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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全292件] 261件~270件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
歌のCDのつくり方 外伝1 1 06月03日 (木)
 GTS-1のリリースも目前にせまったス。
先週の日曜,5月30日に作曲家の牟岐礼氏にインタヴューした。
「ラボの世界」の「十代とともに」の企画なり。場所は新宿の
テイクワン・スタジオ。こじんまりとしたいいスタジオだ。
 聴き手は東京支部舟川Pのラボっ子たち。
 内容は6/20にでる「ラボの世界」を読んでいただきたいが、
そこには書ききれなかったことで、印象にのこったことを書いておくのだ。
 その前に、牟岐氏には5/9に東京支部のテーマ活動発表会をみていただいた。かねてから、いちど見てほしいと思っていたのが、
やっと実現したのだ(なにせお忙しいからね)。
 『西遊記』『てぶくろ』(すがたり)『平 知盛』をみていただいたが、
氏の感想をすこしかいておく。
・演出家がいないことにおどろいた。
・小道具、大道具、舞台装置がほとんどなく、衣装もジーンズにTシャツ
 といったシンプルなものであることに感銘をうけた。よぶんな装飾がない 
 ことで、表現がクリアなるし、すがすがしいと思った。
・こういった総合表現によることばへのアプローチはたいへんおもしろい。
・なにより英語と日本語の膨大なセリフがよくはいっていることに感心。
・『平 知盛』は、かつて「子午線の祀り」をみているので、いろいな意味 
 で感銘が深かった。

 ところで、牟岐氏は作曲家になりたてのときは、歌がにがてだったそうだ。歌、すなわち人間の声は楽器にくらべると生なましくてつらいと感じていたそうである。芝居も同様で映画はいいのだが、舞台というのがやはり生なましくて避けていたとのことである。
 だから、作品に人間の声をつかうときもシンセサイザーの「ボイス」のように人工的、機械的な感じに書こうした音をつかっていたそうだ。
 それが、ある声楽家とテレビのドキュメンタリーの仕事をしたときから、人間の声もすばらしい楽器であることにきがついたという。
 「考えてみれば、楽器も楽譜もないときから、人間は歌をうたっていたんですよね。ですから、音楽の究極は歌なんじゃないでしょうか」
 今回の作品はその歌のパワーがみなぎっている。
 とこめで、声楽家の録音ギャラは演奏家よりも高い。そのことについて牟岐先生のひとことが耳にのこりました。
 「ある声楽家は、わたしたちの声は楽器とはちがって神様からかりているんです。ですから、いつかはかえさなきゃいけないんですといっています」
 
歌のCDのつくりかた とうとう10 3 05月28日 (金)
 今回は私的な感想が多いので,あまり役に立つ情報はきっとないことをはじめにおことわり。
 CDが入荷した。といっても,セットアップをしなくてはならない。つまり,CDはディスクごとに100枚とか200枚という単位で密封されて(傷付いたり。よごれたりしないように)コロムビアディジタルメディアの工場から埼玉県比企郡にあるラボの配送所(ソフテック・ワン)に納品される。
 CDのケースはケースで別の専門会社から納品される。そこに1枚ずつ手作業でセットしていくのだ。これは機械化できないししない。
 さらに絵本とパーティ活動の友がとどいて,はじめてラボ・ライブラリーとしてのセットアップが完了する。地味だけどたいせつな仕事。その作業は新版・新刊だけのことじゃない。SK2でもGT2でも注文にあわせてセットアップはなされるのだ。こけらの作業をささえている人びとに感謝。
 CDも絵本も納品されると,たいていはよろこびより安堵感のほうが強い。そしてすぐに,もう次の企画に頭をきりかえる。ひとつの山にのぼったら景色を楽しむのはほどほどにして,次の山をめざすのだ!
