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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全292件] 231件~240件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
川崎洋先生をしのぶ 11月29日 (月)
 戦後の日本を代表する詩人のひとりである川崎洋先生が先月21日になくなられた。新聞記事にもなったし、「テューター通信」でも訃報を掲載した
ので、ご記憶の方も多いだろう。
 1953年に詩誌「櫂」(かい)を茨木のり子さんらとはじめられたのは有名なはなしたが、後に「櫂」には谷川俊太郎氏、大岡信氏らが参加して詩を書く者にとって「櫂」はオールというより羅針盤のような雑誌となった。
 氏はテレビやラジオの脚本家としても活躍され、自然で力強い日本語には高い評価がよせられていた。
 そうした氏にぜひラボ・ライブラリーに関わっていただきたいということで実現したのが『大草原の小さな家』の再話である。
 もう、14年も前のことだ。川崎市は横須賀におすまいで、打ち合わせや原稿をいただくためにお合いするのは京浜急行横須賀駅にある喫茶店だった。氏はかならずスーツであらわれ、端正なものごしで静かなる詩人というイメージ保たれていた。
 飲み物はとおすすめすると、きまってオレンジジュースを注文された。もの静で、むだにことばを浪費しないから、ぎゃくに豊かなことばがてでくるのかなあと、当時まだ36の若造だったぼくはあさはかに思ったものだ。
 そのころぼくは、ソングバードミューの制作に2年がかりで取り組んでいて
連日トラックダウンに早稲田のスタジオにかよっていた。要するに同時進行だったのだが、氏との短い時間の会見に、詩人を志していたぼくは、いつもなにかしら学びとるものがあった。幸運なことである。
 考えれば、時代を背おうさまざまな芸術家と合うことができるこの仕事は、とってもとっても幸せなことだ。
 「詩人は職業ではない。生き方だ」これは川崎氏を通じて学んだ谷川俊太郎氏のことばた。このことばで、ぼくはどれだけ勇気づけられたか。
 川崎氏にはその後も「ことばの宇宙」の物語大賞というラボっ子の創作物語の選評をかいていただいたりした。その評は適確でかつあたたかいものだった。そして、いつも「物語をつくることはどれだけすてきなことか」
「物語をかくときにたいせつな心がまえとは」といったことをいつもていねいに語ってくださった。
 日本語の達人がまたひとり旅だった。
                     合掌
カレンダーがきた! 1 11月24日 (水)
 2005のラボ・カレンダーが入荷した。
といっても月曜日にはきていたのだが
ゆっくり見る余裕がなかったのだ。
 うーん,まさに師走といいたいが、
わたしは師ではないので、弟子走とでもいうべきか。
 ともあれ、ラボっ子の絵がすごいパワーでせまってくる。
3000枚もの作品から選ばれたんだからなあ。
 もしかすると、ラボのカレンダーに選ばれる子は
学校などでは「うまいねえ」といわれ子ではないかもしれない。
 たとえば今年のカレンダーの今月、すなわち11月の絵はどうだ。
「ヘイディドル・ディドル」だけど、こんなすごい感覚の子がラボには
いるのだよ。この子などは、きつとあまり「絵がうまい」とはいわれたことがないと思う。
 現在は、フォルムつまりかたちがはっきりしたデザイン化されたものにかこまれていて、まあだいたいアニメなどはそうなんだけど、
 きっぱりしたかたちのものが「いい」という感覚がうえつけられてしまっているから、子どもたちもどうしたって「かたち」にこだわってしまうよね。ところが、物語のイメージとか、夢とかあこがれとか、かこうと思ったら、それはとてもとても丸とか▼とか■とかはっきりとしものではないはずだ。心のかたちなんだからね。
 恐ろしいことに学校ではフェルトペンで輪郭をかいて、そのなかを不透明水彩(ようするに学校でつかってる絵の具)でぬるということをやらせたりしている。こまったこまった。
 さて、書きたいことはいっぱいあるのだけれど、時間がないの。
またあした!
天城越え 2 11月22日 (月)
11/22の土曜日
伊豆は修善寺に紅葉狩りにでかけ、
ついでに天城峠の旧同道を越えた。

もみじ

修善寺のもみじ林の「かえで」
台風の影響で日照時間がたりないのか
全山、真っ赤というわけにはいかないが
まあまあみごと。
むじゃきに赤い葉をひろって
月曜日の全国教務委員会の各委員の手ープルにおいた。

