幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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歌い鳥たちよ We Are Songbirds 01月15日 ()
かぴらの
 写真はバンクーバーのキャピラノ川の河口付近で。
※できれば"Song of the Salmon"の音楽CDをかけて読んでほしい。
時は2006年4月3日。『鮭、はるかな旅の詩』の音楽録音の翌日。
ベンチに赤いラクジャとサングラスであやしく腰掛けているのがわし。
このころは今では考えられぬほど太っていて恥ずかしい。
その手前後ろ姿の巨人はニコル氏。
奥でビデオをかまえているレモン色のマウンテンパーカーの男性は
当時、ラボのシアトルオフィス勤務だった間島氏(現・財団事務局長)。
シアトルからバンクーバーは近いので応援にてもらった。
 この写真を撮ったのはニコル氏の長女でバンクーバー在住の美和子さん。
彼女はこのときの録音のコーディネイトをすべてやってくださった。
さらに、カナダ先住民の画家スーザン・ポイントさんとラボとの
仲人という大役も果たしていたいだ。
 1972年、この川のもう少し上流で、ニコル氏はカナダ政府の
環境保護局の環境問題緊急対策官として海の汚染と戦っていた。
この写真は、たぶんそんな話をきいているところだ。
バンクーバーも大都会だが、4本の川に鮭が帰ってくる。
というか、きびしい環境保護法を制定することで
川をよみがえらせたのだ。
このあと、「日本もまた間に合うはず」と美和子さんが
目せをうるませながらいったことは忘れない。
 バンクーバーの4月はじめは、意外におだやかだった。
遠くの山はすべて真っ白だが、市内は桜とマグノリアが満開だった。
通りごとに並木の種類が異なり、安吾と賢治がいれかわりたちかわり。
  
 さても、年が明けてからは、ご前中は音楽を薄くかけながら
本を読むか書きものをしている。
 年末にBOSEの小さいがなかなかよいスピーカーを入手したので
うれしがってジョージ・ウィンストン(アルバムは"December"が好きだ)
とか、KEI AKAGI TRIO(ケイ・アカギは、マイルス・デイビスが最後にくんだ
コンボの日本人ピアニスト。大学の先輩でもある)とか、Rin(邦楽演奏者
の女性3名のユニット。アメリカでも活躍。2009年に解散。「胡蝶の夢」
「美貌の国」などはおすすめ)、五つの赤い風船(古い! しかし、もうこういう
グループはでてこないなあ)、ハプニングス4とか、マニアック
なアーティストの作品を聴いている。
 さきほど薄くかけて書いたが、小さな、いわゆるCDラジカセ(もはや死語)
くらいの大きさのスピーカーは、じつはかなりのヴォリュームをあげないと
その本来の力を発揮できない。
 力のあるスピーカーは、音量をさげても一定の表現力を保つ。
だから、ラボ・ライブラリーも、住宅事情いろいろあるが
できるかぎり大きな音で聴いてほしいと思う。
 ヘッドフォン(耳に入れるやつでなくかぶせるタイプ)で聴く
のもいい。
 そうすると、人物の距離感などが見えてくると思う。
 それから、これは間宮先生に昔指摘されたことだが、
発表会で音楽CDの音量をほとんどきこえないくらい低くして
しまうのは音楽家にとってはつらい。
 子どもの声が聴こえやすいようにとの配慮もあるが、
音楽のもつ意味あいもまた重要。
音楽をキイやきっかけにして動いていることは
しょっちゅうあるはず。
音楽CDのタイミングをまがえたりすると、ブーイングがおこるもんね。
音楽CDついでにいえば、1977年、ラボに入社して2年目、関西総局にいたころ
とてもおもしろい『きてれつ六勇士』の発表を見た。
 発表は学校の講堂によくあるようん高さのステージで行なわれたのだが、
舞台センターの下の床、すなわち観客席の最前列のその直前に
ラボ機(当時使用されていたライブラリー専用アナログカセット再生機)
が置かれた机とイスがあった。
 司会の紹介に続いて、5年生く上手らいの男子が下手から登場し
センターの机のところまでくると、観客にむかってぺこっとお辞儀をした。
続いて、舞台には上手、下手両方から発表する子どもたちが
全員あらわれて整列すると、舞台下の男の子はくるっと
舞台のほうをむいて右手をあげた。
 それがキューだった。舞台上で全員礼。
すると男の子はおもむろにイスにかけて、音楽をスタートさせた。
『きてれつ六勇士』のあのファンファーレである。
それかから物語の最後まで、男の子は見事な音楽係をつとめた。
 後でテューターにたずねると、その男の子は自分で志願したという。
そして、だれよりもテープ(当時)をたくさん聴いてきた。
家では自分でひとり語りをしながら音楽係のリハもした。
 だから、ふつう舞台の袖などの陰で行なう音楽操作を
指揮者のように舞台下中央においたと、そのテューターはおっしゃった。
※かなり前に勇退されている方

