幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
■■■ 運営事務局より ■■■
ひろば@LABOは,ラボ教育センターが展開する
「ラボ・パーティ」に関わる皆さんのコミュニティ・ネットワークです。
「ラボ・パーティ」については 公式サイト  をご覧ください。
ラボ公式HPTOP新着一覧そのほかランダム新規登録戻る 0358288
  
Home
Diary
Profile
BBS
Bookmarks
Schedule
メール
・メッセージを送る
・友達に教える
ページ一覧
Welcome!
[一覧] << 前の日記 | 次の日記 >>
ようやく更新 テーマ活動がテーマ活動を生み出す 空まで香れこの春の花 03月14日 (水)
かれんだ
あの日から1年たった。
平安な日常が続くと人間は退屈し、変化をもとめる。
食べて、寝て、歩いて、笑って、泣いて、嫉妬して、排泄して、
愛し合って、歌って、入浴して、出会って、別れて、感動して、
祈って、疑って、いなくなった人びとを心に生かして…。
人は生活するために生きる。
そんなあたりまえのことが、
60年近く恥多く生きてきてやっとわかった。

三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。

弥生ならぬ『きてれつ六勇士』のお姫さまだ。
グリム童話にはいろいろな姫がでてくるが、
この姫というか王様の娘は、とりわけ高ビーで、
ワガママむすめの代表か。
まあ、父親が父親だから当然かもね。
その姫さまをわざわざ、そして大迫力で描いた
小金井市の関百合河さん、やりますなあ。
このいつも超不機嫌な姫が、
絵ではなぜかマジに怒っている。
彼女に毎日に壁から「喝!」を入れられるのも悪くないぞ。

今の日本のおとなたちを見れば、
「あんたたちなんかだいきらい!」という姫のきもちはよくわかる。
自分も含めて耳が痛い。
でも、「ぐたぐだいってないで、とりあえず前にいなきさい」、
ってはげましてくれてもいるんだよね。
 作者は小学校1年生。自由帳をあげたら、
1冊全ページお姫さまを書いてしまうお年頃。
だけど、そんな夢を見ながらも、
しっかりと足元も知っているんだよね。
姫が肩をいからせてがっしりと立っているのがそのあかし。
姫は逃げない。おいらたちも逃げてはいかん。

 さても11日、ぼくは愛知県にいた。
名古屋の親戚のあつまりにに母のかわりに出るためだ。
でも、せっかくいくならと刈谷市で開催された
中部支部・中高大生フェスティバルを見ることにした。
おしのびであるが、当然ばれる。
なつかしいテューターや
最近Facebookで交流しているOB連、
久保くんとか神谷くん(社長!)などとも再会できた。
お顔をだけで、ごあいさつできなかった方ごめんなさい。
で、下のリンクからFacebookのアルバムを見られます。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.271622362914123.61604.100001990857831&type=1&l=21cc2cf436

2月末に「わかものフェスティバル」を観て、
今回は、他の用事のついでで恐縮だが、中部支部中高大生フェスティバル。
そして今度の日曜日は日比谷公会堂で国際交流のつどいで
『こつばめチュチュ』を観る。
この春はテーマ活動連チャンだ!

刈谷では朝10時20分から17時20分まで
たっぷりとテーマ活動漬けになった。
会場となった刈谷市総合文化センターはすばらしいホールだ。
照明もいいし、音響も超まではつかないが、いい感じ。
音楽CDがきもちよく届いてきた。
刈谷市民うらやましいぞ。
ただ、残念なのはピンマイクが足りなかったのか
二名くらいは手持ちのワイヤレスマイクを使用していたこと。
まあ、そんなことは些細なこと。

テーマ活動は、基本はとても小さな空間で
近距離の関係性のなかで、
また、観客という「観るだけの人」が
ほとんどいない状況で行なわれるものであり、
大きなホールでの発表は、ある意味特殊である。
しかし、逆にいえば、
母子二組とテューターのプレイルームから
30名以上の幼児から大学生による大きなステージでの発表、
そして、大学生や高校生という世代グループによる試みなど、
テーマ活動という教育プログラムの幅の広さは
他に例をさがすのが難しい。
さらに、いますぐにでもできるが、
いつまでも、何回行なっても終わりも完成もない。
この点もラボ活動の個性といえる。

「わだばゴッホになる」といった不世出の天才版画家
棟方志功は、「版画が版画を生み出す」と述べているが、
テーマ活動もまた、新たなテーマ活動を生み出す装置かもしれない。

もちろんテーマ活動の本質はラボっ子自身による「活動」であるから
人間がつくりだすものである。
それはラボ教育全体にもいえることだ。
しかし、45年もたつと
すでにそれは、太陽や月のように
人間とは別個に存在する巨大でまぶしいもののように思える。
はたまた、シルクロードの果てに無限遠の彼方に結像する
蜃気楼の都のようにも感じられる。
だけど、だから、それにむかって努力し続けることができる。
さきほど、「テーマ活動はいつからでもできるが、
いつまでも終らない」と書いたのは上記のことからである。
教育プログムラムではあるが、
マニュアルも指導書もアンチョコもない。
いや、教育の本質が学び合いであり、癒しでもあるとすれば
そんなものは本来不要。
ライブラリーのような睦み合うべき題材があればいい。
ラボが総合システムへと大きな舵をきった草創期、
現在のようなテーマ活動の姿を予見したものは誰もいなかったと思う。
それは当時のライブラリー制作者でもだ。