たき

これは「浄蓮の滝」
石川さゆりさんの歌にもてできますな。
ここで売っているわさびはよいです。
つかのまの休日だったのだ。
 
大草原の小さな家 1 11月18日 (木)
  ウィンターキャンプの共通テーマは
『大草原の小さな家』だ。
  ローラ・インガルス・ワイルダーが90歳でなくなってから
47年たつ。先日,というよりもう2週間ほどまえにローラの研究家であり
翻訳家である谷口由美子さんの講演が新宿のラボセンターであり
ひさしぶりにお会いした。あいかわらず、すてきな方である。
 講演の最中もそのあとでとなれのホテルで昼食をごいっしょしたときも、
おなじように好奇心いっぱいに目をくるくるとさせて、おはなしをされる。
少女のときに出会ったローラの物語ひかれ、そのふるさとへひとりででかけてしまう行動力もふくめて、「ああ、谷口さん自身がローラなんだ」とやっとわかった。いやはや汗顔のいたり。
  ラボ・ライブラリーの『大草原の小さな家』の音楽は堀井勝美さん。『いたずらきかんしやちゅーちゅー』も彼だ。「ちゅーちゅー」のでたしのさわやかな笛は、リコーダーそれも小学校でつかうソプラノのたて笛のちょっといいやつだ。それがうまい吹き手と録音技術手の手にかかると
あんなにつやのある音になる。
 さて、大草原のメインの曲は3拍子だ。世の中あっとうてきに4つ系,
すなわち4拍子の8ピートや16ピートが全盛だが,この3拍子はおしゃれだ。
ぜひ音楽だけじっくりきいてほしい。とくにサビのよゆうなところでドラムがフィルインしてくるところなんざ、しびれますぜ。
 それに、ラボ・ライブラリーの音楽の演奏者は一流どころだが、このときのメンバーはとくにすごい。まず弦は中西カルテット。そして堀井さん自身は年にいちど堀井勝美プロジェクトというフュージヨンのアルバムをつくつているが、したがってジャズやフュージョン系のすごいプレイヤーがわさわさ。しかもベースは「カシオペア」のナルチョこと成瀬氏だ。彼のベースはチョツパーとフレットレスの2種類をつかいわけているけど、じつにソリッドでかっこいいぞ。
 そしてそして、これはいちどむかし書いたけど生ギターはなく子もだまる3フィンガーの神様、石川鷹彦だった。
 いやあ、音楽録音はいつも緊張してたのしいけど、大草原はぜひみんな聴いてくれ!
中部の発表会で 1 11月15日 (月)
 昨日の日曜日、名古屋市公会堂で開催された中部支部のテーマ活動発表会にいってきました。じつは,その日の夕方,名古屋在住のあるアーティストの方と合えることになっていて,そのついでといってはなんだけど,せっかくだから見たのです。
 テーマ活動が3本,大学生のリポートやナーサリー・ライムなどなかなか楽し半日でしたが、プログラムの最後に「ひとつしかない地球」の大合唱というのがありました。
 で、リーダーがでてきて歌の指導をするのかなと思っていたら、舞台上にぞろぞろあがってきたのは約120名の子どもたち。幼児もかなりはいっています。きけば「歌い隊」だそうで,とにかくこの歌を歌いたい子ということで募集したらドットあつまったそうです。参加条件はこの歌を日本語でも英語でも歌えること、だそうで、けっこう英語で歌うのはたいへんだと思いますが、なんのなんのみんな大きな声で歌っていました。
 この歌が子どもたちに受け入れられていて、あちこちで歌われているということはきいていましたが、これだれけの人数で子どもたちが歌うのをきくのははじめてでした。で、司会のテューターの方がおっしゃっていたように,とってもジーンときてしまいました。みんなほんとうに心の底からいっしようけんめいに歌っていました。
 この歌は,子どもたちがけんめいに歌えばうたうほど、うるうるとししまいす。なぜでしょう。じつは,きっと,子どもたちもこの歌を歌わなければならないいまの状況をちゃんとわかっているんですよ。
 ずごいことです。だから、子どもたちは必死に歌っているんです。21世紀になっても,この血と汗のめぐる地球の岸辺にたって,がんばろうもっとなかよくしようとさけんでいるんですね。ぼくら以上にこの歌の意味をわかっているんです。だから、子どもたちがこの歌を歌うと、なさけないおとなであるぼくらはうるうるしてしまうのですね、
 この歌はじつに多義的で,つまりいろいろな意味やメッセージがふくまれているのでずか、子どもたちはちゃんと理解していますよ、すごいなあ。
 平和とか環境とか、いわゆる「大きな問題」「人類の課題」を歌にしようとすると、とつても大げさになったり、はずかしかったり、地面に足がついていなかったり、あるいはやたら告発的になったりすしがちだけれど、この歌は老いも若きも、おとこもおんなも歌えるところがすばらしい。
 宮沢氏にインタヴューしたのはもう9年もまえのことだけど,「島唄」のヒットについて「世代とか性別とかをこえて、幅広く歌ってのもらえる歌が1曲でもつくれればソングライターとしてはいちばん幸せなことです。そういう意味では『島唄』はそうした1曲になったのではないかと思います」
 と控えめにいわれたのが脳裏にのこっている。それだところか、「島唄」は南米や中米など世界でも大ヒットした。先日、THE BOOMの事務所にうかがったときに、来年もメキシコ、グアテマラで1か月のツアーがあるとおききした。これは国からの依頼だという。

