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続々トム・ソーヤ
マーク・トゥエインの本名はサミュエル・クレメンズだということは前回というか昨日書いた。
トゥエインはミシシッピー川の蒸気船の水先案内をやったり、客室乗務員をやったりして、人間観察の目をやしなった。マーク・トゥエインという筆名はこのときの経験がもとになっている。
TwainはTwoのことで、さらにいえば2ヒロ(約12フィート)のことだ。ミシシッピーは下流でミズーリ川と合流し、たいへん巨大な流れとなるが、とくに春から夏にかけてはロッキー山脈の雪どけ水をのみこんで、川幅は膨大なものとなる。そうなると、本来は洲であつたり、瀬であったり岩だったりした部分が全部水面下となるわけで、そんなところに舟がいこうものならたちまち座礁の憂き目にあう。
そこで水先案内(パイロット)の仕事が重要となる、そしてそのときのキイワードとなるのがこのTwain。なぜなら、このTwainこそ、蒸気船が座礁しないですむ安全深度だからだ。したがって、これ以上浅いところには入ってはいけない。水先案内は地形や水の色などから、経験を総動員してそれわみきわめる。そして、いよいよTwainをきりそうになると、Mark! Twain!とさけぶのである。とくに夜間の航行の際にはカンテラをふりなから、さけぶ水先案内人のこの声がじつに哀調ょをおびて聞こえたそうだ。
トゥエインの作品は、たしかにおもしろく、ぐいぐいと先に進ませる力がある。そして、アメリカ大衆の心をとらえる自然と都会がうまくミックスしている。さらに、後で書くけど自由奔放なようでいてじつは安心しして読めるところがある。しかし、ちょっとまて「わたしの作品は気軽によめるけれど、あんまり気をゆるしすぎるとたいへんだよ。ここから先は危険という毒もある作家だよ」という警告をじつはトゥエインはペンネームでしめしているのだ。トゥエインは晩年のひげをたくわえた肖像や、トム・ソーヤなどの津作品から、ひょうひょうとしたユーモリストとしてのイメージが強いが、じつはたいへんまじめでユーモアと同時に現実的な考えもできる人だった。
たしんかに作家の写真や絵は勝手なイメージがひとり歩きしやすい。のこされているベートーベンの肖像画は相当に美化されているし、義経などはほとんど別人だ。その最たるものは石川啄木だめろう。彼は、写真にとられたり絵をかかれたりすることが苦手というかきらいで、のこっているのは事実上だれもが教科書などで知っている正面むきの、暗く、繊細そうな叙情歌人という感じの1枚である。これによって啄木のイメージは固定してしまったが、じつは啄木はとんでもない借金魔で、さらにうそつきで、鐘がはいるとぱっと女遊びにつかってしまうというひどいやつだった。そして文才をいかして、金を無心する手紙をしょっちゆう書いた。
しかし、歌と文の才能はやっぱりすごい。その才を惜しむ周囲は朝日新聞で構成係として二葉亭四迷の遺稿集の校閲などの仕事をさせるが、これも見事であった(でも、その給料も前借りして遊んじゃうんだけど)。
さてトゥエインは、トム・ソーヤを書いたのは、じつは子どものためではなかった。前回紹介した彼自身の「はしがき」にあるように、おとなむけの物語だった。しかし、彼の才能を評価している編集者から「これは、ぜつたい子どもたちに大うけする」と激励され、お金がけしてきらいではなかったトゥエインは、子どもむけの出版を決意するのだ。
したがって、すこし書き換えたりもしている。たとえば、ハックがボサボサの髪の毛に櫛わいれられるところで、ハックが泣きごとをいうが、その際に初版ではThey comb my kair go to hell=地獄のように櫛をいれやがる
といっていたのをcomb to thunder=雷のように櫛でとかす
なんて具合だ。
次にトム・ソーヤそもののことを書くのだが、時間がきた。
ではまた、
そうそうミシシッピーはMississippiと書くのだか
MIS SIS SIPPI と3 3 4でくぎると覚えやすい。
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続トム・ソーヤ
トゥエインは1835年うまれだ。ミズーリのフロリダという人口100人といういなかの開拓村だ。4歳でハンニパルで引っ越し、18歳くらいまですこですごした。父親はヴァージニアの出で、まずしいがほこり高いヴァージニア・ジェントルマンだった。その父はトゥエインが12歳のときに他界する。トゥエインは小学校をやめて(ハンニバルにも学校はあったが、じつに不備でトム・ソーヤのが着こうのほうがまだまし)、小さなローカル新聞を発行している印刷工の見習い小僧になる。
ここで彼は、字をおぼえ、さらには文にも興味をもつようになった
。それで彼は文作の練習をし、15歳のころには詩文の文わいかにも投書のようにして会社のぽすとになげこむという腕だめしをしした。すると、それがときどき採用になったりししたため、トゥエインは書くことがますますおもしろくなっていったのだ。
トゥエイン以前のアメリカの大作家とえばフランクリン(そう雷をつかまえるという無茶な実験をやったあの人)だが、彼も少年時代は印刷工場の職工をして文を習った。また、大詩人のホイットマンも少年印刷工だった。
18~19世紀のアメリカを代表する文学者が皆、印刷工見習いからスタートしていることは、偶然かもしれないがじつにアメリカ的な現象だ。つまり、大学といった高等教育のなかからではなく、実社会から出発しているという点が重要なのだ。しかも、みんなどえらい田舎の出身、これも重要な点だ。20世紀にはいってからもヘミングウェイや『アブサロムアブサロム』なとで有名なフォークナーといった大作家が登場してくるが、彼らもみなどえらい田舎の出身である。アメリカの精神文化は田舎発なのだ。
