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黒潮の海でジンベエザメは立ち食いする 中年感傷旅団沖縄編 05月21日 ()
たちぐい
↑写真は沖縄美ら海水族館で、垂直採餌するジンベエザメ

 金曜日に沖縄から帰った。今回は3日間の行程だったので
さすがに写真を整理するだけで眠くなってしまった。

 すでに何回か書いたが、一昨年の5月14日に手術を受けた。
以来、基本的に3か月おきに血液をチェック、
半年ごとにCTなどの比較的大きな検査を受けている。
ただ、CTによる被爆はノーリスクではない。
さまざまなデータが出ていて、その有用性と危険性については
多くの意見があるが、少なくとも濫用や連続的な使用は避けるべきだろう。

2月に血液検査の結果を電話できいたことを書いたが、
今回は術後2年目の画像診断である。
というわけで、沖縄に行く前日に造影剤を入れた全身CTを撮った。
結果は、1週間後、これはさすがに直接聴きにいくのだろう、
と思っていたら、検査直後の診察室で
「今、撮りたての画像をいっしょに見ましょう」
と主治医のM医師がいったのでびっくり。
 肺、肝臓、その他をともに見ていったが、
※なんか自分の活き造りを見ているよう!
主治医が見るかぎりでは良好ということでホッとする。
「後は、血液をとってもらってから帰ってください。
放射線医のコメントや詳細のデータは、来週電話してください」

 いやはや、これでストレスなく旅にでられるなあ。

 かくして、翌日の朝10時30分のANAで那覇にむかった。
なにをかくそう、はじめての沖縄行きである。
 これまで、あちこち飛び回ったが、仕事では沖縄と縁がなかった。
『鮫どんとキジムナー』制作のときは、
制作室(当時の名称)の室長代理をしていた。
でも、広報と機関誌紙をほとんどひとりで担当していたので
『一寸法師』のライブラリーは、校正とか音声のチェックだけの参加で
『キジムナー』の沖縄録音にも行かなかった。残念!
 このとき録音された『キジムナー』のウチナーグチヴァージョンは
小那覇全人さんが担当された。
※全人氏の父上、小那覇舞天(ぶーてん)氏も著名な喜劇役者だった。

全人氏は、今もお元気で
沖縄ラジオの「方言ニュース」を週二回担当されている。
ちなみにこの方言ニョースは開局した1960年以来続く
ウルトラ長寿番組で、平日の13時からのオンエアだ。
『鮫どんとキジムナー』は、英語も日本語の平明で力強く、
さらに本多豊國先生の沖縄カラーの色彩ダイナマイト炸裂の
版画もすばらしい。
しかし、ストーリィは冷静に考えると、
救いがない、へルプレスな物語だ。
鮫どんも孤独、キジムナーもさみしい。
でも、子どもたちには人気がある。
そこにはとてもたいせつなことがあると思う。
『妖精のめうし』などもそうだが、
自然との約束を人間はなんなか守れない。
雪女しかり。
その弱さを自戒するかのように物語は生まれるのだろうか。
ライブラリーのキジムナーの結末はきびしいが、
それは、きっともうひとつの物語のはじまりを示唆している。
そうでなければ救いがなさすぎる。
この物語と出会うことで、
未来にむけて、海や大地を守っていこうという
意志の種が子どもたちにまかれる。
そこからもう、次の物語はスタートしている。
命と同様に物語もつながっいくはず。

 さても、ヘルプレスとえば、沖縄から帰った翌日の夕方、
中野のザ・ポケットでウッディ・アレンの芝居
『又聞きの思い出』を観劇した。
 だいぶ前に告知したと思うが、鈴木小百合氏が翻訳を担当している。
この日は芝居の後、演出家と鈴木さんのトークもあるので、
例によって大学時代の悪い仲間が10人くらいおしかけ、
芝居とトーク後の 10時という、やや非常識な時間から
鈴木さんをかこんでリユニオンということになった。
下がそのときの写真。おわかりと思うが右はじが鈴木氏。
うちあげ

 芝居は家族のドラマだが、商売べたな宝石商の父親(萩原流行)と
その息子(身重の妻あり)、芸能プロの社長で金持ちの父親の妻の兄
という男性三人が全員不倫をしているという、とんでもない設定。
アレン自身がミア・ファーロー、ダイアン・キートンなどと
けっこうハードなプライペートを展開する人だが、
彼の戯曲は男女のドロドロ、
とくに男の浮気が重要なモティーフになっている。
 芝居はテンポがよく、ふつうに書いたら2時間30分はこえるドラマが
2時間びったりでおさまっている。
 映画のような場面展開。さすがアレン。
映画ならカット割でできるところを芝居で舞台転換するのは
けっこうたいへんな演出力。
古城氏のディレクションもよかった
 そんで、結末はヘルプレス。
アレンのコメディと思ってみた人はびっくり!

