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ユズリハの夏。出会う人より別れる人の数が多くなる日がいつか来るけど 08月01日 (水)
MANJI
 広島原爆忌。あの閃光は、ジオラマでも映画のセットでもなく、
戦時下ではあったが、普通に生活し、
いつものように暑い夏の一日をはじめようとする人びとが暮らす、
その軒先に炸裂した。一瞬にうばわれた日常。その不条理。
67年めの夏。「あやまちはくりかえしません」
という約束をわたしたちは守りきれるか。
バトンは確実に渡されねばにらない。
暗い記憶は忘却したくなるのが本能である。
しかし、忘れてはいけない記憶をどう伝えていくかは、
まず自らがどう考え、なにを表現し、なにを愛し、
なにが美しいのかを、きびしく問いかけるところからはじまると思う。
 8月6日、これまではキャンプか国際交流で子どもたちとむきあっているか、スタジオで音とむきあっていた。でも、こうした問いかけを自分自身に発しながら、子どもたちにも、そして作品にも語りかけてきた。
今日は、世界中で、祈りととともに問いかけてほしい。
諍いのない世界に一歩でも近づくために。
 
ユズリハは漢字では𣜿葉、𣜿とも書き、ユズリハ科ユズリハ属の常緑高木。
古名はユズルハで、その名の通り春に枝先に若葉が出たあと、
前年の葉が譲るようにいっせいに落葉する。
家が代々続いていくように見立てた縁起物ともされ、
正月の飾りや庭木に使われる。

三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる。
8月葉月である。
絵は2010年11月にリリースされた
"John Manjiro Was Here"『ジョン万次郎物語』。
この年の10月末でラボを正式に退職し、
ぼく自身も新たな漂流にでた秋であり、
その意味では、制作にはまったくタッチしていないが、
ふしぎな思いでうけとめた作品だ。
三澤制作所といっても、所詮はなんの仕事もまだないニート同然。
とりあえず看板だけあげて、
海図も羅針盤もなく海にでた神無月の終わりだった。

それはともかく、ライブラリーのテキスト絵本で
絵を担当されたのは
高知の前衛アーティスト武内光仁氏。
この人のオリエンタルの風とユニバーサルな感覚が溶け合った
深みのある色合いの抽象作品がぼくは好きなのだが、
この絵本ではまた異なる境地への挑戦のようだ。
そのあたりのことは、また後で書くとして、
かんじんのカレンダーの絵についてふれよう。
作者は福山大翔くん(小3・世田谷区/高山P)。
おそらくは、万次郎たちが捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出されて後、
鯨と出会い、小型の捕鯨ボートで鯨とりたちが鯨と格闘するさまに
万次郎が感動する場面だろう。
原作の絵本にこの構図はないので「写し」であるはずもなく、
福山くん自身が「ここはオレが描く!」と、
想像力のスイッチをいれて描きあげたのだと思う。
絵の下半分以上は絶命寸前の巨鯨(いてぇーじゃねえか! 
このやろうという声がきこえそう)なので、
全体に色調は暗い。
男たちのコスチュームがけっこうおしゃれなのがいいセンス。
これで黒ずくめの服で返り血とかあびていたら、
毎朝眺めるカレンダーとしてはかなりつらいかも。
しかし、とにかくすごいのは絵のパワーである。
パワーだけでいったら、全12か月のなかでも一番ではないだろうか。
逆にいえばパワーのみといってもいい作品だが、それがまたすがすがしい。
テクニック的なことをいっても意味がないくらいだ。
たとえていえば、アメリカンフットボールかラクビーで
タックラーを数人はねとばして独走し、
さらに腰に二、三人しがみつかせたまま
強引にタッチダウンあるいはトライ(家庭教師ではない)! 
といったところだろう。

