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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全287件] 1件~10件 表示 次の10件 >>
『こつばめチュチュ』少しずつの成長 09月06日 (木)
三澤制作書所のラボ・カレンダーをめくる

長月朔日。
日中はまだまだ暑いが
日没し確かに早くなり、
空は高く、
夜が深くやさしくなってきた。
なんと今年3作めの
ChuChu 『こつばめチュチュ』だ。
「入選は原則として物語の重複は避ける。
ただし新刊は除く」という
大昔に作ったカレンダー選考の
ガイドラインがあるが、
それを吹っ飛ばして
堂々3点のChuChu が入選した。
vsv
もっともこの内規は
「できるかぎり多くの物語に
出会って欲しい」という願いから
作ったもので、
あくまでも作品主義、
すなわちgenderや
支部や年齢のバランスには
とらわれないという内規もあるから、
物語の重複もありなのだと思う。
しかし選考者の苦悩がなんとなくわかる。
描いてくれたのは
山田陸くん(小2/愛知県・荒川明美P)。
電線のうえにせいぞろいしている
ツバメの小学生たちだ。
とにかく驚くのはツバメたちを
画面の「天」ギリギリに配置し、
ツバメの下に思いきり空間を
とっていることだ。
これだけのアンバランスな構図は
おとなやブロが逆立ちしてもできない。
「下の空間がムダで成立しない」と
きめつけてしまうからだ。
子どもたちはこの物語を聴くとき
主人公であるチュチュに心を寄せる。
語りの江守徹氏もチュチュを応援している。
それは駅長さんのように
下から見上げるのではなく、
もっと高い所から見下ろすのでもなく
チュチュとおなじ高度で応援している。
だから子どもたちも同高度にいる。
そのことをこの絵は証明している。
陸くんの心は「秋のはじめのあおいそら」
らあるのだ。
下界など関係無いのだ。
そしてさらびっくりは右端のツバメの
燕尾がいちばん長く、
左のに行くにしたがって
だんだん短くなる。
そうかバースペクティブ、
遠近法なのだ。
多分、陸くんのイメージは
電線の真横ではなく
やや右側から見ているのではないかしら。
(違ってたら恥ずかしいけどせ)
色彩はつばめが主役だから
ブラックが多くなるが、
空のなんともいえないくすみ方が
おしゃれでかっこいい。
意図して作った色か
筆に残った黒がにじんで
偶然こういう色彩に
なったのかはわからないが、
最終的には陸くん自身が
「この色」と決めて
彩色しているのだから
これは陸くんの色なのだ。
しかも一色ではなく
ホワイトやviridian系も細かく
用いているので
この空間が退屈しない。
しかし、何度もいうが
こんな大胆な構図はできない。
これこそ個性なのだ。
「下がもったいないね。
何かか描いたら」なんていう
助言をしなかった
まわりのおとなたちもエライ!
さて、ChuChu はどこにいるかといえば
おそらくは右から3羽めだろうか。
「黄色いリボン」だと思うが
これも違っていたら恥ずかしい。
それよりも見れはどの場面だろう。
ふつうにに考えると
授業開始前、マスケル先生を
待っている生徒たち。
みんなそろっているのに
先生がこないから、
おちつかない男子は電線をゆする。
女子は「やめて、先生にいうわよ」
とかいってかしましい。
そこへマスケル先生が来て、
男子はすまし顔。
それで「ピイチュさん 
おしゃぺりをやめて」と
女子がしかられてしまい、
男子は内心ほくそえむ。
なんていう想像は、
じつはこの物語が
大好きな小学生なら
膨らませているだろう。
しかし
もしかするともしかすると
1万メートル競走のスタート直前
なのではという気もする。
「白い胸毛をぶるっとふるわせ」
の緊張がこの絵には漂っているのだ。
号砲一発、いっせいに飛び出す
直前のスタンバイ。
授業前のひとはしゃぎよりも
長距離飛行への希望と怖れが
感じられる。
いやまて、もしかすると
「あれはシドニーまでいくんですよ」
というマスケル先生のことばで
飛行機を見つめているとこめかもしれない。
「もうすぐきみたちも飛ぶ。
鳥は飛行機ほどはやくないが、
ツパメは鳥のなかでは
いちばんはやい。
だから、虫はなんでも食べて
りっぱな身体をつくるのだ」
といったことをマスケル先生は
教えたい。
そのことを生徒たちはきっちり
受けとめている顔だ。
かように陸くんの絵は
物語のcontextをさまざまに
想像させてくれる。
テキストもその裏側の
Contextを感じとらせるこどが
たいせつだが、
絵でも想像を広げさせてくれる作品が
ぼくは好きだ。
いつもいうが、
「こたえはひとつではない」のだ、
ひとつしかないこたえに
たどりつく競走を学問とはいわぬ。
このラボ・ライブラリーの刊行は1973年。
45年前の作品だ。
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ラボ・ライブラリーが
「こどもの友シリーズ」からはなれ、
また有名作品の再話でもなく、
オリジナル・ストーリィで
制作した最初の作品だ。
日本語はらくだ・こぶに。
音楽は間宮芳生先生、
1年生の朝、1年生の成長に
寄り添ったメロディがうれしい。
絵は吉原英雄先生。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
吉原先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家の
おひとりであることは
いうまでもない。
「チュチュ」絵は2つの
パターンの変化だ。
恐るべきことに吉原先生を
知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。
あるとき酒席で
らくだ・こぶに氏にきくと
氏は呆れた顔で、
吉原先生は、
チュチュをあえて没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだ
と教えてくれた。
さらに、その日は
機嫌がよかったのか
「チュチュは注射もがまんする
けっこう強い子のようだが、
とりわけ優等生のツバメではない。
ふつうのツバメが事件にぶつかり、
仲間と離別し少し成長して帰ってくる。
挫折したり病んだりして
少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と語ってくれた。
ラストでチュチュが
飛ぶ練習をしているときの
「来年もまた帰ってきますかね」
ということばは
必死にリハビリしているチュチュが
まだまだ心配なのだ。
「もちろんだとも」は
さらなる激励、すこし心配。
だから、ここでのチュチュは
あざやさには飛んでいない。
ときおりふらつきながら
気合いでがんばっている。
そう何度でも立ち上がり
少しずつ成長する。
ゴーシュもそうじゃないか!
菜月の警鐘ーー多様性の勝利 08月03日 (金)
ハット気づけば葉月である。
などとシャレている場合ではない。
朝一番、午前5時にカレンダーをめくったとたん、
すでに暑さでぼーっとしている頭を
がつんと一発やられてすっかり覚醒した。
day
グリム童話に題材をもとめたラボ・ライブラリー
A Tale of Six Talented Men『きてれつ六勇士』に
インスバイアされた作品だ。
描いてくれたのは
村田陽平くん(小2/埼玉県・三枝明日香P)。
がつんとやられた点はいくつかあるが、
項目を列記すると
・不思議な躍動感と浮遊感
・色彩の魅力(抜けかたと配色)
・構成のバランス
・しつこく描いてもスッキリ
というところだ。
めずらしく順番に書いていく
・不思議な躍動感と浮遊感
これはだれしもが観た瞬間に感じることだろう。
とまっているが、動いている。
どっしりとしているが浮いている。
人物の輪郭は細いのだが、緩やかで迷いがなく、
またフオルムにとらわれずにすっと描いている。
それらがかもし出すふしぎな感覚だ。
『きてれつ六勇士』を題材にした子どもたちの絵は
何枚も観てきたが、
こんな感覚ははじめてだ。
彩色のところでも触れるが
上から三分の一くらいのところを
大胆に横切る赤い帯も
普通なら世界を分断するところなのに
この感覚に一役買っている。
・色彩の魅力(抜けかたと配色)
原画を観ていないから正確ではないのだが、
彩色は非凡だ。
21世紀に生きる子どもの色の感覚は
ぼくが小2のころとは比較できないくらい
広くて深くて多彩だ。
先日、青について書いたが、
陽平くんの青も魅力的だ。
じっくりながめていると、
なんともたくさんの種類の青が
歌っているのが響いてくる。
その複雑さ多様さは見るほどに広がっていく。
最低でも5分は見つめたい。
それと対比をなすような赤も美しい。
大きくは3種類なのだが、
右上、中央の大胆な帯、
そしてメインキャラ
(六勇士の能力をデフォルメして
一人に凝縮したキャラ)のシューズと
だんだんと赤が濃くなっていて、
奥行と安定感を出している。
そしてなにより、赤も青も
そして人物のスキンカラーも、
色がスカッと抜けていて気持ちがいい。
これはぼくの好みなのかもしれないが……。
全体に面積の多い青系、赤系、肌色に
どうしても目がいくが、
わずかに見えるイエローやバイオレットも
この絵をより深く感じさせている。
これがあるとないでは大ちがいだ。
・構成のバランス
人物の配置、中央の赤帯、背景の描きこみなどによる
この絵の奥行は、もうひとつの大きな魅力だ。
メインキャラを中央から少しずらしているのもニクい。
そり分のスペースに描きこんで
イエローやバイオレットをもってきているのは驚き。
・しつこく描いてもスッキリ
さっき書いたように色が抜けているから
これだけしつこく描きこんでも重さがない。
かといって、トンと揺すれば剥げ落ちてしまうような
脆弱さもない。
何がそうさせているのか。
これは想像でしたかないが、
陽平くんのこの物語との関わり、
というか睦み合いの結果なのだろう。
パーティでどう取り組んだのだろうか。
断言してもいいが、
陽平くんは、単にこの物語が好き
なだけではないと思う。
そこが知りたい。
きっとなにかある。
差し支えなければ三枝テューター
教えてください。
cw
社会からは異端とみなされる
特殊な能力をもった者たちが
その力をそれぞれに活かして
権力者を打倒したり懲らしめる物語は、
世界中にあり、
(『不死身の九人きょうだい』!)
また、映画にもいろいろな作品がある。
普遍的に世界の人が好きな物語の
パターンのひとつといってもいいだろう。
世界が多様性、diversityに向かっているとき、
その一方で反作用のように
異質なものを排除しようとする動きが
世界でも日本でも暗闇の魍魎のように
蠢いている。
多様性の否定は効率主義、
国家主義と手を繋ぎやすく、
また優生保護、そしてファシズムへの道だ。
それらを見過ごすと恐ろしいのは、
凄惨な事件として発現したり、
さらにはいつの間にか「いつか来た道」に行くことだ。
戦前、戦後と均一な兵士、
均一な労働者を生み出してきたこの国は
今、警鐘をならすべきときに来ている。
陽平くんの絵は、
静かに、けして声高ではないが、
多様性こそが、
異質なものを認め合う精神こそが
この地球という閉じた系のなかで
ぼくたちや生き物たちが
持続してゆく数少ない道だということを
訴えているように思う。
元になった絵本は赤瀬川原平先生。
gggb
あの破壊力のある絵に、
刊行当時は、みんなノックアウトされた。
この物語が収録されているSK13は
高松次郎先生(『グリーシュ』)、
中西夏之先生(『ながぐつをはいたねこ』)も
収録されている。
高赤中からとったハイレッドセンターという
前衛アートグープも懐かしい。
みなさん故人となられてしまった。
赤瀬川原平先生は尾辻克彦名で
純文学の作家手もあり芥川賞も取られている。
vests
兄上の故赤瀬川隼氏は、
長くラボ教育センター本部の職員だったが、
退職後は作家となり直木賞を受賞された。
ラボ・カレンダー7月 Bird’s-eye view and Overlooking 鳥瞰と俯瞰 07月01日 ()
三澤制作所の
ラボ・カレンダーをめくる