 ところで、ウッディ・アレンは来日したことがない。
なぜだろう。
 インタヴューぎらいは有名だけど…。

 さて、沖縄にもどろう。
沖縄にはプライペートでも機会がなかった。
沖縄、琉球の美術、音楽、歴史には
若いときから強い興味をもっていたが、
なにかかまえてしまって足をむけることができなかった。
第二次大戦、ペトナム戦争、そしてアメリカ軍基地。
沖縄が直面しつづけ、今もたたかっている多くのことに
自分自身の非力を恨んできた。
 福音館書店の松居直先生は
「知らないことは恥ではない。知ろうとしないことを恥じよ」
とおっしゃった。
 だから、目をそむける卑怯者にはなりたくなかった。
本や資料で学ぶことはできるが
でも、実際に行ってみないとわからぬことは多い。
だからといって、脳天気に沖縄観光レッツゴーともいかぬ。
うじうじ。
 でもでも、なにかこころひかれる風がある光がある。

谷川健一氏の『海の群星(むりぶし)』
※(たにがわけんいち=1921~ 民俗学者・作家・歌人 谷川雁氏
ら谷川4兄弟の長兄)
を読んで感動(NHKが緒方拳氏が親方役でドラマ化した。
録画がどこかにないかなあ。もういちど見たい)したり、
サンシンの音色と沖縄の音階(レとラを抜いているのが
西洋音楽との差異。インドネシアの音楽やガムランなどもそう)に
なにか魂をぐらぐらさせられたり…。

 THE BOOMの「島唄」が大ヒットした後、
宮澤和史氏にインタヴューができた。
氏がラボっ子時代に懇意にしていた山梨の望月テューターのとりもちである。
いわゆるミュージシャンない、アーティストとしての静けさをもった
人だというのが最初の印象だった。
ぼくなんかの世代はギターといえば、まずフォークギターで、
エレキギターは退廃と体制の象徴のように思いこんでいた。
※本音はエレキは金がかかり過ぎるので手が出ない。
だから、ボブ・ディランが事故で休んだあと
エレキをもって登場したとき裏切り者よばわれされたりしたくらいだ。
よく考えれば幼稚なことである。

 しかし宮澤氏の世代は、もう最初からエレキである。
そしてロックンロールがいちばんかっこいいと信じた世代である。
どうでもいいが、エイトビートの3拍めと7拍めに強拍があるのがロック。
宮澤氏もとにかくロックがやりたくて、
そして自分のことばを伝えたくて、上京し大学生活をおくりながら
表参道のホコテンでライブを続ける。
 じつは、ラボも何回かパーティをのぞいたそうだ。
ただ、ここでラボにのめりこんだら音楽への道が
遠のくといいきかせたとのこと。
 ホコテンで固定ファンはできてきたが、
なかなかメジャーにはならない。
また、日本人が日本語でロックをやることの意味にも
なんとなく「ほんものにならないなあ」というもどかしさを感じだした。
つまり
ブランクバースの詩形がない日本語で
シェイクスピアをやることのもどかしさ。
※これについては「英日」というラボのスタイルはひとつのアイディアだ。
外国人が落語をする難しさ。
なんてのと同根。つまり根っこの不確かさ。

 そんななかで、宮澤氏は沖縄に行き、
さまざまな歴史的なできごとを学ぶ。
それまでの自分の「知ろうとしていなかったことに驚き」
同時に沖縄の民謡、すなわち島唄の力強さに感動する。
※日本の民謡で、毎年新曲がでるのは
河内音頭と島唄だけだ。

 そして気づいたのが「ロックというジャンルわけはいらないんだ」
というシンプルな真実だった。
 そのなかで生まれたのが「島唄」であり、
氏はエレキをサンシンにもちかえて登場する。

