幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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We Are Older than Once was But Younger than We will Be!  時の矢はとりにいけないけど 11月01日 (木)
goshiki
写真は一昨年10月末の福島県五色沼。
信じがたいことではあるが、11月から来年1月末までの土日、
ほとんどスケジュールが入ってしまった。
もちろん、土曜日だけ日曜日だけの単体では空いている日もあるが
土日のどちらかに2か月先まで予定があるなんて
許しがたいことである。
マネージャーやスタッフは、
「それでもユルユルの業務量ですね」
と恐ろしいことをいっている。
相談役(母親)までが、
「多忙を言い訳にする男にまともな仕事ができたためしはありません」
ときついダメだしをしてくる。
今のところは健康だが、
既往症からいえば再発の危険性はゼロではない。
だから、人をまきこむ仕事はそんなに先までうけたくないのがホンネ。
オファーがくることはありがたいが、
ついついサービス精神でうけてしまう自分がなさけない。
おもしろい仕事もつまらん仕事も、
プロならやらなきゃねとはおもうが。
でも、おかげさまで新しい出会いがあったり、
古い仲間とまた仕事ができるのは幸せだ。
おとなの事情で詳しいことは書けないが
最近は内閣府とか日本学術会議のシンポジウム、
はたまた大学や高校の仕事といった
ラボで身につけた野党根性にはそぐわないものがけっこうあるのだが、
それにひょうひょうと対応している自分が
「調子いいやつ」だということを思い知らされている。
そうそう、ラボの仕事もちょっとだけやっている。
まあ、それはともかく、この秋は遠出する時間が
あまりないのが残念だ。
ST1
なぜか突然、スカイツリーである。
この電波塔が開業して163日目。
すでに2500万人が訪れたという。
人ごみがいやだから基本的にはパス! 
と思っていたら武蔵高校の同窓会から
見学会をするという案内が9月にきた。
じつはスカイツリーの塔そのものは100%民間がつくったものだ
(ソラマチなどの周辺商業施設には行政も関係している)。
そのもとじめが東武鉄道であり、
東武鉄道といえば根津育英会というわけで、
634メートルという高さは武蔵の国ではなく
武蔵高校の634だと、わしら同窓生は思い込んでいる。
今日は、大先輩である37期
竹田全悟東武鉄道専務取締役のお話もきけ、
さらに特別団体あつかいで待たずに
エレベーターにのれるということで、
いやしい性分のぼくは、それならいきますかと申し込んだ。
aza
こころがけがいい人ばかりが集まったのか、
とっても天気がいい。10時集合のところ、
9時30分に着いてしまったが、
なんとすでに大勢の客でごったがえし、
お土産ショップもおおにぎわいなのでびっくりである。
スカイツリーは足下が一辺70 mk三角形で上にいくと円筒になっていく。
重量は32000トンだそうな。
計画は2003年からあり、着工は2008年、
竣工は2019年の2月29日。
平日でもエレベーターは2時間まちということだが、
特別のはからいで団体エレベータに優先的に載せてもらい
(団体利用金1800円はちゃんとはらった)、
350mの天望デッキへ。
そこからまた1000円で451.2mの最高点がある天望回廊にあがれる。
aqsw
みおろすと関八州が眼下にひろがる。
緑地の少なさ、都市計画がぜんぜんできてないことにおどろく。
そして「歴史の赴き」がほとんど感じられないのがさみしい。
でも、それが東京という街なのだよなあ。
なお、塔のてっぺんの643mはちょうど日光東照宮(東武でいこう)
の陽明門の高さだということで、
積雪のデータはあるという。
また、落雷対策もかなり厳重にしてあり、
地中深く電気を逃がして
建物のなかに電位差がおきないようにして
計器類を守っているという。
すでに12回も落雷があったそうだが、
衝撃も音もわからないのでデータでだけわかるんだって!
ソラマチのレストラン街は激混みです。
外で食べましょう。
11cal1
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
題材になっている物語はレオ・レオニの絵本"Frederick"。
描いたのは阿部冬季くん(中1・新潟市/榎本P)。
「くん」と書いたが、読みは「ふゆき」か「とうり」かわからない。
また、ジェンダーも推測でしかない。
絵でも文でも音楽でも
作品から作り手の性別をあてることは極めてむずかしい。
ジェンダーが色濃くでる場合もあるし、透明な場合もあるし、
ときには真逆のようなこともある。
それは一人の個人のなかに
男性も女性も、陽気さも、陰気さも、
責極性も受け身の部分も
時には相反するものが
いろいろと同居していることの証しでもあろう。
しかしかし、中学生の入選はめずらしい。
それ以前に中学生がエントリーするだけでも貴重である。
応募動機、この物語を選んだ理由をぜひうかがってみたいものだ。