この田舎発という点はすごい重要で、アメリカ文化を考えるときにははずせないのだ。その点は、また別の機会に書く。
さて、トゥエインは18歳になって印刷工として自立できるようになると、都会にあこがれてワシントンなどにいったりする。でも、1年くらいでまたハンニバルにもどってくる。機械文明の象徴でる都会にひかれつつ、やっぱり自然が好きというのは、これまたアメリカ的だ。アメリカ人に人気があるヒーロー(『アメリカン・ヒーローの系譜』亀井俊介をよめ!)は。東海岸の紳士的ハンサムではなく、ちよっとラフで野生児的な男である。でも野蛮人ではだめというのがむずかしい。ようするに都会と自然のように、アメリカ人の好みはもともと矛盾しているのだ。もっとわかりやすい例をあげよう。ディズニーランドとミッキーマウスだ。ミッキーマウスは清潔なネズミという矛盾したキヤラでるし、ディズニーランドのジャングルクルーズなんかも「安全な冒険」という矛盾をかかえている(このあたりは能登路雅子『デイズニーランドという聖地』=岩波書を読もう)。
まあ、トゥエインもこうした矛盾をもっていた。彼は都会と田舎をいつたりきたりするが、しょせんはハンニバルのような小さな町におさまってはいられない。そこでニューオリンズをめざすが、その過程でトゥエインは蒸気船の水先案内人になる。この仕事で彼はさまざまな人間観察の目をやしなったといわれる。
トゥエインの本名は、サミュエル・クレメンズ。トゥエインというペンネームはこのとき生まれた。
つづくのだ。
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トム・ソーヤのことを書くのだ。
トーマス・ソーヤがすきな子は手をあげなさいといったら,世界中で何億本の手があがるかしらん。
特定の時代の特定の地域の物語なのに,これほど世界的名作といわれるのは,作者のトゥエインがやっぱすごいんだよね。
少年のもつ、かがやき、あやうさ,もろさ,かっこよさ.生臭い青年になる直前の無臭さ、なさけなさ、力づよさ、といった、「少年の普遍性」を描いているからにほかならないんだよね。
トゥエイン自身も「わたしの計画の一部は、おとなたちに、かつての彼ら自身の姿を、自分たちがなにを考え,なにを感じ、そしてときどき、どんなにつまらにないことに夢中になっていたかを、心地よく思い出してもらうことらある」と書いている。
少年を描いた作品は世に多い。ヘッセの『車輪の下』『旋風』(どっちももいいなあ)、ロラン『ジャン・クリストフ』、ご存じヴェルヌ『二年間の休暇』、川端『伊豆の踊り子』、三島『金閣寺』『仮面の告白』、トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』、山本『路傍の石』、一葉『たけくらべ』(最近、よみかえしたが、やっぱり天才だわ)、手塚治虫『白いパイロット』(これはかくれた名作だぜ)……。
例によって話がそれるが、こうやって名作をあげると、ぎりぎりしてラボ・ライブラリーをしんどいなあといいながらつくるより、これらのすばらしい作品を読んでるほうがいいなあと、マジにおもったりもする。どれだけ美しいものわつくりだし、人を感動させたかもたしかに人生の価値だけど、どれだけ美しいものと出会ったかも、人生の価値なのだと最近思う。
『ウイリアム・テル』『セビリアの理髪師』などのオペラで有名なイタリアの音楽家ロッシーニは、若いときはとってもボンビーだったが、人気作曲家となり、金持ちになると友だちをあつめて宴会をやった。なにせ、ロッシーニが新しいオペラを書いて上演すると、翌日には朝からそのメインのアリアが街じゅうで口ずさまれていたほとだ。
しかし、たっぷりお金をかせいだロッシーニは、あるときからばたっと新作を書かなくなる。そして宴会ざんまい。ある日、友人たぢが「ロッシーニ先生よ、みんなあなたの新作を心まちにしているのに、どうして書かないんだい」ときいた。すると、ロッシーニはしばらく目をとじてワインを飲んでいたが、やがてだまってピアノの前にすわって、おもむろにふたをあけた。
友人たちが、おっ新曲かとかたずをのんでまっていると、そこから流れてきたのはモーツァルトだった。ぼうぜんとする友人たちに、ロッシーニは「ぼくは、お金もたまったし、自分が納得するオペラもいくつか書けた。きみたちのような友人もできた。そして世の中には、すでにこんなすばらしい天才のつくった曲がある。ぼくがなにをいまさら書く必要があるんだい」とこたえたそうだ。そして、それ以後、かれは新作をつくるこもなく、のんびりとすごしたという。
なんてね。じょうだんじゃないぜ、こちとらり、そんなじじいじゃねえ。天才でもないし、ましてや芸儒家でもない(術はつかわん!)。かつこつけるのは、まだまだ、じたばたと身体をけずって書いたり、つくったりしていくのだ。仕事、仕事じゃあ。ふりかえると仕事ばっかりか! でも、それ以上いい人生ってのもそうはないぜ。
さて、話をもどす、たしかにトゥエインは少年の普遍性を「トム・ソーヤ」で描いたが、一方でこの物語はいろいろな意味で、きわめてアメリカ的な物語なのだ。皮肉屋でしられるイギリスの劇作家、ジョージ・バーナード・ショウは「トゥエインは今後のアメリカ研究にかかせない存在となる」と予言しているし、ヘミングウェイも「アメリカの近代小説はトゥエイン以前にはなにもなく、それ以後もそれわこえるものはない」とさえいいきっている。ぼくもトゥエインは、まさに国民的作家であり。アメリカの精神を代表しているといっていい作家だと思う。アメリカ人は、陽気でフレンドリーだというのが他国から見た印象だが、じつはその内面はけっこう複雑だ。
