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瀬戸内中年感傷旅団 道後から神の島へ 1 02月17日 (木)
ひらやま 
 四国へ行くといったら、友人、知己のほとんどが、
「土佐だろう。龍馬か万次郎か」と口をそろえていう。
その口調は、「けっ、すぐ流行にのるやつ」という
なんとか見下したいという下心と、その裏側にある
「ちぇっ、ひまな奴はいいなあ」という羨望がミエミエである。
 どっこい、こちらは希代のへそ曲がり。親子三代のかわりものである。
行き先はだれもあたらない。愛媛県松山だ。
 ラボで働いたおかげで、日本や世界のあちこちに行くことができた。
※一番多いのは、群をぬいて黒姫!
 アメリカは、ステイした州、とにかく足を踏み入れた州までいれたら
40州くらいになる。カナダは3州。
 メキシコ、ニュージーランド、中国(北京・上海・西安)、
※北京は録音(中国語SK3)でも訪問した。
そしてウェールズ…。
国内でも、海の学校で高島、平郡島などにも行くことができた。
幸運なことである。今さらだが、旅は個人の世界をひろげる。
もちろん、このほかにもプライベートで、ちょこちょこはでかけた。
しかし、個人的旅行は、年齢と反比例して減少の一途。

 そんなこんなで、いざフリーな立場になると、
そしてマジな話、人生ののこり時間を計算するようになると、
動けるうちに、あちこち行かねば! というわけだ。
 で、振り返ってみると、四国には一度も行ったことがない。
ふしぎだが、仕事でもプライベートで縁がなかった。
 
 そんなわけで(どんなわけだ!)、如月の旅は四国である。
なぜ松山なのかは、読んでいくと多分わかる(偉そー!)。
でも、それほどすごい理由ではないのであしからず、
ただ土佐は、なんか付和雷同チックなので次回かなあ。

 最初の写真は2日目、つい昨日の昼ごろ。
平山郁夫美術館にて。
 朝、9時過ぎに後述の道後温泉から車で出発。
今治市経由で、「しまなみ海道」を北へ。
バレンタインの大雪がウソのような青空だ。
やがて橋をこえる。
来島海峡は早春の陽射しを、海風と舞踏させて乱反射する。
水面はべた凪だが、車内からも潮目がはっきりと見える。
まさに瀬戸だ。
大島、そして大三島(後述)をこえて生口島(いくちじま)へ。
ここは、もう、広島県尾道市である。

 平山郁夫美術館は、この島の港から10分ほどのところにある。
平山画伯は、1930年、この島で生をうけた
画伯の画業については、ぼくが小賢しい能書きをたれる必要はないだろう。

 ずいぶん昔の「ラボの世界」の「十代とともに」に平山画伯の
インタヴュー記事が掲載されているが、
ぼくはそのころ制作にはいなかったので、
「へぇーっ、すげえなあ」と記事を読んだ記憶のみが残っている。

 この美術館は1997年4月に開館、
http://www.hirayama-museum.or.jp/index.htm
大作の下絵や少年時代の作品など、貴重な作品と出会うこともできる。
もちろん、ここから世界の美術館に貸し出しが行なわれている。
※個人的感想だが平山氏のアーティストとしての
 世界評価はもっと高くてなってほしい。
※賢治と平山郁夫の世界評価については不満だぞ。

 国民学校の四年生のときの絵日記などを見ると
すでにその画力が炸裂している。
デッサン力、構成力、そして色彩。
画材はとぼしいはずなのに…。
そしてなにより、その観察眼におどろく。

 ピカソもいったが、絵においてたいせつなのは、
「まずよく見ること」である。
音楽においては、よく聴くことであり、
文学においては、よく読むことである。
 どうしても、inputは受け身と考えがたちだが
むしろ、描くより見ることがたいせつであり。
弾くより聴く、書くより読むことが、まずは重要なのだ。
いうまでもなく、ラボにおいては
「ことばを聴く」「絵本や、発表を見る」というinput
がたいせつであることはいうまでもない。
英語や日本語が「いえる」みとは、すてきなことだが、
聴くこと、はとても積極的な表現行為だ。
 「うまく描こう」「うまく書こう」「うまくいおう」
と考えたらだめなのね。
 平山少年も、ぜったい「よく見て」いたはず。

