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中年感傷旅団出雲編(やっと完了) オオクニヌシ・阿国・そして水都へ 04月14日 (木)
サンセット
 写真は宍道湖の夕陽。撮影は4月13日午後18時30分。
この日はその9分後に太陽は水平線にきえた。
手前味噌で恐縮だが『十五少年』のラストシーンでブリアンたちが
だまってながめていた「金色に輝くたそがれの海」のイメージ。ふふふ。
 はじめに書いておくが、長ながと2日かけた割には、
今回は、常にも増してくだらぬ内容の日記なので、
まじめに読んで「なんじゃこりゃ」と怒らぬように。
写真だけながめておしまいでもいいかも。

 さても、先月の金沢につづいて、4月は出雲、松江への旅である。
おまえは、おいしい所へばかりいってるなといわれそゔ。
でも、今は一応フリーなので仕事は選ぶのだよ。
例によっておとなの事情で、くわしい仕事の中身は書かないが
(別にあぶないことじゃないよ!)
出雲・松江は約20年ぶりの訪問だ。
 前回は新版『耳なし芳一』制作時の取材。
出雲大社で撮影し、夕刻には松江で小泉凡先生(現・島根県立大学教授・
小泉八雲記念館顧問)と会見した。
大橋のたもとの猟師居酒屋で宍道湖の幸をいただきながら
ハーンやアイルランド文学、ケルトの話に時を忘れたのがなつかしい。
翌日は、小泉八雲記念館や旧宅で凡先生のお話を
ラボっ子とともにうかがった。

小泉凡先生はハーンのひ孫にあたる。
お父上は小泉時(とき)氏。
ハーンは、孫にあたる時氏のことをTimeさんと呼んでいたそうだ。

観光協会も協力してくださり、
「ことばの宇宙」で「神がみの国の首都」
というハーンの作品からとったタイトルの松江特集をくんだ。
あわせて「夕陽のへるん」というハーンの伝記も書いた。

 ここで突然話は跳ぶが、「伝記」「人物物語」は
学校図書館でも児童館でも、
子どもたちにかなり人気のあるジャンルだ。
ヒューマン・ストーリィは鉄板!
人物の浮沈以上にどきどきするサスペンスはないし、
失敗談よりおもしろいヒューモアもあまりない。
そして成功談よりスカッとする物語もそう多くない。
要するに、その人物とともに泣いたり笑ったりする
カタルシス(浄化)でスッキリというわけだ。
 さらに伝記は、ほとんどが幼いころのエピソードからはじまるから、
自分と等身大のときがあるわけで、
感情移入しやすいことこのうえなし。

 そう考えると、もっとラボ・ライブラリーに、
伝記物があってもいい気がするのだが、
実在の人物をあつかったライブラリーは『ジョン万次郎物語』
『平知盛』『ジュリアス・シーザー』くらいか。
※『シーザー』は確かに実在だが、もうシェイクスビアという
とんでもない怪物の文学作品として存在してしている別物で
ある意味、ノンフィクションではなく壮大なフィクションである。

 では、なぜライブラリーに伝記物が少ないか。
いちばんの理由は、人物伝には、常にその本人に関する
歴史的評価がつきまとうからである。
 とくに新しい人間ほど難しい。
偉大だといわれた人が、その実像は! というのはあるある大辞典。
ベイブ・ルースにしろ、JFKにしろ、その真の評価となると二転三転。
日本人だってそうだ。
たとえば石川啄木は、とんでもない借金王だった。
彼は写真や肖像画がきらいだったので、のこっている画像は少ない。
ほとんどがみなさんの知っている、
少しかげのあるいかにも抒情的な歌人らしいあの顔。
おかげで、そんなイメージが定着してしまったが、
借金をし、さらに踏み倒す技は天才的であった。
もちろん、啄木の歌はぼくも大好きであり、
そうした破滅的な私生活が作品の質を落とすものではない。
近代五輪の創始者であるクーペルタンは、
「健全な魂は健全な肉体に宿る」
といったが、これは「宿ってほしいと願うべきだ」が原文。
現実は、けっこう逆だったりするのを、かの男爵はわかってたのね。
ピカソだって、とんでもない男だもんなあ。

 ともあれ、いろいろな研究が進むほど、
歴史上の人物の実態がどんどんクリアになってきて、
歴史の教科書もだいぶ変わってきている。
とくに画像や名称は、この20年くらいで相当変化した。
聖徳太子は厩戸皇子、伝足利尊氏の画像はただの武者像になってしまった。

