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SK8かいだんこぞう
ラボ・ライブラリーの夜
SK8は間宮先生が音楽担当。どのおはなしも骨太で、テーマも深くラボのロングセラーであることはご存じのとおり。『ポアンホワンけのくもたち』もきれいだけれど、今回はあえて『かいだんこぞう』。
そのサブタイトルになんで「ラボ・ライブラリー夜」かというと,
かつてフランス映画で「アメリカの夜」という映画がありまして,これはアメリカの暗黒街のはなしではなく,じつは映画好きのための,映画づくりの話。そのなかで夜のシーンの撮影をするときの技術からとったことば。
夜の場面の撮影でもライがあればとれるけれど,がんがんに照らせば昼間のよう絵になってしまう。恋人とわかれた女性が深夜の公園でひとり涙ぐむなんてシーンはこうこうと明るくては絵にならない。かといってまっくらではうつらない。
そこでキャメラ(こういったほうが映画っぽい)に濃い青色のフイルターをかけて撮影するというわけ。そのフイルターがアメリカ製が多かったということで,そうした人工的夜のことをアメリカの夜といったそうな。
じゃあ,ラボ・ライブラリーの夜はラボ・ライブラリーづくりのはなしかというと,そうでもない。ほんとうの夜のこと。
ここからは,できればプリントアウトして『かいだんこぞう』の音楽をききながら読んでほしいっス。
こんどこの物語をパーティで取り組むとき,またはラボっ子が家できいたきたよといったとき,ぜひこえきいてみてください。
「かいだんこぞうは,夜はなにしてるの」
さあ,子どもはなんとこたえますかね。
「夜の暗さをすって大きくなってる」「夜のなかにとけてる」「かぶと虫みたいにじっとしてる」など、たぶんいろいろでるでしょう。
そうした感覚,イメージをおだかいに十分に主張しあうと,どれもが正解であることにこどもたちはきづくはず。これはとてもたいせつなこと。なせなら、こどもたちは世の問題にはかならずこたえがあること,そしてそのこたえはいつもひとつとは限らないことを知るからです。そして,そうしたこたえは算術的な数学の公理のようにいつもきまっているという偏見をのりこえ,ちがいをこえてお互いをみとめあう経験となるはず。
では、それぞれ「大きくなる」「とけてる」とかいっていることがちがうのに,こどもたちは「みんな正解」と納得するのでしょう。
そのあたりがじつは『かいだんこぞう』が物語としてすんばらしい点です。すぐれた物語はしっかりした表現をうみだします。でも、それはまったくおなじという意味ではありません。音楽でいうと基音と倍音のような関係とでもいいましょうか、音色のちがいやオクターブのちがいはあっても,たぶんこどもたちの「夜のかいだんこぞう」のイメージは,どれもじつに調和しあうはすです。しっかりした表現を生み出す物語とは,そういうことだとぼくは思うっス。そういう物語をつくっていきたいっス。もうすこしむずかしくいうと、表現は言語で規定されるけと,その規定された表現の背景には
複数の論理があり,それがさっき書いた調和をもっているということです。
ほかにも、この物語のよさはいっぱいあります。おとなの背中を食べるかげぼうしが兄弟。とか,おじいちゃんとおとうさんが歩いていくときの夕陽とかじつにいいっス。
ひるがえって,夜というのは,こどもにとって太古からおそれとふしぎに満ちているわけで,それはそうした自分の感覚と他人の感覚の調和を実感するのによいテーマっつうことです。だいたい,物語の核は夜といってもいいかも。昔話はふつう夜に語られましたからね。だから昼間のかいだんこぞうは,なにかの都合で昼間にひょこっととびだした「夜」のかけらかも。
そうしてみるとラボ・ライブラリーのなかに夜をさがして音楽わきすていくのもおもしろいのだ。羅列するのでてきとうにきいてみよう。
・『ブレーメンの音楽隊』――どろぼうたちの宴会。陽気な夜だ。動物たちのつかれきった夜。
・『白雪姫』――結婚式の夜。この物語はまたの機会に。三色のことを書く のだ。
・『ヘンゼルとグレーテル』――森の夜。・チェアマン島の夜