 またまた長い前置きだが、きょうはSongbirdsの話。
現在も、おそらく、いやきっと、所有率第1位のラボ・ライブラリーは
"We Are Songbirds μ"である。
 入会するとほとんどもつもんなあ。
このライブラリーが刊行されたのは1990年12月。
もう21年もたつのだ
 「わたしたちは歌う鳥たちである」
なんとすばらしいタイトルだろう。
 歌うという表現する姿勢、さらに羽ばたくという高みをめざすイメージ
ラボっ子そのもの想起させる。
 ギリシア文字のμは音楽の神ムーサイの頭文字から(名付け親は「がのさん」)。

 なぜこの1文字がついたかといえば、これ以前にアナログテープの
"We Are Songbirds"が存在したためである。
このSongbirds(以後はこれで表記)こそ、
もうひとつのラボの柱といえるほどの歴史をもっている。
 テープのSongbirdsは,当時のラボっ子はほぼ全員もって
いたが、さらにその前にラボ機とラボ・テープがテューターだけが
所有していた草創期、"Now It's a Play Time!"というSongbirdsの
原型ともいうべきテープがあった。
テーマ活動以前の話である。
 こんな調子で書いていくとラボの歴史を全部書くはめになるので
話をすっとばすが、歌はラボのなかでは早くから重要アイテムだった。
今でこそ、あたりまえのように歌やゲームは「英語塾」や小学英語で
とりいれられているが、1960年代の日本では斬新だった。
 ともあれ、Songbirdsはμが登場するまで20年間、ラボっ子たちの
表現エネルギーをひきだし続けた。
そのころにつくられた遊び方や踊りは、その多くが今もうけつがれている。
 さらに、70年代後半にはSongbirds 2、そして3も刊行された。
第2集ではスクエアダンス、フォークダンスなどの
それを踊れるようになることがひとつの目標となるような曲が登場、
高学年のラボっ子たちはえらくテンションがあがった。
また、ハワイの歌、ブルガリアの舞曲などは、歌や踊りがこんなにも
世界をひろげてくれるんだと教えてくれた。
 第2集は1978年だったと思うが、ぼくは関西から
東京に出張して、まる1日、指導をうけた。
汗だくだったが、関西に帰って他の事務局員やテューターに教えねば
ならないという責任感で必死だった。
ブルガリアの舞曲のホロは11分の7とか、ぼくらの身体のなかには
ないリズムで、新鮮かつしんどかった。
 日本にひとつだけあるブルガリア舞踊団の奥野先生がご自身で
指導にきてくださったのがうれしかった。
 
 ちなにハワイの歌は、ハワイの偉大な王の名をもつ
「カメハメハ・スクール」の協力による。
この学校では、美しいハワイ語をのこそうとハワイ語教育を行なっている。
※創立したのはカメハメハ大王のひ孫の方。

