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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全289件] 1件~10件 表示 次の10件 >>
ラボ・カレンダー12月をめくる ブレーメンはどこだ! 11月30日 (金)
cfcf
いよいよ師走である。
明け方は放射冷却でグッと冷え込む
ようになってきた。
今朝もベッドから出るのに
勇気が必要だったが、
フライイングでカレンダーをめくったら、
寒さがふっとんでしまった。
(フトンは吹っ飛ばなかった)

2018年のラスト月を飾るのは
ラボ・ライブラリーSK3収録の
グリム童話を再話した
The Bremen Town-Musicians
『ブレーメンの音楽隊』にインスパイアされた作品だ。
描いてくれたのは
山根慶丸くん(小2/岡山県・西原美千子P)である。

まさに力作!
絵全体から、印刷であるにも関わらず
とんでもないパワーが溢れてくる。
原画はもっとすごいだろう。
描いたとき、昨年の夏が
小学二年生という年齢を考えると
とんでもなく力強い。

慶丸くん(女子だったらごめん。ただ、
直感ではもしかしたら女子という気持ちが
まだ残ってる。うーん、気になる)と
同年代の子どもで、
これくらいのデッサン力や構成力、
いわゆる描画力(あまり使いたくないが)を
持っている子どもはたくさんいる。

しかし、これだけの力感が溢れる
作品を描くには
とてつもないメンタルパワーがいる。
単に絵が好き、物語が好きだけでは
ここまでの力は溢れてこないと思う。

多少意地悪かなと思ったが、
日本・海外で刊行された
『ブレーメンの音楽隊』の絵本やイラスト、
果てはアニメまで
何かヒントになったものは
ないかと調べてみた。
しかし、そんなもはなかった。
すごいオリジナリティである。

もちろん、動物たちの眼球のデフォルメや
顔大きめの体型は、
現代のアニメシーションやコミック、
ケームなどの
影響を無意識に受けていると思うが、
バワーにおいても
おしゃれさやかっこよさにおいても
慶丸くんのほうがはるかにすはらしい。
比較するまでもない。

話はとぶが、アニメやゲームやコミックなどを
サブカルチャーとはぼくはいわない。
もう立派なカルチャーである。
それが将来古典として残るかは別だが、
文化とは常にその時代とともにあるわけで
芸術の域まで行けるかどうかは
ジャンルを問わず
その作品の質にかかっている。
漫画やアニメ映画ですでに
その高みに達している作品はある。
(しかし、いい加減に「タイムスリップと女子高生」
というパターンは卒業してほしい)

話を戻す。
このパワーの源を考えてみたが、
慶丸くんの精神の力という説明だけでは
あまりにオカルティックだ。
そこでもう少し眺めてみた。

なんといっても
画面いっぱいに描かれた
動物たちの躍動感がすばらしい。
その躍動感の源のひとつは構成のすごさ。
ロバの鼻先は左の断ち切りギリギリで、
おんどりや猫の尾部は大胆に断ち切っている。
そしてイヌは空中で跳ねて
要するに画面を目一杯使って
動物たを見事に配置した。
4ひきの動物たちをこれだけの
密度で画面に収めるのは
そう簡単なことではない。

しかもこの物語のイラストでし
よくある
「いざゆけブレーメン」的な
一列の行進でもなく、
泥棒どものアジトに突入するときの
縦積み重なりでもない。

ロバの鼻先を画面の縦位置の半分より
やや上に置き、
そこからイヌ、おんどりへと
緩やかにカーブするラインと
ロバの腹部、尻尾からネコへと
下っていくラインの
二つの流れが、
動物たちが決してフリーズせず
生き生きと動く力になっている。

さらに、当たり前のことだが
動物たちのサイズも描きほけているが、
それを白のクレパスの輪郭線を
迷わずにすっと描いて決めているのは
びっくりである。
rtrbrr
いつも書くことだが
フォルムにこだわって
輪郭を取ってから彩色すると
「塗り絵的」になってしまい、
平面的になるだけでなく
世界が分断されてしまいがちだが、
慶丸くんの輪郭は背景の黒に対して
白であるがゆえに
逆に動物たちを浮き上がらせる
効果になっている。
しかも、力強く
一気に書かれているので
動物たちの一部になっている。

さらにさらに、
慶丸くんは、動物たちのキャラクターも
かにり深く捉えて描こうとしている。
ロバはリーダー感満載だが、
長年の酷使の悲哀がわずかに漂うし、
イヌはやはりしかめっつらなのだが、
その本質である忠誠心がにじみ出る。
おんどりは今も歌っていて、
世界中の寝坊助、
世界に対して努力しない者たちを
たたきやこそうとしている。
そして「ひげ御前」ことネコは
こ機嫌に見えるが、
その感覚鋭いヒゲが何かを感じて
いたずらっほく目を動かしている。
そして、それぞれの楽器も
自由にに配置されているが、
動物たちとともに躍動している。

やっばりこの作品は
力強くて綺麗なイラストでは
おさまらない作品だ。
この年の瀬にふさわしいといえる。

そして、慶丸くんとこの物語の
関係、どのように睦んだのか知りたい。゜

忘れてならないのは
眼球のデフォルメだ。
血走っているようにも見え
意志がみなぎっているようでもある。
ただ、みんな前を見ているのがいい。
唐物たちのフォルムも
みごとに簡潔にデォルメされているのも
とってもおしゃれだ。
動物のフォルムにとらわれず
全く自由闊達なのだが
個々にも全体にも
造形の確かさがある。

おしゃれといえば
彩色らも触れねばなるまい。
動物たちは漆黒の夜を行くのだが、
大胆な黒のバックも動物たちが
大きく描かれていめので。
面積が少なく、
なおかつ色とりどりの星が
輝いているから
全く暗くなく、
むしろ鮮やかだ。

慶丸くんのセンスが光るのは
普通茶色にするロバを
グレーにしたこと。
さらにその鼻先を
ピンクにしたことだ。
このグレーとピンクは
堀内誠一先生の
「ぐるんぱ」りほっぺの
ピンクと同様のおしゃれ配色だ。
ぼくはファッションについて
語る資格がない野暮天だが
こまったときは
濃いグレーのスーツに
薄めグレーのシャツにビンクのタイを
することにしている。
もちろん、
ネコの黄色もかっこいい。

ともあれ、
これだけ仕上げるのは
気力、体力ともに相当消費する。
熱を出さなかっただろうか。

慶丸くんは、絵が少なことは確かだろう。
かなり幼いときから
色々と描いていたとは思う。
この自由さと力強さを
そのまま大切にしてほしい。
「うまい絵を」描こうとせず
「描きたいように描いて」ほしいな。

何か今日は新しい原石を
見つけた気がしてうれしい。

ブレーメンの街は12世紀ぐらいかせ
ハンザ同盟、ハンザ自由都市として栄えた。
だから、ストリートミュージシャンでも
糊口をしのぐことが可能な賑わいだった。

四匹の動物多縁は長年酷使され、
リストラされかかった
高齢者たちだ。
産業革命以前から
役に立たなくなった者を
「使い捨てる」感覚はあったのだなあ。

ぼくね65歳なので
笑い事ではない。
彼らは自らの意志で
束縛を身をよじって振りほどき
ブレーメンを目指した。
それは最終的な目標ではなく
生き残るための暫定的な者だった。

結局、どろぼうたちを追い出した
彼らはブレーメンにはいかない。
十分な食べ物がある家で
の完備りと余生を過ごした。

若者だったらそうはいかないが、
彼らの人生の残り時間からいえば
実にいい選択だろう。

社会の超高齢化がますます加速する今、
福祉と労働人口、
働きかたと生きがいと過重労働、
正規雇用と非正規雇用など
double bindのような
課題が山積している。

ぼくたちのブレーメンはどっちだ?
ラボ・カレンダー11月 「雪ですのうーー厳しい環境下でも 個性を排除しないこと 10月31日 (水)
明日から霜月だ。
今朝、たまらずフライイングで
ラボ・カレンダーをめくってしまった。.
朝の自然光のなかでしばらく
立ったまま息を止めて眺め、
フーッと息をついてから
腰かけてゆっくりと味わった。
なんとなく心が溶けていった。
rever
ロシアを代表する絵本作家、エウゲニー・ラチョフの作品
ウクライナの昔話THE MITTEN 『てぶくろ』に
題材をもとめたラボ・ライブラリーに
インスパイアされた絵だ。

描いてくれたのは諸橋七望さん
(小3/東京都・木村文枝P)だ。
場面はすでにフルハウスの「てぶくろ」に
「のっそりぐま」が大トリの真打登場! 
とばかりにやってきたところ。

昔話の一つの特徴である「くり返し」は
ロシア系昔話にも数多く見られる。
聴き手は、しだいにでっかくなる訪問客に
「もうムリ〜じゃね!」と
ドキドキマックスになるところだ。

先ほど「心が溶けていく」と書いたのは
なんといっても背景の大部分を占める雪の
ふんわりとした質感と透明感と、
暖かさだ(雪なのに! 厳寒のはずのに!)
写真だと伝わりにくいが
この雪はほんとうにすばらしい。
淡いながらもそ濃淡のあるグレー、白、
わずかなイエロー。
そして控えめだが効果的な
ダークブラウンの木の枝。
(これがリアルさを増加)
単純な白や灰色ではないことが
雪の森の静謐さ、荘厳さ、深さ、
季節のきびしさと美しさ、
そして物語の暖かさを
奥行きともに伝えてくれる。

この広い範囲を
これだけ繊細に塗った七望さんと
この物語の関係を知りたい。
are
さらに彩色について続ければ
てぶくろほイエローオーカー
いわゆる黄土色にし。
さらに手袋の中の動物たちの
輪郭もイエローぉーかーで描いたことも
この絵をぐっとひきしめた。

