幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全292件] 1件~10件 表示 次の10件 >>
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。Concentrationはどこから 04月05日 (金)
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卯月とはいえ風は
まだ心浮き立つほどに暖かくない。
もっとも旧暦の卯月は新暦に変換すると
4月下旬から6月だけどね。
しかし桜はなんとか咲いた。
願わくば、空までも薫るほどに満開し
敷島、そして世界を覆う
諍いと血と汗と欺瞞と不公平の
黒雲を浄化して欲しい。
朔日の朝、
東の窓からさしこむ自然光のなかで
カレンダーをめくった。
午前の自然光が一番自然な色に感じるが、
この絵を見た瞬間、
昨夜、フライイングで蛍光灯の下で
見なくてよかったと改めて思った。
作品はアーノルド・ローベル
Arnold Lobel(1933-1987)の絵本、
『ふたりはともだち』
”Frog and Toad Are Friends”に
題材を求めたラボ・ライブラリーに
inspireされたものだ。
描いてくれたのは高田晴さん
(小4/大阪府・坂口真理子P)。
以前にこの物語を描いた
カレンダーを見たときと
まったく同じように
めくりながら
「ああ春だ!」とつぶやいてしまった。
楽しいこともワクワクすることも
まだまだある「極悪ジジイ」にも
辛くせつないことも
同様かそれ以上にたくさんある毎日。
そんなジジイの肩をたたくように
「もう春だ! さあ前を向け」という
がまくんやかえるくんたちの声が
聞こえてくるだ。
知らない人のために書くが
原作絵本は全体に抑制された色調の
ドローイングだ。
それに対し晴さん(男子だったらごめん)は
あざやかな、
しかも「点描」だ。
キャラクターのフォルムは
本歌取りをしているが
もう全体はオリジナル。
見事なre-creation、再創造だ。
点描、pointillism(stipplingともいう)は、
フランスの新印象派の画家
Georges Seurat(1859-1891)
が印象派の技法をさらに追求した
点もしくはとても細かい
タッチの集合で
描く油彩の技法だ。
太陽光はスペクトルに分解すると
7色になり、
その組み合わせの割合によって
無限の色彩が生まれる。
印象派、たとえばモネなどは
自然の本来の色を
表現することに腐心したが、
自然に近い色を出そうとして
絵の具を混ぜれば混ぜるほどに
光の鮮やかさを失い濁っていく。
ぼくがよく使う
「スカッと抜けた色」から遠ざかる。
そこでモネは絵の具を極力混ぜず
絵の具を並べて配置し、
離れたところから見ると
自然な感じになるようにした。
これを「筆触分割」あるいは
「色彩分割」という。
モネはさらに
「影にも色がある」とした。
Georges Seuratは
こうした画法をさらに研究し、
光学的な理論も取り入れて
点描画にたどりつく。
彼の有名な作品は
亡くなる5年前に完成した
Un dimanche après-midi
à l'Île de la Grande Jatte
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」で、
興味ある人は
検索してみておくれ。
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点描の説明はこれくらいにして
晴さんの作品を感じよう。
バックの青空以外はすべて点描だ。
驚くべき集中力と持続力。
しかも、その点の色も細かく
濃淡をつけている。
筆を何本使っているかわからないが、
(せいぜい2、3本。
もしかすると1本か
6号か8号くらいの丸筆?)
とにかく毎回、筆をよく洗い、
筆の柄まできちんと拭いているはずだ。
そうでなければ濁ってしまう。
このような描き方は
ただ丹念に筆を置いていくだけではなく、
筆洗や拭き取りという
手間のかかる作業も
やっていかなければならない。
しかも、それらを「機械的」に
継続するのでなく、
常に表現イメージを心に描くことで
楽しみながら行っている。
集中力は想像力と
表現欲に裏打ちされなければ
生まれてこない。
逆にいえば、
表現欲と想像力があれば
とんでもない集中力や持続力が育つ。
その表現欲と想像力を育む
重要な栄養は、
我田引水で恐縮だが、
物語であり、
ことばの力である。
そう思えば、
やはり晴さんと
この物語の関係を知りたい。
さても、
色彩のあざやかさ、
変化のおもしろさもすごいのだが、
がまくんとかえるくんのキャラクターの
フォルムの確かさと躍動感、
友情の喜び感も見逃せない。
周りの風景、草や花も
ざわめきながら喜びあっている。
動いている。
こうした感情も、
機械的な作業では生まれてこない。
画法に目を奪われてしまうが、
本質はそこではない。
バックの青空を点描にしなかったのは
考えがあってのことだろう。
ただのベタ塗りではなく
濃淡をつけているのもさすが。
このバックのおかげて
息苦しさがなくなり
世界が広くなった!
rev
この物語の原作絵本は
1972年11月刊行だ。
以来、世界中で愛されているが、
ともすれば気持ち悪いといわれがちな
かえるとがまえるのコンビの
ふしぎで暖かい友情の
ゆる〜いエピソードのそれぞれが
子どももおとなも捉えて離さない。
『ふたりはともだち』
の原作絵本は
抑制された色彩だと書いたが、
がまくんとかえるくんのシリーズは
基本的にグリーンと
ブラウンで描かれている。
ローベルの原画はペン画であり、
印刷段階で指定した、
しかも限られた色を乗せるという
方法でつくられた絵本なのだが、
それが独特な雰囲気をつくりだしている。
ローベルは惜しくも
54歳の若さで他界するが
作品は刊行以来40年以上を経た今も
世界じゅうで愛されている。
がまくんとかえるくんの関係は、
ときには漫才師のボケと
ツッコミのようでもあり、
幼い無邪気な
おともだちどうしのようでもあり、
やんちゃな悪ガキどうしのようでもあり、
また、男女のようでもあり、
さらに、白秋から玄冬にむかう
人生をかみしめる
老齢期の友情のようにも思える。
ローベルの絵本のひとつ
ひとつのストーリーは
きわめて短いのに、
こうした深みがあるからこそ
ほのぼの感とともに心に刻まれるものが
読後に生まれるのだろう。
原作者のローベルは幼少時は病弱で
そのことが作品にも
影響を与えているといわれる。
彼の作品に登場する生物は、
みな個性的でキャラクターが立っている。
そしてこの『ふたりはともだち』
でもそうだが、
それぞれがときに
心がすれちがったりしながらも、
自分らしさからぶれることがない。
だけど、深いところで
互いを認め合っている。
自分らしさをたいせつにすることは、
とりもなおさず他者の
個性を認めることだ。
それこそが地球の生き物が
持続していく道だ。
排他的、
自分の正義を押し付ける奴にはわかるまい。
ともだちってなんだろう。
よくほんとのともだちっていうけど
なんだろう。
えらぶもの?
えらばれルもの?
「ことばの宇宙」船長時代
サマーキャンプの感想文は
毎年、全班分読破したが
一番多い感想は
「ともだちができてよかった!」だ。
これはずっと変わらない、
ともだちって自分を証明してくれる人かな。
最後にこの絵本の日本語訳を担当している
三木卓先生(1935-)について
少しだけふれておく。
uyr
三木卓先生は、H氏賞、芥川賞を
はじめとする多数の受賞歴をもつ
詩人、小説家、翻訳家だが、
これぞラボ! という1編を紹介したい。
byby
『星のカンタータ』1969年理論社➡︎角川文庫
この作品はいわゆるSF風の物語だが
ことばと表現、
コミニュケーションという問題を
詩情豊かに語っているの。
しかもこの物語は『星雲の声』というタイトルで
「ことばの宇宙」に連載されたものだ。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる 弥生の空はひつじぐもがふわり 03月05日 (火)
本日のcolumn
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる
弥生の空はひつじぐもがふわり
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二月は逃げるのことばのとおり、
あっという間に過ぎさった。
今日から弥生、3月である。
昨夜は結構遅くまで
ごそごそしていたので
珍しく寝坊して6時40分に起きた。
「うーっ、3月じゃ」と呻きながら
朝の自然光のなかでカレンダーをめくった。
そして思わず黙りこみ、
それから近寄ってながめてから
なんだかうれしくなった。
ラボ・ライブラリーSK8収録の
『ポアン・ホワンけのくもたち』に
インスパイアされた作品。
描いてくれたのは
里見璃子さん(少4/埼玉県・中村ヒトミP)。
物語を知らない人のためにざっくり
あらすじを書くと
ポアン・ホワンけは「ひつじ雲」の一家。
父さんと母さん、兄と姉、
幼いきょうだいたち。
物語は「3月、なんという夕やけでしょう」
という故・岸田今日子さんの
印象的な騙りで始まる。
音楽は間宮芳生先生。
もう、それだけで引き込まれてしまう。
1973年のリリース。
日本語は、らくだ・こぶにの
オリジナル書き下ろし。
絵本は現代美術の巨匠、
元永定正先生(1922-2011)。
先生は絵本作家としても知られ、
谷川俊太郎先生の文による
『もこもこもこ』1977 文研出版、
自著の『がちゃがちゃ どんどん』
1990 福音館書店、
山下洋輔氏の文による
『もけら もけら』1990 福音館書店、
が有名だが、(Songbirds のMy Ballonは
山下洋輔作曲!)
ccdcdc
じつは『ポワンホワンけのくもたち』は
元永先生の最初の絵本作品だ。
45年くらい前、
この絵本をはじめて手にとったとき、
アクリルとエアブラシの
あまりの美しさは
息ができなくなった。
『ポアン・ホワンけのくもたち』については
あとでまた触れるとして
璃子さんの作品に行こう。
絵本を知っている人なら
この絵がまったくのオリジナルだと
すぐにわかるだろう。
雲の一家に表情をつけたことも
鳥瞰で見下ろした構図も、
絵本とはかけ離れている。
璃子さんがこの物語を聴き込み、
おそらくはテーマ活動もして、
彼女自身が、心のなかで醸成し
豊かに膨らませた世界を
画用紙のうえに再表現したのだ。
もうこうなると描画というより
これ自体がテーマ活動と
いえるかもしれない、
絵筆やクレバス、
野球のバットなどを
コントールするには
眼と手の連動、
Hands-eye Coordination
がキイになるといわれる。
でもそれだけでなく、
Image、心との連動も必要だ、
なぜなら璃子さんの場合は
何かをて本にしているのではなく
想像で描いているからで、
Heart-eye Coordinationも
発動されているのだと思う。
想像力豊かに描かれた絵は
観る側の想像力も刺激する。
だから、この絵本を知らない人にも
知っている人にはより多彩に
さまざまなことを想起させる。
璃子さんは
物語のどの場面を描いたのだろうか。
子どもたちの身体が桃色に染まっているのと
家族の表情からは
再会した直後だろうか。
雲間から街が見えるのは璃子さんの
独自な発想だろうが、
これからまた新しい旅だ!
というぼくたちへの激励にも見える。
そうだ、辛いことはいっぱいあるけれど
ほくたちは旅の途中なのだと!
背中を押されている気がする。
この物語の音楽を担当された
間宮先生がいわれるように
「ひとつの物語の終わりは
もうひとつの物語魔のはじまり」
だということを
璃子さんは自然にわかっているのだろう。
もう少し絵を細かく観よう。
父母の雲を右上に
子どもたちを左下にした配置は
うごきと奥行きを作り出して
立体感と浮遊感がかっこいい。
街には家があり、ビルがあり、
学校のような建物もある。
これらの建造物のパースは
多少歪んでいるか
そんなことはどうでもいい。
(そのことを指摘して「指導」
する人がいなかったことは幸い)
屋根の色も細かく変え、
ビルの窓にも明暗がある。
ヒレは模様のような街ではなく
そこに人びとの暮らしがある
リアルガチな街だ。
左下には公園だろうか、
池も見える。
「うちに変えれば璃子ハウス」だぜ。
いや、池ではなく
再会シーンに出てくる湖かもしれない。
上部中央には
フリーウェイも走っているのも楽しいが、
気になるのは父母の背後のにじだ。
物語で虹に出会った子どもたちは
「虹さあん、ひつじぐものおとなを
みなかった」と問いかける。
でもにじはゆっくり消えてしまう。
この絵の虹はなんだろう。
答えを無理に出す必要はない。
彼女が所属する中村ヒトミパーティは
北関東信越支部の
「ラボ国際交流のつどい」で
激励テーマ活動として
『十五少年漂流記』を発表するが
そのときにもし拝眉できたら
きいてみようかな。
そうそう色も気持ちいい。
子どもたちのピンクも春めいて
素敵たけれど
背景の大胆な塗り分け、
マリンブルーとイエローオーカーの
補色も美しい。
また子どもたちの前方の
ミスグリーンがかったビリジアンも
きいている。
さらに面積はわずかだが
左上のスカーレットもいい。
さらにさらにすごいのは
背景も雲のピンクも
下に同系色のクレバスで
線を入れていること。
これでベタッとした塗り絵にならず
作品全体をより立体的にしている。
『ポワンホワンけのくもたち』を
ラボ・カレンダーの入選作で見るのは
この活動開始以来、34 年間で
ほとんどはじめてのような気がする。
もちろんこの物語を題材にした
作品は応募があるのだが、
ほとんどが元永先生の模写のような絵に
なってしまう。
まあ仕方ないのだが。
いやあ璃子さん、恐れ入りました。
ここからはぼく自身の
『ポアン・ホワンけのくもたち』
のエピソード。
何回か書いたことなので
暇な人は読んでおくれ。
ddb
1974 年の秋、
シニアメイト(当時は全部一般大学生、
高大生会員はまだ育っていなかった)
をしていた者の有志が
「テーマ活動わしないと
ラボは分からねえんじゃね」と
『ありときりぎりす』に取り組み、
それからハマってしまい、
新宿での発表のみならず
国際交流のつどいでも発表する
ことになろつてしまった。
そして、調子にのったぼくたちは
2作目として
『ポアン・ホワンけのくもたち』。
に取り組むことになった。
このころはさすがに鈍感なぼくも、
ラボ・ライブラリーが
「英語教材」などと
くくれるものではない
ということを感じはじめていた。
しかし、いざ取組んでみると
『ありときりぎりす』のようにはすすまない。
すぐに「こんなの劇にできないよ」
「いやいやテーマ活動は劇じゃねえって、
みんなわかってんじゃん」
「人間は雲になれねえよ」
「この物語つくったやつだれだ」
なんていうぼやきがではじめた。
ただ、つまらない物語だという
やつはだれもいない。
ことばの強さと美しさ、
物語の力には
すなおにならざるを得なかった。
劇のしやすさだけをいうなら
学校劇の台本でも
もってくればいいのだ。
すぐには動けない、
抽象的なものを
どう表現するのか、
英日という二重表現のふくらみと
錯綜のはざまで
どうあるべきか。
なかなか具体的に動けない。
その煩悶と試行の繰り返しこそが
テーマ活動がすぐれて
知的な活動であることの証左である。
聴き込みが進むにつれ、
そんなことがコンセンサスになってきた。
当初は、登場するものすべてを
表現しようと
物語をなぞるように動いた。
ツルや虹はもちろん、
ヨットまでもいわゆる
身体表現であらわそうとした。
だがそれも次第にそぎおとされていった。
そうテーマ活動は、
物語を聴き込み声にだすという
言語体験を積み重ねながら、
物語を再表現するなかで
最大にふくらませ、
そしてシェイプアップさせていく、
まさに文学や音楽、
美術といった芸術の道筋と
きわめてよく似ているといえる。
そんなわけのわからぬ
話し合いをしつつも、
ぼくたちの
『ポアン・ホワンけのくもたち』は
発表をむかえた。
会場は昔の「ラボ・センタービル」、
東京医大のむかいの7階。
観客は事務局員、
テューターの方がた。
近隣のラボっ子たちもいたと思う。
そして、らくだ。こぶにこと
谷川雁氏は下手側の
比較的前のほうで観ていた。
まあ存在感がすごいからやりにくい。
発表はなんとか終った。
とにかくみんなよく聴き込んだので、
ことばとしては力があったと思う。
観客はけっこう元気に拍手し、
谷川氏も大きな動作で
静かに拍手をされているのが見えた。
その流れだと彼がたちあがって
なにやら寸評をすることが予想された。
観客もぼくらもその中身がこわかったが、
一方でどんな感想をもったかを
聞きたいきもちもあった。
だが、彼は周囲に長身を
かがめながら一礼すると
そのまま退出した。
「寸評にもあたいしない
ということか」と
思ったメンバーもいた。
だが「あの拍手の仕方は
なにかを認めた拍手だ」と
ぼくはいった。
「儀礼的な拍手をする人ではないさ」
と続けたが、
そのころから
「テーマ活動指導」みたいなことを、
賛否両論あるなかで
彼がはじめていたので
ちょっと肩すかしだったのだ。
 
