幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
■■■ 運営事務局より ■■■
ひろば@LABOは,ラボ教育センターが展開する
「ラボ・パーティ」に関わる皆さんのコミュニティ・ネットワークです。
「ラボ・パーティ」については 公式サイト  をご覧ください。
ラボ公式HPTOP新着一覧そのほかランダム新規登録戻る 0359784
  
Home
Diary
Profile
BBS
Bookmarks
Schedule
メール
・メッセージを送る
・友達に教える
ページ一覧
Welcome!
[一覧] << 前の日記 | 次の日記 >>
60階から西を見ればね=書き写すこと 12月01日 (水)
サンシャイン
 ロシア昔話の話はまだまだ続くが、ここでひとやすみ。写真は池袋のサンシャイン60の最上階から西の眺望。撮影は11月はじめの13時。緑の少なさには今さら驚いてもしかたない。むしろ、ふみとどまっている感がいとおしくさえある。
 ニューヨークも東京同様に孤独と疎外に満ちた街だが、セントラルパークという巨大な緑の空間を確保した。1981年、ここでサイモンとガーファンクルが50万人
を集めて一夜だけの再結成コンサートを行なった。
 オープニングMCはエドワード・コッチMayer of the City of New York。あいさつはたった一言、"Ladies and Gentelemen, Simon and Garfunkel."。続いて50万人万来のbig handだ。
 かれらは史上最強のデュオだと独断でいいきりたい。そのハーモニーも神業的だが、ポール・サイモンの音楽性の高さと詩情豊かな歌詞がしびれる。人間のコミュニケイションの不能と困難性、それに起因する孤独、なかでも少年と老人の孤独といった哲学的テーマを、けして告発的ではなく、ときにポップに、ときにリリックに歌いあげるサイモン。ぼくは中学2年のころに出会い。全部の曲を覚え、ノートに書き写し、さらにはなんとか日本語の詩にしようと辞書と格闘した。学校の英語の成績はけっこう恥ずかしいものだっが、そういうことは好きだった。
 その際、日本では歌詞カードがついてるのがあたりまえだったので参考にしたが(輸入版はほとんどんない。著作権がややこしいから)、けっこうまちがっていることも発見し、なんどもレコード(重要)を聴きなおしたりした。ことばのお尻がそろうことも、そのときはカッコイイなあと思うだけで、脚韻なんてことばをしったのは高校生になってだいぶたってから。
 日本の詩はもともと好きで、萩原朔太郎、山本太郎、高村光太郎、立原道造、中原中也、そして谷川雁などがお気に入りでよくノートに書いていた。今考えれば甘いものも辛いものももごちゃまぜだね。でも栄養バランスとしてはよかったかも。そのころ英詩にはほとんど興味がなかったけと、サイモンとの出会いがきっかけとなり、英語の詩もエライなとエラソウに思ったのだ。
 とにかく、好きなことば心にとどくことばを書き写してみたいと思う心の構造はふしぎなものだ。書くことによって、人の作品なのに自分だけのものにしたような気になる。同時に、こんなにも美しいものを知っているんだぞという自己満足も得られるのだ。「どれだけ美しいものを造りだしたか」ということは、まちがいなく人生の価値だが、「どれだけ自分が美しいと思うものに出会って感動したか」も生きる価値であると確信する(このことばは、なにかで読んで「すげえ! そのとおり」と思ったのだが、誰のなんだっのか忘れてしまった)。とっても励まされるこばだよね。こどもたちに伝えたいなあ。
 シェイクスピアの翻訳で名高い小田島雄志先生(ラボ・ライブラリーの『ジュリアス・シーザ』はもちろん小田島訳)は、学生時代に夏休みに汗だくになってシェイクスピア作品をノートに書き写されたとうかがった。