などなどいっぱい。SK8の4つの話には全部夜がある。
・夜全開! 『耳なし芳一』『猫の王』
もうつかれたので,これでおわりだけど,さらにこだわるとすれば
・『てじなしとこねこ』――このはなしも,夜そのものじゃ。当時16歳のクロード岡本のきぶちきれた絵はきてるよなあ。完全にどっかいっちゃってる。つめたいプールで泳ぎすぎてチアノーゼだ。
・『ピーター・パン』――やっぱりこれかなあ。だいじな事件はほとんど夜におこってるぜ。それが,全編,目をとじたまぶたの裏でおこってる話だ。
ところで、たけちゃんのおやじはなさけないよなあ。ラボ・ライブラリーにでてくるおやじの話をかこうかな。でも、はっきしいって音楽もいいけど,絵のことをかきたいんだけど,数少ないコアな読者の方いかかでせう。
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スタジオ用語の基礎知識
これを知っていれば音楽業界人
ただしラボには役立ちません
◎スタジオミュージシャン
とにかくめちゃくちゃ楽器がうまい。オーケストラに所属している人もいれば,録音専門でやっている人もいる。録音専門の人はけっして拍手や賞賛を浴びることはない。でも,うまい人はいろいろなミュージシャンから声がかかるので,おおいそがし。スタジオからスタジオへとびまわる。ギャラはほとんどが時間制。高い人は1時間でX万円。どんな楽譜も初見で弾けるのが最低条件,それにくわえて作曲家の「もっとうたうように」とか,「するどいアタック(バレーの攻撃ではなく,強くたった音のこと)」でといった注文をこなす。
◎マルチ
多チャンネルの録音テープのこと。たとえば32チャンネルなら16種類の楽器をステレオでそれぞれ独立して録音できる。これの便利なところは,ひとつの楽器がミスつてもその楽器のまちがえたところだけ,後でさしかえることができるので,ひとりのNGがみんなのめいわくにならないところ。また,ベースがその時間にこれないときなどは,あとでベースだけかぶせるといった技も可能。したがって,電気楽器以外は,それぞれ独立した小部屋(ブース)にはいって録音する。なんともブキミである。マルチで録音した音楽は,そのあとでトラックダウンという作業でひとつさの音にまとめる。これこそミキサーのうでのみせどころ,なんどもききながら,ひとつひとつの楽器の音の大きさ,左右の位置,響き方,ツヤなどを調整していく。ちなみに,ソングバードはマルチで録音。
◎一発どり
マルチではなく,演奏を同時に一本のテープに録音いること。これのむずかしさは,まずマイクのセッティングがたいへん。いいバランスできこえるように,楽器ごとに音をだしてもらいひとっひとつきめていく。また,大編成だととっても大きなスタジオが必要。それから,なんといっても本番でひとりでもミスるとみんなでやりなおし! これはつらい。でも,うまいミキサーがとった一発どりはいいっす。ラボ・ライブラリーの音楽の多くはこの一発どりだ!
◎ドンカマ
ヘッドフォンからきこえてくるリズムマシンの音。ドンカマチックという商品名が名前のもと。ようするにメトロノームなのだが,それにあわせて演奏するのは指揮者を見て演奏するよりも何倍もむずかしい。というのは,指揮者やみんなが知っているメトロノームは目に見えるからリズムが体感できるからだ。音だけにあわせるのは,そりゃたいへんよ。ドンカマは演奏スタートの何秒かまえからはじまるので,録音編集の際には,この音をカットするのだ。
◎カンパケ
編集もおわり,あとは量産用のマスター をつくるだけという状態のテープやデータのこと。完全パッケージの略。ラボ・ライブラリーの場合は,英日のカンパケ,英語のカンパケ,音楽のカンパケなどたくさんのカンパケがある。「OK! これでカンパケです。おつかれさまでした」という声をきくと,椅子からくずれおちる者,感極まって泣き出す者,歌い出す者などがいる(ウソ)。
◎Take
本番の数のこと。Take1できまれば奇跡。Takeが5をこすと機嫌がわるくなる者がではじめ,Takeがふたけたになると責任追及がはじまる?
