幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
■■■ 運営事務局より ■■■
ひろば@LABOは,ラボ教育センターが展開する
「ラボ・パーティ」に関わる皆さんのコミュニティ・ネットワークです。
「ラボ・パーティ」については 公式サイト  をご覧ください。
ラボ公式HPTOP新着一覧そのほかランダム新規登録戻る 0358339
  
Home
Diary
Profile
BBS
Bookmarks
Schedule
メール
・メッセージを送る
・友達に教える
ページ一覧
Welcome!
[一覧] << 前の日記 | 次の日記 >>
未来を信じる力をとりもどすのはわかものたちの息吹 「愛すること以上に愛を蘇らせる方法はない」   03月05日 (火)
ようやく更新と改訂!『ざしき童子のはなし』の写真を追加。
cssac
タイトル写真は3/3刈谷市で行なわれた「2012わかものフェスティバル」より 神奈川支部『平 知盛』
mara1
三澤制作所のラボ・カレンダー3月をめくった。
いつもは「めくる」なのだが、
弥生朔日の夕方、メールの返信や整理が一段落して
夕食までさぼろうと思ったとたんに気づいた。
そうだ3月になったのだ! あせる。
dcadq
絵はごぞんじ"Stop, Taro!"『たろうのおでかけ』。
描いたのは中島向日葵さん(5歳/千葉市・竹内P)。
うーむ、お名前は「ひまわり」さんでいいのだろうか。
ご存じの方はおしえてください。
題材となった絵本の原作者は写真の堀内誠一先生(1932~1987)である。
ラボ・ライブラリーの第1号であるSK1収録。
1969年1月のリリースだから、もう44年前の作品である。
しかし、ぜんぜん色あせないし、それどころかますす輝いて見える。
たしかに登場する車やお店などはレトロなのだが、
フォルムも色調も時をこえてお洒落だと思う。
cwx
賞味期限がふえていくイラストといえる。
文学や美術や音楽に古典があるように
お洒落の感覚にもオーセンティックで普遍的なものがあるのだろう。

ここで例によって話題がワープする。
ぼくは常づね思うのだが、
古典は人間精神の普遍的な真実に根づいているがゆえに、
時間も空間(国や地域)もこえて人びとの心をヴァイブレイトする。
だからベートーベンは300年後に聴いてもやはりべートーベンだし、
「源氏物語」もやはりそのままだと思う。
さらに、古典はほとんどの作品が
生まれた時代のニューウェイヴである。
ベートーベンの第五の出だしの4連譜の和音などは
当時としては掟破りの組み合わせだし、
ミケランジェロのモーセにも人びとはひっくりえった
(ミケランジェロは完成したモーセの膝に手を置いて
「さあ立って歩け」といったそうだ)。
よく古典はむつかしいから苦手とか、
古いからちょっという人がいるが、
クラシックは「今のことだ」と思って接すればじつにおもしろい。
それもこれも人間の普遍性に根ざしているからにほかならない。
シェイクスピアしかり、ギリシア悲劇しかり。
もう少しつっこむと、
たとえば『トム・ソーヤ』が特定のすごいせまい地域の特定の時代、
19世紀なかばのアメリカの地方を描きながら
世界中で愛されてきたのは、ひとえにトムやハックを通じて
「少年の普遍性」、すなわち少年というもののあやうさやもろさ、
みずみずしさや弾力、せつなさや透明感などを描いているからである。
さらにアメリカがもつ「つよさも弱さも含めてあまりかわらない部分」を
トムを通じて描いているからでもある。
トムはいまでもアメリカの正面玄関で
自由の女神の肩にすわって足をぶらぶらさせて遠くを見ている。
そしてまだそこにいる。 

そんなトリビアはともかく、
5歳の体力をぜんぶ投入した作品に喝采である。
たのしんで描いているのが十分わかるので、
本人はつらくはなかったろうが、
あきらかに肩幅より大きいサイズの用紙を
うめるのは5歳にはものすごい力技。
だから描き終えたあとで熱でもだしていなかと心配になる。
でもそんな苦労を感じさせない空の透明感と
全体にあふれる開放的気分と自由さにはただ憧れるのみである。
自由でありながらバランスはとてもさわやかで
「ゆきちゃん」がうかんでいるのもまったく気にならない。
そして空の雲とか緑の草原などへの描きこみも半端ない。

場面はガールフレンドのゆきちゃんの誕生日に
アイスクリームとスミレの花をもって
ペットたちとともに疾走したたろうが、
いよいよゆきちゃんの待つ草原の家にたどりついたところだろう。
アイスクリームがとけないようにと
必死に走ったたろうはあちこちで
「あぶない」ととめられる。
でも、ついにはこの草原で開放され
最愛のゆきちゃんめがけて走っていく。
こんな男が愛されないはずはない。

この物語が交通安全指導絵本でないことはいうまでもなく、
たろうの「アイスクリームがとけちゃうんだ」という
緊急性こそが命である。
そのことを堀内先生は声高に告発するのでなく、
こんなにお洒落に描いてくださった。
そんな先生ののこした種は、確実にこどもたちに伝わっている。
絵ってすごいよね。

警鐘を鳴らさねばならないことは常に世界に満ちていたし、
今も満ちている。ともすれば眠りがちなぼくらの魂を
たろうはこの40年間、ゆりおこし続けてきた。
たろうは今日もいそいでいる。
日はすでに高い。ゆきちゃんの草原まではまだ遠いのか!