なんて書いてから、もう一度よく見たら、
海のなかとか空とかの描き込みはかなりしつこい。
このしつこさは、なかなかの技である。
でも、福山くん自身はあまりテクニックという意識なしに
いきおいで描き込んでいったのではないだろうか。
だとすれば、そのパワーの源はなにか。
さっきもいったように、原画にないシーンを描こうという時点で、
すでに創造への一歩を踏み出しているのだから、
それ自体がエネルギーのいる
ポテンシャルの高さが必要な行為だ。

その前に
「創造は模倣からはじまる」ということばを思い出してほしい。
これは世阿弥、ピカソ、間宮芳生先生など
各分野の名だたるアーティストが共通して語り
そしてSENCHOなどの野蛮な凡人ですらいっていることで、
「テーマ活動」の本質もそこにあるわけである。
だから、その模倣のために何度もライブラリーを
聴くことがたいせつなのだ。
話がそれついでに続けるが、
たとえば書家をめざすものは褚遂良(ちょ すいりょう)の
『雁塔聖教序』(がんとうしょうぎょうじょ)などの、
これはもう漢字楷書の最高のお手本を臨書する。
※臨書はざっくりいうとお手本をよく見てその通りに書くこと。
ほんとはそんな単純じゃないけど。

これは、玄奘三蔵が貞観19年(645年。日本じゃ大化の改新)に
インドから持ち帰った仏典の翻訳を進めていた際に
皇帝の命令で書かれたものだ。

玄奘の出発年については複数の説があり、
現時点では確定説はない。
帰国についても異説はあるが、この645年という数字が
さまざくな資料から、まあ信頼できるといわれている。
掟やぶりの密出国した玄奘は、
帰国時には許され、大歓迎のなかを帰朝する。
玄奘は教典の翻訳を願いでるが
皇帝太宗はその条件として、
旅の記録と通過した各国の情報をリポートせよと命じる。
まあ、諜報記録ですな。
それが『大唐西域記』だが、
これは玄奘が自らのメモをまとめ
翻訳に参加した弁機という僧侶が編纂を手伝ったものだ、
それによれば玄奘の帰国は
「正月七日、玄奘四五歳の男ざかり」とある。
確かに陝西省博物館にのこされている玄奘の画をみると
180センチはゆうにあるたくましい身体、
目鼻の通った顔立ちと意志の強さがみなぎる眼差しで、
そのカリスマ性を今に伝えている。
玄奘は110か国以上を旅しているが、
一歩、唐の国から出たら、中国語はほとんど通じなかったはずだ。
しかし、『大唐西域記』を見ると
玄奘はたいへん尊敬され、留まってほしいと懇願されている。
少し前に新井白石のことを書いたが、
玄奘もまた、「人間どうしならコミュニケイション可能」
というポジティヴな確信を持っていたのだと思う。
また、彼は肉体的にも超人的である。
玉門関をでて挑むタクマラカン砂漠は、
ヘディンの探険記でも名高い危険地帯で
「天に飛鳥なく、地に走獣なし」とよばれた空白地帯だ。
逮捕状も出ていた玄奘は
灼熱の昼間は休み、気温が急降下する夜間に行動したらしい、

また、海抜マイナス200メートルというボクドオラの盆地に枯渇し。
さらには標高4000メートルをこえる高原では高山病にもなやまされただろう。
そうした、さまざまな玄奘に襲いかかる自然の脅威は
妖怪や変化となって『西遊記』に登場することになる。
そして、玄奘の強力なキャラクターは
そのパワーゆえに分裂し。
闘争心が孫悟空に、
煩悩やさまざまな欲望(あれだけ生命力があれば欲望も強いはず)が
猪八戒にというように、
異形の弟子たちに変わったのではないだろうか。
だからのこった三蔵は、まさに赤子のような
信仰心だけの無垢な存在となったのだろう。
『西遊記』は、のもともともは寺で行なわれた仏教説話である。
それが後に独立して縁日の講談などの芸となっていき、
話もよりダイナミックになっていった。
それを呉承恩という人が小説にまとめたのだ。