 だから、ラボっ子でも、だれにもいわれないのに好きなライブラリーを「おはなしにっき」などに書き写してくることがよくあるのは当然のことなのだ。あこがれるものに近づきたい体内にとりこみたい。そんな貪欲さってすてきだし、後にぜったいに役立つ基礎体力になる。好きなことばを書いてながめる。キモクない。
 もちろん、声にだすこともたいせつだが、前回はあまり文字否定みたいなこを書いたので、今日は書くことにこだわってみた。
 近年、というか昔から、よく若い人に「どうしたら文章がうまくなりますか」という質問をされる。すると僕は「あなたは、どういう文章がうまいと思うのか」と問い返すとたいていこたえられない。あるいは、「こたえられたら質問しません」というひらきなおりのようなファイナル。アンサー。まあ、そりゃそうだけど。
 僕も別に「うまい文」を書こうと思ったことは一度もない。その目的にあわせた文を書こうとは努力するけど。なぜなら媒体や内容によって文体も異なるからね。詩と小説はちがうし、エッセイと新聞記事もちがう。
 文のテクニックがないかといえばプロ的には「ある」といえる。小説にも詩にも戯曲にも技法が存在する。ただ、そんなことは後のことで、とにかく「読む読む、書く書く、書く書く、読む読む」しかない。
 しいていえば、超基本的なこと、たとえば「トートロジー(同語反復)、一文にはもちろん、同一段落内で同じ表現を用いない」などといったことは学んだほうがいいかもしない。学校では教えない、というより教えられないからね。でも、よく読む子、よく聴く子は勝手に身につけてしまうけど。
 それと、僕自身が気をつけているのは(別にあたりまえのことだが)
・書いた後、少なくとも頭のなかで音読する。
・できれば2~3日ほっておいて、もう一度読みかえす。
 この二番目はとりわけたいせつ。小泉八雲は,10段のひきだしがある机(松江の記念館に展示されている)に第一稿を入れ、読みかえして加筆修正した原稿を二段目に移動。そうやって十段目まで達した原稿を出版社に送っていたという。
 ちなみに絵もそうするとぐっとよくなるよ。
 ここだけの話(意味ない発言)、『十五少年漂流記』のラストシーンの日本語は15回以上書きかえた。そのたびにらつきあって英語をなおしてくれた鈴木小百合さんには感謝感謝だ(この日記はそんなに読み替えさない、ごめん)。
 ところで、ニューヨークといえば先日「ゴースト、ニューヨークの幻」をテレビで放送していた。1990年のアメリカ映画で大ヒット作なのはご存じの通り。この作品で占い師を演じたウーピー・ゴールドバーグが一躍スターになった。ストーリィだけ見るとはっきりいって陳腐で、ラストなどはびっくりするほど単純だ。しかし最後まで見させてしまう力がある。それは、デミ・ムーアの美しさだけではない。なによりテキスト、すなわち脚本がしっかりとできているからだ。
 この映画に難しいことばはほとんどない。この作品が公開された翌年の夏、僕は高校留学生(90名もいた!)を引率したが、そのときの研修(インディァナ州のパデュー大学で! 今年の日本人ノーベル賞)で、先生がこの作品を「英語字幕」付で留学生諸君に見せたくらいだ。シンプルなことばで、しっかりと無駄なく、そしてリズムよく自然に積み重ねて物語を構築する。映画も、まずテキストありき。どんな映像美もテキストがボロければあかん。日本ではなかなかいい脚本家がそだたんのよね。なぜかしら。ラボっ子のなかからでてほしい。
 単純に見える短いセリフでも、よいテキストにはこまかい感情の起伏がある。そう思ってライブラリーを聴くのも楽しい。試みに『花のすきになうし』の二木てるみさんの語りを聴いてみてください、短い一行にも微妙な変化を感じとれると思う。こどもたちは自然に感じとっていると思うけど。
 
 
<< 前の日記 | 次の日記 >>
Copyright(C)2002 Labo Teaching Information Center.All rights reserved.