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ごめんねと明日いえるか鰯雲 / 長月おわりの空、悲しいまでに高い。(改) 09月26日 (月)
ひぐれ1
いろいろ誤植がひどかったので改訂版。
写真は9月14日、横浜の海から見た「みなとみらい」の夕景。
出航直後の17時30分の撮影だ。
一応予告したシーンである。
10人乗りくらいのクルーザーからの撮影なのでけっこうゆれる。
たいした写真ではないが、いつもぐだぐだとした
日記を読んでいただいているので
しばらくは暮れゆく横浜をご覧あれ。
下の写真はちょっと時間がもどるが、その少し前の「ぷかり桟橋」。
ここから出航した。
この桟橋は、山下公園などともに横浜の観光船の発着場のひとつ。
当日は業務系の船なので、むかって左手の桟橋から出た。
ぷかりは、ちょうど「パシフィコ横浜」と「横浜グランドインターコンチ」の
真うらというか海側にある。
その名の通り、うき桟橋なので風のある日はゆらゆら。
まんなかの緑の建物は船のティケット売り場だが
二階はインターコンチ直営の「ピア21」というレストラン。
わりとリーズナブルな価格で、すばらしいロケーションの食事ができる。
※このレストランは浮いてない。
きけば、このあたりの海底は3月の地震で沈下してしまい。
桟橋が少し低くなって、波をかぶるときがあるという。
ぷかり
出航して30分、太陽がみなとみらいのむこうに沈む。
夕陽を撮影するのは4月の松江以来だ。
ひぐれ;2
ベイブリッジに近づく。
この美しい吊り橋(斜張橋というらしい)は長さ868メートル、
海面からの高さは55メートルもある。
長さ高さともレインボーブリッジをうわまわる。
橋は世界を横にひろげるから好き。
塔は、なんかいばりちらしている感じだな。
教会もお城の塔も電波塔も、見せびらかしのところがある。
※高みをめざしたいきもちはわかるけど
バベられちゃうもんな。
註:バベる=言語コミュニケーションができなくなる状態。
ぼくの造語。
べいぶ
大桟橋のむこうに富士山! 富士山をどれだけ遠くから撮影するか
というのに挑戦している人たちがいるが
このシーンもなかなか条件がそろわないと難しいらしい。
この日は空気も澄んでいたのでラッキー。
ふじさん
氷川丸とマリンタワー。
関東在住の方はどちらかには遠足でいってるんではないでしょうか。
かつては、どちらも横浜港のシンボルだった。
氷川丸は御年81歳、12000トンの貨客船。
今も博物館として見学可能。
ひかわまね
なんか横浜の宣伝をしているようだが
このところ函館に続いて港にこだわっているのだ。
よる
この日の日没はおよそ18時30分。
撮影は1時間(夕景をとるには十分、船の借り賃はけっこう高いぞ)。
みなとみらいにあかりがついた。
さあ、ピア21でディナーかな。

タイトルにも書いたが、長月もまもなく終わり、神無月である。
じつは、神無月の語源ははっきりしていない。
出雲大社に八百万の神が集結し、オオクニヌシが座長となり
縁結びのサミットをするため、
全国から神がいなくなるからという話は
中世以降の俗説というのが現在のメジャーな意見。
出雲では確かに神在月といういい方を今でもするが
出雲大社のスタッフが全国をプロモーションしたために
生まれた話である。
じゃあ、神無月の語源はということになるが
完全な説はない。
もっとも、いわゆる語源で完全に証明されているものは少ないけどね。

ぼくは個人的には水無月のように
ofという意味での「の」が「な」になったという考え方に
今のところ傾いている。
水の月が、水な月、水無月である。
本来雨の多いときだがら、これは納得できる。
神無月も収穫に感謝する月、すなわち米の神さまの月だから
神の月、神な月、神無月というわけだ。
「の」なのに反語的に無という字を当てているのもおもしろい。

まだほかにも雷がない月で雷無月、新しい酒を醸す月なので
醸成月(かみなしつき)など、いろいろな説がある。
ともあれ、こうしたことばの由来を調べることは
いにしえ人の思いや感性にふれることなのでたいせつだ。
また、ことばひとつひとつの意味を深くとらえるきっかけにもなる。