 さっき、子どもたちが「この歌を歌わねばならぬいま状況」をわかっていると書いたけど、そのことで思い出したことがある。
 19992年に、「ボブ・ティラン歌手生活30周年コンサート」というのがNYのマジソン。スクエア・カーデンで行なわれたくさんのアーティストが参加した。これは2日間にわたって行なわれ、ディランに影響され、彼を尊敬してやまない一流のポップミュージシャンが次々に登場してディランの作品を歌うというものだ。もちろん、ディランもでてくるのだが、彼は2曲しか歌わない(「北国の少女」をソロで歌い、MY Back Pageをクラプトン,ニール・ヤング,クリストファー・クロスらといったやたら豪華メンバーと歌った)。でも、観客は大満足。というのも、なにせメンバーがすごく、開会のMCはクリス・クリストファーソン,前座でジョン・クーガー・メレンキャンプだから恐れ入る。ディランというアーティストがいかに長い間、多くのアーティストに影響をあたえつづけたか、そしてアメリカのポップシーンでいかに重要な役割をはたしてきたかがわかるメンバーだ。そのなかで、スティービー・ワンダーのステージは印象的だ。メレンキャンプの紹介で万雷の拍手で登場したワンダーは、キーボードをひきながら(それはおなじ8小節くらいのフレーズをすこしずつタッチをかえてくりかえすだけで、なんの曲かはわからない)、じつに5分近くもスピーチする。その大意はこうだ。
 「ありがとうボブ。ここに来れてうれしいよ。ぼくがボブの歌と出会ったのはまだ15のガキときだ。でも、その歌はすごいたいせつな歌だ。そして、どうしてもその歌について、みんなにいっておきたいときがある。その歌は今も歌われている。というよりずうっと歌われてきた。つまりこの歌を歌わなければならない状況がずっとあったんだ。70年代、市民や学生の平和や自由な生き方をもとめるムープメントがもりあがった。そしてこの国はベトナムで戦争をしていた。80年代、ウォーターゲート。そして南アフリカでは命をかけた自由へのたたかいがあった。アフリカの各地では餓えに苦しむ子どもたちがいた。そしていま、世界の暴力、非寛容はおわってはいない。15のときに歌わざるを得なかったこの歌を、今も歌わなけれはない。そして人間がすべてわゆるしあえる時代がくるまで、ぼくたちは歌い続けねばならない。歩きつづけねばならない、いつまでか、そうそのこたえは……」
 この長い前説につづいて、ワンダーは思いきりハイキーな声で歌い出した。How many roads must a man walk down befor they call him a man.どれだけ歩きつづけたら、彼は人間とよばれるのだろう……。
 そう、名曲「風に吹かれて」Blowin'in the windである。
 ものすごい、拍手だ。
 この歌もシンプルで多義的、しかも告発的でなく、声高にさけびもせず、美しいメロディで人をうつのだ。
 『ひとつしかない地球』もそんな可能性をもっている。
 じつは、まだくわしくかけないが、来年、この歌はもみっと大きな力をもつことになるぞ、。お楽しみに。
 以前も一度お願いしたが、みなさんも、子どもたちや父母のこの歌をめぐる感想や話題をかきこんでくだされ。

 
永山裕子原画展終了 3 11月08日 (月)
 おひさしぶりである。
なにやら、いいわけがましいが。
ご存じのように、ラボ教育センターは
この秋、いろいろなことがあったことと
もともと秋は、いつもの倍くらいスケジュールが
タイトなので(カレンダーやら写真コンテストやら、なにせ芸術の
秋じゃけん)、まったく日記を書き込む時間がなかったのねん。
 さらにこの秋は、永山裕子さんのご存じ『ひとつしかない地球』
の原画展があったりして……。いやはやたのしくもあり。

 永山さんの原画展については、ハニーさんやhitさんが克明にリポート
しているので、いまさらという感もあるが、いちおう仕掛けた側としては
書き込まねばならんち。
 ともあれ、期間が1週間だけなのは残念だったが仕方がない。
ギャラリーももっと新宿に近い場所という選択もなくはなかったが
永山さんをラボに紹介してくれた、この日本橋のギャラリー
砂翁でぜひともしたかった。
 義理をかいちゃいかんぜよ。
 11/1から11/7までの会期中、訪れたのべ人数はおよそ220名!
これはけっこうすごいこと。
 ラボ・テューター、永山さんのお弟子さんたち。そしてラボっ子ファミリィもきてくれている。ありがたや。

 ぼくは、まず前々日に音響(歌を流すので)のセットに、そして前日に仕込みの応援にいった。このときは、なぜかサツマイモのタルトのホールを
さしいれとしてもっていった。個展の仕込みは普通夜中にやる。なせなら、その前の展覧会を夕方五時くらいまでやっているからだ。
 雨の土曜日の夕方。もう暗い。到着すると、永山さんが絵をもってあちこち走りまわっている。配置を考えているのだ。結局、だいたい絵本の順番に展示することになった。ひと段落ついたところでタルトをきった。こういうときは、甘いものがいい。
 11/1は牟岐先生も参加して、きどらないすてきなレセプションになった。白ワインと柿の葉寿司という異文化交流が大ウケである。
 ひさしぶりのワインのせいか。永山さんとはじめて会った昨年のクリスマス前にタイムスリップした。
 新版の歌の絵を描く人の選定にまよいまくっているころ。ある人を介してこの画廊のオーナーである横島さんを訪ねた。そのとき、彼女が「ひとり推薦したい新しい人がいるの」といって、ヨーロッパで評価されたという和紙のオブジェのカタログを見せてくれた。その作品は、今回のなかでいうと
「密陽アリラン」のふんいきに近いものだった。
 そのころ、ぼくが求めていたのは、とにかく「説明的な歌のイラスト」ではなく、歌にまけないパワーあふれるイメージを全力で子どもたちにむかってだせる人。そして、まだどこにもないものをつくれる可能性がある人。という贅沢な注文(ラボのオーダーはいつも贅沢だけど)にこたえられる人だった。それには、ダイナマイトのような色づかい。それでいて細やか。
自由でぶっとんでいるけど、ゆるぎない造形のたしかさがある。そんな作風がほしかったのだ。
 ぼくは、そのタカログを見た瞬間、「あっここにあった」と思わずいいそうになった。それで、ともあれ横島さんにいって、作者の永山さんに連絡をとってもらった。そして永山さんに青山のツインタワーでお会いしたのは、その四、五日あとだと思う。もう、街にクリスマスキャロルが流れるころだ。その日永山さんは、水彩画のレッスンをもたれていて、それが5時の終わるのでその後でということだった。はたして5時すこしすぎに永山さんは現れた。あざやかな花柄のワンピースに長い髪、うーん、これまでのラボ・ライブラリーの作家とはちがうタイプ。
 きけば、そうとうに忙しそうだ。でも、「子どもたちは、いつも最高の作品をまってます、だからヒマな方にはぎゃくにお願いしません」。
 そしてラボの絵本をどんとつみあげて、「こういうものをいっしょにつくりたいんです」
 絵を志す人ならだれでもあこがれる描き手ばかりである。卑怯な作戦だが、これは有効だ。「わたしでいいんですか」「まだ、どこにもないものをつくりましょう。それからこの絵本は、プレゼントです」「ええーっ! いいんですか」(たいていの場合、かえしてといってもラボ・ライブラリーの絵本をはじめて見たアーティストは、すきなおもちゃを手にした子どものようにだきしめてはなさない)。
 最終的には1週間ほど考えて返事をしていただくことになった。
 帰り道、同行したウノババと「どうかな。スケジュールはべつとして、ラボ・ライブラリーの絵本をやってくださるかなあ」「うーん,どこにもないものをつくりましょう、というよびかけにはぐらっときた感じがありますよ」「そうかあ、とにかくお返事まちだ。長い1週間になりそうだぜ」
「クリスマスの気分が違いますからね」
 青山通りにでると、もうすっかり夜。みょうにあか抜けたふりをした男女がいきかう。「けっ,こんなところにいると気分がわるい。とっとかえろうぜ」
 永山さんから「ぜひ描きたい」というメールがきたのはその翌日たった。