SENCHOの思い出ではSonbirdsのトラックダウンを夜中にアバコスタジオでやっていたとき(ミキサーとふたりだけの孤独なたたかい),休憩しましょうとスタジオからでて,アーティストロビーにでたら,ちょうどとなりのスタジオも休憩らしく,人がでてきたもよう。「マーシーのギターはTake1のほうんがいいね」。
声の主は当時The Blue Heartsの甲本ヒロト氏。つづいて,メンバーもでてきました。ちようどかれらは3枚目のアルバムをつくっているところ。紙コップのコーヒーをのみつつ,「おたがいおつかれまです」と声をかけあい,ひとしきり甲本氏と音楽談義。氏が子どもの教育や表現活動に興味をもっていたのはうれしかったっす。
ぼくも,氏の切れ味のある詩がすきだったので,そのことをいったら,やたらてれてたのが印象的。The Blue Heartsはその後解散,マーシーとよばれた真島氏と甲本氏はTHE HIGH-LOWSを結成,いまもかん゛ばってるっす。
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琵琶のはなし
すみてぃーさんから,『耳なし芳一』の琵琶のはなしというリクエストがあったので,例によって思いつくまま書くのだ。
琵琶は東アジアでつかわれているリュート属の「撥弦楽器」なのら。ナス形の胴に4本か5本の弦。頸の上部の糸巻き部分は後ろに折れ曲がっているっす。右手で撥(バチ)ではじいて音をだす。左手で弦をおさえるのだが,おさえる場所は柱(ギターでいえばフレット)の上か柱と柱のあいだ(あたりまえか!)。
琵琶には日本の琵琶だけでも楽琵琶(がくびわ),盲僧琵琶,平家琵琶,薩摩琵琶,筑前琵琶といった種類があり,それぞれ持ち方や演奏のし方がすこしずつちがうのら。ちなみに芳一の平家琵琶は,楽琵琶をちょっと小型にした2尺(60.60センチ)くらいがふつう。でも,規格はなく,芳一はたぶん自分の身体サイスにあわせたオリジナルをつかつてたんじゃないかしら。弦は4本。柱は5柱。撥の両端はとがっていますです。プレイヤーはあぐらをかいて座り,琵琶を水平より少し上にあげてかまえ(薩摩琵琶などは45度以上に高くかまえるっす),語りの前奏や間奏として,またブレスのときに弾くのだ。語りと平行しては弾かないのだよ。
芳一は盲目の琵琶法師。平家は壇ノ浦で全滅,あれほどパワーのあった一族がほろぶとその恨みやたたりはたいへん恐ろしい。人びとは天変地異やはやり病など,
よくないことはだいたいその「たたり」のせいにした。「たたり」を恐れるのは日本の得意技で,菅原道真もただの官僚なのに,左遷して亡くなったら,そのたたりがこわくて神様にされてしまった。逆をいえば,それほど優秀な人だったのだろう。天皇でも歴代たたりのこわいのがいっぱいいて,死後に法皇とか上皇とかついている人はだいたいやばくて,ほとんど祟っている。どんな人がいるかわかるね。はっきりかくとこわいもん。徳川家康などはあれほどメチャクチャな日本の統一したのだから,よっぽとパワーがあったのだろう。東照神君として神にまつりあげられてはるか日光にドハデな神殿にいれられてしまった。家康以外の将軍は,上野の寛永寺と芝の増上寺に葬られた(ひとつの寺にするとその寺の権力が公式菩提寺として強くなりすぎるし,江戸の北と南の玄関をオカルディックにディフェンスしたんだろう)のにね。ただし,ラスト将軍の慶喜のお墓は東京の青山墓地にある。彼は人気があって,お花がたえない。
話をもどして,平家の亡霊をしずめたいというの一般ピープルも思ったのだ。はっきりいって「たたり」は迷信で,迷信はそれ自体が文化だけれど,迷信はもっと大きな文化をうみだすのら。さっきの天神さまや東照宮はその典型だし,そういった日本の慰霊文化というかシステムはいろいろ問題となっている靖国神社にまで受け継がれている。もっとも,靖国のように国家的な神社での鎮魂は明治以降。