その数日後、
氏に食事に誘われた。
彼が事務局員とふたりで
飲んでいる席によばれたのだ。
そこで彼はぼくたちの
『ポアンホワンけのくもたち』に
ついて話をはじめた。
でも、その内容はぼくが想像した
「おれはこんなきもちで書いた」とか
「この物語の肝は…」
といった話ではなかった。
それはぼくたちが話し合っていた
「動きにくい、
いわゆる劇にしにくい
スクリプトと向き合う、
いわば知の格闘のもつ教育性」や
「表現をそぎおとして
いくことの詩的感動」
といった内容であったので、
ぼくは自分たちの
話し合いや活動を
すべて見透かされていたような
気になって寒気がした。
そんなぼくの震えには
おかいまなく谷川氏は
「きみは火山の役を
やったたろう。
そうあの火山は
元永さんも遠景として描いている。
あれはなかなかいい」
たしかに悩んだすえ、
ぼくは火山をやった。
だが、それはぼくひとりが
下手であえて観客に背中を見せ、
だまって腕組みをしたまま足を肩幅に開いて
雲たちのほうにむいて
立つというだけのものだった。
「あのすっと
立つ感じがたいせつだ。
きみたちのことだから、
数人で火山のようなかたちをつくり、
はい火山でございます
みたいなことをすると思っていたが、
そうだったら拍手をしなかったろう。
あのすっと立つというのは
悟りにも似ていてよろしい」
いやはや人手がないので
でっかい山はつくれない。
でも、物語上、
雲たちにむかう「なにか」
として表現してみたい。
そんなところでやむなくやったのに…。
ただ、彼のその「すっと立つ」は、
しばらくほくのなかにいて
いろいろ考えさせた。
「でも、なぜあの場でそのことを
おっしゃらなかっのですか」と
命知らずな質問を最後にした。
すると氏は、
「うむ、あの場でほめると
きみたちは、
とくにきみは、すぐ頭にのるからな」
静謐、透明感 Peace and tranquility And Transparency 02月05日 (火)
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
exes
夜更けの雨は、
練馬ではみぞれで終わり、
一夜明けると深い青の絵の具が
そのまま固まったような快晴だった。
そんな朝の自然光のなかで
如月のラボ・カレンダーをめくった。
部屋にはエアコンがついていて
テレビもかすかに鳴ってはいたが
カレンダーの発する
静謐感と透明感が
あたりをoccupyして
そのまま絵に
取り込まれそうになった。
本当に取り込まれたら
ナルニア行けそうだが、
江古田からナルニアに
通じているとは
とても思えないので生還した。