描かれている場面は原作絵本にはない構図である。
おそらくエンディングまぎわ、主人公のフレデリックが、
あつめた「ことば」を語りかけているところだろう。
彼のことばを、阿部くんは自分のイメージで
ひとつの画面にまとめてみせた。
Very Strongな想像力といわざる得ない。
このくらいの年齢で、
これだけ自由に描画で遊べること自体がとんでもないことだ。
中学生はけっこういそがしいし、
やりたいこともいっぱいあるだろう。
一方でやっちゃだめもいっぱいある。
ぼくも中学2年生のころは毎日いらいらしていた。
ちっちゃな自我とかいうやつに苦しんでいたのだ。
そんななかで、この絵を描いた阿部くんの思いを
ぜひ知りたいと思う。

色は原作絵本よりも鮮やかだ。
フレデリックの「ことば」自体が色彩豊かだから、
それは当然だろう。
とくに空のあざやかな青はとっても気になる。
しかし、気になるところはほかにもいっぱいあって、
フレデリックの顔のきり方、
まんなかに横に走る雲のような白い空間。
そんなのもとっても気になる気になる。
世界をスパッと切断する大胆なやり方は、
ふつうは失敗するのだが、
この作品ではふしぎな世界をつくりだしているのだろう。
それと独特のバランス感覚がある。
その背景にある阿部くんの
尋常ならざるこの物語への思いを知りたい。
leonni
レオニの絵本はだれにでも楽しめるが、
その一方で人間の尊厳とか存在に関わる重要なテーマを、
やわらかに提出してもいる。
「あるがままを愛する」「自分の心に自由に生きる」。
それらのことは口でいうのは簡単だが、
じつはなかなか社会はゆるさない。
とくに日本じゃね。
前回にも書いたが
孤独、孤立もまた表現者のたいせつな資質である。
阿部くんは、理解されようと思ってこの絵を描いていないと思う。
彼もまた、フレデリックのようにすぐれた表現者といえる。
で、書きながら思うのだが、
フレデリックは決局は社会に参加できた。
その一方で少年のもつ「苛立ち」を思う。

あるときは「まだ中学生だろう」といわれ
またあるときは「もう中学生なのに」といわれる。
そして、ある日、突然、今日からおとなといわれる。
それまでは社会の力学に手をふれさせてはもらえないのに。

かつては地域社会に年寄りにも、青年にも少年にも
役割があった。
しかし、たとえば中学生を見ても
学校・部活・塾・家庭以外に居場所はあまりない。
居場所とは単なるスペースではなく、
期待される役割があり、
周囲も自己もそれを認識できるということだ。
だから、ラボパーティにおいては
その居場所はとても重要だと思う。
ラボが日常のパーティにおいて、
またキャンプなどの交流において
一人ひとりの居場所にこだわり続けてきたのは伊達じゃない。
パーティでの役割、さらに進めばシニアメイト活動は
まさに責任と感動とともに力学にふれて成長する装置である。
そして
子どもは、フェルディナンドのときにも書いたが
あるがままで個性と役割をもっていることを疑ってはいけない。
それは子どもに関わるおとなに求められる資質だと思う。