はやくも7月、文月である。
七夕に短冊に詩歌や
願望を書く習慣から
文被月(ふみひらきづき)が
転じて文月となったという説が
比較的有力だとされている。

6月中の梅雨明けに驚いていたら、
この鮮やかなレモンイエローに
もっとびっくりしてしまった。
これだけの面積を黄色で塗るのは
なかなかできない。
イエローは服のなかでも
着こなしが難しいといわれるからね。
(黄色については、またあとで触れる)゜
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絵はアメリカの絵本作家、
バージニア・リー・バートン
Virginia Lee Burtonが28歳で
描いた”CHOO CHOO,
the story of
a little engine who ran away”
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』に
題材をもとめたラボ・ライブラリーに
インスパイアされたものだ。

描いたのは石井勇志くん
(小1/神奈川県・大塚淳子P)。

この物語、絵本を知らない人が見たら
「何を描いているのか」と
首をかしげただろう。
だけど、逆にこの絵本が好きな人なら
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』だと
直観的にわかるはずだ。

とにかくこの物語が大好きで、
そして「電車・乗り物」が大好きで、
(乗り鉄、撮り鉄とかあるけど
描き鉄だね)
そのエネルギーで一気に描ききって
いるのがなんともすがすがしい。
そして自由闊達。
こういう作品が入選するから
ラボ・カレンダーはすばらしい。

これは推測だが、
勇志くんは、
日常的に絵ばかり描いている少年
ではないと思う。
どちらかというとアウトドア派の
元気ボーイのような気がする。
(まったく違っていたら、
大笑いだし、勇志くんには
申しわけないが)
だとすれば、
なにが彼を突き動かしのだろうか。
たぶん彼の肩幅より大きい画用紙を
すきまなく描きつくすだけでも
勇志くんの年齢なら
かなりの体力と集中力が必要だ。

そのエネルギーがこの物語にあることは
まちがいないが、
さらにどのように勇志くんが
この物語とむきあい、
どんな活動をしたのか知りたいものだ。
そしてもこの物語と出会ってから
彼になにか変化があったを知りたいと思う。

ご存じのようにバートンの原作絵本は
黒だけで書かれている。
(見返しが4色になっていて、
ちゅうちゅうの路線が
描かれているのもおしゃれ)
だが、その黒は沈黙の黒ではなく、
若きアメリカの発展力と
その反動で古いものが消滅、
あるいは衰退していくことへの哀感などを
パワフルかつスタイリッシュに語る黒だ。
81年前の作品とは思えぬかっこよさ。

勇志くんは、その黒を少し残しつつ
まったく自由に彩色している。
場面としては、操車場、転車台がある
「おおきなまちのおおきなえき」を
中心になっていると思うが、
「どの場面」という特定は
あまり意味がなく、
勇志くんにとっての
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』は
こいうことなのだと受けとめるべきだ。

冒頭に書いたように、
スカッと抜けた濁りのないレモンイエローが
とにかくきもちよい。
この大胆な黄色背景のおかげで、
建物の茶色や
線路のグレーがかった青
(これもめちゃくちゃカッケー)が
重くならず、逆にパワーと
おしゃれさを醸しだしている。

また、パターンぽく置かれている
viridianの草もアクセントになっている。

たしかに黄色の迫力には圧倒されるが、
じつは黄色の占める面積比率は
40パーセントくらいだろう。
そして窓のなかなどの
detailも描き込みがある。
自由だが細かいのだ。

色のことばかり書いてきたが、
構図、配置のバランスもいい。
転車台が中央やや上、
そしてそこにむかう線路の
傾きかげんもいい味になっている。
そして、これはいちばん大事な点だが、
たぶん、勇志くんは俯瞰的に描いている。
鳥瞰といってもいい。
(俯瞰も鳥瞰も「上から見下ろす」
という意味だが、図でいうと
俯瞰は立体的で鳥瞰は平面的)


斜め上から見下ろして描くのは
とても技術がいるが、
勇志くんのなかではこれは
紛れもなく俯瞰図であり、
だから建物もこんな感じなのだ。

しかし、この絵のパワーはなんだろう。
ことばに「言霊」があると
日本人は信じてきたが、
絵にも「ことば」と同じような力がある。
心をこめて描いた絵にも
魂の力は宿るのだろう。
「絵霊」(えだま)とでもいうべきか。

人間の心からしぼりだされた表現は
ことばでも絵画でも音楽でも、
命をもち、
それ自身で語りだす。

そしてまた勇志くんの絵からは
音楽も聴こえてくる。

堀井勝美先生作曲の
物語冒頭のあの
さわやかなリコーダーのメロディが
聴こえてくる。
勇くんの身体にもしみこんで
いるのだろう。

これまでにも何度か書いたが、
ラボ・ライブラリーにおいて
絵は空間的である。
他方、音楽は時間的だ。
そしてテキストは自在である。
ラボ・ライブラリーのような
音声物語作品においては
音楽がテキストの暴走を抑え、
時間をコントロールしている。
これはテーマ活動を
体験したものなら実感できることだ。

この絵を描きながら勇志くんの
身体のなかには
ちゅうちゅうの音楽とともに
物語の時間が流れいる。
あの音楽のリズムにのって
きもちはどんどん物語の先に進んでいる。
描きながらこの物語を往復している。
だから、「どの場面」かという問いは
この絵についてはあまり意味がない。

原作者のバートンは
この絵本を長男のアーリスのために
彼が5歳のときに描いた。
1937年のことである。

バートンは野菜を育てたり
羊を飼育して暮らした。
素朴で自然との調和を
愛したバートンは
文明による自然破壊に対して
懐疑をもち、
新しいものにとびつき、
古きものを使い捨てる
消費文化に対して警鐘を鳴らし続けた。
『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』
『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』
『ちいさいおうち』などには
そうしたバートンの思いがあふれている。
そして集大成ともいえる
『せいめいのれきし』は
ぜひもっていたい一冊だ。

バートンは、そうした
強い精神をもちながら
子どもの心によりそい、
子どものもつ自由をもとめる心、
成長がもたらす失敗と、
それを通して知る周囲への感謝などの
子どもが身体を通して
共感をもつことができる
ちゅうちゅうのような
キャラクターを描いた。

バートンは1968年、
肺がんのため58歳の若さで他界する。
ないものねだりではあるが、
もう少し作品を見たかった。

ラボの『ちゅうちゅう』の日本語音声は
大山のぶ代さん。
英語はジェリー・ソーレスさんだ。
対照的な声質のマッチングが
ふしぎな魅力だ。

大山さんが認知症を患い
現在は施設で療養されているが、
ぎりぎりまで
お仕事への意欲を失っていなかったときく。
プロフェッショナルは仕事をして
はじめて生きている
実感がもてるのだと
頭がさがった。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。水無月に舞え、つばくらめ 06月01日 (金)
6月。水無月である。
梅雨時で水多いじゃねえかといわれそうだが、
(ぼくもガキの頃、そうツッこんでた)
無は「の」の転で、「水の月」が元だというのが
ほぼ定説になっている。
(神奈月も「神の月」)
bgbdb
はじめにこのカレンダーをお持ちの方は、
ラボ・ライブラリーをかけて眺めることをお勧めする。
これは毎月のカレンダーでの絵でもいえることだが、
今月の作品はとくにそうだ。
この絵の疾走感、爽快感、力感、躍動感などが
より立体的に感じられるからだ。

描いてくれたのは鄭裕里さん
(小3/福島県・山崎智子P)。
題材となったのはラボ・ライブラーSK8収録の
"Chuchu"『こつばめチュチュ』。
らくだ・こぶにが書き下ろし、
吉原英雄先生が絵を、
音楽は間宮芳生先生が担当された。
日本語騙りは江守徹氏。
1973年4月のリリースだ。
(しかし、なんというgorgeousな
組み合わせだろう。絵本はB5版横、
そうとカバーの小さなサイズだが
中身はとんでもない濃厚さだ。

場面はおそらくツバメの学校の運動会。
冒頭の登校シーンとと取れなくもないが、
チュチュたちの気合の入った表情。
またチュチュが「黄色いリボン」とわかるのは
この「1年でも1万メートル」の
競走シーンのスタート直後と考えるのが
自然だと思われるが、裕里さんどうだろう。

この直前に「白い胸毛をぶるっとふるわせ」る緊張があり、
号砲一発、いっせいに飛び出した1年生たち。
賞品のかぶとむしのバッジや美味しい虫を目指して一直線。
裕里さんの絵はその瞬間を切り取ったものだが、
じつは前述したような
スタート前の緊張感とその解放によるエネルギーの爆発までの
チュチュたちの心の動きを描破している。
単に「飛んでいるツバメたち」という
凍りついた絵ではない。

物語にそこまで突っ込んでいるから
この疾走感、加速感、加速感が
伝わってくるのだと断言してしまおう。

そして、これはけして選考会を
批判しているわけではないことを
あらかじめ断っておくが、
この場面が1万メートル競走だとすると
季節は秋、ツバメが渡りに出る前である。
だから本番に備えて練習するのだ。

なにより、スタート直後のナレーションに
「秋のはじめの青い空」という
体言で止めた1行がある。
この1行ががさすがはらくだ・こぶにで、
詩を捨てたいいながら、
終生彼の根っこにあった詩的感性、詩的な律動
渇いたリリシズムが感じられる
あざやかな1行だ。

その前の「白い胸毛をぷるっと」で
ツバメの胸元をクローズアップして
その緊張をわずかな胸毛の動きをミクロで伝え、
そこから解き放たれた直後を
ツバメからロングショットに降って
マクロな視点に転換する。
それが「秋のはじめの青い空」の
1行、しかも体言止めの文であることで
季節感と空の高さや青さ、
その下を飛翔するツバメたちまでが
あざやかな映像として見えてくる。
これらはラボ・ライブラリーを聴けば
だれしもが感じることだ。

今年のラボ・カレンダーにはChuchuが
2点入選しているが、
どちらも前半の月に置かれているのは
絵の印象によるものだろうが
物語的から考えれば秋だ。
物語の季節感も重要だと思うが、
あくまで私見であることを重ねて
お断りしておく。

繰り返しになるが
裕里さんの絵の疾走感と加速感は
だれしも圧倒される。
主役であるツバメのタッチは
かなり力強く描き込まれていて、
生物としての生命感が伝わる。
ひとつまちがえばラフな感じになるくらい
ギリギリにせめてい流のが潔い。
しかし、けして荒くはなく
翼や燕尾の描き込みも繊細な濃淡がつけられている。
また、スマートな身体のフォルムもかっこいい。
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主人公のチュチュはほぼ智勇王に描かれているず、
レースの先頭にはまだ出ていないのも
期待感が膨らむ。
さらに、競う仲間のつばめたちをチュチュの
背後に描いているのも裕里さんの
想像力とhand-eye coordinationのすばらしさだ。
先頭をゆくツバメを断ち切りにして
頭部を見せなかったり、
最後尾のツバメを逆に頭部だけ描いているのも
裕里さんの年齢ではなかなかできないことだ。
服まで主人公はチュチュと
意識されているのだろうけど。

さらにツバメの飛翔方向が水平ではなく、
やや上方を向いているのも
離陸上昇中の力感が伝わる。

かつてウルトラ・ライトプレーンで
渡鳥たちに伴走飛行機して撮影した映画があったが、
裕里さんは、チュチュたちと同じ高度にいる。
それだけ物語に入りこみチュチュを応援している。
江守徹氏のナレーションが
第三者的でありながら、
チュチュに心を寄せているのと同様である。


