幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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すがりつきたいほどの懐かしさに思わずふりむいても、青き嵐のころはすでに無限遠でゆれる陽炎のよう 11月03日 (木)
しゅうごう
被写界深度ということばがある。
写真のテクニカルタームだが、
ピントが合っているように見える距離の範囲のことだ。
もちろん、厳密にピントが合う場所は一平面上にしかないが、
その前後にもはっきり結像しているといえる許容範囲がある。
その範囲が被写界深度だ。
英語ではDepth of fieldといい、DOFと略される。

興味のない人には、どうでもいい話だけど、
絞りの数値をあげるとシャッターの開く大きさは小さくなり
被写界深度は深くなる。
つまり、手前から奥までピントがあった写真になる。
人物と風景をどちらもはっきりさせたいときはこれだ。

逆に絞りを開放してシャッターを大きく開けると
被写界深度は浅くなり、たとえば手前の人物にピントをあわせると
奥の背景はぼけて人物が強調される。
前々回の日記で載せた彫刻の森美術館の
ギャラリーカフェで撮った人物写真はその例である。

今のカメラはだいたいオートで撮ってくれて
それなりのできばえになるのだが、
ちょっとした技術でずいぶんちがう写真になる。
しかし、最新のカメラは人物中心とか風景と人物とかいった
撮影モードもついていて、
今述べたようなテクニックをカメラが勝手にやってくれる。
まあ、理屈はいっしょだ。

しかし、どんなハイテクのカメラでも
人間の眼というレンズと、その映像を解析する脳というカメラには
まったくかなわない。
一般的に、カメラのレンズは何枚か重ねられており
特に望遠レンズなどはたいへん枚数が多い。
したがって、どうしても暗くなってしまう。
しかし、人間の眼のレンズは左右それぞれ一枚である。
たいへん明るい。
しかも、立体視ができ、自在に被写界深度をとれる。
最新の工学技術でも、人間の眼と同性能のカメラやレンズを
つくることは、なかなか難しいらしい。

かように優秀な人間の眼だが、
残念なことに脳というフイルムには
いつまでも画像を保存しておくことができない。
場所でも人でも、長く見ていていないと
「あれっ?」となってしまうのは
人間カメラの悲しい部分である。
感動して、そのとき強力に脳裏に焼き付けたつもりでも、
年月というものは脳の映像を用意に劣化させる。

そこへいくと耳の記憶はすごい。
音はいつまでものこる。
いつかも書いたが、81歳の母親は
戦争末期、防空壕のなかで
空襲を終えて、はるか高空を「ごおん、ごおん」と去っていく
B29の爆音が今も耳にのこっているという。

ラボっ子の言語体験もそうした耳の記憶に支えられいるのだろう。
国際交流参加者の感想、OBの思い出などに
その顕著な例は山ほどある。

いやな話だが、臨終においても
聴覚は最後までのこる。

眼は口ほどにものをいうが
耳は眼ほどにものを知るのかも。
やはり聴くことはたいせなのだ。
と、また、そこにむりやり結論をもってくなあ。

さて、タイトル下の集合写真は神無月終わりの29日に開催された
武蔵高校45期の同期会の最後に撮ったものだ。
ぼくが撮ったので、ぼくは写っていない。
一昨年にも行なわれたが、
そのときは170名中、38名のみの参加だった。
今回は、卒業40周年ということと、
同期の梶取弘昌くんが、
同校の校長に就任したということもあり
60名をこえるかつての悪ガキどもが集まった。
男子校なので「アラ還(みな58~9歳)」のおっさんばかりで
じつに暑苦しい。
紅顔の美少年だったものもいたが、
そのおもかげすらもない。
厚顔の後期中年である。
かじとり
上の写真は同期会で熱唱する梶取校長と夫人。
彼は東京芸術大学で声楽を学んだぼくらのなかでも異才である。
また数学、英語の分野の卒業生から輩出することが多い校長職だが
音楽から選出されるのもめずらしい。
もっとも、梶取くんは教頭職も長く、
その実績が評価されてのことである。
ただ、校長は学校の顔であるから
そのプレッシャーと業務量はすさまじく
専門であるドイツリートの研究に費やす時間がとれず
「この学校では降格人事」とあいさつして
一同の爆笑を誘った。