いまのブッシュをみりゃわかるだろう。
その複雑さも含めて、トゥエインはアメリカを代表する作家だといえる。つまり、トゥエインから学ぶアメリカがあるということだ。次回はそのへんをもうすこしまじめにかつ深く展開するのだ。
いずれにせよ、トム・ソーヤはいまもアメリカの正面玄関で自由の女神の肩にのっかって口笛をふいてこっちをみているのだよ。
明日かそのつぎにつづく。
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リクエスト第二弾にこたえて玄奘三蔵、三蔵法師のはなし。
玄奘はもちろん実在の僧だ。それも天才といってよいほど優秀な僧である。
この玄奘のインドへの取経の旅を描いたのが、ご存じ「西遊記」だ。物語のはなしはあとで書くとして、玄奘のことわさにだらだらと書く。
玄奘の生まれは600年と602年の22説があるが、まあいい7世紀はじめの人であることはまちがいない。玄奘は唐の都である長安(現在の西安=シーアン)で仏教を学んでいたが、冒頭に書いたようにすげえ優秀で、海綿のような吸収力と海のような探求心はとびぬけていたらしい。
しかし当時の中国の仏教はとにかく資料がなく、勉強すればするほどわからなくなる状況だった。それをのりこえるには、本場のインドに留学して学び、さらにそいつが資料、すなわち教典をもちかえる必要があった。若き僧たちはこぞって留学願いをだすが、すべて皇帝に却下された。玄奘も3回ほど嘆願をだしているがとうぜんNG。唐の国は618年に成立し、それから宗にほろぽされるまで、約300年さかえるが、玄奘たちがいらいらしていた629年ごろは国ができたばかりで、対外治安は不安定で、国境付近ではまだ小競り合いが日常的にあったのだ。したがって、優秀な若い頭脳を国外にだすなどとんでもないことだった。
しかし玄奘はとうとうおきてやぶりの密出国をする。つかまれば、死罪だ。馬にのっていったという説もあるが、白馬ではなかったらしい。
はじめは同行者がいたようたが、都からはなれるとすぐにひとり。手配所もまわっていたが、関所ごとに奇跡的な援助者があらわれた。玄奘は昼間は寝て、警備の手薄な夜に歩くという無謀なスケジュールで、なんとか西の境であるまでたどりついた。ここが有名な玉門関だ。深夜、黒々と横たわる関と頃わ大きく迂回して玄奘は国外にでる。ゆくてに広がるのは、おお、荒涼としたタクラマカン砂漠だ。「天に飛鳥なく、地に走獣なし」といわれた、おそるべき砂と風と炎熱の空白地帯だ。
凝る間は50度近い灼熱地獄、夜は零下にこごえる。トルファン盆地などはなんと海抜マイナス154メートルで、ほとんどるつぼ。陽炎ゆれるボグド・オラの真っ赤な山肌はまさに火炎山。
玄奘は自分でこの旅を記述してはいない。弟子たちがのこした「大唐西域記」からわれわれはその足跡をしるばかりだ。玄奘はとにかく、タフであり、またカリスマ的魅力をもっていたようだ。国境をでてからはことばも通じなかったはずだか、玄奘はたちよったとちゅうの国ですべて尊敬され、ぜひどとまってほしいと請われている。かれは、ラボっ子のように、心がつうじればコミユニケイション可能だという確信をもっていたようだ。漢民族である玄奘は身長180センチ以上,なかなかの美男子で、意志のみなぎる目と滋養熱的な語りは、出会った人をすべてとりこにしたという。西安市の博物館には玄奘の肖像画が軸になっているが、迫力あるいい男だ。
25歳(29歳説も)で唐を出た玄奘は、2年かけてインドにだとりつく。そしてた、インドほぼ全域を巡礼しているからすごい。そしてナーランダの学林で6年間みつちりと学んだ。ここは、当時、世界最高の仏教研究センターでいつも数千人がまなんでいたという。しかし完全に卒業できたのは、10人ほどで玄奘はそのひとりとなった。
641年ごろ玄奘は帰国の途につく。周囲の先生や仲間はひきとめたが、学長は「仏教はいずれインドでは下火になる。これんらは中国やもっと東の国の時代だ」と帰国をすすめた。たしかに、インドの宗教はその後はヒンドゥーが主となり、仏教は中国、そして日本や東南アジアで発展する。
帰り道もえらい苦労するが、問題は入国だ。犯罪者である玄奘は逮捕されてしまうのか。玄奘は唐に近づくと皇帝に報告書をおくる。帰ってきた返事は帰国をゆるすものだった。密出国から16年,玄奘は大量の経典とともに人びとの大歓迎なか長安に帰ってきた。貞観19年(645年)、正月五日、玄奘45歳の男ざかりと記録にある。
玄奘のすごそはさらにここからだ。帰国後、皇帝に還俗してブレーンになってほしいとたのまれるが、玄奘は固辞して次の大仕事にかかる。それはサンスクリット語で書かれている経典を中国語に翻訳することだ。650あまりの教典を玄奘は20年かけて翻訳する。すげえ。ご存じの「般若心経」も玄奘の翻訳だ(耳なし芳一のからだにかいた経はこれ)。
仏教の経典は大きくわけて3つにわかれており、そのすべてを修めた僧は
○○三蔵とよばれる。しかし、ただ三蔵、あるいは三蔵法師とだけよばれるのは玄奘しかいない。
さて、「西遊記」はこうした玄奘の旅を仏教説話としてお寺で語ったのがはじめである。ようするに、仏の教えをわかりやすく説くということである。みんな文字がよめない人たちだし、仕事のあとでおなかもすいているから、つまらなければみんな帰ってしまう。そこで語りを担当する僧たちは、
くふうした。玄奘のようなスーパースターではおもしろくない、そこで玄奘を徳は高いが、弱よわしく女性的なキヤラにした。旅のとちゅうでうけた苦難、高山病どか熱中症だとか、嵐などは妖怪変化となった。さらに、玄奘の強烈な精神は分解して異形の弟子たちになった。すなわち、あふれる闘争心は悟空に、人間的な欲望・煩悩は八戒にというぐあいだ。