で、『雁塔聖教序』は
皇帝太宗がその功績に対し「聖教序」(序)の文を作り、
皇太子であった高宗も「述聖記」(記)を作文した。
碑文はこの「序」と「記」で、二碑に分かれており、
両碑を総じて『雁塔聖教序』と称し、
西安の大慈恩寺内の大雁塔に現存する。
保存は極めてよい。
ぼくも1989年の中国交流の副団長として西安にいったとき、
この碑文みたが、人様に見せる字を書くことが不可能なぼくでさえ。
すげえなあと思った。
これを皇帝の命令で描いたのが褚遂良という書家で、
『雁塔聖教序』は、書の歴史上、最も洗練された楷書だという。
そのことを後で知って、ぼくはさらにたまげた。

話をもどすが、すぐれたお手本となんども出会い、睦む。
すなわち「よく見」「よく聴く」ということがあって、
真似することがスタートする。
日本の公教育は、いつからかこの模倣に始まる学びを放棄してしまった。
なぜかといえば、評価がむずかしいのと、
教師の力量がすごく問われるからであり、
すぐれたお手本をそろえるのがコスト的にも手数的にもたいへんだからだ。

模倣はしょせん真似ではないか?
いやいや、模倣とは単にかたちやスタイルのモノマネではない。
その作品の底に流れる原作者の精神や思いにまで
心をとばしてわけいっていくことである。
そこから、自分のスタイルが少しずつできていくのである。
その一番わかりやすい証拠は母語の習得だといえば納得だろう。

その自分のスタイルの萌芽のひとつが
福山くんのように表現されていない部分を表現したいという思いだ。
だから、創造への一歩と書いたのである。
ここまで読まないと意味が通らないひどい文である。

そして、その一歩は確実に物語へのエネルギーがなければ踏み出せない。
万次郎は男たちと鯨の、
生命のやりとりのダイナミズムに感動する。
で、福山くんもいっしょに「すげえぜ、かっけー」
と感動してしまったのだ。
さらに、万次郎の本質でもある未知なるものへの好奇心、
漁師というプロとしてのほこりにも
福山くんは心をゆさぶられた。
で、その感動力でおしきった作品なのだ。
これも、ぜひ担当のテュターにおききしてみたいが、
福山くんは「そんなに絵は好きではない」あるいは
「気がむかないと描かない」のではないだろうか。
もし、しょっちゅう絵ばっかり描いてる子だったらごめんなさい。
それと、この作品のこの場面を描こうと思った動機もきいてみたい。
東京支部の方、高山テューターをご存じの方、よろしく。

万次郎は、この後、鯨油だけとって、
肉を捨ててしまうアメリカの漁師たちに
「なんともったいない」とつぶやく。
そう、かつてアメリカは鯨油のために鯨を乱獲していたのである。
忘れんなよてめえら。まあ、お下品。

ところで、このライブラリーが刊行されたとき、
何名かのテューターの方から感想をもとめられた。
たぶん、この日記にも書いたことだが、
「まだ、二、三回しか聴いてないので
30回くらい聴いてからなにかいいます」
とおこたえした。
もちろん、それは本心からであるが、
すべての本音ではなかった。どきっ。
ぼくが、まったくの外部の人間だったら
それこそ何をいってもいいのだろうと思う。
しかし、34年あまりラボで仕事をし、
しかもその大半をライブラリー制作と機関紙誌編集に
責任ある立場で携わってきた者が
退職した直後に、自分が手がけていない作品について
軽軽にあれこれということは厳に慎むべしと決めたのだ。

前回の日記にも書いたが、
制作の現場を離れることについては、
多少の寂寥感はあったのものの、
ふしぎな安堵感と潮時感を感じたことは確かだ。
もう身をけずらなくていい、
そう心の奥底で声がした。