灘高校の伝説の教師の話を先日テレビでみたが
「銀の匙」を1年以上かけて読むというのは
そうした「一語の重さ」を感じとる活動にほかならない。

その点でいえば、ラボのテーマ活動は、
まさに「ことば一語、一語にむきあう」教育プログラムだと
いまさらのように思う。
そのためには、深くライブラリーを聴くことを重ねるしかない。

物語は山と谷の連続だから、数回聴いた程度では
谷底も山頂も一部しかわからない。
くりかえし出会うことで、常に新たな谷やサミットが見えてくる。
だから「かんたんな物語」など存在しない。

なんていうけど、かたひじ張らずに、まずは聴くのがよいのかな。
つーる
さて、いきなり古い写真だ。
先日、三澤制作所の机を整理していたら
一昨年、85歳で他界した父親の古い写真がでてきた。
これはおそらく1957年ころ(ぼくは4歳)の撮影だろう。
父は若き日、バイク青年で
この写真は仲間とどこかのお城にツーリングにでかけたときのものだ。
左から2番目のやせてまぶしそうな目つきの悪そうな男が父だ。
バイクはアリエルという今はもうないイギリスの名車。
皮のライダースとブーツで
思い切りかっこつけている。
戦後、12年のころだ。
みんな堂々としていて、なんとかっこいいのだろう。

父はこの1年後、ぼくの妹が生まれたのを契機に
二輪から四輪に乗り換える。
もっとも、四輪も若いときからのっていて
小平にあった陸軍の研究所で
空襲が来ると、二台だけ残ったジープを林にかくす
というのが任務だった。
昭和20年、3月の大空襲のときも東の空が真っ赤に燃えるのを
ぼうぜんと見ていたという。

じつは、母もこのとき、同じ陸軍の研究所で雑用係をしていたが
父とはまだ出会っていない。
この研究所は、なぜか空襲されなかったが、
※三鷹の中島飛行機(今、ICUIと富士重工があるあたり)などは
当然のごとく空爆された。
暗い防空壕のなかで
高空を通過していくB29のゴオンゴオンという
ターポ付エンジンの音が今も耳の記憶から離れないと母はいう。

父は80歳まで車を運転した。
ギアチェンジだけできれいにカープを曲がる技術は
子ども心にすごいなと思っていた。
その父も80歳になった日に免許を返還した。
あれほど好きだった車だが、
いや好きだったからこそ
「もう乗るべきではない」といいきった。

母と父は見合い結婚である。
この写真の6年前のことだ。
母はそのころ、新宿の二幸(現在のスタジオアルタ)のうらの
商事会社で事務員をしていた。

春、桜のはじめごろ
父を紹介した人がもってきたいわゆる見合い写真は
なんと三人が写っていたという。
物がないときとはいえ、ひどい話である。
しかし、ともにならんでいる二人が
老人と子どもだったので父がどれかはわかった。

母は、当時、会社の先輩に告白されていたが
すっぱりと父をえらんだ。
ふざけた写真だけど、まぶしそうな目が気にいったのだそうだ。
だからというわけではないが、
父の遺影もやっぱりまぶしそうな顔をしている。
なお、母にふられた先輩は会社をやめて
なにくそとかんばって独立して成功したらしい。

その母も80である。
膝がいたいが、それ以外は元気だ。
毎月、ぼくと墓参する。
菩提寺である宝仙寺が近いので助かる。

最近は母の記憶をたどってもらい、
こうした話をききだしている。
それもたいせつな物語の活動だ。
父が亡くなってから、はじめて話す内容も多く
「えっ」というようなエピソードもある。

父がジープを林にかくしているころ、
母は毎日、自転車で将校の弁当の配達や
書類の整理をしていた。
母が最初にあこがれた人は
背の高い、やはりまぶしい目をした士官だったが、
マリアナ沖から帰ってこなかった。

そして終戦
昭和20年長月のおわり、
母は15歳の秋のまっただなかだった。
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