幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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荒野にだれも座らない椅子がぽつんとたたずみ、かじりかけのリンゴひとつ。さよならスティーヴ(改) 10月06日 (木)
すてぃーぶ
例によって、ひどい誤植が多いので改訂版。
来週の金土で、箱根は宮の下に取材に行く予定なので、
更新は秋の箱根の写真とともに、その直後にしようと考えていた。
しかし、もうおわかりと拝察するが
朝、つらいニュースを雨あがりの美しい光のなかできいた。
たまらずに外にでると水のにおいがまぶしい。
鼻孔をくすぐられるようだ。
また、ひとり創造性にあふれた男が空に帰った。

最近は6時には起きて顔を洗うが、
その直後に音楽をかけながら
(今朝はジョージ・ウィンストンのThanksgiving)
iPad2でメールやニュースをチェックする。
それから朝飯だ。
オバマのスピーチにもあったが、
このiPad2を世に出した人物の訃報を
iPad2で知るとは…。

写真は三澤制作所のメインマシンである
iMac 27inch、3.1GHzクアッドコアIntel Core i5、
4ギガのメモリー、1テラバイトのハードディスクを搭載した
現在最強最速のMacである。
この7月にエイヤッと購入した。
外ではiPad2とiPhoneをもちあるき、
事務所では、ほとんどの作業をこのPCで行なっている。

その画面でこちらを見つめているのは、
本日朝、この世を去ったApple社の共同創業者であり
この夏前まで同社のCEO(Chief Executive Officer)だった
Steve Jobs氏(1955-2011)である。

氏は、ぼくが語るまでもなく、
Apple社をマイクロソトを上回る
株価時価総額の会社に育て上げた伝説の経営者であり
開発者であり、コンビューター文化の創造者だった。
2004年に膵臓がんを患い、奇跡の復活をしたあとも
肝臓移植をするなど信じがたいような闘病生活をしつつ
AppleのCEOをつとめ続けた。

じつは、Apple社のPCのシェアは5%ほとで
はっきりいって高くはない。
ビジネスの分野ではほとんどがマイクロソフト社の
基本ソフトであるウィンドウズを搭載したマシンが使用されている。
また、MacのPCはApple社だけが制作・販売しているが
いわゆるウィンドウズPCは数多くの電気・電子機器メーカーが制作して
提供している。

しかし、Appleは、
携帯音楽ブレーヤーの分野で一人勝ちしていた
ソニーのウォークマンを奈落の底に
つきおとしたiPodをはじめ、
iPad、iPhoneなど
人びとの生活をかえてしまうほどの
次つぎに魅力的な商品を提供してきた。
その独自の洗練されたデザイン、驚くべき機能などは
いつもApple教の信者たちを興奮させてきた。
※かくいうぼくも信者のひとりである。

さらにすごいのは、その独自の製品を
結局は他社が後から追いかけることになることだ。
iPodは携帯ディジタル音楽プレーヤーをつくらせ
iPadは各社にタブレットを開発させた。
そしてなにより、スマートフォンはiPhoneが登場しなければ
これほどの広がりを見せていないだろう。

それらの劇的な革新を担ったのがジョブズ氏である。
発想力、デサインセンス、強引なまでの交渉力、
(ここでいうデザインとは単に外見だけでなく、
先々のサービスまでも含めた全体的構造のこと。もちろん外見もかっこいいが)

そしてだれもがとりこになるプレゼンテイション力。
新製品の発表会では常に
トレードマークである黒のタートルネックに
ブルージーンというラフなスタイルで登場する。
もうそれだけで、観客(わざわざ有料入場券を買っている)も
そして専門誌の記者や学者たちでさえ
クリスマスプレゼントを背中にかくしてドアの前に立つ
父親を見つめるまなざしで心をときめかすことになった。

その一方でジョブズ氏は、独善的であり
傲慢で未熟で、脆さがあり、完全主義者であるといった
きびしい評価も常に受けてきた。
それがゆえに、一度は自ら創業したApple社を追われてもいる。

発言も過激で、名言集が本や映像になっているくらいだ。
「無能な味方は敵である」
「常識にとらわれることは、他人の人生を生きることだ」
などはとても有名だ。
ペプシコーラの社長をヘッドハンティングしようとしたときは
「のこりの人生も砂糖水を売ることに費やすか、
世界を変えるチャンスを手にしたいか」
というほぼ暴言に近いプロポーズをした。
また、スタンフォード大学の卒業式での式辞
Stay hungry, stay foolish.
もよく知られている。

