幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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風の荒野で笑っているのは、逃げないときめた約束 / すてられない表紙だね 01月29日 (火)
cscws
ume
※1枚絵を追加しました。
この冬はとんでもない寒さである。
季節に文句をいってもしかたないが寒いのはつらい。
気温のみならず心胆を凍えさせるようなできごとが
世界でも日本でも年明けから連続しておこっており
前回に書いた日記がすでにむなしい。
しかし、しつこく書くが、なげいているだけではあかん。
ともかくも前へだ。
上の写真2点は最近のFacebookのページのカバー写真。
意味深そうでたいして意味のないことばと組み合わせて月ごとにかえている。
三澤制作所という事務所の名前もちゃっかり入れて
「なんじゃこれ」と興味をもった人が、
だまされて仕事を発注してくれないかなという、さみしい下心も用意した。
上は一昨年5月のICUの教会付近。下は一昨年春の兼六園の梅。

さて、そろそろ2013年のラボ・カレンダー2月の
絵のことを書こうと準備をはじめたが、
その前にはたと表紙の作品についてふれたいと思った。
カレンダーの表紙には毎年18枚の作品が紹介されるが
これらはいずれも佳作として入賞したものである。
佳作といっても約3000枚の応募作品のなかから
1次選考を通過できるのは150枚くらい。
そのなかから激戦をへて、
各月の絵となる入選作12点と表紙の18点の総計30点が入賞となる。
だから、この30点に入るのは100分の1の確率なのだ。
各月に入選する絵はダントツ、文句なしにぶっとんで他を圧倒! 
というとびぬけた作品の場合ももちろんあるが
けっこう僅差で佳作にまわってしまうこともある。
テーマが同じでどちらか一点(新刊のみは2点まで
同一テーマありというのが内規である。たぶん今も)
といった場合などは典型で、かつて姉妹で同じ作品で応募されて、
そのどちらも個性がすばらしく
選考委員一同頭をかかえて悶絶したことがある。
作品は新刊ではなかったので、どちらか一点しか入選できない。
その2作をめぐって2時間以上も白熱した討論があり
苦渋の選択で姉を入選、妹を佳作にした。
そんなこともあるから、佳作と入選はけっこう紙一重だったりもするのだ。
また、作品としてはすんばらしいけれどカレンダーで1か月
会員家庭の壁を飾るという点でみたらどうだろうということもある。
迫力がありすぎて子どもが泣いてしまうなんていう絵こそ
入選させたいところだが、
やはり公共施設にも寄贈されるので「うーむ」ということもあるのだ。
でも、作品そのものがほんとにすばらしければ結局入選するけどね。
そんなわけで、1月になったらびりっとやぶられてしまう
表紙の絵についてもほめたたえようと思った。
少しずつ紹介していくつもりだ。
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"The Kindergarten Elephant"
作者は栗原智也くん(小2/松山市・標葉P)。
ごぞんじ、ひとりぼっちのきたないぞうのぐるんぱが
最後は自らが幼稚園になることで
多くの子どもたちがあそびにやってくるという大団円である。
見ているだけでしあわせになるゾウ。
この物語は1969年のリリース以来、圧倒的に子どもたちに支持されてきた。
だから、カレンダーの絵にも毎年たくさんのぐるんぱがやってくる。
ぼくも25年以上このカレンダーをつくったが、
おそらく2000点はぐるんばを見ているだろう。
しかし、そのなかでもこのぐるんぱは、
かなり個性的であり「いいセンス」で描かれている。
「ああ、こういうのもありなんだ」といまさらのように思う。
たぶん、入選ぎりぎりまでのこった作品ではないだろうか。
ぐるんぱは身体がグレイ、
それも故堀内誠一先生による「じつにスカっとぬけた美しいグレイ」と
ほっぺたのピンクにみんなやられてしまう
ぐるんぱは大きいからグレイの面積がどうしても大きくなるので
けっこうむずかしい。
ただ、グレイはどんな色とでも相性がいいから、
かなり冒険してもだいじょうぶということがある。
色の組み合わせに迷うと「こまったときのグレイだのみ」
というのは編集者、デザイナーの裏技である。
それはともかく、栗原くんの作品の新鮮さは、
空のさわやかさである。
バックに大きくつかわれている透明感のある水色が
とにかくすてきなのだが、
上空に描き込んでいるマリンっぽい青と白い雲が
作品をさらに豊かにしている。
そのすがすがしさに加え、ぐるんぱ自身も
遊んでいる子どもたちもじつに躍動感があるので、
さらに幸せ気分がアップするのだ。
子ども1人ひとりの描きかたはアバウトに見えるが、
じつはそれぞれに個性をもたしている。これもすごい。
