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刹那の夏が逝く 見えないもの いない人との対話 改  07月16日 ()
ほうせんじ
 今日読み返したら、誤植と、脱字で意味不明なところが
けっこうあるので、修正した。
 東京は7月がお盆である。
写真は、三澤家の菩提寺である中野坂上の宝仙寺。
真言宗豊山派の寺である。
※ラボセンターから徒歩10分
タイトルや書き出しから、なんか暗そうな話だな
と思った人は大正解。
だけど、写真コンテストやラボ・カレンダーの季節でもあるので
ちょっとしたヒントみたいなことも書く予定。
まあ、おつきあいくだされ。

そんなわけで、13日に寺の墓所に参った。
子どものときから、お盆は7月というのが
身体にしみついた四季なので、
全国的には8月のいわゆる旧盆がメジャーと知ったのは
大学生になってくらいである。ああ、はずかし。

一昨年に病気をするまで、
お盆のころは(も)、当然にも多忙であるから、
実家によりつくことなどなかった。
しかし、大きな手術から生還し、
退院した直後に、
父がぼくの病気をもっていくかのように旅立った。
享年85歳。

8月の旧盆の直前だった。
通夜の夕、蝉時雨の空に
はるか父の魂がしばし佇み、
そして遠ざかっていくのを感じた。
だから、夏はぼくにとっては、ややせつない季節だ。

父には、なにひとつ親孝行らしいことをできなかった。
ぼく自身の仕事をどう思っていたかを
きくこともできなかった。
ただ、国際交流や録音などで海外に出るたびに
買ってとどけたハチミツやチョコレートを
甘いものが好きだった父は、
よろこんで食べていたと母からきいた。

父は自分が弱っていくのを自覚したときから、
足がよくない母のことをずいぶんと心配していた。
ぼくは亡くなる2日前に、
「おかあさんには、できるかぎりのことをするから」と
すでに朦朧としている父の心のなかに語りかけた。
聴覚は最後まで残るから声にだしてもよかったのだが、
へんに安心されてそのまま、なんてなったらこまると思ったのだ。

以来、基本的に夕食は基本的に母と食べている。
買い物もする。
母は手押し車を用いれば歩行可能である。
だから、極力自分のことは自分でしている。
洗濯も入浴もできる。
朝食は父の写真に語りかけながら
納豆と卵とみそ汁をひとりで食べる。

毎日メイクし、外科に膝の治療にいき、
ランチはドトールのミラノサンドか
コンビニのミックスサンドをホットミルクでいただく。
ただ、重いものはもてないし、
どうしてもひとりで夕食をつくると
かんたんなものになってしまうので、
まあ、いっしょに食べようということになった。

妻のほうも一昨年の秋に母(元テューター)が急逝し、
父親のケアがあるので神奈川にいざるを得ない。

それぞれが親をひとりなくすという犠牲の後に、
やっと孝行らしきことをスタートできた。
しかし、母の世話といっても、
そんなわけだから、たいしたことではない。
母の家が三澤制作所の本社なので
大きなパソコンなどは全部そちらである。
だから、買い物は午前にすませて
昼からは本社で仕事をしている。

話がそれたが、13日は墓参し
おもりものや、蓮の葉、わらの馬や牛などの盆の準備をした。
果物やお菓子も供えた。
お盆は盂蘭盆会の略といわれるが、
仏教行事だけでは説明できない部分も多い。

ぼくは、無神論者であり、信仰はもたないが、

※もちろん、人の信仰は否定しない。
心に土足で踏み込むような野蛮なことはしたくない。

死者との対話はたいせつだと思っている。
ぼくは、基本的には毎日、仏壇にむかい
照れ屋の父と
ポケットに手を入れて胸をはる祖父と
その横によりそう祖母の
動かない笑顔に話しかけている。

人は亡くなっても、死なれた、あるいは死なせた側が
記憶から消し去らないかぎり
生きて、存在しつづける。
他者を心のなかに生かすこと、
それは、人間の尊厳である。

それができにくい時代だという。
他者を心のなかに生かすことができなければ。
人の痛みも、傷つきかたもわからない。
恋愛もできない。
※それこそ、他者を心のなかに生かす行為の結晶だから。

他者を心に生かす力を育てるのは、
物語に入り込むことが有効な方法のひとつ。
それだけでもラボの存在意義は少なくない。

日本人の神仏混合的な考えからいえば、
死者は年月とともに、その個別性が透明になっていき、
40年くらいたつと、祖霊、
すなわち「ご先祖さま」という
集団霊として、家族のみならず地域全体にまつられていく。
そうやって、人は死別り悲しみからなつかしさ、そして尊敬へと
心もちをかえていくのだろう。
世代交代のシステムともいえる。

三澤家の菩提寺である宝仙寺は、
中野坂上から5分ほとでアクセスもよく、
大きな駐車場もあるので
有名人が、よく葬儀を行なう。
でも、住職におはなしをきいたら、
宝仙寺が直接葬儀をするのは檀家だけで
後は式場としてレンタルしているという。
仏教か神道であれば宗派は問わず貸していると
きっぱりとこたえてくれた。

