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ゴールデンウィーク。新宿は静かでけっこう。仕事するのにはよい環境。
さてさて,新版「ひとつしかない地球」は前回も書いたとおり、4月25日に音が完パケ(完全パッケージ)になり,いよいよ絵本と「パーティ活動の友」の編集おいこみでありんす。
こんな日記を書いてる余裕ははっきりいってないのだけれど、あんまり煮詰まって仕事して、また胃壁がけずられてもいやなので、ストレス解消がわりにちらちらと書いてみるのだ。
というわけで、今回は歌の収録をふりかえってみることにした。
この企画は去年の秋にスタートしたのだけれど、選曲にはかなり時間をかけた。編曲は牟岐氏ということは,けっこうはやくにきめていた。ふりかえれば『十五少年漂流記』以降,ラボ・ライブラリーのいわば「かくし共通テーマ」は,たくまずして未来への希望だったと思う。『十五少年漂流記』のテーマ曲,「海へ」の歌詞ができあがったのはまさにSeptember 11だった。ついでに書いてしまうけれど,「サザンクロス・ララパイ」はけっこうはやくできていたのだけれど,このテーマ曲はけつこうぎりぎりまであたためようと思っていた。物語のかたちができるまでは考えないうにしていたのだ。テキストは難航し,8月のはじめまで悶絶していた。とくにエピソード4をどこでどういうふうに終わらせるかで2週間かかり,ラストのボートが3枚の帆をあげて島をはなれ,やがてチェアマン島が小さくなり水平線のむこうに消えて,あとにのこつた金色の海を少年たちがだまってみているというくだりは,日本語も英語も10回書き換えた(日本語をかえたから英語もかえざるを得ない、つきあわされた鈴木小百合氏はいいめいわく)。
ナレイションは初挑戦の中村俊介という大抜てきだったが,これが大正解だった(変な色がついていないから,じつにすなおで紙ねんどのようにやわらかい)。これがちょうどお盆の8月15日だった。
それで,いよいよテーマ曲だということで,コンセプトをかためはじめた。そんな作業をするより先に,日本語で詞を書いてしまえば楽なのだけれど,ラボ・ライブラリーは英語がだいじ。英語の歌として自然に歌えなければなりませぬ。そこで,コンセプトを詞にならないように(そのリ図家にひっぱられてしまうから)箇条書きにして,鈴木小百合氏にメールした。その箇条書きは以下のような感じ(初公開だぜ)!
十五少年のメインテーマ
・海=新しい世界へのあこがれ 出会い 冒険 危険だけれどひきつけてやま
ないもの
・海=あらあらしさ やすらぎ 平和
・少年のたましい 困難をこえて成長
なんてことをずらずらとおくった。すると鈴木氏からたぶん2日ぐらいで英語の詞がやってきた。タイトルはAcross the Sea いいじゃないか。
このとき日本語タイトルは「海へ」しかないと決めた。そしてこの英語の詞を作曲の坂田氏におくった。坂田氏から「いい曲ににりそうと」との返事。
それから何日かの間,この詞のことは忘れておいた。曲ができなければかってに日本語の詞をイメージしてもすべってしまうからだ。
そして,9月11日,坂田氏から譜面がとどいた。頭は例の事件で混乱している。しかし曲は,まったくイメージどおりのメロディだった。日本語の詞はそれから1時間でできた。
話をもどそう。そして2003年期春,ギルカメシュの音楽録音の初日がアメリカのイラク空爆開始の日だった。間宮氏は「朝,指揮棒が見つからなくてね。うろたえちゃった」と冗談をいいながら,スタジオに入ってこられた。でも、目はちっとも笑っていなかった。場所は赤坂のコロムビア第1スタジオ。美空ひばりの「河の流れのように」などを収録した名スタジオだ(今度移転しちゃうけど)。休憩のとき,間宮氏は「ぼくはおこっています。そしてあきれています」とひとこと。氏の怒りはたんにアメリカに対してのことだけではない,有史以来,血と汗のめぐりつづける地球の岸辺にいまもたちつかさざるを得ない芸術家の悲しみと怒り,そしてそうした状況をいっこうに改善できない人類への深い慟哭。
その日の夜,マドリッドからFAXがとどいた。『ノアのはこぶね』の絵を担当する画家の堀越千秋さんからである。絵のとりあつかいとデザインについての細かい指示のあとのメモ。「ぼくはおこっています。パルバース兄貴もおこつているでしょう。でも、こんなときだから,子どもたちには明るい希望をしめさねばいけません」――これがこたえだった。『ノアのはこぶね』も『バベルの塔』も、「ギルガメシュ」も絶望の物語ではない,希望の物語なのだ。『ノアのはこぶね』のエンディングの歌はまさにそのひとつのあかしとなった。
そして,今新たに,歌という人間の最も明るくて力強い表現方法で子どもたちに激励していく作業に取り組むとき,『ノアのはこぶね』の続きとして牟岐氏にぜひ編曲をたのみたかったのだ。
つづく。
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去る25日の日曜日、新版「ひとつしかない地球」の音がめでたく
完パケになりました。といってもなんのこっちやですが、完パケとは
完全パッケージの略で、もう手をふれない、ここからCDのマスターをつくるという、スタジオレベルの完成版というこってす。
さいわいにも22日にI was released from Okubo hospital.なので
この25日の作業には立ち会うことができました。
さあ、これからは絵本と「パーティ活動の友」づくりっス!
