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JAPAN TIMES 2/7に注目! 立春のうれしい話 02月04日 (金)
しぶや ゆい
 写真上は渋谷の東急百店本店横。裏手にあるオーチャードホール
での音楽会の前に撮影。歩行者と窓の間隔がおもしろい。
下は青山のギャラリー、スペースユイの向かいのヘアサロンとバイク。
茶畑和也氏の個展の日に撮影。なにげない街角も、
大きな病気をするとなぜかいとおしくなる。

 本当は、今日は更新の予定はなかったが、昨夜、うれしいメールが
きたので急遽アップすることにした。発信人は翻訳家・通訳であり
友人(もういまさらなので)の鈴木小百合さんからだ。
内容については事務局からもお知らせがでると思うが
よいことなので秘密にすることでもないし、速度の点も考慮して
一部を紹介する。

三沢様、

先日、事務局にはお伝えしたのですが、
2月7日付けのジャパンタイムス紙に
私のインタビュー記事が掲載されます。
通訳・翻訳家のインタビュー特集を年2回
載せるそうで、週刊STに連載をしている関係で
今回は私を選んでくださいました。

インタビューの中でラボの仕事のことも話し、
新刊の紹介もばっちりしておきました!
今度、記事をお送りします!

 ありがたやありがたや。
いつも書くことだが、ラボ教育を理解してもらうのが
ときに困難なときがある。
 しかし、テューターや事務局が思っている以上に
ラボを応援・支持してくださる方はたくさんいらっしゃる。
 在職中もそのことは意識していたが、
今、また、より深く感じる。

 さて、そのいきおいで『ノアのはこぶね』と『バベルの塔』について
少しだけふれたい。
 「少しだけ」などと、けちったいい方をするのは、かなりのことを
「制作資料集」に書いているからだ。
しつこいようだが、「ロシアの昔話」以降のライブラリーについては
歌の作品をのぞいて必ず「資料集」が刊行されている。
常にバックナンバーは事務局(本部)にあるので
支部事務局経由でオーダーすれば手に入る。

 以前の日記で書いたように、『旧約聖書』の物語に題材をもとめて
ライブラリー制作を開始するまでには、十数年を必要とした。
まるで砂時計のように、さらさら(『ノア』のラスト、
自分で気に入っている表現)と時間がながれ、やっとできた。

『旧約聖書』は、ある意味で史上最大のベストセラーである。
物語の宝庫だ。
しかし、同時にキリスト教ならびにユダヤ教、
イスラム教(詩編・律法・副員)などの聖典でもある。

 宗教は思想という意味でも、人の集まりという意味でも組織である。
しかも人がかたちをあたえたものだ。
ラボも教育活動体であり、ラボ教育も、そこに集う人も組織だ。
もちろん、ラボも人がかたちをあたえた。

 だが、宗教もラボもそうなのだが、
スタートは一人、あるいはごく少数であっても、
いまは太陽とか月などのように、人間とは別に存在するもののようになっている。
つまり、だれのものでもない、大げさにいうとみんなのものだ。
芸術、学問もおなじ。人間がかたちをあたえた組織だが、
もう人間とは別に存在する。
 だから、それぞれのなかに、それぞれのラボがある。

 学問も芸術もラボも、その意味では終わりはない、
無限の遠近法のかなたにぼんやりと像を結んでいるが、
そこまでたどりついたと思っても、その先がある。

ラボを「踊る宗教」という揶揄は、最近ほとんど消滅したが゛
ソングバードもテーマ活動も、とことんつっこめば、
そんな誤解も生まれるくらいの「ぶっとんだ境地」にいたらん。
 そんな冗談はさておき(半分本気)、
ラボは宗教・政治から自由である。
 その一方、信仰ということばがある。これは宗教とイコールではない。
信仰の対象がなんであろうと、個人の心の深い場所に
少なくとも土足でふもこんではいけない。
そうしたSensitivityは重要である。
 
 『聖書』をあつかう場合は、つまりすなわち
いろいろなケアをしなければならない。
 そのうえで、細心かつ大胆でなければならない。
そのためには、時代性、社会性という大きなテーマを
ぶれないかたちでもつことが肝要である。
 
 科学(自然科学だけでなく全般)という方法論を学ぶとき
ギリシア文化とキリスト教は避けて通れない。
数学をはじめ、基礎的な知はギリシアにあり
それにOKを与えているのがキリスト教である。
ラボでは、まずギリシアの物語をつくった。
※ざっくりとした説明だが、日記だからアリ。

