避難日記 その2 |
03月29日 (火) |
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津波の話で日にちが前後しましたが、3/19~25は、避難でいわきを出ていました。前にも書いたように行き先は仙台の実家。
ここでおもに出てくる地域は、私の実家近辺:仙台市中心部、若林区、太白区、宮城野区の比較的被害が小さかった所です。同じ区内でも沿岸部、津波で被害を受けた地域はまったく違うことを先に述べておきます。
震災から1週間経った仙台中心部は、いわきのそれに比べたら、もう復興の兆しが見えていた。飲食店が開いているのだ。限定メニューではあるけれど、もうランチをやっている。ガソリン不足のあおりもあるけれど、自転車が勢いよく走っている。何というか、もう上昇するエネルギーが漂っているのだ。
宮城県沖地震から32年、仙台市街はやっぱり復興に強いのか。
なかなか買い物に行けない実家や、ちかくの伯母の食糧も大分少なくなっていた。
滞在中の私の役割は物資調達。
連日スーパーに1時間並ぶあいだに、自然と隣に並ぶひととお互いに震災のことを話した。
そのなかから印象的なエピソードをみっつ。
◎中国人の主婦との会話。マンションの19階に住む彼女は停電、断水のとき、1階から19階まで階段を上り下りして水を運んだという。
この大きな地震にも大騒ぎせず静かな日本人に驚いたという。
買い物の列にも、ケンカもせず落ち着いて並んでいられる日本人はすばらしいと褒め称えていた。ちょっと照れる。
◎2歳のお子さん連れの若いママ。津波目と鼻の先まで来た地域にお住まいで、数日避難所で過ごしたという2歳のお子さんが地震の日以来ママから離れられなくなってしまった、恐怖を抱えているようだ。避難所生活でお子さんが肺炎になりかかったがなんとか大丈夫だったという。
◎初老の女性。地震の日ご主人が相馬に出張、車で逃げているところに津波が来て車がコントロールを失い止まらない、運良く?電柱にぶつかり止まったときウインドーを空け脱出し、泳いで何とか足のつく所に行き、あてどなく何時間も歩いたところを救助の人に助かり病院へ移送、低体温症で33℃になり、ご自宅に電話したあと意識不明に。しかし数時間後に意識を取り戻し、無事戻ったという。
みんな色々あっても、そこに並んでいられるだけ幸せだったと思う。
仙台のラボ事務局にも顔を出してみた。
橋本局長、鐘ヶ江さんが電話での対応に追われていた。ふたりとも少し疲れていたけれど、元気そうだった。永田さんも大変だという。
事務的には休止中の北日本支局だけど、明日にでも再開という勢いで頑張っていた。皆さん、とにかく無事でよかった。
ラボセンター近くの、焼魚定食がおいしい店の窓に、
「くじけないぞ 仙台・東北」
と書いた紙が貼ってあった。
そうだ、東北人にはこういう芯があるんだ。
力をもらったことばだった。
25日に私だけ一足先にいわきに戻ってきた。
28日には娘2人も戻ってきた。昨年「ひとりだちへの旅」を経験した長女がいれば大丈夫、と、迎えはしなかった。国際交流に出してよかったと思うことは、親も子も、こういう時に肝が据わる。
地震、津波に加え、原発問題という未曾有の試練があるこの地域だけれども、とにかくここで頑張るんだ。
いわきもくじけない。
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Re:避難日記 その2(03月29日)
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カトリーヌさん (2011年03月30日 01時02分)
全ての体験を糧にしていこうとする姿勢、頭が下がります。お身体お大事に。
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いつも応援しているからね
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マミーさん (2011年03月30日 08時24分)
がんばれ 日本!ていうことばがあふれているんだけど、
それって 外側の人の使うことばなんだと感じていました。
「くじけないぞ 日本」
すごくいいことば。
こんなときだからこそ、
志賀さんのことば待ってます。
あなたならきっと切り抜けられる。
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Re:避難日記 その2(03月29日)
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☆ショコラ☆さん (2011年04月01日 18時45分)
言葉にして書くことで気持ちが少しずつ落ち着いていき、
心からの言葉が響いて励まされる。
被災されたミッキーさんたちも、
被災状況を知って今自分がすべきは?と悩んだ私たちも
立場が違うのに同じように
言葉が持つ力を改めて感じているように思います。
ミッキーさんの言葉をパーティ通信と私のブログに引用させてください
ね。
もし横浜方面へ避難しているラボっ子がいたら、そっと教えてくださ
い。
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