さらにいえば、どんな人物でも多重な面があるために、
一個の人格として物語にするのはけっこうたいへん。
また、前述したようにその歴史評価が定着するには何世紀もかかる。
そして、その背景にある物語には、ライブラリーとして成り立つ
すごいストーリィが必要となる。
このことについて、ちょっと小難しいことをいうと、
実在人物の成長や業績は、それ自体が透明であり崇高だということがある。
ある意味、登山に似ているかも知れない。

かつて三島由紀夫は北杜夫の『白きたおやかな峰』
※ヒマラヤの未踏峰ディラン登山隊の挑戦と敗退を
登山隊医師の目から描いた作品。

の批評として「アプローチ」というタイトルで
いわゆる山岳小説は、登山という透明かつ崇高かつ荒々しい行為と
同じだけの文学的感動を物語と文体でつくりださねばならない
という意味のことを書いている。

 人物伝も、その人物の業績と歩みと同じ高みの
「ことばによる感動」をつくりださねばならないのだと思う。

そうなると、新刊の『ジョン万次郎物語』について、
なんて、いきおいで書くわけがない。
まだ、10回くらいしか聴いていないので、そんなにかんたんに
評価や感想めいたことは書かないし、いわない。
もっとラボっ子たちが育ててからである。

 さて、やっと話はもどって、ハーンも
アメリカやヨーロッパでの評価がいろいろ変化した人だ。
存命時は人気作家であったわけだが、近年という20世紀後半に
ドナルド・キーン氏などの日本研究家から
「ハーンはオカルト・ジャパン」のイメージを強調しすぎたという
批評をうけた。
 でも、ハーンはプロの作家である。
ノンフィクション・ライターではない。
彼の文のすばらしいところは、対象に強力なスポットライトをあてることだ。
すると、その対象は鮮やかにうかびあがる。
そして同時に濃い影もつくりだす。
彼は、その影もあわせて描くことで、対象をよりくっきりと
描破しようとした。それがプロの文テクである。
でも、20年前くらいにハーンは再評価され、
それ以来、安定した位置で読まれ、研究されている。
 ラボでも『耳なし芳一』があるが、
文は思ったより平明であり(あたりまえだ大衆小説家だからね)
さらに格調高く、詩的でリズムもいい。
ぜひお手本にしてほしい英文例がいっぱい。
 
 かように人物伝をライブラリーにするのは大技なのだが、
ぼくもヘレン・ケラーの物語「奇跡の人」を、
ライブラリーにしたいと、あたためて構想をねったことがある。
かなり昔に、ちょろっと委員会で話たが、
そのときはほとんど黙殺(いいすぎ)、無反応でへこんだ。
これは、今だからカミングアウトする話。

 それでも人物伝がやりたくて「ことばの宇宙」に
「ワード・プロフェッショナル烈伝」というコーナーをつくり
「ことばに生きた人びと」の物語をとりあげ、
なかなか学校教育では教えないが、魅力がある人びとを紹介した。
第1回は麗江(リージャン=街全体が世界遺産)のドンバ文字を
世界に伝えたジョセフ・ロックだった。
それから、ヒエログリフ解読のシャンポリオン、
アイヌ語の知里兄妹、哲学者のウィトゲンシュタイン、
数学者のエヴァリスト・ガロア、キング牧師、
もちろんヘレン・ケラーもいれた。
 ウィトゲンシュタインなんて哲学の専門課程でしか出会わない。
でも、その歩みと人物、ことばと知への情熱は
小学生でも感動できる。
佐藤学先生のいわれるように、
質の高さがたいせつだぜ!

 ところで、人物も近年になるほど歴史的評価が変化しやすいが、
じつは文学も同様である。
 近代文学は、けっこう評価が変わりやすいし、
へたすると作者が後て手を入れたりしている。
賢治も自分の作品に、自費出版とはいえ、出てから朱筆校正しいているし
「銀河鉄道」もさまざまなバージョンがある。
井伏鱒二も『山椒魚』を晩年に直している。
 そこへいくと、古典や伝承は安定しているのね。

そして、ようやっと今回の旅だが、
奇しくも20年前と同様に
出雲大社周辺と松江市内を訪ねることになった。
ただし、こんどは取材の角度がちょっとちがうのと、
前回は足をむけなかったところにもいけるというので、
「はいはい、どこでもいきまっせ」と安易にひきうけた。
1泊2日でやや強行軍。
個人的には、もう1日とって、東出雲でヨミの国の入り口といわれる
黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)※伊賦夜坂ともいう
なども訪ね、さらにあわよくば
藻谷浩介氏(ラボOB・池上嘉彦氏に私よりよく解説するといわせた)
も着目している岩見銀山まで足をのばしたいと思ったが、
そこは先様の「こ予算」などがあるので断念。
しかし、先日の教育フォーラムで『国生み』を見たところなので
気分は「八十神モード」である。
※今回の仕事は、あまり「記紀」とは関係ないのだが…。

