幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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生ききる主人公たち 等身大・群像・全力疾走 05月09日 (月)
たけ1
 写真は昨日、グリーンホール相模大野で開催された
神奈川支部テーマ活動発表会で。武パーティの『ノアのはこぶね』冒頭。

 このところ、連チャンでテーマ活動を見ている。理由はいくつかある。
順不同で箇条書きしてみよう。
・映画といっしょで、テーマ活動は見はじめるとけっこうクセになる。
・最近仕事で写真も撮りはじめたのでその練習。
・やっぱりテーマ活動がすき。
・自分が関係した作品は気になる。
・このところ教務局から依頼されて手伝っている仕事があるが、
 頭で考えるだけではだけだと思う。

 まあ、そんなところだが、なかでも撮影はおもしろい。
ぼくは写真のプロではないが、ライブラリーについてはプロ(だった)。
だから、子どねたちの動きや表現の展開が読めるので、
きっと、こうくるなと先回りしてカメラをかまえ、
「さあこい」と表情や動きをつかまえにいく。
これは、その通りになるとかなり快感。

 昨日は東京支部と神奈川支部がどちらも発表会を開催。
みごとにコンフリクトしている。
 東京は練馬で近いし、新刊もでる。
しかし、うーむと悩んで遠いが神奈川にいくことにした。
※ああ、東京支部ごめんなさい。
その理由は
・神奈川は2年ぶりだ。
・息子と娘(すでに二人とも社会人)がお世話になった
 野田パーティがでる。
 ※わが子が参加していたのは先代のlate great 野田和美バーティ
 今回はご長女が率いる野田知美パーティ
・『エメリヤン』と『ノア』が見たい。
・いきおいで神奈川支部の方に「いきますよ」といってしまったこと
 
 まあ、いいわけはともかく9時半にマネージャーの車で出発。
連休のラストサンデー。山手トンネルから首都高速、
そして東名高速で横浜インターをめざす。
五月の光がまぶしいなあ、なんてうきうきしていると
なんと40Kの道を40分で着いてしまった。


 グリーンホール相模大野は、なかなかいいホールだ。
駅から5分、なぜか伊勢丹のなかをぬけるという不思議な構造だが
ぼくが入った車寄せのある裏手には大きな公園もあって
その名にふさわしい。
ホールは音響がとてもすばらしい。
十分一流音楽家の演奏会ができる。
いやいやまさに大舞台(おおぶたいが正しいよみ)。
いろいろ書きたいことはあるのだが、
とりあえず、少しばかり写真をならべてみよう。
ふんいきが伝われば幸いだ。
まずは野田パーティの『エメリヤンとたいこ』
のだ0
のだ1
次は加藤パーティの『一寸法師』
かとう1
ts42
午前の最後は武パーティ『ノアのはこぶね』
たけ2
たけおり
午後のトップは前田パーティの『エメリヤンとたいこ』
えめり
まえだえめ
続いて青池パーティは大作『平知盛』
とももり3
ともももり1
最後は川村パーティの『へいぬりあそび』『おさげの天使』E version
とむ1
とむ2

 この日は総計で400枚くらい撮影した。
舞台写真はけっこうむずかしいが
器材が最近はぐんとよくなったので、素人でもこの程度は撮れる。
逆にいうとこの程度がせいぜい。
※この程度でよかったら、写真撮りにいきます。
もちろんノーギャラなので、スケジュールがあうこと、
できあがりに文句をいわないことが条件。
 
 この日行なわれたテーマ活動ひとつひとつについて、
なにか批評的なことを書く気はまったくない。
いわゆるevaluationはかっこわるい。

 だけど、考えたことをつらつらと夜に書いてみようっと。
ラボにおける発表会とはなにか。
なんて、いきなり大上段だが、それをせ考えるひとは
とってもだいじだと思う。
ぼく個人の考えでは、発表会には多様な意味と目的がある。
だから、個人のパーティでも、地区でも、支部でも、
その目的について毎回確認し、認識しあって取り組むことが肝腎かな。

 先日のShow off 見せびらかしということを『トム・ソーヤー』に
からめて書いたが、
発表会が「ラボっ子の能力のデモンストレイション」が最終目的ではない
とぼくは思っている。
そのこてはコンセンサス、共通理解を得られることだろうか。
 今はフリーだから、あえて踏み込んで書くのだが、
発表以前に「テーマ活動とはなにか」というコンセンサスを
ラボ全体で確認するのはなかなか困難だ。
おおむねいっしょという同心円にいることは確かだが、
言語、教育、成長、身体、交流、異年齢、
などの諸項目の細部について話し合えば必ず微妙な差異は現出する。
その差異を認め合うのが、いうまでもなくラボの美点であり魅力であり、
ときにはやさしい弱点なのかも知れぬ。
 物語のテーマ解釈と同様に、ある程度の多様性を評価しあうなかで
ラボは進んできたことはまちがいない。