レオニはオランダで生まれ、イタリアに住んだが
ファシスト政権から逃れてアメリカに亡命する。
そのおだやかな画風からは想像ができないきびしい人生をあゆんだ人だ。
この物語はぼくが最後に担当した
ラボ・ライブラリーのなかの一編であるがゆえに
思い入れも強い。
著作権を管理しているレオニお嬢さんと
忘れがたいやりとりをしたのも
なつかしい思い出としてのこっている。

このカレンダーは、もうしばらくじっくりにながめてみよう。
冬の手前、まったくこの時期にふさわしい絵だ。

この作品の日本語音声吹き込みはラボっ子から募集した。
選考会を行なったのである。
しかもこのときは、
指定した文をテープやCDなどに吹き込んだものを送り
さらにファックスかメールで志望動機を書いて送るという
しちめんどくさいものだった。
それが一次選考である。
ラボっ子の吹き込み者選考会は毎回緊張する。
しかし、彼らの熱意に身が引き締まる。
いかに多くの子どもたちにライブラリーが支持され
愛されているかが感じられるからだ。
で、このときもそうだった。
とくに、送られてきた志望動機におどろいた。
それは以下の大きく三種類にわけられたからだ。
1.将来、声優や俳優などの表現するプロになりたいので、
あらゆる機会に挑戦したい。
2.ライブラリーがだいすきなので、その制作に参加してみたい。
3.レオ・レオニ先生(先生がつく!)の作品がだいすきで
全部もっています。ラボでとりあげるときき、うれしくて応募しました。

すごいだべ!
これじゃ、命かけて身体けずってつくらなけりゃって思うよね。
11cal2
今日は11月1日。万聖節である。
ぼくはカソリックではないのでお祝いはしない。
ただ、今日から冬になっていくという
ヨーロッパの季節の節目であることは思う。
あと4週間でThankgiving、そしてすぐにChristmasだ。
昨日、渋谷を歩いていたら、
ハロウィンの仮装をした若者たちがうれしそうに歩いていた。
街のあちこちにもジャック・オ・ラタンの飾りがある。
ハロウィンを楽しむ人びとをどうこういうつもりはないが、
違和感はずっともっている。
いま都市で行なわれているハロウィンは
商業とも結びついた非宗教的習俗であることはまちがいない。
その発性にはケルトのドルイドの祭り、
ハロウイン翌日の万聖節祝祭といった歴史的背景はあるが、
基本的におさえておかねばならないのは、
昨日、木島タローちゃん(なれなれしくてスマン)が書いていたように、
教会関係者はハロウィンを祝わないことが多いということ。
ドアに"Sorry, No, Canfy!"と紙をはっている人もいたそうだ。

ケルトの祝祭において10月末は
死者や精霊が地上にもどってくる日とされていたが、
それは収穫祭の意味もあり、季節の確認でもあった。
そして基本的に多神、狩猟だった
ケルトの荒々しくも透明な祈りが底流にある。
それがケルト系カソリックに変化していくなかで、
習俗だけがのこっていたことは考えられる。
しかし、本来、悪魔や魔女が徘徊するハロウィンと
キリスト教は本来相容れないものだ。
実際には否定する教会も多いし、
娯楽として楽しむなら「いいんじゃないの」というところもある。
けっこうバラバラだ。

ぼくがおどろくのは、古くは中国、
近代では欧米のマネをしてきた日本人だけど、
生理的にあわないもの肌にフィットしないものは
定着させてこなかった歴史があるのに
ハロウィンがけっこう定着しつつあることだ。

