に生まれた。

祖母はユーカラクル、アイヌの口承叙事詩カムイユカラの謡い手。
カムイユカラは文字のないアイヌにとって、
価値観・道徳観・伝統文化を継承するためものであり、
幸恵はこれを身近に聴いて育った。
当時は明治政府の政策、旧土人保護法があり、
保護といいつつ、アイヌの土地没収、漁業・狩猟禁止、
日本風氏名への強制改名、アイヌの習慣風習禁止
日本語使用の義務により、
アイヌは明治時代以前の平和で穏やかなくらしから、
いろいろな意味での危機に追い込まれていた。
※日本の恥ずべき法律(いまではほぼ廃止になっているが)は数々ある。
治安維持法、旧土人保護法、国家総動員法、らい予防法、特定秘密保護法
だいたい保護とか維持とか予防といったdeffenciveな名称の法律は
国家権力の刃をかくすオブラート。
幸恵は小学校では日本語の学ぶまじめな生徒だったが、
日本人(軍人・開拓民)の アイヌ差別に悩んでいた。
幸恵が15歳のとき、金田一京助が彼女の家を訪ねる。
絶滅危機のアイヌの伝統文化を記録するためだ。
幸恵は金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、
カムイユカラ研究への熱意を理解するとともに
それまで刷り込まれていた「アイヌ(旧土人)は劣った賎しい民族である
という劣等感を
金田一のことば「アイヌ文化は偉大で誇りに思うべき」で払拭し
アイヌとしての誇りに目覚めた。
その後、幸恵はカムイユカラをアイヌ語から
日本語に翻訳する作業を東京の金田一宅で続ける。
幸恵は心臓病を患い、安静を告げられていたが
作業を続け『アイヌ神謡集』は1922年9月に完成する。
だがその日の夜、心臓発作のため死去した。19歳。
『アイヌ神謡集』は翌年、柳田國男編による『炉辺叢書』の一冊として出版される。
そして幸恵の弟である真志帆は。学者となりアイヌとして最初の北大教授となった。
幸恵の故郷登別には「知里幸恵 銀のしずく記念館」がある。
http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/
なお登別はアイヌ語のnupur-pet 濃い色の・河の意だ。
せっかくいい話なのに銀のことをアイヌ語で
shirokanipeというが、
この音には日本語のしろがねのバイアスがかかっているきがしてならない。
※俳句ingのこと 『ポアンホワンけのくもたち』

蟲とむとのちがいをしらべようと
『堤中納言物語』をさがしに大学図書館にまで散歩した。
大講堂からき5分ほどだ。
朝からの雨はあがっていつのまにか陽射しがもどってきている。
また蒸し暑いのは
かなわんと呻いたが
いきなり乾いた風に頬をなでられてたちどまった。
まるで年上の麗人に子どもあつかいされたような
気恥ずかしさと妙なときめきがあった。
人間のさまざな諍いも、祈りも喜びも悲しみも
いっさい気にかけることなく
季節はゆうぜんとめぐっている。
3号館むかいの大きな百日紅がかなり毒々しい花をつけている。
幹にふれるとツルツルで猿が滑落するというネーミングに納得した。
その百日紅の上の空がいつのまにか高い。
この風と空のせいで花の過激さも中和されている。
たぶん高積雲altocumulusだろう。
高さは2000mから7000mmくらいにできる。
いわゆる「ひつじ雲」はこの高積雲だ。
「いわし雲」や「うろこ雲」と混同されるが
ひつじ雲=高積雲は、いわし雲よりも
固まりが大きく底部が灰色になる。
知らない人はなんのこっちゃだが
『ポアンホワンけのくもたち』の雲の家族はこの高積雲である。
じゃあ、いわし雲やうろこ雲はなんだといえば
巻積雲 cirrocumulusである。
一時は絹積雲と書かれたが
現在ではまた巻積雲にもどっている。
いわし雲が家波と競うように
夕映えの地平までつづくようになれば
もはや秋、といっていいだろう。
でもこの雲は不連続線、すなわち前線の上部にできることが多いので
この雲がでたら3日以内に天気は
下り坂になる。観天望気のことわざにある
「いわし雲は雨」の根拠である。
いまも続いているかはわからないが
「ことばの宇宙」に「Let's Go! 俳句ing」というコーナーがあった。
※いまもあるのかな。
これは1986年に「ことばの宇宙」の編集責任者
(といっても部員なし)になったとき、
船長や宇宙人などのキャラなどといっしょに
ぼくがひねくりだしたものだ。
俳句というシェイプアップされたことばで
あざやかなイメージを切り出す、
あるいはてらしだす作業に
こどもたちにも挑んでもらいたかった。
だから五七五無視の自由律あり、季語なし季重ねもオーケーの
早い話がなんでもありのノーロープ、デスマッチ。
ただし、お題、テーマのことばをつかったものは
ばしばし落選にした。
で、やってみるととってもおねしろく。
だんだん投稿も増えてきて
とんでもなくおもしろいものがでてきた。
やはりこどもの感性、言語センスはおもしろい。
三年くらいたったとき、
優秀作品(ぼくが独断できめた)をあつめて
「殿堂」のページをつくり紹介したくらいである。
以下に記憶にある殿堂入り作品を紹介しておく
残念ながら、作者は当時の「ことばの宇宙」を見ないとわからない。
「」内はお題
ひとり旅 駅でばあちゃんまっていた
「夏休み」
おどろいた ぼくしんぐ選手 空にいた
「雲」
ふとんはね 夜になるまでひとりだよ
「留守番」
春風を まつ妹のランドセル
「一年生」
かあさんは 写真で見てもきれいだよ
「母」
※これはどきっとした。
北陸の たなかりゅうへい ゆきおとこ
「雪」
ありがでてくる 土
「土」
※これもすごい。
いつも題を考えてから
宇宙人と船長の見本をつくるのだが
それにたいへん苦しんだ。
句作はにがてだからである。
いまも唯一きにいっているのは
「ともだち」という題のときのもの
ごめんねと あしたいえるか いわし雲
|
|
|