 歌、とくに伝承歌は昔話のように、その歌を生んだ人びとの
喜びや悲しみ、そしてその地域の風光を内包している。
だから1枚の絵はがきより、曲のほうがその地域のイメージを
ダイレクトに感じさせてくれる。
 だから、幼いときかいろいろな国や地域の歌やおどり触れることは
垣根のない心、自分とは異なるが、他者にとってたいせにしているものを
理解し、うけいれる心を育てる。
 そして、歌も物語と同様にひとつの表現にとらわれることなく、
自由に取り組んでほしいと思う。
 「知らないとできない」はなし。

 ラボの草創期から1980年代末まで、Songbirdsがラボに
あたえたものははかりしれない。
 しかし、時代はCD、デジタルにむかっていた。
また、草創期には最新鋭機であった「ラボ機」も、
さすがにその役割を終えるときが近づいていた。
なにより、ラボ機を購入あるいはレンタルすることが
条件であったことが入会のネックになりはじめていた。
ラボ・テープはすばらしいとだれもがいうが、
それを再生できるのは特殊なラボ機だけというのは、
きびしいことである。
※CD化は1990年から行なわれたが、研究はその数年前から
スタートしていた。1980年に結婚して、翌年に東京もどっていた
ぼくも、その研究メンバーにはいっていた。
 CD化は一気に行なわれたが、賢治作品のころまで
ラボ機ユーザーのためにテープも同時に刊行されていた。
今思うと、それもたいへんな作業だった。

 当然、SongbirdsもCD化にむかった。しかし、この音源は
すでに相当古く、デシタル化可能かどうか微妙だった。
また、Songbirdsには、まだ教科的なにおいも残っていた。
たとえばOne, One, Oneでは、2コーラス目に入る前の間奏に
"Boys and girls. You say a number"というナレが入り
実際に数字のところだけ演奏のみになるといった具合だ。
 また、伴奏もきわめてシンプルてオルガンのみとか
ピアノのみといった曲も多かった。

 また、77の全曲のうち、ほとんどパーティでとりあげられる
ことの少ない曲や、Ten Little Indiansなどの Songbirds本来の
目的のひとつである異文化理解という点からは
Sensitivityに欠ける曲もあった。
 まあ、そんなこんなで、せっかくCDにするのなら
新しく編曲して、また新曲も入れて制作しようということが
提案され、ライブラリー委員会でも話し合いがなされた。

そして以下のようなポイントが整理された。
・多くのラボっ子に愛されている「人気曲」は基本的に継承。
・新曲もとれいれる。
・編曲は新しさだけを追求せず、「賞味期限」が長くなるように
 しっかりとしたものにする。
・そのためには、コンビューターによる打ち込みではなく、
 すべて演奏によって録音。
・楽器も基本的にはアンプラグド、すなわちアコースティックで。
 ただし、シンセを1楽器として使用することはあり。
・絵本を制作し、チャプターごとに曲の内容を整理する。
※それまでものSongbirdsのテキストは絵本ではなく楽譜とかんたんな
 解説だけだった。それが他のライブラリーと同じ価格というのはつらかった。

 これをもとに、いよいよ制作。まる2年かかった。
編曲を依頼したのは、間宮先生や一柳先生、林先生とともに
現代音楽の巨匠といわれる京都芸術大学の広瀬量平先生だ。
 広瀬先生の「天籟地響(てんらいちきょう」は、芸大の教科書にも
のるようなすごい作品である。このCD(カメラータ・トウキョウという
これまたマニアックなすごい録音のいいレーベルからでている)
を買ったらジャケットがの絵がすてきだった。
 ずうずうしく広瀬先生にサインしてもらい、
「先生、ジャケットの絵はすばらしいですね」といったら
「ああ、加山くんが描いてくれたんだ。いいだろう」
と気軽におっしゃった。
 あとでジャケットをひきだしてクレジットをみたら
加山又造とある。へなへなとなってしまった。