 それからはや1年。おかげさまで、歌も絵もたくさんの人がよろこんでくれているようだ。ぼくは11/3にも原画展におじゃまし、昨日の最終日にも打ち上げ用のケーキ(アントルメ・オ・マロン=ビスキュイに栗がはいておる)
をもって訪ねた。日曜ということもあってか、3時過ぎからクローズまでのわずかな時間にかなりのお客さんがこられた。家族でこられたラボ家族もいた。しっかり、絵本をもってきているのでも、永山さんにサインしていただいた。ラッキー! 

 結局、作品は永山さんが非売(自分の手もとにおきたい)ときめた2点をのぞいてすべて売れてしまった。hit氏がおちこむのも無理ない。

 絵本の原画は見せない作家もいる。
「ぼくの絵は絵本というかたちになって成立するから。手品のタネはみせない」というスタンスだ。印刷という手段で多くの人が、それこそ世界じゅうで作品にふれることができる。それが作品ということ。
とはいえ、原画のもつ生の迫力にふれるのは、機会があれば幸せなことなのだ。  以上
夜のものがたり 修正版 3 09月21日 (火)
夜のものがたり
 だいぶ前の日記で、「かいだんこぞうは、夜なにをしてるんだろう」という子どもたちへの質問について書いたことがある。そのときは、よい物語のコンテクストはシンプルさの背景にさまざまなイメージをひきだす力があるということを伝えるのが目的だった。
 ところで、今回は夜そのものについてだ。というのも、夜がぐっと深く、そしてやさしくなってきたからだ。やっとね。
 ラボ・ライブラリー、当時はラボ・テープの制作を担当されていたのは、らくだ・こぶに氏こと、谷川雁氏であることはつとに有名だ。氏は戦後を代表する詩人のひとりであり、きわめて異彩をはなつ思想家であり組織者であることはまちがいない。ようするに巨人だ。ここでは、氏の組織者としてまたラボの経営者としての評価はさけるがぼくは詩人としては学生時代からだいすきだった。故人となったいまでもそうだ。学生時代、ひょんなことからラボを手伝う(ひょんなことは、次の日記で書くっす)ことになつたぼくは、ラボに谷川雁がいることにびっくらこいた。しかも、おそるべきことに、ぼくははじめ谷川雁とはししらずけんかうってしまった。その場所はラボランドで、当時夏のお盆のころ7泊の長期キャンプというのをやっていて、
たろう丸でミーティングをしているとき、「もうそんなはなしあいはやめ」とかいって、少しあからがおのおじさんがはいってきた。その男が谷川氏とはしらず、「そんなよっぱらいにがたがたいわれるおぼえはない」と、ぼくは席をたってしまった。谷川氏(当時はラボの専務)は激怒し、あの学生はなにもだ、無礼もはなはだしい、即刻打ち首にしろといわれたらしいが、周囲のとりなしでぼくは特別のおとがめはうけなかった。
 そのあと、まわりから「おまえ、いい度胸してるなあ」とさんざんいわれ、なんでだといいかえすと、「おまえがけんかを売った相手は、あの谷川雁だぞ」といわれ、さすがにぼくは血の気かひいた。「あの、『原点』の谷川雁か!」そんなことがあって2,3日後、その長期キャンプのうちあげがあり、ぼくら学生(その当時のシニアはみな一般応募の学生だった)と事務局で集雲堂でいっぱいやることになった。ところが、いわれるままに関につくとぼくの前にすわったのは谷川氏ではないか。ええままよ。それでも、谷川氏はそれまでのいきさつにはふれず、さまざまな話をしてくれた。なんでだかわからないが、谷川氏にくってかかるやつなどあまりいなかったのだろう、それでおもしろいと思ったのかもしれない。そうこうしているうちに、宴はもりあがり歌などがでるようになった。そのころぼくはけっこう歌をつくっていてキヤンプでもみんなで歌ったりしていた。その歌のひとつを歌え、というはなしになり、ぼくは「紫陽花の碧が」という歌を歌うことにした。梅雨のののこるうすぐらい山道に紫陽花がうきたつころから、夏のキャンプの準備がはじまり、秋のにおいのするころわかれていくという、はずかしいような歌である。で、酒のいきおいも手伝ってかぼくは、その歌をうたった。そして席にもどると、谷川氏が「きみの年齢にしては、なかなかまともだが、さいごに『秋は近いという一節があるが、あれはよくない。秋は近いとはいわない」といわれた。大詩人が一点だけ注文をつけあとはほめてくれたのだから、すなおにわかりましたといえばいいのに、ぼくはまた、「でも、ぼくのことばですから」と命しらずにもかみついた。
 ざんねんながら、さけからさきの記憶がない。でも、それ以来、谷川氏はぼくがなにかの用で、ラボにいくとよく声をかけてくれたて、いろいろな話をしてくれるようになった。ぼくかはいつのまにか、彼の話をきいたときは、そのあとでメモをおこすようになっていた。話しているときにメモをとるのは失礼なので、いつも忘れないうちにと帰るとすぐ書いていた。
 そのメモはいまでも役にたっている。とくにラボ・ライブラリーについていわれたことは、とても参考になる。今回は、夜ということで思い出した。氏の話とそれについて考えことなどを書いてみる。 
  ラボ・ライブラリーをつくる側から考えると、子どもにとって夜とか闇というやつはとっても刺激的だから、つかいすぎてはいかんのねん。と谷川氏はいう。そうしてみるとSK1の4話には夜はほとんどでてこない。まあ『ぐりとぐら』には気分として夕方というのがあるけれど。
 では、ラボ・ライブラリーにさいしょにでてきた夜は? とさがしてみた。すると、あったぜ『でしなしとこねこ』だ。当時、17歳のはっきしいって天才クロード岡本の世界だ。青春とよぶにはちとはやい少年の憂いと、どうしうようもなさのようなものが、泳ぎすぎてチアノーゼになったくちびるのようになってただよっている。そのちょっと酔ったような気分を、猫や老人のひげが、すこしさめたようににらんでいる。