それからコーヒーを入れて、
じっくりと眺めた。

Clive Staples Lewis
C・S ルイスの全7巻の
長編ファンタジー
『ナルニア国物語』
The Chronicles of Narnia
の第1巻、『ライオンと魔女』
THE LION, THE WITCH AND THE WARDROBE
に題材を求めて制作された
ラボ・ライプラリー
『ライオンと魔女と大きなたんす』
にインスパイアされて
描かれた絵だ。

描いてくれたのは、
大山日花里さん
(小6/神奈川県・福永加奈女P)。

この絵から感じたものを
なるべく寡黙に表すとすると
Peace and tranquility
And
Transparency
だろうか。
静謐さと透明感が、
観る者の心に
さまざまなことを語りかけてくる。

Transparencyは
ぼくの好きなことばで、
『雪渡り』の制作をしたとき、
英語テキストを担当した
ロジャー・パルヴァース氏と
英日対応の検討をしながら、
『雪渡り』のキイワードは
なんだろうかと考えたのだが、
ぼくが「透明感?」と
つぶやくと、
彼はパッと目を見て輝かせ
Transparency!
と叫んだ。

さても、描かれている風景は
白い魔女によって
冬に支配されたナルニア。
ルーシーが衣装だんすの奥から
迷い込みフォーンのタムナスに出会う
わけだが、
この絵が物語のどの場面を
描いているのかは
特定しにくい。
いいわけがましいが
ぼく自身、
聴きこみが浅いせいだろう。

ラボ・ライブラリーの
テキスト絵本の絵は
Pauline Diana Baynes
1922-2008
によるもので、
大山さんはそれを参考にしている。
ところが、このテキストを
お持ちの方は
おわかりだと思うが、
この絵と同じ場面はない。
はっきりしているのは、
雪がまだとけはじめる
前だということ。

画面左上から下に向かい、
やがて左下に消える足跡と
その先に置かれた
リボンをかけられた贈り物の
ようなみどりのボックスは
サンタクロースからの
贈り物だろうか。
だとすると、物語の大きな
分岐点である。
いずれにせよ
日花里さんの心と頭のなかには
くっきりとイメージが
あるはずだ。

この足跡は
街灯とともに
絵に奥行きを作り出し
かつアクセントにもなり
異世界としての印象を
醸し出している。
eewx
全体はミルクがかった
ホワイトだが、
樹の幹や針葉は
微妙に同系色を使い分けており、
手がこんでいる。

下部の水の青もすっきりと
抜けていて
画面全体を明るくしつつ
透明感アップに貢献している。

また右手の建物も
パースがとれていないが、
それがまたいい味になっているし
なにより壁と屋根の色は
相当にオシャレだ。

静謐で透明感ある画面のなかで
上記のようなディテールが、
いろいろな想像をさせてくれる。
そしてそれはけして饒舌な
説明ではなく、
観る者に内省をもとめるような
語りかけだ。

日花里さんとこの物語との
関係は、
かなり深いものがあるような
気がする。
この二、三日で集中的に
ラボ・ライブラリーを聴いて
場合によっては加筆する
かもしれない。

『ナルニア国物語』の
作者であるルイスは
神学者として、
信仰伝道者として
知られている。
(神学的観点からは
ルイスへのバルトの批判が
興味深いし、トールキンの
サンタクロースを登場させたこと
への批判も有名だが、
わしら素人としては
おもしろけりゃいいよね)
この物語は『聖書』の
metaphorであり、
アスランもキリスト、
救済者のmetaphorであると
一般的にはいわれている。
ルイスは「伝道目的で
書いてはいない」と
述べているが、
Christianityが
底流にあることは
否定できないし、
そのことが文学的価値に
影響しているとは思えない。
英語圏でキリスト教と全く無縁
(肯定も否定も含めて)な
物語はあまりない。

ただ宗教と信仰は異なることを
認識しなければなるまい。
宗教は思想も人の集まりも
含めて「組織」であるが、
信仰は個人の心のありようで、
いきなり土足で踏み込んでは
いけない部分だし
逆にいえば押しつけても
いけないことだ。
そうしたsensitivityを
持ちたいと思う。

このラボ・ライブラリーの刊行は
ぼくがラボ退社後であり、
この作品の「制作資料集」は
不勉強で読んでいないから、
この物語とChristianityとの
関係をどう考えたのかは
とても興味がある。

前述したように
作品を何十回も
聴いた訳ではないから
わけ知り的論評はしないし、
できもしないが
ぼくは今の時代に求められる
いくつかのメッセージを感じた。
そのひとつは
ファーストフードや
テーマパークに
象徴される消費社会への警鐘、
さらにファンタジーを
超える凄まじい現実
(テロや大規模災害、
難民など)が
破壊するフィクションの世界、
すなわち物語なき現代への
警鐘などがある。

ルイスによって
原作が書かれたのは1950年で
第二次大戦後だが、
物語の設定はその30数年前の
第一次大戦中だ。
だから現代から見れば
ずいぶんと昔で、
ナルニアという
異世界への入口は
さらに古い屋敷の
古い衣装だんすだ。
そのことは「ナルニア」の実在を
(もちろんファタジー
としての実在)
十分納得させてくれる。

ぼくが小学生時代には
邦訳(瀬田先生の
初訳は1966)はまだなく
最初に読んだのは
大学生の頃だ。
だから、その年齢らしい
頭でっかちで
捉えていた気がする。

ともあれ、
今幼い子どもたちでも
ラボ・ライブラリーで
この物語の
エッセンスに触れて
楽しむことができるのは、
全7巻(1巻ごとに読めるが)の
原作への興味、
さらには英語圏文学への
興味を膨らませる
ことにつながるとは
確かだろう。
ecece
なお、テキスト絵本の
絵を描いたベインズは
この作品で挿絵画家として
知られているが、
絵本作家としても
ケイト・グリーナウェイ賞を
2回受賞している。

最後にルイスのことばを
You are never too
old to set another goal
or to dream a new dream.

You don't have a soul.
You are a Soul. You have a body.
- C. S. Lewis
ラボ・カレンダー12月をめくる ブレーメンはどこだ! 11月30日 (金)
cfcf
いよいよ師走である。
明け方は放射冷却でグッと冷え込む
ようになってきた。
今朝もベッドから出るのに
勇気が必要だったが、
フライイングでカレンダーをめくったら、
寒さがふっとんでしまった。
(フトンは吹っ飛ばなかった)

2018年のラスト月を飾るのは
ラボ・ライブラリーSK3収録の
グリム童話を再話した
The Bremen Town-Musicians
『ブレーメンの音楽隊』にインスパイアされた作品だ。
描いてくれたのは
山根慶丸くん(小2/岡山県・西原美千子P)である。

まさに力作!
絵全体から、印刷であるにも関わらず
とんでもないパワーが溢れてくる。
原画はもっとすごいだろう。
描いたとき、昨年の夏が
小学二年生という年齢を考えると
とんでもなく力強い。

慶丸くん(女子だったらごめん。ただ、
直感ではもしかしたら女子という気持ちが
まだ残ってる。うーん、気になる)と
同年代の子どもで、
これくらいのデッサン力や構成力、
いわゆる描画力(あまり使いたくないが)を
持っている子どもはたくさんいる。

しかし、これだけの力感が溢れる
作品を描くには
とてつもないメンタルパワーがいる。
単に絵が好き、物語が好きだけでは
ここまでの力は溢れてこないと思う。

多少意地悪かなと思ったが、
日本・海外で刊行された
『ブレーメンの音楽隊』の絵本やイラスト、
果てはアニメまで
何かヒントになったものは
ないかと調べてみた。
しかし、そんなもはなかった。
すごいオリジナリティである。

もちろん、動物たちの眼球のデフォルメや
顔大きめの体型は、
現代のアニメシーションやコミック、
ケームなどの
影響を無意識に受けていると思うが、
バワーにおいても
おしゃれさやかっこよさにおいても
慶丸くんのほうがはるかにすはらしい。
比較するまでもない。

話はとぶが、アニメやゲームやコミックなどを
サブカルチャーとはぼくはいわない。
もう立派なカルチャーである。
それが将来古典として残るかは別だが、
文化とは常にその時代とともにあるわけで
芸術の域まで行けるかどうかは
ジャンルを問わず
その作品の質にかかっている。
漫画やアニメ映画ですでに
その高みに達している作品はある。
(しかし、いい加減に「タイムスリップと女子高生」
というパターンは卒業してほしい)