こうはした説話は、いつか祭などの講談としてひとりあるきする。仏の教えより物語のほうがおもしろいというわけだ。そうして民間につたわった話をあつめ、小説として呉承恩という人がのちにまとめあげたのが「西遊記」というわけである。
じつは、この玄奘のようなキャラは中国の人がいちばんすきなタイプだ。孫悟空も人気はあるが、玄奘のように雲にものれず、すぐにあぶない目らあい、いつも弟子たちにたすけられ、しかし徳と情があり、それゆえに悪につけこまれてまたまたひどい目にあう。そんななさけないボスだけと、その仁と徳ゆえに豪傑や賢者がしたってあつまる。そんな赤ちゃんのように無垢なキャラがじつはいちばん強い。赤ちゃんの無垢な笑顔にはだれもかてないし、三蔵には悟空もテューターがだせない。そして死に直面しても動じることがない。まさにKIng of the Road 道(タオ)に君臨する者なのだ。
こうしたキャラといえば、そう「三国志」の劉備玄徳だ。
毛沢東の写真を家に飾っている人は、いまの中国にはほとんどいないだろう。でも周恩来の写真を「わたしたちの父」といって台所などにていねいに飾っている家はけっこうある。そういうことだ。
玄奘653年の2月5日、仏教にささげた63年の生涯をとじた。玄奘が昇天した夜半、北の空には四すじの白い虹があらわれ、玄奘ゆかりの滋恩寺の塔にかがやいたという。
さていきおいで書くが、ラボの「西遊記」にも説話としてのなごりはちゃんとある。たとえば金角と銀角。こいつらは天上の下級官僚である。位がひくいので、不老不死ではなく人間よりは長生きだが、いすれ死んでしまう。天人にも寿命があり、衰えてくると「脇の下に汗をかく」とか「身体に光がなくなる」といった五つの兆候があらわれてくる。これを天人五衰という(三島の小説で有名たね)。
ともあり、それじゃあつまらん、下界におりて太くはでに生きようじゃあないかと兄弟で職場からにげだす。ようするに悪党なのだか、銀角が悟空にやられると、金角はなげくことしくり、つまり、これだけの悪党でも兄弟、の絆、業(ごう=カルマ)というものが描かれているまだ、鉄扇公主も、あんな悪女でもやはり母親というわけだ。
『西遊記』はじつに中国的話であるが、アジアの物語といってよい広がりもある。悟空とラーマーヤナのハヌマンの類似は有名だが、ナダ太子(ナダの漢字の入力がめんどいのでカタカナでかんべん)が三面六ぴにかわるのなど、キリスト教の三位一体だと陳先生はいっておられる。
仏教はもともと瞑想の宗教だ。シャカのうまれた地方は雨が多いので、瞑想しやすい。それが、シルクロードをつたわってガンダーラのほうまでとどくと、ここは天気がよく、じっとして瞑想なんかしていられない。「こんなにいい教えなら、その仏とやらわつくろう」「そうだおれたちは、ギリシアかにきた石像や大理石像わつくるわざがあるのだ」というわけで、偶像わつくつてしまい。それがまた、アジアやはるかに人まできたのだ。
やれやれ、ちなみにシルクロードは西からひがしむかうほうがたいへんだという。なぜって、ドーロクルシ! ちやんちやん。
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さっそくリクエスト(なんか、やらせつぽいなあ)にお応えして
ロミオとジュリエットのこについて書くのだ。それにしても「ロミジュリ」ってのはやめようね「アリキリ」とか「長ねこ」とかもね。
こういうのはいわば隠語の世界で、それは仲間どうしの符牒みたいなものて楽しいけれど。まあ、しかしねえ。
そんな話を牟岐先生にしたら、「そんなのいいほうで、音楽界、しかも高尚なはずのクラシック界でも『ベトコン』とか『ドボコン』とかひどいいい方がありますよ」とのお返事。「なんスカ,それは」「いやあ、ベートーベンのコンツェルト,ドボルザークのコンツェルトですよ」
みなさん、作者や作品にはリスペクトをもちましょう。
おっと、本題にもどしますぜ。
『ロミオとジュリエット』はシェイクスピアの比較的初期の作品ですわいな。ラボ・ライブラリーにもなっている『ジュリアス・シーザー』は,1600年ちょうどの作品だけど(この戯曲は彼がテームス河畔にできたTHe Globe=地球座の支配人兼座付き作者になったとき、柿(こけら)おとしにかかれたもの)、この作品を境にしてシェイクスピアの作風は大きくかわる。
つまりシーザー以前は性善説的な、すなわちいろいろあるけれど、ぼくらはみんな生きている。人間てすばらしい! という作品だらけだ。しかし、シーザー以後はドロドロの人間なんてラララララ、けっきょくは欲望のかたまりよという性悪説的な見方の作品がならぶ(そっちのほうがすごいけどね)。まあとにかく、「ロミオどジュリエット」は、悲劇ではあるけれど人間の可能性や純粋さを作者が信じていたときの作品だ。それにしてもシーザー以後、彼になにがあったのというかわりようだ。
シェイクスピアの人間への洞察力と強力な想像力にうらうちされた人物描写は、いまだにそれをこえる文学者はいないといわれているが、ストーリィそのものはオリジナルというわけではない。というより、人気のある物語をシェイクスピア風に戯作してしまうところがすごいのだ。「つか版忠臣蔵」みたいなものである。
「シーザー」にしても、このの物語はプルタークの「英雄伝」がネタ本であり、当時の人びとには、それこそ「忠臣蔵」のように有名な物語なのだ。
シェイクスピアはプロの作家である。したがって、客をよべなきや首だ。そこで柿おとしには、まちがいのない人気話よかけたい。そこで、「シーザー」でいこうとなるわけだ。ところが、ただふつうにシーザーをやってもおもしろくない。そこで、暗殺者というかテロの犯人であるブルータスが事実上の主人公になってしまう、みにきた客はいい意味で、みごとにうらぎられるというわけだ。