裕里さんは背景に田畑や家を
明るい色で描いているが、
それがツバメたちの暗色の面積の多さを
たくみに補って絵の明日るさと
高度感を作っている。
この多彩で自由な背景も、
この作品の大きな魅力だ。

じつはこ裕里さんが所属する
郡山市の山崎智子テューターとは
先週の金曜日の夕方、
郡山駅近くで同地区の井上テューターと
お茶を飲んだ。
喜多方からの帰り道、
郡山で時間があったので
前に連絡したのだ。

これまでにもなんどか書いたが、
山崎パーティのラボっ子は、
ラボ・カレンダーが始まって以来、
ほぼ毎年のように入線している。
山崎テューターは絵画の指導経験のある方だが、
あくまで「テーマ活動」ありき、
「ラボ教育活動のなかでの描画むと
きっちり位置付けられている。
カレンダーの季節のたびに
いろいろやり取りするので、
そんなことを徐々に知るようになった。
ぼくは冗談ぽく山崎パーティの絵を
「山崎流」と呼んでいるが、
それは絵のテクニックではなく、
テーマ活動とのリンク、
ラボ・ライブラリーを聴き込み
再表現していくことが
広義のテーマ活動だとすれば、
描画もそのひとつということなのだ。

郡山の駅近くのびるの5階のカフェで
マンゴー入りタルトとアールグレイを、
西に傾いていく陽をあびていただきつつ
くだらない話をしたが、
6月の絵をまだ観ていなかったので、
この絵の話しを全くしていなかった。
残念無念。
裕里さんとChuchuのテーマ活動の
関係をぜひ知りたいものだ。

原作の絵は吉原英雄先生。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
吉原先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家の
おひとりであることは
いうまでもない。

「チュチュ」絵は2つのパターンの変化だ。
恐るべきことに吉原先生を知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。

あるとき酒席で
らくだ・こぶに氏にきくと
氏は呆れた顔で、
吉原先生は、チュチュをあえて没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだ
と教えてくれた。
さらに、その日は機嫌がよかったのか
「チュチュは注射もがまんする
けっこう強い子のようだが、
とりわけ優等生のツバメではない。
ふつうのツバメが事件にぶつかり、
仲間と離別し少し成長して帰ってくる。
挫折したり病んだりして
少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と語ってくれた。

ところでテーマ活動で
運動会の場面でみんなが
チュチュを先頭にしようと
全力でとばないことがあるけど、
ここでは子どものもつ
全力さがたいせつなんだよな。
なんて余計なお世話。
「物語は思いも魂も伝承する」 05月01日 (火)
三澤製作所のラボ・カレンダー
5月の絵をめくる

皐月朔日。
午前5時30分にカレンダーをめくった。
東の窓から差し込む、
もう初夏といっていい朝の光に
この絵が浮かびあがった。
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大塚勇三・文 丸木俊・絵による絵本
『うみのがくたい』に題材をも止めた
ラボ・ライブラリー
The Ocean-Going Orchestraから
感じたら喜びと感動を
物語に心を寄せて描いたものだ。

描いてくれたのは
石井聖人くん(小4/愛知県・鈴木晶子P)。
遭難しかかった船が
海の生き物たちの協力で難を逃れた後、
お礼にもらった楽器でsessionする
クジラやサメや魚たちが
いきいきと画面で躍動している。

この物語も、ラボ・カレンダーの題材として
たくさんの子どもたちが取り上げる。
その理由のひとつとして「真似しやすい」絵という
ことがあるのは否定しない。
でも、それは極めて皮相的、superficial
な理由に過ぎない。
いわゆる具象的な絵はラボ・ライブラリーに
いくらでもあるのに、
この物語から絵を描いてみようと
子どもたちを誘うのは、
『うみのがくたい』のことば、
音楽、絵の持つ大きな力、
そこに込められた想いとか魂といった
不可視のパワーが
子どもたちに伝わっている気がしてならない。

1985年以降の34年間、
これまでのラボ・カレンダーの絵として
『うみのがくたい』は多分20点数が
入選作として全国のラボっ子の部屋の壁を
飾っているはずだ。
ということは、選考委員をうならせる
名作、傑作、力作が多数登場しているわけで、
それを乗り越えて、
常に新鮮な作品が登場してくるのも
この物語のふしぎな力だと思う。

そして今回の聖人くんの作品も
「おっ!」という新鮮さに溢れている。
まず驚いたのは船体は大胆に簡素化され
さらに船員たちはひとりもいない。
(このことは後で触れる)
4頭の大小のクジラやサメ、
そして小さな魚たちが全力で演奏する。
その躍動感には力強いリズムがあり、
それは聖人くんがこの物語を繰り返し聴き、
深くinputされたことの証に違いない。
絵は本来空間的だが、
時として音楽的でもあり、
物語における音楽は
物語のテキストをコントロールする
時間的であるが
絵画的な表現力も持つ。

テキスト(音声)、音楽、絵という
ラボ。ライブラリーを構成する要素、
すなわち物語を立体的に描く要素が
この絵をじっくりと見ていると
湧き上がってくるのだ。

上記は何のこっちやと思う人のために
もう少し説明するが
その前に色のことを書いておこう。
原画を見ていないので正確なことはいえないが、
色味としてはかなり抑制されていて、
透明感がある。
クジラは比較的濃い色だが
それでも抑えめといえる。
全体に青の濃淡で空と海が描かれ、
絵の上部、空の方にいくほど
淡い青になっているが、
塗りかたは単純ではなく、
奥ゆきと広がりを作っている。

魚たちや船はおしゃれな現代色で
水彩でこの色を作り出した感覚はステキ。
とくに船体のmagenta系とviridian系の
two-toneの色味は
痺れるようなかっこよさで、
さらにわずかに使ったvioletが効いている。
この船がどまんなかにあることで
面積の多い青がさらにくっきりとして
この絵に力を与えている。
それがなければ、ともすれば
淡い色だけの印象になっていたかもしれない。

作者は小4ということだから、
男の子から少年に向かいはじめる少し前。
声変わりもまだしていないと思う。
その時期の男子の感性、
憧れ、無邪気さ、とまどいを
おとなになると残念ながら忘れてしまう。
しかしその時期の心映えが
『うみのがくたい』の言語体験を経て
こうした絵として残るのは
とっても貴重なことだ。
たかが子どものえでは済されない。

さっき後で触れるといったことを書く・

原作絵本の絵は「原爆の図」で
夫である丸木位里先生とともに
ノーベル平和賞の候補にもなった
画家の丸木俊先生である。
ぼくは埼玉の丸木美術館でも
広島でも長崎でも先生の
「原爆の図」と何度も対面している。
とくに長崎は長男のすばるが小1、
長女の梨奈が保育園のときに連れていった。

広島や埼玉は高校生くらいになれば
自力でいけるだろうと思ったからだ。
「強烈すぎるか」とも思ったが、
現在36歳の長男は記憶にあるという。

すばるが明治の政治経済にいながら
卒論にチョムスキーをえらび、
アクティビストとしての彼に着目して
「テロリストの再定義」を書いたのも
長崎の原体験が影響しているかもしれないという。

『うみのがくたい』の絵は
丸木先生は2年以上をかけて制作されている。
イルカやサメなどの動きに
たいへん苦労され、
近所にすむ「おさかな博士」の少年と
なかよくなって助言をうけたという
エピソードもある。

その半面、人間の生命や尊厳を
おびやかすものへの怒りは苛烈で、
容赦はなかった。
かつて「ラボの世界」のインタビューで
ラボっ子たちがお宅をたずねたときも、
核エネルギーと人間が
共存不可能であることを説いてから、
髑髏のお面を全員につけさせて,
「原発反対!」とシュプレヒコールを
子どもたちとともにされた。

『うみのがくたい』はまた、音楽がテーマでもある。
海、夕焼け、音楽、海のいきものたち。
すべて美しいモティーフだ、いや、
モティーフ、動機というよりキエティーフ、
すなわち動かない静機といっても
いいかもしれない。

海は、遠くに開かれ、
水平線の先にはなにも見えないがゆえに、
古来から多くの想像がなされた。
不老不死の国や黄金の国、
さまざな楽園を人は想像した。
そして多くの命が冒険にでて帰らなかった。
いや海に還ったというべきか。

そして戦もあった。
若きかけがえのない魂がやはり海に消えた。
この物語の音楽も夕焼けも、
すべては海にきえた命への鎮魂のように思える。
これは何度か書いた話だし知っている
人もも多いと思うが、
あるとき5歳のラボっ子が
『うみのがくたい』についてこういった。
「先生、あの船はほんとうは沈んだんだよ。
だからあのお話ができたんだ」

聖人くんがこの子のエピソードを
知っていたとは思えない。
だが、船員がひとりも描かれていない船。
そのまわりでひたすら演奏する
海の生き物たち。
それは、「あの船はほんとうは沈んだんだよ。
だからあのお話ができたんだ」に
通じる感性のような気がしてならない。
考え過ぎかもしれないし、
人間を描くのめんどいからやめたのかもしれない。
だ、これだ描き込む力のある聖人くんが
そんな安易な理由で人物を描かないのも不自然だ。
だからこそ、彼がどんな言語体験、
テーマ活動体験をこの物語でしたかの
ぜひ知りたいと思う。

ただ、ぼくが信じているのは、
大塚先生、丸木先生、間宮先生の
思いや魂は、
多くの子どもたちに
感動とともに伝承され
こうして新しい形で常に
立ち現われてくるということ。
だからきっと今夏も
『うみのがくたい』の絵は
またたくさん送られてくるだろう。

1981 年、瀬戸内海の高島という島で
「海の学校」の教頭やっていたとき、
若い漁師のおにいさん
「妹尾のタカちゃん」がこういった。
「海はこわいところさ。
でも、命の生まれるところでもあるんだ」
そのとき、長男のすばるはお腹にいたが
タカちゃんの話をききながら、
ぼくはまだ見ぬわが子を思った。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる Rise Up to the Sky. ChuChu Belongs There. 04月03日 (火)
卯月である。
弥生が別れの月なら、
今月は新しい出会いと
旅のはじまりの月だ。
,yah
そんな季節にふさわしい
さわやかな絵が登場。
ラボ・ライブラリーSK8
ChuChu 『こつばめチュチュ』に
inspireされた作品だ。
描いてくれたのは
野呂千尋さん(小6/小笠原カヨ子P)。

絵大好き少女の力作であることは
だれが見てもわかる。
そして、吉原英雄先生の
オリジナルの絵本を知っている人は
別の意味でびっくりするし、
この絵の後で絵本を観た人は
もっとたまげるだろう。

そのことは後述するが、
小学1年生のツバメのチュチュと
なかまたちが澄んだ空ほ
競いながら飛翔するさまを
ワイドな画面で描き切った
豪快・爽快・痛快な画面には
みんなstanding ovationだ。

チュチュのいる街は物語上の
架空だtownだが、
千尋さんのなかでは超リアルに実在している。
そしてそれをvisualに表現する力を
彼女は持っている。

もしかすると千尋さんは
もっともっとリアルに
家や樹木や光を
新海監督のアニメのように
クリアな感じで
描きたかったのかもしれない。
でも、この水彩のボケ味は
絵はがきや風景スナップなどよりも
とても生きいきとしていると思う。