話を戻す。
このパワーの源を考えてみたが、
慶丸くんの精神の力という説明だけでは
あまりにオカルティックだ。
そこでもう少し眺めてみた。

なんといっても
画面いっぱいに描かれた
動物たちの躍動感がすばらしい。
その躍動感の源のひとつは構成のすごさ。
ロバの鼻先は左の断ち切りギリギリで、
おんどりや猫の尾部は大胆に断ち切っている。
そしてイヌは空中で跳ねて
要するに画面を目一杯使って
動物たを見事に配置した。
4ひきの動物たちをこれだけの
密度で画面に収めるのは
そう簡単なことではない。

しかもこの物語のイラストでし
よくある
「いざゆけブレーメン」的な
一列の行進でもなく、
泥棒どものアジトに突入するときの
縦積み重なりでもない。

ロバの鼻先を画面の縦位置の半分より
やや上に置き、
そこからイヌ、おんどりへと
緩やかにカーブするラインと
ロバの腹部、尻尾からネコへと
下っていくラインの
二つの流れが、
動物たちが決してフリーズせず
生き生きと動く力になっている。

さらに、当たり前のことだが
動物たちのサイズも描きほけているが、
それを白のクレパスの輪郭線を
迷わずにすっと描いて決めているのは
びっくりである。
rtrbrr
いつも書くことだが
フォルムにこだわって
輪郭を取ってから彩色すると
「塗り絵的」になってしまい、
平面的になるだけでなく
世界が分断されてしまいがちだが、
慶丸くんの輪郭は背景の黒に対して
白であるがゆえに
逆に動物たちを浮き上がらせる
効果になっている。
しかも、力強く
一気に書かれているので
動物たちの一部になっている。

さらにさらに、
慶丸くんは、動物たちのキャラクターも
かにり深く捉えて描こうとしている。
ロバはリーダー感満載だが、
長年の酷使の悲哀がわずかに漂うし、
イヌはやはりしかめっつらなのだが、
その本質である忠誠心がにじみ出る。
おんどりは今も歌っていて、
世界中の寝坊助、
世界に対して努力しない者たちを
たたきやこそうとしている。
そして「ひげ御前」ことネコは
こ機嫌に見えるが、
その感覚鋭いヒゲが何かを感じて
いたずらっほく目を動かしている。
そして、それぞれの楽器も
自由にに配置されているが、
動物たちとともに躍動している。

やっばりこの作品は
力強くて綺麗なイラストでは
おさまらない作品だ。
この年の瀬にふさわしいといえる。

そして、慶丸くんとこの物語の
関係、どのように睦んだのか知りたい。゜

忘れてならないのは
眼球のデフォルメだ。
血走っているようにも見え
意志がみなぎっているようでもある。
ただ、みんな前を見ているのがいい。
唐物たちのフォルムも
みごとに簡潔にデォルメされているのも
とってもおしゃれだ。
動物のフォルムにとらわれず
全く自由闊達なのだが
個々にも全体にも
造形の確かさがある。

おしゃれといえば
彩色らも触れねばなるまい。
動物たちは漆黒の夜を行くのだが、
大胆な黒のバックも動物たちが
大きく描かれていめので。
面積が少なく、
なおかつ色とりどりの星が
輝いているから
全く暗くなく、
むしろ鮮やかだ。

慶丸くんのセンスが光るのは
普通茶色にするロバを
グレーにしたこと。
さらにその鼻先を
ピンクにしたことだ。
このグレーとピンクは
堀内誠一先生の
「ぐるんぱ」りほっぺの
ピンクと同様のおしゃれ配色だ。
ぼくはファッションについて
語る資格がない野暮天だが
こまったときは
濃いグレーのスーツに
薄めグレーのシャツにビンクのタイを
することにしている。
もちろん、
ネコの黄色もかっこいい。

ともあれ、
これだけ仕上げるのは
気力、体力ともに相当消費する。
熱を出さなかっただろうか。

慶丸くんは、絵が少なことは確かだろう。
かなり幼いときから
色々と描いていたとは思う。
この自由さと力強さを
そのまま大切にしてほしい。
「うまい絵を」描こうとせず
「描きたいように描いて」ほしいな。

何か今日は新しい原石を
見つけた気がしてうれしい。

ブレーメンの街は12世紀ぐらいかせ
ハンザ同盟、ハンザ自由都市として栄えた。
だから、ストリートミュージシャンでも
糊口をしのぐことが可能な賑わいだった。

四匹の動物多縁は長年酷使され、
リストラされかかった
高齢者たちだ。
産業革命以前から
役に立たなくなった者を
「使い捨てる」感覚はあったのだなあ。

ぼくね65歳なので
笑い事ではない。
彼らは自らの意志で
束縛を身をよじって振りほどき
ブレーメンを目指した。
それは最終的な目標ではなく
生き残るための暫定的な者だった。

結局、どろぼうたちを追い出した
彼らはブレーメンにはいかない。
十分な食べ物がある家で
の完備りと余生を過ごした。

若者だったらそうはいかないが、
彼らの人生の残り時間からいえば
実にいい選択だろう。

社会の超高齢化がますます加速する今、
福祉と労働人口、
働きかたと生きがいと過重労働、
正規雇用と非正規雇用など
double bindのような
課題が山積している。

ぼくたちのブレーメンはどっちだ?
ラボ・カレンダー11月 「雪ですのうーー厳しい環境下でも 個性を排除しないこと 10月31日 (水)
明日から霜月だ。
今朝、たまらずフライイングで
ラボ・カレンダーをめくってしまった。.
朝の自然光のなかでしばらく
立ったまま息を止めて眺め、
フーッと息をついてから
腰かけてゆっくりと味わった。
なんとなく心が溶けていった。
rever
ロシアを代表する絵本作家、エウゲニー・ラチョフの作品
ウクライナの昔話THE MITTEN 『てぶくろ』に
題材をもとめたラボ・ライブラリーに
インスパイアされた絵だ。

描いてくれたのは諸橋七望さん
(小3/東京都・木村文枝P)だ。
場面はすでにフルハウスの「てぶくろ」に
「のっそりぐま」が大トリの真打登場! 
とばかりにやってきたところ。

昔話の一つの特徴である「くり返し」は
ロシア系昔話にも数多く見られる。
聴き手は、しだいにでっかくなる訪問客に
「もうムリ〜じゃね!」と
ドキドキマックスになるところだ。

先ほど「心が溶けていく」と書いたのは
なんといっても背景の大部分を占める雪の
ふんわりとした質感と透明感と、
暖かさだ(雪なのに! 厳寒のはずのに!)
写真だと伝わりにくいが
この雪はほんとうにすばらしい。
淡いながらもそ濃淡のあるグレー、白、
わずかなイエロー。
そして控えめだが効果的な
ダークブラウンの木の枝。
(これがリアルさを増加)
単純な白や灰色ではないことが
雪の森の静謐さ、荘厳さ、深さ、
季節のきびしさと美しさ、
そして物語の暖かさを
奥行きともに伝えてくれる。

この広い範囲を
これだけ繊細に塗った七望さんと
この物語の関係を知りたい。
are
さらに彩色について続ければ
てぶくろほイエローオーカー
いわゆる黄土色にし。
さらに手袋の中の動物たちの
輪郭もイエローぉーかーで描いたことも
この絵をぐっとひきしめた。

イエローオーカーは顔料のなかでも
数少ない、土からとられたものだ。
いわゆるearth colorである。
だから輪郭につかっても
世界を切らず目立たない。
そして、グレイトと同じように
多くの色とマッチしやすい。
とくに左下の鮮やかな青は
補色的に役割ほしている。
これに加えて
中央のイエローがかったグリーンも
とつてもおしゃれだ。

こうした彩色と前述の雪の背景が
クマの茶色など暗め色が多いことを
カバーした余りある。
遠くから眺めければ
そのバランスがよりはっきりするはずだ。

そして一見、ざっくりと描いているようだが、
じつはとても細部に繊細な筆が入っている。
背景といいディテールといい。
相当な気力と体力を使ったはずだ。
描いたとき、七望さんは8歳か9歳のはず。
とんでもないことだ。
それは物語の力といってしまえば
簡単だが……。

森は深く、寒く、
雪はただふりつもる。
普通なら、「入れろー、グオーッ」
「あかんで、ムリや堪忍して」
「なんやとー、ガオーッ。いてまうど」
となるところだが、
迎える「はやあしウサギ」や
「きばもちいのしし」たちは
じつにのんびりと「はいれば」
的な雰囲気だ。

また、クマも、
ご近所のおじさん的気安さ
でこ声をかけている。
いるよね、子ども好きのこういうおじさん。
七望さんは
「はやあし」「きばもち」
「はいいろ」「のっそり」などの
動物たちの個性も
物語を聴いて意識しているのではないだろうか。

「個性を排除しない」
「可能なかぎり受け入れる」
って、今の地球でとっても大事なこと。
七望さんはのことを
「ことばではなく心で」感じとっている。
子どもほど時代の先端ほ生きていめのだから。
erfr
原作者のラチョフ自身もシベリア生まれである。
彼は1978年に、別のタッチで「てぶくろ」を描いていて、
それはまったく別人の作品のようだ。
だが、どちらも彼らしい動きのある動物たちが
愛情たっぷりに描かれている。
ラチョフというと強力な観察眼に
もとづく正確な動物のデッサンと
その見事な擬人化のテクニックが評価されるが、
なにより彼の魅力は作品にあふれる
生命への惜しみない愛情にある。