 ティールームには、瀬戸内の光が静かにふっている。
画伯自身も述べているが、瀬戸内の風と光が
画家平山郁夫の根っこにあることはまちがいないと実感できる。
 間宮先生の「幼いとき、どれだけ美しい自然の音や色を体感することは、
音楽のみならず、あらゆる芸術において、
すぐれた過去と出会うこととともに
たいへん重要です」ということばを思い出した。
 そして、
 平山画伯ももうひとつの原点は被爆体験である。
この人類がおかした最大のあやまちのひとつが
画伯の画業・画風・画法・思想・活動の根幹にある。

好きな「求法高僧東帰図」をぼうぜんとながめていると、
ひとりの紳士が、やさしく声をかけてくださった
それが写真の平山助成館長であった。
 館長は平山画伯の実弟である。
あやしげな中年が、やけに熱心に観覧しているので
ちょっと心配になって接近されたのかと邪推したが、
とても親しくお話していただき、名刺までちょうだいしてしまった。

 そうこうしているうちにすでに正午を過ぎた。
ていねいにお礼を述べて辞する。
 入り口に子どもたちの絵画が展示してあるのも
教育者でもあった画伯の志をうけついでいる証だろう。
 外に出ると、海がまたひときわあざやかにきらめく。

 シルクロードを中心に35万キロにおよぶ取材旅行をした
昭和の玄奘の魂は、
 今はふるさとの海や、天山山脈のはるか高空に、
そしてインドの大地に、
自在に遊んでいるのだと確信した。

 平山画伯といえば、ライブラリーの『ふじみの九人きょうだい』
の画家、劉欣欣(リュウ・シンシン)氏とのエピソードがある。
劉氏は、中国の東北地方の出身。
『ふじみの九人きょうだい』は、雲南省イ族の昔話をもとに
テキストはラボのオリジナルだから絵の担当者もきめねばならない。
 その前に、
 「ちびくろサンボ」とともに「シナの五人きょうだい」の
差別問題論争をご記憶の方はあるだろうか、
前者のほうは、黒人をステレオタイプとして侮蔑的に描いている
ということで問題になった。
 個人的には、確かにスタレオタイプ(昔のカルピスのロゴも
黒人がストローで飲んでいる姿が同様に問題になった)ではあるが、
それほどサンボを侮蔑しているようには思わない。
 例によって表現の自由はどうなんだという、けっこう不毛な
(個人的な感想だからね。いちいち目くじらたてぬように)
議論もあり、自費出版するグループもあらわれたと思う。
 「シナの五人きょうだい」も同様であったが、
シナ=支那ということば、中国の蔑称だということ、
すなわち中国に対する日本の侵略行為の象徴としての名称だということも
悩ましい問題だった。
加えて支は支線などようするに枝葉の傍系ということであり、
那はへんぴな所という意もある。
 ただ、シナの語源はラテン語由来とされる説が有力(らしい)
とされており、そうとう古くからある歴史的呼称である。
 シーナがインドではチーナになり、また英語のChinaにもなった
といわれる。ただし、Chianaの語源は長安からだと、
中国の方からきいたこともあるぞ。
 しかし、支那という名称に歴史的背景から否定的になるのは
ある意味まっとうなSensitivityかも知れぬ。
 さらに、話は飛ぶが、
ライブラリーの『ナイチンゲール』にもシナということばがでてくる。
むかしシナの国の~ というあのくだりだ。
 この物語もヨーロッパから見たアジアという歴史の襞(ひだ)゛か
感じられるが(まだまだふしぎな所だった)、
昔話の形式に自らのファンタジーを投影したアネルセンは
(アンデルセンは、デンマークではもちろん、ヨーロッパではアネルセンという
音が基本。どこにもD音はない。いまさら無理か)
まったくふつうに、中国の呼称としてシナ、あるいはシーナと
書いたのだ。
 だから、日本語を書かれた山室静先生も、特別に意識せず
その音をつかわれたのだと思う。
じつは、このシナということばを司修先生にご指摘をうけたことがある。
司先生は、戦争憎み、平和をテーマにされている大画家である。
石原慎太郎氏の小説の挿絵をよく書かれていたが、
石原氏が政治家になったときから、
「ぼくとは考えが異なるので、お書きすることはできません」
といいきったほどのぎひはい方である。
 そのときは、すでに山室先生は亡くなられていたが、
シナの語源と山室先生の、ことばと文学に対するお心を
説明することで、司先生にはご理解いただいた。
 
