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 幕末漂流民が生きたしなやかな国際性
 再び幕末漂流民
 幕末漂流民のものがたり-その3
 幕末漂流民ものがたり-その4
 幕末漂流民ものがたり-その5
 An Introduction to Cultural Exchange
Welcome!
 三浦綾子氏の小説「海嶺」は、音吉たちの劇的な漂流のものがたりを、想像力豊かに描写している。さすが文学者であり、また、「氷点」以来、彼女のキリスト者としての人間洞察の深さが、窺い知れる作品である。音吉たちが英国のハドソン・ベイ商会によってマコー・インデアンから救助されて、ハワイ経由でロンドン、そして長い航海の後に東洋のマカオにうつり、そこでイギリスの宣教師ギュスラッフと運命的に出会う。

ギュスラッフは、音吉たち3名と聖書を日本語に訳す作業をする。そこで取り上げたのは、ヨハネ福音書である。ヨハネ伝は、その表現には、優れて思想的、暗喩的な背景があり、それを日本語の世界に移し変えるということは、言語的、特に、ユダヤ・キリスト教的背景を理解する必要があろう。

 私は、大学生時代に、銀座にある日本聖書協会でこのオリジナル訳を見たことがあるが、何ともストレートな翻訳である。”ハジメニ、カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ、ゴクラクトトモニ、ゴザル”と言う訳である。漁民であり、その時代の日常語を使用しての訳である。面白いのは、神をゴクラクと訳し、ことばをカシコイモノとしていることである。キリスト教的な世界観、人間観からではなく、文字どうり、準備の資料もなく、辞書もなく異文化の宗教理解に素手で立ち向かった音吉たちの苦労が想像できる。例え、仏教の理解が若干助けになったとしてもである。

 明治維新によってキリシタン禁教が解かれ、アメリカの宣教師である、ヘボン、ブラウン等によって翻訳された聖書からGodを「神」という訳語に定着して行く。しかし、この「神」は日本の社会的、思想的、文化状況になじまないということになるのだ。というよりも、キリスト教的唯一神を表現していないといわれる。日本では、上にたつものが”オカミ”であり、内村鑑三がのちに、天皇のご真影に礼をしなかったということから不敬罪に問われたことは、日本における神に対する認識と、キリスト教それとの違いを強烈に示したものである。内村によれば、「神」は、人間を超えた存在であり、天皇は、人間なのだと。人間を拝むことは、キリスト教の言う偶像崇拝にあたる。つまり、”私をおいてほかに神があってはならない”と言うモーセの十戒である。
 よく言われることだが日本人の神観は、唯一神ではなく、多神教なので(八百万の神)であると。しかし、この神の理解は、もう少し吟味と検討を必要とする。それは次の機会に譲りたい。

 さて、音吉たちの翻訳は、「神」を”ゴクラク”(極楽)としたのは、多分、仏教の影響が考えられる。しかし、なんとも面白いく、日本人の想像性の豊かさを感じるではないか。現代日本人にとっては、神はすでに死に、極楽も既に存在しない。こうした、精神的Vacuum(空虚)の状態、に我々は、何を生きがいとして生きるのだろうか。

 音吉たちは、帰国を拒否され、香港や、シンガポールに移住して生きたが、人間としての自尊心を失わず、漂流民を助け、心のしなやかさを失わず、国際感覚を持って異国の中で生きたことから、我々は、学ぶものがあるのではないか。日本人の漂流は、未だ続くのだ。 
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