 とくにギリシア文化は、西洋世界の価値のお手本になっている。
北米交流に参加した方なら気づいたと思うが、
州の議事堂や裁判所などはほとかんどがドーリア式とかイオニア式
あるいはコリント様式のギリシア風建築だ。
 アメリカは歴史が新しいから、価値の根拠をギリシアにもとめている。
そして、いちおうビューリタンがつくった国である。
 ワシントンDCを見てみるともっとはっきりする。
リンカーン記念堂(キング牧師が演説したところ)と最高裁判所
(こけらはギリシアっぽい)を結ぶの直線にはでっかいレフレクター
(池だが、エリーゼ宮のまねっぽい)
がありオベリスクみたいなワシントン・モニュメントがたつ。
この塔をはさんでホワイトハウスとジェファーソン・メモリアルと
その奥にアーリントン墓地。全体で大きな十字架になっている。
 いろいろおいしいとこどりだが、中心はギリシアとキリスト教。

 もっとも、ギリシア文化の目玉のひとつ
ユークリッド幾何学は長く物理学者を苦しめた。
ほぼ完璧と19世紀まで信じられていたからだ。
いろいろな定理はユークリッドの「うたがうことのできない公理」から
証明され、それらを用いてさまざまな事象が説明された。
 しかし、話が地球の外にまでおよぶと説明がつかいことが
いっぱいでてきた。
 ニュートンはリンゴが落ちるのを見て、
「あのリンゴをもった高い空から落としても落ちてくる。
しかし、月は落ちてこない。そして月でリンゴを落とせば…」
というヒラメキで重力の法則にだとりつく。
質量が重いものほどひつぱる力ず強いというわけだ。
しかし、そのニュートンも宇宙を説明しきることはできなかった。
彼もまた、ユークリッド幾何学を前提とした数学から
離れることはできなかったのだ。

 ユークリッドの公理のひとつに「ひとつの任意の点を通る一本の直線
に対する平行線は一本だけ」というのがある。
「三角形の内角の和は180度」は、この公理からみちびかれる定理だ。
しかし、上記の平行線の公理をうたがうと、
「三角形の内角の和は、ときには180度より大きい」という定理が生まれる。
 これはラバチェフスキーという数学者が考え出したこと。
 ニュートンは17世紀から18世紀の人だが、
19世紀末から20世紀になると、ラバチェフスキーのほか
リーマンなどの高等数学、なかでも非ユークリッド幾何学が成長する。

 さらにパリの万国博覧会ではエッフェル塔が登場、
鉄骨の塔のなかをエレベーターで移動するという斬新な発想に
人びとは未来を感じた。
 また、ピカソがキュービズムとよばれる人物の内面のでも
ゆがんだかたちで立体的に描きだした。
 ようするに「空間認識」が大きくひろがったのだ。
数学者も画家も音楽家も、同時代の空気を感じたことはまちがいない。
時代精神というやつである。
このへんは『時間・空間・建築』というギーディオンの名著を読もう。
ぶあつくて6000円くらいするが、建築家でなくても読める。
歴史的背景の記述もていねいだ。

 話をもどすと、かのアインシュタインは、
「宇宙を考えるときに、非ユークリッド幾何学をつかったら」と
考えた。それがあのE=MCC小(エネルギーは質量と光速の二乗)
という有名な式である。
 皮肉にもこれが原子爆弾をつくりだす素になったが…。

 こうした人類のはてしない「世界や宇宙の解明」にむけての
努力は今もつづく。
 さらに話をもどす。
しかしユークリッドのような基礎が大昔からあったがゆえに
その後のリーマンもアインシュタインも存在できた。
 やはり、ギリシアの人びとの想像力と知恵ははてしない。
美学においても、ギリシア悲劇とシェイクスピアをこえる
文学はまだないというのが今も基本。

 一方、その科学に倫理的に支えたのがキリスト教である。
「創世記」では、神は光で世界を誕生させる。
そして、7日かけて無機物、有機物、植物、動物、
そして人間をつくる。
まるで、地球のできるまでを見ていたかのようだ。
で、人間にのみ、Spirit、魂をあたえる。
万物の「霊長」である。
さらに、人間は人間だけが魂をもつがゆえに、
植物や動物の生命を消費して幸福になっていいというといっだ。

 対して、多くの先住民、そして日本でも古くは、
すべてのものに魂を認めていた。
風にも、森にも、熊にも、ツグミにも、海にも
ライブラリーの神話や昔話を聴けば、よくわかるよね。
人間もそうした命のひとつであり、
森や動物たちと共生を願ったのだ。
だから、先住民の問題はイコール環境問題であるのだ。