その心も七望さんは
ハッチり受け継いだ。
物語の命はこうして世界に受け継がれる。
どうだ! 「かぶ」だぜ文句なし。 What more could you want? 10月11日 (木)
xxz

いよいよ神無月だ。
神無月の語源は正確には不明。
出雲大社に八百万の神が
縁結びサミットに集結するというのは
中世以降の俗解。
出雲大社の関係者がプロモーション
したことが元になっている。
しかし、出雲、松江にはお世話になっているから
これ以上掘らない。
水無月が「水の月」であるように
「神の月」と考えるのが自然と
「日本国語大辞典」にある。
しかしこの神の意味はわからぬ。
昔、武蔵で漢文を教えていた
高島俊男先生は「神無月」は
「師走」と同じくらい俗解が多いという。
高島先生は期末試験の監督に来て
暇を待て余し「タバコ吸っていいかな」と
試験中のぼくたちにきいた
とんでも先生だか、漢字の大家。
(誰かが、いいんじゃないですか
といったら本当にテラスにでて喫煙された)
さて、余談はここまで。
9/30日の夜10時29分に停電になったとき
壁ついたに玄関に置いた懐中電灯を
取りにいき、それからなぜか
ラボ・カレンダーをめくった。
停電で、何もできないので
懐中電灯の明かりで
このでっかい「かぶ」見ていた。
なんとなく元気が出た。
停電も台風も怖くない。
書いてくれたのは
濱氏咲紀さん(6歳/高知県・宮池香奈P)。
ウクライナの民話に題材を求めた
ラボ・ライブラリー"The Turnip"だ。
この物語を描いたラボ・カレンダー応募作品は
毎年たくさんあり、
刊行された年、1987年の秋は
『かぶ』だらけになってしまったほどだ。
それだけ点数があれば。
名作、傑作、力作も多く。
はっきりいえば『かぶ』で入選が
大変なことはもちろん、
一次選考突破も難しい。
しかし咲紀さんの作品は
あまたの『かぶ』を見て来たぼくも
とっても新鮮に感じた。
おそらく選考委員もそうだろう。
場面としては、カフが抜けた瞬間
なのだろうが、
とにかく画面みぎはしから中央までを
占める大きさでかぶを描き、
さらに葉が左端に断ち切れるまで
大きく伸びている。
要するに画面のほとんどが
かぶで占領されているのだ。
だから重量感がものすごい。
さらにこの配置、葉の伸び方が
抜けた瞬間の躍動感と喜びを伝えている。
フリーズしたかぶではないのだ。
孫娘と犬と猫は嬉しそう。
じっちゃとばっちゃは
どこかに行ってしまったようだが、
そんなことは気にならない。
変わりにチョウチョがいっぱい
喜んでいるではないか。
もしかすると、ネコの下に描かれている
少しだけ紫がかったビンクの
楕円は「ネズミ?」。
太陽も雲も喜んでいる。
What more could you want?
これ以何を欲しがる?
いつもいうことだが、
咲紀さんの年齢を考えると
カレンダー規定の用紙は
彼女の肩幅より広いと思う。
それはすごい圧だ。
それに怯まず真っ向から
全画面を使って描ききっているのは
それだけですごい。
相当な体力と精神力を消費しているはずだ。
まずそのことに感動しなくてはいけない。
かぶを抜くのと同じくらい、
いやそれ以上のパワーを絞って
咲紀さんは描いたのだ。
ちょっとしたことで諦めたり
愚痴をいったり、
ダメな理由をとにかく自分の
外に求めてしまてがちなおとな、
ぼく、きみ、おまえ、
あなた、おまえたち。
この純粋なバワーにひれ伏すべしだ。
フォルムやディテールにとらわれない
自由闊達さや
(とはいえ、かぶのバランスはステキ)
配置や力強さだけでは入選しない。
彩色もまたすばらしい。
何よりもまず、かぶ本体の野菜感たっぷりの
グラデーションがかかった
オレンジ系の塗り方がいい。
実際のカレンダーの色と
撮影してFBにアップした色は
修正はしているか
中間色に落差があるので
はがゆい。
もっとも原画との差を考えると
もっとはがゆい。
原画を見ていないから
どうしようもないけど。
かぶ本体の輪郭を
同系のオレンジのクレパスで
引いたのもよかった。
これだの大きさの円を
輪廓として描くとめ
世界が断絶してぬりえ的に
なりがちだが、
この色なら気にならない。
葉のモスグリーンもいい。
本体のオレンジと合わせると
昔の湘南電車みたいでかっこいい。
またこれはおまけだが
ICU Apostlesのユニフォーむカラー
でもあるのよね。
雲の少しくすんだ
でも濁ってはいない青が
じつはとてもかっこいい。
この色ができたのは
偶然の要素が大きいと思うが
「この色がいい」と決めて
彩色したのは咲紀さん自身だから
やはり咲紀さんの色といっていい。
そしてなんといっても
かぶ本体をがっしり支えている
レモンイエローにところどころ
オレンジが入った背景だ。
この絵をの背景は
かぶ本体に近い暖色系なのだが
みごとにかぶを引き立てた。
いやあまいった。
雲とのコーデもいいよね。
それから、
一見、孫娘や動物たちが泣きても
成立する気がしたが、
じっと見ていたら
やはり小さな彼らが
バランスをとっており、
右の重量を軽くして
更に躍動感を出している。
しかし、このエネルギーは
どこからきているのだろう。
やはり『かぶ』の物語の力と
咲紀さんじしんがもっているバワーが
シンクロしてバワーが倍増したのだろう。
咲紀さんとこの物語の関係を
知りたいものだ。
この物語のラボ・ライブラリーの絵は
小野かおる先生が担当されている。
『かぶ』はウラジーミル・プロップの
分類にれば「累積昔話」にあたる。
文末で脚韻を踏みながら、
「ジャックのたてた家」のように
くりかえしながら
人物や動物がふえていくものだ。
『わらじをひろったきつね』も
この累積昔話である。
韻によることばのリズムのおもしろさ、
そしてくりかえしがもつ
「ことばの魔力」は
この物語を今日まで
語り続けさせた。
「ジャックのたてた家」は
かつて「三回息をとめていうと
しゃっくりどめのおまじない」になると
オーピー夫妻は”
“Oxford Dictionary of
Nursery Rhymes”でいっているが、
この『かぶ』にも
なにかそんな「呪文」としての
意味もあったと思われる。
だから、ラボ・ライブラリーの日本語も
ロシア語のような韻はできないが、
物語がもつことばのリズムを
とてもたいせにしている。
日本語を担当された斎藤君子先生は、
その点を十分に勘案し、
たいへんご苦労なさって
すばらしいリズムの日本語を
書いてくださった。
「じっちゃ、ばっちゃ」などの
表現はこのリズムをだすためである。
おじいさん、おばあさんでは、
どうしても間合いがかわってくる。
英語もサラー・アン・ニシエさんが
これまた苦しみ抜いて
リズムのよい文にしてくださった。
この物語を「はじめての素語り」に
とりあげるラボっ子は多いが、
それはあきらかに
上記のようなくふうがされていて
心にはいりやすいからだ。
短いだけじゃないんだぜ。
この物語また、彫刻家佐藤忠良先生
(お嬢さんは女優の佐藤オリエさん
『大草原の小さな家』で「かあさん」
の日本語担当)の『おおきなかぶ』が
人口に膾炙(かいしゃ)している。
だれもが知ってるとっても
人気のある絵本である。
では、なぜラボは
この絵本を録音許可をとって
使用しなかったのか。
ひとつには累積ばなしのもつ
リズムほをほうふつとさせる
新しいことばでつくりたかったこと。
また『おおきなかぶ』は
最初からこたえがてているが、
原題はただ『かぶ』であること。
まあこれはなにかいちゃもんの
ようでもあるけどけっこうだいじだ。
しかし、それよりも大きなのは絵である。
もちろん、絵本は歴史民族の
学習資料ではない。
だが、このライブラリーは
「ロシアの物語と文化」が
大きなテーマのパッケージである。
そうしたエスニックなテーマを
あつかうときのライブラリーは、
その物語を生んだ地域と
人びとへのリスペクトとして、
とくに具象的に表現するときは
衣服や建物、事物について極力、
時代考証をしっかりとするべき
であるというスタンスをとっている。
「おおきなかぶ」があまりに有名なために、
どなたに依頼するかがなやましかったが、
小野先生が快諾してくださった。
いまはどうか知らないが、
そのころは「ことば宇宙」は
いろいろな専門家に
毎月(月刊だった!)送っていたのだが、
ラボのスタッフが小野先生の
ご自宅に相談にいったとき
先生のほうから
「今度ラボはロシアをやるんでしょ」と
おっしゃられたという。
ぼくはそのころ「ことばの宇宙」が
メインの仕事で、こ
の物語の途中からだんだんと
ライブラリー制作に
ひきずれこまれていくのだが、
ロシア昔話をやることがきまってからは、
「ことばの宇宙」で
はやばやと「ロシア特集」
ばっかりやっていったのだ。
小野かおる先生の父上は
著名なロシア文学翻訳家の
故中山省三郎先生である。
だから小野先生も
ロシアについての知識、
資料は豊富におもちだった。
『かぶ』のはなしは、
ちゃんと「ロシア、ウクライナの話」
として絵本にしなくてはと
先生はおっしゃっり、
この絵本ができたというわけだ。
登場するかぶは本来は
赤かぶに近いものである。
じっちゃやばっちゃや孫娘の衣装も
スラブ、ロシアの伝統の
デザインで描かれている。
じっちゃのはいている「わらじ」も
ラーポチとよばれるわらぐつであり、
これには大きくモスクワ型と
ペロルシア型があるが、
この絵本ではモスクワ型である。
さらに、ばっちゃは
ココシーニクとよばれるスカーフで
髪をかくしているが、
(ゴージャスな頭飾りもある)
これは既婚者であることをしめしている。
さらにスカーフをとると
ばっちゃは髪を後ろでふたつにわけて
しばっている。
(校則ではない)
それにたいして孫娘は
未婚なので髪かくさず1本でしばっている。
彼女がや嫁にいくときは
髪をふたつにわけて
かぶりものをする。
だから厳密にいうと
『ゆきむすめ』のゆきむすめが
スカーフで髪をかくしているのは
ロシアの人から見れば違和感がある。
もちろん、さきほどももいうように、
絵本は歴史資料ではないし
「ゆきむすめ」の話の本質、
子どものない老夫婦と
季節の奇跡とでもいうべき
「ゆきむすめ」とのまさに
あわい日々が影響をうけるわけではない。
ただ「ロシア」というくくりで
活動の素材を子どもたちに
提供するときは
かなり綿密な考証が
行なわれたということだ。
日本にとってロシアはその地理的、
歴史的関係から、
北のこわい国というイメージが強く、
「オロシヤ国などと
よばれたりもした。
だが、ロシア民話のみならず
民謡、サーカス、バレエ、
料理などロシアの文化は
日本人にしたしまれている。
いまロシアもたいへんだが、
北では白い風かうたい、
南の草原では灰色のオオカミが疾駆する
広大な大地にはいまも
精霊がいきづいてると思う。
「いつかちゃんとしたロシアの話として…」と
おっしゃった小野かおる先生の
思いはちゃんとうけつがれ、
こうしてラボ・カレンダーになって帰ってくる。
『こつばめチュチュ』少しずつの成長 09月06日 (木)
三澤制作書所のラボ・カレンダーをめくる