『ノアのはこぶね』『ジョン・ギルピン』の音楽を担当された
牟岐礼先生(東京芸術大学教授)は
「音楽家のなかでは声楽家が他の楽器にくらべて
ギャラはいちばん高いんです。
あのすばらしい声は、もちろん訓練にささえられていますが
天賦の才は、まさに天から借りているのかもしれません。
そのレンタル期限はビアノやバイオリンなどにくらべて
とっても短い。実働期間がかぎられているんですね」
とおっしゃった。

たしかにビアノやチェロなどはかなり高齢でも、
信じられないほどの演奏が存在する。
かつてウラディーミル・ホロビッツが最晩年に来日したとき
あの手この手をつかい、さらに無理にスケジュールを調整して
聴きにいったことがある。
ちょうど、ぼくが埼玉支部(現北関東信越)の担当から
本部の制作広報に異動になった1986年のことだ。

じつはホロビッツが初来日したのは1983年、
すでに80歳のとはきで、このときの演奏は
ぼくは聴きにいってはいないが
体調不良によるぼろぼろで
「ひび割れた骨董」などというきびしい批評をうけた。
ホロビッツは、もともと波のある演奏をすることでも知られていて
ノッているときの演奏は悪魔の技といわれるほどの
タッチと加速感、そして心にせまるものがある。
彼のピアノはCDでもきけるので
興味のある人はぜひ。
1970年代のショパンやシューマンはすごい!

ホロビッツの1986年の再来日のときも
83歳の彼が
はたしてまともに演奏できるのかということが話題になった。
ぼくも、一度生で見れればいい
くらいの気持ちで安くはないティケットをにぎりしめて
ホールにむかった。
たが、そこでの演奏は
悪魔どころか、天上界の神がみも頭を垂れて聴いてもおかしくない
すばらしいものだった。

すぐれたピアニストは数多いが、
ミスタッチの少なさはもちろん、
唄うような表現力のあるピアノを弾くという点では
ホロビッツの右にでるものはいないのではないか。

そのとき、ぼくがとくに感動したのは、
ぼくの席(当然、いちばん安い席なので後ろのほう)まで
ピアニシモがしっかりと、とどいてきたことだ。

また脱線したのでもとにもどるが
声楽家はホロビッツのような高齢者のプロはいない。
どんな鍛錬しても限界はくる。
梶取くんも、日々トレーニングを重ねているが
激務のなかでいつ声を失うかとの恐怖と戦っている。
だから
「歌える場を見つけてとにかく歌う」ということで
この同期会でも校長でありながら
「歌いたい」と司会に申し込んだ。
ちなみにこの写真は夫人とのイギリス歌曲のデュエットであるが
この前には、さだまさし氏の「案山子」を熱唱した。

なお、氏に宣伝してくれとたのまれたので
しぶしぶ書くが、
「毎日小学生新聞」に音楽教育についてのコラムを
春から連載している。
※しっかりコピーをもらった。
つぼさん
上の写真は当日かけつけてくださった恩師の一人、
大坪秀二先生である。
御年87歳だが、しっかりと立ってウィットにとんだあいさつをされた。

戦後、この学校の自由な教育を進めたのは
大坪先生が校長在任時に発揮された強力なリーダーシップによる。
制服なし、校則なし、ことさらの受験教育はしない、
しかし自ら考え、自ら学ばないものには冷たい
という今も続く校風の基盤は大坪先生が固めたといってよい。

とにかく、本質的な知的刺激を生徒に与え
生徒が自分で考えることを激励する。
そのことの意味がわかったのは、
卒業後、大学3年くらいになったころである。
それまでは、なんでこんな難しいことばかりやるのだと
恥ずかしながら思っていた。

いっぱい、知的刺激をうけていたはずなのに
その恩恵をずいぶんと無駄にしてしまった。
もうすこしまともにむきあっていたら
もうすこししまともな人間になっていたのに…。