 人間だけに魂があるという考えと、すべてのものが
魂をもつという心、これこそ異文化である。
箸とフォークのちがいなど、異文化とはいわぬ。
食事につかう道具という点ではむしろ共通項。

 科学は、こうした大義名分によって自然を活用して
人間の幸福追求に貢献してきた。
より早く、より多く、より楽に…。
そのなかでもっとも大きいのは医学だろう。
人間だけが、自然淘汰に抵抗する。その手段が医学だ。
しかし、それによって尊厳死などの哲学的課題とむきあうはめにもなった。
科学はその力によって反作用も生み出したのだ。
原子力、そして自然破壊。

 そのなかで、キリスト教は抑制的な役割をもっていた。
科学のやりすぎを、ちょっとまてとブレーキをかける力だった。
 しかし、20世紀になってから、その力は衰退したといわざるを得ない。
20世紀は、大量破壊兵器が数多く登場し、ノアの洪水レベルの
被害を人にも自然にもあたえることになってしまった。
しかも、戦争は常に正義と自由の名のもとに行なわれた。

 こうした日記であつかうテーマとしては軽く書きすぎかもしれない。
どうしても舌たらずになるが、
ともあれ(なにがともあれだ!)、ギリシア文化とキリスト教は
基礎教養である。そして、人類文化の源流のひとつである。

 しかししかし、そうしたギリシアとキリスト教、
すなわちへレニズムとヘプライズムという大きな潮流とは別の
流れ、北欧神話の世界、ケルトなどを忘れてはいけない。
ラボでもきっちり、それらのテーマがとりあげらけている。
北欧とケルトを書き出すと、もうきりがないので次の機会にまわすが、
ギリシアでもキリスト教でも語れない世界も、脈々とある。
 それらもまた、芸術。文化に大きな影響をあたえている。

 ちょっとだけあげると、まず北欧神話では
コッポラ監督の「地獄の黙示録」(Apocalypse Now/79)
でワグナーの楽劇から「ワルキューレ(ヴァルキューレ)の騎行」
を用いている。
 ワルキューレは複数の戦いの女神(半神)であり、
最高神オーディンの命をうけ
戦死者を天上のヴァルハラ宮に案内する役割をもつ。
したがって、戦場に彼女たちが空高くあらわれるときは
死の前触れである。
 コッポラはコンラッドの小説「闇の奥」をベトナム戦争
に舞台をかえて翻案したこの映画で、
アメリカ軍の9機の戦闘ヘリコプター村を爆撃するシーンで
この曲を用いた。
ワグナーにあまり興味のない方も、聴けばすぐわかる。
高空を行くワルキューレを鮮やかに、かつ不気味に連想させるあの曲。
 また、保久遠の伝承叙事詩は「サガ」「エッダ」だが、
○○サガ(サーガ)、タイトルとしていっぱいつかわれている。

 ケルトにいたつては、近年、とみに注目が高い、
「ケルティック・ウーマン」やエンヤなどのポップスと
よぶにはあまりに香り高い歌唱。
 また、「タイタニック」でも、ケルトの音楽が使われているし、
先日紹介したイーストウッドノ「ミリオンダラー・ベイビー」では
主人公の女性ボクサーとジム・オーナー役のイーストウッドが
ゲール語(ケルト語派のひとつ)について会話する場面がある。
 さらに、近年の魔法ブームも、科学では説明できぬ世界への
憧憬、あるいはヘレニズム、ヘブライイズムへの反作用といえるかも。

 そんなようなも、議論や意見交換や研究や学習や思考の末、
「人類文化の源流」というテーマで,『ノアのはこぶね』のシリーズは
制作がはじめられた。
 くりかえすが、趣旨の詳細のしっかりした部分は
「資料集」にがっしりと、ふうふういいながら書いたので
ぜひ読んでいただきたい。
 で、『旧約聖書』の物語はどれもおもしろいが、
テーマ活動の展開という点を考えると、やはり創世記Genesisと
出エジプト記Exodusかなと思う。
 ちなみに出エジプト記は、組織担当時代、群馬地区の皆さんと
オリジナル作品をつくり支部総会で発表した。若気のいたりだ。
ただ、Exodusは迫力あるが、長さとしてちょっとたいへん。
それとモーセというキャラクターのあつかいはかなり難しい。
でも、魅力あるテーマだ。
 フィレンツェの天才、ミケランジェロは160センチに満たない
小さな人だったが、その作品は力強い。
彼の角をもつモーセはあまりに有名だ。
 ミケランジェロは、このモーセをつくったとき、
モーセの膝に手をおいて「さあ、立って歩け!」といったという。
ピエタ(死せるイエスを抱くマリア)を生涯のモティーフとした
ミケランジェロだが、四作とも最後まで満足することができなかった。
そのなかで1499年に制作されたピエタ(サン・ピエトロ大聖堂)は
人間業とは思えぬ美しさと、無限の慈愛と悲哀を今もはなつ。
しかし、それでもミケランジェロは、「ここにはない」と思っていた。
芸術は恐ろしい。