それはともかく、宝仙寺は真言宗豊山派の寺としては
なかなかの格式である。
総本山は、いうまでもなく高野山金剛峰寺だが
豊山派としての本山は
奈良の長谷寺である。
ここは、建築的にもすばらしい寺だが
残念ながらまだいったことがない。
秋には、なんとかいこうと思っている。
はせでら
この写真が長谷寺。あれ、と思った人、その通り。
写真がないのでJR東海のサイトからのパクリである。
「いま、ふたたびの奈良へ」のコピーによる
美しいCMは、きっと見たことがあるだろう。
というより。あのCMのバックに流れる曲が
気になっている方も多いのではないだろうか。

あれは、男女の外国人アーティスト、
ネッロ・アンジェルッチとドナ・バークが歌う
「Again」という曲で、
ボロディン作曲の歌劇『イーゴリ公』から
「ダッタン人の踊り」をCM用にアレンジした曲。
厳密にいうと、このオペラの第二幕で使われる舞踊音楽だ。
舞台は12世紀。捕虜になったキエフ公国のイーゴリ公を
なぐさめるべく、遊牧民族 ダッタン軍のコンチャック汗が
命令して踊りを見せる場面。
CMの美しい旋律、女声合唱
「風の翼に乗って、ふるさとに飛びゆけ」
をバックに「女奴隷たちの踊り」 が始まる。
原曲は、もちロシア語。

興味ある人はAgainで検索すれば120円くらいでDL可能。

13日の夕方は、玄関をあけはなち、私道で迎え火をたいた。
仏壇に灯りをともし、岐阜提灯をかざり
お供えもした。
わらの馬と牛を用意し

※これにも諸説あって、ご先祖は馬にのって牛に荷物をもたせて
くる、あるいは来訪は馬ではやく、帰りは牛でゆっくり、など。

お盆らおがらをのせて火をつけた。
母が
「じいちゃん(父のこと)、みんな連れてきてね」と
ささやく。
風がつよく、おがらはあっというまに燃えてしまう。
まさに刹那。夏も刹那、そして人も刹那。

刹那は、サンスクリット語のKsanaの音訳といわれる。
仏教ではたいへんに短い時間のことだ。
指をぱちんと弾くのが65刹那ともいわれ、
宗派によっては75分の1秒というリアルな指定をしている。
それほど、夏も、人の人生も一瞬のことなのだ。

仏教の単位は小さいものから大きいものまで、とにかくスケールがでかい。
釈迦入滅後の末法の世、
56億7000万年後に弥勒が出現して衆生を救済する。
これなど、気の遠くなるような時間への想像力である。
また、『寿限無』でおなじみの五劫のすりきれ。
劫は天女が舞い降りて羽衣で岩をすりへらしてしまう年月だが、

※いちおうこの岩は一辺が20キロメートル。だが、天女が
何年に一度おりてくるかは厳密にはどこにも書かれていない。

もともとはヒンドゥーの宇宙論的な数字である。
ひとつの宇宙が生まれてから消滅するまでの年数ともいい、
ブラフマー(仏教では梵天)の1日に相当するともいう。
いずれにせよ、劫は一応研究され計算されていて
43億2000万年ということである。

もう、わけがわからないが、
ヒンドゥー、仏教などのインドを中心とする
広い意味での哲学は、
現代のテクノロジーの発達によって必要になってきた
テラ、ギガなどの巨大数から、ナノ、ピコといった極小数まで、
すなわち宇宙から量子レベルまでの数の認識を、
その想像力のなかにもっていたわけで、
これはやっぱり、ギリシアもびっくりの心のバワーだ。

なんて、あんまりわしらの日常とかけはなれた話のようだが、
「未来永劫にありえん」とか
「きょはてがけるのが億劫(おっくう=おっこうのなまり)だ」
なんて、けっこうよく使っているよなあ。

さて、ぼくには今や夏はさみしい季節だが
ラボにとっては「想像しい季節」だ。
カレンダーにフォトコン。
どちらも、25年以上つきあってきたが、
秋口は、この応募作品の整理と選考で、
いつもふうふういっていたのを思い出す。
でも、みんなけんめいに描いた絵や、
これだ! と選んだ写真を送ってくるので
こちらもしんけんモードである。
でも、はっきりいって3000枚の絵を全部、
気合いを入れて見るのは、はっきりいって命がけだ。
気軽に描かれた作品もあるが、
ライブラリーを聴きこんで、それこそ
全霊をぶっこんで描いた作品が多いから、
ほんとうに魂も体力ももってかれてしまう。
これ、まじな話。
バルバおじさん(関本浩詞先生)と
一次選考からはじめるが、
すべての作品に「ありがとう」の印を押し、
バーティごとに枚数と通過枚数を書いていく。
※ほんとうは、それぞれにコメントを書いてあげたいが
それはさすがに無理。
ユーススタッフやバイトのみなさんにも手伝ってもらい
朝から夜までかかる。
パーティで1枚だけの応募でもそれが通過するときもあるし、
パーティで50枚だしてすべて一次不通過だってある。