イエローオーカーは顔料のなかでも
数少ない、土からとられたものだ。
いわゆるearth colorである。
だから輪郭につかっても
世界を切らず目立たない。
そして、グレイトと同じように
多くの色とマッチしやすい。
とくに左下の鮮やかな青は
補色的に役割ほしている。
これに加えて
中央のイエローがかったグリーンも
とつてもおしゃれだ。

こうした彩色と前述の雪の背景が
クマの茶色など暗め色が多いことを
カバーした余りある。
遠くから眺めければ
そのバランスがよりはっきりするはずだ。

そして一見、ざっくりと描いているようだが、
じつはとても細部に繊細な筆が入っている。
背景といいディテールといい。
相当な気力と体力を使ったはずだ。
描いたとき、七望さんは8歳か9歳のはず。
とんでもないことだ。
それは物語の力といってしまえば
簡単だが……。

森は深く、寒く、
雪はただふりつもる。
普通なら、「入れろー、グオーッ」
「あかんで、ムリや堪忍して」
「なんやとー、ガオーッ。いてまうど」
となるところだが、
迎える「はやあしウサギ」や
「きばもちいのしし」たちは
じつにのんびりと「はいれば」
的な雰囲気だ。

また、クマも、
ご近所のおじさん的気安さ
でこ声をかけている。
いるよね、子ども好きのこういうおじさん。
七望さんは
「はやあし」「きばもち」
「はいいろ」「のっそり」などの
動物たちの個性も
物語を聴いて意識しているのではないだろうか。

「個性を排除しない」
「可能なかぎり受け入れる」
って、今の地球でとっても大事なこと。
七望さんはのことを
「ことばではなく心で」感じとっている。
子どもほど時代の先端ほ生きていめのだから。
erfr
原作者のラチョフ自身もシベリア生まれである。
彼は1978年に、別のタッチで「てぶくろ」を描いていて、
それはまったく別人の作品のようだ。
だが、どちらも彼らしい動きのある動物たちが
愛情たっぷりに描かれている。
ラチョフというと強力な観察眼に
もとづく正確な動物のデッサンと
その見事な擬人化のテクニックが評価されるが、
なにより彼の魅力は作品にあふれる
生命への惜しみない愛情にある。

その心も七望さんは
ハッチり受け継いだ。
物語の命はこうして世界に受け継がれる。
どうだ! 「かぶ」だぜ文句なし。 What more could you want? 10月11日 (木)
xxz

いよいよ神無月だ。
神無月の語源は正確には不明。
出雲大社に八百万の神が
縁結びサミットに集結するというのは
中世以降の俗解。
出雲大社の関係者がプロモーション
したことが元になっている。
しかし、出雲、松江にはお世話になっているから
これ以上掘らない。
水無月が「水の月」であるように
「神の月」と考えるのが自然と
「日本国語大辞典」にある。
しかしこの神の意味はわからぬ。
昔、武蔵で漢文を教えていた
高島俊男先生は「神無月」は
「師走」と同じくらい俗解が多いという。
高島先生は期末試験の監督に来て
暇を待て余し「タバコ吸っていいかな」と
試験中のぼくたちにきいた
とんでも先生だか、漢字の大家。
(誰かが、いいんじゃないですか
といったら本当にテラスにでて喫煙された)
さて、余談はここまで。
9/30日の夜10時29分に停電になったとき
壁ついたに玄関に置いた懐中電灯を
取りにいき、それからなぜか
ラボ・カレンダーをめくった。
停電で、何もできないので
懐中電灯の明かりで
このでっかい「かぶ」見ていた。
なんとなく元気が出た。
停電も台風も怖くない。
書いてくれたのは
濱氏咲紀さん(6歳/高知県・宮池香奈P)。
ウクライナの民話に題材を求めた
ラボ・ライブラリー"The Turnip"だ。
この物語を描いたラボ・カレンダー応募作品は
毎年たくさんあり、
刊行された年、1987年の秋は
『かぶ』だらけになってしまったほどだ。
それだけ点数があれば。
名作、傑作、力作も多く。
はっきりいえば『かぶ』で入選が
大変なことはもちろん、
一次選考突破も難しい。
しかし咲紀さんの作品は
あまたの『かぶ』を見て来たぼくも
とっても新鮮に感じた。
おそらく選考委員もそうだろう。
場面としては、カフが抜けた瞬間
なのだろうが、
とにかく画面みぎはしから中央までを
占める大きさでかぶを描き、
さらに葉が左端に断ち切れるまで
大きく伸びている。
要するに画面のほとんどが
かぶで占領されているのだ。
だから重量感がものすごい。
さらにこの配置、葉の伸び方が
抜けた瞬間の躍動感と喜びを伝えている。
フリーズしたかぶではないのだ。
孫娘と犬と猫は嬉しそう。
じっちゃとばっちゃは
どこかに行ってしまったようだが、
そんなことは気にならない。
変わりにチョウチョがいっぱい
喜んでいるではないか。
もしかすると、ネコの下に描かれている
少しだけ紫がかったビンクの
楕円は「ネズミ?」。
太陽も雲も喜んでいる。
What more could you want?
これ以何を欲しがる?
いつもいうことだが、
咲紀さんの年齢を考えると
カレンダー規定の用紙は
彼女の肩幅より広いと思う。
それはすごい圧だ。
それに怯まず真っ向から
全画面を使って描ききっているのは
それだけですごい。
相当な体力と精神力を消費しているはずだ。
まずそのことに感動しなくてはいけない。
かぶを抜くのと同じくらい、
いやそれ以上のパワーを絞って
咲紀さんは描いたのだ。
ちょっとしたことで諦めたり
愚痴をいったり、
ダメな理由をとにかく自分の
外に求めてしまてがちなおとな、
ぼく、きみ、おまえ、
あなた、おまえたち。
この純粋なバワーにひれ伏すべしだ。
フォルムやディテールにとらわれない
自由闊達さや
(とはいえ、かぶのバランスはステキ)
配置や力強さだけでは入選しない。
彩色もまたすばらしい。
何よりもまず、かぶ本体の野菜感たっぷりの
グラデーションがかかった
オレンジ系の塗り方がいい。
実際のカレンダーの色と
撮影してFBにアップした色は
修正はしているか
中間色に落差があるので
はがゆい。
もっとも原画との差を考えると
もっとはがゆい。
原画を見ていないから
どうしようもないけど。
かぶ本体の輪郭を
同系のオレンジのクレパスで
引いたのもよかった。
これだの大きさの円を
輪廓として描くとめ
世界が断絶してぬりえ的に
なりがちだが、
この色なら気にならない。
葉のモスグリーンもいい。
本体のオレンジと合わせると
昔の湘南電車みたいでかっこいい。
またこれはおまけだが
ICU Apostlesのユニフォーむカラー
でもあるのよね。
雲の少しくすんだ
でも濁ってはいない青が
じつはとてもかっこいい。
この色ができたのは
偶然の要素が大きいと思うが
「この色がいい」と決めて
彩色したのは咲紀さん自身だから
やはり咲紀さんの色といっていい。
そしてなんといっても
かぶ本体をがっしり支えている
レモンイエローにところどころ
オレンジが入った背景だ。
この絵をの背景は
かぶ本体に近い暖色系なのだが
みごとにかぶを引き立てた。
いやあまいった。
雲とのコーデもいいよね。
それから、
一見、孫娘や動物たちが泣きても
成立する気がしたが、
じっと見ていたら
やはり小さな彼らが
バランスをとっており、
右の重量を軽くして
更に躍動感を出している。
しかし、このエネルギーは
どこからきているのだろう。
やはり『かぶ』の物語の力と
咲紀さんじしんがもっているバワーが
シンクロしてバワーが倍増したのだろう。
咲紀さんとこの物語の関係を
知りたいものだ。
この物語のラボ・ライブラリーの絵は
小野かおる先生が担当されている。
『かぶ』はウラジーミル・プロップの
分類にれば「累積昔話」にあたる。
文末で脚韻を踏みながら、
「ジャックのたてた家」のように
くりかえしながら
人物や動物がふえていくものだ。
『わらじをひろったきつね』も
この累積昔話である。
韻によることばのリズムのおもしろさ、
そしてくりかえしがもつ
「ことばの魔力」は
この物語を今日まで
語り続けさせた。
「ジャックのたてた家」は
かつて「三回息をとめていうと
しゃっくりどめのおまじない」になると
オーピー夫妻は”
“Oxford Dictionary of
Nursery Rhymes”でいっているが、
この『かぶ』にも
なにかそんな「呪文」としての
意味もあったと思われる。
だから、ラボ・ライブラリーの日本語も
ロシア語のような韻はできないが、
物語がもつことばのリズムを
とてもたいせにしている。
日本語を担当された斎藤君子先生は、
その点を十分に勘案し、
たいへんご苦労なさって
すばらしいリズムの日本語を
書いてくださった。
「じっちゃ、ばっちゃ」などの
表現はこのリズムをだすためである。
おじいさん、おばあさんでは、
どうしても間合いがかわってくる。
英語もサラー・アン・ニシエさんが
これまた苦しみ抜いて
リズムのよい文にしてくださった。
この物語を「はじめての素語り」に
とりあげるラボっ子は多いが、
それはあきらかに
上記のようなくふうがされていて
心にはいりやすいからだ。
短いだけじゃないんだぜ。
この物語また、彫刻家佐藤忠良先生
(お嬢さんは女優の佐藤オリエさん
『大草原の小さな家』で「かあさん」
の日本語担当)の『おおきなかぶ』が
人口に膾炙(かいしゃ)している。
だれもが知ってるとっても
人気のある絵本である。
では、なぜラボは
この絵本を録音許可をとって
使用しなかったのか。
ひとつには累積ばなしのもつ
リズムほをほうふつとさせる
新しいことばでつくりたかったこと。
また『おおきなかぶ』は
最初からこたえがてているが、
原題はただ『かぶ』であること。
まあこれはなにかいちゃもんの
ようでもあるけどけっこうだいじだ。
しかし、それよりも大きなのは絵である。
もちろん、絵本は歴史民族の
学習資料ではない。
だが、このライブラリーは
「ロシアの物語と文化」が
大きなテーマのパッケージである。
そうしたエスニックなテーマを
あつかうときのライブラリーは、
その物語を生んだ地域と
人びとへのリスペクトとして、
とくに具象的に表現するときは
衣服や建物、事物について極力、
時代考証をしっかりとするべき
であるというスタンスをとっている。
「おおきなかぶ」があまりに有名なために、
どなたに依頼するかがなやましかったが、
小野先生が快諾してくださった。
いまはどうか知らないが、
そのころは「ことば宇宙」は
いろいろな専門家に
毎月(月刊だった!)送っていたのだが、
ラボのスタッフが小野先生の
ご自宅に相談にいったとき
先生のほうから
「今度ラボはロシアをやるんでしょ」と
おっしゃられたという。
ぼくはそのころ「ことばの宇宙」が
メインの仕事で、こ
の物語の途中からだんだんと
ライブラリー制作に
ひきずれこまれていくのだが、
ロシア昔話をやることがきまってからは、
「ことばの宇宙」で
はやばやと「ロシア特集」
ばっかりやっていったのだ。
小野かおる先生の父上は
著名なロシア文学翻訳家の
故中山省三郎先生である。
だから小野先生も
ロシアについての知識、
資料は豊富におもちだった。
『かぶ』のはなしは、
ちゃんと「ロシア、ウクライナの話」
として絵本にしなくてはと
先生はおっしゃっり、
この絵本ができたというわけだ。
登場するかぶは本来は
赤かぶに近いものである。
じっちゃやばっちゃや孫娘の衣装も
スラブ、ロシアの伝統の
デザインで描かれている。
じっちゃのはいている「わらじ」も
ラーポチとよばれるわらぐつであり、
これには大きくモスクワ型と
ペロルシア型があるが、
この絵本ではモスクワ型である。
さらに、ばっちゃは
ココシーニクとよばれるスカーフで
髪をかくしているが、
(ゴージャスな頭飾りもある)
これは既婚者であることをしめしている。
さらにスカーフをとると
ばっちゃは髪を後ろでふたつにわけて
しばっている。
(校則ではない)
それにたいして孫娘は
未婚なので髪かくさず1本でしばっている。
彼女がや嫁にいくときは
髪をふたつにわけて
かぶりものをする。
だから厳密にいうと
『ゆきむすめ』のゆきむすめが
スカーフで髪をかくしているのは
ロシアの人から見れば違和感がある。
もちろん、さきほどももいうように、
絵本は歴史資料ではないし
「ゆきむすめ」の話の本質、
子どものない老夫婦と
季節の奇跡とでもいうべき
「ゆきむすめ」とのまさに
あわい日々が影響をうけるわけではない。
ただ「ロシア」というくくりで
活動の素材を子どもたちに
提供するときは
かなり綿密な考証が
行なわれたということだ。
日本にとってロシアはその地理的、
歴史的関係から、
北のこわい国というイメージが強く、
「オロシヤ国などと
よばれたりもした。
だが、ロシア民話のみならず
民謡、サーカス、バレエ、
料理などロシアの文化は
日本人にしたしまれている。
いまロシアもたいへんだが、
北では白い風かうたい、
南の草原では灰色のオオカミが疾駆する
広大な大地にはいまも
精霊がいきづいてると思う。
「いつかちゃんとしたロシアの話として…」と
おっしゃった小野かおる先生の
思いはちゃんとうけつがれ、
こうしてラボ・カレンダーになって帰ってくる。
『こつばめチュチュ』少しずつの成長 09月06日 (木)
三澤制作書所のラボ・カレンダーをめくる

