幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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Do Not Fly Me to the Moon! ようやく更新。「生かす力」が「生きる力」になるのだ 07月20日 (金)
CHUrch
写真は母校、International Christian Universityの教会遠景。
つい先日まで、雨の京都だ、箱根だ上高地だと、ふらふらしていたら、
あっとうまに祇園祭も過ぎて、梅雨前線も北へ去って
いきなり真夏になってしまった。
ラボの季節である。
ひろば日記にも、Facebookにも
「国際交流出発」の書き込みが目立つようになった。
ラボランドにも事務局員の先発隊が入村している。
ラボっ子たちはもちろん、テューターも事務局員も
心の筋肉を増強できる季節がやってきた。
夏はやっぱり特別なシーズンである。
※夏にさぼると、秋にひどい目にあう。
人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と
若き春から老いの冬まで、季節と色にたとえられるが
やはり夏は燃えるマゼンダなのであるよ。
ちなみにマゼンダはカラー印刷の基本となる4色CMYK
のうちに赤である。Cはシアンで青。Yはイエローで
Kは黒(BLという場合もある)。
インクの顔料のもとは鉱物や化学物質である。
もちろんインクそのものに害はなく、
絵本を舐めても害はないが(ても不衛生だからやめましょう)、
インクを洗浄する薬品の取り扱い時に換気不十分なために
胆管ガンを発生させた事例があきらかになったのはショックだった。
印刷という、世界三大発明(あと二つは火薬と方位磁針)のなかでも
文字や絵の可視的表現を広範囲に、
しかも未来まで伝えることができる技術が
それに携わる人間の命をおびやかすとは悲しい話だ。
もっと、この件は印刷会社の経営体質、労務管理に
問題の根源があるようだ。

印刷の歴史はほんとに古く、
東アジアでは、2世紀ごろ中国で紙が発明され、
7世紀ごろには木版印刷が行なわれていたといわれる。
さらに11世紀には陶器による活字を使った印刷が行なわれていた。
金属活字による印刷は13~14世紀の朝鮮(高麗)にあらわれている。
現存する印刷物で、製作年代がはっきりと判明している
世界最古のものとして、日本の百万塔陀羅尼がある。
ヨーロッパでは、1450年頃のドイツの
ヨハン・グーテンベルクによる金属活字を用いた
活版印刷技術の発明で印刷が急速に広まったのは知られた話である。

カラー印刷はこの4色の網点の割合の変化で
ほぼすべての色が表現できる。
とうしても中間色がだしたい場合は特別の色を加えて6色で
印刷する場合もあるが、そうなるとコストがドンとアップする。
家庭用のプリンターも6色インクものと4色のものがあるが
6色のほうが色彩表現力は豊かだ。
話はずれるが、家庭用のプリンターは今や激安で
一万円台でも十分美しい写真印刷ができる。
ところが、家庭用プリンターは業務用ではないから
どうしても脆弱である。
ふしぎなことに保証期間がすぎるとこわれてしまう。
そうすると、修理費用はびつくりするほど高い。
買ったほうがいいことになる。
いまや、ブリンターは機械そのものの販売ははっきりいって赤字で
インクやトナー、ペーパーなどの消耗品で利益をだす構造になっている。
これは、専門家のOBからきいた話である。

さて、赤をマゼンダと書いたが、実際のマゼンダは
かなりピンクに近い色である。
判子のような真っ赤な色はM100Y100、
すなわちマゼンダとイエローを100ずつ、
CとKをゼロの配合にしたもので、
業界用語で「金赤」とよばれる。
これは江戸切子(ガラス工芸)で、
赤の色を発色させる為に金を使用したことに由来する。
で、この金赤は広告ものには、
どこかに使用するというのが基本である。
しかし、高級感を出す場合は逆に使用を避けることもある。
そうそう、ラボ・マークをデザインしたのは
日本のほこるデザイナー・粟津潔(あわづ・きよし1929-2009)氏だ。
氏は絵画もグラフィックデザインも独学で学んだ。
それまでグラフィックデザインは広告の一技術であったのを
アートの領域にまで高めたのは氏の業績だ。
ラボ・マークは7つの円弧でできている。
すなわちコンパスを7回つかえば描ける。
外周の大きな円はとぎれているようだが
あれは白い線で「塗られている」のである。
7つの海、そして人間の口蓋を連想させる
すばらしいデサインである。
なお、ラボ・マークを印刷する場合の指定色は
カラーであればC100、モノクロならBL100である。
グッズやシャツなどに別の色が用いられることもあるが
基本的に公的な文書、テキスト、パンフなどは
すべてC100か黒のはずだ。