 なんていうとかっこいいが,実は納品をまつあいだがいちばんどきどきする。一冊の本,一枚のCDをつくるだけでもけっこうたいへんなのに,
ラボは命知らずにもまとめて勝負する。夜中に,「あっ、45ページのTheはtheになおっているか」とか,ディスク2のトラック6のノイズはとれたか」といった強迫観念におそわれ,汗びっしょりでとびおきることは,しょっちゅうだ。いずれにせよ,こういう仕事は大胆さと細心さと両方もとめられる。
それは,クーラーがききすぎた夏の室内と太陽ぎらぎらの外をでたりはいったりするようなもので,身体にいいことはないなあ。心配になり,夜中にヘッドフォンでききなおしたり,校正ゲラをとりだしたり,まあいいめいわくである。 
 仕事仕事仕事 でも,自分にとってこれよりいい人生はそうたくさんはないと思っていることも事実。
  
歌のCDのつくり方 たぶんその9 05月24日 (月)
 絵本の色再校正がでた。紙をダイヤぺークから、ニューエイジにかえてよかった。ちなみにダイヤペークは『ノアのはこぶね』に使用した紙で,真っ白ではなくすこし黄色味がある。手触りはややザラっとしてる。インクをよく吸うので色は沈むが、アーティスティックな感じはよくでる。
 ニューエイジは身近な例でいうと『トム・ソーヤ』だ。白っぽいが目がちかちかするようなピュアホワイトではない。発色はこちらのほうがよいる心配したアート感も十分ある。素材感や影の感じもグー。やっぱり原画がいいかせなあ。午後7時、大塚のアトリエからかけつた画家の永山さんに見てもらう。せっかくなのでCDをかけながら見てもらう。「装丁デザインがすばらしいですね。わたしとしては、もう申しあげることはございません」
 話かわって、というかやっとひさしぶりに音楽の話。今回は、楽器の演奏と歌を同時に録音すめという、めったに行なわれない方法で録音した。最近の歌の録音は、たいていの場合まず演奏を録音し、それにあわせて歌をふきこむ。ようするにカラオケ+歌というシステムだ。これでと歌はなんどでもやりなおせるし、1ばんはテイク1、2ばんはテイク3といった編集も可能だ。したがつて効率もよく、スタジオ代もプレイヤー代もあまり無駄をださなくすむ。スタジオもスタジオプレイヤーも1時間いくらの世界だからだ(よいスタジオ、腕のよいプレイヤーになるほど単価は高い)。
 しかし、ひと昔前は、歌と演奏は同時録音していた。美空ひばりさんのかは、ほとんど同時録音だったという。スタジオでの一発どりだ。したがって歌をひとことでもまちがえれば、全員で頭からやりなおしだし、楽器もひとりか1音でもとちれば、全員でやりなおし。現在は、演奏者は細かいブースにわけていれられ、弦・金管・木管・打楽器・ピアノなどにわけられる。したがってとちっても、そのブースの人だけがやりなおす。しかも、まちがえたところが、65小節の2拍めの裏だとすると、50小節くらいから前のテイクの音をだし、まちがえてた人は65小節だけふけば、そこだけパンチ・インすることができる。スタジオではプレイヤーたちは、ヘッドフォンで各楽器の音を聴いていて(楽器ごとの音のバランスは自分の好みで変更可能。さらにドンカマとかクリックとよばれるメトロノームの音もきこえている)、指揮者も当然ヘッドフォンをしている。それってけっこう異様な光景・
 ただ、彼らは本当にうまい。ほとんどの場合、初見である。なんの曲かもわからずくばれた楽譜(自分のパートしか書いてない)を見るなり演奏するのだ。この初見がきかない者はプロにはなれぬ。
 ともあれ、現在は技術のおかげで同時録音はしなくてすむ。ただし、人間の声も楽器だと考えると同時録音のほうが、テンポなどのあいかたはぴつたりくるのだ。それに近いかたちを今回はとろうというのが、牟岐先生の提案だった。これにはみんな驚いた。同時録音は先ほど書いたように、効率がわるいのだ。しかし、たしかに効率という天ではたいへんだったが、テンポなどを楽器が一方的にきめるのではなく、歌手と話し合ってテストしながらきめていけるので、はじめは時間がかかってもあとのしあげはずいぶん楽だった。結果的には完全同時録音できた曲は少なく、後で声をいれかえたり、重ねたりなどの作業はしたが、とてもよいしあがりだった。
 この同時録音を完璧にこなした歌手がひとりいる。韓国の歌『3びきのクマ』『わたしはとあわせ』の2曲を歌った李恩敬(イ・ウンジュ)さんである。芸大に留学中のオペラ歌手。いまごろはミラノでオペラにとりくんでいるだろう。彼女が歌い終わったとき、演奏者たちから、自然な拍手がおきた。こんなことはめったにないぜ!