三澤制作所の夏の研修慰安旅行は3年連続で長野である。
ICU Apostles夏合宿の応援をするというボスの個人的わがままから
ほぼ暴力的に「今年は長野県!」ときめてしまう。
そのかわり、過去2年は湯田中の露天風呂付き豪華旅館、
今年は自然食ホテルとやや地味だが、
E7系グランクラスで移動というサービス満点である。


今夏は宿舎を飯綱高原に設定した。
Apostlesの練習グランドまでは数分であり、
上智大学との練習試合会場にも45分ほどでいける。
8月9日、台風が西日本に接近していたが
あさま号は定刻に長野に着き、
さし入れのジュースも買って無事に現役選手たちを激励することができた。


飯綱高原は快適で、夜は宿でのんびりしていたが、
午後8時になって現役から連絡があり、
台風によるグランドへの影響、また安全上、
グランド管理者から明日の上智大学対ICUの練習試合は
中止との決定があった。
せっかく用意した試合撮影用の大型カメラは用なしである。
で、翌10日のスケジュールをどうしようかということになった。
ぼくのなかではこたえは出ていたが一晩待った。
「ともあれ、明日の天候次第。
ひどい荒れ方だったら朝いちばんで帰京という選択もある」などとつぶやき、
あいまいなままその日は暮れた。

飯綱高原は夜通し静かな雨。
夜が明けてもまだ降り続いており、
大きな窓からははるか雲の下に長野の町がぼんやりかすんでいる。
「一昨年も行ったけどラボランドへいこうと思う。
ここから30分程度で到着するから、
迎えの車がくる9時20分にでても10時過ぎには着く」
「ラボランドはかまいませんが、
あそこへいくとしばらくボスは遠い目になって、
その後は口をきかなくなるのでめんどくさいんですけど…」
「まあ、そういうな。たしかに一昨年は、
夏に黒姫かアメリカで子どもたちの成長の
パワーを受けていないという寂寥感、
さらにあのヒリヒリするような緊張感のなかでしか得られない生の手ごたえ
(ほとんど職業軍人か)をなくしたという喪失感を
めめしくひきずっていた。
そこにいない自分が悲しかった。
だが、今のわたしはちがう。あの夏でけじめをつけて、
学校法人という組織でそれなりに責任ある仕事に邁進している身である」
なんてかっこよく整理したわけではないが、概ねそんなことをいった。
「ではあるが、たろう丸という本部棟が老朽化しすぎたため、 この夏の終わりに建て替えのためとりこわされる。
この本部にはとにかく思い入れが強いので
最後の姿をこの目で観てカメラに納めたい。
試合中止はそうせよという天の配剤であーる」
「はいはい、わかりました。ようするにラボランドにいきたいんでしょ」
というわけで朝9時20分に宿舎を出発、
試合ではなく通常練習をしている現役諸君を
ひとこと激励してからラボランドへ。
戸隠をぬけようかと思ったが、飯綱から直に18号に出る道を選んだ。
「おおさわ」という黒糖まんじゅう(こずくまんじゅう)の
菓子屋で差し入れを仕入れたかったのだ。

ここは、ケーキもおいしく、
地元の中学生が開発したブルーベリーケーキなどもおいている。
ただ昨年、先代の社長が他界して娘さんが後をつがれたが、
大量生産ができなくなり駅売りなどをいっさいやめてしまった。
だから、この北国街道沿いの店でしか買えないのだ。
その「おおさわ」でロールケーキを手に入れ
ラボランドへと18号線をいそぐ。
黒姫駅入り口を過ぎ高原方向に左折。
柏木立の五叉路を左折。町営グラウンドでは陸上競技の合宿。
なぜか陽がさして黒姫山が半分以上姿を見せる。
あと500メートル。
スタッフの手前、口にはださぬが妙に心がさわぐ。