さて、
昨年も書いたが、
またこの季節をなんとかやり過ごさねばならぬ。
ラボから遠ざかって、もう3年近くたつのに、
現在はやるべきことが多々あるのに、
ラボの夏活動の場にいない自分が、なぜかさみしい。
「もう十分やっただろう」といいきかせる嘘はなんどもついた。

キャンプも国際交流も、未来ある子どもの安全確保という
絶対的条件のうえに成り立つ活動であり、
テューターはもちろん、プロである事務局員は
なみなみならぬ緊張を強いられる。
しかも、安全だけにとらわれた「ことなかれ主義」は
問題外であり、企画力、経験、技術、
子どもたちと一個の人間としてむきあう力がもとめられる。

ラボの夏は、その「つらさときびしさ」が自分成長させてくれる。
ぼくは心の底で静かに思うのだが、
夏活動で子どもたちは大きくなる。
それはまちがいない。
その伸び幅はすさまじい。
だが、じつはいちばん成長しているのは、
その子どもたちと向き合う、シニアメイトではないか。
さらにいえば、事務局やテューターというおとなたちが、
子どもたちやシニアメイトたちによって
もっとも成長させてもらっているのではないか。
きっとそうだ。
だから、そこにいない自分がさみしいのだ。

プロスポーツ選手が、なかなか現役をあきらめきれない心情が
この年になって、やっとわかるようになった。
ともあれ、
この夏活動に参加するすべてのラボの仲間の
安全と健康と大いなる成長を祈念してやまない。

ふりかえれば、ぼくが最初に事務局シャペロンとして
国際交流参加者を引率したのは1978年。
ミシガン州であった。総勢75名。
ぼくは入社2年目で関西支部の組織担当者だった。
まだ25歳である。
その年の1月、突然、東京の本部に出張してこいと
当時の総局長に指示された。
「どんな仕事ですか。研修ですか」
「いけばわかる。朝一で財団にいけ」
当時は、そんな無茶もありありだった。
そこで、指定された前日に上京し、実家(現在の三澤制作所)に泊まり
9時ちょうどに財団本部に出頭した。
すると専務理事の石川氏(知っている人はいるかなあ)と
S原財団理事長から
「三澤くん、きみはこの夏アメリカにいってもらう」
とあっさりいわれた。
ものの5分。
それで出張は終わりである。
いまでは考えられぬもったない話であるが、
それほどシャペロンという仕事はたいへんなことだったのだ。
ラボ国際交流が始まってまだ7年目で、
25歳のガキがシャペロンになるなんてことは、
当時のラボではかなり異例だった。
※自慢のようでやだなあ、と、自分で書いてて思う。

秘密にすることでもないのでぶっちゃけるが、
そのころの事務局シャペロンは
基本は英語が堪能で、ほぼ毎年担当している
固定的なスタッフがまず中心にいて、
ブロックのリーダーをつとめていた。
そのほかの事務局シャペロンは
年功に応じてといったら語弊があるが
ラボで組織活動で経験を積んだ方が
順番で参加するという、いわば「名誉シャペロン」的要素があった。
のこりのメンバーは当然にも各地のキャンプ要員。
なかでも若手は、まちがいなくキャンプ。
だから、
年明けの事務局の話題のひとつは
「今年は、○○さんがアメリカじゃないか」みたいな
シャペロン予想だった。
円とドルの為替が変動制になっていたとはいえ、
まだ200円以上だったころである。
仕事だろうとプライベートだろうと
海をこえて旅するのは一大事だったのね。

