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さよならガリバー 追悼 村田栄一氏 01月22日 ()
いつか書いたが、ぼくは家で夕食をとる時間は
基本的に17時30分である。
場所は三澤制作所本社。
母と二人分を17時から用意し30分でつくる。
その前の2時間くらいがオフィスタイムである。
原稿書きか写真の編集みたいなことがほとんどで
その他の書類仕事や雑用はすべてマネージャーまかせ。
ひどいボスである。

で、夕食のときは、ややお行儀悪いが新聞を眺める。
ニュースは常時ネットでチェックしているが新聞も重要だ。
紙でしか載らない情報もあるからね。
ただ食事中なのでざっと見出しを流し、
後で興味のあるところ、とくに書評や劇評、その他の文化情報などを
ゆっくりと読む。
でも、最初にチェックするのは訃報や受賞の欄である。
これは現役時代からの職業病に近い。
もし、ラボの制作や教務に関係のある方だったりしたら!
ということがあるからだ。

もちろん、ネットでもわかるのだが、
いわゆる超有名人でないと情報が遅れることがある。

今日の悲しいニュースもそうだった。
日曜日だから朝刊しかない。
しかし、不覚にもぼくは夕方まで朝刊を見ていなかった。
また、今日は読書に時間を割いていたので、PCやiPad2も
あまり見ていなかった。
そして、夕食になり、
ぼんやりと夕刊を眺めていたら最初に眼に入ったのは,
教育評論家・村田栄一氏逝去の報。
21日、急性心不全のため逝去された。享年76歳。
お若いテューターの方は、そのお名前はご存じないかもしれない、
しかし、今、とても活躍されている尾木氏よりもずっとはやく
現場の小学校教員として、
自由な教育への模索を大胆かつ深く行ない、
教師引退後も、多くの教員に影響を与えた方だ。
そして、もちろん、ラボにもさまざまなご協力をいだたいた方である。

村田氏は、川崎市の小学校教員時代(1960年代)、
村田学級の名で知られる独自の教育活動を展開、
文部省(当時)の高圧的な指導への懐疑を現場教員として
初等教育の根幹である小学校1年生に実践的に開示した
学級通信・ガリバーで世に知られるようになった。
※学級通信・ガリバー : 村田栄一/著 : 社会評論社
ご本人が注釈をいれられて今も改訂版で読めます。
時代背景がかなり異なるので現代にそのまま適合しないこともあるが
村田氏の原点ともいえる著書。

村田氏は教師退職後、スペインでセレスタン・フレネの教育にふれ
その自由教育運動に共鳴、
帰国後は教師を対象としたワークショップなどを展開された。
今の50代の教員で氏の教え子は多いと思う。

ラボ教育にも深い理解と共感をもって関わられ、
創立25周年の教育フォーラムでの司会や
各地での講演などでたいへんお世話になった。
また、1990年に氏はラボ教育活動についての本も出され、
キャンプそして国際交流にも参加された。
ラボっ子とともに渡米した際には氏自身もホームステイされ、
ホストファミリィへのインタヴューなども行なわれた。

ぼくは、その夏に氏とともにインディアナ州での留学生研修を見学、
続いてワシントンDCにおもむき
ナショナル4Hセンターを表敬訪問したり、
アーリントン墓地やホワイトハウスなどにも同行した。
旅の間、氏の深い知識に終始圧倒されたが、
当時はまだ36くらいの青二才であった
ぼくの話も真剣にきいてくださり、
的確なコメントをいただいたのはとても勉強になった。
そのころ、ぼくは宮前区の鷺沼にいたが、
氏は宮前平小学校近くにお住まいで、
なんどかおじゃましてお話をうかがったのもなつかしい思い出だ。

謹んでご冥福を祈念する。
なお、葬儀は親族のみで行ない、
後日に「お別れの会」が開かれるとのことである。

先日の林先生、そしてネイザンに続いて、またラボを
応援し愛してくださった星のような才能が
また、ほんとうの星になってしまった。

食事の途中だったが、元会長の松本氏に電話をした。
多忙な方だから絶対でないとおもいつつ携帯かけると、
数秒で出られ、ぼくが「こぶさたしてます。三澤です」
といいおわらぬうちに、
「村田さんのことだろう」と静かな声がきこえた。
冷静だが、いつもの彼のテンションではないと直感した。
賀状には「またお会いしたい」と書かれていたそうである。

昨年、脳梗塞をおこされやや後遺症はあったものの
それ以外はお元気だったようなので、松本氏も驚きををかくせないみたいだった。

「お別れの会で会おう」
そういって電話は終った。
松本氏とは、昨年初夏のあるバーティの周年行事以来だ。

出会う人の数よりも
別れる人数のほうが多くなりつつある。
でもでも
それでも、前へ。
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