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寛容と非寛容 年の終わりに(アジアの昔話2)  12月31日 (金)
なかの いせたん  
 写真上は青梅街道、中野区本町3丁目のバス停近くのショップ。
ラボセンター本部からはバスで10分もかからないところにある。
散歩ちゅうに撮影したもの。なかなかにおしゃれなオリジナルの
ニットや小物がある。
 下は本日、大晦日、正午の新宿通り3丁目の交差点。東北の角から
西を撮影。したがって正面の建物は伊勢丹百貨店本館。
ぼくが幼いときはこの伊勢丹が10階建で最高層だった。
 新宿の街は意外に静か。しかし、伊勢丹の地下食料品売り場は
とうぜんにも大混雑だった。ここの売り場面積の広さと食材の豊富さは
すばらしいのだ(最近リニューアルして、よりグレードアップした)。
 「衣食足りて礼節を知る」という有名な成句がある。
よく「論語」からのことばと誤解されるが、出典は「管子」
(春秋時代の斉の宰相、管仲のことば)だ。
 原文は「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」。
倉庫がいっぱいになって礼儀やモラルが身につき、衣食が
十分にあって名誉とか恥を知るということなのだが、
オリジナルが短縮されてしまったのだろう。
では、衣食足りた日本人は礼節を知ったかといえば
イエスとはいいにくい。いわんや栄辱をや。
『ヒマラヤのふえ』のラモルとブリンジャマティを見よ。
衣食はぜんぜん足りてなくても、感謝と礼節に満ちて生きている。
むしろ、足りすぎるだいじなものを失うんだろう。
 まあ、管仲は富国強兵を国の基本と考えていた人なので
こんなことばもいいそうだなと安易に思ったりして。
 
 昨日の朝、上の写真のそばにあるバス停のベンチに
ホームレスとおぼしき男性が1名、うずくまるようにすわっていた。
まるでかたほうだけのブックエンドのようだ。
 気温はかなり低く、男はじっと身をかがめている。コートをきこんでは
いるがつらそうだ。かたわらには家財道具、全財産がキャリアにくくり
つけられて静止している。妙に整理されているのが寂しい。
「われわれは他人の不幸をだまって見過ごすほどに強い」
とラ・ロシュフコー(17世紀フランスの箴言家・モラリスト)はいった。
そんな上から目線のわけしりことばをはねかえせねない自分がつらい。
しかし、おどろいたのはその足下だ。
 彼はピカピカの白いナイキ製のサッカーシューズ(しかも皮の)を
履いていたのだ。冷え込みに対抗して膝をゆするたびに、
クリーツ(靴底のイボイボ)がアスファルトをコツコツとたたく。
男がその靴を手に入れるまでにはストーリィがあったはずだ。
そして、おそらく、そのナイキは彼の「晴れ靴」なのだ。
 勝手な想像だが、その靴音には安直な同情を拒絶する誇りの
ような強さが伝わってきた。
 今日は年末名言集みたいになって心苦しいが
「同情は連帯を拒否する」とは岡村昭彦氏(ジャーナリスト・写真家
『ベトナム戦争従軍記』=岩波新書は名著)のことばだ。
 「かわいそう」というのは、ともすれば自分を上においている
傲慢さの裏返しになりがちだ。
 しかしかし、とまた大晦日に問い返す。
慈悲、慈愛、わかちあい、思いやり…。これらは無力なのか。
意味を失ったのか。
 いや、そうではない。
確かにいつまで歩ければたどりつけるという保証はない。
はっきりしているのは、あきらめたらそこで終わる。
その力をつけたい。病を得ても、去年より年をとっても
まだ成長したいと思う。
またまた名言で恐縮だが
「行動する人間は未来を信じる力がなければならない」
畑正憲氏のことばが勇気をくれる。
未来を信じる力、いいかえれば希望。
 ラボ・ライブラリーにはそれぞれにテーマがあるが
21世紀になってからのライブラリーに一貫して流れているのは、
まさにこの希望にほかならないと信じる。

 ラボ活動は、ある意味、ゴールのないリレーかもしれない。
ただ競争ではないけれど。

 こうして書いているうちに、あと1時間強で新年だ。
来年こそは、おだやかな年であってほしい。
 1916年のアメリカ無声映画の傑作に、映画の父、D. グリフィス監督
の「intolerance=非寛容」という作品がある。
淀川長治氏の解説付きDVDが2000円以下でAmazonなどで
手に入るので、ぜひ鑑賞してほしい。
四つの異なる時代を舞台に、人類の非寛容さを描きつつ
ラストで寛容=toleranceのたいせつさを示される。
当時としては破格の制作費をかけた壮大なセットがすごい。

 主張することはたいせつだ。しかし、受け入れることはさらに
勇気と誇りを必要とする。
 すべての迫害、差別、紛争の根底には非寛容がある。
寛容さだけでき国際的力学の抗することは難しい。
しかし、非寛容の暴走をとめることができるのは寛容だけだと思う。
深い意味でのtoleranceとはなにかが
ころからの地球のテーマになるだろう。
そのためにも、ラボっ子たちには
世界の文化に尊敬をはらうことができる垣根のない心を
物語から学んでほしいと思う。

 ほとんど「アジアの昔話」のことを書かず、えらそうな話になってしまった。

 今朝、上の写真の店の前にホームレスの男性はいなかった。
どうしているだろうと思ったとき、6歳くらいの少女をつれた
母親と、たぶん祖父であろう男性の3名の家族とすれちがった。
笑顔がすてきな母親は、はっきりとした、かつやさしい声で
こういった。
「今日はね、ママがちいさいころにだあぃ好きだった
『エルマーとりゅう』というご本を買ってあげるね」
「ほんと! うってるかなあ」
「ぜったい本屋さんにあるわよ」

 その子はきっと正月のあいだ読みつづけるだろう。
こうして人の命のように、物語もまたうけつがれていく。
 PEACE TO ALL!

 
 
Re:寛容と非寛容 年の終わりに(アジアの昔話2) (12月31日)
かせだまさん (2011年01月02日 19時50分)

日本の中野なんですね。ラボセンターから中野のサンプラザが

みえますね!

ご在職中は、大変お世話になりました。

ありがとうございました。

今後とも よろしくご指導くださいませ。
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