長月朔日。
日中はまだまだ暑いが
日没し確かに早くなり、
空は高く、
夜が深くやさしくなってきた。
なんと今年3作めの
ChuChu 『こつばめチュチュ』だ。
「入選は原則として物語の重複は避ける。
ただし新刊は除く」という
大昔に作ったカレンダー選考の
ガイドラインがあるが、
それを吹っ飛ばして
堂々3点のChuChu が入選した。
vsv
もっともこの内規は
「できるかぎり多くの物語に
出会って欲しい」という願いから
作ったもので、
あくまでも作品主義、
すなわちgenderや
支部や年齢のバランスには
とらわれないという内規もあるから、
物語の重複もありなのだと思う。
しかし選考者の苦悩がなんとなくわかる。
描いてくれたのは
山田陸くん(小2/愛知県・荒川明美P)。
電線のうえにせいぞろいしている
ツバメの小学生たちだ。
とにかく驚くのはツバメたちを
画面の「天」ギリギリに配置し、
ツバメの下に思いきり空間を
とっていることだ。
これだけのアンバランスな構図は
おとなやブロが逆立ちしてもできない。
「下の空間がムダで成立しない」と
きめつけてしまうからだ。
子どもたちはこの物語を聴くとき
主人公であるチュチュに心を寄せる。
語りの江守徹氏もチュチュを応援している。
それは駅長さんのように
下から見上げるのではなく、
もっと高い所から見下ろすのでもなく
チュチュとおなじ高度で応援している。
だから子どもたちも同高度にいる。
そのことをこの絵は証明している。
陸くんの心は「秋のはじめのあおいそら」
らあるのだ。
下界など関係無いのだ。
そしてさらびっくりは右端のツバメの
燕尾がいちばん長く、
左のに行くにしたがって
だんだん短くなる。
そうかバースペクティブ、
遠近法なのだ。
多分、陸くんのイメージは
電線の真横ではなく
やや右側から見ているのではないかしら。
(違ってたら恥ずかしいけどせ)
色彩はつばめが主役だから
ブラックが多くなるが、
空のなんともいえないくすみ方が
おしゃれでかっこいい。
意図して作った色か
筆に残った黒がにじんで
偶然こういう色彩に
なったのかはわからないが、
最終的には陸くん自身が
「この色」と決めて
彩色しているのだから
これは陸くんの色なのだ。
しかも一色ではなく
ホワイトやviridian系も細かく
用いているので
この空間が退屈しない。
しかし、何度もいうが
こんな大胆な構図はできない。
これこそ個性なのだ。
「下がもったいないね。
何かか描いたら」なんていう
助言をしなかった
まわりのおとなたちもエライ!
さて、ChuChu はどこにいるかといえば
おそらくは右から3羽めだろうか。
「黄色いリボン」だと思うが
これも違っていたら恥ずかしい。
それよりも見れはどの場面だろう。
ふつうにに考えると
授業開始前、マスケル先生を
待っている生徒たち。
みんなそろっているのに
先生がこないから、
おちつかない男子は電線をゆする。
女子は「やめて、先生にいうわよ」
とかいってかしましい。
そこへマスケル先生が来て、
男子はすまし顔。
それで「ピイチュさん 
おしゃぺりをやめて」と
女子がしかられてしまい、
男子は内心ほくそえむ。
なんていう想像は、
じつはこの物語が
大好きな小学生なら
膨らませているだろう。
しかし
もしかするともしかすると
1万メートル競走のスタート直前
なのではという気もする。
「白い胸毛をぶるっとふるわせ」
の緊張がこの絵には漂っているのだ。
号砲一発、いっせいに飛び出す
直前のスタンバイ。
授業前のひとはしゃぎよりも
長距離飛行への希望と怖れが
感じられる。
いやまて、もしかすると
「あれはシドニーまでいくんですよ」
というマスケル先生のことばで
飛行機を見つめているとこめかもしれない。
「もうすぐきみたちも飛ぶ。
鳥は飛行機ほどはやくないが、
ツパメは鳥のなかでは
いちばんはやい。
だから、虫はなんでも食べて
りっぱな身体をつくるのだ」
といったことをマスケル先生は
教えたい。
そのことを生徒たちはきっちり
受けとめている顔だ。
かように陸くんの絵は
物語のcontextをさまざまに
想像させてくれる。
テキストもその裏側の
Contextを感じとらせるこどが
たいせつだが、
絵でも想像を広げさせてくれる作品が
ぼくは好きだ。
いつもいうが、
「こたえはひとつではない」のだ、
ひとつしかないこたえに
たどりつく競走を学問とはいわぬ。
このラボ・ライブラリーの刊行は1973年。
45年前の作品だ。
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ラボ・ライブラリーが
「こどもの友シリーズ」からはなれ、
また有名作品の再話でもなく、
オリジナル・ストーリィで
制作した最初の作品だ。
日本語はらくだ・こぶに。
音楽は間宮芳生先生、
1年生の朝、1年生の成長に
寄り添ったメロディがうれしい。
絵は吉原英雄先生。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
吉原先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家の
おひとりであることは
いうまでもない。
「チュチュ」絵は2つの
パターンの変化だ。
恐るべきことに吉原先生を
知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。
あるとき酒席で
らくだ・こぶに氏にきくと
氏は呆れた顔で、
吉原先生は、
チュチュをあえて没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだ
と教えてくれた。
さらに、その日は
機嫌がよかったのか
「チュチュは注射もがまんする
けっこう強い子のようだが、
とりわけ優等生のツバメではない。
ふつうのツバメが事件にぶつかり、
仲間と離別し少し成長して帰ってくる。
挫折したり病んだりして
少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と語ってくれた。
ラストでチュチュが
飛ぶ練習をしているときの
「来年もまた帰ってきますかね」
ということばは
必死にリハビリしているチュチュが
まだまだ心配なのだ。
「もちろんだとも」は
さらなる激励、すこし心配。
だから、ここでのチュチュは
あざやさには飛んでいない。
ときおりふらつきながら
気合いでがんばっている。
そう何度でも立ち上がり
少しずつ成長する。
ゴーシュもそうじゃないか!
菜月の警鐘ーー多様性の勝利 08月03日 (金)
ハット気づけば葉月である。
などとシャレている場合ではない。
朝一番、午前5時にカレンダーをめくったとたん、
すでに暑さでぼーっとしている頭を
がつんと一発やられてすっかり覚醒した。
day
グリム童話に題材をもとめたラボ・ライブラリー
A Tale of Six Talented Men『きてれつ六勇士』に
インスバイアされた作品だ。
描いてくれたのは
村田陽平くん(小2/埼玉県・三枝明日香P)。
がつんとやられた点はいくつかあるが、
項目を列記すると
・不思議な躍動感と浮遊感
・色彩の魅力(抜けかたと配色)
・構成のバランス
・しつこく描いてもスッキリ
というところだ。
めずらしく順番に書いていく
・不思議な躍動感と浮遊感
これはだれしもが観た瞬間に感じることだろう。
とまっているが、動いている。
どっしりとしているが浮いている。
人物の輪郭は細いのだが、緩やかで迷いがなく、
またフオルムにとらわれずにすっと描いている。
それらがかもし出すふしぎな感覚だ。
『きてれつ六勇士』を題材にした子どもたちの絵は
何枚も観てきたが、
こんな感覚ははじめてだ。
彩色のところでも触れるが
上から三分の一くらいのところを
大胆に横切る赤い帯も
普通なら世界を分断するところなのに
この感覚に一役買っている。
・色彩の魅力(抜けかたと配色)
原画を観ていないから正確ではないのだが、
彩色は非凡だ。
21世紀に生きる子どもの色の感覚は
ぼくが小2のころとは比較できないくらい
広くて深くて多彩だ。
先日、青について書いたが、
陽平くんの青も魅力的だ。
じっくりながめていると、
なんともたくさんの種類の青が
歌っているのが響いてくる。
その複雑さ多様さは見るほどに広がっていく。
最低でも5分は見つめたい。
それと対比をなすような赤も美しい。
大きくは3種類なのだが、
右上、中央の大胆な帯、
そしてメインキャラ
(六勇士の能力をデフォルメして
一人に凝縮したキャラ)のシューズと
だんだんと赤が濃くなっていて、
奥行と安定感を出している。
そしてなにより、赤も青も
そして人物のスキンカラーも、
色がスカッと抜けていて気持ちがいい。
これはぼくの好みなのかもしれないが……。
全体に面積の多い青系、赤系、肌色に
どうしても目がいくが、
わずかに見えるイエローやバイオレットも
この絵をより深く感じさせている。
これがあるとないでは大ちがいだ。
・構成のバランス
人物の配置、中央の赤帯、背景の描きこみなどによる
この絵の奥行は、もうひとつの大きな魅力だ。
メインキャラを中央から少しずらしているのもニクい。
そり分のスペースに描きこんで
イエローやバイオレットをもってきているのは驚き。
・しつこく描いてもスッキリ
さっき書いたように色が抜けているから
これだけしつこく描きこんでも重さがない。
かといって、トンと揺すれば剥げ落ちてしまうような
脆弱さもない。
何がそうさせているのか。
これは想像でしたかないが、
陽平くんのこの物語との関わり、
というか睦み合いの結果なのだろう。
パーティでどう取り組んだのだろうか。
断言してもいいが、
陽平くんは、単にこの物語が好き
なだけではないと思う。
そこが知りたい。
きっとなにかある。
差し支えなければ三枝テューター
教えてください。
cw
社会からは異端とみなされる
特殊な能力をもった者たちが
その力をそれぞれに活かして
権力者を打倒したり懲らしめる物語は、
世界中にあり、
(『不死身の九人きょうだい』!)
また、映画にもいろいろな作品がある。
普遍的に世界の人が好きな物語の
パターンのひとつといってもいいだろう。
世界が多様性、diversityに向かっているとき、
その一方で反作用のように
異質なものを排除しようとする動きが
世界でも日本でも暗闇の魍魎のように
蠢いている。
多様性の否定は効率主義、
国家主義と手を繋ぎやすく、
また優生保護、そしてファシズムへの道だ。
それらを見過ごすと恐ろしいのは、
凄惨な事件として発現したり、
さらにはいつの間にか「いつか来た道」に行くことだ。
戦前、戦後と均一な兵士、
均一な労働者を生み出してきたこの国は
今、警鐘をならすべきときに来ている。
陽平くんの絵は、
静かに、けして声高ではないが、
多様性こそが、
異質なものを認め合う精神こそが
この地球という閉じた系のなかで
ぼくたちや生き物たちが
持続してゆく数少ない道だということを
訴えているように思う。
元になった絵本は赤瀬川原平先生。
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あの破壊力のある絵に、
刊行当時は、みんなノックアウトされた。
この物語が収録されているSK13は
高松次郎先生(『グリーシュ』)、
中西夏之先生(『ながぐつをはいたねこ』)も
収録されている。
高赤中からとったハイレッドセンターという
前衛アートグープも懐かしい。
みなさん故人となられてしまった。
赤瀬川原平先生は尾辻克彦名で
純文学の作家手もあり芥川賞も取られている。
vests
兄上の故赤瀬川隼氏は、
長くラボ教育センター本部の職員だったが、
退職後は作家となり直木賞を受賞された。
ラボ・カレンダー7月 Bird’s-eye view and Overlooking 鳥瞰と俯瞰 07月01日 ()
三澤制作所の
ラボ・カレンダーをめくる