 歌の録音は、物語同様、いやSongbirdsのように曲数が多いと
それ以上に時間がかかる。よく、アルバムづくりに3年くらい
平気でかけるアーティストがいるが、それは作曲にかかる時間も
さることながら、録音とミキシング、さらにはトラックダウン
にこだわるからである。
 広瀬先生のスケジュールから、演奏の録音、歌の録音、そして
トラックダウン(楽器ごとの音、歌などをまとめる作業)の日程をあわせると
最速で2年かかることは当初から明らかだった。
 その2年、もちろん他の仕事もしていたが、とにかく
スタジオにいる時間のほうが長い2年だった。
 また、新しい曲の選定にあたっては東京の東久留米にある
インターナショナル・スクールCAJ(Christian Academy in Japan)の
音楽教師、デニース・オウエン先生にたいへんお世話になった。
彼女はサラ・ニシエさんの息子さんが同校に通っていることから
ニシエさんの紹介でお手伝いしていただくことになったが、
昼休みや放課後という貴重な時間をさいて、
いろいろな曲を紹介してくれた。
 先生自らピアノをひき、さらには低学年の生徒さんたちを
よんで、実際に踊りを見せてくれたりした。
 Hey, Betty Martinなんか、あまりに可愛いのですぐ候補にした。
また、あいさつの歌がねうすこしほしいというと、
英語でいちばんよくつかわれるあいさつは Hi! よといって
その歌を歌ってくれた。
 きれいな歌なので「だれの作曲ですか、伝承歌じゃにないですよね」
とてずねると
「わたしの曲です」。
「ラボください」「はい、どうぞ」
 なんてすてきな人なんだ(もちろん、ちゃんと謝礼してます)。

 広瀬先生に「いわゆる子どもの歌」の編曲をしろというのは
まあ、ねかなり無謀なことである。
 しかし、先生はとっても楽しんでくださった。
「英語の歌はね、あたりまえだけど西洋音楽にはのりやすいんだよ。
とくに伝承歌は長く生き残ってきただけあって、そのなかに
自然な和声がいっぱいつまっている。だから、それをひきだして
やればいいんだよ」 
 
 たしかに日本語の歌を西洋音楽にのせようとすると
アクセントのためにメロディの規制をどあしてもうける。
1音に1語、細かくいうと1シラブルがのるからだ。
そこへいくと西洋語は1音に1音節がのるので自由度が高い。

 しかし、せっかく広瀬先生にラボの仕事をしていただくのに
編曲だけで作曲がないのはもったいない。
 そこで登場したのがラストの曲"We Are Songbirds"である。
ぼくは、この企画がスタートしたときから
Songbirdsというタイトルのすばらしさをもっといかしたいと思っていた。

 それには、"We Are Songbirds"というメインテーマ曲をつくるのが
いちばんだとも思っていた。
 そこで、「ことばの宇宙」で一夏かけて歌詞の募集をした。
しかし、残念ながら採用できるものはなかった。
でも、ラボっ子の志は受けとめたいから、日本語の歌にはラボっ子
たちに参加してもらうことにした。
※ラボっ子の選考会は何度か行なったが、その度に背筋がのびる。
こんなにも多くの子ともたちに愛されているライブラリーは
なんて幸せ者だろうと思う。
 ぼくは、選考会のときに必ずいうことがある。
「スタジオにいけるのは数名です。でも、このよびかけに応募するという
行動をおこしただけで、もうみなさんは制作に参加しています。
だから、結果にかかわらず、このライブラリー制作に参加したんだ
と自慢し続けてください。ぼくも、そんなみんなとこの選考会をできることをほこりに思います」

 歌詞が集まらなかった以上、つくるしかない。日本語の歌詞のイメージは
すでにぼくのなかにあった。ただ、それで作曲してしまうと
英語をのせにくい。英語の歌詞を先にかためたい。
 そこで、プロット的な箇条書きのメモをデニース先生に送った。
デニース先生から届いた歌詞はすばらしかった。
広瀬先生もからもOKがで、楽譜が送られてきたときはどきどきした。
これを受けて、日本語の歌詞は、基本的には訳ではなく
同じ内容を別に歌う道を選択した。
 大作になったが、いろいろな機会にかけてじっくりと浸透してほしいと思った。
歌うことへあこがれ、歌の力がテーマであることはいうまでもない。
 歌詞は楽譜が届いた日に一気に書いた。
して3日ねかせてから、細かいところを少しだけなおした。