家が立ち並び、ビルもあり。
樹々も点在し、鉄塔もあり
電線もある。
遠くに美しい山もある。
チュチュたちの眼下の街には
子どもたちの笑い声があり。
荷物を運ぶお兄さんが汗があり、
窓辺でピアノを弾く
お姉さんのtrèmoloがあり、
恋人たちのささやきがあり、
たいせつな人を失った涙がある。
そんな想像を掻き立ててくれる。

絵全体にこの街を祝福する
鐘の音が聞こえてくる気さえする。

チュチュと同じ高さで、
街全体を見おろす千尋さんの視線は
なんというやさしさだろう。
千尋さんは、「がんばれチュチュ!」と
応援しているのはもちろんだが、
「がんばれみんな!」と
ちょっした失敗や、つまずきで
すぐに膝をかかえてしまうぼくたちを
激励しているのだといま気づき、
ハッとしている。

もうすこし詳しく見よう。
描き込みの細かさはいうまでもなく
ものすごい集中力と想像力だ。
ラボ・ライブラリーの音声と音楽から
これだの世界を広げるのは尋常ではない。
さらに、focusはツバメたちにあっているので
街や遠景は巧まずしてボケている。
被写界深度、Depth of Focusを
使っているのもすごい。
このスケール感と奥行き感、
また、ツバメたちが電線の上にも
奥のほうにもいるのが楽しい。

ツバメはオスメス同色で、尾は長い方がオス。
燕尾服の由来である。
都市に来るツパメは
ほとんどが建物の軒下などの
人工物に営巣するので
最近は迷惑がられたりするが、
空中の虫を餌にするので、
農薬のない昔は稲の害虫を
食べてくれる鳥として
たいせつにされた。
また、軒下に巣をつくったツバメは、
雷や火事を防ぎ、
子どもを生み育てる吉鳥灯ともされ、
にんげんとはなじみの深い鳥だ。

柏原(黒姫)出身の俳人
小林一茶にも
今来たと 顔を並べる つばめかな
なんていう句がある。

で、ここでdelicateな話をする。
そして最初にラボ・カレンダーの選考について
とやかくいうつもりはないことを
お断りしておく。
この絵は、ふつうに考えれば
「1年でも1万メートル」
というツバメの運動会の競争のシーンだ。
だとすると
narrationにもあるように
「秋のはじめの青い空」である。
この語りはシンプルな表現だが、
チュチュたちが舞い上がる
空の高さと広さ。
そして巣立ったばかりの
幼いツバメの可能性を
ことばのナイフで鮮やかに
切り取ってみせる
とても重要な一言。

物語を聴く子どものイメージは
大きくて広げることば。
さすがはらくだ・こぶにだ。

これだけ印象深いことばは
千尋さんの心に残っているはずだし、
これだけチュチュの世界を
リアルに描き出せるほど
物語と向き合った彼女なら
当然のことだ。
だとすれば、この絵は9月の絵に
おくべきだったのではないか。

また、仮にこの絵が「登校の場面」だとしても
ツバメが巣立つのは6月から
7月くらいであるから
4月では早過ぎる。

ただ、こういう可能性もある。
「チュチュは少学1年生」というのは
物語のはじめに明示されるから、
それを意識した「新学期」というイメージで
千尋さんは描いたのかもしれない。
いつもいうように、
物語、fictionに
自然科学の整合性を持ち込むと
あまりおもしろくない。
「石から猿は生まれない」
といったら『西遊記』は成立しない。
「石から、猿? わっはっは」
という感性がだいじだとも思う。

ただ、作者のらくだ・こぶにが
「秋のはじめの青い空」にこだわったことは
まちがいないし、
それが千尋さんに届いていないはずもない。

この物語を知らない人が
この絵を見たら春の空を想像するのかも知れない。
(もっとも4月立つらもっと靄がかる)
ともあれ、千尋さんの思いが気になる。
「秋のはじめの青い空」なのか。
ヒレとは関係無く
新学期の空を描いたのか。
作品の完成度、訴える力が強いだけに
その辺りを本人に確認して
月を決めても良かったのではないか。

なにやら選考への批判メいたことを
めずらしく書いてしまったが、
ぼくにはどうしても
「秋のはじめの青い空」なのだ。

そう呟きながら、またながめているが、
ツバメたちの配置も素晴らしい。
先頭を行くチュチュの前方を少し空け、
2番目めのつばめを少し高く起き、
さらに最後尾のツバメの尻尾を
断ち切りで描いたことで。
奥行とスピード感、
さらにツバメのフォーカスがクリアになった。

やはりすばらしい。
中学生になっても
絵を描きつづけてね。
nyynd
◎ここからは後半
かつて書いたことに加筆した。

SK8は1974年のリリースだ。
この巻はラボ・ライブラリーが
「こどものともシリーズ」
からはなれ、
また有名な昔話や童話の再話でもなく、
ラボがオリジナル・ストーリィで
制作した最初の作品である。

子どもたちにとっては
そのラボ・ライブラリーを
だれが作ろうが、
だれが絵を描こうが、
だれが吹き込もうが、
物語は物語。
自分にとっておもしろいかどうかしかない。
ラボ・ライブラリーは
ご存じのように
一流アーティストが参加して
つくられるが、
子どもたちにとっては
制作関係者が有名かどうか、
またテーマがなんなのかといのも
どうでもいいことだ。
というか、そうしたことを教えたり
押しつけたりするのは無意味だ。

といいつつ、クレジットを並べると
英 語 ● Sarah Ann Nishié
日本語 ● らくだ・こぶに/さが・のぶる
音 楽 ● 間宮芳生
吹 込 ● Alan Booth / Gerri Sorrells /
Roger Matthews /江守 徹/
田島令子/野村万作/岸田今日子
絵 ● 吉原英雄/藤枝りゅうじ/山下
菊二/元永定正
とある。

まあとんでもない顔ぶれである。
極端ないいかたをすると、
離乳食から普通のご飯を食べはじめた
幼な子の食器に
名工の飯茶碗や
すぐれた塗師による
蒔絵の日月椀を
さらっと用意しているようなものだ。
(これはだれだれ先生の傑作だから
とはいわない。食べ物をよそうのだから
だいじにしなさいというがよし)。

SK8は初の完全ラボ・オリジナル
であるがゆえに、
この作品のストーリーも音楽も絵も
その後に連なるラボ・ライブラリー
の特長のたいせつな部分が凝縮している。
また、その後、しばらく
ラボ・ライブラリーづくりの中心にいた
らくだ・こぶにの意図が
鮮明に感じとれる。

すべからく物語おけるテキストは
フィクション、すなわち
そこに無いものを描くことができる。
ということは時間的からも空間からも
解き放たれている。

ただ、ラボ・ライブラリーは
物語を立体的に描こうという試みであり、
絵は空間を語り、
音楽は時間を支配する。
3Dなのだ。

『こつばめチュチュ』のストーリィは
シンプルな話かもしれない。
だた、一見シンプルなのだけれど、
なかに入り込んでいるcontextは
けっこう奥にあるので
ほじりくりだして
味わうとおよりおいしくなる。

それらの味はライブラリーを
一度さらっと聴いたり、
わあっと「一回動いた」
程度では見えてこない。
まあライブラリーに限らず
どんな物語でも小説でも
そうしたcontext、
すなわち山や谷や川や森は
下からゆっくり登って
高みに行かないと全部は見えない。

この物語が
大好きな小学生なら
ことばにはできなくても
膨らませているだろう。
ことばにできないと書いたが、
イメージは言語と体験のインプットから
形成されるが、うかんだイメージを
言語化して展開するのは
別の抽象力が必要だ。
それには時間がかかる。

この物語が出で2年後の1976年、
ぼくがラボに入社する直前の5月、
卒論の仕上げをしていた頃、
ラボセンターにらくだ・こぶに氏に
頼まれた本を
届けにいったことがある。
彼は珍しく頭を下げ、
「いそがしい時にすまなかった。
飯でも食いに行くか」といった。
本当はすぐ帰りたかったが、
(ながくなるのは見えていたので)
Noという空気ではなかった。

その少し前、たまさか、
シニアメイトで実験的に
公開テーマ活動と称して
その日に来たラボっ子たちと
役も何も決めないで自由に
テーマ活動をするという試みをしており、
それをらくだ・こぶに氏は見ていたので、
話はしぜんと『こつばめチュチュ』の
ことになった。

ぼくたちの活動については、
試みとしては評価すると前置きしてから、
散々にダメ出しされた。
「いかに自由にといっても、
中心となる君たちひとりひとりが
浅い聴き込みと理解なのは情けない」
ということだった。
実験とはいえ、
聴き込みが浅かったのは事実で
反駁することはできなかった。

「前半についてはよく意識していたが、
後半まで緊張が続いていない」
「……たとえば?」
「『あれはシドニーまでいくんですよ』
とマスケル先生はいうが、
『もうすぐきみたちも飛ぶ。
鳥は飛行機ほどはやくないが、
ツパメは鳥のなかではいちばんはやい。
だから、虫を食べて身体をつくりなさい』
といったことを教えたいのだよ」
「なるほど、マスケル先生すごいっすね」
「じつにいいタイミングで
飛行機が飛んできた。
なにかバラバラのような
先生の質問も、
答は全てツバメだ。
ツバメの誇り、矜持を教えたい。
マスケル先生はちゃんと
目標をもって授業にでている。
そして運動会だ」
(この人はそんなことまで考えて
物語を書いているのか)

「『こつばめチュチュ』の物語は
間宮さんの音楽で始まる。
この冒頭の短い音楽はなんど聴いても
ツバメが飛んでいる音楽ではないだろう」
「そうすね、ぼくたちも
ツバメの話だからと決めつけて
はじめは飛ぼうとしました。
ところがなんだか変でした」
「うむ、ありは小学1年生!
という音楽だ」

かつてなんども書いたが
音楽は時間的だ。
時間は流れていくから、
音楽に支配性をもたせることが
物語を立体的に描くラボ・ライブラリーに
音楽がある積極的な意味だ。
時間的でも空間的でもない
テキストをコントロールするのは音楽だ。
このことを教えてくれたのがSK8だ。

たった7秒くらいの
ブリッジといわれる
短い音楽でも「一夜明けて」みたいな
時間の経過がわかる。
しかし音楽は空間や心象については、
それを示すとはかぎらない。
悲しい話だから悲しい音楽になるとは
かぎらない。
音楽が必ずしもその場の動きを
決めているわけではない。

ラボ・ライブラリーの音楽はBGM、
背景音楽ではない。
銭湯の富士山ではない。
ときには物語の前で、
ストーリィを牽引したりもする。
また、音楽とことばとの関係は
じっとラボ・ライブラリーを
聴くときと、身体をつかって
動くときでは変わってくることがあるのも
おもしろいと思う。

で酒席の続き
「三澤よ。チュチュが飛ぶ練習をしているときの
『来年もまた帰ってきますかね』は
必死にリハビリするチュチュが
まだまだ心配なのだ。
次の『もちろんだとも』はさらなる激励だ」
「であるなら、ぼくの想像では、
ここでのチュチュは
まだまだ鮮やかに
飛んでいないのですね。
ときおりふらついているかも」
「ふむ、君はたまに
まともなことをいうな」

絵本は吉原英雄先生だ。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家のおひとりであることは
いうまでもない。

「チュチュ」絵は
2つのパターンの変化だ。
恐るべきことに
吉原先生を知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。

この酒席でらくだ・こぶに氏に
そのことをきくと氏は呆れた顔で、
チュチュを没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだと
教えてくれた。