歌のCDというのは、ある意味で物語よりたいへんです。SBはじつは2年かけてつくりましたから、曲数は半分でも制作期間は4分の1でしたからね。
とはいえ、制作期間が長けりゃいいものができるかといえば、そうとはかぎらないし、予算が無限ならすぐれたものができるというのもかならずしも真実ではないっス。時間と予算のなかで、どれだけよいものわつくるかが
プロっス。
まあ、しかし、そのなかば一時的とはいえ戦線離脱したのはくやしいかぎり。でも、じつに多くの人のおかけで制作は遅滞なくすすんだのにはほっとしています。しかも、今回は新しい出会いが、歌い手、画家、合唱コーディネイター、技術者、そして宮沢和史氏の事務所の責任者など、じつにじつに広範囲にあり、いつもながら、というよりいつも以上に、「子どもたちにむけて、最高のものをつくろう!」というきもちで関係者が一致できたと思います。
いま世界をみまわせば、『ノアのはこぶね』のときに感じたわたしたちの頭上にせまる黒雲は、よりそのどす黒さと恐ろしさをましています。
『ノアのはこぶね』のテーマは未来への希望であったわけですが、この歌のCDのテーマも「未来への希望」にほかなりません。子どもたちの、希望すなわち未来を信じる力を激励することこそ、ラボにできることですよね。
そのコンセプトをほんとうに関わった全員がうけとめて、その思いがぎっしりつまったCDになりました。世界は暗いけれど、だからこそ明るく歌おうじゃないですか。
録音のおもしろい話は、またぼちぼち書いていきますので、よろしく。
その1回め。今回ものべ260人くらいの演奏家が参加していますが、ちょっとしたネタ。パーカッションは、世界的打楽器奏者の高田みどりさん。すごいですねえ。どの曲でなにを演奏しているかは後日。
また、バイオリンは随所にてできますが、ソロリストとして篠崎正嗣が参加。この方は「西遊記」のテーマ曲でもかっこいい間奏を弾いています。
とりあえず。きょうはここまで。
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I'm back!
4月10日に不覚にも胃潰瘍と左膝の感染症で緊急入院してしまいました。
宮沢和史氏の歌のオーディションの日の夜でした。
幸いにも昨日4月24日に退院することができました。
ご心配をおかけしました。
本日から出社しています。
これからは新版の録音の詰めと本づくり。
また、おもしろい話があればのせていきます。
みなさま、お気遣い
ありがとうございました。
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GT10『三本柱』はラボ・パーティ創立10周年を記念して制作された
ラボ・ライブラリー。狂言二番を英語と日本語で収録という大胆不敵な
企画。三本柱の大果報の者を演じるは、重要無形文化財保持者(人間国宝)で希代の名人のほまれ高い野村万蔵。三人の冠者は子息たちが演じている。そのひとりはいうまでもなく、野村万作氏だ。
なんで狂言か。
ラボ教育活動の中心であるテーマ活動は、外国語と日本語で語られる物語へのアプローチを通じて、言語体験=実験をくりかえし、あたらしいことば、広い世界へ近づいていく教育プログラム。したがってその素材となるラボ・ライブラリーはいきおい、題材を欧米の物語作品にもとめることが多い。そんなわけで、10周年のような節目には「ことばの宇宙船」は足元である日本の物語にたちかえってみようということがこのときに提案されたのだ。もちろん、ほかにも日本人は声がどんどん小さくなっているからとか表現教育上のテーマもあるのだが、日本をきちんと語らずしてなにが外国か。自国の文化にほこりと尊敬をもてないやつが、他国の文化を尊敬できるはずがなかろうといったことが狂言をとりあげた主たるねらいだ。
そんなこんなで、ラボ15周年では『国生み』、20周年では『平友盛』、25周年で『なよたけのかぐやひめ』、30周年で『一寸法師』というように日本の物語をリリースしてきた。
ところで、さきほど実験と書いたが、ラボはラボラトリー、まさに実験室だ。子ともから「ラボで英語をべんきょうしてるの」といわれると、こうこたえることにしている。「理科の教室をしってるかいるあそこはふつうの教室とどうちがうかな」「大きい机になんにんかまとまってすわる」「そうだ、その机の上でいろいろ実験をしたり観察したりする。先生の話もきくことがあるが、たいせつなのは実験をよくみたり、友だちと意見をいいあったりすることだ。ラボもことばと物語の実験室なのだ。だから実験室という意味の英語のラボラトリーをとってラボなのだ」「ふーん」