 先生のところに送ってから3日後の夜、だぶん11過ぎだと思うが
広瀬先生から直接ぼくの家に電話がきた。
 びっくりしたが、先生は曲の構成について先生の考えを
いっしょうけんめい伝えてくださった。
それはわすがな変更についだったが、ぼくがきめたことを
変えるのだからと、わざわざ電話をくださったのだ。

 かくして、"We Are Songbirds μ"は、できあがった。曲ひとつひとつに
思い入れがあるが、そのへんの背景は「パーティ活動の友」を見てほしい。

 録音やトラックダウンは主に早稲田大学文学部の向かいにある
アバコ・スタジオで行なわれた。
 ここには、当時録音部長だった堀さんという超絶的録音職人がいらして
彼のおかげで、よりすばらしいものになった。
 もの静かな方だが、ミキシングの技術はほほんとにすごい方だ。
できあがりをの感想をきいたら「ゴキゲンでけっこうですね」
とにこっとされたのがうれしかった。

 広瀬先生は2008年の11月に他界された。残念だ。
 デニース先生とは、その後、「ひとつしかない地球」で
またお世話になった。いわずもがなだが、宮沢氏の曲の
英語版はデニース先生の作詞である。宮沢氏も気に入ってくれた。

 宮沢氏といえば、"We Are Songbirds μ"のトラックダウンをしているときに
ちょっおもしろいことがあった。
ずうっとやっていると、耳もアタマもへんになるので、
ちょっと休憩しましょうということになり(その日はぽくと堀さんだけ)、
ロビーに出ると、ちょうど隣のスタジオも休憩のようで何人かが
でてくる気配がした。すると、こんな声がきこえてきた。
「マーシーのギターはテイク・ワンのほうがいいなあ」
 声の主は「ブルーハーツ」(当時)、甲本ヒロト(現クロマニヨンズ)
氏である。
 ぼくは、彼の書く歌詞がすごいなあと思ていたのでうれしかった。
そのときは、それだけのことだつたのだか、
後に甲本氏が岡山でラボっ子だつたという話を
宮沢和史氏の事務所の社長さんからきいた。
 コンサートで甲本氏といっしょになったとき、
それがわかり、盛り上がったとのこと。
 
 歌は、人間の言語表現のなかでも力強く明るい。
明るさのなかに悲しみもある。
 人と人をつなぐもある。

 われら歌い鳥たちは
歌うことわやめてはならない。
Re:歌い鳥たちよ We Are Songbirds(01月15日)
keikoさん (2011年01月18日 22時08分)

書き込みありがとうございます。

We are songbirdsのCDが発刊されたときキャンプに行った小5の男の
子が歌に「感動した!」といって帰ってきました。それ以来、my party
ではパーティ行事のたびにSBメドレー50曲の中にWe are songbirdsを
いれています。テープの時代の「たいのこ」や”Fire! Fire!”(?)も好き
だったのですがWe Are Songbirdsを高らかに歌う子どもたちの顔が紅潮
してとってもすきです。

テーマ活動が未熟だと音楽を途中できってしまうラボっ子がいる(音楽
CDはいつもラボっ子たちが担当です。)のですが、それだけはやめ
て!と言っております。熟してくると音楽で動いてみたりしています。

シアトルの北にエドモンズ(姉妹都市)があり間島さんご夫婦が20周年
のときエドモンズにきてくださったり、バンクーバーにもそこから行っ
たことがあるので興味深く読ませていただきました。

”Bear Hunt”のくまの背中は、「ぼくはいっしょにあそびたかったの
に・・・」と言っているようですね。場面ごとの音楽も子どもたちはき
きわけています。

ラボライブラリーの豊かな芸術性に、消化不良なテューターで申し訳な
いと思う一面、ライブラリーに出会ったときの子どもたちのするどい感
性に助けられて、まだしばらくラボをしていきます。

ご訪問ありがとうございました。
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