「死んでもいい」と思って仕事はしてきたが、
それはただの自己満足に過ぎない。
さらにいえば思い上がり。
作品は結果がすべてである。
そして、ラボ・ライブラリーの特殊性を考えると
組織から離れることは、
制作に参加する資格も喪失するのだと自覚した。
これが、もともと作家としてひとりでやっていた作業であるなら
恐らく、死ぬまで続けているのだろう。
しかし、これも前回ふれたように、
小さいが、またライブラリーとは異なるが
新しい自由と責任のなかで「なにかをつくる仕事」が
続いているのは、結局は
「そういう世界」から離れられない性なのかもしれぬ。

とはいえ、人は自分が居た道に後から来るものには
どうしても警戒、嫉妬する生き物である。
そのことも認識せねばならない。
冒頭にユズリハのことを書いた。
若芽がでたとき、前年までの葉はいっせいに落ちる。
同じ幹に若葉と前年の葉が同時に
長い期間繁ることは難しいのだ。
ライブラリーづくりは、まさにユズリハの世界かも知れぬ。

しかし、ラボの組織全体はそうではない。
大きく枝をのばした幹に常に若い芽と、
そこにやさしく養分を送り続ける昔からの葉が
みごとに同時に繁ることができる。
古い葉もいつかは散るが、それは枯死ではない、
自らその時期を決めて、幹のまわりを吹き渡る風になる。
※なんかの歌みたいだなあ。

『ジョン万次郎物語』がリリースされて3年近く。
あれからかなり聴き込んだ。
だからといって、まだまだへんな評論は書けぬ。
なぜかといえば、これは仕方ないことなのだが、
音楽のタイミングとかセリフの間とか
日本語の選択とか、英日の間とか、
ようするに細かいところが
「ここは、さすがにいいなあ」とか
「ここは、ぼくだったらこうだけどなあ」
と超個人的好みの問題になってしまうからである。
もちろん、ライブラリーの聴き手がどう感じるかは
まったくもって聴き手の自由であるが、
ぼくが、いちいち細かい感想を開陳することになんの意味もない。

絵はとくにそうである。
ライブラリーの主役はいうまでもなく音声、しかもセリフなのだが、
絵本はいつもみなさん気になさる。
もちろん、万人が気に入る絵などない。
また、テーマ活動をはじめる前は
じつはあまり好きじゃないと思っていた絵が
物語とともに大好きになることはよくある。

ともあれ、この絵については、
じつはぼくも武内氏の作品を知っているだけに
この画法にした背景をぜひ知りたいと思っている。
で、失礼ながら、ぼくはまだ、この『ジョン万次郎物語』の
制作資料集を入手しておらず、当然にも読んでいない。
頼むのを忘れていたというかなまけていたのだ。
というわけで絵についてはまたいつか。

渡辺俊幸さんの音楽は、ぼくのお気に入りだ。
「ロバのシルベスター」でごいっしょしたが、
夏休みを犠牲にしてつきあってくださったその誠実なお人がらは
音楽にもよくあらわれている。
氏がはじめてラボセンに打ち合わせに来られたとき
ラボっ子たちが、ライブラリーを聴いて
なんどもグループで再表現し、
音楽だけのCDで発表するということを伝えると
氏はたいへん驚かれて
「それは気合いがはいりますね」
と襟をただされたのを覚えている。
そして録音の当日、
作曲家の多くの方は、その音楽をどんな情景にあてる(そういう用語)
のかということはほとんど説明しないのに
(余分な情報をあたえずスコアの通りに演奏してもらい
細かいニュアンスは作曲家が指示するから)、
渡辺氏は「ここは主人公が、ふしぎな石で…」
とじつにていねいに曲の説明をされたのが印象的だった。
「ああ、この方は演奏家と共有しながらつくるんだなあ。
こういう先生もいるんだと」
と感心したのがなつかしい。
そして、またひとりラボの応援者になってくださりそうだと
よろこんだのだ。
ご存じの方も多いが渡辺氏のHP
↓下は「万次郎」のことが書かれている
http://blog.toshiyuki-watanabe.com/?eid=1094692
↓下は「シルベスター」についてふれているラボのことも
http://blog.toshiyuki-watanabe.com/