芳一のいた江戸のころは,そうした鎮魂は盲目の琵琶法師のような非定住の弱者の仕事だった。彼らはさけすまれ,常に不安定な生活をしいられたのだが,音楽と語りという特殊な才能でなんとかバランスをとっていたのだ。こうした特殊技能もった中世の非定住民といえば……,そうハメルンの笛ふきだ。ヨーロッパの中世にもこうした笛ふきやバードといった特殊技能者がいた。人びとの団欒からは遠ざけられつつも,いざというときだけたのまれる。そして,ときには報酬もねぎられる。
『ハメルン』のさいごに「さあウィリーよ」ではじまる詩があるが,
あそこで,「ねずみはらった笛ふきたちの かなしみさえもふきはらうため やくそくだけは つねにはたそう」というくだりがある。ここで注目は「笛ふきたち」ということば。物語の笛ふきは一人しかでてこないが,ここではPipersという複数になっている。つまり,そういったかなしきさすらい人は,たくさんいたのだ。現在刊行されている日本語の絵本ではこの詩は別の訳になっている。ラボでは初版の訳のほうがぜんぜんいいのでそっちを採用。訳者の矢川さんがなぜ訳をかえたのだろう。それも彼女が異界へいってはしまったいまでは……。
また話をもどして……。うーむつかれた。芳一はじつは三角関係になやむ,それは寺と平家の亡霊たちとのいたばさみになるのだが,つづきはつかれたのでまたね。
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おすすめ音楽CDその5
『ハメルンの笛吹き』――出だしからラストまで
音楽は坂田晃一氏。坂田氏は、ラボ・ライブラリーでは近年活躍していただいている音楽家。テレビや映画の音楽ではじついい作品をのこしています。『十五少年……』も氏の作品。
『ハメルン』は当時,「むずかしい」「こわい」とかいろいろな風評があったけれど、じつに発表はたくさんなされています。それは語りのすばらしさもあるのですが、坂田氏の音楽の魅力によるところも大。はじめのメロディー一発で「中世ヨーロッパ」に聴き手をつれさってしまう力があります。この録音は原宿・表参道に面したとあるファッションビル(セントラルアパートのむかい)のなかにあるスタジオ。けっこういくのにはずかしいところ。
ところでスタジオでの指揮者も神業のもちぬし。作曲家は英語・日本語版と英語版の音楽を2種類用意し、それぞれ注文どおりのサイズにしあげます。ゆるされる誤差はせいぜい0.2秒。1秒長すぎても短かすぎても、セリフとあわなくなります。
その通りに演奏させる指揮者はたいしたもの。指揮者はフルスコアを見つつ、ヘッドフォンでメトロノームと楽器の音をきき、さらに片手に指揮棒、もう一方の手にストップウォッチをもっています。そして1秒以内のずれは指揮棒の動きで調整してしまうからすごい。ふつう英日版から先に録音,次に同じ楽譜をつかって英語版をとりますが、そのときの説明がおもしろい。たとえば
「えーっ,AからはじめてBCなしでD2回、それからAにもどってBCありでコーダにいきます」(コーダは曲のおわりのしめの盛り上がり)
なんのこっちゃ。
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おすすめ音楽CDその4
賀正!
『まほうの馬シフカ・ ブールカ』『森の魔女バーバ・ヤガー』
どちらもSK20に収録されたロシアの昔話。
まほうの馬の音楽は三枝成章(彰)氏が担当。
なんといってもハイノート(高音)のブラス(金管楽器)がすんばらしい。
これはとっても演奏するのはたいへんで、肺活量もいるし、唇の緊張も
とんでもないのだ。楽譜をみたただけで「これはムリ」といいたくなる。
この録音は1986年(なんと18年もまえだ),
いまはなくなってしまったが六本木のアオイスタジオで行なわれた。
音楽スタジオは作曲家が指定する場合が多く,どの先生にもお気に入りの
スタジオがある。その選定理由は,装置がいいとか,音が好きとか
さまざまだが,やはり信頼のおける耳をもったミキサーがいるかどうか
だろう。作曲家もフルスコアをみながら,すへでの楽器の音を同時にきいて