とにかく、刺激的な人なのだが、
創造性の豊かさ、発想力、予測力には
ライバルたちでさえも脱帽せざるを得なかった。

ジョブズ氏がApple社(当時はApple Computer社)
を立ち上げたのは1976年。
ぼくがラボに入社した年である。
そのころは、PCは日本では一部の専門家のもので
一般家庭の電気製品としての値段でも機能でもなかった。
ぼくも興味はなかった。

1981年に関西支部から本社にもどってきて
しばらくたったとき、ワープロが一台だけ総務にはいった。
たぶん100万くらいはしただろう。
そのころは、チラシは手書きで、
さすがにガリ版ではなかったが
謄写ファックスで原紙を切り、それを印刷していた。
地図やイラストも手書き。
だから、いわゆるMSをするのには
とんでもない手間がかかったのだ。

そのころは、ぼくは組織担当であったが、
制作や広報では全部手書きで編集をしていた。
ぼくも1986年に本部勤務になり
まず「ことばの宇宙」を担当したが、
手書きで編集、指定を行なった。
写真もいまのようにデータではなく
いわゆる紙焼きにトレーシングペーパーをはって
大きさやトリミングを指定していた。
それで,毎月、32ページ、
年二回の64ページの特大号をつくっていた。

でも、そうしたコツコツとした作業が、
後のライブラリーづくりに役にたったことはまちがいない。

その後、ワープロの専用機がだいぶ安くなり、
ぼくでも買えるようになった。
でもPCはまだまだ高かった。

そんなぼくが最初に手に入れるたPCは
NECの製品である。
当時ラボ機という専用再生機の技術でNECの子会社と
関連があったために、ちょっと安く買えたのである。
それでもPC9801という上位機種は手がでなくて
PC880Iマーク2SRという、ひとつ下の機械にした。
とはいえ、当時本体とモニターで約30万円。
それも値ぎり倒したうえの、給与控除の20回分割払い。

そのころアップルはもうすでに世にでていたが、
とても高かった。論外。
また、当時のAppleはモニターがけっこう滲む感じで
バキッときれいな日本製のモニターのほうが好きだった。

それがApple党に変化したのは
当時、財団で仕事をしていた
故バーニー・レーベンスピール氏の影響である。
氏は一体型のクラシックとよばれるMACを使用していて
見たこともないマウスとかいうものを操作して
スイスイと仕事をしていたのだ。
ただ、そのモニターはモノクロであったので
ぼくは「白黒なんだね」と小馬鹿にしたようなことを
ほざいてしまった。
するとバーニーはあわれむような顔で
「でも、ホストファミリィのリストはカラーでなくて
いいでしょう、日本のコンピューターは大きいだけね」といった。
そのひとことが気になって、そこからApple社のPC
すなわちMacを勉強しだしたのだ。

当時は個人はもちろん、会社でもPCをそろえるのはたいへんで
かなりの予算が必要だった。
Personalといいつつ部署に一台あればおめでとうだった。

それが、いまや一人一台は常識というかあたりまえになった。
てか、One on oneでないと仕事にならない。
日常の仕事はもちろん、出勤管理や会社の文書配布、資料の配布
などすべてがPCである。

一方、どこの会社でもそうだが、PCにむかっていると
仕事をしているように見えてしまうこわさもある。
たいせつなのはPCで効率化されて生まれた時間で
いかにクリエイティヴな仕事をするかだ!

別に秘密でもなんでもないので書くが
ラボの社員のPCは基本ウィンドウズである。
機械が廉価だし、今の若い人は中高生のころから
ウィンドウズになれている。
また、ビジネス用のソフトウエアも多い。
それを社員や常勤のアルバイトにも貸与している。
ネットはシステム管理部ですべてのPCをがっちり守っているから
ラボのセキュリティは極めて高い。
なにせ会員情報だけでもすごいからね。

ただ、制作・広報だけはぼくの時代から
一貫してMacである。
Macは割高なのだが
これだけは、在職中は、
なにがあってもぶれずに
ずうっとわがままを通させてもらった。

その理由はいろいろあるのだが、
当時音声とか映像のプロ用ソフトウエアは
圧倒的にMac用だったのだ。
今はウィンドウズ系も多く見られるが
スタジオや印刷所は、ほぼMacだった。
それと、なにより英文のフォントが美しかった。
当時のウィンドウズだと、いかにもパソコンという文字
しかなかったのだ。

とにかく1991年以降のライブラリーのテキストや音声は
すべてMacによって生み出されている。
Macさまさまだ。
『おどりトラ』の英語版絵本は
福音館が印刷しているが、
文字はラボのMacで入力したフォントである。
入力した本人がいっているのでまちがいない。