長月朔日。
日中はまだまだ暑いが
日没し確かに早くなり、
空は高く、
夜が深くやさしくなってきた。
なんと今年3作めの
ChuChu 『こつばめチュチュ』だ。
「入選は原則として物語の重複は避ける。
ただし新刊は除く」という
大昔に作ったカレンダー選考の
ガイドラインがあるが、
それを吹っ飛ばして
堂々3点のChuChu が入選した。
vsv
もっともこの内規は
「できるかぎり多くの物語に
出会って欲しい」という願いから
作ったもので、
あくまでも作品主義、
すなわちgenderや
支部や年齢のバランスには
とらわれないという内規もあるから、
物語の重複もありなのだと思う。
しかし選考者の苦悩がなんとなくわかる。
描いてくれたのは
山田陸くん(小2/愛知県・荒川明美P)。
電線のうえにせいぞろいしている
ツバメの小学生たちだ。
とにかく驚くのはツバメたちを
画面の「天」ギリギリに配置し、
ツバメの下に思いきり空間を
とっていることだ。
これだけのアンバランスな構図は
おとなやブロが逆立ちしてもできない。
「下の空間がムダで成立しない」と
きめつけてしまうからだ。
子どもたちはこの物語を聴くとき
主人公であるチュチュに心を寄せる。
語りの江守徹氏もチュチュを応援している。
それは駅長さんのように
下から見上げるのではなく、
もっと高い所から見下ろすのでもなく
チュチュとおなじ高度で応援している。
だから子どもたちも同高度にいる。
そのことをこの絵は証明している。
陸くんの心は「秋のはじめのあおいそら」
らあるのだ。
下界など関係無いのだ。
そしてさらびっくりは右端のツバメの
燕尾がいちばん長く、
左のに行くにしたがって
だんだん短くなる。
そうかバースペクティブ、
遠近法なのだ。
多分、陸くんのイメージは
電線の真横ではなく
やや右側から見ているのではないかしら。
(違ってたら恥ずかしいけどせ)
色彩はつばめが主役だから
ブラックが多くなるが、
空のなんともいえないくすみ方が
おしゃれでかっこいい。
意図して作った色か
筆に残った黒がにじんで
偶然こういう色彩に
なったのかはわからないが、
最終的には陸くん自身が
「この色」と決めて
彩色しているのだから
これは陸くんの色なのだ。
しかも一色ではなく
ホワイトやviridian系も細かく
用いているので
この空間が退屈しない。
しかし、何度もいうが
こんな大胆な構図はできない。
これこそ個性なのだ。
「下がもったいないね。
何かか描いたら」なんていう
助言をしなかった
まわりのおとなたちもエライ!
さて、ChuChu はどこにいるかといえば
おそらくは右から3羽めだろうか。
「黄色いリボン」だと思うが
これも違っていたら恥ずかしい。
それよりも見れはどの場面だろう。
ふつうにに考えると
授業開始前、マスケル先生を
待っている生徒たち。
みんなそろっているのに
先生がこないから、
おちつかない男子は電線をゆする。
女子は「やめて、先生にいうわよ」
とかいってかしましい。
そこへマスケル先生が来て、
男子はすまし顔。
それで「ピイチュさん 
おしゃぺりをやめて」と
女子がしかられてしまい、
男子は内心ほくそえむ。
なんていう想像は、
じつはこの物語が
大好きな小学生なら
膨らませているだろう。
しかし
もしかするともしかすると
1万メートル競走のスタート直前
なのではという気もする。
「白い胸毛をぶるっとふるわせ」
の緊張がこの絵には漂っているのだ。
号砲一発、いっせいに飛び出す
直前のスタンバイ。
授業前のひとはしゃぎよりも
長距離飛行への希望と怖れが
感じられる。
いやまて、もしかすると
「あれはシドニーまでいくんですよ」
というマスケル先生のことばで
飛行機を見つめているとこめかもしれない。
「もうすぐきみたちも飛ぶ。
鳥は飛行機ほどはやくないが、
ツパメは鳥のなかでは
いちばんはやい。
だから、虫はなんでも食べて
りっぱな身体をつくるのだ」
といったことをマスケル先生は
教えたい。
そのことを生徒たちはきっちり
受けとめている顔だ。
かように陸くんの絵は
物語のcontextをさまざまに
想像させてくれる。
テキストもその裏側の
Contextを感じとらせるこどが
たいせつだが、
絵でも想像を広げさせてくれる作品が
ぼくは好きだ。
いつもいうが、
「こたえはひとつではない」のだ、
ひとつしかないこたえに
たどりつく競走を学問とはいわぬ。
このラボ・ライブラリーの刊行は1973年。
45年前の作品だ。
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ラボ・ライブラリーが
「こどもの友シリーズ」からはなれ、
また有名作品の再話でもなく、
オリジナル・ストーリィで
制作した最初の作品だ。
日本語はらくだ・こぶに。
音楽は間宮芳生先生、
1年生の朝、1年生の成長に
寄り添ったメロディがうれしい。
絵は吉原英雄先生。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
吉原先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家の
おひとりであることは
いうまでもない。
「チュチュ」絵は2つの
パターンの変化だ。
恐るべきことに吉原先生を
知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。
あるとき酒席で
らくだ・こぶに氏にきくと
氏は呆れた顔で、
吉原先生は、
チュチュをあえて没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだ
と教えてくれた。
さらに、その日は
機嫌がよかったのか
「チュチュは注射もがまんする
けっこう強い子のようだが、
とりわけ優等生のツバメではない。
ふつうのツバメが事件にぶつかり、
仲間と離別し少し成長して帰ってくる。
挫折したり病んだりして
少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と語ってくれた。
ラストでチュチュが
飛ぶ練習をしているときの
「来年もまた帰ってきますかね」
ということばは
必死にリハビリしているチュチュが
まだまだ心配なのだ。
「もちろんだとも」は
さらなる激励、すこし心配。
だから、ここでのチュチュは
あざやさには飛んでいない。
ときおりふらつきながら
気合いでがんばっている。
そう何度でも立ち上がり
少しずつ成長する。
ゴーシュもそうじゃないか!
菜月の警鐘ーー多様性の勝利 08月03日 (金)
ハット気づけば葉月である。
などとシャレている場合ではない。
朝一番、午前5時にカレンダーをめくったとたん、
すでに暑さでぼーっとしている頭を
がつんと一発やられてすっかり覚醒した。
day
グリム童話に題材をもとめたラボ・ライブラリー
A Tale of Six Talented Men『きてれつ六勇士』に
インスバイアされた作品だ。
描いてくれたのは
村田陽平くん(小2/埼玉県・三枝明日香P)。
がつんとやられた点はいくつかあるが、
項目を列記すると
・不思議な躍動感と浮遊感
・色彩の魅力(抜けかたと配色)
・構成のバランス
・しつこく描いてもスッキリ
というところだ。
めずらしく順番に書いていく
・不思議な躍動感と浮遊感
これはだれしもが観た瞬間に感じることだろう。
とまっているが、動いている。
どっしりとしているが浮いている。
人物の輪郭は細いのだが、緩やかで迷いがなく、
またフオルムにとらわれずにすっと描いている。
それらがかもし出すふしぎな感覚だ。
『きてれつ六勇士』を題材にした子どもたちの絵は
何枚も観てきたが、
こんな感覚ははじめてだ。
彩色のところでも触れるが
上から三分の一くらいのところを
大胆に横切る赤い帯も
普通なら世界を分断するところなのに
この感覚に一役買っている。
・色彩の魅力(抜けかたと配色)
原画を観ていないから正確ではないのだが、
彩色は非凡だ。
21世紀に生きる子どもの色の感覚は
ぼくが小2のころとは比較できないくらい
広くて深くて多彩だ。
先日、青について書いたが、
陽平くんの青も魅力的だ。
じっくりながめていると、
なんともたくさんの種類の青が
歌っているのが響いてくる。
その複雑さ多様さは見るほどに広がっていく。
最低でも5分は見つめたい。
それと対比をなすような赤も美しい。
大きくは3種類なのだが、
右上、中央の大胆な帯、
そしてメインキャラ
(六勇士の能力をデフォルメして
一人に凝縮したキャラ)のシューズと
だんだんと赤が濃くなっていて、
奥行と安定感を出している。
そしてなにより、赤も青も
そして人物のスキンカラーも、
色がスカッと抜けていて気持ちがいい。
これはぼくの好みなのかもしれないが……。
全体に面積の多い青系、赤系、肌色に
どうしても目がいくが、
わずかに見えるイエローやバイオレットも
この絵をより深く感じさせている。
これがあるとないでは大ちがいだ。
・構成のバランス
人物の配置、中央の赤帯、背景の描きこみなどによる
この絵の奥行は、もうひとつの大きな魅力だ。
メインキャラを中央から少しずらしているのもニクい。
そり分のスペースに描きこんで
イエローやバイオレットをもってきているのは驚き。
・しつこく描いてもスッキリ
さっき書いたように色が抜けているから
これだけしつこく描きこんでも重さがない。
かといって、トンと揺すれば剥げ落ちてしまうような
脆弱さもない。
何がそうさせているのか。
これは想像でしたかないが、
陽平くんのこの物語との関わり、
というか睦み合いの結果なのだろう。
パーティでどう取り組んだのだろうか。
断言してもいいが、
陽平くんは、単にこの物語が好き
なだけではないと思う。
そこが知りたい。
きっとなにかある。
差し支えなければ三枝テューター
教えてください。
cw
社会からは異端とみなされる
特殊な能力をもった者たちが
その力をそれぞれに活かして
権力者を打倒したり懲らしめる物語は、
世界中にあり、
(『不死身の九人きょうだい』!)
また、映画にもいろいろな作品がある。
普遍的に世界の人が好きな物語の
パターンのひとつといってもいいだろう。
世界が多様性、diversityに向かっているとき、
その一方で反作用のように
異質なものを排除しようとする動きが
世界でも日本でも暗闇の魍魎のように
蠢いている。
多様性の否定は効率主義、
国家主義と手を繋ぎやすく、
また優生保護、そしてファシズムへの道だ。
それらを見過ごすと恐ろしいのは、
凄惨な事件として発現したり、
さらにはいつの間にか「いつか来た道」に行くことだ。
戦前、戦後と均一な兵士、
均一な労働者を生み出してきたこの国は
今、警鐘をならすべきときに来ている。
陽平くんの絵は、
静かに、けして声高ではないが、
多様性こそが、
異質なものを認め合う精神こそが
この地球という閉じた系のなかで
ぼくたちや生き物たちが
持続してゆく数少ない道だということを
訴えているように思う。
元になった絵本は赤瀬川原平先生。
gggb
あの破壊力のある絵に、
刊行当時は、みんなノックアウトされた。
この物語が収録されているSK13は
高松次郎先生(『グリーシュ』)、
中西夏之先生(『ながぐつをはいたねこ』)も
収録されている。
高赤中からとったハイレッドセンターという
前衛アートグープも懐かしい。
みなさん故人となられてしまった。
赤瀬川原平先生は尾辻克彦名で
純文学の作家手もあり芥川賞も取られている。
vests
兄上の故赤瀬川隼氏は、
長くラボ教育センター本部の職員だったが、
退職後は作家となり直木賞を受賞された。
ラボ・カレンダー7月 Bird’s-eye view and Overlooking 鳥瞰と俯瞰 07月01日 ()
三澤制作所の
ラボ・カレンダーをめくる