「実験だから、失敗することもある。でも、その失敗からとんでもなくすてきな発明がされたことはなんどもある。失敗すると、くやしいからいろいろ考えたり、べつのやり方を考える。それで人間は進歩するのだ」「ふーん」そう、言語実験をくりかえしながら、物語そしてことばにアプローチする。そのアプローチの方法が表現的、ときとして演劇的であることが多い。だから、かっこいいテーマ活動をすることはたいしたことではないし、ラボはテーマ活動がうまい子を育てているわけではない。たとえばある中学生がジユリエットをやるとしよう。演劇、しかも商業演劇であれば、たとえば自女優のだれそれが演じるジュリエットがどうなのか、はたいへん大きい問題だ。14歳という設定なののだから、としはもいかない恋愛(この14歳にしたという設定はシェイキスピアの天才さを物語る。しかも四日のできごと。この物語の主題は表面的には家どうしの確執にも負けぬ若い恋だが、じつはシェイクスピアが描きたかったのは、恋愛のプロトタイプ、原型だ)
にはまったジュリエットをどう表現するのかに興味がある。
でも、ラボっ子のAさん(中2)が表現するジュリエットがどうなのかということは、無視していいことではないが、ほんとうにたいせつなことではない。それよりも重要なのはジュリエトに挑戦するAさんそのものである。どのくらいラボ・ライブラリーをきいたのか、この物語にんにほインスパイアされたのか、ジュリエットからなにを学んだのか、そのAさんに興味がある。なぜなら教育プログラムだから。なのだ!!!ゴーッ(火を吐く音)
やや、というかあまりに話題がそれた。じつは書きたかったのは『三本柱』に収録されている『山山もっこり』と『うみがたずねてきた』のふたつの物語。これはまず『山山もっこり』ありき。この作品は当時小学校2年生だった山梨のラボっ子、ふかさわ・ゆきちゃんの作品。これに対して山をうけるかたちでらくだ・こぶにが書き下ろした海のおはなし。
このゆきちゃんの作品は、ほとんど神がやどったとしか思えない。「あっというまによるになりました」なんていうフレーズは計算では書けない。
この作品についてのこまかいことは次回にゆずり、佐藤允彦氏の音楽をじつくりきいてほしい。佐藤氏は慶応大学出身。しかも首席! ドレミの音階をすべて周波数でおぼえているというおそるべき人。もともとは、子どもときからクラッシクピアノをやっていた方。高校生のころ、2回の部屋でピアノを弾いていたら、電信柱修理のおじさんが窓ごしに「にいちゃん、ジャスやると金になるよ」とぽつり。そうかなあと思った氏はジャズピアノをはじめ、大学卒業時に発表した「パラジウム」と「デフォーメイション」という2枚のファーストアルバムがいきなり日本ジャズディスク大賞をとってしまった。
そのへんのことはどうでもよいが、とりあえず氏の才気あふれる、でも抑制のきいた音楽をどうぞ。
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『こつばめチュチュ』
なせ、いまごろ急に「チュチュ」かといえば、
この物語はラボ・ライブラリーが「こどもの友シリーズ」
からはなれてオリジナル・ストーリィで制作した最初の物語
だから。そして、この作品の音楽と絵がラボ・ライブラリー
の特長のたいせつな部分を語っているからなのだ。
ラボ・ライブラリーにおけることばは、あらたまっていうと
そこに無いものを描くことができる。だから時間的でも空間的でもない。
それに対して絵は空間的で、音楽は時間的だ。
だからラボ・ライブラリーはこの時間・空間・非時間非空間という
XYZの座標で物語を立体的に描こうという挑戦だといえる。
しかし、こんなふうに書いていくと、やたら難しくなって
だれも読む気がしなくなるので、ぐっと平らに書く。
「チュチュ」はシンプルな話だか、一見シンプルなものは
なかに入り込んでいるコンテクストがけっこうおいしい(カニミソのように)ので、そこをテーマ活動に取り組む子どもたちやテューターがほじりくりだしてあじあわないとおもしろくない。『かいじゅうたちのいるところ』なんぞは、その好例。
もちろん、それらのコンテクストはライブラリーを一度さらっと聴いたり、わーっとみんなで一回動いたくらいでは見えてこない。何度も聴き、子どもになげかけ、ともに考えないと出てこないっス。