その夏、1978年といえば成田空港開港の年である。
ぎりぎりまで反対運動が行なわれていたため
見送りや出迎えがものすごく制限されていて
空港内はセキュリティ要員のほうが多いくらいで
とにかくガラガラで、ロビーのイスも座り放題だった。
そのころは成田集合ではなく、
代々木のオリンピック記念青少年センターに前日集合し
オリエンテーションと州別活動を行ない、
翌日、バスで成田にむかった。
ご父母の見送りもこのOMYCまでである。
そしてフライトはなんとチャーター便。
TIAというチャーター専用会社。
名機といわれたあのDC8である。
現在のエアバスに比較したら2列2列の
ほとんど潜水艦のような機内。
イリノイ州とオハイオ州とシカゴ・オヘアまではいっしょ。
当時はアメリカにいくにはアンカレッジ経由である。
給油のために着陸するのだ。
ぼくは同乗した二名の先輩事務局員の指示で
いちばん前に座り
客室乗務員のパーサーであるドイツ系の女性のアナウンスを
通訳してラボっ子にアナウンスするという役目をおおせつかった。
そして、神よ仏よ、飛行機は無事離陸し
機内食もすんだ。
チャーター便だから、マイクもつかえるので
パーサーにたのんで
「これから飛行機は地球の夜の部分をとびます。機内の照明をおとしますので
乗客は睡眠をとるように。機長からの指示です」
という、ほとんどやらせのアナウンスをしてもらい。
次にぼくが
「ラボっ子のみなさんは、おわかりと思いますが、
たいせつな情報なので念のため通訳します」と続けた。
パーサーもしゃれのきく方でウインクして協力してくれた。
その効果はてきめんだったことはいうまでもない。

さてもDC8はアンカレッジで給油をした後、5時間ほどの飛行で
シカゴ・オヘア空港に到着。
ここで3州はそれぞれの最終目的地にむかう。
国内線を移動するときは、さすがにどきどきした。
ここからは、だれも頼る先輩はいない。
後ろをふりかえると、73名のラボっ子、3名のテューターシャペロンが
ぼくを真剣にまなざしで見ている。
このとき、
「こんな若造が責任者でいいのか」とはじめてびびった。
準備から集合、そして出発まではあれよあれよのできごと。
シカゴの空港で自分たちだけの州になって
はっとわれにかえったということだ。
しかし、あわててもはじまらない。
準備をしてきたはずと腹をくくった。
なので、搭乗すべき国内線のゲイトで
案内のエージェントと予定通り出会えたとき、
やたらと饒舌に英語で話したのが、いまではなつかしい。

その初ホームステイ、初国際交流仕事は
あたりまえのことだが、きわめて強烈だった。
交流センターに提出するリポートとノートは
とんでもない量になった。やりすぎ。
それでも、なにか表現したりなくて、
撮影した写真にコメントをつけたノートをつくり
「風のミシガン」というタイトルをつけた。
中身はエッセイあり、できごとの記録あり、詩あり、考察ありという
じつに自己満足用。
でも、それから国際交流やキャンプにいくたびに、
写真とコメントをつけた記録ノートをかならずつくるようになった。
業務命令でもなんでもない。
でも、そうした作業が後の仕事のトレーニングになったことは確かだ。
それらのノートは人に見せることはあまりなかったが、
そんな活動を見てないようで見ている人がいて、
「こいつは制作みたいなことにむいてるかも」と思ったのだろう。

ふしぎなことたが、前述した「そこにいないさみしさ」は
ライブラリー制作については
自身でもおどろくぐらいあまりない。

その理由はたぶん二つくらいある。
ひとつは、文とか、絵とか音楽とか写真とか、
創作(とよべるものでもないが)したり、表現する活動は
今も三澤制作所として続いているから。
もうひとつは、ライブラリーというのは、
ラボのなかにいてこそ制作できるものであることを
身体で理解して納得しているからだ。

なんかわかりにくいのて、もう少し説明すると、
ライブラリーづくりは、「みんなで力をあわせて」
と「がんこにワンマン」のバランスの産物であということだ。
よけいわかりにくくなったが、
ティームプレーと強力な才能という相反するものが
ライブラリー制作のなかでは成り立っているのだ。
それに加えて、ラボ教育プログラムのなかで
全国の子どもたちがつくりだす組織活動があるからこそ
ライブラリーは制作可能なのだ。

基本的に芸術は「みんなでなかよく」なんてあり得ない。
画家にせよ、小説家にせよ、音楽家にせよ、
「世界一わがままで自分勝手」でなければ
意味がない。
でも、ライブラリーは芸術的な要素を多分にもつが
芸術そのものではない。
ここがむずかしいところだ。
しつこいようだが
全国のパーティの日常活動があり、
地区研があり、支部の研究があり、全国委員会があり、
事務局の研究があり、組織活動があり、
すべてのラボのもろもろの流れがあってこそ
ライブラリー制作という極めて贅沢な仕事は成立する。
だから、そこに身をおいていない人間は
「専門家」という立場以外ではライブラリーづくりには参加できない。
ラボは、ラボ活動をしている者のなかにしかない。