つづく
歌のCDのつくりかた その8 4 05月20日 (木)
 録音の手配もほぼ固まったが,あいかわらず心配の種はあった。
いちばんでっかい種は、宮沢氏の新曲である。とにかくスケジュールは過密、とくにTHE BOOMの15周年アルバムの制作にとりかかっているため、とにかく時間がないとのこと。うーむ。もちろんそれ以外にも宮沢氏のピンの仕事や活動が、詩、音楽と多方面から声をかけられているわけだから……。
 しかし、そろそろめどをたてないと、ラボっ子の選考会の日程がたたない。そこで、事務所およびマネージャー(彼女もとうぜん宮沢氏およそびメンバーに帯同しているから、なかなかつかまらないが)と何度かやりとりし、もういちど曲のコンセプトの再確認した。それに手紙もそえてツアー先の大阪にFAXしたのは3/14のこと。うーん。どうかなあ。
 すると、3/16の夜、マネージャーから「できました! いい曲です」との電話。明日にはデモが東京にとどくとのこと。やったね。
 翌3/17は、芸大で牟岐先生とコーラス指導の木島タロー氏とのうちあわせと歌手のレッスンがある。13時から19時。デモをとりにいくのは、17時30分。目黒だ。どうやってもコンフリクトする。芸大は上野駅まで10分、上野から目黒は30分。ええいままよ。14時50分に、あとはよろしくと芸大をとびだす。コーラス指導の木島さんとはこの日が初対面だったが、その音楽的能力の高さと、指導のたくみさに一発でほれこんだので。「これはまかせたほうがいい」と判断できた。同時にラボっ子の歌の指導もこの人でいこう! ときめてしまった。
 目黒川のほとりの宮沢氏の事務所ついたときは、浅い春の日がもう暮れかかる頃。事務所の奥でデモをきく。詞がかかれた紙をそっとひろげると、「ひとつしかない地球」とある。このままメインタイトルになるぞ!
 デモをききおわり、お礼をいう。相手は社長の佐藤氏。宮沢氏がデビューしたとはきからのプロデューサーだ。
 「スタッフも涙がでるっていってます。宮沢の曲は最近どんどんシンプルになっています」と佐藤氏。
 感動もそこそこみに、編曲やレコーディングの段取り、そして契約の詰めをしなくてはならない。「契約は……」「まあゆっくりでいいですよ。きょうはともあれ曲をおもちかえりください」「宮沢さんに、ほんとうにありがとうこざいましたとお伝えください」「本人もいいものができたとよろこんでいます」
 もうすっかり日はくれた。ラボセンに帰ってもういちどきこう!
 
 





 
歌のCDのつくり方 その7 05月18日 (火)
 絵本の画家きまったころ、ばたばたと録音のスケジュールもきまりだした。メインのスタジオは麻布台にあるサウンドシテイ。ロシア大使館のむかい(となりはアメリカンクラブ!)にあるナベプロのスタジオだ。老舗の名スタジオである。かつてラボ・ライブラリーの語りをよくここで録音したが、小さなひとり用のスタジオがなくなったので、最近はこぶさたであった。ただ、このスタジオは技術者もよく、機械もいつも最新のものが用意されている。今回も、われわれが希望した「プロトゥールス」というMAC用のハードティスク録音のソフトをもっているというのが大きな理由だった。
 かつてラボ・ライブラリーの録音は10インチのオープンリールテープを38というスピード(これはかなり速い速度で、テープの消費量は多くなるが、精密な録音が可能)でまわしていた。したがって英語・日本語のセリフのテープだけでゆうに30本くらいになった(NGもすべてキープしてもちかえる)。この素材からOK選びをするのだが、これだけでたいへんな作業となる。スタジオで一応のOKテイクの目安はつけてはいるが、いざ編集用のスピーカーでじつくり聴くと、微妙なアクセントのずれやニュアンスのちがい、ききもらしていたノイズなどに気づき、結局すべてのテイクからさがすはめにもなる。極端なはなしでは、たとえば「はじめ,太陽はかがやいていました」というセリフの場合「はじめ」はテイク2、太陽以下はテイク5だけど、太陽というひとつのことばはテイク1なとというこまかい技まで登場する。これらの作業は当時はすべて手切りといってテープをはさみできって、またスプライシングとよばれる修理テープでつなぎあわせていた。職人芸。
 したがって英日版などは、英語のあとに1行ずつ日本語わいれていくのだからたいへん。できたテープは、フランケンシュタインもまっさお。
 しかも本来は英語も日本語もそれぞれの間で語っているのをばらばらにして組み立てなしているわれだから、ほんとにたいへん。ここまで300時間くらいはふつう。
 さらにそれぞれのセリフとセリフの間の調整に100時間。また音のレベル調整に50時間。そんなふうにして、やっと尺、すなわち長さがきまる。これがきまらないと音楽はかけない。音楽の長さもきまらないからね。
 主旋律がすぐでて、何秒くらいですこししずかになって、そこからナレイションといったこまかいプランはこの段階にならないとできない。
 まあいい。ともあれいまはハードディスクに録音し、コンピューター上ですべて編集するのでかなり楽だ。といっても、勝負は人間の耳と感性。あくまで手づくりがラボ・ライブラリー。
 今回の歌においては、コンピューター上で歌と数種類の楽器をすべて独立したチャンネルに録音した。しかも、通常ではあまりしないさらに手のかかる方法もつかった。それはなにか、そしてそのたいへんなことをやってのけたエンジニアの富さん(トミさんという男性=本名)の話とは。また次号!