たとえば、朝「おはようチュチュくん」とマスケル先生が声をかけるけど、これはどこでいっていることかしら。いろいろな解釈があるがラボ・ライブラリーの仕立てとしては通学の途中だ。しかも先生のほうが先にいうのだから、先生が後からきてチュチュをおいこしながら声をかけている。しかも、その前に「今朝はねぼうしたな」とあるので先生にもそのことがわかる。――たったこれだけの場面でもこれくらいのコンテクストが背後にある。そのあたりが話し合いのなかで見えてくると、ただわーっと飛んでいるだけの通学の場面がすいぶんと意味をもった表現になる。
男子が電線をゆさぶるのは授業前。みんなそろっているのに先生がこないから、おちつかない男子は電線をゆする。女子は「やめて、先生にいうわよ」とかいってざわめいている。そこへマスケル先生が来て、男子はすまし顔。それで「ピイチュさん おしゃへりをやめて」と女子がしかられてしまい。男子は内心ほくそえむ。そうした状況が描かれる。
「あれはシドニーまでいくんですよ」この先生のことばは「もうすぐきみたちもシドニーまで飛ぶ。鳥は飛行機ほどはやくないが、鳥のなかではいちばんはやい。だから、虫はなんでも食べてりっぱな身体をつくるのだ」といったことを教えたいのだ。そんなこの日の単元にちょうどよいタイミングで飛行機が飛んできた。だからバラバラに見える続く質問も、なっとくがいく。マスケル先生はちゃんとこの日の目標をもって授業にでているのだ。
したがって、次にその練習として運動会をする。
さて『こつばめチュチュ』の物語は音楽で始まる。この音楽はなんど聴いても「つばめが飛んでいる」音楽ではない! でも、みんなつばめの話だから、なぜか飛ぼうとする。2,3回やるとなんだか飛びにくいのがわかる。じゃあ、なんの音楽だ――それを書くとなんかたねあかしのようでナニだが、どうしてもわからない場合は私書箱へ。ナレを素朴にきけばなるほどとわかるはず。ともあれ、こんなことを子どもたちと話し合ってもおもしろい。
先に書いたけど音楽は時間的だ。時間は流れていく系列だから、音楽にある支配性をもたせないと音楽がラボ・ライブラリーにある積極的意味はない。だから悲しい話だから悲しい音楽になるとはかぎらない。音楽がいつも動きをたすけくれるわけではないのだ。ときには、ことばが描く世界に重大なチェックをしている。その意図をくむことはたいせつ。ラボ・ライブラリーの音楽はBGMではない。むしろときには前のほうにあって、自分たちをひっぱっているということだろうか。
また、音楽とことばとの関係はじっとラボ・ライブラリーを聴くときと、身体をつかって動くときでは180度ちがうことがある。
またまた難しくなったので、物語のおわりのところのこと。
チュチュが飛ぶ練習をしていると「来年もまた帰ってきますかね」――このことばは必死になってリハビリしているチュチュがまだまだ心配でその身を案じているのだ。「もちろんだとも」はさらなる激励。したがってここでのチュチュはすいすいとは飛んでいない。必死でふらふら。でもなにくそとがんばっている。つまり、ここも一見したことばの内容と奥深いコンテクストにはずれがある。そこまでいかないとこの物語はつまらない。
さて吉原英雄氏の絵は2つの簡単なパターンしかない。じつはチュチュを没個性にすることで物語の個性を描きたかったのだという。というのは、チユチュは痛い注射もがまんするけっこうえらい子のようだが、じつはすこしもすぐれたつばめではない。ふつうのつばめが事件にぶつかり、仲間と離別し少し成長して帰ってくる。挫折したり病んだりして少しずつ成長する。この「少しずつの成長」がこの物語の主題。だからこんなこころみはどうだろう。さいしょにだれがチュチュかきめない。運動会でマストにぶつかる直前でだれかがきめる(テューターでもいいかな)。少なくとも見ている人にあれがチュチュだとわからないといううこと、ぶつかってはじめてチュチュがわかるなんてはどうだろう。なせがというと、「きみときみがチュチュね」といってはじめると、運動会の場面でみんながチユチュを先頭にしようと全力でとばないのだ。ここでは子どものもつ全力さがたいせつなのですから。
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物語の長さ
もう、ほとんどおすすめ音楽CDというタイトルとはかけはなれた
内容になってはいるが、意地でタイトルは維持!