ぼくは今、けっこうおだやかなきもちで
少しなつかしく
でも新鮮に、かつきびしく、そして楽しく、
ライブラリーを聴いている。
arrosw
さて、前回も掲載したラボ・カレンダー7月の絵が再登場だ。
絵については当該の日記を読んでいただきたいが、
少し加筆したいと思い、また紹介したのだ。
というのは、
絵の作者である中本怜音(れおん)くん(小3・いわき市・志賀P)
本人と志賀テューターから、怜音くんとこの絵にまつわる話を
書いてよろしいというご許可をいただいのだ。

ぼくは日記でこの『太陽へとぶ矢』への怜音くんの思い入れが
尋常ならざるものがあると書いた。
そして、原子力という
人間がコントロール困難なエネルギーについての
問いかけがあるようにも感じると書いた。
それは、単なる反原発ではなく、
自然と人間、エネルギーと文明のようなもっと
大きなテーマへの言及だとも書いた。

以下に志賀テューター(シャペロンとして渡米中)からの報告を
抜粋して掲載したい。

れおんくんがこの作品を選んだのは
おそらく2009年に支部発表会での思い出の発表だった
からだと思います。
はじめてナレーターをつとめて嬉しかった、
と文集に書いてくれました。
それまでは甘えっ子だったれおんくんが自信をつけた、
彼にとってはターニングポイント的なテーマ活動でした。

絵は昨夏ジブリの映画を見て
そのなかに点で描写するすてきな油絵がでてきて
「ぼくもあんな絵が描きたい」といって描いたそうです。
(れおんくんママ談)

れおんくんは南相馬からいわきまでラボに通っていました。
当然震災後は避難を余儀なくされ、
横浜に転校し、昨夏おかあさんの実家のあるいわきに
母子で移り住みました。
今はお父さんと離ればなれで暮らしているけれども、
とても愛情を受けて育った子
で、ほんとうにいい子なんですよ。
2011年2月には妹がカレンダーの絵になったすばらしいご家庭です。

やはりすさまじい物語があった。
絵には魂がうつりこむ。おそろしい。
というより、魂がうつりこんでこそ絵である。

今、NO NUKES、反原発がひとつのムーブメントになっている。
いわゆる原子力ムラをめぐる醜い動きや
経営のために姑息なことをくりかえす電力会社については
さすがのぼくも侮辱された感じをもってしまう。
しかし、今、最優先なのは福島を中心とする
震災および原発事故からの復興である。
と、ぼくは思う。
個人的には、原子力と人間は共存が困難であると何回か書いた。
ひとたび事故になると、その毒性は万年レヴェルになるからだ。
しかし、原発も含めて、基地問題もそうなのだが、
現代の社会システムはきわめて複雑になってしまった。
その複雑さのあらわれの典型は、
それに関わることで家族を養っている人が多数いるということだ。
だから、
All or Nothingの即断的結論をだすことがむずかしい。
そのためには、原発にかわる代替エネルギー案を明確に提出して
息の長い、根気のいる議論と考察をしていかねばならない。
もちろん、電力会社も行政もデータは常に開示せねばならない。
「真実」に不都合もへったくれもないのである。
正しい事実がどうかだ。

瞬発力のあるデモやアピールをむだとは思わない。
しかし、もっとたいせつなことは
倦まずたゆまず、社会で考え続けていくことだと思う。
そして、緊急性の高さは福島にあるを忘れてはいけない。

8月初旬、ぼくはある用があって「いわき市」にいく。
そのときに、できれば怜音くんにあってみたいと考えている。
CH2
ch3
写真は2枚とも教会の横手で撮影したもの、
先週の土曜日がアメフトの夏練習初日であり、
激励にでかけたときに撮影したものだ。
下の写真は、ちょうど行なわれていた結婚式。
この教会では基本的に卒業生なら式をあげることができる。
はずかしながら、30年前にぼくもここで式をあげた。
wedding
さて、今日7月20日はアメリカのアポロ11号が
月に着陸し、人類がはじめて月面におりたった日である。
1969年のことだ。
ぼくは高校2年だったが、
西山千氏の「こちらヒューストン」
という無機質でちょっと個性的抑揚の日本語同時通訳に
「すごいことができる人がいる」と感動した。
たぶん同時通訳という職業がクローズアップされたのは、
このときがはじめてだろう。
とにかく、ぼくは人類初月到着より、
同時通訳のほうに心ひかれていた。
変な奴である。
でも、素朴に
「アメリカという国は、どこまで領土を広げたいのだろう」
と首をかしげていたことも確かだ。