はやくも7月、文月である。
七夕に短冊に詩歌や
願望を書く習慣から
文被月(ふみひらきづき)が
転じて文月となったという説が
比較的有力だとされている。

6月中の梅雨明けに驚いていたら、
この鮮やかなレモンイエローに
もっとびっくりしてしまった。
これだけの面積を黄色で塗るのは
なかなかできない。
イエローは服のなかでも
着こなしが難しいといわれるからね。
(黄色については、またあとで触れる)゜
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絵はアメリカの絵本作家、
バージニア・リー・バートン
Virginia Lee Burtonが28歳で
描いた”CHOO CHOO,
the story of
a little engine who ran away”
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』に
題材をもとめたラボ・ライブラリーに
インスパイアされたものだ。

描いたのは石井勇志くん
(小1/神奈川県・大塚淳子P)。

この物語、絵本を知らない人が見たら
「何を描いているのか」と
首をかしげただろう。
だけど、逆にこの絵本が好きな人なら
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』だと
直観的にわかるはずだ。

とにかくこの物語が大好きで、
そして「電車・乗り物」が大好きで、
(乗り鉄、撮り鉄とかあるけど
描き鉄だね)
そのエネルギーで一気に描ききって
いるのがなんともすがすがしい。
そして自由闊達。
こういう作品が入選するから
ラボ・カレンダーはすばらしい。

これは推測だが、
勇志くんは、
日常的に絵ばかり描いている少年
ではないと思う。
どちらかというとアウトドア派の
元気ボーイのような気がする。
(まったく違っていたら、
大笑いだし、勇志くんには
申しわけないが)
だとすれば、
なにが彼を突き動かしのだろうか。
たぶん彼の肩幅より大きい画用紙を
すきまなく描きつくすだけでも
勇志くんの年齢なら
かなりの体力と集中力が必要だ。

そのエネルギーがこの物語にあることは
まちがいないが、
さらにどのように勇志くんが
この物語とむきあい、
どんな活動をしたのか知りたいものだ。
そしてもこの物語と出会ってから
彼になにか変化があったを知りたいと思う。

ご存じのようにバートンの原作絵本は
黒だけで書かれている。
(見返しが4色になっていて、
ちゅうちゅうの路線が
描かれているのもおしゃれ)
だが、その黒は沈黙の黒ではなく、
若きアメリカの発展力と
その反動で古いものが消滅、
あるいは衰退していくことへの哀感などを
パワフルかつスタイリッシュに語る黒だ。
81年前の作品とは思えぬかっこよさ。

勇志くんは、その黒を少し残しつつ
まったく自由に彩色している。
場面としては、操車場、転車台がある
「おおきなまちのおおきなえき」を
中心になっていると思うが、
「どの場面」という特定は
あまり意味がなく、
勇志くんにとっての
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』は
こいうことなのだと受けとめるべきだ。

冒頭に書いたように、
スカッと抜けた濁りのないレモンイエローが
とにかくきもちよい。
この大胆な黄色背景のおかげで、
建物の茶色や
線路のグレーがかった青
(これもめちゃくちゃカッケー)が
重くならず、逆にパワーと
おしゃれさを醸しだしている。

また、パターンぽく置かれている
viridianの草もアクセントになっている。

たしかに黄色の迫力には圧倒されるが、
じつは黄色の占める面積比率は
40パーセントくらいだろう。
そして窓のなかなどの
detailも描き込みがある。
自由だが細かいのだ。

色のことばかり書いてきたが、
構図、配置のバランスもいい。
転車台が中央やや上、
そしてそこにむかう線路の
傾きかげんもいい味になっている。
そして、これはいちばん大事な点だが、
たぶん、勇志くんは俯瞰的に描いている。
鳥瞰といってもいい。
(俯瞰も鳥瞰も「上から見下ろす」
という意味だが、図でいうと
俯瞰は立体的で鳥瞰は平面的)


斜め上から見下ろして描くのは
とても技術がいるが、
勇志くんのなかではこれは
紛れもなく俯瞰図であり、
だから建物もこんな感じなのだ。

しかし、この絵のパワーはなんだろう。
ことばに「言霊」があると
日本人は信じてきたが、
絵にも「ことば」と同じような力がある。
心をこめて描いた絵にも
魂の力は宿るのだろう。
「絵霊」(えだま)とでもいうべきか。