400字詰め原稿用紙1枚をきちんとナレイションすると約1分かかります。
早口のひとに一気読みしてもらうと45秒くらいですが、これだと見事な
「棒読み」になります。ラボ・ライブラリーの場合は物語の山や谷を表現したいわけですから、1行はおろか1字1句たりとも棒ではこまるわけです。
そこで、この1分というのはゆずれないわけです。
ラボ・ライブラリーはひとのおはなしをだいたい15分以内、すなわち英語・日本語+音楽で30分でつくるようにしています。この15分はかつて大活躍したラボ機(もはや死語になりつつあるかな)で再生したラボ・テープの1チャンネル分の長さです。いまはCDですから70分は入るので、ずいぶんと楽になりましたが、この15分の壁はたいへんなことなのです。ちなみにCDの収録限界74分というのは世界基準ですが、ソニーなどが中心となってきめられたものです。その根拠はベートーベンの交響曲が1番から9番までどれでも1枚に入るということだそうです。
じゃあラボ・ライブラリーの15分の根拠はというと、『さんびきのやぎのがらがらどん』などの名訳で知られる故瀬田貞二先生によると、子どもにとっての物語の長さはとても重要で、長過ぎればあきてしまうし、短すぎても満足しない、そうです。その点、自転車上の偉大なメディアである紙芝居の名人などは、そのあたりの呼吸をじつによく理解していたと思います。
また、石井桃子先生は子どもたちに人気のある物語の読み聴かせの平均時間は、およそ12~13分という研究結果をのこされています。
かくしてラボ・ライブラリーは15分を単位につくられるのですが、ラボ・ライブラリーは音楽がはいりますから、その分の余裕をみなくてはいけのせん。そこで400字詰め原稿用紙で13枚半くらいで書かねばならないというわけ。つまり30分のおはなしですと27枚ということです。
これは字数になおすと約10000字。これで、ラボっ子がどきどきして、美しいことばにみちていて、山あり谷あり、起承転結、序破急がある物語をさくるというのが簡単だという方は、よほど祝福された才能の持ち主でしょう。
とりわけ難かしいのは冒頭。前にも書いたけど、物語の頭はゆっくりとでも、美しく、そしてすばやく子どもたちをひきずりこみたいわけです。ていねいにやり過ぎると、あっという間に5枚くらい浪費してしまいます。もちろん、冒頭のみならず途中もラストもたいへんではあります。
さて、ラボ・ライブラリーは英・日ですから、日本語で物語をつくれば英語はあとから、そして英語がオリジナルなら日本語をあとからつくるわけです。ここでも困ったことがあります。それは訳した言語のほうがどうしても長くなるということです。これのバランスをとるのがもうたいへん。
でも、そのおかげでラボ・ライブラリーは濃厚なものになっているわけ。一言語だけできけばじつさにすっきり、おかゆのような感じですが二言語できくともうすこし濃い、オニオングラタンスープのようなものになっているはずです。それは新しい風味への挑戦、子どもにとっては感性のトレーニング。だからラボ・ライブラリーは聴くだけでもすげえ意味があるっス。
そこでは。やっぱり物語の中身がだいじ。ただ、おぼえやすいからとか、テーマ活動がしやすいというのは、だめなんですなあ。ラボ・ライブラリーとそれに続くテーマ活動は、これまで書いてきたようなさまざまな条件と現在ラボ・パーティで検証中の仮説によって成り立っているわけです。
いつも道の部分があるからだからおもしろい。そして、未知な部分があつてもこれだけはいつもいえるのは、テーマ活動という、異なる年齢による子どもたちが、物語を通して世界を知る、こんなにも全人的な活動はほかにないということですなあ。
次は、台詞の録音のことを書こうかな。
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抽象画のはなし
音楽CDといいつつ、今日は絵のこと。ラボ・ライブラリーにはてわゆる抽象画による絵本がいくつかあります。『ピーター・パン』『国生み』は高松次郎氏、『ながぐつをはいたねこ』『グリーシュ』は中西夏之、『ひとうちななつ』は野見山暁治、通常の美術フアンなら「なんで絵本を!」とぶったまげるメンバーです。ほかにも『エメリヤン』『十五少年』のかみや・しん、『ノアのはこぶね』の堀越千秋、宮沢賢治作品の司修、『ドゥリトル先生』『ドン・キホーテ』の靉嘔(日本人です)なとなど……。
どれもすばらしいのですが、抽象ということばはどうも日本ではうけが悪く。バブル時代にいろんな企業がゴッホやセザンヌなんかを円で買いあさりましたが、抽象画を落札したという話はほとんどありませんでした。それからよく「きみの話は抽象的だよ」とかいったり、抽象がそんなにわるいのかあ。と、叫びたい気分。たしかに、見てよくわからないものは安心できない
のかも……。でも、見てわかってしまうのもつまりません。じつは抽象を具象に、具象を抽象にかえる力がほんとの頭のよさだと思うのですが。
だけどだけど、
子どもたちは「ほんとに、かっこいいもの」「ほんとに美しいもの」は鋭敏にかぎとりますから、彼らに支持されてラボ・ライブラリーは今日も元気。
それでも、どうしてこんなぐちゃぐちやな絵なの。という素朴な質問がくることもあります。その場合、ぼくはこうこたえることが多いッス。
「心のかたちって、よくわからないんじゃないか。ほら、きみらも夢をみるだろう。それはきっと丸とか四角とかはっきりしたものではなすいんじゃないかい。だから物語の心をかこうとすると、夢みたいになってしまうんだよ」――そうしたらある子が「じやあ心の風景画なんだね」
そう、感じることがたいせつ。ピカソは晩年、こんなことを書いています。「人は私の絵が難解だという。でも、山の宿にとまり、朝、鳥たちの声で目をさましときのことを思ってほしい。そのときは、ああきれいたとか、ああさわやかと感じるだけで、その鳥の声の中身を分析しないはずだ」
また、彼は晩年はほんとに幼児が描くような絵ばかり描きました。これについてこう書いています。「やっと、このように自由に描けるようになった。70年かかった」
ラボ・カレンダーに登場する子の絵をよくみると、ピカソもいますし、ブラックやカンデンスキーやミロもいます(ミロは5歳の子の目わもっていたといわれます)。でも、10歳を過ぎるといろいろとらわれてつまんなくなっちゃうなだよなあ。ぶっとんだ絵をまってるぞい。「こいつはなに考えてるんだ」ってくらいインパクトがある絵と出会いたい。たぶん、ミケランジェロ(身長は160センチに満たなかったそうです)をみたフィレンツェの人はそう感じたでしょう。
最後に、個性をのばす教育ってよくきくけど、どうもうそっぽい。のばさなきゃにらない個性なんて、個性といえないと思うつス。たたいても、つぶしても伸びるのが個性! でもなあ、いまの子はほんとにつぶれちゃうから!