歌のCDのつくりかた その6? 青のはなし 05月17日 (月)
『ひとつしかない地球』の絵本の色校正がきている。美しい。とはいえ,まだまだ課題はある。紙(ダイヤペークというなかなかよい紙)なのだが、思った以上にインクをすっており色がしずむのだ。しずんだことで、よくなる場合もあるが、今回の永山さんの絵ではそうはいかぬ。デザイナーとも相談せねば。紙の選定も絵本にはだいじな要素。発色のみならず、手触り、耐光性なども考慮しなければならない、紙には目があって、縦目と横目でちがう。またいちばん大きい状態のサイズも菊判、四六判などがある。
 日本の印刷は世界一といっていいが、印刷は所詮錯覚だ。画家が必死につくりだした色も、基本的にはB=黒、C=シアン(水色のような青)、M=マゼンダ(ピンクっぽい赤)、Y=黄色の四色で印刷される。この四色の濃淡の組み合わせで理論上はすべての色にちかい色が表現できる。19800円などでうっているカラープリンターなども理屈はおなじ。しかし、蛍光色や微妙な中間色はだすのがとても困難。その色でなく、明度や彩度がどちらかにころぶ。
 ところで。色の名前といえばさまざまだが、いちばん種類の多いのは、まちがいなく青だろう。マリン、ターコイス、アクア、ネイビー、プルシァン、スカイ、ダーク、オーシャン、などなど。これらはすべてブルーがつく。ほかにも、宮沢賢治は青がすきだったということで、司修氏は『雪渡り』を青のカラーインクだけで描かれた。おかけで、じつに透明感ある絵本になった(こういう場合の透明感はTransparencyというのだ)が、われわれはこの青を賢治ブルーとかつてによんだ。また、ご存じのように北野武監督はヨーロッパで熱狂的に指示されているが、その画面は青が主でやはりキタノ・ブルーとよばれている。
 日本語にも青の種類は多い。青 群青 水色。空色などをはじめ、秘色=ひそく、浅黄、あさはなだ、瓶のぞき……。これらは全部青。
 ちなみに瓶のぞきとは、手ぬぐいなんかの色。今度お札になる樋口一葉の『われから』に「瓶のぞきのてぬぐい、それつときって……」というのがあります。
 うーん、いつになつたら歌のはなしになるのだ。 つづく



 
歌のCDのつくりかた その5 4 05月14日 (金)
 歌い手をさがしながら、じつはひそかに頭とおなかを痛めて(いまとなっては冗談とも思えん)いたのは、じゃーん! 絵の描き手である。そうなのよね、ラボ・ライブラリーは音声だけじゃなく、絵もあるのよね。絵もラボ・ライブラリーの場合は冷静に考えるとこれまて、とんでもない人がかいている。絵本作家のトップクラスはほとんど、描いているし、鵜売り出し中の新しい人でもラボ・ライブラリーで仕事をするとなぜか売れっ子になってしまう。この前の日記にも書いたけど、村上康成氏や『わらじをひろったきつね』の鈴木コージ氏なんかそうだ。
 また、絵本作家だけでなく、タブルーを専門にしている画家も多数参加している。高松次郎、野見山暁治、元永定正、中西夏之、赤瀬川原平。うーん、これだけでもおそるべきラインだが、さらにAy-O、李庚、堀越千秋などといった国際的アーティストまでラボ・ライブラリーを描いている。
 『ドン・キホーテ』をAy-Oにたのむときなどは、どきどきものである。氏に絵を依頼するのは、『ドゥリトル』以来20年ぶり。虹の画家といわれ、くすんだ工場だらけのソーホーを世界でも一、二をあらそうエキサイティングなアーティストの街にしたフレクサス(前衛運動の名)の中核を担ったこの偉大な画家とは、この20年間接触していなかった。連絡をとろうにも、どこにいるかはわからない。おもにはニューヨークで仕事をしているから、日本にいるときにしかためのないか。いやあ、そんなことは……。ともあれ、ドン・キホーテのもつエネルギーには。あの色彩ダイナマイトが炸裂したようなAy-O氏の絵が欲しい! 氏ぐらいになると、ギャラの問題ではない。絵一枚が一号(はがきの大きさ)でなんぼというランクの人だから、絵本の絵という点数の多い作品では、一枚いくらという計算では成立しない。なにより、その仕事がおもしろいかどうかだ。