そしてよくみると、鼻によじのぼっている元気者たちには
ちゃんとパースがかかっていて、ぐるんぱの大きさが感じられるのだ。
これらの技法は、おとなは計算して行なうが、
たぶん栗原くんは純粋にこの物語の本質に
ほれこんでいるために自然にできたのだろう。
ぐるんぱは、「大きい」ことでなかなか社会に適応できない。
大きいということはすばらしい個性であるのだが、
そのことに彼自身が気づくにはいくつかの失敗と旅があった。
コンプレックスを個性とうけとめ、
その個性をいかす道を見いだしたぐるんばを
子どもたちは無条件に応援する。
そしていっしょにあそびたいと思う。大きいことは個性なのだ。
キャンプ開営式で大統領が「ぐるんぱ城」を紹介するとき、
「大きいからぐるんぱ城」と、ざっくりやるのがならいだが、
子どもたちは納得してしまうのだからね。
そして子どもは「友人」に敏感である。
キャンブの感想文でいちばん多いのは、毎回必ず、
「友だちがたくさんできてよかった」である。
だから、友だちに無視されたり、攻撃されたりするのは
子どもにとって堪え難い痛みなのだ。
この物語の原作者、堀内誠一先生は
とってもオシャレな感覚のデザイナーだった。
先生がデザインした「アンアン」「ポパイ」「ブルータス」
「オリーブ」は、いまだに先生がつくったロゴを使用している。
先生は1987年に54歳の若さで亡くなった。
そのころぼくは「ことば宇宙」の編集長をしながら、
ライブラリーづくりに首をつっこみはじめていたときだった。
先生の訃報をきいた夜、ぼくは深夜のラボセン(医大前にあったとき)で、
号泣しながら「さよならぐるんぱ」という追悼記事を描いた。
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MOMOTARO
作者は寺澤修哉くん(5歳/花巻市・吉水P)。
うーん、大胆だぜ。たぶん、この色とバランスで佳作に入ったんだろう。
5歳だからこそ、できる桃だドーン。
でも、笑ってはいけない。
ぐうぜんによる部分もあるのだが、
バックの黄色の濃淡と桃の
なんともいえないみすみずしい色は、
日本画のような静けさと慎ましさと透明感にあふれている。
そしてまんなかにおかれたバランスのよさと、
葉っぱの非対称(葉の色もすてき!)が泣かせる。
たぶん小学生になったら、もうこうは描けない気がする。
なんのてらいも、下心もなく、おいしそうだろう! 
と、どゔどうと描かれた桃、なにやら禅画のふんいきさえただよう。
次にこういうふうに彼が描けるのは60年後かもしれない。
見ていると心がどんどんおだやかになる。
さすがは花巻のラボっ子。
賢次の「みずみずしい果実」はここにちゃんとあったんだ!
darba
"It's a Funny Funny Day"
描いたのは渡辺紗也子さん(小1/新潟市・榎本P)。
まさに説明不要、かこさとし先生の名作だが、
この物語もまた『ぐるんば』同様に長い間、
子どもたちから圧倒的な支持をうけ
ラボ・ライブラリーの看板をしょってきた。
そして、2013年のいまも、政権交代にもまったく関係なく
どうどうとラボの正面玄関にどしんとすわっている。
だから当然にもたくさんのだるまちゃんが
毎年のカレンダーの絵として応募されてくる。
佳作の絵はどれもそうなのだか、この作品こそ実物、
紗也子さんの原画を見てみたい。
どうしても表紙の作品だと小さいので、
素材感・マチエール、タッチの強弱、
実際の色味などがつかみづらいのだ。
それでもじっとしばらくながめていると、見えてくることがある。
だるまちゃんのフォルムはもしかするとやや幼い描き方にも見える。
でも、かぎりなくやさしい心が伝わってくる。
紗也子さんは、きっととってもやさしい子なんだと思う。
ということは、じつは強い子なんだということだ。
その強さはバックの筆ではねたような複雑な色をつかった書き込みで感じる。
この作品で、こんな処理を見たのはたぶんはじめてだ。
逆にいえば、このハネがなければ
ただの「だるまちゃんとかみなりちゃんはなかよし」で終っていただろう。
これは推測だが、おそらくだるまちゃんをはじめに描き、
次にかみなりちゃん、そして地面、
最後にバックのハネといったのだろう。
だから、ハネの色が濁っておもしろくなったと思う。
しかし、そんな推測はあんまり意味がないし野暮だと自戒。
だるまちゃんの無条件の「おれにまかせな、心配ない」という顔つきと、
かみなりちゃんのそれへの無条件の信頼感で
じゅうぶんできあがっている作品だ。
「おれは男だ強いんだ」というのは、
ある意味もっともシンプルな自己紹介であり、
故らくだ・こぶに氏がemotionの単元と語ったことがある。
そう思うと、ライブラリーに自己紹介はいっぱいある。
それをさがすのもおもしろい。
だるまちゃんが、かみなりちゃんに対して、
空からおちてきた理由をぐたぐた問わないのが、
とにかくいさぎよい。子どもはそんなだるまちゃんが好きなのだ。
この後も少しずつ紹介していく予定。