 また、話がそれたが、バルバース氏によって書かれた
『ノアのはこぶね』『バベルの塔』は、神話・伝承のライブラリー用再話
における1つのかたちである。
 『国生み』でもそうだが、宗教や信仰と直接むすびつく題材は
多神教にせよ、一神教にせよ、絶対的存在をどう表現するかが大きな課題だ。
だから、ギリシア神話のように、人間よりも人間的な神がみだと
ライブラリーにはもってこいだ。
なにせ、最高神が浮気ばっかりしているくらいだもんね。
夏の星座として有名な白鳥座はゼウスの化身で
レダというお気にいりの恋人のところへむかう姿だといわれる。
夏の夜は、毎晩、銀河のまんなかを南にむかって急いでいるのだ。

 『国生み』でも、四編の物語をそれぞれ異なる額縁にいれているが
第1話においては国の誕生を「こう伝える人びとがいた」とくくっている。
あきらかに日本の神話であるが、あえて距離をとっている。
しかし、その本質である男女神の協力、死と再生は見事に描かれている。
 『ノア』も、一見荒唐無稽に見えるが、洪水伝承のなかに
自然を利用しつくしてきた
人間の本質を、動物たちをもちいてえぐりだしている。
興味深いというか、興味をもってほしいのは、
人間の味方をする生き物が、ヘビなどの
ふつう人間が忌避するものたちであることだ。
それと、いよいよ黒雲がせまったとき、
危機的なセリフがある。
それはだれのセリフかという問いが、たまにあるが、
よく聴けばわかる(「資料集」には書いてあるけど)。
 『バベルの塔』もコミュニケイションの不能という
同様に本質的問題を提示した。
どちらも、じつは古来からのテーマである。
そして同時に現代的なテーマでもある。
 『バベル』は聖書原典における記述は数行である。
これを膨らませたパルバース氏はただものではない。
 しかし、完成稿にいたるには、たいへんな努力だったと思う。
第1稿はかなり長く、収録時間からいって2作品を入れるのは困難だった。
しかし、年末年始をはさんで、氏はなんどか書き直した。
 
 年があけてから、すぐに日本語をつくりはじめたが、
氏があきれるくらいのやりとりわしたことがなつかしい。
氏の言語力ははっきりいって異常にすごいから、
微妙なニュアンスもすべて一句ごとに確かめた。
日本語との長さのバランスから、書き換えていただいた所もある。
よく怒りださなかったと思う。
 だから、英語も、それから日本語も
一語、一語楽しむくらいのていねいさで取り組んでほしい、
とはひそかに思う。
 氏はねっからの劇作家である。
『ドン・キホーテ』でも賢治作品のときでも、
ふたりで原稿を練っていて、イメージにずれがでてくるとると、
氏は、すぐに立ち上がって「ちょっと、やってみましょう」
とった。それでふたりで動いてみてわかる、ということもあった。
もちろん、ライブラリーのテキストをつくるとき、あまり劇的表現を
意識しすぎると鼻につく、ということがある。
テーマ活動=劇ではないからだ(言語体験のくりかえし、ラボラトリー、すなわち
言語の実験室だから失敗は成功のもと。ただ物語へのアプローチが演劇的
要素をもっているということだね)。
しかし、こうした作品の場合では、設定や状況をほ確認する意味で
書き手が表現してみるということもたいせつだと学んだ。

 このライブラリー発刊後の支部総会(千葉だった)で、彼は
『バベル』でワークショップをやったが、とてもおもしろかった。
塔に我れ先にと争って入ろうとする場面だけをしたのだが、
そのエゴイズムと緊急性をどう表現するかを考えさせるものだった。

 『ノア』にも『バベル』にも、いろいろなしかけがある。
それは別に手品ではなく、考えてほしい、考えざるを得ない
セリフ、場面が要所にちりばめられているからだ。
 そして、いつか聖書を学ぶときがあれば、
ライブラリーがけしておふざけや冗談ではないことがわかると思う。