さらに、その日は機嫌がよくなったのか
「チュチュは注射もがまんする
なかなか強い子だが、
とりわけ優等生ではない。
ふつうのツバメがトラブルに巻き込まれ、
仲間と離れて暮らして
少し成長して帰ってくる。
落下してケガをして少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と問わず語り。

その少し前には酔いのせいか
少し前傾していた姿勢が
いつものビシッと伸びた背筋になった。
そして両肘を張ってぐいと盃を煽ると
「そろそろ行くか」といった。

ところでテーマ活動で
運動会の場面でみんなが
チュチュを先頭にしようと
全力でとばないことがあるけど、
ここでは子どものもつ
全力さがたいせつなんだなと
ふと思った。
ラボ・カレンダー3月 色の音、「ヒツジになるなヤギになれ」 03月01日 (木)
三澤制作書のラボ・カレンダー3月をめくる
The Sounds of Colors
Be a GOAT!
tbynt

弥生である。
日本の3月の空は「霞みか雲か」で
すっきりとは晴れない日が多い。
しかし、今月の絵の空はなんとも清々しい。
快晴ではなく雲がたなびいてはいるが、
全体にスカッと抜けた色合いがかっこいい。

描いてくれたのは
繁田真言くん(6歳/兵庫県・高島良子P)。
2015年に96歳で亡くなった
アメリカの絵本作家
Marcia Brownの
The Three Billy Goats Gruff
『三びきのやぎのがらがらどん』に
題材を求めて制作されたラボ・ライブラリーに
inspireされた作品。

この物語もラボ・カレンダーの題材に
とりあげるラボっ子は多く。
毎年かなりの点数が送られてくる。
したがって過去には名作、傑作が
綺羅、星の如く居並ぶので
それを超える作品となると
なかなかたいへんである。
もちろん、画風や画材の違い
年齢差などがあるから比較は困難だが
「すげえ」「渋い」「カッケー」
「負けたわ」「鳥肌」なんていう
感性直撃の絵が数多くでるのが
この『三びきのやぎのがらがらどん』だ。
それはやはり原作絵本、
そしてラボ・ライブラリーの力よるもので
題材のパワーが子どもたちの絵力を
引き出しているのだろう。

原作の話は後にして
繁田くんの絵を見ていこう。
ぼくが最も感じたのは、
個性、のびやかさ、とらわれのなさ、
楽しさといったところが
とびぬけてすばらしいということ。

フォルムも色もdetailも
絵本から距離をおいている。
構図や登場するキャラクーは
もちろん参考にしているが、
「画本の写し」ではなく、
十分な聴き込みによって
inputされた物語の
イメージ(ことば 色 音楽)が
彼の中で反芻され咀嚼され、
真言くん自信の色と形になって
それも楽しいリズムを伴って
溢れだしたのだと思う。

後で触れるが、
瀬田貞二先生は、
『三びきのやぎのがらがらどん』の
色には音楽とことばがあると
いわれているが、
真言くんの絵は、
そのブラウンの音楽とことばを
受けとって、
本歌取りのごとく
originalityに満ちた音楽とことばを
生みだした。

クリエイターにとって、
作品に感動してもらえるのは
とてもよろこばしいことだ。
しかし、さらにそこから
新しいものが生まれることは
最大の幸福である。
ブラウンもっと微笑んでいるだろう。

もうすこし細かく見よう。
フォルムはじつにのびやかで自由だ。
トロルもヤギも橋も山も
真言くんの闊達さがきもちがきもちよい。

しかし全体もちゃんと見ていて、
バランスが美しい。
空の面積と山の面積、
トロールの位置とヤギの位置などは
比率を計算してみたくなる関係だ。
また、中央に鳥、橋の下にも生き物を
描き込んでいるのは、
先ほどいったようにイメージがあふれた結果だが、
それがまたふしぎな印象を作ったている。

輪郭を色鉛筆(たぶん)でとっているが、
その線に迷いが無いのと、
彩色した色と同系色の線なので、
世界が分断された感や「ぬりえ感」がない。
要するに自由闊達なんだけど、
揺るぎないイメージにる独自の造型がある。
そして、橋の湾曲した感じと
緑のヤギの少し前のめり(これ大事)の姿勢、
トロルのひろげた手からは、
速度感、躍動感が伝わってくる。
これもすごいぞ。
mim
それからこれも見逃せないのは
トロルにもヤギたちにも
皆表情があること。
物語がvividに響いてくるのだ。

そして色は、まさに真言くんの
独自ののメロディとリズムを奏でている。
まず、橋がtwo-toneのだんだらなのがおしゃれで
これが強烈なimpactだ。
北欧の岩山が緑なの? とか
野暮ををいう奴は前に出なさい。
ヤギの色がなんで全部ちがうの? とか
センスのないことをいう輩は
はだしで逃げなさい。

北欧の民話とか自然とかは
真言くんには関係なくて、
小さな頭ではなくでっかいハートで
物語をたっぷり感じているから
これだけ独自の世界が描けるんだろう。
だからこそ、
彼がこのお話をどんな聴き方をしたのか
また、どんな活動をしたのか知りたいものだ。

色彩は見ての通り個性的だが
色に濁りがなく、
また同系色の濃淡の使い分けが巧みだ。
白い雲もひぼんで、
普通だったら「ポッカリ浮かんだ」ように
固まりの雲を描くのだが、
空の上から大胆に使ったwhiteは
ことばを失ってしまった。

なんどもいうが
自由でのびやかだが
全体にも細部にも心が届いている。
そして何より楽しんでいるが、
この描き込みから想像するに
相当疲れたのではないだろうか。

ヒツジは群れたがるが
ヤギは群れないし付和雷同しない。
いたずら者のパンもヤギの身体だ。
真言くん。
Be A Goat!

The Three Billy Goats Gruff
はノルウェーの民話作家であり、
民俗学者、動物学者でもある
アスビョルンセン、Peter Christen Asbjørnsen
と友人のヨルゲン・モーJørgen Engebretsen Mo
が編んだ『ノルウェー民話集』1841-
に収録された民話をもとに
マーシォ・ブラウンが絵本にしたものだ。
ノルウェー語の原題は
De tre bukkene Bruse
でBruseがヤギの名前だが、
これは「うなり声」「咆哮」の意であり、
それをブラウンは英語で
「しわがれ声」「どら声」の意のGruffとした。
それを瀬田先生は「がらがらどん」と邦訳された。
「どん」は殿が変化したもので
「かにどん」とか「西郷どん」、
「おたけどん」のように愛称、尊称、
ときしに蔑称にも使われる。
なお性別は問わない。

ラボ・ライブリー
『三びきのやぎのがらがらどん』の
英語音声を担当されているのは
Elizabeth Handoverさんという
英国人女性だ。
当時は広尾のインターナショナルスクールで
教員をされていた。
英語でも日本語でも職業由来の姓は多いが、
Handoverさんの由来はわからなかった。
いまは亡き「鉄の女」Thatcherさんは
「屋根葺き職人」である。

Handoverさんの
語りがすばらしいのは
ライブリーを聴いた方には
説明の必要はない。
感情を抑制し、かといって冷たくならず
昔話の温かみをたいせつにした語りは
何回でも聴ける。
そしてきもちよいリズムがありながら、
単語ひとつひとつの発音、
とくに母音が明るく
きれいに出るように
心がけられている。
いわゆる曖昧母音を
明るくきれいにというのは
なかなかできることではない。
でもHandoverさんによると
女王陛下の英語なら当然とのことだそうだ。
accd
最後に瀬田貞二先生は、
「ブラウンの色の使い方は
そこからメロディがきこえるような
音楽的であり、かつ象徴的である。
主に空に使われているコバルトは勇気、
トロルや山などに用いられている
ブラウンは脅威、
そしてイエローは平和と安らを歌っている。
読み手は茶色でドキドキし、
コバルトで激励され、
ラストで黄色で安心する」とおっしゃっている。
真言くんは、もちろんこのことは知らないだろう。
ただ、ブラウンの音楽性を受け取り
新たなる自分のメロディとリズムを
奏でたのだ!

ラボ・ライブリーの音声録音は
基本的には英語も日本語も
スクリプト、すなわち
台本を用意して
それを読んでもらうのだが
絵本作品の場合は、
テストでは直接絵本を読んでもらう。
やはり絵本の絵がもつ意味や
温度や音楽性などを
感じとった身体から出てくる声で
録音したいのだ。
声は「喉」から出てくるが
「ことば」は身体と心から
生まれてくるのだ。

このアスビョルンセンは元々は
自然科学が専門だったが
グリム童話を読んで、
ノルウェーのけわしくも美しい自然が生み出した
妖精たちが活躍する物語、
そこに生きる人びとの心と知恵の話を
ノルウェーのことばで
子どもたちに伝えようと考えた。
そして、その仕事はノルウェーの国語の
純化という大きな役割を果たした。

アスビョルンセンは1885年、
73歳で、故郷であるクリスチャニアで亡くなった。
このクリスチャニアは
現在では「parallel turn」と呼ばれる
スキーを平行に揃えて回転する技術の
名前でもあり、
ノルウェーの首都、オスロの古名である。
三澤制作所のラボ・カレンダー2月をめくる。 AND OVER THE TOP OF THE MILKY WAY 02月01日 (木)
2月になった。
もっとも寒い時期だが
春隣でもある。
如月の由来は、「着更着」からだと
という説がある。
例によって諸説の一つにすぎないが
説得力があるほどに
このところずっと寒い。
byt
今月の絵は、アメリカの絵本の巨人、
もっともNY TIMESによれば
Author of Splendid Nightmaresだそうだが、
(これは彼が83歳で他界したときの見出し。
だけど続けて絵本作家とはいわず
「子どもの本の偉大なArtist」と
表現しているところに
NY TIMESのセンダックへの
高い評価がうかがいしれる)

モーリス・センダックの
IN THE NIGHT KITCHEN
『まよなかのだいどころ』に
題材をもとめて制作された
ラボ・ライブラリーに
強烈にinspireというか
電撃をうけた作品だ。

描いてくれたのは
酒徳航佑くん(小1/東京都・西田千尋P)。

いやあ、やってくれるわ。
1月につづいて攻めてるなあ
ラボ・カレンダー!
nice guts and super senseだ。

めくった瞬間、主人公ミッキーの
寝室にすいこまれただけでなく
ノータイムでニューヨークの
夜空にもっていかれた。

IN THE NIGHT KITCHENを
テーマにした「カレンダーのえ」は
2015年の12月以来だが、

このあざやかなスーパーフルムーント
それを横切る流星を見ると、
今回もぼくのすきな曲
クリストファー・クロスの
「ニューヨークシティ・セレナーデ」
のサビを思い出した。
When you get caught between
the Moon and New York City 
きみがニューヨークシティと
月のあいだでつかまったら
The best that you can do is fall in love.
きみができるのは恋に落ちること
(クリストファー・クロスは
visualは小太りおじさんで
この絵本のパン屋さんだが、
声はびっくりのhigh-keyでmellow)

告白すると、ぼくはフライイングはしないように
しているが、1月末はスケジュールが
タイトなので、
30日の夜に、どんな感じかなと
ちら見した。
で、これはまずい! とすぐにめくって
それから毎日ながめて、
そして今日やっと書いている。

これはみなさんもそうだと思うが、
主人公ミッキーもTrio de パン屋 Amigosも
人物はなにも描かれていない。
ただ魅力的で蠱惑的なNYのmidnightが
広がるだけだ。