「ロミオどジュリエット」も、この諍うふたつの家のあととりどうしが恋におちて、つまらぬいきちがいから、人がたくさか死に、ついには当のふたりも死んじゃうという話は、シェイクスピア以前からあったのだ。だから、けっこう有名な話だった。シェイクスピアのすごいところは、その仕立て方や設定だ。まず、舞台を情熱の国イタリアにした。彼自身もイタリアには旅行したことがあり、なかなか気に入っていたようだか、当時の英国の観客がそんなにほいほいイタリア旅行ができたはずもない。だいた人びとが楽しみのために大きく移動するのは、せいぜい19世紀のおわりころ。それもまだまだ金持ちの特権だった。だから、イギリスの人はイタリアのことなどよくわからない、知っているのはローマがあること方法がいることくらいだ。
でも、じめじめしたイギリスとはちがって、太陽サンサンで酒はうまいしねえちゃんはきれいだ! みたいな楽園的イメージはある。あんまり遠い日本のような異国だとリアリティはないが近いけれど、またせよくわからない国という舞台が、「そんな、熱いラブロマンスもあるかもしれん」というリアリティをかきたてる。シェイキスピアはそのへんをきちんと計算していた。それに適当に書いても、だれもいったことないからわからんしね。
次にわずか4日のできごとにした。これは展開がスピーデイだ。これもすごい。しかし、なによりシェイクスピアが天才っぽいのは、ジュリエットを年端もゆかぬ14歳にしてしまったことだ。当時のイギリスでもヨーロッパでも自由恋愛なんてことばは公式にはNGで、家と教会がみとめなきゃどうしようもない世界だ。ところがこのふたりの少年少女は一目ぼれ、しかも舞踏会でナンパして,速攻でバルコニーから侵入してむすばれてしまったんだんから衝撃的だよなあ。しかも精神と血肉の合一があって婚姻とみとめられるのだが、ロレンスはきちんとOKする。
ともあれこのイタリア、真夏の4日のできごと、14歳、というシェイクスピア独自の設定がすごい。
でもなんで、となるわけだが、それにはこの物語の主題をまじめに考えねばならぬ。「家どうしの対立にもめげない、若い純粋な愛」というのが、表面的主題だ。このへんはまあ、「テーマ活動の友」のはじめにのところに書いてあるのだが、読んでない人もいるだろうからかいておくけど、シェイクスピアはじつは恋愛のプロトタイプ、すなをち原恋愛というか、恋というものはこうはじまり、こう燃え上がって、こう終わるという恋愛の普遍的な姿を描きたかったのだ。だからこそ、時をこえてもこの物語は新鮮で、ウエストサイドストーリー」のように現代版にリメイクされたりもする。古典というのは、人間の普遍的真実よわえがいているから、いつも「今の物語」なのだ。そう思わないから「古典はつまらない」となる。ぎやくに「源氏物語」なんか、今のはなしと思えば、こんなに男女の機微に精通した紫式部はなんて女だ! というほどおもしろい。
これもテーマ活動の友に書いてあるが、ラボは受験戦争にはいるまえのまさに14歳までの子どもたちにこの物語に出会ってほしいと考えた。だから、かれらでも理解しやすいように、現代英語でリトルドした。
いつの時代でも戦争などの疎外的環境のもとでは、恋愛や性は暗いなかにおしこめられ、ポルノグラフ化する。現代の子どもに対する疎外状況はまさに小学生年代までおしよせており、当然のように性的なトラブルも低年齢化している。その象徴が高校受験かもしれない、その戦争においやられるまえに、ピュアな愛のかたちに出会ってほしい。これはほんとにそう思うよ。
この作品は日本語音声の吹込みをラボっ子がおこなった。はじめてオーディションをした作品だ。ジュリエットだけは、さいごまでひとりにしぼれず二人で練習した。デイレクターは最後にひとりに決めるとき、ほんとうに断腸の思いだつたという。
このふたりのジュリエットはいまは、ふたりともよき母親だ。ロミオは学校の先生になっている。
長く書いたわりには、たいしておもしろくないなあ、まあいいや次は!
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Dr. Dolittleのこと。
前々回に書いたように、ラボの物語にでてくる父親は
あんまりばっとしないので、なんとかたよりになる父親の物語をということで誕生したのが『ドゥリトル先生海をゆく』なのだ。
原作者のロフティングはイギリスの軍医で、ほとんどが戦地におもむいての生活だったため、家族とはほとんどはなればなれ、すなわち単身赴任であった。とくに最愛の息子が、きになってしょうがない。
一方、当時の軍では馬き貴重な戦力だった。移動や運搬の手段として重要なことはもちろん、地形によっては騎馬隊による攻撃は大きな力だった。
しかし、しょせんは動物、人間のかわりに死ぬのはまず馬であり、負傷したときもまず人間の手当が優先なので、馬はやはり命をおとす確率が高かった。そんな見殺しにされる馬、使い捨てにされる馬がロフティングは不憫でならない。「どこかに、馬のきもちがわかるスーパー獣医はいればいいのに」ロフティングは自分の力のなさを嘆いた。
ロフティングは筆まめで、家族、とくに息子によく手紙を書いた。それには息子がさみしい思いをしないようにと、自分が体験したおもしろい話をときどき書いた。しかし、体験といっても戦争のはなしばかり書くわけにもいかない。そこでロフティングは息子ようにつくりばなしを書くようになっていた。そんなことがきつかけとなり、いつしかロフティングは動物のことばがわかるふとっちょで陽気な、しかし芯には強いイギリス紳士の魂をもった獣医を考え出した。なまえは「なんにもしない」Dolittle先生。