そうそう、アーサー・ビナード氏の英語が
リズムがよく、かつ平明で力強いのはうれしい。
いわゆるむずかしい単語はないが、
じつに理知的できもちがよい。
これはまったく個人の感想。

さて、『ジョン万次郎物語』は、
ライブラリー初の伝記もの、ヒューマンストーリィである。
『シーザー』も『知盛』も実在だけど、まあ歴史ものだよね、
『大草原』も伝記といえば伝記だが、家族の物語だから個人の伝記
とはまたちがう。
伝記は伝奇であり、やはり個人の物語はおもしろい。
感情移入しやすいし、わかりやすい。
だから、児童館でも学校図書館でも伝記はとっても人気がある。
どこで調べてもまずまちがいない。
だけど、ライブラリーにするのはなかなかたいへんだ。
とくに近年の人物(万次郎も近年!)は評価が安定しないからである。
後の世になって意外な事実がわかって評価がかわることはけっこうある。
また、周囲が勝手につくったイメージと実際のギャップもある。

そこへいくと古典や神話・伝説になるとそうした心配はない。
第一、実在かどうかもわからないし、
ましてや神様を評価したところでどうにもならない。
古典や昔話に描かれているのは、
いつもいうが、人間の普遍的な真実であり
知恵であり、祈りであり、愛であり、悲しみであり
希望であり、生きる力であるのだ。

もちろん、万次郎に関しては研究が進んでいるから、
今後、より評価が高まることがあっても
株価のように下落することは考えにくいだろう。
その意味では安心である。
かつては、功なり名を挙げた人物については
Negative Imageは表現しないことが多かった。
でも、みんな人間であるから
なさけないところも、ドロドロしたところもある。
それだからといって、たとえば音楽家であれば
曲の評価が下がるわけではない。
というより、芸術関係の人物は
おおむねどこかおかしいほうが多い。

石川啄木の歌はぼくも好きたが、
啄木は大借金王で、そのせびり方や踏み倒し方は
さすが文学者というほどにうまかった。
しかも、その借金の使い道はすべて遊興費である。
周囲はその才能を惜しんで朝日新聞社で
長谷川二葉亭四迷の遺稿集の校正係という
重要な仕事を世話したが、
仕事は見事にやるものの給料を前借りして
遊郭に遊び、のこりは酒と本につかってしまう。
彼ははげしい写真ぎらいだったので、
現存する画像が極端に少ない。
みなさんが観るのは、よく教科書にのるあの一枚である。
あれは、とてもよくとれていて
繊細で内省的な抒情派歌人というイメージが
みごとに定着してしまった。
しかし、啄木の短歌はいつ読んでもいい。
好みを数首紹介する。
「一握の砂」から
石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
青に透く かなしみの玉に枕して 松のひびきを夜もすがら聴く
長く長く忘れし友に 会ふごとき よろこびをもて水の音聴く
今夜こそ思ふ存分泣いてみむと 泊りし宿屋の 茶のぬるさかな
葡萄色(えびいろ)の 古き手帳にのこりたる 
  かの会合(あひびき)の時と処(ところ)かな
下の一首は長男を生後3週間でなくしたときの啄木の慟哭。
かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり

啄木は26歳の若さで世を去る。
その2年前の1910年に起こった幸徳秋水らが拘引された
いわゆる大逆事件に、
新聞社勤務であった啄木は強い関心をいだいた。
そして翌年に逮捕された26名中11の死刑が執行されたとき
啄木は「日本はダメになる」とつぶやく。
私生活はハチャメチャな啄木であったが、
そのまなざしは常に時代を見つめていた。
大逆事件は、まさに日本が暗い道筋に入っていく
大きな岐路のできごとであり
天皇利用者たちが、その権力を侵そうとするものは死であるという
協力な恫喝であった。
※この大逆事件は半世紀後に再審され全員の無罪が確認されている。