 いろいろしらべると、東京と霞ヶ浦のほとりの玉造というところにアトリエがあるようで、玉造のほうはどうも生まれ故郷らしい。ともあれ、やけくそで玉造のほうに、ラボの仕事をひきうけてくださいというオアファーの手紙をおくった。そうして10日後、それまでとうぜんのようになんの返事もない。そろそろ決着をつけるタイムリミットだ。それでまたまたやけくそで、電話をいれた。すると、夫人がでた。ラボであることをなのると、どうも夫人が先生の仕事のスケジュールは把握しているようだった。これはチャンスとラボからの手紙は先生の目を通ったのかと、おそるおそるきいた。
 すると、なんと、「ラボの仕事はおもしろかったので、ひきうけてもいいようなことをいってますとの返事。このときほど先人たちに感謝したことはない。ああ、この世界にほこる虹のアーティストは20年もまえのラボの絵本の仕事をおぼえていてくれて、しかもいい仕事だったと記憶してくれているのだ。いやあ、ラボ・ライブラリーはけっして絶版をださないが、そのことの意味は大きいなあ。
 あと、詰めである。ちょうど日本にいる時期にできそうだというので、うちあわせに東京の西武、清瀬のお宅にうかがつた。96年の12月の午後だつたと思う。清瀬の駅についたころは、朝からの銀の糸もやんで水のにおいがまぶしかった。基本的にミーハーのわたしは、Ay-Oにあえるというだけで。けっこうまいあがっていた。マイケル・ジョーダンにサインをもらうバスケ少年のようなものだ。
 氏は手づからコーヒーをいれてくれて、「きのう。ドイツから帰ったんだ」とひとこと。「ドイツへはお仕事で」ときくと「うん、バイオリンの天ぷらをあげてきた」とさらり。反応できずにいると、「美術館のホールでぼくが、天ぷらをあげ、その横でフラメンコを踊る人がいるんだ。なかなかおもしろかった」。エッフエル塔をリボンでデコレイトしてしまうようなアート・バフォーマンス,ハプニング・アートでも有名な氏だから、まあおどろくにはあたらない。ひとしきり、アートの話をしたあと『ドン・キホーテ』のスクリプトをわたし企画の説明をする。「子どもたちに、全力の作品を」とだけお願いする。それと、目をぎらりとさせて「ラボの仕事はおもしろかったから、がんばってみよう」。なけるなあ。
 「ぼくは抽象の作品が多いけど、めちゃくちゃと抽象はちがう、ゆるぎない造形のたしかさのうえに奔放さも自由さもあるのだよ」
 冬の短い日は西にかたむき、そろそろおいとまの時間。こんどは玉造のアトリエにおじゃましますとあいさつすると、また目をぎらりとさせて「いつもいちばん新しいものってひとつしかないんだ」
 てなわけで、できあがりは霞ヶ浦をこえて工場のようにでっかいアトリエにうかがった。湖の光をはねかえしてきらきらすると庭に、いくつかの彫刻がある。小さいがインパクトがあるオブジェが気になり、「これは先生の作品ですか」と素朴にきくと、「次郎(高松先生)にもらったんだ。いいよなあ」「ええ」「次郎も死んじゃったなあ」
 そのことばに、時代をささえてきたアーティストの深い孤独が見えた。
 なんか、小節ふうになつたけど、ラボ・ライブラリーの絵は「子どもむけ」なんていう、あさいねらいではけっしてかかれない。第一、なにをもって子どもむけなのか。そうした子どもむけって、たいていおとなが「