一昨年も書いたが、30年以上も、
おおげさにいえば命がけでむきあってきた仕事の
ひとつの象徴であった場所。
しかもその世界に没入することになったきっかけの場所に対して、
そんなにかんたんに無感動になれるはずもないし、
すっきりできるわけもないと心のなかで開き直った。
ある意味、長い片思いの恋愛、
ゴールのない恋愛(ラボ活動自体がそうかも)を
いまだにひきずっているのだ。
しかし、そんな尻尾みたいなものがあることが誇りでもあるし、
それが今の仕事や行動のひとつの基準になっていることも嫌いじゃない。
「山田さん(ドライバー名)、くれぐれも超徐行でお願いします。
幼い子どもたちがとびだすかもしれませんから」
やさしくいったつもりだが、声の調子で空気をつかんだのだろう。
ラボランド入り口で左にハンドルをきる山田さんの手が
ぐっと緊張したのがわかった。
ラボランド内は静かである。
本来なら3日目プログラムのまっさいちゅうのはずだが、
天候急変を考慮してロッジ内での展開、
すなわちコーチやシニアが協力しての
出前方式Bプランで行なっているようだ。
このへんのリスクマネジメント、臨機応変対応力は一朝一夕にはできない。
長い組織体験によって陶冶(とうや)され、醸成されてできたものだ。
こういうことがきちんと伝達されていくことがだいじ。
グルンパ城にあがると取締役の上島氏が
歯を磨きながらやあやあと出てきた。
たぶん昨夜も遅くまで作業して遅い朝食だったのだろう。
わがスタッフを紹介して上島氏にあずけてから、
ロールケーキと小さなカメラをもって外にでる。
グルンパ城前ひろば(正しい呼称)では永田大統領がひとり空を観ている。
「11時からのバザーは外でできそうだね」とあいさつすると、
いつもにこにこしている永田大統領が
さらにくしゃくしゃの笑顔になった。
いい大統領だ。
そのまま「たろう丸本部」前にいくと、
木原村長がやはりにこにこしている。

うまいことに、ラボっ子やテューターのみなさん、
そしてコーチやシニアはみなロッジ内。
目立ちたくなかったのでちょうどいい。

本部に入り、総務の松村さんにロールケーキをわたす。
そしてすぐ外に出て木原村長にたろう丸の工事計画などをうかがった。
「たろう丸本部」のたろうは、
いうまでもなくガールフレンドのゆきちゃんの誕生日に
花とアイスクリームをもって(なんというおしゃれさ!)、
あらゆる社会規範をぶっとばしながら
ペットたちとともに全力疾走するStop! Taroの「たろうくん」である。
彼の「アイスクリームがとけちゃうんだ!」という緊急性は、
いまいそがなければ「日本がとけちゃうんだ!」という叫びにおきかえられる。
あの物語の本質を交通安全指導と思っている人はいないだろうが、
彼の「いま!」という緊急性は「眠りやすい」ぼくたちの警告への魂を
いつも覚醒させてくれる。
その「たろう」がラボ・キャンプ本部の象徴である。
キャンプにおけるすべてのincidentや人的なミス、トラブルは
原則としてすべて現場で解決しなければならない。
いまでなけりゃとけてしまうのだ。

かつて日本人は将来リッバに育ってほしてものに「丸」をつけた。
船しかり、刀しかり、武士の幼名しかり。
そして、たいせつな建物にも丸をつけた。
本丸、二の丸、三の丸。
たろう丸は、かように伝統と常に先頭で疾走する男の子の合体なのだ。
だが、キャンプの主役は本部ではない。
すべてのキャンパーひとりひとりが主人公である。
いいかえれば本部はキャンパーはだれもが元気でひたむきな
「たろう」であれかしという願いでもあり、
その象徴的総称でもあるように思う。
思えば、ぼくがはじめてラボランドにきたのは1974年の正月。
まだテーマ活動をキャンプではやっていないころのウインターだ。
その年の夏にはまるまる過ごすことになるのだが
当時のたろう丸は現在の建物の10メートルくらい下にあり、
平屋のしかも工事現場のようなプレハブだった。
さらに驚くべきことに冬期の積雪の重みで
尾根のまんなかの梁が湾曲していた。
広さも現在の半分以下だった。
この本部でのぼくの最大的衝撃的体験は1974年のちょうどいまごろである。
7班という一週間の長期キャンプで、
参加者もシニアも事務局も少数で運営していた特別な時期だった。
ぼくたちがミーティングのようなこと
(まじめにやっていたのだが彼には稚拙にみえたのだろう)
をしているところに、派手なアロハシャツ(今思えばビンテージもの)を着た
長身の「専務」とよばれている男性がはいってたきた。
そしていきなり、「そんなくだらない話し合いはやめて休んだらどうだ」
みたいなことをいった。
ぼくは、彼の入ってきかたからすでに気に入らなかったが、
そのひとことでぷっつんした。
しかも少し酔っていらっしゃるようだったし。
で、ぼくは(ことわっておくが当時ぼくは大学3年生でまだラボ事務局ではない)「専務だがなんだかしらないが、いきなり酔ってはいってきて
そんなことをいわれるおぼえはない!」と叫び、
その場のシニアメイトたち全員(7名くらいか)をひきつれて
本部をとびだしてしまった。おそろしいことである。