沖縄戦においてガマ(壕)のなかで命をおとした
ふたりの少女の実話をもとにしたこの曲は、
大きな世界観のなかで歌われる平和への祈りが人びとの心をうち
ご存じのように世界中で歌われるようになった。
「この歌が最後の挑戦と思って書きました。
でも、幅広い年齢の人びとに歌ってもらえる歌が一曲でもつくれた
ことは、音楽家としてうれしいことです」
 宮澤氏は、そう最後にしめくくった。

 沖縄や周辺の島々の映像も多くみた。
なかでも印象的だったのは
椎名誠氏の『うみ・そら・サンゴのいいつたえ』。
とにかく美しい画だった。
その美しさもまた大きな問題を抱えている。

 この映画にでている余貴美子(よ・きみこ)さんがすばらしかった。
彼女は。それではじめて存在をしったのだが、
存在感と表現力がすりこまれた。
『はだかのダルシン』にとりかかったとき、
脚本の書き上がるダイブ前から、
ぼくはナレーションは余さん、と決めていた。
オファーにすぐオーケーがきたのがとてもうれしかった。
彼女のその後の活躍はご存じの通りだ。

 話はまたまたそれてしまった。
そうやって沖縄へのうじうじは続いていた。
 しかし、ひょんなことから会社員生活とバイバイし、
ぐんと自由度が増したという錯覚のなかで、
人生ののこり時間を考えるといあリアルの狭間のなかで
ぐうぜん、沖縄で仕事のオファーがあった。
その中身は例によっておとなの事情で書かぬが
今回は2泊でき、しかも美ら海水族館にいく時間がとれる。
美ら海水族館は、あの巨大水槽への興味と
館長の内田詮三氏がとってもおもしろい人なので
とにかく沖縄のもろもろとは別に一度行きたかったのだ。
 ともあれ、ここまでたいくつな話をあちこちとびながら
書いてきので、しばらく写真をならべるので
お疲れやすみてきに見ていただければ幸甚。

下の写真は美ら海水族館のエントランス遠景。
場所は沖縄本島のほぼまんなかの東シナ海側。
那覇しないから70キロくらいはなれているので
アクセスがけっこうたいへんだ。
1975年の海洋博の会場あとちにつくれた大きな公園内にあるが
水族館は博覧会当時には現在のとなりにあった。
その水族館は2002年8月に老朽化のために閉館。
同年11月に今の美ら海水族館となった。
えんとら
続いてはだれもが写真を撮る看板の前で。撮影は案内してくれた
地元の方。横は金沢編でも登場したが、三澤制作所代表のマネージャー。
この日は急に熱くなり、かつぼくが撮る写真のメモを全部とるので
すでにきげんが悪い。
※つまらぬ詮索はせぬように
いりぐち

ところで、美ら海水族館は国営である。
年間来場者数は270万人。
沖縄の県全体の年間観光客が500万人だから、
※県が設定している目標値。この数年はクリアし続けている。
すごい貢献度。三人にひとのはリビートするという。
下はウミガメ。
かめ
下はマンタ。和名はこれまでイトマキエイだったが、
じつはマンタには2種類いることがわかり、
ここのマンタは「ナンヨウマンタ」が正式和名になった。
まんた
続いてゆうぜんと泳ぐジンベエザメ。
いちばん巨大な個体で現在は約8.4メートルの体長。
まだまた大き弾くなるそうで14メートルくらいにまでなるらしい。
そして、これが、水族館がほこる
大水槽「黒潮の海」だ。深さは10メートル。7500トンの水を
厚さ60センチのアクリル板
(うすい板を何枚も張り合わせてる)で支えている。
現在、この水槽にはオス二頭、メス一頭のジンベエザメがいて
人口飼育による繁殖をこころみている。
これができれば世界初だ。
ジンベエザメの繁殖については不明な点が多く、
卵胎生ではあるが、身ごもった個体の捕獲はこれまで
生存したものはなく、死後でも一例しかない。
※その個体には310ひきの赤ちゃんジンベエが入っていた!