きみらはこれでいいの」ってきめつけてるだけだ。おとなは、もっとおいしいものをたべたり、いいことわしたりしてるじゃないかって、子どもはしってるぞ。みなさん、子どものとき、そうおもっていたはず。
 話はようやくもとにもどるが、今回の絵わだれにするかは悩みまくった。とにかく新しい歌には新しい絵。だれもあんまりしらないタッチの絵にしたかった。歌がすきな人。世界の文化につっこめる人。
 絵のイラストって、へたわするとつまんない説明的な絵になってしまうからむずかしい。歌の歌詞をそのまま絵にして「はい、英語のおうた」なんてのは本屋にいっぱいあるけど、ラボがもとめられてる仕事はそうじゃない。
 そんなこんなで、たどりついたのが、今回の永山裕子さん。ヨーロッパで和紙のオブジェで高い評価を得たが二歩ん゛ては知名度はまだそんなに高くない。でも、ある画廊で作品をひとつ見せてもらい、直感的に「この人だ!」と思った。たぶん、いままでのラボ・ライブラリーの描き手のなかでは、いぢはん若い(『てじなしとこねこ』の16歳の天才、クロード岡本がいた!)だろう。主観的たが美形。しかし多忙。スケジュールが心配だが、とにかく会うといってくれた。青山のツインタワーで、まちあわせる。どんと、ラボ・ライブラリーの絵本をつみあげて、「こんな仕事をしてます」。
絵描きならぶっとんでしまうような、描き手と作品である。こんな自由にやらせてくれる出版社はそうはない。彼女にしてみれば、大先生たちの作品。「わたしなんかが、やっていいんですか」そこで殺し文句1「あなただから、お願いするんです」「でも、スケジュールがまにあうでしょうか」すかさずその2「ひまな人にはたのみません。忙しい人だから、世界がもとめている人だからたのむんです」「自由にやつていいということですが」とどめの3゜こりまで、どこにもない歌の本をつくりましょう」
 翌日、メールで「わたしでよよければおひきうけさせてください」
という返事がきた。
 つづく
 
歌のCDのつくのかた その4 05月13日 (木)
 話はもとにもどるのだ。
年が明けて,デニース先生のアドバイスもあり選曲はほぼかたまった。
いよいよ録音! といっても、牟岐先生のアレンジがさきなのだ。
 曲のコンセプトをしつこくうちあわせ。原曲の音があるものは、それも聴いてもらう。アレンジの命は楽器編成すなわちオーケストレイションである。大編成も迫力あるし,たった2つの楽器でもいい味がでる。今回のJOY TO THE WORLDなどはヘンデルもびっくりの弦12人、金管、木管ありの24人のビックバンド。いわゆるカラオケ屋の音とくべると月とスッポン(くらべるほうがまちがい)。カラオケ屋の音はだいたいが「打ち込み」でコンピューターでつくった音。だからマジックかサインペンで書いたイラストのように、トントンとたたくとぱらぱらとはがれてしまううすい音だ。
 一方、おなじクリスマス曲のWinter Wonderlandは、ウッドベースとヴィブラフォン(鉄琴のいいやつ)だけ。ヴィブラフォンは、前にも書いたけど世界的パーカッショニストの高田みどりさん。これがじつにおしゃれだぞ。
 さて、編成は牟岐先生の仕事だが、歌い手をさがさんといかん。32曲もあるのだから、何人も必要だ。さあ、どうする、またはしりまわるのだ。
 子どもたちはデニース先生の生徒さんでいける。ただし、日曜は教会だからだめだし、平日の夜はむり。となると土曜日だけだ。まあいい。あとはおとな。ミキサーをする富さんとも相談し、ちゃんと歌えて味がある人をさがそうということになった。
 さて、つぎに、といっていたら、色校正がバイク便でただいま到着。本日ここまで!