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またまた間宮先生『国生み』
高松次郎氏の絵も、間宮先生の音楽もすんぱらしい。新しくラボ・ライブラリーを担当してもらいたい画家には、この作品をみせればたいていOKをとれます。この作品の前に他の絵本を何冊かみせれば「いやあ、いそがしいので」といっていた画家もかなりぐらぐらし、とどめに『国生み』というわけです。まあ、高松次郎 Ay-O 野見山暁治とならべられたら(絵本をかくなんて考えられない人ですから),いちころであります。
さて、今回は『国生み』のなかから『オオクニヌシ』のことをすこし。
でもその前に『スサノオ』の歌のことを。
『国生み』は、4つの物語をがそれぞれちがう額縁にいられています。語り手の位置や時代や視点をそれぞれかんえてあります。
『スサノオ』はそのなかでも、時代を平安のころにもっていくことで、逆にリアリティと生活感をだしています。その冒頭に「舞え舞え~」という蝸牛の俗謡が子どもたちによって歌われますが、この歌い手はすべてラボっ子です。そのためのオーディションも行なわれましたが、関西地区のラボっ子限定でしたるというのも、あの歌をよく聴くと「まあ~ぃぇ~、まあ~ぃぇ~」とうたっていて、これは関西出身の人しかできないということでした。
いまはほとんどほろびた日本語の発音には,たとえば「Gwa」といった鼻濁音などのがあります、この歌もそのひとつです。すげえ、こだわりですよね。
そのついでに『耳なし芳一』がおさめられたハーンの『怪談』は英語のタイトルはKWAIDANです。ハーンのひ孫にあたる島根女子大の小泉凡さんによると、島根では学校の年配の用務員のおじさんなどが、鐘をならしながら
「しぇんしぇい方,しょくいんくをいぎかはじまります」という人がいるそうです。セツもそういう発音で話したのでしょう。ハーンの耳もたいしたものですね。
さて、やっと『オオクニヌシ』。ぼくは『スサノオ』もすきなのだけど
この『オオクニヌシ』の冒頭の映画的シーンがすきですなあ。砂丘をあるく八十神たちと遅れてついていくオオクニヌシ。
「若い声がカモメのようにとびかい、海がまた光った」
なんと切れ味のある一行でしょう。乾いた硬質のリリシズムがあります。
ぼく自身が目標として、いつかこれをのりこえた文を書きたいと思っている一行です。
さても……「キャンプ手帳」にかいたことわやきなおししておとどけ。
『オオクニヌシ』がおさめられているラボ・ライブラリー『国生み』は,『古事記』『日本書紀』の神話をもとにつくられました。
神話はあちこちの村で語られていた伝説が,村どうしの交流がすすむなかでかたまったものといわれます。ロッジのエールがさいごはキャンプ全体のエールになるのとにています。
神話・伝説は「これは,つくり話だぴょん」という昔話とはちがい,「ほんとうにあったこと」として語られています。『古事記』『日本書紀』は1200年ほどまえにできた書物ですが,その中身は大和朝廷の正しさ伝える目的でかたまってしまったので,自然へのおそれと尊敬といった,そこにえがかれていた人びとの心のかたち,それを生み出した風や光がみえにくくなってしまいました。
ラボ・ライブラリーでは,この日本神話を特別な宗教や政治のかたちと手をつなぐことなく,神話がもつ「とうとさ」をのこし,「物語=つくりばなし」につくりかえました。そうすることで,わたしたちの超大せんぱいたちの経験や感情にふれてテーマ活動に取り組もう。そのなかから,わたしたち日本人はなんなのか,どこから来てどこへ行くのかを考える力にしようというものです。
『オオクニヌシ』は,少年がさまざまな試練をのりこえて,地上の王スサノオの娘スセリヒメとむすばれ,「大きな国のあるじ」となる物語です。ここからわたしたちは,「少年がおとなになるためには,多くの試練をこえねばならぬ」という,大昔の人びとのきびしく,たくましいメッセージを感じとることができます。さらにオオクニヌシは死の世界=ヨミの国にも行き,そこから帰ってくる「ヨミガエリ」も体験しますが,ここにも,「起死回生」という日本人の心のかたちのがあらわれています。
このほかにも,大昔の日本人のきもちをしめすところはいくつもあります。日本にいなかった白ウサギは「イナ(稲)バの国」の米の白さを思わせますし,皮をむかれ海水をあびて苦しむすがたは,潮の害になやまされた地方の農家のくらしがしのばれます。