 風間杜夫さんの録音もすばらしかった。
ほんとうにリップ・ノイズの少ない方だ。
ただの2枚目俳優ではない。
おだかやで、ていねいで、えらぶるところのひとつもない方だ。
仕事師はそういうものである。
 『ギルガメシュ』の檀ふみさんもすてだった。
瀬の高い方だなあ、というのが印象だったが、
こちらも、おだやかさの裏側に高速回転の頭脳が感じられた。
恵比寿のスタジオで収録が終わり、JR恵比寿駅にいくと
ホームに壇さんが、まったくふつうに立って電車をまっていた。
とっくにタクシーで帰られたと思っていたのに…、
そのきれいな立ち姿はさすがだった。

 絵は堀越千秋先生。スペイン在住のカンテ(フラメンコの歌)
とワインをこよなく愛する画家だ。
その色彩ダイナマイトの炸裂と闊達なタッチはうむをいわせない。
 制作はスペインで行なわれ、
なんと作品は友人の方が成田まで手で運んだ。
半立体の作品だから、スキャナーにはかからない。
水彩やガッシュだったら原画を直接スキャンでき、
そのほうがマチエール(素材感・材質効果)やタッチ、
色合いも、より鮮明に印刷される。
 だが、絵本を見ればわかる通り、作品は半立体。
回転するスキャナーは無理だし、平版でも陰ができる。
そうなると、撮影だが、問題はカメラマンである。
これはとっても、とっても技術がいる。
原画の質感わとれば色がずれ、色を忠実に再現とようとすると
質感はかなり犠牲になる。
ラボとしては、どちらも最高でよろしく、と礼のごとく無茶ぶり。

 しかし、しかし、そのころ武満徹先生(とうとうラボの作品わ
手がていただくことができなかった! 何回かトライしたが、
どうしてもスケジュールがあわなかったのだよ)の全集CDという
豪華セットが刊行され、そのジャケットを堀越先生が描かれていた。
その作品を撮影したカメラマンを装丁家の坂川栄治氏が知っていたのだ。
坂川氏は近年のラボの絵本のデザインを担当されている。
ぼくの汁かぎり日本でも三本の指、いやいやトップの装丁家だと思う。
有栖川公園と愛育病院のあいだくらいのことろに
すてきなアトリエがあり、ぼくはそこで
打ち合わせをするのが大好きだった。
かくして、できた絵本はパルバース氏も大絶賛してくれた。
なにより、ぼくのぼろい日本語をよく許してくれたと思う。
 
 なんだか、とりとめのなさが、いつもの倍ぐらいひどい。
ゆるしてほしい。
 
 バルバース氏と『ドン・キホーテ』の打ち合わせを
京都(当時は京都市立芸大教授だった)で行なったときのことだ。
立命館大学の大学院の部屋をかりてまる1日テキストのツメをし、
食事をが終わって外に出ると、もうほんとうにまっくらだった。
時刻は10時をまわっていた。
その日は、朝まで徹夜で「テューター通信」の編集をしていて
一番の新幹線で寝ながら来たので、けっこうしんどかったが、
打ち合わせが充実していたので気分はよかった。
その日も、氏はなんどか「じゃあ、ちょさっとやってみましょう」と
立ち上がったのはいうまでもない。
夜道を歩きながら氏は
「映画は、いろいろ手間やお金がかかるけど、
演劇はすぐできる。今、この瞬間にもこの場でもはじめられる」
ほんとうに芝居が好きなのだ。

「それでは、おつかれさま」とあいさつすると
バルバース氏は「がんばりまあす。よろしくおねがいしまあす」と
日本のサラリーマンのまねをした。
その刹那、一台の車が通り過ぎて
氏をスポットライトのように照らしだし、
つかの間の劇的空間が現出した。
そして、時代を切り裂くブーメランをなける劇作家は
別れのことばを、またもどってきた京の闇に
そっとおいた。
Re:JAPAN TIMES 2/7に注目! 立春のうれしい話(02月04日)
サンサンさん (2011年02月05日 07時07分)

こんなに多くのことがほとばしり出てくるSENCHOさんて
すごいなぁ。

また、日記って一度にこれだけ書けるものなのですねぇ。

すごいです。

今、高活でバベルの塔に取り組んでいます。

どのライブラリーもそうですが
ことばは一言一言大切にしていきたいと改めて思いました。

前半は結構理解できて楽しく読ませていただきました。

ありがとうございました。
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