漢字や都の碁盤目のつくり方はマネしたけど
纏足や宦官はさすがに気持ちわるかったからマネしなかったし、
たとえばキャベツ畑人形なんかはオオコケだった。
ハロウィンが習俗として定着しつつあるのは、
やはり商業戦略のせいなのか
変身願望と自己IDのはざまの問題か、うーん、よくわからない。
ハロウィンをたのしんだみなさん、ごめんなさい。
nakatsu
上の写真は福島の中津川渓谷。やはり一昨年の10月末。
ハロウィンついでに書くけど、
We Are Songbirds μを制作するとき、
東京東久留米にあるCAJ(Christian Academy in Japan)の
Denise Owen先生にたいへんお世話になった。
先生はサラ・ニシエさんの紹介である。
先生は桜美林大学の名前のもととなった
J.F.Oberlin Universityで学ばれた音楽の先生である。
μに入っているHiは先生の作曲だし、
Parade of ColorsやHey Betty Nertinなどの
たのしい歌をたくさん紹介してくださり、
遊び方も指導してくださった。
さらにいえば、We Are Songbirdsのテーマ曲の
英語の歌詞も先生の作詞だ。
また録音のときも合唱を教えている
生徒さんたちをつれてきてくださった。
『ひとつしかない地球』(英語化しも担当)
のときもまた協力してくださっている。
デニース先生には、とにかくいろいろな注文やお願いをして、
「あいさつの歌」「動物の歌」「手あそび」などと
好き勝手に頼んで、
最後に「季節の歌」をお願いした。
そのなかで感謝祭のOver the Riverや
バレンタインのLove SomebodyやSkinnamarink
などを紹介していただいた。
で、当時(も)、浅学だったぼくは
調子こいて「ハロウィンの歌はどうですか」とたずねたら
敬虔なクリスチャンである先生は、
きびしいけとやさしい目で、こんこんと
ぼくの蒙を拓いてくださった。
ああ、クリスマスや感謝祭とは位置づけがちがうんだなあと。
そのときはぼんやりと思ったが、
その後、いろいろと勉強すると
前述したようなところにいきついた。
そんなわけでGT7μにハロウィンの歌はない。
ラボの行事でハロウィンをするパーティは多いと思うが、
ぼくが在職している間は「ことばの宇宙」で
ハロウィンネタをとりあげることはしなかった。
変身、しかも日常なら忌避されるような
魔女や悪魔に仮装するのは
刺激的だしおしゃれなのかもしれない。
そのこと自体を批判するほど野暮じゃないが
世界の文化を考えることも
ラボ活動の基本のひとつであるなら
それなりの態度と目的がが押さえられているべきだと思う。
さらにいえば「クリスマス会」も表現や内容には慎重であるべきだと思う。
宗教は組織であるが、信仰は個人の心の深いところにあるものだ。
そこに土足では踏み込めない。
アメリカでもMERRY CHRISTMASとはいわず公的には
Happy Holidaysと表記することが、近年ではほとんどだ。
ハロウィンは前述したように現時点では非宗教的行事である。
だとするとその意味はなにかと考えると
わからなくなってしまうのは本音だ。
ハロウインについては人それぞれのところがある。
機会があったら近くの外国の方、また受け入れをしたときになど
せび直接たずねてみてほしい。
yuhb
写真は2枚とも一昨年の湯布院。
csaa
デニース先生は、現在もCAJであの透明な歌声で子どもたちに
音楽の楽しさを教えていらっしゃる。
ずっと独身を貫かれているが
ベトナムの少女をアドプトとして育ていらっしゃる。
先日はFacebookでハリケーン、サンディのことを
とても心配していらした。


ラボっ子の音声吹き込み者選考会は在任中、
なんどか行なったが、ほくはそのたびにこうあいさつした。
「スタジオにいけるのは、このなかの数名です。
でも、テキストの吹き込み者のところに
ラボ・パーティの子どもたち、とのるのは
スタジオメンバーのことだけではありません。
手間のかかる1次選考から、こうしてここに集まるという
行動をおこした、ライブラリーを愛するみなさん全員のことです。
ですから、今日の結果に関わらず
『ライブラリーの制作に参加しました』と胸をはっていってください!」
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