このころに啄木がノートに書き綴っていた詩編が
死後、『呼子と口笛』として刊行されている。
明治の夜、住宅街は基本真っ暗であった。
同時代にいた漱石、鴎外、一葉などともに、
啄木もまた暗い闇のなかに立ち、
それぞれの立ち位置で時代をうつ作品をおくりだそうとしていた。
しかし、現実の進行はきびしさをまし
啄木は「時代閉塞の現状」という評論を書くが
掲載されることはなかった。
啄木のくだりの最後に「呼子と口笛」から
ぼくの好きな一編を

飛行機
一九一一・六・二七・TOKYO

見よ、今日も、かの蒼空
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

啄木が岩手で生まれた1886年といえば
万次郎はもう日本に帰国しており還暦を迎えていた。
そして万次郎が波乱の生涯を閉じたのは1896年。
啄木は12歳で盛岡尋常中学で
金田一京助と出会っていた。
金田一は啄木のひとつ上だったが親友となり、
成人してからも金田一自身が結婚するまでは啄木に金銭的支援を続けた。

万次郎がアメリカにいた時代は
『トム・ソーヤ』の時代とオーバーラップする。
そのあたりも興味はつきないが、長くなるので別の機会にしよう。
sunb2
SUB1
いきなりの家族写真で恐縮だが、
先週の土曜日、義父の一周忌法要が中野の宝仙寺であった。
前にも書いたが、宝仙寺は真言宗豊山派の寺で
本山は天空の寺、奈良の長谷寺である。
まあ、暑い日なので礼服はたいへんだったが、
とりあえずぼくは2日前に床屋にいった。

ななぜかというと、
6月9日に入籍した長男(神奈川・野田パーティ=先代OB)が
法要の寺がたまたま三澤の菩提寺であり墓所でもあるので
ぼくの亡くなった父と祖父母に結婚を報告したい、
さらに夫人を母親、すなわちおばあちゃんに紹介したいと
殊勝かつ泣けることをいっていたからだ。

撮影は本人たちの許可をとったけど、
あんまりプロフィール的なことをばらすのも
まずくはないが、どうでもいいことなので書かない。
ただ、4年の交際であり、4歳年上の夫人である。
電撃入籍といい、年上の落ち着いた夫人といい
「まるでイチローか松坂だな」というと
むふふ、と不適にわらっていた。
さすがにわが息子である。
とも働きであり、超多忙なので今のところ新婚旅行のめどは
たちそうもないらしい。
「年上の女房は金(かね)のわらじを履いてでもさがせ」
とは古来いわれることだが、
その旨をあとで母親にいうと、
「あれは『一つ年上の』が正しい」と
ぴしゃり。
でも、いいおじょうさんじゃないのと笑ったのでほっとした。

出会える人の数よりも、別れる人の数が増えてきたと
昨年、母親はぽつりといった。
ああ、だれにもいつかはそういう日が来るんだなあ。
と妙な共感をしてせつなくなった。

そして土曜日、母は
「でもこの年になって、こんなすてきな出会いがあるんだわね。
ありがたいことよ」とやわらかなことばをそっと置いた。
ぼくは、ああ、永久にこの人には勝てんなと思った。

長男夫婦は、縁あって親戚の小さなマンションが空いているというので
ちゃっかりとそこに住むことになって引っ越しもした。
4階建ての4階でエレベーターがないとぼやいているが
場所は目白台で若夫婦にはもったいないくらいだ。
唯一のこった都電の駅も近くにあり、
雑司ヶ谷の墓地も遠くない。

この墓地には、多数の著名人の墓があるが
万次郎の墓所もここである。
息子の新居に行く気はまったくないが
万次郎の墓参りにはいってみようかと思っている。
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