歌のCDのつくり方 その3 2 05月11日 (火)
 さても,宮沢氏が曲を書き下ろしてくれることが決まったのはいいが,話はそうかんたんではない。契約問題があるし,だいいちいつまでに曲があがつてくるかである。マネージャーいわく,「新曲などで、ぽんとできてしまうばあいもありますし,ぎりぎりまでひっぱつて,それこそ4月はじめとか津……」「うーむ」。ただひとつの救いは「宮沢からは,ラボにはたいへんお世話になったのでぜひいい曲を書きたいとことづかっています」というマネージャーのひとこと。
 ところで本編の選曲はかなり進んでいたが,あそび歌やゴスペルなどジャンルで考えるとまだ弱い気がしていた。そこで伝家の宝刀,Christian Academy In Japan(CAJ)のDenise Owen先生に連絡した。Owen先生との出会いは,もう14年もまえだ。GT7μつくるときのことだ。
 例によって話は横道にそれるが,このGT7μを制作するときが,ちゆようどラボがアナログのラボ・テープからCDへとメディア変更を決行したときだ。したがってこの作品と『なよたけのかぐやひめ』がラボでは最初のディジタルステレオ録音だった。GT7μはそれ以前にたいへん愛されていたGT7を
もとにリニューアルしたものだ。もっともそのGT7もさらに太古の昔,Now It's Play Time というトライアル作品をベースにつくられたものだ。GT7はたいへん人気があり,入会時にはかならい゛そろえる1本だった。しかし,刊行されてすでに15年近くがたち,あまりにもたくさん複製したために,音源となる素材の経年劣化が進んでいた。また楽曲としてとらえた場合,どうしても音が貧弱で,さらに英語をおぼえるための歌という教科的においもかなりのこっていた。はたまた,制作当時の70年代では問題にあまりならなかったPC(Politically correct)の点で,このままラボ活動の素材として使用し続けることは,民族の多様性と個々の文化に尊敬をもつラボの基盤にに関わりかねない曲も収録されていた。具体的にあげれば,Ten Little Indian Boysなどである(この清くはアメリカではほとんど封印されている。Ten Little Pumpukinsなどといいかえて歌っていることもあるそうな)。そんなわけで,当時のライブラリー委員会(テープ委員会から名称が変わった)での意見交換を経て,前期良く新しい編曲でGT7をリニューアル制作することになった。そのなかでは前述のような社会的問題のある曲,あるいは当時,パーティであまりとりあげられていない曲をはずし,かわりに何曲か新曲をいれるというものだった。
 編曲は京都芸術大学の広瀬量平氏。間宮芳生,一柳慧(いちやなぎ・とし),武満徹,そして広瀬量平が現代日本を代表する音楽家であることはまちがいない。この方がたは,この時代の音楽は自分たちに責任があるという歴史的自覚をもたれているだろう。ラボでは,武満氏以外の先生にはすべてお世話になっている。武満先生のご存命中にお仕事をお願いできなかったのはほんとうに残念。
 ともあれ西の大御所,広瀬先生に伝承歌の編曲をしろというのもおそろしい依頼であるなあ。絵は当時売り出し中の村上康成氏。長谷川集平氏とのコンビでつくった絵本「かいじゅうのうろこ」を見て一発できめた。国立の家におしかけて(一升瓶がならんでた)くどいたのもなつかしい。とにかく絵の枚数が多いからたいへんで3回にわけて絵をもらったが,さいごにもらうとき喫茶店のなかで氏がでっかい声で「おわったあ」とさけび,これから編集にかかるデザイナーとぼくががっくしきているのをウェイトレスがクスクス笑ってみていた。その後,氏にはラボランドでワークショップをやってもらったこともある。いまや売れっ子。
 GT7μ(ミューはギリシア神話の音楽の女神でmusicの語源ともなったムーサの頭文字からとった)の制作2は,2年かけてよいという指示がラボからでた。こればじっくり選曲からできる。でも,やはり英語圏に生まれた人で子どもの歌に興味をもっている音楽の専門家に手伝ってほしいという思いが強くあった。でも,なかなかいい人はいない。そんなことをいもだれかにたのんでいたが,ラボ・ライブラリーの英語をお願いすることが多かったサラ・アン・ニシエさん(この人の夫は西江雅之というえらーい学者です)にその話をしたら,息子さんが通っているCAJという小さなインターナショナル・スクールにオーウェン先生というなかなよい音楽の先生がいるという。そこで紹介をもらい先生にいろいろと相談をしたというわけだ。
 先生は敬虔なクリスチャンであり,オーバーリン大学(音楽で有名なアメリカの大学。桜美林の名前のもと)をでて,音楽教育ひとすじ。でも,子どもの歌やおどりが大好きでラボの企画わはなすと大乗り気。さらに自分の生徒たちをよい敬虔になるから歌の録音に参加させたいという。もちろん練習も先生がめんどうみるという。しかも子どたちの教育としてやるのだから,
子どもたちには交通費と本代ていどの奨学金でよいという。
 CAJは東久留米というところにあるが(東京だよ),じつによく通った。先生は,曲の選択にまようと子どもたちわよんで,実際に歌つたり踊ったりさせて,みせてくれた。また,Hi How are youは先生の作品なのだが,