はやくも7月、文月である。
七夕に短冊に詩歌や
願望を書く習慣から
文被月(ふみひらきづき)が
転じて文月となったという説が
比較的有力だとされている。

6月中の梅雨明けに驚いていたら、
この鮮やかなレモンイエローに
もっとびっくりしてしまった。
これだけの面積を黄色で塗るのは
なかなかできない。
イエローは服のなかでも
着こなしが難しいといわれるからね。
(黄色については、またあとで触れる)゜
tgrg
絵はアメリカの絵本作家、
バージニア・リー・バートン
Virginia Lee Burtonが28歳で
描いた”CHOO CHOO,
the story of
a little engine who ran away”
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』に
題材をもとめたラボ・ライブラリーに
インスパイアされたものだ。

描いたのは石井勇志くん
(小1/神奈川県・大塚淳子P)。

この物語、絵本を知らない人が見たら
「何を描いているのか」と
首をかしげただろう。
だけど、逆にこの絵本が好きな人なら
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』だと
直観的にわかるはずだ。

とにかくこの物語が大好きで、
そして「電車・乗り物」が大好きで、
(乗り鉄、撮り鉄とかあるけど
描き鉄だね)
そのエネルギーで一気に描ききって
いるのがなんともすがすがしい。
そして自由闊達。
こういう作品が入選するから
ラボ・カレンダーはすばらしい。

これは推測だが、
勇志くんは、
日常的に絵ばかり描いている少年
ではないと思う。
どちらかというとアウトドア派の
元気ボーイのような気がする。
(まったく違っていたら、
大笑いだし、勇志くんには
申しわけないが)
だとすれば、
なにが彼を突き動かしのだろうか。
たぶん彼の肩幅より大きい画用紙を
すきまなく描きつくすだけでも
勇志くんの年齢なら
かなりの体力と集中力が必要だ。

そのエネルギーがこの物語にあることは
まちがいないが、
さらにどのように勇志くんが
この物語とむきあい、
どんな活動をしたのか知りたいものだ。
そしてもこの物語と出会ってから
彼になにか変化があったを知りたいと思う。

ご存じのようにバートンの原作絵本は
黒だけで書かれている。
(見返しが4色になっていて、
ちゅうちゅうの路線が
描かれているのもおしゃれ)
だが、その黒は沈黙の黒ではなく、
若きアメリカの発展力と
その反動で古いものが消滅、
あるいは衰退していくことへの哀感などを
パワフルかつスタイリッシュに語る黒だ。
81年前の作品とは思えぬかっこよさ。

勇志くんは、その黒を少し残しつつ
まったく自由に彩色している。
場面としては、操車場、転車台がある
「おおきなまちのおおきなえき」を
中心になっていると思うが、
「どの場面」という特定は
あまり意味がなく、
勇志くんにとっての
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』は
こいうことなのだと受けとめるべきだ。

冒頭に書いたように、
スカッと抜けた濁りのないレモンイエローが
とにかくきもちよい。
この大胆な黄色背景のおかげで、
建物の茶色や
線路のグレーがかった青
(これもめちゃくちゃカッケー)が
重くならず、逆にパワーと
おしゃれさを醸しだしている。

また、パターンぽく置かれている
viridianの草もアクセントになっている。

たしかに黄色の迫力には圧倒されるが、
じつは黄色の占める面積比率は
40パーセントくらいだろう。
そして窓のなかなどの
detailも描き込みがある。
自由だが細かいのだ。

色のことばかり書いてきたが、
構図、配置のバランスもいい。
転車台が中央やや上、
そしてそこにむかう線路の
傾きかげんもいい味になっている。
そして、これはいちばん大事な点だが、
たぶん、勇志くんは俯瞰的に描いている。
鳥瞰といってもいい。
(俯瞰も鳥瞰も「上から見下ろす」
という意味だが、図でいうと
俯瞰は立体的で鳥瞰は平面的)


斜め上から見下ろして描くのは
とても技術がいるが、
勇志くんのなかではこれは
紛れもなく俯瞰図であり、
だから建物もこんな感じなのだ。

しかし、この絵のパワーはなんだろう。
ことばに「言霊」があると
日本人は信じてきたが、
絵にも「ことば」と同じような力がある。
心をこめて描いた絵にも
魂の力は宿るのだろう。
「絵霊」(えだま)とでもいうべきか。

人間の心からしぼりだされた表現は
ことばでも絵画でも音楽でも、
命をもち、
それ自身で語りだす。

そしてまた勇志くんの絵からは
音楽も聴こえてくる。

堀井勝美先生作曲の
物語冒頭のあの
さわやかなリコーダーのメロディが
聴こえてくる。
勇くんの身体にもしみこんで
いるのだろう。

これまでにも何度か書いたが、
ラボ・ライブラリーにおいて
絵は空間的である。
他方、音楽は時間的だ。
そしてテキストは自在である。
ラボ・ライブラリーのような
音声物語作品においては
音楽がテキストの暴走を抑え、
時間をコントロールしている。
これはテーマ活動を
体験したものなら実感できることだ。