ここで大岡信氏の詩を紹介しておく。
それで、この日記の変なタイトルの意味が少しわかるかも。

「私は月にはいかないだろう」

私は月にはいかないだろう
わたしは領土をもたないだろう
わたしは唄をもつだろう

飛び魚になり
あのひとを追いかけるだろう

わたしは炎と洪水になり
わたしの四季を作るだろう

わたしはわたしを
ぬぎ捨てるだろう
血と汗のめぐる地球の岸に
わたしは月にはいかないだろう
CAFE
賢明なる読者のなかには
「なんでやたらとICUの写真が載っているんだ?」と
疑問に思われる方もいらっしゃるだろうが、
これにはチョットしたおとなの事情がある。
ICUは、学生の日本の大学満足度一位にランクされているだけあって
きびしいが学生の探究心を刺激するプログラムに加え、
東京ドーム13個分の緑豊かな敷地のなかに、
開架式図書館、研究棟、カフェテリア、男子寮、女子寮、男女寮、
日本庭園、教員住宅など、
学生数に比して十分過ぎるほどの施設が点在する。
ぼくも、ICUに行くたびに、
「こんなところで学べるなんて、なんと恵まれているのだろう。
ここで必死に学び、社会に貢献しなければバチがあたる」と思う。

しかし、残念なことにフィールドだけが関東ローム層の赤土で、
雨がふればドロドロ、乾けば砂嵐という極めて悲惨な状態である。
そこで、アメフトやラグビー、サッカーなどの
フィールド系クラブのOBが協議会をつくり、
来年度の建学60周年記念事業のひとつとして取り組めないかと、
大学事務局と話し合いを進めてきた。
そして卒業生中心に寄付金を募り、
総費用の半額を集めれば、残りは大学が用意して具体化する
という方向が確認された。
で、半年間活動した甲斐あって、なんとか目標を達成し、
来春には人工芝のフィールドで試合やPEができる運びとなった。
そんなわけで、大学の理解と協力に応えるために、
より多くの若者の関心を高めるべく、
というより、早い話、受験生を増加させるよう
ことあるごとに大学の宣伝をする次第だ。
なぜなら、かくいうぼくも協議会メンバーであり、
寄付金募集の発起人のひとりであるからだ。
そんなわけで、ICUの写真が載るのはご寛恕いただきたい。
大学によると、関東地方以外では知名度はまだまだで、
一昨年、秋篠宮家長女が入学して若干ニュースになったが、
いまだに集中治療室とまちがえらるというのは悲しい。
MACR
写真は教会前から正門に続く800mのマクリーン通り。
春に桜満開の下、「かせだま」さんがお立ちあそばしたところ。
夏は緑のトンネルになる。
遠近感を出すために写真がきらいなマネージャーに立ってもらった。
下は4月に日比谷潤子新学長を表敬訪問した際に、
学長室で撮影した大学旗。
広げていいるのはフットボール部部長で海洋生物学教授の
小林牧人先生。注=失礼なことをした。
ちなみに旗の青は、United Nation Blue とのことだ。
FLAG
タイトルに「生かす力」「生きる力」とかっこつけたことを書いたが、
やっとその話題である。
「生きる力」の弱体化が叫ばれて久しい。
その強化は学習指導要領にも示されている。
だが、ここにきて、生きる力の語義を
もう一度しっかりと考える必要を感じる。

1996年に文部省(当時)中央教育審議会が
「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」
という諮問に対する第1次答申で、
我々はこれからの子どもたちに必要となるのは、
いかに社会が変化しようと、
自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、
主体的に判断し、行動し、
よりよく問題を解決する資質や能力であり、
また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、
他人を思いやる心や感動する心など、
豊かな人間性であると考えた。
たくましく生きるための
健康や体力が不可欠であることはいうまでもない。
我々は、こうした資質や能力を、
変化の激しいこれからの社会を「生きる力」と称することとし、
これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。
と述べた。

このときから、「生きる力」は教育の新たな目的の一つとして上げられるようになり
その後の学習指導要領の改訂時に総合的な学習の時間が創設された。
いわゆるゆとり教育の開始である。

たぶん、これを読んだ方は
「えっ、なにをいまさら」と感じたことだろう。
そう、そんなことは、ラボでは1960年代からいっていたのだ。
ただ、大きく答申とラボがちがうのは、
答申には「そのための具体的なプログラム提示や
ふみこんだ思想」はないが、
ラボには、人間の思惟・行動・文化などの基本に言語をおくという
思想を明確にだし、
外国語、物語、交流という具体的な活動を掲げているということである。
「ことばがこどもの未来をつくる」
は立派なテーゼなのだ!