ところで,『国生み』のテキスト絵本は,高松次郎先生のすてき抽象画です。ほかにもラボの絵本には抽象画がつかわれているものがいくつかありますね。それは,なぜでしょうか。この機会にぜひロッジのなかまと話し合ってみてください。ちょっとヒントをだしておくと,「心のかたちって,そんなにはっきりしてないよね」ってところでしょうか。
コンピューターだらけの21世紀でも,たとえばおさないこどもは,やわらかい世界をつくりだして自分がなにものかをたしかめようとします。「車と飛行機はどちらも燃料をたべるけど車はとべない。でも,夜に飛ぶ練習をしてる」──これも神話といえるかもしれません。神話も民族のとても幼い時代に生まれています。それは,あかちゃんが少年・少女に成長するように,民族が幼い時代にわかれをつげるときに,ひとつのかたちとしてのこす思い出といってよいかもしれません。
ちゃんちゃん
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白雪姫の色
これも間宮先生の音楽をかけながら聴くとなおよい。
米といっても、そんなめんどいことはだれもせんって!
まあこの物語がおさめられたSK6は白いノートをあげると
一冊まるごとお姫さまをかいてしまうような女の子にぜひ聴かせたい!
グリム兄弟は「こどもと家庭のための童話」をだすにあたって大論争したといわれています。
「これはドイツの加古からの財産だから、できるがきり伝承のとおりに、ことばやストーリィはそのままにだすのだ!」という学者肌(ふたりとも学者だけど兄貴は生涯独身。でもふたりは同じいえでずっと暮らした)の兄、ヤーコプと「いや兄さん,これはこどもと家庭婦人のための童話だから、あんまり古いいいまわしや、暴力的だったり、残酷すぎたり、エッチなところはすこしやわらかくすべきだよ」という詩人肌の弟、ヴィルヘルム。このふたりの議論があったからグリム童話は世界でも最高の童話集といわれるようになったのですら。この『白雪姫』はおっかない話ですが、じつは初版では白雪姫を殺そうとたくらむのは実の母です。それではあんまりだというのか後の版で兄弟は継母にかえています。でも、冷静に考えると継母だったら殺してもいいのか、継母は連れ子をいじめるものというステレオタイプにおちいってしまっているわけで。あんまりいいかえかたではありませんね。
ラボ・ライブラリーでは大胆不敵、実母です。でもよく聴くと、女王はふしぎな力のもち主であり、雪の白さにインスパイアされてふしぎな力で白雪姫をうんだというふうに語っています。
この物語のテーマはいうまでもなく女性の自己愛の分裂です。自身の永遠の美しさを願う心と、自分の美しさの完全なクローン,それも若い分身をもちたいという心の根源的矛盾の物語です。てずから継母ではだめなのです。
このラボ・ライブラリーがつくられたときは、ぼくはまだラボにはいっていないので、当時の記録にのこされている文や関係者の話をもとに、ぼく自身の考えもいれて書いています。
『白雪姫』の再話にあたっては、三人のライターに検討稿を書いてもらっています。そのなかで、もっともすぐれているものをもとに、1行ずつかためていったそうです。
さて、女王ですが「お妃」でもよいわけですが、はっきりいって王様という亭主の存在がじゃまくさいのと、まだどこかに土のにおいをのこした地方の小領主のふんいきをのこすべく女王となっています。女王が針で指をつくと流れる血は三滴。なせ三かといえば、これはラボっ子がよろこんでこたえるでしょう。いうまでもなく、白と黒と赤です。この色はじつにこの物語で象徴的な意味をもちます。でもラボ・ライブラリーではなにが白でなにが黒でなにが赤とは明確に語っていません。白雪姫の誕生のふしぎ同様になんとなくわかるけどあいまいです。
このように身体の部分をあきらかにしないのは、じつにうまい
やり方です。これからはじまるとんでもなく凄惨な事件をまえに一発
麻酔をうっておくというわけです。
さて、ここからこの三色が語る語る。さのすきまに、透明な中立色である鏡・ひつぎ・王子を介在させながら、白の純粋さ赤の情念、夜と死を連想させる黒。ここまではっきりくるとさすがドイツだなというかんじです。
ですが、白雪姫も無垢の白ようでいて、赤の要素ももっています。七人の小人の家にたどりついたとき、姫は空腹のあまり食事に手をつけますが、全部は食べすにすこしのこします。そのくらいのつつましさはあるのです。また小人たちは心配ながらも、姫に家事わまかせます。そのきらいには成熟しているのです。でも、あれほど注意されたのに、赤いりんごへの食欲やきれいな腰ひもへの着飾ることへのあこがれにはかてないのです。(ぼくは女性蔑視論者でも女性不信でもありません)