 でも、きっと子どもが拒絶しない夜がそこにある気がする。そんな計算をしていないはずだがら、やっぱりクロード岡本は天才かしらん。この物語はいろんな発表をみたけれど、猫たちの躍動が影絵のようにみえるよね、
 やっぱり「快活さ」というのは、子どもに語りかけるときのたいせつな部分だと思う。絵の暗さをふっとばすような。また、林氏の音楽のすばらしさもわすれられぬ。あのリズムを無視してはだめなのだろう。
 そうやってみていくと、続々と夜はラボ・ライブラリーに登場する。
『ブレーメン』のどろぼうたちの陽気な夜。すこしこわいけどヘンゼルとグレーテルの森の夜。『白雪姫』の婚礼の夜。『うみのがくたい』の嵐の夜。
 『ふるやのもり』の秋の夜。そしてSK8の4つの話にはぜんぶ夜がある。『こつばめチュチュ』『ボアンホワンけのくもたち』『みるなのはなざしき』そして『かいだんこぞう』。とくに『かいだんこぞう』は昼間のどまんなかにとびだした夜の人格化ともとれる。それぞれ「抑制がきいた」夜がそこにある。この抑制のきかせかたがたいせつで、ただことばで飾ればいいということではない。きらびやかな修飾わすれば美文ということにはならないのだ。坂道をくだる車のようにむしろエンジンブレーキがきいている文はとても品格がてでくる。
 そうしたブレーキを全然かけていない夜もある。『耳なし芳一』『猫の王』とかね。でも、やっぱり夜の力強さを語るのは『ピーター・パン』。
 重要な事件は夜か日暮れに集中しているからね。そればかりか、物語全体が「それじゃあ、目をとじて……」というまぶたの裏のあざやかな闇にひたさりているもんなあ。
 そして『ロミオとジュリエット』の舞踏会の夜、ふたりがはじめてすごす夜。『大草原』の夜。『十五少年』の夜。これからも夜はラボ・ライブラリーのなかにででくるだろう。
 最後に谷川氏は、これは前述と別の機会に数人に語られたことだが、
 物語の母胎が夜で、夜の芯が物語だと考えてみると、子どもたちの闇へのおそれをなにかすごい偉大なものへのおそれに通じさせていくことのたいせつさを思うのだよ。
 といっている。
 なお、これらの話を彼自身がまとめたものは、河出書房『谷川雁の仕事』
に書かれているというご指摘があった。わぼくは、その本はもっていないのですぐ探してみるつもりだ。
 昼間のラボもあるし、夜のラボもあるけれど、たとえばキャンプの夜、ロッジの外の闇とか、冬のラボのかえり道とでふと見上げた夜空のオリオン座とか、アメリカの田舎道に光るほたるとか、そうした体験とともに、夜や闇が人間の「育ち」のたいせつな養分のひとつと思わざるをえないのだ。
ところで……
 サイレント・ボブはどうなったんだ! という一部の人のために
 じつは、ネット小説のようなものをたくらんでいたのだが、。それをするにはこの日記はどうも不適切ということがわかった。なぜなら、推敲している時間があんまりないからだ。そんで、もうしわけないけど。自分のPCのなかで書くことにしたっす。多分もっと小説にしてしまうと思うけど……。なにかに発表したらおしえます。
 でもサイレンと・ボブというタイトルについてだけはふれておく。それはキャンプ・スモーキーというワシントンのキャンプ場ないた17歳くらいの自閉症の青年のことだ。彼のニックネームがサイレント・ボブ,すなわちだんまりボブだったのだ。彼はキャンプのスタッフとして位置づけられていた。 自閉症であることもさいしよはわからなかった。たしかにものしずかな人゛なあとは思っていたのだが、ふと、食堂で「帽子をとって」とたのんだときにその反応できづいたのだ。つまり、ひょんなことからぼくは彼と友人になり,彼をめぐる人びと(だからそのニックネームもすごいのだが)。そしてメンタルチャレンジャーへのアメリカ人の考え方などを書くつもりだったのだ。もちろん彼以外にもスぺシャルニーズの子どもはいて、運動障害、視力障害の子がいた。また、少し年齢の高い脳性マヒの少年もいて彼は幼い子どもたちのシニア役(保育の資格わもつ女子の大学生が2名ついているが)をやっていた。彼のあだなはミスター・チップス。これもすごいネーミングだ。そんななかで、いっぱいドラマがあり、それを小説にしたいと思ったのだ。心の病い、そして障害をケレンみなく、そしてうそっぽくなく考えたいとおもったのだ。
秋になったのだ。 1 09月16日 (木)
うーん、とってもいそがしいのねん。
サイレント・ボブのつづきも、これからがおもしろいところなのになかなか書けないのだ。
とはいいつつ、先週の金曜日に1日だけ夏休みをもらって、北海道に逃亡してきたのだ。行き先は道東、根室方面である。それもおじさん三人というなさけない構成だ。もっともこの夏の終わりの北海道行きは、この10年すうっとつづけていて、それなりにテーマもあるのだ。
 じつはもともとは、28年まえに早世した友人の追悼というのが目的だったのだが、そんなセンチメンタルジャーニーがにあうはずもなく、いつしか故人のメモリアルという志はきえて、わけのわからないツアーになってしまった。ちなみに去年のテーマは「ノシャップ岬(稚内の岬だ)で夕陽にむかってバカヤローとさけび、ついでに利尻島にわたって利尻富士にのぼり(どこがついでだ! ぼくは死にそうになった)、日本海のさかなの未来を憂えるツアー」である。それ以前も、テーマはことごとくくだらないもので「サンゴ草はなぜ赤い。サロマ湖の四角い夕陽を撮影して太陽に感謝するツ
ァー」とか、「釧路湿原に地獄をみるか、超無謀横断作戦」といった書くのもはずかしいものばかりである。今年のタイトルは「納沙布岬でかえせ北方領土! とさけび、ついでに根室の人びととカニの問題について交流し、さらに野付崎でホッカイシマエビの状況を調査するツアー」という火曜サスペンスなみの長さである。というわけで下の写真は、野付崎からみた国後島である。
くなしり