ライブラリーづくりはPC、MACのおかげで効率化はしたが
結局、仕立て、仕上げるのは人間の感性である。
PCが万能なのではない、
PCは、使用する人間の創造性、想像力が問われている。
スティーヴ・ジョブズ氏はそうした考えをもっていた。
PCがビジネスの現場に日常化することで
仕事の標準化が進んだかもしれない。
だが、それが結果として「人とはちがう創造性」をうばう
ことにもなるのだ。

ジョブズ氏はアイディアに満ちた製品で
われわれを常にな挑発し
それを使いこなすクリエイティヴィティをひきだした。
ぼくは、彼の最も偉大な点は
経営手腕そのものよりも
そうした人間の創造性の素晴らしさへの確信にあったと思う。

ライブラリーの作品が決定して第一稿ができると
最初の仕事は、テキストの入力である。
これがたいへんだが、楽しい。
そして作品を理解する道筋でもある。
英語、日本語、それぞれに打ち込み、
それを英日に組み合わせていく。
※手書きのときはたいへんだったろうなあ。

長い文は接続詞で分割する。
ただ、英語は関係節というややこしいことがあるので
二文にわけると意味が対応しないことがあったりして多いに悩む。
『三びきのやぎのがらがらどん』の冒頭などは好例だ。
ブラウンの英語も、瀬田先生の日本語もすばらしい。
もちろん、どちらも改変はできぬ。

物語の冒頭だから、幼い子どもたちも
しっかりとおはなしに入っていけるように、
できれば短い文で、いいやすく、聴こえやすく
かつ、ゆったりとはじめたい。
実際、独り語りの物語の冒頭と中盤では
語りのスピードは異なる。

しかし、この物語の場合、「テーマ活動の友」で
見ていただければすぐわかるが
冒頭の文は分割することができない。
意味があわなくなってしまうのだ。
意訳とかいうレベルではない。
まさに関係節だからだ。

ま、そんな悩みをしつつ
英日の組み合わせを一行ずつつくっていくことは
演出全体、仕立て全体を考えるために
作品を理解していく重要な作業だ。
ほんとにMacにはお世話になったのだ。
キイボードはガタガタになるまだ叩き込んだからね。

前述したようにMacのファンは
その創造性にしびれているのだが、
今朝、ジョブズ氏の訃報が流れたとたん
Facebookで交流しているたくさんのOB・OGから
彼についての書き込みが一気によせられた。
ラボっ子のような個性的で創造的な連中はMacユーザーが多いのだなあと
あらためてびっくりした。

Appleは、これからも新しい製品をだしていくだろう。
しかし、ジョブズ氏というカリスマを失った今、
あのわくわく感があるかはわからない。
独裁者は後継者を育てられぬのが通例だからだ。

できるリーダーが卒業した後のパーティも
しばらくはたいへんだったりするよなあ。

昨日、iPhoneの新型が発表された。
それは、みんなが期待したiPhone5ではなく
4Sという改良型だった。
でも、アメリカのあるサイトで
4SはFor Steveだという書き込みを見た。
だとすれば泣ける。
※翌日、Appleの広報はそれを否定

タイトルの写真は下記のAppleのサイトで見られる。
http://www.apple.com/

そこには同社のメッセージもあり
Apple社はvisionary and creativeな天才を失い
世界は驚異的な人物を失ったと書かれている。
Visionary =先見性のある
には幻視者という意味もある。
彼をあらわす象徴的な表現だと思った。

大詩人イェーツは
「人はだれも、心に傷をうけると幻視者になる。
しかし、ケルトの民だけは生まれながらに幻をみる」
といった。
この数年は新しいアイディアと病という
きびしい戦いをしていたジョブズ氏の
心の奥にあったかもしれぬ深い闇は
たぶん、だれにもわからなかったのだろう。

最後にジョブズの発言のなかで
ぼくが気に入っていることばをひとつ
追悼として書いて擱筆(かくひつ・筆をおくこと)する。

「君が美しい女性を口説こうとしているとき、
恋のライバルが10本のバラを贈ったら、
君は15本贈ろうとするかね。
もしそうなら、その時点で君は負けている」

リンゴの齧り跡が少し大きくなった。
ありがとうございます ・
かせだまさん (2011年10月19日 10時41分)

こんにちは!

SENHCHOさんのライブラリー論、

深いですね。

ギッミアトーチの英語音声が

心の中で 再現されました。

ところで 箱根にもニキさんの作品があるんですね。

那須の美術館がしまっていて 

なくなく帰ってきたことがあります。。。

ニキさんの作品は あこがれです。

ありがとうございました。
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