その長身の男性が「らくだ・こぶに」であり、
詩人にして思想家の「あの、原点の、工作者の谷川雁」
であることを知ったのはその夜である。
ぼくは、そのころ彼の詩はほとんど暗誦していて本も少しは読んでいた。
だが、はずかしいことにたぶん顔写真なども観ているはずなのに、
詩を書かないと宣言してからの氏に興味をうしなっていたために、
まったく、そしてまさかこんな所で会うとは思わなかったのである。
ぼくが造反して本部をとびたした後、
谷川氏は当然にも激怒されたそうだが、
ある事務局員の方がけんめいにとりなしてくれて
ぼくは退村をまぬがれた(そのことは夏の終わりにきいた。
件の恩人は後にお名前がわかったが今は書かない)。
ともあれ、ぼくはおそろしい怪物にけんかを売ったなと覚悟したが、
まあこちとらなんも恥じ入ることはしていない。
あやまるべきはむこうと腹をくくっていた。青いね。
その後、キャンプのうちあげに彼も参加し、
そこでなぜか挑発するようにぼくのとなりにすわられた。
でも例のことにはなにもふれない。
そのうちに場はもりあがって歌がではじめた。
谷川氏はそんな若者たちをにこにこみている。
すると、何名かがぼくに歌えとリクエストし、
そのころぼくが勢いでつくっていた
キャンプの歌を弾き語りで歌うはめになった。
さすがにこの難解のかたまりのことばの魔術師みたいな詩人の前で
しょぼい歌を披瀝するのはつらかったが、ええまよと歌った。
歌は、子どもたちがきて、そしていなくなる。
薄暗い森のなかに紫陽花の青が浮き立つ夏のはじめから、
アキアカネが黒姫山頂にとびかう最終キャンプの最終バスがでる
(それを走っておいかけていくというくさい歌詞!)
までを歌った「紫陽花の青が」というものである。
歌はみんな酔っているからそれなりにうけた。
ぼくは冷や汗にうめきながら席にもどった、
もちろん詩人のとなりである。
すると、いきなり詩人が「うむ。悪くはない。
だが、秋は近いという最後のフレーズはよくない。
春は近い、とはいっても、秋は近いとはいわない」とぼそりといった。
その時点で「恐縮です。ありがとうございます。
ご助言、勉強になります」とかいっておれば
まるくおさまったのだろう。
でも、またぼくは、オリジナルの自分のことばを否定されたと勘違いし、
礼をいうどころか「でも、これはぼくのことばですから」といいかえしたのだ。
すると「きみのことばといってもだな…」と詩人はさらに続けたが、
その先は記憶がとぎれている。おそろしや。
その秋からぼくたちはラボをもっと知ろうと
テーマ活動を自主的にはじめたため、
ラボセンターにちょくちょく出入りするようになった、
いろいろな事務局員の方たちと仲良くなって
バイトをしたりもするようになった。
谷川氏ともときどき顔をあわせるようになったが、
ある日、彼がたぶん気まぐれだろうか、ぼくを食事に誘ってくれた。
最初はたしか事務局員の方1名を交えた三名だったと思う。
それがけっこうな頻度、まあ月に一回くらいあるようになった。
ときには一対一というシリアスな状況もあった。
しかしどんな人数の席でもたいていは彼が一方的に話し、
その知識の分厚さと想像力の巨大さ、
さらにことばの選択の鋭さに、ぼくはうちのめされつつ目をかがやかせ、
この怪物からできるかぎりのものを吸い取ろうと試みた(無駄な抵抗)。
そんなことから、いつまにか
自分の事務局員募集要項を自分で書くはめになるのだが、
1974年の出会いから1976年にラボ事務局に入るまで2年強は、
今思っても濃密であり激しくあり青くもあり、熱くもあった(今も熱いけど)。
ふと思うのは、あの「秋は近い事件」のとき、
彼にくってかからずに礼をいって迎合するような態度だったら、
きっとその後の展開はかわっていたような気がする。
なかなか話がたろう丸にいかないが、もうひとつ詩人のことを。
ぼくたちシニアメイトが最初に取組んだテーマ活動は
『ありときりぎりす』だった、
そして2作目が『ポアンホワンけのくもたち』。
あの岸田今日子さんの語り、「三月、なんというゆうやけでしょう」
にしびれてしまったのだ。間宮先生の音楽、元永先生の絵もすごい。
このころはさすがに鈍感なぼくも、ラボ・ライブラリーが
「英語教材」などとくくれるものではないということを感じはじめていた。
しかし、いざ取組んでみると『ありときりぎりす』のようにはすすまない。
すぐに「こんなの劇にできないよ」
「いやいやテーマ活動は劇じゃねえって、みんなわかってんじゃん」
「人間は雲になれねえよ」「この物語つくったやつだれだ」
なんていうぼやきがではじめた。
