
母語の土台と英語教育
内田 伸子(ウチダ ノブコ)
- 【現職】
- IPU・環太平洋大学教授,お茶の水女子大学名誉教授
- 【専門分野】
- 発達心理学,言語心理学,認知科学,保育学
- 【履歴】
- お茶の水女子大学文教育学部卒業,同大学院修了,学術博士(Ph. D. in Psychology)お茶の水女子大学大学院教授,お茶の水女子大学理事・副学長,2012年~筑波大学常勤監事,2019年~現職
- 【主要著書】
- 『子どもの文章―書くこと・考えること』(東京大学出版会,1990),『発達心理学―ことばの獲得と教育』(岩波書店 1999),『発達の心理―ことばの獲得と学び』(サイエンス社 2017),『AIに負けない子育てーことばは子どもの未来を拓く』(ジアース教育新社 2020)他多数
- 【受賞歴】
- 城戸奨励賞(日本教育心理学会 1978), 読書科学研究奨励賞(日本読書学会 1980),読書科学賞(日本読書学会 2000), 磁気共鳴医学会優秀論文賞(日本磁気共鳴医学会 2006),国際賞功労賞(日本心理学会 2016), 文化庁長官表彰受賞(文化庁 2019), 心理学名誉会員(日本心理学会 2019)など
- 【社会活動】
- NHK「おかあさんといっしょ」の番組開発・コメンテーター,ベネッセの子どもチャレンジの監修,しまじろうパペットの開発,創造性開発の知育玩具「エポンテ」シャチハタとの共同開発など

まずは見ていただきたい調査結果があります
2004年,高校生(15歳)を対象とした,OECD(経済協力開発機構)による学力国際比較調究第2回の結果が発表されました。日本の高校生はどうだったかといいますと,論証,論述の力,例えば複数の意見について,どれがよいか,論拠をあげながらきちんと記述する,そういうタイプの問題に白紙解答が多く,第1回の01年に比べてもかなり成績が落ちてしまいました。また,計算は断然強いのですが,数学応用力――グラフを読み取り,地域の経済がどうなるかを椎測させる,あるいは文章題を読み解いて,それを数式に置き換えていくといった問題になると,できなかったのです。
ここで求められている学力は,考えるカです。暗記能力ではなく,自分の頭で吟味していく力ですね。これが非常に落ちたために,ゆとり教育のせいではないかと批判がなされました。しかし,このとき調査対象になった高校生が受けていたのは,ゆとり教育が入る前のカリキュラムですから,そのせいではない。それよりも,戦後日本がどういう学力を大事にしてきたか,それに対する警告を発していると受け取った方がいいのです。
つまり,日本では結果主義で,プロセスを大事にする教育は行われてこなかった。偏差値の数字を上げるために計算能力をつけたり,漢字をたくさん覚えたり,とにかく答えを暗記して使う,それも正確に覚えて自分の考えで変えたりしてはいけない。だから,考え方なんか説明していると,子どもたちは「それはいいから,早く答えを教えて」と言うわけです。日本の教育が何を大事にしてきたのか,あるいは何を大事にしそこなったのか,そこを教えてくれたのがこのテストの結果だと思います。
自分でものをしっかり見て,批判的にとらえ,新しい考えを出していく,そういうみずみずしい感覚,いろいろなものに疑問を持って,なんだろうと考える頭の使い方が大事なのです。
私たちが人生で直面する課題というのは,答えはいくつもありうるし,答えにいたる道もいくつも考えられる,状況や自分の実態に合わせて正解を作り出し,解決していく,そういうものですよね。そのための柔軟な発想力,能力は,実は幼児期に基礎ができあがります。そしてそれは母語=日本語=言葉の習得と深い関係があるのです。母語の土台がしっかりできあがっているかどうかが,英語をはじめとする他の言業の学習の成否のカギを握っています。
英語の学習は早く始めるほど効果が上がるのでしょうか
お茶の水女子大学付属中学校が,付属小学校と連携して行っている研究があります。小学校のとき英語の塾に通っていたり,帰国子女であるなど既に英語に触れていた子と,全く学習した経験のない子どもたちの中学校での英語の成績が,どうなっていったかの追跡調査です。ヒアリング2割,読解8割のテストで,1年生1学期の期末試験からずっと追跡します。これを10年間行った結果は,既習者と未習者の間に成績の差が全くありませんでした。はっきりしていたのは,既習未習に関係なく,家庭での学習習慣がない生徒は成績が低下するということだったのです。
報告書ではまとめの中で,こんなふうに言っています。
「言語活動に向かう姿勢一つをとっても,日本語で他者とかかわり,伝え合い,共同することが苦手な生徒は,英語でも同様である場合が多い。語彙の習得における反復練習の習慣づけなども,英語以前に日本語で小さい成功経験を積み上げているかどうかが,英語で同様の習慣づけに影響していると思えることがある。また,英語の主述関係や修飾被修飾で混乱する生徒がいるが,これも日本語における関係把握との相関もあるのかもしれない」
つまり,日本語でどういう積み重ねをしてきたかが,英語学習に入ったときにも影響している。母語の土台がしっかりしていないと英語学習も成功しないんですよということです。
伸ばしたいのは,どんな言葉の力ですか?