中学・高校と、
青き嵐に、しかも瑞々しく、
かつ貴重な風にさらされていたことを
幸運に思う。

ぼくたちに刺激をあたえてくれた教師の方がたを
書いていったらきりがないが、
今回ひとりあげるとすれば、
倫理社会の和辻夏彦先生(故人)だろうか。
和辻先生は「古寺巡礼」などの名著で知られる
哲学者、和辻哲郎先生のご子息である。
夏彦先生も哲学を学び、当然にも大学レベルでの研究を
されてもおかくなかいはずなのに
先生は中学と高校の教師の道を選び、そして愛された。

ぼくがまだ、中学のとき、
和辻先生の最初の授業で、先生は黒板に
「社会とはなにか」と書かれた。
そして、ひとりずつ生徒を指名して
意見を述べるようもとめた。
だれも、まともにはこたえられない。
ほぼ全員がしどろもどろになったが、
先生はなにもおっしゃられなかった。
その日はそれで終ってしまった。

翌週、また先生は「社会とはなにか」と板書された。
そしてまた,皆沈黙して授業が終った。
その翌週も同じことがくりかえされた。

すると、さすがに、図書館にいったり、
先輩や仲間たちと議論したりするものが現れた。
とにかく、なにかこたえないとまずい、
それには、自分で考えないとはじまらないことを
ようやく、あほなぼくたちは学んだ。
やざき
上の写真は記念撮影の後、会場を後にする
矢崎三夫先生である。
矢崎先生は英語がご専門で、中1のときはぼくの組担任でもあった。
先生も校長職をされており、
「梶取くんには、すなおにおめでとうとはいいにくい」
とあいさつされて
またまた一同爆笑した。

先生は腰を悪くされていて、この日も出席があやぶまれたが
元気に参加してくださった。
外科、内科、眼科、歯科いずれも同期の医師が担当しているという。

先生がお帰りのときは全員がスタンディングオベイション。
なにやら「チップス先生さようなら」みたいに感動的だった。

今、私学を受験する小学生はたいへん多い、
いわゆるお受験というやつだ。
ぼくの時代は、まだまだめずらしくて
逆に奇異な目で見られた。
ただ、小学校の担任の先生が熱心にすすめ
親を説得してくれた。
ぼくは、まわりにいわれるままに受験したにすぎない。

テレビなどで受験塾のようすなどを見ると
子ども自身が、すげえやる気でがんばっている。
なにか複雑な気分になる。

今思うのは、校風や教育方針が
その子どもにあうかどうかがたいせつだと思う。
でも、はじめはわからないもんな。
ぼくは、すばらしい6年間を過ごしたと思っているが
途中で校風にあわなかったり
授業についていけずに学校を去った仲間もいる。

ラボっ子のなかにも中学受験をする方も多いだろう。
その受験のために費やされる時間によって
行動がせまくなることはいたしかたない。
わずかの期間だし。
ただ、小4くらいからもう準備するのは
ちょっとなあというのが正直なところ。

ところで
中高一貫というのは、ある意味培養面積が小さいけど
縦長のよさもある。
それはラボでも証明ずみだ。

梶取校長との会話のなかでも
受験の問題というのはテーマになった。
かつて武蔵は受験界の北朝鮮といわれ
いわゆる受験産業とはまったく接触をしてこなかった。
また、大学受験においても特別な受験授業はしない。
ただ少子化のなかで、受験者数を増やし
未来を担う人材を安定して育てるためには
そうもいっていられないと
校長はいう。

うーむ、学歴ということばは好きじゃないが
中学・高校のときに出会う知的刺激は
ほんとうにたいせつだ。
その意味でいえば
ライブラリーという、すぐれた知的刺激に
幼いときから出会えることは
なんと幸せなことだろうか。

なんか母校の宣伝のようになったが
※梶取(敬称あえてなし)に「あちこちによく書いてくれ」
といわれたのもあるが
年も終わりに近づくと、
受験に頭を悩ませる方も多いのではないかと思い
こんなことを書いてみたが
あまりに役立ちそうもない。

希代の天才ピアニスト
ウラディーミル・ホロビッツは
小品集のレコーディングを終えた
4日後の1989年11月5日、
自宅で食事中に急逝。
ミラノにある義父である
トスカニーニの霊廟にともに埋葬された。
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