ただ、つまらない物語だというやつはだれもいない。
ことばの強さと美しさ、物語の力にはすなおにならざるを得なかった。
劇のしやすさだけをいうなら学校劇の台本でももってくればいいのだ。
すぐには動けない、抽象的なものをどう表現するのか、
英日という二重表現のふくらみと錯綜のはざまでどうあるべきか。
なかなか具体的に動けない、その煩悶と試行の繰り返しこそが
テーマ活動がすぐれて知的な活動であることの証左である。
ライブラリーの聴き込みが進むにつれ、
そんなことがコンセンサスになってきた。
当初は、登場するものすべてを表現しようと物語をなぞるように動いた。
ツルや虹はもちろん、ヨットまでもいわゆる身体表現であらわそうとした。
だがそれも次第にそぎおとされていった。
そうテーマ活動は、物語を聴き込み声にだすという言語体験を積み重ねながら、
物語を再表現するなかで最大にふくらませ、
そしてシェイプアップさせていく、
まさに文学や音楽、美術といった芸術の道筋ときわめてよく似ているといえる。
そんなわけのわからぬ話し合いをしつつも、
ぼくたちの『ポアンホワンけのくもたち』は発表をむかえた。
会場は昔の「ラボ・センタービル」、東京医大のむかいの7階。
観客は事務局員のテューターの方がた。
近隣のラボっ子たちもいたと思う。
そして谷川氏は下手側の比較的前のほうで観ていた。
まあ存在感がすごいからやりにくい。
発表はなんとか終った。
とにかくみんなよく聴き込んだので、ことばとしては力があったと思う。
観客はけっこう元気に拍手し、
谷川氏も大きな動作で静かに拍手をされているのが見えた。
その流れだと彼がたちあがって
なにやら寸評をすることが予想された。
観客もぼくらもその中身がこわかったが、
一方でどんな感想をもったかをききたいきもちもあった。
だが、彼は周囲に長身をかがめながら一礼するとそのまま退出した。
「寸評にもあたいしないということか」と思ったメンバーもいた。
だが「あの拍手の仕方はなにかを認めた拍手だ」とぼくはいった。
「儀礼的な拍手をする人ではないさ」
と続けたが、そのころから「テーマ活動指導」みたいなことを、
賛否両論あるなかで彼がはじめていたころなので
ちょっと肩すかしだったのだ。
その数日後、氏に食事に誘われた。
彼が事務局員とふたりで飲んでいる席によばれたのだ。
そこで彼はぼくたちの『ポアンホワンけのくもたち』について話はじめた。
でも、その内容はぼくが想像した「おれはこんなきもちで書いた」とか
「この物語の肝は…」といった話ではなかった。
それはぼくたちが話し合っていた
「動きにくい、いわゆる劇にしにくいクリプトと向き合う、
いわば知の格闘のもつ教育性」や「表現をそぎおとしていくことの詩的感動」
といった内容であったので、
ぼくは自分たちの話し合いや活動を
すべて見透かされていたような気になって寒気がした。
そんなぼくの震えにはおかいまなく谷川氏は
「きみは火山の役をやったたろう。
そうあの火山は元永さんも遠景として描いている。あれはなかなかいい」
たしかに悩んだすえ、ぼくたちは火山をやった。
だが、それはぼくひとりが下手であえて観客に背中を見せ、
だまって腕組みをしたまま足を肩幅に開いて
雲たちのほうにむいて立つというだけのものだった。
「あのすっと立つ感じがたいせつだ。
きみたちのことだから、数人で火山のようなかたちをつくり、
はい火山でございますみたいなことをすると思っていたが、
そうだったらほぐは拍手をしなかったろう。
あのすっと立つというのは悟りにも似ていてよろしい」
いやはや人手がないのででっかい山はつくれない。
でも、物語上、雲たちにむかう「なにか」として表現したみたい。
そんなところでやむなくやったのに…。
ただ、彼のその「すっと立つ」は、
しばらくほくのなかにいていろいろ考えさせた。
「でも、なぜあの場でそのことをおっしゃらなかっのですか」と
命知らずな質問を最後にした。
すると氏は、「うむ、あの場でほめるときみたちは、とくにきみは、すぐ頭にのるからな」
先をすすめよう。1976年、ラボが10周年をむかえるとき、
その祝賀のひとつとして「たろう丸本部」が新築された。
5月、上棟式が古式にのっとって行なわれ、
地元の関係者をはじめ、東京からもテューター代表、
関連会社の役員などが参加した。
そこで、ちょうど記念ライブリーとして発刊された
『三本柱』のテーマ活動も発表された。
そのときは5月の連休で、ぼくも卒論で忙しいのにのこのこでかけ、
勢いで発表することになってしまった。
だが、そのときともに発表した事務局員2名は、
ふたりとも後にラボとは別組織にいってしまった。