 同行の2人およびぼくは、中学・高校の同級生で、なんともう38年のつきあいである。ぼくらは練馬区の江古田にある六年制(中高一貫教育というやつ)の私立校にかよっていて、毎日バカなことばかりやっていた。ぼくらは、バカだったが先輩や教師はきわめて優秀で、入学したころは、高校生しかも1年生の先輩がほとんど神様にみえたものだ。なにせ、その会話の内容がほとんど理解できなかったのだ。「唯物史観」「存在」「止揚=アウフヘーベン」などということばは、ほとんど宇宙語にしかきこえなかったし、カントやヘーゲルなどとという人とはかれらは友だちづきあいををしているようだった。さらにアリストテレスやソクラテスには直接ならったことがありそうだし、ドストエフスキーなどはいまでいう「メル友」の感覚のようだった。しかも、太宰や三島にいたっては、ほとんど後輩のように睥睨(へいげい)していて、「三島ももうだめかもな」(事実、彼はぼくが孝のとき割腹自殺した)などといっているのに仰天した。
 ぼくは、自分がここにきたのはまちがいかと思った。それでもあせって彼らの話題に出てくる人物の著作を購入し読もうしたが、さらに深い絶望にとらわれた。なぜなら、1行たりとて意味がわからなかったからだ。
 教師もまたぶっとんでいて、歴史の島田先生や、物理の小林先生など、本来は大学で講義をするべき人がぼくらのようなアホな中学生・高校生に学問の本質をつかみとらせようとしていた。ありがたいことである。もったいないことである。いまでもおぼえているが、中1の最初の授業は「代数」で、
教師がいきなり黒板にFx=と関数式をかきだして肝をつぶした。でも、その教師からぼくは、数学がじつはとてもエレガントでロマンにみちていることを学んだし、エヴァリスト・ガロアとかラバチェフスキーなどとも出会うことができた。さきほど書いた歴史の島田先生は、もう故人となられたが、専門は満州国史と関東軍で、敗戦で大陸からひきあげてくるとき、民間人をおいてさっさと逃亡する関東軍の幹部から「戦争犯罪の証拠となる資料は全部焼却せよ」と命令されたが、彼らの目の前で古新聞を焼いて貴重なデータをまもったというえらい人である。この島田先生は、日本史を担当したが、教科書などはまったくやらず、さまざまな歴史のポイントなる議論や研究について話をしてくれた。島田先生が静かに話す「法隆寺論争・若草伽藍のなぞ」とか、邪馬台国論争などは、歴史とは事実の羅列ではないということを学ばせてくれた。ぼくは、その時間をいつもわくわくまっていた。
 こんなふうに書くと、いかにもほくが勉強ばっかりしていたようたが、それはおおうそである。バカはバカどうしあつまるわけで、低レベルの友だちがすぐにみつかり、くだらないことばかりやっていた。
 それから、30数年、やっぱり3人のおろかものたちは、おろかに年をとり、家族のことや仕事のことでぶーたら、いうだめなおじさんになった。
 ちなみに、ふたりの友人は秋山と加藤というのだが、秋山には12歳くらいはなれた妹がいる。この妹はラボっ子になり、アメリカにもいった。そしてその子どもがいまは練馬でラボにかよっている。
 さて、そのくだらないツアーだが、内容はほんとにくだらないのでくわしくは書かない。ただ移動距離は三日で約1000キロとすさまじい。移動手段は車と徒歩とカヌーとシーカヤックである。根室へは釧路空港から120キロほどだ。日本最東端の町であり、さらにその突端の納沙布岬からは歯舞、色丹などの北方領土が臨める。どうでもいいけど、今年は夏がえらい熱かったからサンマが豊漁のはずであるが、ロシアの海水温がさがらないので、ロシアの水域からなかなかおりてない。だから、もうじき値段があがるぞ。
 根室は漁業やカニ船の関係でロシアの人がいっぱいいる。かれらの世話をしている佐々木さんという人にあった。佐々木さんはロシア人のおくさんと、ロシア人の通訳をしたり、日本人の交流などに尽力されている。
最終日、野付崎のトドワラを海からみにいったが、時間があまったので、開陽台という360度の眺望がきく高台とさらにはいきおいで「裏摩周展望」にまで足をのばした。これまでなんどか摩周湖にはいったが、いずれもすげえ霧でなにもみえない。ところが今回はあっさりと全貌がみえた。湖中央の島、カムイッシュもよく見えた。下がその証拠。
ましう