いて,たった半音でも譜面とちがう音がでるとすぐに気が付くところはすごい。ミキサーも同程度の耳が必用。さらに,音にみがきをかけ整理することもできなくてはならない。たとえばピアノコンツェルトなら,ピアノがはっきりきこえなくてはだめだし,録音そのそものが困難な楽器もある。
その好例をひとつあげれば,『なよたけのかぐやひめ』(近藤襄)
「天の羽衣」で帝の軍勢が大集結して月からの使いをまちかまえる場面で
グランカスターという鼓笛隊がつかういわゆる大ダイコが一定間隔でならされる。この楽器はとにかく大迫力なので,ほかの楽器をふっとばしてしまいがちである。大きなスタジオなら別のブースに独立させたいところである。
このときは,コロムビアの第一スタジオ(美空ひばりが「河の流れのように」を吹き込んだ名スタジオだが,ここも去年でおわり)で収録されたが,みごとな録音。ぜひこれも聴いてほしい。
話はもどって「まほうの馬」。馬はロシアの人びとにとって,かけがえのないものだった。重要な農耕のパワーであり,友であり,家族であった。
だから主人とともに副葬されることは多かった。なお,馬が火をはくのは,死者の国とつなかっていることをしめすスラブ民族の考え方とつながっているのだ。高音のブラスはその地下の国からやってくるなにかオカルディック
なものを連想させる。しかしまあ演奏するほうはたいへんで,三枝氏のOKがでるまでTAKEを重ねることとなった。スタジォミュージシャンは,みんなメチャうまで,初見(なんとその日に楽譜がわたされる。作曲家のフルスコアノを写譜家さん=ハツスル・コピーなどが有名な会社がパート譜にするのだが,ぎりぎりまで時間がかかって本番1分前にスタジオに譜面がとどくこともある)でらくらく演奏する(できなければプロは無理)のだが,その名手たちがひいひいいうほどであるこから,心してきくように。
ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の第二夜「ワルキューレ」の
ワルキューレの騎行(戦いで死んだ勇者を迎えにくる死の女神の登場,映画「地獄の黙示録」でコッポラがヘリコプターでベトナムのジャングルに爆弾をばらまく場面でつかったことで有名かことをほうふつとさせる。
ちなみにオカルトとといえばこのアオイスタジオは「出る」ということで
けけっこう有名だった。スタジオはなぜかその手のこわいの話が多い。
だれもいないスタジオでピアノがなったとかいうやつである。
『森の魔女バーバ・ヤガー』の音楽は北爪道夫氏。
マーシャが逃げる場面ではトーキングドラムというアフリカの伝統楽器
が登場。どれかな。きいてみよう。
革命前のロシアは,国民の八割が農民でしかもその多くが農奴とよばれる
まずしい小作農(だれだ! コサックダンスとかいっているのは)
だった。それゆえに文字の発達が遅かった。また,きびしい自然,
皇帝(ツァーリ)の圧政と人びとは抑圧のなかにいた。さらに,
バーバーヤガー,ボジャノイ,ルサルカといった精霊たちが
息づいていた古来からの自然崇拝は,皇帝ウラディーミルの
ギリシア正教への集団改宗により否定さりてしまう。
こうした状況下でこそ仁賢゛の想像力はひろがる。
なぜなら想像だけは皇帝も吹雪もおかすことができないからだ。
かくして
ロシアにはすばらしい昔話がいきのこる条件がととのっていたのである。
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その2をUPしたばかりだけれど、
しばらく手をつけられなくなりそうなので
その3をUPするのら。
間宮芳生シリーズ!
1.,『ロミオとジュリエット』第一幕、ロミオたちが舞踏会あらしにでかけるところからエンディングまで。
??3人の若者の息づかい、距離、表情、若さ、青さ、たいまつの輝き、炎のゆれ方、夜の深さとやさしさ、石畳のぬれぐあい、恋の予感、死の予兆などがじつに鮮やかに伝わってくる。抑制のきいた音楽なのに、この描写力はすごい! 対して、舞踏会のはなやかさ、手のひらと手のひらの場面の美しさ。ふつうこいう音楽をこういう場面につけると「くさく」なってしまうのだけれど、やっぱり間宮先生!