この絵を描きながら勇志くんの
身体のなかには
ちゅうちゅうの音楽とともに
物語の時間が流れいる。
あの音楽のリズムにのって
きもちはどんどん物語の先に進んでいる。
描きながらこの物語を往復している。
だから、「どの場面」かという問いは
この絵についてはあまり意味がない。

原作者のバートンは
この絵本を長男のアーリスのために
彼が5歳のときに描いた。
1937年のことである。

バートンは野菜を育てたり
羊を飼育して暮らした。
素朴で自然との調和を
愛したバートンは
文明による自然破壊に対して
懐疑をもち、
新しいものにとびつき、
古きものを使い捨てる
消費文化に対して警鐘を鳴らし続けた。
『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』
『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』
『ちいさいおうち』などには
そうしたバートンの思いがあふれている。
そして集大成ともいえる
『せいめいのれきし』は
ぜひもっていたい一冊だ。

バートンは、そうした
強い精神をもちながら
子どもの心によりそい、
子どものもつ自由をもとめる心、
成長がもたらす失敗と、
それを通して知る周囲への感謝などの
子どもが身体を通して
共感をもつことができる
ちゅうちゅうのような
キャラクターを描いた。

バートンは1968年、
肺がんのため58歳の若さで他界する。
ないものねだりではあるが、
もう少し作品を見たかった。

ラボの『ちゅうちゅう』の日本語音声は
大山のぶ代さん。
英語はジェリー・ソーレスさんだ。
対照的な声質のマッチングが
ふしぎな魅力だ。

大山さんが認知症を患い
現在は施設で療養されているが、
ぎりぎりまで
お仕事への意欲を失っていなかったときく。
プロフェッショナルは仕事をして
はじめて生きている
実感がもてるのだと
頭がさがった。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。水無月に舞え、つばくらめ 06月01日 (金)
6月。水無月である。
梅雨時で水多いじゃねえかといわれそうだが、
(ぼくもガキの頃、そうツッこんでた)
無は「の」の転で、「水の月」が元だというのが
ほぼ定説になっている。
(神奈月も「神の月」)
bgbdb
はじめにこのカレンダーをお持ちの方は、
ラボ・ライブラリーをかけて眺めることをお勧めする。
これは毎月のカレンダーでの絵でもいえることだが、
今月の作品はとくにそうだ。
この絵の疾走感、爽快感、力感、躍動感などが
より立体的に感じられるからだ。

描いてくれたのは鄭裕里さん
(小3/福島県・山崎智子P)。
題材となったのはラボ・ライブラーSK8収録の
"Chuchu"『こつばめチュチュ』。
らくだ・こぶにが書き下ろし、
吉原英雄先生が絵を、
音楽は間宮芳生先生が担当された。
日本語騙りは江守徹氏。
1973年4月のリリースだ。
(しかし、なんというgorgeousな
組み合わせだろう。絵本はB5版横、
そうとカバーの小さなサイズだが
中身はとんでもない濃厚さだ。

場面はおそらくツバメの学校の運動会。
冒頭の登校シーンとと取れなくもないが、
チュチュたちの気合の入った表情。
またチュチュが「黄色いリボン」とわかるのは
この「1年でも1万メートル」の
競走シーンのスタート直後と考えるのが
自然だと思われるが、裕里さんどうだろう。

この直前に「白い胸毛をぶるっとふるわせ」る緊張があり、
号砲一発、いっせいに飛び出した1年生たち。
賞品のかぶとむしのバッジや美味しい虫を目指して一直線。
裕里さんの絵はその瞬間を切り取ったものだが、
じつは前述したような
スタート前の緊張感とその解放によるエネルギーの爆発までの
チュチュたちの心の動きを描破している。
単に「飛んでいるツバメたち」という
凍りついた絵ではない。

物語にそこまで突っ込んでいるから
この疾走感、加速感、加速感が
伝わってくるのだと断言してしまおう。

そして、これはけして選考会を
批判しているわけではないことを
あらかじめ断っておくが、
この場面が1万メートル競走だとすると
季節は秋、ツバメが渡りに出る前である。
だから本番に備えて練習するのだ。

なにより、スタート直後のナレーションに
「秋のはじめの青い空」という
体言で止めた1行がある。
この1行ががさすがはらくだ・こぶにで、
詩を捨てたいいながら、
終生彼の根っこにあった詩的感性、詩的な律動
渇いたリリシズムが感じられる
あざやかな1行だ。

その前の「白い胸毛をぷるっと」で
ツバメの胸元をクローズアップして
その緊張をわずかな胸毛の動きをミクロで伝え、
そこから解き放たれた直後を
ツバメからロングショットに降って
マクロな視点に転換する。
それが「秋のはじめの青い空」の
1行、しかも体言止めの文であることで
季節感と空の高さや青さ、
その下を飛翔するツバメたちまでが
あざやかな映像として見えてくる。
これらはラボ・ライブラリーを聴けば
だれしもが感じることだ。

今年のラボ・カレンダーにはChuchuが
2点入選しているが、
どちらも前半の月に置かれているのは
絵の印象によるものだろうが
物語的から考えれば秋だ。
物語の季節感も重要だと思うが、
あくまで私見であることを重ねて
お断りしておく。

繰り返しになるが
裕里さんの絵の疾走感と加速感は
だれしも圧倒される。
主役であるツバメのタッチは
かなり力強く描き込まれていて、
生物としての生命感が伝わる。
ひとつまちがえばラフな感じになるくらい
ギリギリにせめてい流のが潔い。
しかし、けして荒くはなく
翼や燕尾の描き込みも繊細な濃淡がつけられている。
また、スマートな身体のフォルムもかっこいい。
hh h
主人公のチュチュはほぼ智勇王に描かれているず、
レースの先頭にはまだ出ていないのも
期待感が膨らむ。
さらに、競う仲間のつばめたちをチュチュの
背後に描いているのも裕里さんの
想像力とhand-eye coordinationのすばらしさだ。
先頭をゆくツバメを断ち切りにして
頭部を見せなかったり、
最後尾のツバメを逆に頭部だけ描いているのも
裕里さんの年齢ではなかなかできないことだ。
服まで主人公はチュチュと
意識されているのだろうけど。

さらにツバメの飛翔方向が水平ではなく、
やや上方を向いているのも
離陸上昇中の力感が伝わる。

かつてウルトラ・ライトプレーンで
渡鳥たちに伴走飛行機して撮影した映画があったが、
裕里さんは、チュチュたちと同じ高度にいる。
それだけ物語に入りこみチュチュを応援している。
江守徹氏のナレーションが
第三者的でありながら、
チュチュに心を寄せているのと同様である。


裕里さんは背景に田畑や家を
明るい色で描いているが、
それがツバメたちの暗色の面積の多さを
たくみに補って絵の明日るさと
高度感を作っている。
この多彩で自由な背景も、
この作品の大きな魅力だ。

じつはこ裕里さんが所属する
郡山市の山崎智子テューターとは
先週の金曜日の夕方、
郡山駅近くで同地区の井上テューターと
お茶を飲んだ。
喜多方からの帰り道、
郡山で時間があったので
前に連絡したのだ。

これまでにもなんどか書いたが、
山崎パーティのラボっ子は、
ラボ・カレンダーが始まって以来、
ほぼ毎年のように入線している。
山崎テューターは絵画の指導経験のある方だが、
あくまで「テーマ活動」ありき、
「ラボ教育活動のなかでの描画むと
きっちり位置付けられている。
カレンダーの季節のたびに
いろいろやり取りするので、
そんなことを徐々に知るようになった。
ぼくは冗談ぽく山崎パーティの絵を
「山崎流」と呼んでいるが、
それは絵のテクニックではなく、
テーマ活動とのリンク、
ラボ・ライブラリーを聴き込み
再表現していくことが
広義のテーマ活動だとすれば、
描画もそのひとつということなのだ。

郡山の駅近くのびるの5階のカフェで
マンゴー入りタルトとアールグレイを、
西に傾いていく陽をあびていただきつつ
くだらない話をしたが、
6月の絵をまだ観ていなかったので、
この絵の話しを全くしていなかった。
残念無念。
裕里さんとChuchuのテーマ活動の
関係をぜひ知りたいものだ。

原作の絵は吉原英雄先生。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
吉原先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家の
おひとりであることは
いうまでもない。

「チュチュ」絵は2つのパターンの変化だ。
恐るべきことに吉原先生を知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。

あるとき酒席で
らくだ・こぶに氏にきくと
氏は呆れた顔で、
吉原先生は、チュチュをあえて没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだ
と教えてくれた。
さらに、その日は機嫌がよかったのか
「チュチュは注射もがまんする
けっこう強い子のようだが、
とりわけ優等生のツバメではない。
ふつうのツバメが事件にぶつかり、
仲間と離別し少し成長して帰ってくる。
挫折したり病んだりして
少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と語ってくれた。

ところでテーマ活動で
運動会の場面でみんなが
チュチュを先頭にしようと
全力でとばないことがあるけど、
ここでは子どものもつ
全力さがたいせつなんだよな。
なんて余計なお世話。
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