ロフティングはこのキャラクターに自分の夢をたくすとともに、息子へのおくりものとして本格的に物語をつくり、せつせとわが家におくった。そしてそのおはなしには、自分でかいたイラストもそえたのだ。
したがって、「ドゥリトル先生」は、ロフティングのじつに私的な息子へのおくりものであり、彼自身の動物保護の主張だった。したがって、世界的なベストセラーになるなどとは、この時点では夢にも思っていなかった。
ロフティングはやがて帰国の途につく。その長いの舟旅のとちゅうで、ロフティングは知り合った作家にこのはなしをした。それをきいた作家は、じつにおもしろいから本にしてだすべきだと強くすすめた。
名作は、こうして息子への手紙から大きな世界にでることができた。
ぼく自身ずドゥリトル先生をよんだのは、小学校4年生くらいだと思う。本格的読書はケストナーの『エーミールと探偵たち』でねそれに続いて「航海記」をよんだ。ぼくは動物はさほどすきではなかつたが(5歳くらいのとき、シェパードにあおむけにたおされその恐怖がトラウマになっていた。犬にしてみればじやれただけなのだが、5歳の子はかんたんたおれてしまう。それき夏の日で、目のまえにせまる犬の舌をだした往きづかいと無表情な目、そしてその背後でギラギラする太陽がしばらく焼き付いていた)。とてもおもしろかった。なによりスタビンズ少年にあこがれた。先生がかれを子どもあついせず「スタビンズくん」とよぶのをすばらしいと思った。生意気にがきだったぼくは、みょうに子どものほうに姿勢をひくくしてくるおとなを信じていなかった(子どもはきっとそうだ)。
闘牛に反対する姿勢も男らしかった。あの陽気な先生が真っ赤におこるのに感動した。
ロフティングの精神はじつにリべラルにおもえたのだ。だからバンポもとくに差別的に描かれてはいない、しかし、彼の故郷のアフリカのジョリキンキ(もちろん架空の国)についての記述はたしかに見下した感がある。現在、イギリスではバンポがでてくるところはほとんどカットされているという。ちょっとざんねん。
さて、新シリーズはラボ・ライブラリーのキャラクターについて書いていく予定だ。次のような人たちを書くのでリクエストが多い順に書こうかと思う。それ以外の注文も歓迎である。
とりあえずの予定キャラは、ロミオとジユリエット 孫悟空 三蔵法師、かぐやひめ、翁、トム。ソーヤ ハメルンの笛吹き 四郎とかん子 ゴーシュ などなど、さあだれからいこうか。
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6/12の土曜日、鎌倉にいった。6/14からは自分のなかで2005年の新刊にむけたモードにきりかえるときめていたので、そのきっかけがほしかったのだ。頭のなかにとぐろをまいている今回の新版の音楽だとか、永山さんの絵だとかをすべてリセットしないと次にすするない気がするのだ。
これは山登りにもにた感覚で、汗をかき足をひきずりはあはあいってたどりついた山頂(途中はかなりマゾヒスティックだ)からみあげると、そのむこうにさに高い頂がある。身体はへろへろなのに、そこにいきたいと思わないやつ、いまいる山頂で「おれもここまでたか」と満足できるやつは、クリエイテイヴな仕事はむいていない。美しかった昨日の思い出にあまえていればいい。なんていうとかっこいいけど、まあはんぶんはほんとのきもちだ。
朝8時10分の小田急ロマンスカーで片瀬江ノ島にむかう。連れは、悪友3人。したがって50男四人のむさ苦しい旅である。全員、練馬の江古田にある武蔵という田舎の中学・高校で6年間いっしょだったやつらで、もう40年ちかいつきあいだ。
9時30分には江ノ島につき、新しい水族館をみる。よびものの相模湾の生態系わ再現した相模湾大水槽はたいしたものだ。また、クラゲフアンタジーホールもすばらしい。クラゲはむだ運動をせずに、また無駄な進化もせずに太古のむかしから生き続けてきた。うーん。
こんできたので江ノ島まて散歩し、昼食。シラスのかまあげがおいしい。
江ノ電で鎌倉にいく。すごい人だ。小町通り(JR鎌倉から鶴岡八幡宮への道)などはほとんど歩けないる北鎌倉で建長寺にむかい、その先の紫陽花寺、明月院にいきたいがきっとすごい人だろう。
というわけで八幡宮となりの神奈川近代美術館にいく。ここでは、早川重章という抽象画の作家の展覧会をやっている。80歳になるのにやたら元気な作品をいまもつくっている。
客はほとんどいない。外国人のアーティストっぽい人がちらほら。作品は100号以上のでかい油彩、ガッシュ、あるいはコラージュ。それと実験的なオブジェ。うーん、こういうのはすきじゃないとなあ。
ここでたっぷりと時間をかけるるいいリセットだ。それから夕方、クローズまぎ゜わの明月院へ。紫陽花はいまが見ごろ。うすぐらいなかに、青がうきたつ。ここの紫陽花は意図的に青系をあつめている。すぐそばに、葉祥明美術館があるが、ああいう甘い絵はいまはパス。
北鎌倉の駅のそばの風花で抹茶とお菓子(紫陽花をかたどった和菓子!)
わいただき、鎌倉へもどる。うすぐらくなってきたなか江ノ電で藤沢へ。
帰りもロマンス(どこが!)カーだ。
あれっきょうはドゥリトル先生をかくはずだったのに。
まあいい、作者ロフティングのことはあしたかこう!
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いよいよ新シリーズ! といってもいつまでつづくかなあ。
ともあれ、歌のCDのつくりかたはおしまい。
これから、しばらくはラボ・ライブラリーに登場するキャラクター
すなわち、人物、動物、神様、おばけ、妖精、などなとについて
考えてみたい。文句あるやつは、前に出ろー!