親の赴任で家族で外国に移住したときなど,確かに小さな子ほど早くその国の言葉をしゃべるようになります。そこで,外国語を覚えるのは早ければ早いほどいいと,多くの人が思っています。しかし,実はこれは実証的なデータとは異なる思いこみにすぎないのです。
図1のグラフは,カナダに移住し,トロント補習校で学んだ子どもの,入国時の年齢と読解力の発達の関係を見たものです。一番急速に現地並みの英語読解力の偏差値(50~55)に到達したのは,日本の学校で7~9歳まで読み書き能力を身につけた後,カナダに行った子どもです。次に成績がいいのが,10~12歳まで日本の小学校で学んでから行った人たち。3~6歳で行った子は,会話の力(対人的な生活言語)は早く現地並みになりますが,読解力に関しては一番伸び方がゆっくりしていたんですよ。現地で初めて学習のための言語にさらされるわけですが,これがなかなか習得できないのです。
その原因を考えてみましょう。言葉には生活言語と学習言語とがあって乳幼児期は生活言語(一次的な言葉)の時期です。一対一,相手と生活・経験を共有しているから,「面白かったね」「そうね,くまちゃん,あんなかっこうしてたね」で全部わかってしまう。共通の経験という文脈に頼った言葉です。
児童前期になると,二次的な言葉が育ってきます。これが読み書き能力で,学習のための言語です。文脈から独立し,時間空間を隔てた相手にもメッセージを伝えることができます。
児童期の終わりには「メタ言語能力」(後述)が立ち上がり,言語そのものを対象化する三次的な言葉の段階に入ります。気づき,意識化し,文法的な分析をする。古語,方言,外国語などに触れ,自分が使っている言葉を自覚的にとらえなおす時期ですね。
図1 入国時の年齢と英語力の伸び(学年平均に近づく度合い)『バイリンガル教育の方法・増補改訂版』(中島和子著,アルク刊,2001)より作成
以前は言語ごとに,脳への入り口も入る場所も別と考えられていましたが,今は「二言語共有説(二言語相互依存説)」が有カです。日本語と英語は,入り口は違うけれども同じところに入る。論理的に分析し,類推し,比較し,まとめるという抽象的思考力,および文章構造や文章の流れの把握の力であるメタ言語能力は,深層で共通しているのです(図2)。見かけは,音声構造も文法構造も表記法も全然違うのですが,氷山の下は一緒。だから,そこがしっかりとできていれば,もう一つ別の言語を入れるときも,この共有部分をすぐに転用できる。母語の土台がしっかりしていることが外国語教育にも大切だということです。
図2 カミンズの「2言語共有説」(氷山説) また,ある帰国子女は,3歳11か月から15歳までドイツで暮らしていましたが,「一度もドイツ語を自由に使えたことはなく」高学年になるほど追いつけなくなって,つらい思いをしたと言っています。彼女はそれを,言葉には背景に文化があり,自分はそれを欠いたために非常に苦労したのではないかと振り返っています。
そしてその例として,ドイツの子どもはミュンヒハウゼン(注1)など,おなじみの主人公の話を読み聞かせられたり暗唱したりして,話のテンポやリズムを体に刻み付けるようして過ごす,でも自分にはその体験は決定的に欠けている。だからギムナジウム(注2)になって国語で詩の作り方を習っても,リズムやテンポがなかなかわからず,韻を踏むことも感覚に入っていないので,いくら説明されてもできなかった,と言っているのですね。
イギリスでも,マザーグースのような童謡でたくさん遊んだ子どものほうが語彙も豊かで,文字の学習も大変スムーズだというデータがあります。
日本語だってそうです。日本語には豊かなオノマトペ(擬声語,擬態語)があります。しとしと,ざあざあ,ぽつぽつ,という雨の降り方,家の中でしゅんしゅん,お湯が煮えたぎっていたり,そういうものを幼児期に物語や絵本を通してたくさん語り聞かされる,自分も口で言う,という体験は将来の日本語のセンスの土台になっていくでしょう。小学校までは,この大事な母語の土台を固める時期だと思いますね。
音韻規則の習得には敏感期(注3)というのがあり,実は言語聴覚は生後12か月ぐらいで早くも固まってしまいます。LとRの聞き分けとかですね。それなら,0歳のときに英語のテープを聞かせたらいいのかというと,とんでもない,今度は日本語の語彙をストックできなくなってしまい,後で触れる語彙爆発が起こりません。
心配しなくていいのです。というのは,音楽聴覚がその後立ち上がります。絶対音感(注4)が4歳から6歳にでき,ほぼ同じ時期に相対音感が立ち上がってきます。この相対音感は11,2歳くらいで完成するのですが,この絶対音感と相対音感から構成される音楽聴覚を転用してやれば,英語の間き取りは可能なのです。だから幼児期にあせる必要はない。むしろ幼少期には,母語をしっかり聞いてほしい,母語でおしゃべりしてほしい。そして,リズミカルな美しい言葉とすばらしい絵が命の絵本を,たくさん読み聞かせてやってほしい時期なのです。
- (注1)18世紀の実在の人物で,この人の冒険談を元にした話が『ほらふき男爵の話』として広がった。
- (注2)ドイツの中等教育機関。7年制または9年制で大学準備教育が目的。
- (注3)ある時期を過ぎるとある行動の学習ができなくなる「臨界期」は人間の学習に用いるには誤解が大きいので,ある刺激が内面化されやすい時期という意味の「敏感期」という言葉を用いる。
- (注4)絶対音感は音の高さを比較でなく弁別する能力。だれでもあるが,その程度は人により違う。
