二次選考はライブラリーの絵本作家の先生にも参加していただく。
本多豊國先生はほぼ常連。
3000枚から選ばれたおよそ150枚(1次通過で20倍!)を
後悔しないようにていねいに見ていく。
支部・パーティはいわず、タイトルと学年・性別だけ公開。
審査員がA~Cのランクを口ぐちにいうが、
いちばん高いランクに分類される。
つまり、ひとりでもAという審査員がいたら、
他がすべてCでもAに分類される。
次にCの作品をもういちど見て、Bにあがらないか確認する。
さらにBを見て、Aにアップするものがないか見る。
実際、Cから入選までに復活した例はいくつかあった。

そして、ここからがたいへん。
Aの作品群をタイトル、テーマでわけていく。
同一テーマは新刊場合のみ重複も考慮するが、
基本は1テーマ1作品。
めったにないが、同一パーティの入選は2点まで。
そんな内規がある。

それと、カレンダーなので季節感もたいせつ。
ここで、大ヒントだが、晩秋から冬のテイストの作品は
やや有利! これほんとだよ。
どうしても、春夏っぽい作品が多いんだ。
それと、みんながあまり描かないテーマも
けっこう狙い目。
ただし、これはねらいすぎてもアカン。
でも、その物語がほんとうに好きならぜひ挑戦。
逆にいうと
『かぷ』『がらがらどん』『だるまちゃん』『ぐるんば』
などは、すごい作品が過去にいっぱいでているので、
勝ち抜くのはたいへん。
でも、やっぱり、これらのおはなしが
いかに不滅の人気作品であることがよくわかるけどね。

うまい絵は、だれも期待していない。
どれだけ。お話とむきあい、格闘したかが勝負。
それは、やっぱり絵にはっきりでる。
学校で「絵がうまい」といわれる子はたしかにいる。
でも、それはラボ・カレンダーの絵では
たいしたことではない。
お話との関係が、ほんとうにだいじ。

たとえば、「せんせい、できた」といわれてから、
「がんばったねえ。せんせい、ちょっとあずかるね。
あと二回くらいお話きいごらん。
そうしたら、もう少し書き足したくなるかも」
なんて、少しあっためるのもだいじかなあ。
子どもは、テーマ活動でもそうだけど
自分のなかで完成しちゃうと、そこでとまっちゃうことがあるけど、
ちょっと時間をおいて客観視させると
まだのびしろがあったりする。

もちろん、子どもの絵はぐうぜんが支配する部分もある。
たまたま筆がよごれて、おもしろいにごりなったりするから。

それから、どうしてもがまんできなくて
おとなが手をだしちゃう。
これはNG。
とくにおとなが手を入れた作品はわかってしまう。
でも、これはきびしく守ってきた。

それと、絵本のそっくりさんもつまらない。
見えているものより、見えてないものを描いてほしい。
見えない人、いなくなった人と心で対話することが
たいせつなように。

かたちや色にとらわれずに、自由に描いてほしい。
とくに輪郭を描いて、なかを塗るという
アニメ的な絵は世界が分断されてしまう。
それを学校で教えたりしているからこまる。
低学年ほど、絵や音楽は専門家が指導してほしいぞ。

カレンダーの審査も、最後は血なまぐさい。
審査員の好みがわかれるからだ。
『パエトン』のおぼ・まこと先生なんか、
「ぼく、これ、ぜったい」といってはなさない。
もう、ほとんど子ども。

いつかも描いたがラボ・カレンダーは多くの
アーティスト、しかも画家だけでなく、
音楽家の先生方も楽しみにされている。
ラボっ子の物語への感性に触発されることが多いからだ。

そして、写真コンテストのことも書こうと思ったが、
さすがに長くなったのでどうしようかな。
でも、ちょっとだけ。
これは、もともとホームステイのいい写真がほしい。
事務局やテューターのシャペロンでは、
撮影きない、生のステイの写真を集めようということではじまった。
だから、ホストファミリィのお父さんが撮った写真なんかが多い。
「撮られコンテスト」でも、いいじゃないかと。
きわめておおらか。
※どうでもいいけど、シャペロンとは
もともとは、フランス貴族の子女のお目付け役のこと。
勝手に恋愛したりしないように、社交の場で見張っていたのだよ。
子女たちは、その目をごまかすために
もっていた扇で会話をしていたのだ。

ともあれ、そうはいっても写真コンテストだから、
自分で撮った作品は、かなり評価が高くなるよ。
それと、何を撮りたいのかがはっきりわかる作品はいいね。
とくに、一緒に遊び以外の活動わしている作品。
仕事とかなにかボランティアとか、なんてのも高得点。
動物、日本文化ネタ、なんかはいつも多いけど、
やっぱり、心と心の通いあいが伝わってくる写真はいい!
おくりび

上の写真は今日の夕方の送り火。
牛と馬は帰路をむいている。
おみやげももたせた。
「じいちゃん、また来てね」
母がささやく。
まだあかるい7月の夕まぐれ。
刹那の夏が逝く。
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