2.『スーホの白い馬』の冒頭から全部
――草原の描写がみごと。スーホの歌声も流れている。出だしからモンゴルに一気につれていってしまう。余分イントロを極力はぶき、すぐに主旋律になるところは
みごと。イントロがあると、ラボ・ライブラリーのばやい、おいしいメロがはじまったときにはセリフがきちゃうもんね。
※おまけ――この物語の日本語は演劇集団「円」の吉水慶(よしみず・けい)さん
でずか、これが最後の作品になりました。現在は郷里の四国で実家のお寺わついで
住職さん。うまい俳優さんだったんだけどなあ。
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音楽CD今週のおすすめ
おーじゅんさんの日記で「音楽CDをたのしむ」という一文があり
興味深かったとのとうれしかったこともあって、
ややハイテンションで掲示板にかいたら
おもいのほか反応があったので
しばらく「おすすめ音楽CD」を書いてみようと思うのだ。
いつまでつつくかな……
☆12月16日のおすすめ
1.『海のがくたい』のエンディング
??かつて,ある5歳のラボっ子がテューターに
「せんせんいね,あのふねは,ほんとうはしずんだんだよ」
「えっ,みんなたすかったじゃない」
「おはなしではね。でもほんとうは,しずんだんだ
だからこのおはなしができたんだよ。きっと」
いくさや,ぼうけんで海にきえた魂へのレクイエムとして
この物語をきいたこの子はすごいかも。
2.『十五少年漂流記』Episode4のエンディングと「海へ」EJ版
??中村俊介の語りもナレイション初挑戦はおもえないほどすばらしい。
それを支える音楽(坂田晃一)がまたよし。
ラストの5行は英語も日本語も8回くらい書きなおしたっす。
歌はこの物語とはなれても歌えるものにしたかったっす。
日本語でイメージをつくり,英語担当の鈴木小百合さんが英語でテスト歌詞を
つくり,坂田先生が「このイメージならいけるよ」ということで
曲ができ,英語の音節をあわせて,そして完成した曲にあわせて
日本語の歌詞をつくりなおしている(けっこうめんどい)のです。
できあがった日は9月11日だったっす。
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現地時間8月3日、日曜日の午前10時
アイダホに2か月ぶりの雨がふっている。
日本の梅雨のようなしとしととした雨だ。
ちなみにアイダホ大学があるMOSCOW
ロシアのモスクワとおなじつづり
1871年ころから人がすみはじめ
パルースという風にはこばれたきめのこまかい土壌は
じつに豊かなで農業にぴつたり
また食用の豚を育てるのにぴつたりだったため
はじめはHog Heaven 種ぶたの天国といわれた
これにはかみさん連中が
「そんな名前、ぜったいにいや」
といったため、その後に郵便局をひらいた
男が(局名をつける権利がある)故郷の
ペンシルバニアにあるMoscowとおなじなまえをつけた
というわけ、その故郷のMoscowをさかのぼると……
別役実の詩に「雨が空からふれば」
というのがある。
雨が空からふれば
思い出は地面にしみこむ
雨がしとしとふれば
思い出もしとしとにじむ
黒いこうもり傘をさして
町をあるけば
あの町も雨のなか この町も雨のなか
電信柱もポストもふるさとも
雨のなか
しょうがない 雨の日はしょうがない
公園のベンチでひとり
お魚をつれば
お魚もまた 雨のなか
しょうがない 雨の日はしょうがない
けさのキャフェテリアはぼくひとりだった
きのうから、はじまったフットボール合宿の
あのにぎやかなやつらはどこにいったのか
もう一組数学の合宿もやっていて
かれらはまたとてつもなく暗いのだが
すがたはみえない。
バーニーのことを思い出す。
昨日、山田氏となんであんないいやつが
先によばれてしまうのか、
なんでぼくらのようなのが生きのこるのか
それが高いところにいる人のきめたことなのか
つっこんだが
かれもことばなし。
ぼくらにできることは、この交流プログラム
をつづけていくことだけだ。
しょうがない 雨の日
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アイダホ大学の寮は、いうまでもなくレンガづくり。バベルの塔でもあるまいし。だから、熱がこもってとても暑いのね。
昼間はこのところOVER100F
日陰はすずしいのだけれど、寮のなかはとにかくムッ。
食堂はエアコンがきいているので、7時、12時、5時の食事のときは
ほっとする。今日で寮ぐらしも10日をすぎ、ほとんど主の状態。さいわい部屋からは、大学の好意で大学のサーバーにつながせてもらいすばらしく高速のネット環境にいる。アイダホ大学はネット環境がすばらしいことが自慢らしく、たしかに学生が利用できるPCがあちこち、構内に20箇所以上にある。どれも23時間解放。というわけで、わたしにもおおらかに接続させてくれている。
いまは、午後7時 PST 大平洋夏時間
きょうは、吉田敦彦氏の講演をなんとかわりつけよう。
ひたすら暑いなか資料集の編集と格闘するSENCHOにはげましのおたよりをだそう。
おーい、うのくん、さとうさん。メールください。
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トップ・ペーシのタイトルに作者のかみや・しんさんの了解を得て
『十五少年漂流記』のフランス洞で発見されたポードワンの日記の絵をのせました。日光写真とおなじしくみで紙を感光させた作品ですが、つかわれているのは
「アメリカのずたぶくろ」「鳩山ニュータウンの葉っぱ」などです。まわりに書き込まれているのは、『美女野獣』で有名なジャン・コクトーの日記です。
ここでコクトーのことば。
??「自然は人間にはまねできない芸術だ」とよくいわれる。いや、そうではない。自然が芸術をまねるのだ。
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