さて、リフレッシュはおわり。またがんばんべえ。ラボ・ライブラリーについてのおもしろい話題、質問などかあったらかきこんでくださいな。
サイレント・ボブ 4 09月08日 (水)
 キャンプ・スモーキーはシアトル市内から約1時間のドライブという,たいへん便利なところにある森のキャンプ場だ。8/15から21日までの6泊7日、ここで行なわれるキャンプに10名のラボっ子たちが参加するのだ。
 主催はCamp Fire USAというNPO。約100名のアメリカの子どもたち(多くは小学生と中学生)がカウンセラーとともにさま゛ざまなプログラムを楽しむ。
 この日の午前、ラボっ子たちはホストファミリィに送られてフェデラルウエイのホテルに集合した。出迎えたのはやたら元気なシーラと、日本から昨夜戻ってもろに時差ぽけのぼくというわけだ。
 日本にもどっている2週間のあいだ、シーラとは何度もメールをやりとりしたが、Is every thimg going well? という質問に、シーラの返事はいつも"Everythin ia goingwell."で,「ほんとかいな」と思っていた。コーデイネイターがぼくらに心配をかけないように、些細な問題はいちいちラボのスタッフに報告しないという気遣いわすることはよくある。しかし、アメリカ事務所の平野氏からも、問題はないという連絡だった。
 事実、すべてのホストファミリィに直接受け入れの感想をきいたが、みんなすばらしいのでびっくりした。成田に集合したときは、準備の状況や表現力からいって、「どうなることか」と思っていたのだが……。
 ラボっ子をみくびってはいかんなあ。
後で、シーラにきくと、ホストファミリィに提出してもらったアンケートとevaluationはじつにすばらしい内容で、シーラも「こんなのははじめて」とびっくりしたという。「どうしたんだ。いったい」
 ともあれ、ホストファミリィにわかれをつげいざキャンプへ。迎えにきたのは、キャンプ場のスタッフ2名、荷物とぼくらを運ぶため、でかいバンを2台ころがしてきた。ひとりは、200キロ近い巨漢でニックネームはトルーパー
。もうひとりはやせぎすの、キャンドゥー。
 へんな名前だと思ったが、じつはキャンプ名。ラボのシニアといっしょだ。そしてこの二人はただのスタッフではなく、教育者でもあった。
 ラボつ子たちはなんとなく不安そうだ。そりやそうだホストたちとわかれて、しらないアメリカの子どもたちと過ごすのだから。
 キャンプ・スモーキーの駐車場に車がついたとき、まっさきにぼくのところにやってきたのは、巨体で丸顔の女性。シーラからきいていた責任者のキヤロルつぽいので「キャロルさんかしら」ときくと、握手しながら「いや、わたしはスモーキー」とあだなでこたえる。彼女がここのいわば大統領、すなわちデイレクターらしい。すると、もうひとり巨体で、こちらは四角い顔の自余生が登場した。彼女はヨーダ(スターウォーズの!)。コーディネイターという。「さあ、まずどうしよう」というと、スモーキーは「まずは売店に子どもたちをつれていってお金をあずけさせる」という。
 ここのキャンプ場にも売店はあるのだが、子どもたちは現金をつかえない。さいしょにひとり20ドルあずけ、お菓子やおみやげを買うごとに記録をつけておく。そしてそれ以外の現金はもってこれない、また、お菓子ももってこれない。こうすることで盗難や紛失のトラブルはさけられるということだ。そのことは前もつてきいていたので、ラボっ子にかんたんに説明した。
ラボっ子たちは案内役のカウンセラーについかせた。ここは、あえて自分たちだけでやらせることにしよう。
つづく







 