※まあ、答申とは「こんなふうなこを基本に」
というだけのものだからしかたないか。

ゆとり教育についての是非論をここでする気はもうとうない。
というより、ぼくは文科省という国の組織が
教育をコントロールすること自体にずっと疑問をもっている。
ラボのような民間で子どもたちと関わろうと思ったのもそのためだ。
暴論を承知でいうが
国家が教育を全体的にどうこうしようという発想から
なんとか脱出していかないかぎり、
教育問題の根源的解決はむずかしい。
今話題になっている教育委員会もそこにつながることだ。
教育の独立は重要なことことで
某O坂市のように、パワーのある行政の長が
勘違いして「正しい教育」を導いたりすると
とっても危険だからだ。
ヒトラーも、みんな最初は「すげえ、いいこという力のあるリーダーだ」
と思っていたのだから。
まあ、それはいいすぎとしても、
日本の公教育の選択肢はもっとひろがっていい。
ぼくは、第1回ニュージーランド交流に団長として参加したが
そのとき、あちこちの幼稚園から小学校、中学、高校をまわって
とても感銘をうけた。
フィンランドの教育が註も喜されて久しいが
ニュージーランドの教育は、もっと注目されていい。
ネットで「ニュージーランド 教育」で検索すれば
山のようにヒットするのでぜひ調べてほしい。

とにかく、ほくが目の当たりにしたのは
子どもにも親にも、選択肢が多いということ。
教育委員会はずいぶん前に廃止になっていて、
学校と保護者と地域による評議会が運営していることが多いこと。
※その分、親も教員も意識の高さがもとめられる。
また、
机を一方向にむけた教室は、まったくなかった。
とっても全部は書けないが、
なかなか授業についていけない子どもへの配慮などは
子どものプライドも守りつつ行なっていて感動した。

そして、これはシュタイナーでもフレネでも
フィンランドでも、ニュージーランドでも、
メキシコ(今は停止しているメキシコ交流の第二回団長もした)でも
共通して感じるたひとがある。
それは、教育環境、教室、教員が、
芸術的であることを意識していることである。
それも子どもにtalk down、おもねたものでなく
全力のアートである。
近代芸術はもちろん、NZでは先住民マオリのアートが
メキシコではインディヘナのアートが
幼稚園ですでにちゃんと紹介されていた。

教育と芸術はきりはなせないものなのだ。
美しいものに感動する人間は
それだけで生きる力を得る。
しつこくいえば
心のなかに、その作品を生かすことで
生きる力を得る。
また、
いなくなった人も、心のなかに生かせば
死んではいない。
恋愛もまた、他者を心のなかに生かすことである。

他者を生かすことができないから
人の痛みがわからない。

心のなかに、人やアートや、人の悲しみやよろこびを
「生かす力」こそ「生きる力」のもとだ。
他を生かす能力こそ、生きる能力なのだと思う。

そのために、物語で他者の人生を生きる。
母語以外の言語の近づくことは
まぎれもなく生きる力の源泉である。

ラボ活動の社会的意義、ライブラリーの公的意味は
そこにも存在する。
と、いささか興奮して書く。はあはあ。

下の暑苦しい写真2枚は、わがアメリカンフットボール部
Apostlesの夏練習初日のようすである。
最近は二期制の大学は7月末が前期試験で
8月-9月が夏休みであることが多い。
そのため、サマーキャンプの準備班の大学生コーチが人出不足になりがち。
ICUは、三学期制で、6月20日過ぎには夏休みである。
といっても、夏休みにはいるとすぐ、多くの学生がSea Programで
海外にでてしまう。
そんなわけで、6月15日-7月14日の1か月がフットボール部の短いオフだ。
これから3週間、体力づくりと基礎練習を続け
8月8日からの長野で8日間の合宿をはる。
そして9月の2週からはリーグ戦である。
SPR1
spr3
この土のグランドも、ようやく来春には人工芝になる。
最近の人工芝は天然芝にはかなわないもののクッションもよく、
ダストもなく、身体によい。やれやれである。

さて、冒頭に祇園祭りも過ぎて書いた。
かつて祇園祭をアメリカの学生に説明するとき
堂々と
「Onomatopoeia Festival」といった男がいる。
彼は今、社会的にたいへん立派な仕事をしているので
名誉のため名はあかさない。
ぼくは、すぐに突っ込んだ。
「それは擬音だろう。ドカーン」
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