 というわけで、若い声がカモメのようにとびかうこともなく、
11時のJALで、おじさんは監視役のマネージャーとともに
「出雲縁結び空港」にむかった。
※最近は空港に愛称というか二つ名みたいの「つけ足し」がなされているが
どうにも違和感がある。出雲空港はJALのみだが、米子空港しANAのみ、
そして「米子鬼太郎空港」(ほんとにそう呼ばれている)だ。

 ところで、この日記では読み手をナメているというか
すぐ裏切るというか、話が急にもどったり飛んだり、
かならずしも時系列順に記述されることがあまりない、
というより、ほとんどない。
まあ、それも作文の技法ではあるが、スリリングすぎたりもするので
たまには時間経過に通り書いてみる。
えき
 出雲空港に着いたのは12時30分。
まずは出雲大社をめざすが、その手前で旧JR大社駅に立ち寄った。
ここはJR西日本の大社線(出雲市駅と大社駅を結ぶ7.5キロ)の駅だったが
1990年4月に同線が廃線となり、廃駅となった。
1912年に開業し、かつては東京から急行が直接乗り入れていたこともあった。
駅舎は出雲大社を模しており、ホームや事務室なども保存されている。
なんと、2004年には国の重要文化財に指定された。
※たしかに瓦(石見瓦)などはみごとだ。
むじんえき
 写真はホームのなかほどからの撮影だが、とっても長いのにおどろく。
東京からの急行「出雲」の乗り入れは1961年で終わったが、
その後も80年代まで「だいせん」などの急行や団体臨時列車
(サマーキャンプの臨時団体「ラボ号」、おぼえてる人いるかなあ)
が来ていたためである。
人気のないホームには春のひざしがSUN SUN。
おだやかでさみしい昼さがりだ。
出雲大社はここから徒歩15分。
現在では、10分ほどのにのところに一畑電鉄出雲大社前駅がある。
とりい
さても、いよいよ出雲大社へ。
オオクニヌシに会いにいこう。元気かな。
くだりさん
写真は大社の「下り参道」。ふつうの参道は神殿の高みにむかう
というイメージから昇り坂だが、
ここは下り坂である。
その理由は諸説あるようだがわからない。
「へりくだる」という人もいれば、
あまりらも強力な神であるオオクニヌシを
どこかで封じようとした逆の力のあらわれという
ややうがったて見方もある。
ぼくは、ちゃんと研究したわけでもないので、
フーン、らくでいいやと安易にくだった。
いずもこうこう
すると、参道わきの桜の広場で、くったくなく遊ぶ青少年たちを発見。
きけば、地元の出雲高校の新入生諸君であった。
いわゆるオリエンテイション遠足だという。
なんかとってもほっとする光景であった。
しろうさぎ
20年ぶりのオオクニヌシ。シロウサギくんも元気そうだ。
オオクニヌシは、多重な姿や名前や役割をもっているが、
これはその神格の高さをあらわしているといえる。
なんてたって、イザナギ、スサノオとつづく主流派直系だもん。
かりどの
 現在、オオクニヌシのhomeは大遷宮でリニューアルちゅう。
2014年までかかる。
鹿島建設ががんばってるが、その途中で昔の神殿のでっかい
柱の根本が見つかった。とんでもない太さ。
まさに大黒柱だ。
しかし、もともとは大黒天とオオクニヌシは別物である。
大黒のオリジナルはヒンドゥーのシヴァ神の化身であるマハーカーラ。
それが密教、仏教でもそれぞれ神となり、
仏教の大黒とオオクニヌシが神仏習合していく。
七福神の宝船(インド・中国・日本の国際交流船だ!)にものっている
のはご存じのとおりなりる