それが現在のたろう丸である。
ここの想い出を書き出したら、いいこともいやなことも含めて
新書本数冊のネタがある。
コーチ、コーディネーター、大統領、村長を
春夏冬のキャンプで延べ何回やったろう。
おそらく100回はこえている。
そんなことをふりかえりながら、
思いをこめていくつかの方向から写真を撮った。
すると、たろう丸に出入りした多くの顔、
流れる星の数にまけないほどのたくさんの仲間達の顔が次々とうかんできた。
まずいなあ。涙腺の弱さは年齢の比例するのか。
なので、木原村長と永田大統領と写真を撮った。シャッターは松村さん。

まだ、だれもキャンパーやロッジマザーは外に出てきていない。
そろそろおいとましたほうがよさそうだ。
グルンパ城にもどり、上島氏とならんで写真を撮ってもらう。
どうやら三澤制作所のスタッフは
上島からだいぶ、ぼくの話をきかされたようだ。

帰りの車のなかでマネージャーがいった。
「一昨年の久下さんのときも思いましたが、
草創期から熱く仕事をして、
ときには本気で意見しあったおじさんたちって、
なんかすてきですね」
「なんだよきもちわるい。なにもでないぞ」
「三澤の話は100いわれたら2くらいきいて、はいはいっていえばいいって
上島さんがいってました」
「………」
おまけにFacebookには書かなかったことを書く。
ぼくがラボに入社したのあたりのこと
(卒論を出した日にセンターによったら谷川氏がエレベーターの前にいて
「明日からこれるな」といわれたことなど)は、これまでも触れた。
だいぶ後でわかったのだが、ぼくの入社は本人の意志とは無関係に
ほぼ決まっていて、
そんな背景から谷川氏は「自分の募集要項を書け」といったようだ。
なにを観たかったのかわからないが、
一応まじめに書いた要項を彼に提出すると
「きみは表現をあせりすぎるきらいがある。
まあ、それも若さか。いずれ気づくだろう」
とだけいわれた。
結局、大学院進学や留学なども含めていろいろ悩んだが
子どもたちの現場、そしてライブラリーの魅力を選んだ。
ご親切に「ラボは給料やすいからやめなさい」
という人もいたがぼくは決断した。
さすがに莫大な財産はつくれなかったが、
得難い体験を交流活動で、そしてライブラリー制作ですることができた。
自分の名前がでなくても
自分が手がけた作品が残るのはとんでもない幸せである。
で、ぼくが書いた募集要項にしたがって入社選考は
「ラボについての自由作文」と面接であった。
そのときの応募者は、ぼくと上島氏、昨年定年退職された木村氏、
これらはすべてシニアメイト経験者。
そのほかにたぶん縁故の方がひとりいらしたと思う。
※久下氏や杉山三四郎氏(現・「おおきな木」店主)は、そのときは
「事務局にはならん」と抵抗して応募しなかったが、
結局、その一年後に入社した。
面接は同じ日に二回あり、さいしょは人事部長と
当時広報室長だった定村忠士さんによるものだった。
定村さんは谷川兄弟の末弟、吉田公彦氏と東大仏文の同級生であり
日本読書新聞の名編集長を経てラボの広報の責任者になられた。
たいへんおだやかで知的でスマートな方であり
ぼくは「憧れ」という意味では谷川氏より定村さんに近づきたかった。
初期のラボの広告コピーや、らくだこぶに名以外の『ありときりぎりす』
などの日本語は多くは定村さんの作品である。
彼が、谷川氏とともに「十代の会」にでていってしまったのは
とても悲しかった。
その一次面接は、じつに一般的でふつうのものだった。
ぼくは「転勤してもだいじょうぶか」くらいしかきかれなかった。
といのは志望動機などは作文にびっちり書いていたからである。
そして最後が社長である榊原陽氏と谷川雁専務理事兼制作室長による
いわゆるトップ面接である。
ぼくの順番は最後で、朝9時にはセンターにいっていたのだが
ようやく最終面接の会長室によばれたのは午後5時をまわっていた。
さすがに緊張して入室すると
なんと、榊原氏はすでにいなかった
(所用といわれたがどうも帰宅したもよう)。
ひどい話である。
部屋にはソファーに谷川氏がひとりどっかりすわっていて
さすがに彼も疲れているようだった。
まあすわれというので「では失礼します」と腰をかけると
谷川氏はいきなりネクタイをゆるめながら
「どうかね、今回の企画は」
といいだした。面接だろ!
「企画というと今回の事務局員公募のことですか」
「そうだ。このところしばらく新入社員をとっていなかった。
でも、ラボはまだ10年足らずだが、
会社としては新しい力をいれて新陳代謝をしていかねばならない。
それを考えたとき、シニアメイトとかラボっ子とか、
身体をとおして体験を通してラボを学んだ者たちに
事務局員というバトンをついでいってもらいたい。
と思っている」
「(心のなかで)それなら最初からそういえばいいのに」
「そうですか、志あることばの宇宙の乗組員募集ということですね」
「うむ。ラボはまあ宇宙みたいなもので、どこがまんなかかわからない。
それほど広いものだし、広くなくてはならない。
ラボっ子もテューターもひとつひとつが燃えて輝く星だ。
だから、ラボの宇宙で燃えて輝いていれば、そこが中心だ。
中央もはじっこもない。
ただ燃えているもののなかにしかラボはない」
「それはその通りだと思います」
そのあと、なぜかほんものの宇宙論になった。
それで30分もたったろうか。
谷川氏は「はい、これくらいにしとこうぼくも疲れた」
「えっ、面接はいいんですか」とはきけなかったので
では、失礼しますと席を立つと
「あっ、三澤、まちたまえ」
「はっ、なんでしょう」
「ひとつ、たのみがある。知っての通り木村くんが関西からきている。
ホームステイの塩梅をたのむ」
「それはぬかりありません」
このわずか3年後、ラボは組織混乱と分裂という
創設以来最大の危機をむかえる。
これも異常なことだが、結果として創業に関わった2名が
ラボを去って別の教育事業をはじめるという事態になった。
榊原、谷川という強烈な個性がスパークして生まれたラボは
皮肉にもこの巨星ふたつを宇宙にとめおかなかった。
というより、確かにラボを創業したのは彼らであるが
ラボはその本質として、まるで太陽や月、
学問や芸術のように
人間とは別に存在する大きなもの、
すなわちだれのもでもない、
創業者であろうと好き勝手ちはできないものに
成長していたのだ。
そして
方法論、言語論、表現論、組織論が異なっても
その差異を認め合い歩み寄ってより深いものをつくりだすのが
ラボ活動の本質であったはずだ。
自らの思いを実行するために踏みとどまって闘わずに
新しい宇宙に逃走したこの2人は
はっきりいえば、信念からの逃走者だ。
いまなおラボ創業者としてのリスペクトをのこしつつも。
ぼくは確信している。
信念からの逃走者にぼくたちは絶対にまけない。
|
|
|