さてここからはちょっと重い話。

体罰が話題になっている。
ぼくは、体罰ということば自体が教育になじまないと思っている。
もっとも大阪の悲劇は「事案」ではなく
単に暴力事件としか思えない。
物理的な痛みはもちろん、
自死においこむような「体罰」はもはや事件だ。
ドストエフスキーではないが、罰とは罪に付随するものである。
スポーツに限定して話をすすめるが
仮に選手(主将うんぬんは、なんの説明や弁解にならない)が
練習を本人の無自覚でさぼって、
それが敗戦に結びついたとしてもいったいなんの罪なのか。
すくなくともコーチだろうが監督だろうが
それに対して肉体的、あるいは精神的な暴力で
「罪として裁く権利」は持ち得ない。
法治国家においては、犯罪に対してやむなく裁判という制度で裁きを行なうが、
基本的に人間が人間を裁くことはきわめて困難だというのがぼくの持論だ。
その意味で「体罰」という
「罪」とセットになった言語にたいしては拒否感をもつのだ。
『わんぱく大将トム・ソーヤ』にも
「笞をおしむと子どもをだめにするというポリーおばさんのことばがあるが
それは19世紀の話である。
子どもは、おとなのミニチュアのような児童観の時代のことだ。
一方、日本の世阿弥は「風姿花伝」で
「幼きうちはけして細かい指導をしてはならぬ。模倣させよ」と書いている。
じつは模倣にはじまる学びこそ教育のひとつの本質であるのだ。
ダメだしはだれでもできる。手本ということばが日本にはあるのだ。
ラボはその点すごいよな。

昔、カンザス州立大学のフツトボールのヘッドコーチと話したとき、
彼は「選手が練習や試合でミスをしたり、
できるはずのプレーができないとき、激しく怒るコーチがいるが、
わたしはそれをしない。
なぜなら、選手にとっての報酬がネガティヴなものになるからだ。
失敗して叱られ、うまくいって当たり前では。成功につながる報酬にはならない。失敗したときこそ激励し、うまくできたら大きくほめる。
それはぼく自身の指導や作戦がうまくいったというほこりでもあるからね」。

また、音楽家の間宮先生は
「たとえば、ぼくのところに楽器を習いにくる
いわゆる天才少年少女はやまほどいる。
基本ぼくはほめないし、しかりもしない。
淡々と技術と曲のポイントを伝える。
なぜなら、指導者の顔色をうかがう演奏家になってほしくないからだ」。
うーん、これも一理。

支部総会もほぼ終わり、テューターのみなさんの熱気が伝わってくる。
季節も社会も気温は低いかもしれない
しかも強風である。
でね、ほほえんで荒野にむかうのがお約束。
ふぁいと!
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