航佑くん自身もこの物語に
取り込まれていて、
「どこのなにを描いた」という
感覚ではなく、
IN THE NIGHT KITCHENの世界を
描いたのだと思う。

しかし、3日間ながめて、
あえて絵本のどこをベースに
しているかといえば
ミッキーが高く舞い上がった
見開き一枚絵の一つ前のページ、
対応する文でいえば
AND OVER THE TOP OF
THE MILKY WAY
IN THE NIGHT KITCHEN
のベージだと推測する。
しかし、そんなことはどうでもいい。

violetやpurpleの濃淡ある
夜空の美しさ、
されを彩る星屑たちとネオンライトの
collaboration。
いやいや美しさというと月並み過ぎる。
透明感と奥行きもあって
べたっとしたぬり絵にはなっていない。

そしてなんといっても
左上半分に大きく描かれた満月の
さやけさと
その上方をかすめ飛ぶ流星のスピード感!
こり流れ星は、きっとこのカレンダーから
真夜中には画面から飛び出して
夜空で星たちと遊んでから
夜明け前にしれっと絵に戻っているはずだ。
ウソじゃないぜ。

航佑くんは、夜空と月と流星以外は
思いきって省略しているが
列車だけは残した。
それは男子のお約束ではあるが、
原作絵本にはないステキな色を
しかも車両ごとに変えたことで
この絵にアクセントがつき、
奥行きもさらにひろがって
月の対象物ともなっている。
だから月がより美しくなった。

鉄橋の左端に売る建造物に書かれた文字は
解読はできなかったが
K t i Cは読める。
Kitchenと綴りたかったのか、
絵本に出てくるChampionなどを
まねたのかは不明。
本人がデザインとして描いたがのか
タイトルを意図したのかが知りたい。
大きなことではないが、
航佑くんの中での意味あいはどうなのだろう。
ytt
センダックはブルックリンの生まれで、
その作品には、彼の本質である
あたたかくするどい
子どもへのまなざしとは別に
都会的な華やかさと洗練、
その裏の孤独があらわれる。
それに近い感性も航佑くんの
絵から感じるのだが……。

とてつもない邪推かもしれないが
航佑くんは
ふだんそんなに絵を描かないのではないか。
逆にいうと、少なくとも絵ばかり
描いている少年ではない気がする。
違っていたらごめんなさいだが。

ただ、絵を描かない=絵がきらい、
ということではない。
ものすごいimpactを受けたとき、
いきなりすごい絵を描くことって
小1ぐらいだとよくある。

私事で恐縮だが、
長男は絵を描くことはほとんどなく、
ぼくも強制はしなかったし、
描くときは「絵はなんでもあり」と
伝えていた。
それが小1の冬、学童保育で
読売ランドのスケートリンクに行き、
それは人生初スケート
(ぼくはスキーはするがスケートは
しないのでスケートは連れていった
ことがない)
だったが、とてもおもしろかったらしく、
鷺沼小学校の図工の時間に
そのときの絵を描いた。
それは中央に片脚をあげて滑っている
友だちを大きく描き、
その後方や周囲に他の学童保育の
仲間たちを数名描いてるものだ。
ふだん絵は描かない子なので
人物のproportionとか
(顔が大きくて手足が細い!)
フォルムは本なのだが、
何より子どもたちのスケートを楽しむ
開放された表情や躍動感が伝わってきた。
結局、その絵は学校から代表で
宮前区にいき区民館に展示され、
さらに区代表の数点の一つになって
川崎市役所でも展示された。
それ以後、彼が絵を描くようになった
ということでもない。

現代の6歳男子の日常から
描画がなくなるのは残念ながら
現在の学校教育や
iT環境、遊び方からすれば
ごく自然なのかもしれない。

しかし航佑くんが
紗が絵がきらいで、
またこの物語があまり好きでなく、
つきあいで描いたとしたら、
ここまで全面を描ききることは不可能だし
これほど星はきらめかないし
月やよぞらにぼくが
恋することもない。
そんな力を持った作品になることはない。

列車か走る鉄橋というか橋梁や
文字、そして月の一部や流星の一部は
クレパスで描かれ、
その上から不透明水彩で彩色されているが、
このカレンダーの規定サイズで
行うとのは、絵をほ毎日描くような子にとっても
相当な体力と気力がいる作業だ。

センダックあるいはこの物語が
航佑くんにのりうつり、
なにか超自然的な力に
このラボ・ライブラリー
との出会いで導かれて
「ものにとりつかれたように」
航佑くんは夢中で
描きあげたのではないか。
その背景にある
彼と物語の関係、
ラボ活動を知りたいものだ。
これらは推測だから
ハズレだったら笑いもの。。

「ものにとりつかれた」の
「もの」は
「ものがたり」のものであり、
「もののけ」のものであり
「ものさみしい」のものである。
かつて中国から鬼という字を
学んだとき、
日本人はこれに
「かみ」とか「もの」
の音をつけた。
超自然の不可視の力を
「もの」とか「かみ」とよんだのだ。

だから、「ものがたり」は、
そうしたふしぎな力が
語り手にのりうつって
語らせているわけで、
それゆえに聴き手は
遠くにつれさられてしまう。
だから
物語の力が航佑くんに
筆を走らせたのだとしか
説明しようのないものを
ぼくはこの絵から感じる。
それは2015年の12月の絵でも感じた。
この絵を見て、
なんか人間いないじゃんなんていう
寝言はとてもいえないのだ。

センダックは
子どもの心はおとなが
思うようなシンプルなものではなく、
怒りとか恐怖、ジェラシーとか
あきれるほどたいくつな時間の長さといった
シヴィアな感情が
どろどろしていることを絵本で表現した
最初の作家だと思う。
さらに子ども身体の感覚、
皮膚の触感や、臭い、味覚などの
リアルな生理を通過していない
きれいごとのファンタジー作品を
吹きとばした作家でもある。

『まよなかのだいどころ』も、
まさに身体感覚が要だ。
夜中のキッチンの
作業の触感は
子どもたちには
泥遊びのような快感。

以前にも書いたが、
ぼくは若いときから、そして今も
どんなに忙しくても、
仕事や遊びから帰って
風呂に入って着替えて
即睡眠ということがいやだ。
なにかしらプライベイトなことを
5分でもしないと気がすまない。
仕事モード、遊びモードのまま
寝るのではなく、
なにか本を読むとか
映像を見るとか、
自分へのインプットをして
自分自身に戻らないとダメなのだ。
だから、ベッドサイドに
本を積みあげる。
しかし、疲れているときは
数ページで寝てしまう。
アホだと思うが、
わずかでも自分だけのための
時間をとることで
リセットできるのだ。

眠いけれど、寝たくない。
あのせつない感じ。
子どもの頃、
ぼくは小6まで20時に
寝るように親にいわれていた。
だけどおとなたちは、
楽しそうなことをしているに
ちがいないという妄想。
いいなあと思いつつ
やっぱりひとりで眠りに落ちていく。
目醒めと入眠のあいだのセレナーデ。

センダックは「絵や物語の能力などないが、
幼少期の記憶は明確にある」
と述べているが、
幼い日のセレナーデが
まだ聞こえていたにちがいない。
bvg
『まよなかのだいどころ』は
1970年の刊行当時、
主人公のミッキーが
全裸で描かれている場面が
問題になったことがある。
今なら滑稽な話のようだが、
3年前にヨーロッパの一部で
クマのプーさんが
裸であることが咎められて図書館から
排除されるという事件があったが、
この絵本も児童ポルノではないかと
指摘する評論家もいた。

確かに、ピューリタニズムの
裸に対する忌避感はノアの方舟後の
エピソードに遡るほどに根深いし
幼児、児童の性的被害が
世界的な問題となっている
状況を考えると笑えない話ではある。
しかし、もっと怖いのは、
そうした風潮から
表現の自粛や規制が
進行していくことだと思う。

『かいじゅうたちのいるところ』も、
子どもに悪夢をもたらすと
刊行時はめちゃくちゃにディスられた。
しかし、この絵本は世界で
2000万部売れた。
子どもは選別する能力を
ちゃんと持っている。

うわべや権威や、あまい菓子や
そのばしのぎの理屈や、
なれなれしさといった、
子どもが見抜くおとなの手練に
常に抵抗しつつ
子どもの心の深いところに
寄り添っていたアーティスト。
であるがゆえに、
自身は深い孤独を
内包していた表現者。
航佑くんが「ものにとりつかれた」
かどうかは別として
センダックの魂は確かに
航佑くんに届いている。
btb
以下はオマケ。
ラボ・ライブラリー
『まよなかのだいどころ』の
日本語の語りは
俳優の西沢利明さんである。
文学座から劇団雲へ。
雲の解散後は昴で1997年まで活躍した。
その後はテレビや映画に進出して
知的な悪役は絶品だった。
憎まれ役が多かったが、
素顔はとてもダンディで
真摯でやわらかな物腰の方だった。

この作品の声には、
知性と凄みと夜が必要だったから
ぼくはどうしても
西澤さんにやってもらいたくてオファーを出したが
すぐに出演を快諾してくださり、
ラボのコンセプトも
しっかり受けとめてくださった。
残念ながら一昨年、
77歳で他界された。
2018ラボ・カレンダー1月の絵。 「永遠に生きるつもりで学べ 今日、命が終わるつもりで生きよ」 01月10日 (水)
2018ラボ・カレンダー1月の絵。
「永遠に生きるつもりで学べ
今日、命が終わるつもりで生きよ」
jojo
三澤制作所のラボ・カレンダー2018登場。
年末31日までは表紙を楽しんでいたが
報告したとおり27日から風邪をひき
1日の朝にフラフラになりつつ
雑煮を作ってから気合いでめくった。
それから一昨日まで、遠目で眺め
昨日の朝、やっと手元に置いて
じっくりと拝見した。

◎年初にあたりあらためて
「ラボ・カレンダーの絵」を
書くぞ宣言

2018の年頭を飾る物語は
ご存じ『はらぺこあおむし』。
アメリカの絵本作家エリック・カールによる
THE VERY HUNGRY CATERPILLARに
題材を求めたSK28収録の
ラボ・ライブラリー作品に
思いを寄せた絵だ。

描いてくれたのは濱砂俊介くん
(小1/愛知県・井村恵P)。

例によって前置きが長くなるが
年のはじめにあたり、
大事な思いを少しばかり書くので
お付き合いいただきたい。

ラボ・カレンダーの1月の絵は、
新年のラボの中間の壁を飾るだけに
選考の際にはかなりの激論になる。
しかし、だからといって、
1月の絵の必要十分条件がある
わけではない。
基本はどの月の絵も同じで
「どれだけ物語に突っ込んでいるか」
「どれだけ物語を愛しているか」
また「季節感」などの
カレンダーならではの要素
なんかをベースに
絵が醸し出す「想像力」「執着心」
「やさしさ」などの
とぢらかといえばinvisibleなfactorsを
どれだけ選考委員たちがくみ取るか
といった関係なのだ、

だから、いつも書くが
「ラボ・カレンダーの絵」は
コンテストではなく
あくまでも子どもたちの
描画活動を激励するという
教育プログラムであるわけで、
それは選考するおとなたちが、
どれほど前述したような
子どもの感性や
表現力をその絵から
感じ取れるかという
「おとなの感性応用問題」であり、

さらにいえば、
テーマ活動発表と同様に
ラボ・カレンダーの絵を観るすべての
ラボっ子、ご父母、テューターが
毎月の絵から「なにを感じ、
なにを学び取るか」が提案されているのだ。

