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アジアの昔話 1 『ヒマラヤのふえ』 12月17日 (金)
はなよめ なんが
 写真上は、恥ずかしながら長女の結婚式。今春、本人たちの希望で
バリ島で行なわれた。昨年は僕自身も大病し、夏には父が、秋には
義母(元ラボ・テューター)が他界した。二人が病をもっていったかのように、
ぼくはどんどん元気になった。ハードな一年だったが、
そのあとにはこうして新しい家族が生まれる。
 ゆずりはという植物がある。春の新しい葉がでると
古葉はいっせいに落葉する。双方が同じ枝に繁ることはない。
父も義母も孫の花嫁姿を見ることはかなわなかった。
 幼い芽も、若いつぼみも、色づいた葉も、すべて同じ幹で
共生できるラボのような場は、ますます貴重だとマジで思う。
さらに…、物語のなかで生きる体験は、他者を自分のなかに
生かす力を育てる。亡くなった人、遠くに去った人を心の
なかに生かしていくことは人間にあたりまえに備わった力なのに、
20世紀後半以降、テクノロジーの発達と反比例するかのように
脆弱になってきている。
 思いやること、好きになること(恋愛も他者を自分のなかに生かす行為
だと思うっす)、受け入れること、わかちあうこと。
それらは他者を心のなに生かす力がなければ不可能だ。
 さて、ロシアの昔話をめぐってぐだぐだ書いてきたが、
ここらで話題を転換。じはらくアジアに飛んでみたい
(『エメリヤンのたいこ』、トルイストイなどにもふれたいけど)、
 まずは『ヒマラヤの笛』。
というわけで、2枚目の写真はナンガバルバット(8125m)。
ヒマラヤ山脈は、世界の屋根の名の通り8000m級の山が14座
 (8000m峰はヒマラヤにしかない)、
7000m級にいたっては100座以上ある。
 パキスタン、アフガニスタン、ティベット、中国、ブータン、
インド、ネパールにまだかり、東西はなんと2400kmもある。
ヒマラヤはhima(雪の)、alaya(すみか)の意であり、
まさに雪と氷の極地だ。
 写真のナンガパルバット(裸の山の意、まわり高い山がない)は、
ヒマラヤ山脈の西端にあり、その美しい姿からは想像できない
「人食い山」とよばれるほど多くの登山家の命を飲み込んだ山だ。
急峻なことはもちろん、山全体が雪崩の巣であり、
とくに南壁は標高差4800mというほぼ登攀不可能
といわれた(後年、メスナーがこの壁を登った)。 
 ヒマラヤの8000m峰は、すでにすべて登頂されているが、
ナンガパルバットへの挑戦はひとつの物語である。
 1953年は、イギリス隊のヒラリーとテンジンは世界最高峰チョモランマ
(エベレスト)登頂に成功した年。その一報をナンガパルバットをめざす
ドイツ・オーストリア合同登山隊は山中できく。
 ナンガパルバットはとくにドイツにとっては執念の山で、
それまでに6度挑戦してすべて敗退。しかも、隊員、シェルパ
あわせて31名もの犠牲者をだしていたのだ。
 だが、このときも登攀は困難をきわめ、アタック隊員は次つきと脱落。
最後にのこったのは、ひとりのインスプルック生まれの天才、
ヘルマン・ブールだけだった。ブールは、たったひとりで
無酸素、しかもテントもなく極寒のなか一晩を過ごし、ついに登頂する。
 さらに驚くべきは、仲間からあずかったピッケルを証拠にと山頂にのこし
ブールは困難な下山(手袋も片手だけだったという話もある)を敢行する。
キャンプにもどってきたブールは、さながら老人のようであったという。
 写真の解説が長くなったが(今さら)、これに関連しておすすめの本は
『ヒマラヤ登攀史』(深田久弥・岩波新書)と『8000メートルの上と下』(ヘルマンブール著・横川文雄訳・三笠書房)だ。前者は、ヒマラヤ8000m峰の登攀の歴史がドラマティックに書かれていてあっというまに読める。後者はけっこう厚い本だが、ブールの自伝で名著といわれている。

 われらが心の故郷ラボランドのロッジ名「ヒマラヤ」も、
いうまでもなくこの山脈である。
 初代のロッジ配置は北を上にした世界地図の配置になっていて、
ぐるんば城前広場からロケットにのって下界を見下ろした設定になっていた。
現在の2代めロッジもなんとかその配置に近づけて建てた。
 ようするにだれもが知っている世界の有名な山や川や湖の名称を
ロッジ名、しかもその頭文字がART BHNとすべて異なるもの
にして混同をさけているのだ。
さらに初代ではブロックごとに屋根の色も異なっていた。
 南米がアンデス山脈、北米がロッキー、トンチンが中国(洞庭湖)、
バイカル湖がロシア、そしてヒマラヤ山脈とアフリカン代表ナイル川。
 さて、ようやくラボ・ライブラリーの『ヒマラヤのふえ』。
原作者のA.ラマチャンドランは、インドでは絵本作家という
認識はされていない。というより、大芸術家であり、
国立美術大学の美術部長もつとめられた大物だ。
それは、どうでもいいのだが、この透明感あふれる絵本は、
インドの伝統美術と近代絵画の手法がとけあっている。
 ラマチャンドラン氏は日本にも何度かきていて、
故丸木位里、俊夫妻とも親交が深かった。
 現在、『ヒマラヤのふえ』の日本語版絵本は「木城えほん故郷」
(宮崎県)から刊行されているが、初版は福音館書店。
松井直先生が5年くらいかけてラマチャンドラン氏と話しあいながら
つくりあげた気合いの入った絵本だ。
※この物語がライブラリーに入ることになったいきさつは「資料集」を
参照していただきたい。
 アジアの昔話の制作でも多くのすばらしい出会いがあった。
今回は、なんかラボランドのことと山登りの話で終わってしまった。
 次回は、その出会いについて、英語、音楽、吹き込み者の皆さんに
のことなどを書こうと思う。

 ナンガバルバットを初登頂したヘルマンブールはその代償に
凍傷で手足の指を何本が失うが、その後も次つぎと高峰を制服する。
4年後にブロードピークというチョモランマの近くにある8000m峰を
登ったときの記録を見ると、ほとんど走って登攀してかけくだってきた
きたかのように書かれている。
 ブールはその足で、花嫁の峰とよばれる7000m峰のチョゴリザ
にむかう。しかし、その登攀のなかばで雪庇を踏みぬいてしまう。
同行者のカメラには先行するブールが写されており、
一瞬の雪嵐の後のカットには彼の姿はない。
  
 ナンガパルバット山頂にブールが残したピッケルは、
1999年7月、日本の登山隊が発見した。
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