四階建ての高さをもつ水槽の上部はあけはなたれ自然光がふりそそぐ。
これだけの高さがあるために冒頭のような垂直採食が可能だ。
あの立ち食いは、自然の海でもやっていることなのだ。

 こうした巨体な水槽をつくったのは館長の内田詮三氏だ。
氏は東京外大インドネシア語学科卒という経歴ながら、
水族館ひとすじのプロだ。
 ジンベエザメの人口飼育の記録をどんどん更新したのも
彼の力である。
べらんめえ調の館長の熱いハートは飼育スタッフたちからも
絶大な信頼を得ている。
 氏はいう
「水族館は、ある意味人間の悪行なんだよ。動物にはめいわくかもしれん。
だから、いつでもやめてやるという覚悟がいる。
でも、やる以上は可能なかぎり適正環境をあえたい。
そして、自家再生産を追求して野生個体の導入をなるべくしないんだ」

 氏はさらに
「つぎはもっとでっかんい水槽をつくりたい。
そこでザトウクジラがゆうゆうと泳いだら、
みんなたまげるぜ」
じんぺい
下は、身じろぎもせず水槽を見つめる男の子。
きっと、この子は「まって、いかないで」という手をふりきって
もっと大きな海にこぎだす。なんちゃって。
こども
下はマナティ。完全にやるきなしふうがいい。
メモをとるのにあきてきたマネージャーが
「代表、カンペキにナメられてますね。フフフ」
まなてい
ゴンドウイルカのオキちゃん。なんと芸歴35年!
おきちゃん
オキちゃんの仲間の大ジャンプ。彼女も芸歴20年ごえ。
マネージャー「あんなに芸させられてかわいそう」
空気がへんになったので
ぼく「ギャラもらえるんだから」でと笑いをいれたら
「でも、イワシじゃねえ」
じゃんぷ
 沖縄はいま梅雨だが、午後には晴れてきて激アツ。
へろへろになって帰ると、宿舎でシーサーがおでむかえ。
シーサーは獅子の沖縄ダイアレクトといわれる。
阿吽の一対が多いが、もともとは単体。
いつのまにか狛犬などの文化とまじってしまったようだ。
しいさ

 最後まで読んでくださった方ありがとう。
でも、歴史的な場所とか基地とかがまったくでてこなかった
のでおどろいたかも。
でも、沖縄戦のことや基地のことは、やっぱしそうかんたんに書けんのね。
ちゅらうみ
 帰る日の朝、海はおだやかに凪いで、空をうつして輝いていた。

宮澤氏のインタヴューの終わり際、
氏は
「これは「ラボの世界」にのるんですね。
『ことばの宇宙』じゃないんですね。
ぼくはその響きが好きなんで
ちょっと残念かな。冗談ですけど」
そういって、いたずらっぽく笑ったが、
その目はアーティストではなく、ラボの仲間のものだった。
Re:黒潮の海でジンベエザメは立ち食いする 中年感傷旅団沖縄編(05月21日)
かせだまさん (2011年05月23日 21時54分)

センチメンタルジャーニーの歌がぐるぐるまわってます。

すてきですね。夢にでてきそうな ちゅら海ですね。

ありがとうございます。
沖縄通い ・ ・
沙羅駄さん (2011年06月07日 11時23分)

 11年前学生結婚をして4年間ICUの世帯向き寮で暮らしていた娘
夫婦が、タイ出身の婿(3年前に日本国籍取得)の就職先が沖縄国際大
学(観光経済学の教授、娘は社会学の講師です)だったのでもうすっか
り海人になりつつ6歳と3歳の孫のイントネーションには叶わないよう
です。おかげで私も年2~3回はリフレッシュと可愛い孫に会いに沖縄
本島に通っています。
 去年11月末に行った時、ジョン万次郎ゆかりの地・豊見城(とみぐ
すく)へ大雨の中行ってきました。あらかじめ豊見城市文化課へ連絡し
ていたら近代資料や高安家の地図を用意して下さり、文化課の方から現
在における土佐清水とフェアヘーブンとの友好関係のお話も聞けまし
た。また2階の図書館にジョン万次郎に関する本を10冊以上準備して
おいて下さっていました。資料のコピーもお願いすることができ皆さん
の温かさがありがたかったです。高安家にお邪魔してお話を伺うことが
できました。昨秋の土佐清水祭りでラボ・テューターの方々とお会いし
たことから、親しくお話されていました。万次郎が上陸した大渡(おお
ど)海岸へも行ってみましたが、探すことができませんでした。
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