その記念すべき一回目は「おやじ、すなわち父親」にするのだ。
ラボ・ライブラリーにでてくる父親をすこしひろってみよう。
そうすると、どうもなさけない父親がけっこう多い。
まずは、だるまちゃんのダディ。雲の自動車でさっそうとあらわれるがねどうも存在感がうすい。ラストでWhisky for Daddyで、にこにこと酒をくらってしまりがない。
ワフ家のおやじ、の犬の一家はなかなかプライドが高くろも、いたってのんびり顔ではあるが、なかなかどうして骨がある。料理はおろか建築にいたるまで生活全般がお手のもの。人間に飼育されたり、管理されたりすることなんか頭から返上している。それどころか、人間のめんどうをみてやっているという心意気だ。
やむをえず人間相手に人間語わしゃべるときはあるが、おそらくふだんは犬語で話しているはずだ。ラボ・ライブラリーでその部分も人間語になつているのはわれわれのために本約してくれているのだ。
これはワフ家のお情けで、人間社会へのあこがれでは断じてない。その証拠には、テレビのMCや警察署長には、ワフ、ワフと犬語でこたえているではないか。人間のマスコミや権力などへのかっぱと、このほこり高い犬語のさけびに目を白黒させたラボっ子は多いはず。さらにワフたちは猫とも会話できるから、かれらの言語能力は相当なものだ。
ところで、この犬たちの物語を子どもがテーマ活動するとき、四つんばいになるか、ならないかという問題がある。みなさんのパーテイではどうですか。傾向としては、幼児、しかも男子は四つんばいになることが多いようだ。でもねかれらも10歳わすぎると2本ア死のワフになる。そこのところを
おとなはねさらりと通り過ぎることが多いようだ。犬だから、四つんばい。それが幼児の卒直さだと行程しつつ、卒直を単純におきかえてしまいがちだ。ぶるぶる。
たしかに幼児は「犬は四つ足」という事実に高い位置わあたえている。そこで、その定理わ忠実に守っているにすぎないと思いがちだ。でも、運動機能の面からみれば、四つんばいはすでに歩きはじめた幼児にとっては大きな負担だ。腕の筋力は弱いし、頭も重い。だから自然に四つんばいになるのは、かなり大きなよろこびにささえられていなければならない。
そのよろこびはなんだろう。これについてかきだすととても長くなるけれど、動物と一体化するよろこび、それは母親からはなれたあとの守護霊的なものに祝福されての一体化のよろこびと関係がある気がする。
女の子はは、母親として祝福する側の訓練をはやくからするから(おままごととかね)、けっこうはやく四つんばいわやめちゃうのかなあ。
おっと、例によってはなしがそれた、かようにするどいワフのみなさんだが、ワフのおやじとなるとどうもなさけない、一家の長のとしてえらそうにするときもあるが、かんじんなところでドロボウにはいられたりして、これまたしまりがない。
ほかに、、父親といえばそうそう『かいだんこぞう』のタケちやんの父親。の人にいたつては、かんじんなところで病気になってしまうし、顔や性格すらもみえてこない。ただふるさとの駅から大きなスイカのような夕陽にむかっておじいちゃんとあるく姿はやたらと詩的だ。かげぼうしに背中をたべられている中年の悲哀そのもの。
こうしてみると、父親はなさけない存在なのか、ジュリエットの父親もじつになさけない。
それじゃあ、かっこいいおやじはいないのか、というわけでつくられたのが『ドゥリトル先生海をゆく』なのだるDo Little なんにもしないというのは、じつは反語。次回はこの博士のはなしをかく予定。
うーむ、わたしなどは、はずかしながらふたりも子どもがいて
(22歳と20歳)、父親の自覚をもてぬまま子育てをおわってしまった
まさにDo Little 先生 後悔記なのだ。
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前回は録音エンジニアの富さんの話をかいたが。今回はさらにすさまじい裏方のこと。
☆スタジオのアシスタントくん
エンジニアの指示にしたがって機会を操作する。たいていはスタジオ付きのスタッフ。すなわちスタジオを運営している会社の社員。機会の知識、操作技術に卓越していることはもちろんだが、耳のよさ音楽的感性もとうぜんにも求められる。さらにきくばりの能力、そしてなにより体力勝負。
アシスタントの作業は録音の2時間くらいまえからはじまる。マイクのセット,機材の点検をほぼすませておき、エンジニアがスムーズにテストを行なえるようにしておくのだ。もちろん,ひの時点でエンジニアから注文がはいればやりなおし。作曲家がきてディレクターがきて、プレイヤーもそろうと。まずはキーボックスの説明がアシスタントの仕事。キーボックスとはフェイダー(あげれば音量大、さげれば小。ようするにボリューム)が8つくらいついた箱である。箱には端子があり一方はスタジオの機会から、もうひとつの端子からはヘッドフォンがでている。このヘッドフオンで各プレイヤーは音をきくのだ。ききかたはされざれの好みなので、何番のキーからどんな楽器がきこえてくるかを知らせねばならい。
「えーっ、キーボックスの説明をします。1番と2番がミックス(全部の画付きの音が右=1と左か=2らきこえる)です。3番が金管、4番は木管、5番にピアノ。6番が弦で、7番はパーカッション,8番がクリック(メトロノーム)です」
プレイヤーによっては、ぼくのヘッドフォンなんかへんだよとか、6番死んでるよ、とかいろいろなご注文がはいるので、そのたびにアシスタントは゜いまかえます」といってとびだす。
録音がはじまると、録音コンビューターの操作はすべてアシスタントの操作だ。ディレクターが「それじゃあ本番」という声がかかると(これきはわしらの仕事。えらそうだよね)、アシスタントは最低てせも5~6の操作をすみやかにかつていねいにせねばならない。アシスタントが「はいどうぞ」とTalk Back(スタジオ内の人とはなすためのインターフォン)すると、指揮者がこんなふうに声をかける。「M-22(22番の音楽という意味)のテイクワン。one two three...」
本番中にアシスタントが操作ミスれば、とうぜんやりなおし。そうした
場合は機会を「すみません、こちらです」という。つまり、録音中止はプレイヤーのせいじゃないよということを明確にしているのだ。そうしない、プレイヤーはすげえ集中しているから、へんなふうにそのテンションがぶちきれると修復がたいへんだ。したがって、富さんのようなやさしいエンジニアになると、たとえミスがアシスタントのせいでも「すみませんね。ちょつと原因不明な音がはいったので,もういちどとらせてください」などとナイスフォローをする。
さらに、録音は予定どおりにいくなどということは99パーセントないから、予期せぬことが連続する。56小節から59小節のファゴットだけ、いまさしかえる。なんてのはしょっちゅうだ。そんなときはアシスタントはすばやくコンビューターほ操作し「それでは、52小節からだします」とだしい位置をすぐ再生して、パンチイン(必要な音だけいれかえる)わすみやかにできるようにせねばならぬ。
アシスタントはとにかくたいへん。はたらきもの。でも、みんなそうやって現場をふんでエンジニアになっていくのよ。かれらがいなきや、どんないいアルバムもかたちにはならない。
☆写譜屋さん
しゃふや と読む。作曲家はフルスコアで書く。すなわち大きな楽譜にすべてのパートを書き込む。しかし、そのフルスコアをみめのは作曲家とエンジニアとアシスタントとディレクターと指揮者だけだ。各プレイヤーはパート譜といって、自分の楽器だけが書いてある譜面をもらう。だから、それだけみてもなんの曲かはわからない。すごいのになると、シンバルではじめからずーっとおやすみで、さいごにジャンといっかいなんてのもある。
このパート譜をフルスコアからうつしとってつくるのが写譜屋さんである。これは正確さと時間が勝負。作曲家が朝の7時まで徹夜で書いていたため、12時からの録音にパート譜がぎりぎりでまにあうなんてざらだ。
したがって、どうしてもこまかいまちがいがでるときがある。演奏家はそのとおりに演奏するが、たいていは一回でそのまちがいに気づく「先生よろしいでしょうか」「はい、フルートの○○さん、なんでしょう」「17小節目の2拍目のうらはBとなっていますが、Bフラットではないでしょうか」
「そのとおりです。失礼しました」
もちろん、作曲家がぎつくときのほうが多いけど……。それでも彼らの耳はどうなっているんだ。あんなにたくさんの楽器が同時になっているのに、たった一音をききわけるなんて……。
ともあれ、今回も写譜屋さんはがんばった。「パーティ活動の友」の楽譜もかれらの仕事。今回の写譜やさんは、東京ではナンバー1の写譜屋さん。
その名はハッスル・コピーという!
