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玄奘の旅・日出づる処の応用問題 05月26日 (月)
玄奘 四川省大地震の話題がリアルタイムではいってくる。四川省には行ったことはないが中国は2度たずねた。思いは軽くない。
 一度目は89年,ラボが月壇中学とホームステイ交流を開始したとき。ホームステイに該当する中国語がない時代。「卓球でもバレーでもなく,なにで交流するの」という教育委員会の素朴な疑問に,「生活をともにする」国際理解教育の意味を説いて奔走された呂校長と月壇中学関係者はまさに「井戸を堀った人びと」だ。
 この年の6月24日,天安門事件がおこるが,ラボ国際交流はそれをのりこえて交流を続ける。湾岸戦争でも9.11でもラボは民間交流の老舗として継続に最大努力をしてきた。澱むことなき大河,ラボ国際交流の特徴としてこの継続性をもっと誇っていい。
 その6年後,再び中国へ。中国語『はだかの王さま』(皇帝的新衣)の録音だ。これにも月壇中の協力があった。生徒の母親が北京放送日本語部のアナウンサーで,その紹介で北京放送のスタジオ使用,北京放送テレビ劇団の出演がOKになったのだ。
 ベテラン女優の李林さんはじめ4名の売れっ子俳優が12月のスタジオに集結。声の仕事だからと「おしん」の中国語吹き替えを担当したメンバーだ。事前にライブラリーの音声と中国語台本を送ったが,もちろん日本語はわからない。英語も堪能ではない。スタジオにはみな集まっていて,けんめいに送った音声を聴いている。声のはり方,距離,感情,役のつくり方を音声からとらえようとしている。さすがプロ。録音には通訳をたてたが,「だめだし」で通訳がまごつくことはなかった。それだけ彼らはライブラリーを聴きこみ,役の細部までつくってきていた。挿入歌も歌いきった。
 そうなるとこちらも「よりよいもの」をめざし細かい要求をだすが,「いいものを子どもたちに」という思いでプロどうし一致するのは中国も同じ。録音本番は「回してください」というが,中国語では「走(ツォ)」。途中から僕が「走」を連発することになった。
 SK3は4話構成。この日,昼前から始めた録音(昼食は社員寮堂)は,19時の段階で『アリとキリギリス』をのこして終わった。事前確認でスタジオは三日間,収録二日間,一日は予備日兼荒編集にしていた。すでに録音開始から8時間,相当疲れているはず。僕は「のこりは明日に」といった。すると俳優陣から「今日はノッているので,このままあと1話収録したい。そのほうが明日1日空く」という提案があった。ぼくは「来たな」と思いつつ「いや,声がもう限界だろうし(事実,日本の俳優なら無理),予定では明日も収録日。明日とりたい。それがラボのクオリティ」とつっこんだ。
 すると「理解するがノリもたいせつ。ラボの仕事は気持ちがいい。テストでいいから収録しよう。よくなければ約束通り明日も収録する」という。そして23時……。収録は文句のつけようのない内容で終わった。
 確かに翌日に撮ればテンションが変わる。同日に撮る意味はあった。心配された声の疲労感はまったく杞憂。彼らの声の強さには恐れ入るばかり。きけば全員が幼いときから京劇や伝統舞踊など古典芸能の素養を身につけており,その上に演劇技術を積んでいる。声も身体もきたえ方がちがう。
 別れ際,「明日はみなさんオフだけど,どうするの」ときくと,全員がボイストレーニングと筋トレ,仕事の予習とさらりとこたえた。尋ねた自分が恥ずかしい。「おつかれ様」は「辛苦了(シンクゥオラ)」。
 翌日,月壇中学に収録が終わりの報告。もともと月壇中学は『西遊記』の絵を描いた李庚氏の娘さんが生徒であることからの交流。ここでやっと玄奘の話。
 玄奘は随末の生まれ。602年ということだが,まあ7世紀の人だ。若いときから秀才の誉れは高い僧侶だったが,インドにむけ密出国したのは諸説あるが27歳くらいのとき。すでに唐代になっていたが,このころの仏教は資料不足,クマラジーバなどが訳した教典はあったが,若い僧侶たちは本家のインドへの留学を希望した。しかし,この頃の唐は国境紛争が続いており,あぶなくて優秀な頭脳を外にだすことは国も認めなかった。玄奘も三回留学申請を却下されたらしい。当時,密出国は捕まれば死罪。従者1人で馬に乗っていったようだが,白馬かどうかは定かでない。