こころよく収録を許可してくれた。
 先生には2年にわたる録音にほんとうによくつきあっていただいた。そしてだいぶかたちができてきたころ,ぜひオリジナルソングを入れようと今回のような話になった。曲のタイトルはこれしかないと思っていた。We Are Singbirds 作曲・編曲はもちろん広瀬先生。ぼくがあつためていたコンセプトをオーウェン先生にはなし,先生から英語の詞があがった。広瀬先生が曲をかき,それに例によって日本語をつけた。すこし長いのだけれど,いまでは発表会の客だしの曲になったかな。
 うーん,今回もまた昔話でおわつたか! つづきはまた次号。
ところでGT7μのトラックダウンをしているとき,となりのスタジオで当時,ブルーハーツがアルバムづくりわしていて,おたがいに遊びにいったのを思い出す。あのパンクの甲本ヒロト(彼の詞はいいよ)がずいぶんおもしろがってソングハードをきいてくれたのがなつかしい。
歌のCDのつくの方 その2 2 05月07日 (金)
 さて,いよいよ品会のGTS1の話。
 2003年は選曲で暮れた。200以上の候補曲から,じりじりとしぼっていったが(こういう作業がいちばん身体にわるい),年があけても全曲はきまっていなかった。そのくせ目いっぱい領域を広げていて,ニュージーランドのハカもいれたい,アメリカ先住民の歌もいれたいと,どびまわっていた(結局これらは,権利関係や時間の問題で次回ということになった)。
 とにかく「ラボでつかえる」だけでなく,「ミュージックCD」として成立するものをという目標がまずあった。それから,できるかぎりアコースティックな音でつくりたいというのもあった。いま,テレビのCMやカラオケ屋の音は.ほとんどが「打ち込み」よばれる音のサンプルをコンピューターでくみあわせたものだ。それらはどうしても生の楽器のもつ,奥行きやひろがりを再現することはできないので,うすっぺらで同じような音になってしまう。絵でいえば塗り絵みたいものなのだ。
 さらにいえば,CDはだれでも手軽に高音質で再生音を聴けるが,きめられた範囲措外の音はカットされるために,ライブ感はがまんせねばならない。たとえば,室内楽などをサロンのようなところで聴いたとしよう,そうするとたとえば弦楽器の弓が風をきる音とか指のすべる音とか,演奏者がつくりだす空気のうごきとかはCDにはいらない(アナログのレコードは雑音もあるけどそういったニュアンスもはいってた)。だから、へたでもライブわきくというのはたいせつ。
 でもだれもが音楽会にきがるにいけるわけでもないから,やはりCDということになる。だらこそ電気楽器じゃなす生の楽器の音にこだわりたかったのだ。牟岐先生もそれにはだいさんせいだった。
 さて,選曲はすすんでいたが,でっかい問題があった。宮沢和史氏のオリジナル曲だ。以前からラボに曲をかいてもらいたね,という話はなんどかあったが,ちやんとオファーするには予算も必要だし,なかなかタイミングがなかった。でも,書いてもらえる予感はあった。というのは,8年まえにさかのぼるけど,例の「島唄」が大ヒットしたあとで,「ラボの世界」でインタヴューができることになった。午後4時の約束で10分ほど前にいくと,なにやら外国のプレスの取材がおしているという。するとマネージャーが「今日は取材の日で,ラボさんはさいごにしていますから,時間を気にせずゆっくりやってください」とにっこり。そうしてあった宮沢氏はミュージシャンにありがちなななめにかまえたところも,気取ったところもなく,むしろ画家か詩人のような静けさのある人だった。宮沢氏は高1までラボをつづけキャンプにもかなりいつたとのこと。「あの最後の夜のふしぎな感じはなんなんでしょうね」というひとことがいまも耳にのこっている。すきなラボ・ライブラリーは『幸福な王子』だったそうだ。「ちょっとかわってますよね」とは本人の弁。
 てなわけで,今回こそチャンス。しかし予算,時間的に可能かどうか。インタヴューから8年もたってるし。まあいいや。いけーっ。ということで事務所に電話。「宮沢和史氏に作詞・作曲の依頼をしたいのである」とダイレクトオファー。マネージャーの長岡さんがこの日はぐうぜんいて,「スケジュール上は2004年の冬までびっしりですが……」としう。うーむ,門前払いかというと「でもとりあえず企画書ほおくってください」とのこと。
 それでねねじりはちまき,牟岐先生をくどいたとの同じ内容の企画書をもとに,とにかく「こんな時代だから,子どもたちに希望の歌を」という思いだけを書きまくり,ツアー先の九州へFAX。しっかし7日まつたが返事なし,せかすのもよくないが,こちらにもつごうがある。そこで事務所に電話して,そろそろ返事をというと,とりあえずマネージャーに連絡をとってみるというたよりない返事。そしてその15分後,「長岡です。宮沢と相談しましたが,本人としてはぜひ書かせていただきたいということです」
やったぜ!
 つづく


 
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