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このシリーズもそろそろ最終回が近いかな。というのも、
GTS-1のリリースが目前となったからだ。まあ、あと2回くらいかしらん。
これまでは、録音現場や制作現場の話をおもに音楽家や演奏家、はたまた
画家のことを中心的に書いてきた。こけらの人びとは、いわばSunny Side
陽のあたるポジションである。しかし、「ものづくり」には目立たないけれど、たいへん多くの人びとが関わっていることはいうまでもないッス。
その人たちのことを、感謝と尊敬をこめて記しておくのだ。
◎録音エンジニアの富(トミ)さん
彼のことは、たしか一度ふれたと記憶しているけれど、この機会にちゃんと書いておきたい。
トミさんは、今回の録音および音の制作でスーパーマン的に活躍したエンジニアである。彼はもとは某公共放送(日本にはひとつしかないからわかるね)の録音技術者だったが、現在は独立してフリーの録音エンジニアとして活動している。クラッシック、ジャズ、ポップスなんでもこいのすばらしい耳のもちぬしだ。もちろん、楽譜も読みこなせなくてはこの仕事はできぬ。
トミさんは牟岐先生のご指名でエンジニアとして、比較的はやい時期から制作に参加してくれた。ミキサーとも呼ばれるエンジニアは、スタジオづきの人にたのむ場合もあるが,たいていは作曲家が自分のお気に入りのエンジニアをもっている。文学でも作家だけでは本や雑誌はできない。原稿を整理する編集者やレイアウターが必要なように,音楽にもエンジニアがいてはじめてまとまった音になる。となれば、自分の作品や注文を確実に理解できる人に録音をたのみたくなるのは当然。
エンジニアはスタジオ入りするのはいつも一番。マイクをはじめとする機材のセッティング、コンピューターやデータの点検とセットなどやることはやまほどある。もちろん,スタジオづきのアシスタントも一人~二人はつくが、エンジニアは飛行機でいえば機長みたいものなので、すべての箇所を自分の目と耳で点検する。
このセッティングしだいで録音のよしあしは大きく左右されるが、もちろん本番での機械操作も重要だ。そして撤収も彼の仕事。したがって、変えるのは一番さいご。その火の録音が夜10時におわったとすると、エンジニアがスタジオをでるのは、はやくて午前零時。しかもトミさんの場合は念入りにやるので、とても時間がかかる。ある晩も夜9時に本番がおわつてプレイヤーがかえり、次回のうちあわせもおわって牟岐先生も帰り、ぼくと音楽事務所の人とトミさんの3人になつた。ぼくは、しばらく事務所の人とはなしていたが、トミさんに「しばらくかかるからお先にひきあげてください」と声をかけられた。じゃあ、いつものことでわるいけれど、あいさつしてひきあげようかと声のしたスタジオをのぞくと、トミさんがまだ一人でもくもくと機材の撤収している。あれっ、機材のかたづけはアシスタントの子もいっしょにするはずなのにと思っていると、トミさんは「いやあ、これはマイ・マイクなので、かれらにはさせられないんですよ」
おそるべし、トミさんは万が一にそなえて自分がもっているマイクも用意していたのだ。
さて、エンジニアが腕をみせるのは、録音本番もさることながら、本番後のトラックダウン、すなわちミキシングである。これはバラバラにとられた楽器や歌のバランスをとる作業であり、これこそがエンジニアのうでのみせどころなのだ。スピーカーからきこえてくる音はちょうどまんなかあたりに音像、すなわち音の絵を描きだす。エンジニアは、その音像の色合い、バランスをきめるアーティストだといえる。ピアノは左手前から、金管はまんなか奥とか、それぞれの楽器の位置(楽器が動くこともある)、そして音のつや、残響、歯切れなども調整する。また、歌もいわゆるカラオケのエコーによくある風呂場のような残響ではなく、緻密で高度な音の処理をする。
エンジニアは、これらの作業を自分の耳と感性と人生を総道員して行なうのだ。しかも、そこに作曲家の注文がこまかくはいる。したがって、1曲のトラックダウンで数時間におよぶことはざらである。今回のラボの曲は32曲あるが、一日ではとても無理なので四日にわけてトラックダウンが行なわれた。いずれも10時からスタートして(音がかたになるのははやくて午後1時)
おわりはほとんど朝となった。スタジオの入り口には使用者の名前と開始ならびに終了予定時間が掲示されるが、トラックダウンの場合は21時~30時(午前6時という意味)なとという悲惨な表示もある。
ともあれ、エンジニアはたいへん。牟岐先生によると、芸大にはエンジニアのコースはなかったが最近新設されたそうである。
GTS-1のテキストの奥付の録音技術 富正三という文字をみたら、あたたかて拍手を!
さて、ここまでかいたら時間ぎれ、次回は録音アシスタントと写譜屋さんのはなしなのだ。
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