人間の心からしぼりだされた表現は
ことばでも絵画でも音楽でも、
命をもち、
それ自身で語りだす。

そしてまた勇志くんの絵からは
音楽も聴こえてくる。

堀井勝美先生作曲の
物語冒頭のあの
さわやかなリコーダーのメロディが
聴こえてくる。
勇くんの身体にもしみこんで
いるのだろう。

これまでにも何度か書いたが、
ラボ・ライブラリーにおいて
絵は空間的である。
他方、音楽は時間的だ。
そしてテキストは自在である。
ラボ・ライブラリーのような
音声物語作品においては
音楽がテキストの暴走を抑え、
時間をコントロールしている。
これはテーマ活動を
体験したものなら実感できることだ。

この絵を描きながら勇志くんの
身体のなかには
ちゅうちゅうの音楽とともに
物語の時間が流れいる。
あの音楽のリズムにのって
きもちはどんどん物語の先に進んでいる。
描きながらこの物語を往復している。
だから、「どの場面」かという問いは
この絵についてはあまり意味がない。

原作者のバートンは
この絵本を長男のアーリスのために
彼が5歳のときに描いた。
1937年のことである。

バートンは野菜を育てたり
羊を飼育して暮らした。
素朴で自然との調和を
愛したバートンは
文明による自然破壊に対して
懐疑をもち、
新しいものにとびつき、
古きものを使い捨てる
消費文化に対して警鐘を鳴らし続けた。
『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』
『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』
『ちいさいおうち』などには
そうしたバートンの思いがあふれている。
そして集大成ともいえる
『せいめいのれきし』は
ぜひもっていたい一冊だ。

バートンは、そうした
強い精神をもちながら
子どもの心によりそい、
子どものもつ自由をもとめる心、
成長がもたらす失敗と、
それを通して知る周囲への感謝などの
子どもが身体を通して
共感をもつことができる
ちゅうちゅうのような
キャラクターを描いた。

バートンは1968年、
肺がんのため58歳の若さで他界する。
ないものねだりではあるが、
もう少し作品を見たかった。

ラボの『ちゅうちゅう』の日本語音声は
大山のぶ代さん。
英語はジェリー・ソーレスさんだ。
対照的な声質のマッチングが
ふしぎな魅力だ。

大山さんが認知症を患い
現在は施設で療養されているが、
ぎりぎりまで
お仕事への意欲を失っていなかったときく。
プロフェッショナルは仕事をして
はじめて生きている
実感がもてるのだと
頭がさがった。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。水無月に舞え、つばくらめ 06月01日 (金)
6月。水無月である。
梅雨時で水多いじゃねえかといわれそうだが、
(ぼくもガキの頃、そうツッこんでた)
無は「の」の転で、「水の月」が元だというのが
ほぼ定説になっている。
(神奈月も「神の月」)
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はじめにこのカレンダーをお持ちの方は、
ラボ・ライブラリーをかけて眺めることをお勧めする。
これは毎月のカレンダーでの絵でもいえることだが、
今月の作品はとくにそうだ。
この絵の疾走感、爽快感、力感、躍動感などが
より立体的に感じられるからだ。

描いてくれたのは鄭裕里さん
(小3/福島県・山崎智子P)。
題材となったのはラボ・ライブラーSK8収録の
"Chuchu"『こつばめチュチュ』。
らくだ・こぶにが書き下ろし、
吉原英雄先生が絵を、
音楽は間宮芳生先生が担当された。
日本語騙りは江守徹氏。
1973年4月のリリースだ。
(しかし、なんというgorgeousな
組み合わせだろう。絵本はB5版横、
そうとカバーの小さなサイズだが
中身はとんでもない濃厚さだ。

場面はおそらくツバメの学校の運動会。
冒頭の登校シーンとと取れなくもないが、
チュチュたちの気合の入った表情。
またチュチュが「黄色いリボン」とわかるのは
この「1年でも1万メートル」の
競走シーンのスタート直後と考えるのが
自然だと思われるが、裕里さんどうだろう。

この直前に「白い胸毛をぶるっとふるわせ」る緊張があり、
号砲一発、いっせいに飛び出した1年生たち。
賞品のかぶとむしのバッジや美味しい虫を目指して一直線。
裕里さんの絵はその瞬間を切り取ったものだが、
じつは前述したような
スタート前の緊張感とその解放によるエネルギーの爆発までの
チュチュたちの心の動きを描破している。
単に「飛んでいるツバメたち」という
凍りついた絵ではない。

物語にそこまで突っ込んでいるから
この疾走感、加速感、加速感が
伝わってくるのだと断言してしまおう。

そして、これはけして選考会を
批判しているわけではないことを
あらかじめ断っておくが、
この場面が1万メートル競走だとすると
季節は秋、ツバメが渡りに出る前である。
だから本番に備えて練習するのだ。

なにより、スタート直後のナレーションに
「秋のはじめの青い空」という
体言で止めた1行がある。
この1行ががさすがはらくだ・こぶにで、
詩を捨てたいいながら、
終生彼の根っこにあった詩的感性、詩的な律動
渇いたリリシズムが感じられる
あざやかな1行だ。

その前の「白い胸毛をぷるっと」で
ツバメの胸元をクローズアップして
その緊張をわずかな胸毛の動きをミクロで伝え、
そこから解き放たれた直後を
ツバメからロングショットに降って
マクロな視点に転換する。
それが「秋のはじめの青い空」の
1行、しかも体言止めの文であることで
季節感と空の高さや青さ、
その下を飛翔するツバメたちまでが
あざやかな映像として見えてくる。
これらはラボ・ライブラリーを聴けば
だれしもが感じることだ。

今年のラボ・カレンダーにはChuchuが
2点入選しているが、
どちらも前半の月に置かれているのは
絵の印象によるものだろうが
物語的から考えれば秋だ。
物語の季節感も重要だと思うが、
あくまで私見であることを重ねて
お断りしておく。

繰り返しになるが
裕里さんの絵の疾走感と加速感は
だれしも圧倒される。
主役であるツバメのタッチは
かなり力強く描き込まれていて、
生物としての生命感が伝わる。
ひとつまちがえばラフな感じになるくらい
ギリギリにせめてい流のが潔い。
しかし、けして荒くはなく
翼や燕尾の描き込みも繊細な濃淡がつけられている。
また、スマートな身体のフォルムもかっこいい。
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主人公のチュチュはほぼ智勇王に描かれているず、
レースの先頭にはまだ出ていないのも
期待感が膨らむ。
さらに、競う仲間のつばめたちをチュチュの
背後に描いているのも裕里さんの
想像力とhand-eye coordinationのすばらしさだ。
先頭をゆくツバメを断ち切りにして
頭部を見せなかったり、
最後尾のツバメを逆に頭部だけ描いているのも
裕里さんの年齢ではなかなかできないことだ。
服まで主人公はチュチュと
意識されているのだろうけど。

さらにツバメの飛翔方向が水平ではなく、
やや上方を向いているのも
離陸上昇中の力感が伝わる。

かつてウルトラ・ライトプレーンで
渡鳥たちに伴走飛行機して撮影した映画があったが、
裕里さんは、チュチュたちと同じ高度にいる。
それだけ物語に入りこみチュチュを応援している。
江守徹氏のナレーションが
第三者的でありながら、
チュチュに心を寄せているのと同様である。


裕里さんは背景に田畑や家を
明るい色で描いているが、
それがツバメたちの暗色の面積の多さを
たくみに補って絵の明日るさと
高度感を作っている。
この多彩で自由な背景も、
この作品の大きな魅力だ。

じつはこ裕里さんが所属する
郡山市の山崎智子テューターとは
先週の金曜日の夕方、
郡山駅近くで同地区の井上テューターと
お茶を飲んだ。
喜多方からの帰り道、
郡山で時間があったので
前に連絡したのだ。

これまでにもなんどか書いたが、
山崎パーティのラボっ子は、
ラボ・カレンダーが始まって以来、
ほぼ毎年のように入線している。
山崎テューターは絵画の指導経験のある方だが、
あくまで「テーマ活動」ありき、
「ラボ教育活動のなかでの描画むと
きっちり位置付けられている。
カレンダーの季節のたびに
いろいろやり取りするので、
そんなことを徐々に知るようになった。
ぼくは冗談ぽく山崎パーティの絵を
「山崎流」と呼んでいるが、
それは絵のテクニックではなく、
テーマ活動とのリンク、
ラボ・ライブラリーを聴き込み
再表現していくことが
広義のテーマ活動だとすれば、
描画もそのひとつということなのだ。

郡山の駅近くのびるの5階のカフェで
マンゴー入りタルトとアールグレイを、
西に傾いていく陽をあびていただきつつ
くだらない話をしたが、
6月の絵をまだ観ていなかったので、
この絵の話しを全くしていなかった。
残念無念。
裕里さんとChuchuのテーマ活動の
関係をぜひ知りたいものだ。

原作の絵は吉原英雄先生。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
吉原先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家の
おひとりであることは
いうまでもない。

「チュチュ」絵は2つのパターンの変化だ。
恐るべきことに吉原先生を知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。

あるとき酒席で
らくだ・こぶに氏にきくと
氏は呆れた顔で、
吉原先生は、チュチュをあえて没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだ
と教えてくれた。
さらに、その日は機嫌がよかったのか
「チュチュは注射もがまんする
けっこう強い子のようだが、
とりわけ優等生のツバメではない。
ふつうのツバメが事件にぶつかり、
仲間と離別し少し成長して帰ってくる。
挫折したり病んだりして
少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と語ってくれた。

ところでテーマ活動で
運動会の場面でみんなが
チュチュを先頭にしようと
全力でとばないことがあるけど、
ここでは子どものもつ
全力さがたいせつなんだよな。
なんて余計なお世話。
「物語は思いも魂も伝承する」 05月01日 (火)
三澤製作所のラボ・カレンダー
5月の絵をめくる