三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる。
なんとまあ八月葉月である。夏活動まっただなかである。
フェイスブックには毎日のように
キャンプや 国際交流の現地写真がアップされる。
それを眺めつつ、無事と成功を祈りながら、
やはり「そこにいない自分」を
いまだに引きずっていることにおどろく。
虎の縞は洗っても落ちないし、
パンダは温泉に入ってもシロクマくんにはなれないのだ。
というのも、おそらくはこの夏という季節に!
自分自身の成長があったという思い込みが激しいからだと思う。
キャンプや国際交流でラボっ子たち は大きく育つ。
心の筋トレみたいな季節だ。
「男子三日会わざれば刮目してみよ」ということばがあるが、
キャンプなどはまさにその通りである。
ろくに朝ご飯も食べなかった子が
いきなり山盛り3杯のおかわりをするようになったり、
いつもは部屋のすみで目立たなかったあいつが、
なぜかどまんなかでキャンプソングをリードしだす
なんて魔法みたいなことが短い期間でおきる。
まあロミオとジュリエットの物語も真夏の4日間だかんね。
しかし、そうした子どもたちにむきあう
シニアメイトやコーチたちも
じつは子どもたちの成長ベクトルをもらって
さらに大きく成長する。
準備で入村してきたときには
都会の日常をあちこちにぶらさげて
「おまえだいじょうぶか」といったシニアメイトが、
子どもたちを送り出して退村するときには、
つかれきってはいるが、折れそうな少年少女から
凛々しく輝く青年の顔になっている。
で、そうした彼らとむきあうぼくたちスタッフが
結局はいちばん成長させてもらったのではないかと
今も信じている。そりゃそうだ。
数百名のキャンパーの成長ベクトル、
そしてそれによって増幅されたシニアとコーチのベクトルを
まともに浴びているわけだからね。
夏はやっぱり特別な季節なのだ。
ふりかえれば30年近くキャンプか国際交流か
ライブラリー制作のスタジオにいたので、
今こうして夏休みで人のいない学校に
毎日でているのはどうも変な感じである。
ぼくは、キャンプでも国際交流でも制作でも
「自分がいちばん成長する」といいきかせて仕事をしてきた。
キャンプの大統領でも村長でも引率責任者でも団長でも、
制作の現場責任者でも
そこにかかるプレッシャーとストレスは
マゾ的快感になってしまうのではないかというほどのきびしいものだ。
人の命と未来、多くの費用と思いのつまった作品に対する責任はすさまじい。
だからこそ「この仕事で成長するのだ」と
自己暗示に近いうめきをかかえて夏を過ごしていた。
「子どもたちのために」というのは簡単であり、口あたりもいい。
だが、会社のためにとか、 なんとかのために
というのやちり、ひねくれもののぼくは
基本的にうさんくさいと思っている。
「自分の満足と成長ために」がんばるのだ。ただその まなざしと心ばえのまんなかに子どもたちがいるのだと思う。

さて、やっとカレンダーの話である。
今月の絵は出た!
大塚勇三・文 丸木俊・絵の名作絵本『うみのがくたい』に
題材をもとめたものだ。
描いたのは原口真帆さん(小6/川崎市・若槻P)。
いやあ、めくった瞬間、どたどたの仕事場が一瞬に海になった。
そのうちにほんとうに夕焼けになり嵐になるのではないかと
心配になったくらいだ。
ひさしぶりに高学年の子の作品だ。
さすがである。かなり力をつかっていると思うが、へんな力みがない。
バランス、構図、タッチ、色づかい。
それぞれほめねばなるまい。
さらにすごいのは、どこも手を抜いていない。
あたりまえのようだが、絵でも文章でも、
すみずみまで緊張感を持続させるのはたいへんなことなのだ。
体操競技でいえばつま先までそろって、
ひねりをいれながら着地もきめるというやつだ。
どこかでさぼっていないかとあら捜しをしたがむだだった。
まったく隙がないし、すみずみまでしつこく描き込んでいる。
しつこくというと悪い表現にきこえるが、
このしつこさはすばらしい。ほんとうに絵が好きなんだろうなあ。
クジラやイルカやサメやほかの魚たち、
そして水夫たちや楽器、それぞれのバランスはだれがみてもわかるが、
やっぱりきもちがいい。そしてこの色彩である。
この物語のひとつの肝である「音楽」を
真帆さんは色彩で描きだしてしまった。
はっきりいって、この物語はカレンダーでは
過去に名作がいっぱいでているので
入選するのはなかなかたいへんなモティーフである。
さらに年齢からいってこのくらいバランスをとって
描けている作品はきっとほかにもあるだろう。
だが、このリズムとメロディがあふれるような色づかいと
彩色の仕方はきわめて魅力的だ。
しかも動きがある。水夫たちも、さかなたちも踊りだしそうである。
そして、この絵は美しく、やさしく、しかしどこかさみしい。
それは、この物語のもつ海にきえた命への鎮魂という
メッセージを真帆さんなりに受けとめ、
さらにこの殺伐とした方向にむかおうとする
日本と世界への思いを
「叫ぶように」描き込んだのだろう。
だから、やさしい絵なのだ。
だが、一方ではげしい絵なのだ。

昔、高島海の学校というのがあった。
その島の漁師がいった。
「海はこわいところだ。多くの命が帰ってこない。
でも、命の生れるところだ。
命がかがやくところだ。
だからおいらは海にでるんだよ」
このことばをきいたのは1981年。
その20年後の2001年、ぼくは『十五少年漂流記』という物語に紡いだ。