 かくしてシルクロードを北まわりで旅たった玄奘だが,一歩国外にでれば中国語は通じない。しかし玄奘は,立ち寄ったさ国ぐにで尊敬され,留まってほしいと懇願される。上に貼った画像はよく知られる玄奘の旅姿で実物は西安市の博物館にある。彼は180㎝をこす長身,精悍かつ端正なマスクは初対面の人の心をすぐにとらえる力があった。
 また,玄奘は「人間どうしコミュケイション可能」というラボ的発想の持ち主で異文化,異言語の壁をこえる能力にたけていた。日本でも新井白石はシドッチというイエズス会の修道士をわずか4回尋問し,『西洋紀聞』『采覧異言』という大著を上梓したが,白石もまた玄奘のような確信をもった人だった。白石は後に失脚するが,彼の仕事は鎖国にわずかな風穴をあけ,時代の歯車を前進させることになる。
 玄奘はインドについてからインド全国を巡礼,ナーランダの寺院で学ぶ。ここは世界最高の仏教大学で卒業できたものはわずかしかいない。そこをト
ップで卒業した玄奘は,帰れば死罪と知りつつ帰国の途につく。教授たちはひきとめたが,学長だけは「仏教はインドよりも東の国で発展する。そのためにも帰るべきだ」といった。事実,インドの宗教はやがてヒンドゥーが主流となり,仏教は中国,そして日本で花をさかせる。
 玄奘は帰路,皇帝に報告の手紙を書く。その返事は密出国をゆるすものだ
った。645年(大化の改新だ),玄奘は大歓迎のなか650部あまりの教典とともに長安に帰朝する。正月七日,玄奘43歳の男盛りと『大唐西域記』には記されている。
 玄奘の仕事の凄さはその後である。皇帝のブレーンにというオファーを断り,膨大なサンスクリット語の教典を翻訳することに残りの人生を費やしたのだ。ご存じの「般若心経」なども彼の訳である。
 玄奘の旅は,もともと説話として寺で民衆に語られていた。しかし仕事終わりの疲れた人びとにきかせるためには話に「おひれ」が必要。それが次第におもしろくなり,祭の講談などのバフォーマンスになっていった。これらを小説にまとめたのが呉承恩という人だ。
 玄奘はかようにガッツとパワーとセンスに満ちた人だった。この多重なキ
ャラがはじけとんで分割したと考えるのは難しいことではない。彼の闘争心は孫悟空,人間としての煩悩は八戒……。だから,三蔵自身はやや女性的な信仰と信念だけの無垢な存在として残ったといえる。
 また実際の旅では,4000mをこす高地や,海抜マイナス200メートルの盆地など,とんでもない自然をこえていったわけだが,いかにタフな玄奘でも高山病や疲労から,幻覚におそわれたりもしただろう。それらのきびしい自然現象や病気による怪奇はさまざまな妖怪変化になった。
 しかし,中国の人に最も好かれるは孫悟空よりも三蔵法師だという。無垢で信念だけの赤ん坊のような存在に,悟空も妖怪たちも決局のところかなわない。本当のチャイニーズヒーローは強さを誇示しない玄奘や劉備玄徳のような存在だという。
 玄奘の旅から時は流れ,8世紀に入ると唐の国は絶頂期をむかえる。長安は人口100万をこえるローマよりも大きな都市になり,赤い髪や青い瞳が碁盤の目をいきかった。多くの文人,墨客が活躍し,日本からも安倍仲麻呂などのすぐれた人材が学んだ。仲麻呂は一流の詩人や学者と交流し,ベトナム大使や国立図書館長などの要職につく。
 西安市の公園の一角に仲麻呂のいしぶみがある,スマートな塔だが,その裏面には追悼の絶句がかかれている。その作者は詩聖,李白だ。
 今,日本には多くの若者が日本に学びにきている。彼らに胸をはって提供できる「真の学びと文化」をわれわれは保持しているのだろうか。
 日いずる処は応用問題をとかねばならない。
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