 
サイレント・ボブ 3 09月05日 ()
 7月28日にラボっ子がステイに入るのをみとどけたぼくは,
シーラにおくってもらいシアトルのダウンタウンにむかった。
午前11時30。むりすれば午後のノースウエストで日本にむかえるが
予約は明日のUAだ。半日くらいはのんびりしてもばちはあたらないだろう。
 というわけで、この日はラボ・アメリカ事務所の平野所長にたのんで
Warwickというホテルをとっておいてもらった。ここは、数年前、日米合同会議の会場にもなったところだ。
 シーラは「そのホテルならよくしってる。まかせておいて」と宣言し、きっちり1ブロックきすぎた別のホテルの横に車をつけた。
 「ここから歩くから、だいじょうぶ。荷物もすくないしいい天気だしね」
 「そう、しや、また8月にね」
 たしかにアメリカでは4泊するだけだから荷物は少ない。気温は摂氏20度。
きょうはホストフアミリイにあいさつをしたので、スーツを着ている。いっぱしのジャパニーズ・ビジネスマンのようだ。
 いきようようとホテルにチエックインすると、なんたること、部屋はまだ準備中だという。まあ、たしかにまだ正午だからしかたないか(アメリカのTホテルは掃除がすんでいれば早い時間でもチェックインできることが多いが)。フロントのにいちゃんが荷物は部屋にいれおいさしあげると、みようにていちょうにいうので、それじゃあ夕方までにくるわ、と街にでた。
 月曜だが、夏なので観光客も多い。ちょうど昼どきだ。よりごのみをしていると、どの店もどんどん混んでくるので、目にはいったスターバックスの
むかいにあるサンドイッチ屋でランチをすませることにした。
 ターキーとチーズとトマトにレタス。ようするにBLTのBがTになったサンドだが、なかなかうまい。ハニーますたーとがいいかんじだ。アイスティーがまずいのが難点だが、とびこみではいったんだからしょうがない。
 店をでて時計をみるとまだ1時だ。ホテルはまだ掃除中だろう。するとつごうよく、めのまえに公衆電話があったので、アメリカ事務所の平野氏に電話した。アメリカも携帯電話がものすごすスピードで普及している。いずれ日本のようにPay Phoneはどんどん姿をけすだろう。
 ぶらぶらホテルの横までもどってくると、これまたつごうよく平野氏のHONDAがかわいたブレーキの音をたてた。シアトルの街を見るのははじめてだというぼくを、平野氏はあちこち案内してくれた。もちろん、ラボのアメリカ事務所もいった。昨夏に他界されたバーニーがすんでいた旧アメリカ事務所もいってみた。彼の存在がいかに大きかったかは、あまた4Hメンバー、コーデイネイター,ステイト・リーダー、さらにすべてのラボ国際交流関係者が証言しているが、そのだれもがいまもなおその早すぎる死を思い出にできないでいる。それほど、バーニーの静かなものごしからは想像できない緻密で心くばりにみちた仕事ぶりと、彼自身の存在は、この交流プログラムのなかでかけがえのない柱だったのだ。
 北の街独特のやわらかな夏の夕陽がさしこむレストランで、すこしはやいディナーになった。
 そこでも話題はバーニーのことになった。
昨年の月はじめ、バーニーが急逝した数日後、平野氏はすぐにアメリカにとんだ。バーニーは夏の交流についてのほとんどのセッティングをおえて世を去ったのだが(すごい根性だ)、いざまもなく本番というところで力つきたのだ。平野氏は、つい先日までバーニーがすわっていた椅子で、彼がきちんとファイルした書類をつかって交流の準備をした。そけらの家具や書類ひとつひとつにバーニーの思念のようなものがこもつている気がしたという。
 「ぼくは、オカルティックなことはあまり信じないのだけれど……」
平野氏の背中で大きな夕陽がハーバーの無数の帆柱のむこうでゆれる。
 ぼくは、「おひょう」のひときれをごくりとのみこんだ。
 「いそがしいときは、そんなことを考えているひまはないけれと。ふとした時間がいやだったね。なにせひとりしかいない。でも、なにかパーニーが見ているんじゃないかという気になる。彼なら、こんなときどんな判断をするのだろうとか、彼のアドバイスがあればなあなどといろいろなことも考える。で、どうにも気持ちがかたづかないときは、バックヤートにでて植栽わ手入れしたり、木に水をやつたりすることにしていた。この庭をバーニーはとてもたいせつにしていたからね」
 「それは、いいことですね。主がいなくなっても手入れされたら木もよろこぶし、バーニーもうれしいでしょう。それに、なんといってもそのことで平野さんの気分転換なることがたいせつですよ」
 「ところが、そうでもなかった」
 「へっ、そりゃまた」
 店はかなりこんできた。ウエイトレスがアイスティーのおかわりわいれる。
 「庭の手入れは朝の日課になったさ。ところが、たぶん4日めくらいの朝だと思う。まだ、手入れしていない木があることに気づいた。それはバーニーがとりわけお気に入りだったマグノリアなんだが、゛みるとずいぶん枝やよぶんな葉がのびほうだいになっている。これでは見た目もよくないし、木の健康にもマイナスだるねそこで、剪定ばさみをもってきて、まず手のとどく得たから切ろうとした。その瞬間だ」
 夕陽はついにその底を水平線にかけた。
 「そままさにきろうとしたとき、たしかにバーニーの声がしたんだ。『ヒラノさん、その木にはさわらないでください』……って゜」
 バーニーの遺骨は、彼の生前の意志で故郷、オレゴン海にかえった。
ぼくと平野さんは、しばらくゆっくりと沈んでいく夕陽をながめていた。
 それは、かけ足でいってしまう北の夏をおしむような豪華な日没だった。
そして、その日のんだアイスティーはこの夏いちばんの味だった
                              つづく
次回はいよいよキャンプ編。サイレカト・ボブというタイトルのなぞがあきらかに。
 
「チヌーク」という店名はイヌイットのことばで「シャケ」を意味する。
 
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