皐月朔日。
午前5時30分にカレンダーをめくった。
東の窓から差し込む、
もう初夏といっていい朝の光に
この絵が浮かびあがった。
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大塚勇三・文 丸木俊・絵による絵本
『うみのがくたい』に題材をも止めた
ラボ・ライブラリー
The Ocean-Going Orchestraから
感じたら喜びと感動を
物語に心を寄せて描いたものだ。

描いてくれたのは
石井聖人くん(小4/愛知県・鈴木晶子P)。
遭難しかかった船が
海の生き物たちの協力で難を逃れた後、
お礼にもらった楽器でsessionする
クジラやサメや魚たちが
いきいきと画面で躍動している。

この物語も、ラボ・カレンダーの題材として
たくさんの子どもたちが取り上げる。
その理由のひとつとして「真似しやすい」絵という
ことがあるのは否定しない。
でも、それは極めて皮相的、superficial
な理由に過ぎない。
いわゆる具象的な絵はラボ・ライブラリーに
いくらでもあるのに、
この物語から絵を描いてみようと
子どもたちを誘うのは、
『うみのがくたい』のことば、
音楽、絵の持つ大きな力、
そこに込められた想いとか魂といった
不可視のパワーが
子どもたちに伝わっている気がしてならない。

1985年以降の34年間、
これまでのラボ・カレンダーの絵として
『うみのがくたい』は多分20点数が
入選作として全国のラボっ子の部屋の壁を
飾っているはずだ。
ということは、選考委員をうならせる
名作、傑作、力作が多数登場しているわけで、
それを乗り越えて、
常に新鮮な作品が登場してくるのも
この物語のふしぎな力だと思う。

そして今回の聖人くんの作品も
「おっ!」という新鮮さに溢れている。
まず驚いたのは船体は大胆に簡素化され
さらに船員たちはひとりもいない。
(このことは後で触れる)
4頭の大小のクジラやサメ、
そして小さな魚たちが全力で演奏する。
その躍動感には力強いリズムがあり、
それは聖人くんがこの物語を繰り返し聴き、
深くinputされたことの証に違いない。
絵は本来空間的だが、
時として音楽的でもあり、
物語における音楽は
物語のテキストをコントロールする
時間的であるが
絵画的な表現力も持つ。

テキスト(音声)、音楽、絵という
ラボ。ライブラリーを構成する要素、
すなわち物語を立体的に描く要素が
この絵をじっくりと見ていると
湧き上がってくるのだ。

上記は何のこっちやと思う人のために
もう少し説明するが
その前に色のことを書いておこう。
原画を見ていないので正確なことはいえないが、
色味としてはかなり抑制されていて、
透明感がある。
クジラは比較的濃い色だが
それでも抑えめといえる。
全体に青の濃淡で空と海が描かれ、
絵の上部、空の方にいくほど
淡い青になっているが、
塗りかたは単純ではなく、
奥ゆきと広がりを作っている。

魚たちや船はおしゃれな現代色で
水彩でこの色を作り出した感覚はステキ。
とくに船体のmagenta系とviridian系の
two-toneの色味は
痺れるようなかっこよさで、
さらにわずかに使ったvioletが効いている。
この船がどまんなかにあることで
面積の多い青がさらにくっきりとして
この絵に力を与えている。
それがなければ、ともすれば
淡い色だけの印象になっていたかもしれない。

作者は小4ということだから、
男の子から少年に向かいはじめる少し前。
声変わりもまだしていないと思う。
その時期の男子の感性、
憧れ、無邪気さ、とまどいを
おとなになると残念ながら忘れてしまう。
しかしその時期の心映えが
『うみのがくたい』の言語体験を経て
こうした絵として残るのは
とっても貴重なことだ。
たかが子どものえでは済されない。

さっき後で触れるといったことを書く・

原作絵本の絵は「原爆の図」で
夫である丸木位里先生とともに
ノーベル平和賞の候補にもなった
画家の丸木俊先生である。
ぼくは埼玉の丸木美術館でも
広島でも長崎でも先生の
「原爆の図」と何度も対面している。
とくに長崎は長男のすばるが小1、
長女の梨奈が保育園のときに連れていった。

広島や埼玉は高校生くらいになれば
自力でいけるだろうと思ったからだ。
「強烈すぎるか」とも思ったが、
現在36歳の長男は記憶にあるという。

すばるが明治の政治経済にいながら
卒論にチョムスキーをえらび、
アクティビストとしての彼に着目して
「テロリストの再定義」を書いたのも
長崎の原体験が影響しているかもしれないという。

『うみのがくたい』の絵は
丸木先生は2年以上をかけて制作されている。
イルカやサメなどの動きに
たいへん苦労され、
近所にすむ「おさかな博士」の少年と
なかよくなって助言をうけたという
エピソードもある。

その半面、人間の生命や尊厳を
おびやかすものへの怒りは苛烈で、
容赦はなかった。
かつて「ラボの世界」のインタビューで
ラボっ子たちがお宅をたずねたときも、
核エネルギーと人間が
共存不可能であることを説いてから、
髑髏のお面を全員につけさせて,
「原発反対!」とシュプレヒコールを
子どもたちとともにされた。

『うみのがくたい』はまた、音楽がテーマでもある。
海、夕焼け、音楽、海のいきものたち。
すべて美しいモティーフだ、いや、
モティーフ、動機というよりキエティーフ、
すなわち動かない静機といっても
いいかもしれない。

海は、遠くに開かれ、
水平線の先にはなにも見えないがゆえに、
古来から多くの想像がなされた。
不老不死の国や黄金の国、
さまざな楽園を人は想像した。
そして多くの命が冒険にでて帰らなかった。
いや海に還ったというべきか。

そして戦もあった。
若きかけがえのない魂がやはり海に消えた。
この物語の音楽も夕焼けも、
すべては海にきえた命への鎮魂のように思える。
これは何度か書いた話だし知っている
人もも多いと思うが、
あるとき5歳のラボっ子が
『うみのがくたい』についてこういった。
「先生、あの船はほんとうは沈んだんだよ。
だからあのお話ができたんだ」

聖人くんがこの子のエピソードを
知っていたとは思えない。
だが、船員がひとりも描かれていない船。
そのまわりでひたすら演奏する
海の生き物たち。
それは、「あの船はほんとうは沈んだんだよ。
だからあのお話ができたんだ」に
通じる感性のような気がしてならない。
考え過ぎかもしれないし、
人間を描くのめんどいからやめたのかもしれない。
だ、これだ描き込む力のある聖人くんが
そんな安易な理由で人物を描かないのも不自然だ。
だからこそ、彼がどんな言語体験、
テーマ活動体験をこの物語でしたかの
ぜひ知りたいと思う。

ただ、ぼくが信じているのは、
大塚先生、丸木先生、間宮先生の
思いや魂は、
多くの子どもたちに
感動とともに伝承され
こうして新しい形で常に
立ち現われてくるということ。
だからきっと今夏も
『うみのがくたい』の絵は
またたくさん送られてくるだろう。

1981 年、瀬戸内海の高島という島で
「海の学校」の教頭やっていたとき、
若い漁師のおにいさん
「妹尾のタカちゃん」がこういった。
「海はこわいところさ。
でも、命の生まれるところでもあるんだ」
そのとき、長男のすばるはお腹にいたが
タカちゃんの話をききながら、
ぼくはまだ見ぬわが子を思った。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる Rise Up to the Sky. ChuChu Belongs There. 04月03日 (火)
卯月である。
弥生が別れの月なら、
今月は新しい出会いと
旅のはじまりの月だ。
,yah
そんな季節にふさわしい
さわやかな絵が登場。
ラボ・ライブラリーSK8
ChuChu 『こつばめチュチュ』に
inspireされた作品だ。
描いてくれたのは
野呂千尋さん(小6/小笠原カヨ子P)。

絵大好き少女の力作であることは
だれが見てもわかる。
そして、吉原英雄先生の
オリジナルの絵本を知っている人は
別の意味でびっくりするし、
この絵の後で絵本を観た人は
もっとたまげるだろう。

そのことは後述するが、
小学1年生のツバメのチュチュと
なかまたちが澄んだ空ほ
競いながら飛翔するさまを
ワイドな画面で描き切った
豪快・爽快・痛快な画面には
みんなstanding ovationだ。

チュチュのいる街は物語上の
架空だtownだが、
千尋さんのなかでは超リアルに実在している。
そしてそれをvisualに表現する力を
彼女は持っている。

もしかすると千尋さんは
もっともっとリアルに
家や樹木や光を
新海監督のアニメのように
クリアな感じで
描きたかったのかもしれない。
でも、この水彩のボケ味は
絵はがきや風景スナップなどよりも
とても生きいきとしていると思う。

家が立ち並び、ビルもあり。
樹々も点在し、鉄塔もあり
電線もある。
遠くに美しい山もある。
チュチュたちの眼下の街には
子どもたちの笑い声があり。
荷物を運ぶお兄さんが汗があり、
窓辺でピアノを弾く
お姉さんのtrèmoloがあり、
恋人たちのささやきがあり、
たいせつな人を失った涙がある。
そんな想像を掻き立ててくれる。

絵全体にこの街を祝福する
鐘の音が聞こえてくる気さえする。

チュチュと同じ高さで、
街全体を見おろす千尋さんの視線は
なんというやさしさだろう。
千尋さんは、「がんばれチュチュ!」と
応援しているのはもちろんだが、
「がんばれみんな!」と
ちょっした失敗や、つまずきで
すぐに膝をかかえてしまうぼくたちを
激励しているのだといま気づき、
ハッとしている。