また女王も純粋に美しくありたいと思うことについては白です。
こうした白・赤・黒に色分けされながらも、ときに美醜・純・不純が出入りいするところに、この物語の奥行きと陰影があります。間宮さんの音楽はそこまで描ききっていると思います。
まあ、この物語について書いていくときりがないのですが、さいごにひとつ。『白雪姫』も『ヘンゼルとグレーテル』も救いのない話です。前者は子ごろしわ企てる母親の破滅の物語ですし、後者は親にすてられた子が老婆を殺すというとんでもない話です。でも、これらの話が名品としていまも語られているのはなぜでしょう。後者のはなしはあとまわしにして、前者の話をしておしまいにします。
女王が指をついたとき、もう雪はあがっていたのではないでしょうか。たしかに冒頭は雪がふっています。しかし、けんめいに針をうごかしていた女王がふと窓の外をみやったとき。そのときは青空がちらと見えたのではないでしょうか。女王はそれにみとれて指をついたんですよきっと。
このときの空がどす黒いいろだったら女王はただの性悪じゃないですか。
この青は希望の青です。過酷な運命の物語にはそれだけでは終わらない、なにかが用意されています。それが子どもが物語わうけとめる、てこでいえば支点のようなものです。白雪姫のお話は女王の死のつづきがきっとある。
「ひとつの物語のおわりは、あらたな物語のはじまり」と間宮先生はいっています。
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神話と科学
SK2だるまちゃんとかみなりちゃん
なんとなく読者もへってきたようなので
安心してすきかってを書くっス。
かみなりちゃんが,だるまちゃんの目のまえに
おっこちてきたことの次第は
物語がすすむと「プールの穴はかみなりちゃんが
高飛び込みをしたため」とあるので,子どもたちは
な。ほどと理解する。
さらに、地上で雨がふる理由がかみなりタウンの水あそび
にあると,考えつくこどももきっといるはず。口にはださなくとも
きっいる。まちがいない。
ホッレおばさんが羽ぶとんをはらうと雪になるという伝承を
受入れることができるように。
おそらくは、この物語の発端はかみなり町の町民プールからはじまったのだ。かみなりのこどもたちはプールでふざけて水をかけあい
いちばんんミスをかけられてずぶぬれになった子が
「そんなにはねをとばすと地上じゃ大雨になるぞ」とくやしまぎれに
いうと、「そりゃ、おもしろいや」とますますエスカレート。
そのうち、もっともやんちゃなかみなりちゃんが
「そんなのあまいぜこれでもくらえ」とハイダイブ。
落下してわんわん大泣きしたのは、ただ浮き輪がひっかかった
からだけじゃない。落っこちた恐怖とおどろき。くやしさ、家にかえれないかもという不安感。そんなのがこちゃまぜになって、もうどうしようもなくなってないたのだ。そのへんのことはこどもはいやというほどわかっているので、こまごまと落下の原因をかきつらねない作者の態度をこどもたちはたいへん支持する。この物語が骨太なのはそういうことだろう。
さらにこの物語がえらいのは、前述のように雨がふるりゆう、かみなりが
おちる理由という幼児の疑問に神話的にこたえていること。この神話的説明こそが科学のはじまりのはじまりっス。 こうした神話と科学を自由に行き来できる心こそすんばらしいと思うのです。それは具象と抽象を行き来できる精神にもつながるっす。
科学のはじまりのはじまりは神話だけど,いきつくさきも神話、それも黙示録の世界かも……。
ついでに、かみなりちゃんの大泣きとどうしようもなさと書いたけど
マックスの孤独もおもしろい、おとなってやっぱりこどもには脅威。
口でも体力でもかてないし……。
『かいじゅうたちのいるところ』のでだしの英語は
ごぞんじのようにThe night だす。
日本語は あるばん
でもふつうはOne night だよね。
じつはこの日の昼間になにかがマックスにおこったのだ。だから
The nught なのだ。ママとけんなかしたか友だちともめたか
とにかくどうしょうないことがあったのだ。だからマックスはぶちきれて
おおかみのぬいぐるみをきたのだ。Theという定冠詞わもってくるセンダックはえらい。だから日本語も「そのばん」 としたいところだけど
自然な日本語という点でつらい。神宮先生たいへんだったろうな。
てかわけで、次回は白雪姫をかこうかな。もうやめろという声があれば
すぐやめるっす。質問もないもんな。といじける週末だった。
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