さて、このお手入れちゅうの神殿が完成しても
なかにはあがれない。それは皇族でも許されない。
しかし、ハーンは二度も奥まで入っている。
なんでかなあ。すごい。
じつは、この社の後ろの八雲山も、それ全体が聖域であり
今も立ち入ることはできぬ。
しめなわ
上は、有名な婚儀殿のしめ縄。5トンある。
出雲高校の生徒しょくんが、じつにうれしそうにはしゃいでいた。
なぜかは不明。箸がころんでもおかしい年頃だからか!
おくにあん
ここで移動。
出雲大社から10分ほどのところに
出雲阿国(1572~?)が晩年を過ごしたといわれる庵がある。
ここで、阿国は子どもたちともふれあったという。
おくにぞう
阿国はいうまでもなく、安土桃山時代の女性芸能者である。
写真は庵の横にある阿国の塔。
男装して舞踊った「かぶいた」姿が描かれている。
ぼくにとって阿国といえば、なんといっても森田曠平画伯の絵である。
あの凛としたまなざしに一目ぼれだ。
おくにぞう
庵から10分ほどの小高い丘にある阿国の墓。
※墓とされるものは京都にもある。
出雲大社の巫女であり、勧進のために諸国をめぐった阿国はここに眠る。
墓石はなく、台とその後にそれとわかる石柱がたつ。
ここは中村家(中村阿国)という私的な墓所なので行政も
公的なことはなにもできないらしい。
少なくとも、表現という仕事に、そのはしっこで関わって来た者として
あまりにもお参りに来るのが遅かったことを静かにわびた。
今も、梨園関係者をはじめ、舞台芸術関係者は大社に行く前に
この墓で頭を垂れる。
阿国は、世阿弥とともにラボの仲間は無視できない。
いなさ
稲佐の浜で、えらそーにする。「国引き神話」で知られる浜だが、
この神話自体は「記紀」には記述がなく、「出雲国風土記」のものだ。
また、神無月(出雲では神在月)で全国の神様が縁結びのサミットのために
出雲に大集合するときくは、この浜が上陸地点、
したがって旧暦10月のはじめには大社の神事「神迎え」が行なわれる。
※縁結びのサミットは、出雲大社の神官ならびに関係者が、
その昔、諸国をそういってプロモーションしたことでひろまったといわれる。
「風土記」といい、阿国といい、出雲PR戦略おそるべし。
しんじこ
阿国ロードから松江市内へ。
宍道湖が見えてきた。
この日はやたらと風が強く、遠くで嫁が島もふるえている。
広さは日本で7番め。貴重な汽水湖である(塩分は海水の10分の1)。
かつて中曽根首相のころ、宍道湖のとなりの中海を干拓して農地や
工業団地をつくるという、ほとんど思考停止的計画がもちあがったが、
さすがにそれは中止になった。
それでも、宍道湖は一部を埋め立てられたため、
かつてより少し小さくなっている。
また、土砂の流入などにより
水深もしだいに浅くなっており、最深部でも6メートルくらい、
平均では4.5メートルしかない。
 宍道湖七珍でしられるこの湖が提供する命は無限に
保証されているわけではない。
ヤマトシジミは、やっぱり宍道湖産だぜ。
※青森の十二湖もいいけど。
ようちえん
しめくくりは、松江城の内堀と外堀を船でいく「堀川めぐり」。
のんびりと下から目線で見る街もなかなか。
とちゅう低い橋を通るときがあり、4回ほど頭をさげる。
ちょっとわかりにくいがたまたまくぐった橋で、園児のみなさんが
いっしをょうけんめい手をふってくれた。
松江は水都である堀にかかる橋、そして宍道湖から流れる川にかかる橋など
全部で1052の橋がある。
※建築学的には2メートル以上ないと橋ではないそうだ。
ベニスは450、アムステルダムは1292。
松江は世界ランクの橋の街じゃ。
しろほり
船からのぞむ松江城。松江城といえば七代藩主「不昧公」。
松江とお茶とお菓子がおいしいののは彼のおかげ。
なわて
塩見畷(しおみなわて)。畷はまっすぐな道の意。武家屋敷がならび、
ハーンの旧宅(今も個人の家で一部を公開)や八雲記念館もこの道筋にある。
車がとだえた瞬間を撮影するとタイムスリップできる。
低い身分からスピード出世した塩見氏の屋敷があったのでこの名がついた。

 ハーンといえば松江というイメージがあるが、じつは松江に住んだのは
1年4か月である。
 ハーンは、故郷であるレフカズ島(筆名であるラフカディオはここから)
の風景をしのばせる松江を愛したハーンだったが、
冬の寒さはどうも苦手だったようだ。

 ハーンの旧宅や記念館では、彼が愛用した品々を見ることができる。
そのなかで、興味深いのは10段のひきだしの原稿入れだ。
ハーンは、第一稿ができる一番上の引き出しに入れ、
すぐ別の作品にとりかかる。
そして、しばらくしてから過日の第一稿をとりだして手を入れ、
二段目に移す。
 そうやって、最下段の十段めにまで来た原稿を編集者に送ったそうだ。
推敲、かくあるべし。
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