もうすこし詳しく見よう。
描き込みの細かさはいうまでもなく
ものすごい集中力と想像力だ。
ラボ・ライブラリーの音声と音楽から
これだの世界を広げるのは尋常ではない。
さらに、focusはツバメたちにあっているので
街や遠景は巧まずしてボケている。
被写界深度、Depth of Focusを
使っているのもすごい。
このスケール感と奥行き感、
また、ツバメたちが電線の上にも
奥のほうにもいるのが楽しい。

ツバメはオスメス同色で、尾は長い方がオス。
燕尾服の由来である。
都市に来るツパメは
ほとんどが建物の軒下などの
人工物に営巣するので
最近は迷惑がられたりするが、
空中の虫を餌にするので、
農薬のない昔は稲の害虫を
食べてくれる鳥として
たいせつにされた。
また、軒下に巣をつくったツバメは、
雷や火事を防ぎ、
子どもを生み育てる吉鳥灯ともされ、
にんげんとはなじみの深い鳥だ。

柏原(黒姫)出身の俳人
小林一茶にも
今来たと 顔を並べる つばめかな
なんていう句がある。

で、ここでdelicateな話をする。
そして最初にラボ・カレンダーの選考について
とやかくいうつもりはないことを
お断りしておく。
この絵は、ふつうに考えれば
「1年でも1万メートル」
というツバメの運動会の競争のシーンだ。
だとすると
narrationにもあるように
「秋のはじめの青い空」である。
この語りはシンプルな表現だが、
チュチュたちが舞い上がる
空の高さと広さ。
そして巣立ったばかりの
幼いツバメの可能性を
ことばのナイフで鮮やかに
切り取ってみせる
とても重要な一言。

物語を聴く子どものイメージは
大きくて広げることば。
さすがはらくだ・こぶにだ。

これだけ印象深いことばは
千尋さんの心に残っているはずだし、
これだけチュチュの世界を
リアルに描き出せるほど
物語と向き合った彼女なら
当然のことだ。
だとすれば、この絵は9月の絵に
おくべきだったのではないか。

また、仮にこの絵が「登校の場面」だとしても
ツバメが巣立つのは6月から
7月くらいであるから
4月では早過ぎる。

ただ、こういう可能性もある。
「チュチュは少学1年生」というのは
物語のはじめに明示されるから、
それを意識した「新学期」というイメージで
千尋さんは描いたのかもしれない。
いつもいうように、
物語、fictionに
自然科学の整合性を持ち込むと
あまりおもしろくない。
「石から猿は生まれない」
といったら『西遊記』は成立しない。
「石から、猿? わっはっは」
という感性がだいじだとも思う。

ただ、作者のらくだ・こぶにが
「秋のはじめの青い空」にこだわったことは
まちがいないし、
それが千尋さんに届いていないはずもない。

この物語を知らない人が
この絵を見たら春の空を想像するのかも知れない。
(もっとも4月立つらもっと靄がかる)
ともあれ、千尋さんの思いが気になる。
「秋のはじめの青い空」なのか。
ヒレとは関係無く
新学期の空を描いたのか。
作品の完成度、訴える力が強いだけに
その辺りを本人に確認して
月を決めても良かったのではないか。

なにやら選考への批判メいたことを
めずらしく書いてしまったが、
ぼくにはどうしても
「秋のはじめの青い空」なのだ。

そう呟きながら、またながめているが、
ツバメたちの配置も素晴らしい。
先頭を行くチュチュの前方を少し空け、
2番目めのつばめを少し高く起き、
さらに最後尾のツバメの尻尾を
断ち切りで描いたことで。
奥行とスピード感、
さらにツバメのフォーカスがクリアになった。

やはりすばらしい。
中学生になっても
絵を描きつづけてね。
nyynd
◎ここからは後半
かつて書いたことに加筆した。

SK8は1974年のリリースだ。
この巻はラボ・ライブラリーが
「こどものともシリーズ」
からはなれ、
また有名な昔話や童話の再話でもなく、
ラボがオリジナル・ストーリィで
制作した最初の作品である。

子どもたちにとっては
そのラボ・ライブラリーを
だれが作ろうが、
だれが絵を描こうが、
だれが吹き込もうが、
物語は物語。
自分にとっておもしろいかどうかしかない。
ラボ・ライブラリーは
ご存じのように
一流アーティストが参加して
つくられるが、
子どもたちにとっては
制作関係者が有名かどうか、
またテーマがなんなのかといのも
どうでもいいことだ。
というか、そうしたことを教えたり
押しつけたりするのは無意味だ。

といいつつ、クレジットを並べると
英 語 ● Sarah Ann Nishié
日本語 ● らくだ・こぶに/さが・のぶる
音 楽 ● 間宮芳生
吹 込 ● Alan Booth / Gerri Sorrells /
Roger Matthews /江守 徹/
田島令子/野村万作/岸田今日子
絵 ● 吉原英雄/藤枝りゅうじ/山下
菊二/元永定正
とある。

まあとんでもない顔ぶれである。
極端ないいかたをすると、
離乳食から普通のご飯を食べはじめた
幼な子の食器に
名工の飯茶碗や
すぐれた塗師による
蒔絵の日月椀を
さらっと用意しているようなものだ。
(これはだれだれ先生の傑作だから
とはいわない。食べ物をよそうのだから
だいじにしなさいというがよし)。

SK8は初の完全ラボ・オリジナル
であるがゆえに、
この作品のストーリーも音楽も絵も
その後に連なるラボ・ライブラリー
の特長のたいせつな部分が凝縮している。
また、その後、しばらく
ラボ・ライブラリーづくりの中心にいた
らくだ・こぶにの意図が
鮮明に感じとれる。

すべからく物語おけるテキストは
フィクション、すなわち
そこに無いものを描くことができる。
ということは時間的からも空間からも
解き放たれている。

ただ、ラボ・ライブラリーは
物語を立体的に描こうという試みであり、
絵は空間を語り、
音楽は時間を支配する。
3Dなのだ。

『こつばめチュチュ』のストーリィは
シンプルな話かもしれない。
だた、一見シンプルなのだけれど、
なかに入り込んでいるcontextは
けっこう奥にあるので
ほじりくりだして
味わうとおよりおいしくなる。

それらの味はライブラリーを
一度さらっと聴いたり、
わあっと「一回動いた」
程度では見えてこない。
まあライブラリーに限らず
どんな物語でも小説でも
そうしたcontext、
すなわち山や谷や川や森は
下からゆっくり登って
高みに行かないと全部は見えない。

この物語が
大好きな小学生なら
ことばにはできなくても
膨らませているだろう。
ことばにできないと書いたが、
イメージは言語と体験のインプットから
形成されるが、うかんだイメージを
言語化して展開するのは
別の抽象力が必要だ。
それには時間がかかる。

この物語が出で2年後の1976年、
ぼくがラボに入社する直前の5月、
卒論の仕上げをしていた頃、
ラボセンターにらくだ・こぶに氏に
頼まれた本を
届けにいったことがある。
彼は珍しく頭を下げ、
「いそがしい時にすまなかった。
飯でも食いに行くか」といった。
本当はすぐ帰りたかったが、
(ながくなるのは見えていたので)
Noという空気ではなかった。

その少し前、たまさか、
シニアメイトで実験的に
公開テーマ活動と称して
その日に来たラボっ子たちと
役も何も決めないで自由に
テーマ活動をするという試みをしており、
それをらくだ・こぶに氏は見ていたので、
話はしぜんと『こつばめチュチュ』の
ことになった。

ぼくたちの活動については、
試みとしては評価すると前置きしてから、
散々にダメ出しされた。
「いかに自由にといっても、
中心となる君たちひとりひとりが
浅い聴き込みと理解なのは情けない」
ということだった。
実験とはいえ、
聴き込みが浅かったのは事実で
反駁することはできなかった。

「前半についてはよく意識していたが、
後半まで緊張が続いていない」
「……たとえば?」
「『あれはシドニーまでいくんですよ』
とマスケル先生はいうが、
『もうすぐきみたちも飛ぶ。
鳥は飛行機ほどはやくないが、
ツパメは鳥のなかではいちばんはやい。
だから、虫を食べて身体をつくりなさい』
といったことを教えたいのだよ」
「なるほど、マスケル先生すごいっすね」
「じつにいいタイミングで
飛行機が飛んできた。
なにかバラバラのような
先生の質問も、
答は全てツバメだ。
ツバメの誇り、矜持を教えたい。
マスケル先生はちゃんと
目標をもって授業にでている。
そして運動会だ」
(この人はそんなことまで考えて
物語を書いているのか)

「『こつばめチュチュ』の物語は
間宮さんの音楽で始まる。
この冒頭の短い音楽はなんど聴いても
ツバメが飛んでいる音楽ではないだろう」
「そうすね、ぼくたちも
ツバメの話だからと決めつけて
はじめは飛ぼうとしました。
ところがなんだか変でした」
「うむ、ありは小学1年生!
という音楽だ」

かつてなんども書いたが
音楽は時間的だ。
時間は流れていくから、
音楽に支配性をもたせることが
物語を立体的に描くラボ・ライブラリーに
音楽がある積極的な意味だ。
時間的でも空間的でもない
テキストをコントロールするのは音楽だ。
このことを教えてくれたのがSK8だ。

たった7秒くらいの
ブリッジといわれる
短い音楽でも「一夜明けて」みたいな
時間の経過がわかる。
しかし音楽は空間や心象については、
それを示すとはかぎらない。
悲しい話だから悲しい音楽になるとは
かぎらない。
音楽が必ずしもその場の動きを
決めているわけではない。

ラボ・ライブラリーの音楽はBGM、
背景音楽ではない。
銭湯の富士山ではない。
ときには物語の前で、
ストーリィを牽引したりもする。
また、音楽とことばとの関係は
じっとラボ・ライブラリーを
聴くときと、身体をつかって
動くときでは変わってくることがあるのも
おもしろいと思う。