1枚の絵から
「この子は物語のなにを感じたのだろろう」
「物語とどんな睦みあい方をしたのだろう」
「どうしてこんなにもこの物語を愛し、
そして物語に愛されているのだろう」
そんなことに思いを巡らしてほしいのだ。
fvvf
なぜなら、しつこくいうが、
ラボ・カレンダーの絵の活動は
教育プログラムだからだ。
さらにしつこく書くが
テーマ活動の発表を観ることもまた
教育プログラムであるように
ラボ・カレンダーの絵を観ることも
まちがいなく重要な教育活動だ。

ぼくはこの数年、
ラボ・カレンダーの絵を「観想」を
毎月書き続けてきたが、
それはけして「批評」でも「評価」でもなく、
ぼく自身が「この絵からなにを
感じ取り、学んだか」を自分のために
整理しているにすぎない。
だから、多分絵の専門家からみたら
「なにを的はずれなことを」
書いているのかもしれない。
ただ、なんとなくおもしれえじゃないかと
いってくださる奇特な方がいるので
だらだらと続けているし、
逆にかけなくなったら、
自分の能力と感性
が枯渇するときだと思う。

それともうひとつの
揺るぎない確信(妄信)は
現役の職員時代、
多くの素晴らしいアーティストの
作品に触れるとともに
毎年3000枚以上の子どもたちの絵を
25年間、総計10万枚を超える点数、
見続けてきたことの幸せも
いまの自分の血肉になっているということ。


勢いついでに
さらにさらにいえば、
ラボ・ライブラリーそのものが
子どもたちへのメッセージであるとともに
ラボ・カレンダーの絵も
社会へ、時代へのメッセージでもある。

なぜなら、物語を聴きこみ
再表現するラボっ子は、
その時代の気分や空気を
おとなよりもvividに伝える力を
自然に持っているからだ。
大げさにいえば(けして大げさではないが)、
「時代精神」「危機感」「希望」など゛
が子どもたちの絵には含まれている。

ラボ・ライブラリーにとりあげられている
物語は、古典作品や神話伝説、
創作童話などの多岐にわたるが、
それらに共通するのは、
人間および人間文化の普遍的本質が
内包されていること、
のみならず、それらの本質は
母語と外国語の音声、
そして音楽と絵という
立体的に描かれてる。

だから、ラボの子どもたちは
時代の尖端を生きながら、
歴史が築いていきた価値と
それを自由に再表現する
diversity、多様性を同時に
取り込んでいるのだと思う。
それらはカレンダーの絵で見れば
空間や色、バランスなどの
新しい感覚である。

◎排他的な空気への警鐘

しかし、時代の空気は
いいことばかりではない。
社会の不条理や歪みもまた
子どもたちを直撃する。

ぼくが今もっとも危惧するのは、
アベノミクスという不可解なtermに
象徴されるように、
「経済的価値」
「経済効果」の追及に
社会が偏るとき、それが生み出す
influenceは子どもたち、
高齢者、そして社会的に弱い者を
容赦なく襲い、それが「希望」を奪うことだ。

とくに経済的価値の追及は
基本的には
競争原理に基づいており、
そこには損得という零を基準にした
単一線上での争いがあり、
「思いやり」「寛容」を受け入れない
傾向を強く生み出す。
そして損得という二元論的価値判断は
その損得の要因を
自分の外側に求め、
そのことが異質なものに対する
排他的傾向を生み出していることだ。

そのきびしい時代の気分
という意味では
俊介くんの絵からは、
これまでにない
「静かな叫びと警鐘」を感じさせてくれる。
しかし、けして絶望しない
強さと希望もまた伝わってくる。

俊介くんの「あおむし」は
かなり痩せていて、
見るかにはらぺこである。
しかしその眼には
「とにかく前に」というpureな
意思がみなぎっている。
それはいい意味での貪欲さであり、
単なる食欲を超えた
精神の飢餓が求める学びへの渇望だ。

そして右側に描かれた
巨大な太陽のimpactには
誰しもが圧倒され、そして考えこむ。
諸姉兄にはこの太陽はどう見えるだろうか。
じつはぼくには毎日違って感じられる。
困惑しているようにも見える。
激しく描かれているflareは
味代と社会の汗のようにも思える。
しかし今朝などは、
ニコニコとあおむしやぼくたちに
元気のよいあいさつをしているように
感じられた。

これはぼくの全くの想豫というか
当てずっぽうなのだが、
俊介くんは、いわゆる
「ヒマさえあれば絵を描いている少年」
ではないような気がする。
(違ってたらごめん)
だからといって、この作品が
おとなに指示されて描かれたものではなく、
極めて主体的に表現されたものであることは
ぼくにもわかる。
じっと見ていると
それはわかってくるのだが、
あおむしにしろ、太陽にしろ、
背景の空にしろ、大地にしろ、
そして浮かんでいる「たべもの」にしろ、
その彩色や描き込みが
ちょっと見には単純なようだが、
じつはじつはかなり力強く、
いい意味でしつこく、
かなりの粘着力でなされてるのだ
(風邪をひいて寝転がって見たときと
手に取ったときは、
この絵の風景はまったく変わった)。

もう少し具体的に書くと
背景や食べ物のgradationの微妙な
変化もなかなかのセンスなのだが、
食べ物のひとつひとつのforme、
そしてあおむしが食べ抜いた穴の
touchが、すっと描いているようで
じつはかなりこだわっている。
結構「ごてっ」と描いている。
食べ物それぞれの大きさの変化、
色の選択も個性的だ。

そして何より立ち切りにした
太陽の大胆な描き方、
黄色いflareのtouchは、
この絵のアクセルといってもいい。
また、空の濃淡も、
けして「ペタッとした」ぬり絵ではない。

さらに(今回はこのことばだらけ)!
全体に大胆で闊達に描きながら
あおむしの描き込みの繊細さがすごい。

俊介くんは(これも想像だが)
この絵を小1で描いたわけだが、
たぶん身長はそう大きいほうではないだろう。
だとすると、ラボ・カレンダーの
応募サイズの画用紙は
彼の肩幅よりはるかに大きいと思う。
それをこれだけがっちりと描き込み、
余白を残さずに仕上げるには
相当な体力と精神力が必要だ。

そのバワーを生みださせた
この物語と俊介くんの関係、
彼と物語の睦みあいを知りたいものだ。

ただ、たしかに思うのは
時代の空気、
なんとなく息苦しい、
異質な物を認めない風潮に対する
俊介くんなりの警鐘と抵抗が
伝わってくること。
そして、そこからの飛翔は
困難な道ではあるが
けして絶望の旅ではなく、
「行動する者は希望を持て」と
呼びかけてくる彼の勇気だ。

あおむしは今朝もぼくに語りかけた。
「ぼくはぼくらしくある。
だからきみもきみらしくあれ」
「個性を認め合うことだけが、
異なるものをはいじょしないことだけだけが
ぼくたちが蝶になる道なんだ」

◎エリック・カール氏と
『はらぺこあおむし』
erg

以前にも書いたが『はらぺこあおむし』は
毎年のたくさんの絵が送られてくる
大人気テーマのひとつだ。
この作品が発刊された年のカレンダーの絵では
選考会の部屋じゅうが「あおむしだらけ」
になってしまったほどだ。

原作の持つ明るく鮮やかな色使い、
円の連続で構成された親しみやすいフォルムは、
確かに「描いてみてくなる」要素満点だ。
でも本質はそれだけではなく、
ティッシュのようなやわらかい紙を基調にした
コラージュ風の画風など、
一見素朴でわかりやすいが
極めてテクニカルで奥行きのある絵が
子どもたちを捉えて離さない
(エリック・カール自身もその技法を
公開しているが、単純なドローイングに
見えて質感のある作品は彼の魅力の一つ)。

さらに、この絵本のもつ
「子どもの生理によりそう」感覚も
子どもたちに愛される理由でもある。
成長に欠かせない食欲という野生の力、
また「食べすぎでお腹が痛くなる」という
幼いときに必ずといっていいほど
体験する失敗は、まさに子どもの生理と心裡に
直結している。

センダックは「子どもの不安や苛立ちに」
寄り添ったが、
カールは子どもの原始的な欲望や生理に
暖かく寄り添っていると思う。

この絵本が出とき、
いわゆる「絵本評論家」たちや
絵本好きグループからは
かなりディスられた。
「絵本ではなく玩具
(穴が空いてたりするから)」とか
「ストーリィがない」とか
「甘いお菓子のようで身体にも
心にも悪い」などといった具合だ。
それらは、当然カール氏
の耳にも入ったが、
彼は気にすることなく作風を変えなかった。

絵本はヒットし、ピジネス的にも成功すると
さらに批判は出たという。
このライブラリーが刊行されたとき、
たまたまカール氏が来日し、
ラボの事務所にも立ち寄り、
子どもたちのインタヴューに応じて
くださったが、
そのとき彼は
「玩具とか駄菓子とか評されることは
全然気にしていない。
絵本に穴が空いていると何が問題なのか
わたしにはわからない。
ただわたしは子どもたちに可能な限り
アーティスティックにものを手渡したいと
願っており、それがたまたまた
こういう本のかたちになっているに過ぎない。
だから、絵本というせまい箱に入れられ
なくてもわたしは気にならない」

またカール氏は
「今の子どもたちは本を読まないという。
でも大昔、夕食後、洞穴の入口で
ぼんやり満月を見ていて母親から
『月ばかりてないの』といわれた子は多い。
そして、時代が進み、たき火を
ずっと見ている子がいた。
さらに『テレビばかり見て』という時代があり、
今はPCのゲームだ。
だけど、人間の文化、芸術は滅びたかね。
その後も今もこれからも
子どもたちはなにか夢中になりながら
おとなになり、やがてみんなが夢中に
なるものを創作していく。
月も焚き火もテレビもPCも
大した違いはない。
ぼくもそうしたものを
できる限りアーティスティックに作りたい」

風邪をひいた年明けは、
もういいかなと思ったけど、
今年も1年、「ラボ・カレンダーの絵」は
半ば意地で、半ば洒落で半ば本気で
続けようとしておもいます。

マハトマ・カンジーはいいました。
「永遠に生きるつもりで学べ。
今日、命が終わるつもりで生きよ」
フレームのない空間で地球を見ようーーラボ・カレンダー12月 12月01日 (金)
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる
I'll put a girdle round about the earth
In forty minutes.
nun
師走である。
「しわす」あるいは「しはす」の語源は
よくわかっていない。
いくつかの辞書には「年果つ」(としはつ)
が変化したものだと出典も含めて
とりあげているが、
その出典のもとをさらに掘ると行き詰まる。
巷間にいわれる普段は落ち着いてる
師も走り回るという説は
師の正体あいまいさとともに俗説だ。
(僧侶という説は根拠不明)
国語科の先生に聞いたら
平安時代にすでに「しはす」という語はあり、
その時点で「由来不明」だったそうな。

色々あり過ぎた2017年の最後を
大団円で締めくくるのは
ラボ・ライブラリー
A Midsummer Aught’s Dream
『夏の夜の夢』にinspireされた作品だ。
描いてくれたのは
野村あい(中2/吹田市・野村P)さん。