まさに、テーマ活動がテーマ活動を生み出してきたのだ。
その意味では「テーマ活動をたくさん観ること」も立派なラボ活動だ。

棟方志功のみならず仏師も
「木のなかで仏が掘り出してくれというまで待つ」という。
画家も「筆が動き出す瞬間」があるとつぶやく。
また、
モーツァルトは「はやく楽譜をくれ、音楽がこぼれ落ちる」と叫んだ。

ひとつのテーマ活動はいわゆる日常パーティだろうと
いわゆる練習(このことばはテーマ活動に使いたくない)だろうと
発表(本音をいうと発表という表現はテーク活動にはなじまない
ことばだと思う。テーマ活動のなにを発表するの? なんてひねくれるけど
ほかに適当なことばが見つからないな)だろうと
それぞれ一回性のものであり、二度出現しないものだ。

広い意味でのパフォームするものは、基本的に一発勝負。
演劇も演奏もしかり。

どちらも脚本と楽譜という記録メディアがあるが
演出やタッチで、その表現は大きく変化する。
また、毎日演じられるロングランの芝居でも日々違う。
能でも狂言でも落語でもそう。
テーマ活動は芸事ではないが、芸事と重なる部分はある。

話はとぶが(いつものことだ)、
いつまでものこっていくのは、絵画や文学である。
もちろん、受け手によって感性がちがうし
同じ受け手でも観賞する年齢、季節、気分などでも
感じ方はかわる。
しかし、作品そのものは変わらない。
基本的に文字も絵も(古い作品は画材の退色はあるけれど)ほぼ変わらない。
ラボ・ライブラリーも大雑把にいえば不変だ。
文学や絵画のような記録表現作品の仲間である。
演奏や演劇は、毎回が勝負という緊張を強いられるが
常に次はもっとよいものをという連続した挑戦ができる。
だけど、文学や絵やライブラリーなどは
発表してしまったら修正はきかない。
100年でも200年でも、いやそれ以上でものこる可能性がある。
口はばったいがそんなものの制作に関わっていたとは
あなおそろし。

ではどんなものがのこるのか。
時代をこえて存在し得る人間の本質を描いた作品であること。
この一点につきるだろう。
以前、「未来までのこしたい文学100」にただ一編選出された
日本文学は『源氏物語』だけだと紹介した。
この長大な作品を通読するのはとってもたいへんだ。
今、ぼくは英訳と同時に少しずつ読んでいるが、
秦恒平先生(『なよたけのかぐやひめ』の日本語を担当された作家)のような
指導者につきたいくらいである。
でも、おもしろい。
古典だから過去のこととふりかえるのではなく
今のことだと思って読めばほんとうにおもしろい。
やはり人間の本質を描いているからである。
そして、今、古典とよばれ時をこえて生命を得ている作品は
すべからく当時のニューウェーブである。
それまでだれも見つけなかった新しい文、色、形、音を
とりだしているからだ。

ヴェートーヴェンも交響曲第五番を発表したとき、
多くの評論家が前のほうの席に陣どった。
イケメンとはほど遠い、しかも権力に媚びない生意気な作曲家の
新作にブーイングを浴びせようという魂胆からだ。
しかし、演奏が終ったとき、
その評論家連中は、
ブーイングはおろか、総立ちになって熱狂する観衆のなかで
椅子からた立てないほど驚愕した。
この曲のあまりに有名な第一楽章の出だしは
例の四連符である。
でも、この和音はそれまでのバッハ、ヘンデル、ハイドンが築いた
緻密なモザイクのような和声の規則をゆるがすもの
すなわちニューウェーブだったのだ。
機械的に構築されたきれいな音だけで
運命の扉はたたけない、人間の本質は表現できないと
ヴェートーヴェンは考えた。
だから、ヴェートーヴェンもモーツァルトも
今聴いても、100年後に聴いても
変わらない本質をもっている。
今のポップスがどのくらい賞味期限があるだろうか。

でも、やはり音楽は演奏によって左右される。
間宮先生によると、
ヴェートーヴェンの時代は作曲家と演奏家が一体だったから
分業家が進んだ現代では,譜面通りに演奏しても
微妙に異なるそうである。

いつにもましてぐだくだになってしまった。
中高大生広場は、じつに多くの発表がありおなかいっぱいになった。
ひとつひとつについては書かない。
ただ、英語のみの発表、中学生のみの発表、
高校生のみの発表、さらに中高大生での発表、
はたまた大学生の発表があり、
よい意味で比較して考えることができ、
とっても学ぶことが多かった。
ラボから離れた今でも、テーマ活動は
物語について、言語について、そして人間について
深く考えさせてくれる。
それもまた、ラボの公共性、社会的意義であることはまちがいない。

発表ひとつひとつについて書かないといったばかりだが、
みんなとってもよくがんばっていた。
中学生以上ともなれば、
やりたいこと、やらねばならないことが数多くあるはずなのに
ラボのしかもパーティをこえた活動に
よくぞ時間と自分のエネルギーを投入してくれた。
それだけで十分!

だが、そのなかでもピカっと光る
「うーむ、こいつは将来楽しみ」っていう若者が
何人も発見できたのはうれしい。
Re:テーマ活動がテーマ活動を生み出す 空まで香れこの春の花(03月14日)
カトリーヌさん (2012年03月15日 00時09分)

刈谷にいったんですね。会場から私の実家までは歩いてすぐ・・・
だれか、借りてくれないかなあ。駅にも学校にも病院にも近くて、いいところ・・・。
<< 前の日記 | 次の日記 >>
Copyright(C)2002 Labo Teaching Information Center.All rights reserved.