 本題にもどる。
シナということばの議論はさておき(しかし、このことばが
そうした歴史的背景があるという認識はたいせつ。
無邪気に昔ながらの支那そばなどと平気でメニューに書いて
いるラーメン店はこまったものだ。たぶんおいくないだろう)、
 『サンボ』も『五人きょうだい』も、
大問題なのは、どこの国の話がよわくわからないことだ。
以前の日記にも書いたが、昔話を具象的に描くときは
それにりの考証が必要だということだ。
それは最低限の、その物語を語り継いだ人びとへの
リスペクトである。

 『シナの五人きょうだい』では、五人きょだいのヘアスタイル
がすべて弁髪である。
この髪型は満族のものである。イ族のものではない。
清朝の皇帝が弁髪なのはご存じの通りだ。
ラストエンペラーは漢族ではないのだ。
ジョン・ローンが弁髪を自らきるシーンはすごかったなあ。
 やつぱり地域不明になっちゃまずいよね。

 それで、『九人きょうだい』にやっともどるが、
そんなわけだから、やっぱり中国の画家に描いてほしいなという
事になった。
 何人か候補があがったが、結局、迫力のある
劉氏に決まった、
この当時日本でデザイナーとして活動しつつ
精力的に抽象画の制作をしていた気鋭の画家を紹介してくれたのは
ラボの中国交流をコーディネイトし、北京月壇中学との交流にも
尽力されたオフィス華林(ホア・リン)のリンさんである。
 劉氏は前述したように、中国の北部、
たいへん寒いところに生まれた。
両親はガラス工場ではたらいていたが、物質的には豊ではなかった。
ただ、劉少年は幼いときから絵が好きで、ヒマさえあれば
描いていたという。
 だが、画材がない。墨だけはあったという。
さすが書の国である。
 筆は、そこいらを走っている馬をつかまえて
その尻尾の毛でハンドメイド。いのちがけである。
 たが紙もない。貴重品だから、あったとしても
日本の子どもみたいに「失敗したから新しいのちょうだい」
などということは許されない。
でも、たくさん描きたい。
 そこで劉少年は、家にたくさんあるガラス板に
墨で描いた。これだと描いたら、すぐ布でふけば
また描ける。何度でも描いては消し、描いては消しだ。

 やがて小学校に入る。そこで、好きな絵が学べると
劉氏はよろこんだ。
だが、不幸にも文化大革命の波がやってきた。
 勉強などとんでもない。ましてや、芸術などは
反革命の象徴といわれた。
 『西遊記』の絵の李庚氏の父親は中国芸術家協会
副主席もつとめた大芸術家であり、その書は
国外持ち出し禁止であるが、
親子ともどもモンゴルに「下放」され、
牧童生活を強いられた。
 
 劉氏の学校も教師はほとんどいなくなり、
授業は成立しなにかったという。
 ただ、なぜか美術の先生がひとり、健康上の理由
(だったらしい)で学校に残っていた。
その教師が毎日、絵の指導をしてくれたという。
 やがてときは流れ、文化大革命にも終わりがきた。
劉氏は大学生年代である。
 「まともな勉強は、なにもできていない。
ぼくは、どうやって食べていこうかと思いました」
 途方にくれる劉氏にその美術教師は
北京の国立芸術大学を受験するように勧めた。
劉氏はきりつめた生活のなかから旅費を捻出し
30時間以上かけて北京にでる。
 そして、気の遠くなるような倍率を突破して
芸術大学に入学をはたす。