ラスト月なのでちょっと前置きが長いが
2017カレンダー総括の意味もあるので
ご容赦願いたい。

今年のカレンダーは、
高学年ラボっ子の入選が
例年よりも増えた感があるが、
これはおもしろいし楽しい傾向だと思う。
幼い子の「とらわれのない」「伸びやかさ」
「発想の豊かさと自由さ」は
人間はある程度の年齢以上に成長すると
どうしても失ってしまうが、
(逆にそのことを成長と呼ぶわけで
失うものの一方で、思慮とか配慮とか
計画とか目標とか意志とかを身につける)
小学校語5年生以上や中高生が
本気になってこの活動に参加してくれるのは
ラボ・カレンダーに新たな可能性が
生まれる期待が持てる。

そして、もうひとつの特長というか
びっくりは、
『夏の夜の夢』を描いた作品が
3点入選していることだ。
1巻のライブラリーのなかから異なる3点が
入選することも稀有だが、
同一の物語から3点入選は
ラボ・カレンダー史上
たぶん初の快挙というか新展開だ。

過去にも書いたが
一応「ラボ・カレンダー入選内規」
というのが不文律としてあって、
毎回選考会の時に確認するのだが、
「同一パーティからの入選は2点まで。
同一の物語からの入選は原則として複数にしない。
ただし新刊は応募点数も多いので除く」
とあるのだ。

もっともこの内規は
ぼくが在職中に勝手に作って
いい渡していたことなので
入選憲法のようなのではない。
でも「ぶれない基準」を定めておかないと
いざ選考というとき、
それも最終選考の段階で
悩ましいことになる。
その内規はこの間、
ずっと受け継がれているな
と思っていた。

しかしこの内規も
「新刊は複数あり」とはいっていても
3点以上はダメ、2点までとはいっていない。

ラボ・カレンダー最大の目標・意味は、
「ラボっ子の描画活動を激励しよう」
という心意気であり、
「描画も広い意味でのテーマ活動で、
物語と聴き込み、向き合い、仲間と
再表現する過程のなかで生み出される
表現のひとつ」という教育プログラムでもある。
だから「コンテスト」ではなく
あくまで活動なのだ。

したがって入選のなかに順位はないし、
たとえ入選しても、
賞状も賞品もない(いまは知らない)。
ただカレンダー1部が作者用としてぞうていされ
それに「ことばの宇宙」からの
手紙がつくだけだ。

そしてもうひとつ
ラボ・カレンダーには
ラボ教育活動及びその水源である
ラボ・ライブラリーの
パプリシティとしての役割もある。

なんといって32年にわたり
子どもたちが物語をテーマにした絵が
毎夏の終わりに3000枚以上集まり
その絵だけで大判のカレンダーを
作りつづけている例は他にない。
それだけでも自慢していい。

ラボ・ライブララリー制作に
参加していただいた各分野の先生方も
ラボ・カレンダーは楽しみにされている。
「いつ出ますか」と催促される先生も
いらっしゃるし、
「ぼく3部ね」とリクエストされる方もいる。

ラボの絵本の絵はラボっ子から見たら
「すごいなあ。うまいなあ」だろうけど
画家の先生方からすれば
「いいなあ、自由だなあ。
こんな風なとらわれずに描きたいな」
という憧れなのだ。

『かにむかし』『おむすびころころ』
などの絵を担当された
宮本忠夫先生は、ラボ・カレンダーの各月が
終わると仕事場の寝台の真上の天井に貼り、
どうしても絵筆が進まなくなると
ベッドに仰向けになって
そのカレンダーたちを眺め
「ちくしょう、
こいつらがこんなに描けるのに
俺は何をやってるんだ」と
投資をかきたてるといわれたことがある。

また、かのピカソも晩年は
幼子が気まぐれで描いたような
素朴な作品を多数発表し、
「やっとこのように自由に描ける
ようになった。70年かかった
といっている。

話が大きくなったが、
最後のパプリシティという意味からいえば
カレンダーにおいては
なるべく多様な作品を紹介したいと考えるのは
きわめて自然なことだ。
したがって、物語り重複は出ることなら避けよう。
だけど新刊については、
その年にラボ活動の特徴を示すものだから
複数入選はありだねということだ。

前にも書いたが、
ラボ・カレンダーの絵は
基本的に作品主義であり
支部とか年齢とか
ジェンダーとかの枠組みのパランスは
ほとんど考慮しなかった。
「どれだけ物語に突っ込んでいるか」
「何を描こうとしているか」
「オリジナリティがあるか」
「季節感があるか」
「見る人背を勇気づけるパワーがあるか」
「どこまでこだわっているか」
などが主なポイントで
「うまい」とか「きれい」という
ファクターはあまり関係がない。
なぜなら、しつこいが
活動だからである。

ただ不思議なことに、
激しい意見交換をしながら
煮詰めていくと
結果的にはジェンダーや年齢は
そんなに偏らない。

ともあれ、
今回『夏の夜の夢』から3点が
入選したのは
それだけこの物語がこどもたちにとって
インパクトがあったことの証だろう。

今朝、使用していない方の
今年のラボ・カレンダーを取り出し
各月を眺めて納得した。

さて、お待たせしたが
野村あいさんの作品について書こう。

Puckの名セリフ
I'll put a girdle round about the earth
In forty minutes.
がmotifであることはぼくにもわかる。
先日、シャイクスピア好きの友人と
話をしたら、
この場面でPuckがわざと転んで見せる
演出があるとおもしろそうにいっていた。
逆説的なシャレなりだろうか。

今年入選した他2点の『夏の夜の夢』は
いずれも蟹江杏先生の絵にinspireされた
タッチだが、
あいさんのPuckは完全オリジナルだ。

そして、なんというスケール感だろう。
なんという荘厳さだろう。
なんというまばゆさだろう。
なんという深みだろう。
そして、なんという大胆さ。

じつは11月29日からフライングで
この絵をずっと見ているが、
最初は「ああ、おもしろいなあ」とか
「発想がたのしいなあ」とか
「のびやかに大きく描いてるなあ」
くらいに漠然と感じていた。

しかし、今朝あたりからは
detailがいろいろ見えてきて、
だんだんそら恐ろしくなってきた。

絵を構成するパーツとしては
地球、太陽、Puck、背後の宇宙という
大きく4つに分けられる。
地球の上半分(宇宙に上も下もないが……。
ところで、幼いとき右と左を弁別することが
ぼくはなかなかできなかった。諸姉兄の
なかにも「お箸を持つ手」で理解しても
向かい合ったものの左右がよくわからなかった
方がいると思う。じつは左右の決定は
上下が決定されることで決定される。
宇宙それ自体には右も左もないが
自分から見て右手の方向とはいえる)
を断ち切りで描き、その上のど真ん中にPuck。
左隅にやはり断ち切りで太陽、
そして背景には漆黒の
というより深いvioletの宇宙。

そのひとつひとつには
とんでもない思い入れと描き込みがある。
長くなるがそれぞれを見ていこう。
我が星、地球は青系で彩色されているが
左から右へgradationがかかり
右端のほうではやや赤みのある紫系になっている。
太陽の逆側、夜の部分になつている。
この青の濁りのない「すっと抜けた感じ」は
宇宙から見た奇跡の水の星りイメージだ。
そしてこの星を取りまく大気が作り出す
雲の流れのタッチの動感と静寂感は
これが「ただの丸い青」ではなく
太陽系第三惑星だと実感させる。
そして、その雲の合間から、
わずかに覗く陸地も愛おしい。
nyn

2017年もまた、
ぼくたちのは血と汗と涙の
地球の岸辺にたちつくした。
しかしそれらの憂いとは無関係に
この星は存在する。
そしてこの閉ざさされた系の中居゛
人類とその文化、そしてあらゆる生命が
持続していく道筋は、
多様性の尊重以外にはあまりないことを
この地球は教えてくれる。

左からのぼる太陽のフレアのまばゆさは
あいさんの命と想像力のまばゆさだろう。
この光は2017年の終わりの
日本中のラボの仲間の家庭の
ひと月をあまねく照らすに違いない。
太陽の中心の彩色の熱量、
フレアの勢い、
そこから穂先を使った
飛び散る光。
子どもたちの絵に太陽は
喜びの象徴、時には父親の象徴として
よく絵が描かれるが、
これほど細かく描き込まれた太陽は
滅多にない。

それと、ふつう日本の子どもは
太陽を赤で描く。
それは幼いときから
赤い太陽の絵を多く見るし
文化的な流れとしてred sunは
刷り込まれているからだが、
(「お日様は赤でしょ」と
指導する親あるいは教育関係者の
せいでもある)
欧米の子は太陽は黄色で描くことが多い。

実際は太陽の色を直接見ることは
できないのだがね。
ともあれ、あいさんに海外生活の
体験があるかは少し興味がある。

背景の宇宙violetの色合いは
気品があり、神秘性もあり、
そして奥行きと広がりがある。
さらに驚くべきは、
画面左上の星雲あるいは
超新星super novaのような星団のタッチ。
それが画面右上からも
わずかにこぼれている。
この星団を描いたことが、
この宇宙の神秘さと
とてつもない天文時間を感じさせる。

さらに、絵の具を一見気ままに
じつは慎重にとびちらせた星くずたちは、
五芒あるいは六芒の星を安易に描くよりも
はるかにリアルであり、
また同時に物語の持つ幻想性に適している。

さて肝心のPuckだが、
これだけ小さく描枯れていても
tricksterとしての存在感を発揮している。
手に持ったLove-in-idleness
三色すみれの描き込みは
それがこの物語で果たす役割の
重要さを認識していることの証明だ。
大きさと存在感はイコールではない。
またPuckの目をとじた表情は
さまざまな連想をさせてくれる。
そして身体の発光も効果的だ。

こうして細部を見て来たが、
改めて全体を見渡すと、
自分もPuckとともに
大気圏外にいる気がする。
ぼくたちは今、宇宙船や宇宙探査機が
撮影した美しい地球の写真を
地球外からの視点で見ることができる。

でも、それはあくまでファインダーヤ
フレームに入った地球だ。
iPhoneの待ち受け画面や
PCノデスクトップのように。
この絵ももちろんフレームで切られているが、
それを超えた広がりを
この絵の外側に感じさせてくれる。
そのいみでは、
より客観的にこの星を眺めさせてくれ、
ぼくたちがこの星で生きる意味と
責任を自覚させてくれる。

野村あいさんのこの作品が、
1年の最後の絵になったのは
単に雰囲気だけではないと信じる。
繰り返しになるが
多様性の尊重と
あらゆる排他的行為、
暴力、差別、搾取との訣別が
来る年には一歩でも前進することを
祈念してやまない。

また、1年間、長ったらしい駄文に
お付き合いいただいた方がたに
御礼を申しあげる。
もしよろしければ来年も
「いい絵」という評価ではなく
この絵のここが好きだという
感想を書いて行くつもりだ。

ここからはおまけ。
tricksterは人類学のtermで
ネイティヴアメリカン民話研究で知られる
ラディンによるキャラクター分類だが、
ユングによってより世に知られるようになった、

神話や伝承話では「いたずら好き」で
背反する二面性を持つので
物語を混乱させるが
最後は好結果に導くことが多い。
Puckがtricksterの典型例だと
いわれるゆえんだ。

tricksterはまた
culture heroとして描かれ
プロメテウスなどは
美佐に文化的貢献者のtricksterだ。

『夏の夜の夢』の初演は1595年。
河合先生におうかがいしたいが、
初演は貴族の結婚式の披露宴だった
という説がある。
もし実際に新婚カップルの前で
上演されたら
とんでもなくdramaticだ。
誰かラボっ子の結婚式で
この物語のテーマ活動を発表しないかな。
式の会場と日時。
それはラボランドの森。
夏至の夜に決まっているだろう!
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