 さきほど、同心円と書いたが、それは「ことばの宇宙」という空間に
おきかえてもいいだろう。
 いずれにせよ、その中心にあるのがラボ・ライブラリーだ。
その宇宙、あるいは同心円に居住していることが仲間の絆。
 さらにいいかえれば、物語というおなじ地下水脈に根をおろしている
樹木がパーティであり。咲く花や実る果実は多様でもいいのだろう。

 なんて、まじめなんことをたまにはつぶやく。
さて、発表会にはさまざまな目的があるべきと前述したが、
いわゆる「見栄えのよしあし」や「声の大きさ」
さらに極端にいえば「テーマの掘り下げ」すらも
ある意味、ほんとうに極端にいえばどうでもいいとぼくは思う。
※もちろん、かっこいい発表が悪いというわけではない。

 ただ、そのパーティ全体が、あるいはラボっ子ひとりひとりが、
その物語に取り組むことでなにを目指したのかが重要なのだ。
 Aパーティが発表する物語がどうかというより、
その物語に取り組んだAパーティがどのように
格闘し、悶絶し、学び、成長したか問題なのだ。
 同様に、一人ひとりのラボっ子、たとえばBくんが表現した
主人公がどうであったかではなく、主人公に取り組んだBくんが
どうであったのかが見たい。

 ようするにテーマ活動はバフォーマンスではなく教育活動だからだ。
したがって、その学びの歩みがわかる発表に、ぼくたちは感動できるのだ。
 その意味では、昨日の発表はいずれも感動的だった。

 大きな舞台での発表はたいへんである。
ふだんは、けして広くない空間で行なっている活動を
ステージにのせて、しかもパーティ全員でというのは
その準備や練習の過程を考えただけでも涙うるうるだ。
 やはり大会場での発表はかなり特殊なのだ。
 ふだんのパーティで、よくライブラリーを聴いて
きれいにことばを発している幼い子が、
大きな舞台で高校生とあわせるとき、
不幸にして高校生の聴き込みが甘く、「覚えた」セリフだったりすると
幼い子のことばが消えてしまうような事態は、
テューターの読者の方は経験のあることだろう。
 そんなこんなをのりこえて立つステージだから、
どうしたって気合いが入るのは当然。
 
 しつこいが、発表は見せびらかしではない。
しかし、昨日は(も)
「この物語をわたしたちは、こういうふうにとらえ
こんなふうに表現します。見てください!」
 という子どもたちのきもちがずしんと届いてきた。
 子どもたち自身が「伝えたい」と思ったとき、
その発表は「英語がいえるよ」という見せびらかしを
はるかにこえた大きな教育プログラムの果実となるんだなあ。

 さても、少し興奮しすぎたので話題を変える。
というか、素朴な感想を書いてみる。
 冒頭に書いたように、幕開けすぐに発表したのが
野田パーティだ。先代の野田和美テューターには
息子と娘がお世話になった。
 彼女が他界されてから、もう10年近くになるだろうか。
とにかく、ライブラリーをよく聴くパーティだった。
その理由はじつにシンプルで野田テューター自身が
とにかくテーマ活動がすきで、
そしてとことんライブラリーを聴く方だった。
 その習慣が自然にラボっ子にも伝わった。
それは真実だと今も確信している。
 聴き込みは野球でいえば素振りやランニングみたいなものだから
回数がある意味重要であることはいうまでもない。
もちろん、流し聴きもありだと思うし、
いろいな聴きかたでいいはずだ。
 ただ、そのことばの入力の積み重ねが
深い洞察力、大きな想像力の源泉になる。
 「この場面をどうする」などという頭で考えるのではなく、
ことばを蓄えることでコンテンツも豊かになっていく。
 音楽CDでできるくらいに、ことばが入ったころになると
ふしぎなくらい、いろいろな表現のアイディアが出始めるのは、
そのことの証明みたいなものだ。
 現在の野田知美バーティは、みごとにその遺伝子を引き継いでいた。
ほんとうによく聴いているのがわかった。
 聴き込みにうらうちされた表現は、特別なことをしなくても
すっと心にはいってくる。
 ちょっと贔屓のひきたおしんなあ。
 ともかく、昔を思い出してウルッとしたのはしかたない。

 武バーティの『ノアのはこぶね』はどきどきした。
この日の発表のなかで、この作品はぼく自身が制作責任者である
だけでなく、日本語も担当したからだ。
 毎回のようにいうが、作品はリリースしたら受けてのものだ。
でも、やっぱり気になる。
 これはものづくりに関わる人間の宿命、業、カルマだ。
 