で酒席の続き
「三澤よ。チュチュが飛ぶ練習をしているときの
『来年もまた帰ってきますかね』は
必死にリハビリするチュチュが
まだまだ心配なのだ。
次の『もちろんだとも』はさらなる激励だ」
「であるなら、ぼくの想像では、
ここでのチュチュは
まだまだ鮮やかに
飛んでいないのですね。
ときおりふらついているかも」
「ふむ、君はたまに
まともなことをいうな」

絵本は吉原英雄先生だ。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家のおひとりであることは
いうまでもない。

「チュチュ」絵は
2つのパターンの変化だ。
恐るべきことに
吉原先生を知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。

この酒席でらくだ・こぶに氏に
そのことをきくと氏は呆れた顔で、
チュチュを没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだと
教えてくれた。

さらに、その日は機嫌がよくなったのか
「チュチュは注射もがまんする
なかなか強い子だが、
とりわけ優等生ではない。
ふつうのツバメがトラブルに巻き込まれ、
仲間と離れて暮らして
少し成長して帰ってくる。
落下してケガをして少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と問わず語り。

その少し前には酔いのせいか
少し前傾していた姿勢が
いつものビシッと伸びた背筋になった。
そして両肘を張ってぐいと盃を煽ると
「そろそろ行くか」といった。

ところでテーマ活動で
運動会の場面でみんなが
チュチュを先頭にしようと
全力でとばないことがあるけど、
ここでは子どものもつ
全力さがたいせつなんだなと
ふと思った。
ラボ・カレンダー3月 色の音、「ヒツジになるなヤギになれ」 03月01日 (木)
三澤制作書のラボ・カレンダー3月をめくる
The Sounds of Colors
Be a GOAT!
tbynt

弥生である。
日本の3月の空は「霞みか雲か」で
すっきりとは晴れない日が多い。
しかし、今月の絵の空はなんとも清々しい。
快晴ではなく雲がたなびいてはいるが、
全体にスカッと抜けた色合いがかっこいい。

描いてくれたのは
繁田真言くん(6歳/兵庫県・高島良子P)。
2015年に96歳で亡くなった
アメリカの絵本作家
Marcia Brownの
The Three Billy Goats Gruff
『三びきのやぎのがらがらどん』に
題材を求めて制作されたラボ・ライブラリーに
inspireされた作品。

この物語もラボ・カレンダーの題材に
とりあげるラボっ子は多く。
毎年かなりの点数が送られてくる。
したがって過去には名作、傑作が
綺羅、星の如く居並ぶので
それを超える作品となると
なかなかたいへんである。
もちろん、画風や画材の違い
年齢差などがあるから比較は困難だが
「すげえ」「渋い」「カッケー」
「負けたわ」「鳥肌」なんていう
感性直撃の絵が数多くでるのが
この『三びきのやぎのがらがらどん』だ。
それはやはり原作絵本、
そしてラボ・ライブラリーの力よるもので
題材のパワーが子どもたちの絵力を
引き出しているのだろう。

原作の話は後にして
繁田くんの絵を見ていこう。
ぼくが最も感じたのは、
個性、のびやかさ、とらわれのなさ、
楽しさといったところが
とびぬけてすばらしいということ。

フォルムも色もdetailも
絵本から距離をおいている。
構図や登場するキャラクーは
もちろん参考にしているが、
「画本の写し」ではなく、
十分な聴き込みによって
inputされた物語の
イメージ(ことば 色 音楽)が
彼の中で反芻され咀嚼され、
真言くん自信の色と形になって
それも楽しいリズムを伴って
溢れだしたのだと思う。

後で触れるが、
瀬田貞二先生は、
『三びきのやぎのがらがらどん』の
色には音楽とことばがあると
いわれているが、
真言くんの絵は、
そのブラウンの音楽とことばを
受けとって、
本歌取りのごとく
originalityに満ちた音楽とことばを
生みだした。

クリエイターにとって、
作品に感動してもらえるのは
とてもよろこばしいことだ。
しかし、さらにそこから
新しいものが生まれることは
最大の幸福である。
ブラウンもっと微笑んでいるだろう。

もうすこし細かく見よう。
フォルムはじつにのびやかで自由だ。
トロルもヤギも橋も山も
真言くんの闊達さがきもちがきもちよい。

しかし全体もちゃんと見ていて、
バランスが美しい。
空の面積と山の面積、
トロールの位置とヤギの位置などは
比率を計算してみたくなる関係だ。
また、中央に鳥、橋の下にも生き物を
描き込んでいるのは、
先ほどいったようにイメージがあふれた結果だが、
それがまたふしぎな印象を作ったている。

輪郭を色鉛筆(たぶん)でとっているが、
その線に迷いが無いのと、
彩色した色と同系色の線なので、
世界が分断された感や「ぬりえ感」がない。
要するに自由闊達なんだけど、
揺るぎないイメージにる独自の造型がある。
そして、橋の湾曲した感じと
緑のヤギの少し前のめり(これ大事)の姿勢、
トロルのひろげた手からは、
速度感、躍動感が伝わってくる。
これもすごいぞ。
mim
それからこれも見逃せないのは
トロルにもヤギたちにも
皆表情があること。
物語がvividに響いてくるのだ。

そして色は、まさに真言くんの
独自ののメロディとリズムを奏でている。
まず、橋がtwo-toneのだんだらなのがおしゃれで
これが強烈なimpactだ。
北欧の岩山が緑なの? とか
野暮ををいう奴は前に出なさい。
ヤギの色がなんで全部ちがうの? とか
センスのないことをいう輩は
はだしで逃げなさい。

北欧の民話とか自然とかは
真言くんには関係なくて、
小さな頭ではなくでっかいハートで
物語をたっぷり感じているから
これだけ独自の世界が描けるんだろう。
だからこそ、
彼がこのお話をどんな聴き方をしたのか
また、どんな活動をしたのか知りたいものだ。

色彩は見ての通り個性的だが
色に濁りがなく、
また同系色の濃淡の使い分けが巧みだ。
白い雲もひぼんで、
普通だったら「ポッカリ浮かんだ」ように
固まりの雲を描くのだが、
空の上から大胆に使ったwhiteは
ことばを失ってしまった。

なんどもいうが
自由でのびやかだが
全体にも細部にも心が届いている。
そして何より楽しんでいるが、
この描き込みから想像するに
相当疲れたのではないだろうか。

ヒツジは群れたがるが
ヤギは群れないし付和雷同しない。
いたずら者のパンもヤギの身体だ。
真言くん。
Be A Goat!

The Three Billy Goats Gruff
はノルウェーの民話作家であり、
民俗学者、動物学者でもある
アスビョルンセン、Peter Christen Asbjørnsen
と友人のヨルゲン・モーJørgen Engebretsen Mo
が編んだ『ノルウェー民話集』1841-
に収録された民話をもとに
マーシォ・ブラウンが絵本にしたものだ。
ノルウェー語の原題は
De tre bukkene Bruse
でBruseがヤギの名前だが、
これは「うなり声」「咆哮」の意であり、
それをブラウンは英語で
「しわがれ声」「どら声」の意のGruffとした。
それを瀬田先生は「がらがらどん」と邦訳された。
「どん」は殿が変化したもので
「かにどん」とか「西郷どん」、
「おたけどん」のように愛称、尊称、
ときしに蔑称にも使われる。
なお性別は問わない。

ラボ・ライブリー
『三びきのやぎのがらがらどん』の
英語音声を担当されているのは
Elizabeth Handoverさんという
英国人女性だ。
当時は広尾のインターナショナルスクールで
教員をされていた。
英語でも日本語でも職業由来の姓は多いが、
Handoverさんの由来はわからなかった。
いまは亡き「鉄の女」Thatcherさんは
「屋根葺き職人」である。

Handoverさんの
語りがすばらしいのは
ライブリーを聴いた方には
説明の必要はない。
感情を抑制し、かといって冷たくならず
昔話の温かみをたいせつにした語りは
何回でも聴ける。
そしてきもちよいリズムがありながら、
単語ひとつひとつの発音、
とくに母音が明るく
きれいに出るように
心がけられている。
いわゆる曖昧母音を
明るくきれいにというのは
なかなかできることではない。
でもHandoverさんによると
女王陛下の英語なら当然とのことだそうだ。
accd
最後に瀬田貞二先生は、
「ブラウンの色の使い方は
そこからメロディがきこえるような
音楽的であり、かつ象徴的である。
主に空に使われているコバルトは勇気、
トロルや山などに用いられている
ブラウンは脅威、
そしてイエローは平和と安らを歌っている。
読み手は茶色でドキドキし、
コバルトで激励され、
ラストで黄色で安心する」とおっしゃっている。
真言くんは、もちろんこのことは知らないだろう。
ただ、ブラウンの音楽性を受け取り
新たなる自分のメロディとリズムを
奏でたのだ!

ラボ・ライブリーの音声録音は
基本的には英語も日本語も
スクリプト、すなわち
台本を用意して
それを読んでもらうのだが
絵本作品の場合は、
テストでは直接絵本を読んでもらう。
やはり絵本の絵がもつ意味や
温度や音楽性などを
感じとった身体から出てくる声で
録音したいのだ。
声は「喉」から出てくるが
「ことば」は身体と心から
生まれてくるのだ。

このアスビョルンセンは元々は
自然科学が専門だったが
グリム童話を読んで、
ノルウェーのけわしくも美しい自然が生み出した
妖精たちが活躍する物語、
そこに生きる人びとの心と知恵の話を
ノルウェーのことばで
子どもたちに伝えようと考えた。
そして、その仕事はノルウェーの国語の
純化という大きな役割を果たした。

アスビョルンセンは1885年、
73歳で、故郷であるクリスチャニアで亡くなった。
このクリスチャニアは
現在では「parallel turn」と呼ばれる
スキーを平行に揃えて回転する技術の
名前でもあり、
ノルウェーの首都、オスロの古名である。
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