 物語はここからだ。
平山画伯がシルクロード、東西文化の交流をテーマに
創作、さらに文化財保護に情熱を注がれたことは
あまりにも有名である。
 画伯はシルクロードの取材や調査に来るごとに、
芸術大学に立ち寄り、講演をしたそうである。
 劉氏が最終学年になった春も、画伯の講演がひらかれた。
大きな階段教室は超満員、壁際には教職員がきびしい顔つきで
警備もかねて直立不動でならぶという、ものものしいふんいきである。

 講演が終わり、通訳の教授が
「平山先生が質問はないかとおっしゃっいます」
とアナウンスする。
 しかし、だれも手をあげない、というか
そんな空気ではないのである。
なにせ、壁際の教授陣が、じーっとにらんでいるのだ。
 だが、そのころ、日本の伝統美術、さらには近代美術、
そして平山画伯の仕事に興味をもちはじめていた劉氏は、
まったく空気を読まなかった。
「はぁい」と手をあげた。
すると、いっせいに全学生、全教授が彼をにらんだそうである。
通訳は当然指名しない。
 するし画伯は「あそこで一人手をあげていますね」。
そういわれたら通訳は無視できない。
苦虫を一万匹かみつぶした顔で劉氏を指さした。
すると
「先生、ぼくは日本の美術を勉強したいんですが。
どうしたらいいですか」

 これには一同、もう唖然。たおれそうになった女性教授もいたそうだ。
でも平山画伯は笑いながらこういわれたという。
「きみは、日本語ができますか。日本語の勉強ができたら
わたしのところの大学院にきなさい」

 「はい、わかりました」とこたえた劉氏は、その後、
ほどなく日本に来てしまう。
 日本語学校に通いながら、芸大大学院入試のための創作を
開始する。
 入試は秋だ。
 「まだ、日本語はたいしてできなかったけど、
大学院の試験は実技、作品の提出だけだったから」
 
 劉氏は巨大な入試用の作品を三点、山手線で三往復して
運び込んだ。受付の人が仰天していたという。
 結果はデザイン科に見事合格。
「その年、何人入れたの」ときくと
「ぼくだけ」
 恐るべし劉欣欣。
 彼は、もう中国に帰って活動しているが元気かなあ。

 劉さんとは、年が近かったせいもあり、
また美術の考えも同感できることが多く、すぐになかよくなった。
 そのころ、「ことばの宇宙」に
宇宙人の「やればできるクッキング」という企画があった。
新刊が出るとそれに関連する料理を
ラボっ子とつくってもりあがり、
そのレシピや感想文をのせる
お気楽だが段取りがたいへんなコーナーである。
 ロシアのときは、ピロシキ、「大草原」ではターキーロースト
などに挑戦した。
 
 劉氏には「餃子をつくれ」とたのんだ。
ひどい話である。
 でも、彼は「おもしろい、やりましょうと」ふたつ返事でOK。
友人の中国人夫妻(しかもその婦人のほうは料理学校先生を教える先生)
を連れて来てくれた。
 場所は、ラボっ子の家に迷惑もかけられないので
ぼくの家でやった。
 参加するパーティは、息子が入っていた野田和美パーティである。
息子が小1のときだ。
 その息子も今年で29歳。
 
 残念なことに、野田和美テューターは、もうこの世にいらっしゃらない。
とにかく、ライブラリーをよく聴くパーティだった。
 そして、かぎりなくラボとラボっ子、そしてテーマ活動が
大好きな方だった。
 研修の発表で王様役をしたら、だれもかなわないくらいおもしく
そして聴き込みもすごかった。

 でも、その遺志は、知美さんにしっかりと受けつがれ
神奈川の野田知美パーティとして活躍している。
 物語とともに命もつながっていくのだなあ。
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