 発表を見ながら、たとえば「大嵐が」なんてナレーションがきこえると
「ああ、なんで大嵐なんて漢語的な熟語にしたんだ!
おおきなあらし、たいへんなあらしとか和語でうけるところだろう」」
なんて、自分で書いたことばに今さらがっかりしたりした。
でも、それは一時的に感情で、当時は何回も推敲し、
何回もパルバース氏と激しい精神バトルをくりひろげながら
選び抜いたことばであるから、それでいいのだと思い返したり…。
 
 さきほどの同心円のまんなか、あるいは地下水脈をつくる仕事。
やはり恐ろしい仕事。でも、こんな幸せなことはあまりない。
 もう、発表してくれた子どもたち一人ひとりを抱きしめたかった。
状況を考えればきびしいテーマである。
もちろん、この物語にしたのは震災のはるか以前。
だが、
鳩がオリーブの葉をくわえてもどってきたとき、
会場をつつんだふしぎな一体感はほんものだった。

 等身大の登場人物ということばがある。
ラボっ子それぞれの年代に近い登場人物ということだろう。
ライブラリーの要件としても、一巻の物語のなかに
あまり年齢・性別などが偏らない配慮というのは重要な項目になっている。
※たぶん、いまもそうかな。

 その意味ではノア役はたいへんだったかもしれない。
でも、がんばっていた。格闘のあとがわかった。

 動物は、それぞれの年齢でできる。
たとえば『ワフ家』をやるとすると、幼い子どもはほとんど
自然に四つ足で表現するだろう。
 ではテューターや中高生ならどゔだろう。
たぶん二本足で擬人的に表現するのではないか。

 この物語で、何歳から二本足で表現するか、また
それは男子と女子で異なるか、というのはとっても興味深い話。
ただ、それにつっこむと、またとても長くなるので別の機会にするけど。

 青池パーティの『平知盛』も圧巻だったが、この物語の登場人物も
けっこう年齢としてはラボっ子より上だ。
 主人公の知盛は35歳。
それを、おそらくは高校生と小学生の二人で表現していたが。
ぜんぜん違和感がなかった。
 それは、この日の発表にはなかったが、『シーザー』や
『ドン・キホーテ』でもそうだ。
 これらの物語の登場人物も、かなりのおじさん、あるいはおじいさんだ。

 それらの人物とラボっ子がむきあう。必死になりきる。
年の差すごいのに…。
 なぜか。
 それは、知盛もシーザーもキャシアスもブルータスもキホーテも
それぞれの人生を「生ききっている」という
全力疾走の若わかしさだ。
悲劇的な結末をわかっていても、ぶれない魂が鮮烈だ。
だから、『平知盛』も青春ストーリィになるし、
『ジュリアス・シーザー』も青春群像ドラマのように見える。
 「ぶれずに生ききる」ことの困難な時代。
それ自体がいまやファンタジーといえる時代になってしまった。

 しかし、物語のなかでそれぞれの登場人物は
たろうも、ロミオも、トムも、ティボルトも、
ブリアンもドニファンも、ウェンディも、だめまちゃんも、
いつもぶれずに、全力で生きている。
それ以上の激励があるだろうか。

 最後だが、トリをとった川村バーティの『トム・ソーヤ』
1話2話の英語のみも興味深かった。
 単一言語による表現については、いずれまた書く予定。

 帰りは、家が近い財団理事の間島氏といっしょだった。
やや西にかたむいたものの、まだ十分に明るい陽射しのなか
東名高速を東へ。
 「いい会だったね」とふたりともやさしい気分になった。
間島「夏がきますね。週末はシャペロン合宿です」
ぼく「ああ、夏がくるねえ」
 そうこたえながら、ラボを修了したことが
少しさみしくなった自分と、
「ぶれないぞ」とつぶやく新しい自分がいた。





 

  
Re:生ききる主人公たち 等身大・群像・全力疾走(05月09日)
☆ショコラ☆さん (2011年05月11日 17時33分)

漢語的な熟語と和語について。
むかし学生時代に、私の言葉は漢語的な熟語が多いと指摘されたことが
あって、
以来ずっとどこか意識するようになりました。
特に、読み物よりも耳に入る言葉が気になります。
震災の報道で、「白煙が上がっています!」と繰り返されていた時も、
どうして「白い煙」と言わないのかしらと思ってしまいます。
映像があるので誰だって分からないわけではありませんが、
私には違和感がありました。
美しい日本語を使っているラボ・ライブラリーは耳に心地いいですね。
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