さて、上はおっさんが4名食事をしている
おもしろくもない写真である。
しかし、ぼく以外の三名は大変な人たちである。
左から奥田晴樹博士、専門は近世日本史。
金沢大学で長く教授をされていたが現在は立正大学教授。
そのとなりは佐藤信博士。
専門は日本古代史で東京大学大学院教授。
おそらくこのなかでは一番多忙。
PCのメールにはなかなか返事をくれないが
携帯メールかLINEではすぐ返してくる。
この博士の妹は日本の女子プロテニスプレイヤーの草分け
佐藤直子選手。
で、えらそうなぼくの奥にいるのが植村泰佳武蔵学園理事。
電子商取引組合の役員もしていてやはり多忙。
この人の父上は物理学者の故植村泰忠東京大学教授、武蔵学園長。
さらに祖父は植村甲午郎元経団連会長。
なんていうカタカギにビビるぼくではないが
歴史にはほとんど素人のぼくに
教育史の仕事をするのなら
歴史のいろはのイくらいはご進講申しあげようと
食事勉強会を開いてくれたのだ。
なんで、そんな人たちがといえば簡単で
全員高校の同級生であるのだ。
ありがたや。
歴史には歴と史がある。
歴とはまさに事実の積み重ねだが
歴として生きても史となり得なかった多くの人びと
つまりぼくのようなきわめて一般人たちの
思いや祈りや喜びや叫びに
最大のリスペクトを持って思いをはせる
そんな志がなければ歴史を学ぶ意味はない。
うーん。
ほくは日本の教育史を
大正末期に生まれた旧制七年制高等学校とその時代、
そして戦中の学校、
さらに戦後の学制改革を
きわめて個性的な一私学の窓からとらえかえし
日本のリベラルアーツの流れと行方を記述しながら
未来にむけた提案をしたいという野望をもちはじめた。
ラボもまもなく50周年を迎える。
その祝い方を云々する立場にはもはやないが、
50年という月日に歴と史を積み重ねてきた
ラボっ子、テューター、事務局員、そしてサポーターたち
さらにさらに物語たちを
包み隠さず記述し、
ラボ教育活動の本質とはなんだったのかを
しっかりととらえかえすことが
これからの50年の礎になるはずだ。
もちろん解明できない部分も多々あるだろう。
たが、それもラボ教育活動の特徴である。
ラボ50年史はありきたりな年表や組織史ではなく
多くのすばらしい歴と史が歌う
内容で誇れるものになるはずだ。
なんて偉そうな話を先月、本部でしてきた。

ぼくが仕事をしている学園記念室は
大講堂の一階にある。
この大講堂は大隈講堂や日比谷公会堂を設計した
早稲田の建築家佐藤功一氏が1928年に造ったものだ。
それ自体文化財的価値があるが
なかにはいるとシンプルで舞台周りには
横に時計があるだけで校訓や校旗もない。
国旗もない。
というより式典で国旗が掲揚されたり国歌が斉唱されたりということが
現在はもちろん、創立直後の一時期を除いてほとんど記録にない。
当時の校長や教頭、一木喜徳郎や山川健次郎、
山本良吉らは、
それほどいわゆるリベラルな教育者ではなかったのにだ。
山川健次郎は日本最初の物理学者であり
合理的発想ができた人だが、
会津白虎隊の生き残りであり古武士の魂の持ち主だった。
また山本良吉は西田幾多郎、鈴木大拙と旧四高で暴れまわった
教育哲学者、道徳者で、厳しい訓育的教頭であった。
しかし、彼らは官立ではない私学という独立した教育空間に
国家を代表する旗や歌は馴染まないと考えていたようだ。
戦時中も『御真影』を掲げなかったのもおもしろい。
教育の本質に自主、独立、自由があることを
確信していた者たちは
少数ではあったが日本各地にいた
その人たちがもう少し数としてメジャーであったら
日本が進んだ道は違っていたかもしれない。
愛国心を養う教育が提唱されて10年以上たつ。
また自民党が示している憲法改悪案には
家庭を愛し、地域を愛し、国家を愛することが
国民の義務として記されている。
家庭を愛する延長で国を愛するという
反対しにくい論法で組み立てたずるいやり方だ
しかし、なぜその家庭愛から始まる愛の延長と拡大が
国境を越えて世界へ人類全体に広がらないのか。
ここがこの草案の弱点であり知性と品性のなさである。
愛国より愛人類、愛世界だろうが。
そもそも日本という歴史的にも地理的にも
限定することが難しい地域を
世界にむきあってたかだか100年そこそこの国家という枠にはめこみ
それを愛しなさいという限定愛が無茶なのだ。
右とか左とかいう問題ではない。
第一、民主主義においては
国家は国をまとめるものがないと混乱するので
やむなく仕事を国民が与えた装置のようなものだ。
その装置は仕事として法律をつくることができるが
暴走してはまずいので憲法が押さえ込む。
これが立憲主義というやつである。
それを内閣が解釈をかえてはだめなのよ。
歴史素人の元ラボ屋のオヤジでも
そのくらいはわかる。
愛国心。いやあ胡散臭いことばだ。
人や自然や物語と出会い
輝きながら魂を陶冶する夏が好きだ!
夏活動の無事と成功を祈念してやまない。
|
|