そしてひな祭りの日、
刈谷の「わかものフェスティバル」にいってきた。
発表は10編。かなりのハードプログラムだが
いろいろと元気をもらった。
まずはじめに伝えたいのは、
大学生年代という、さまざまな可能性と選択肢をもつことが可能な時期に
1年間をラボの最年長会員としての自覚をもって
活動してきた彼らに、
無条件で喝采を送り、心より尊敬し、感謝する。
最年長世代の意識とあえて書いたのは、
単に自分たちの物語への思いをぶつける、
あるいは表現するとことにのみ
自己実現の目標をさだめているのではなく、
後に続いている高校生、中学生、小学生、そして幼な子たちへの
魂のたすきの手わたしという、
ラボならではの思いがこめられているがゆえである。
自分たちの姿から感じ取ってほしい思いがあることが。
十分に伝わってくる発表だった。

さきほどの「たろう」の話ではないが、
かなりやばい時代と状況に覆われている今、
『ノアのはこぶね』のように黒雲が近づいている今、
行動する力、考える力をよびもどしてくれるのは
「未来を信じる力」にほかならない。
それが行動者の原則だ。
そしてその力を蘇らせることができるのは、
「わかものたちの息吹」なのだ。
荒削りでも、ことばが足りなくても、
その力はおっさんやおばちゃんにはないものだ。
ラボは、教育運動組織の面から見れば
ある意味でゴールのないリレー競争か駅伝のようなものだ。
物語の活動、言語体験、表現へのアプローチは無限である。
宮沢賢治のいうように「永遠の未完」にむかっての旅だ。
その美しく、誇らしいが容易ではない旅をささえるのが
「未来を信じる力」である。
後に続くものが、きっと「ことばの宇宙」のかなたまで行ってくれる
ことを確信しているということである。

だからこそ、大学生自身も
もっときびしく、もっと高く、
もっと遠くへいってほしいと思う。

で、
すばらしいからこそ、あえて強い叱咤をおくりたい。
「ことば」をもっと磨かねばならない。
プログラムに書かれていた主旨は懸命に考えたものだろう。
でも、まだまだあまい。日本語の力としては
「かけだしのゴーシュ」レベルだ。
発表が伝える力におよんでいない。
「うまく書けないけど」「うまくいえないけど」といってゆるされるのは
高校生までだ。
自分たちの看板で表現する大学生年代にはNG。
「うまく書けない」というのは、
基本的に「きちんと理解していない」ことの
あかしである。「ことば」で考え、「ことば」が表現するのだ。
なんてきついことばはこれくらいにして、
少しばかり発表順に写真を紹介する。
中部支部『ォーロラ 北極の夜』『あはうりく 北極の昼』
wdxwqx wdwq
dwqd
北関東信越支部『項羽と劉邦』
xwqcc
関西支部『生命の女神 ドゥルガ』 
vwf vss
vluhg
千葉支部『日時計』
cee alt="brbe" width="500" height="332" border="0">
中国支部『ギルガメシュ王ものがたり』『ギメガメシュ王のたたかい』  
i8o9o; btrn
北海道エリア『ざしき童子のはなし』 
fwfwecew
九州支部『ライオンと魔女と大きなたんす』より
『大きなたんす』『ナルニアの森』 
kkj7svdsd
9p76j
東京支部『虔十公園林』 
frgjkfwew
vewwe
四国支部『ああ、ふるきよき時代』 
vsvev
神奈川支部『平知盛』
fdeqfe
cas
cssac
csaa
csacas
例によって、ひとつひとつの発表についてはぐだぐだ書かない。
きちんと書いたら、全部で原稿用紙50枚くらいに
なっててしまうだろう。
いつも書くことだが。「発表の出来不出来」は
極論すればどうでもいい。
自分たちがなにをしたかったのかが明確であることが必要だ。
もちろん、教育プログラムとして見た場合の課題というか
今後掘り下げたいPointはいくつかある。
とくに継続的な課題については改めてふれことがあるだろう。
※ラボ・ライブラリー以外の物語に取り組む場合のことだ。
自分たちでテキストをつくり音楽も考えて水源である物語づくりから
関わりたいというレディネスが育っているのは自然だし
成長のあかしでもあるといえる。
今回も『項羽と劉邦』(司馬遼太郎原作)と『虔十公園林』(宮沢賢治)
の2編がエントリーされた。
プログラムには前者には「創作」、後者には「再話」と但し書きあったが
できれば、そこに至る背景やテキストづくりや音楽をどうしたのかの
報告がほしかった。
(※創作という表現には違和感をもつ。司馬遼太郎作品に題材をもとめた再構成・再話とすべきだろう)
発表後の客席とのシェアタイムまでのこれなかったのが残念だ。
ぼく自身も2度ほど大学生年代の活動「あずま学堂」にに関わり
当時はまだライブラリーになかった『ふしぎの国のアリス』と
『オズの魔法つかい』に関わった。
どちらもテキストの著作権はきれていたので
再話には法的障害はない作品だ。
だが音楽は全部、自分たちで作曲して演奏も録音した。
著作権フリーの楽曲も当時はあまりいいのがなかったのだ。
そういう能力のあるメンバーがいたからできたが
ぼく自身も作詞などで参加した。

ともあれ、こうした活動を彼らは表現活動とよんで
テーマ活動と微妙に線引きをしているようだが
そのあたりは第三者から見たらあいまいだ。
ただ、「ライブラリーのようなもの」と仮にいうとして、
自分たちの力で英日のテキスト、音楽などを用意し、
それを公的な場所で発表するには著作権をはじめとするさまざまな
社会的条件をクリアしなければいけないというルールがあることも
同時に学ばねばならない。
大学生の教育活動だからOKとはならないのだ。
きびしいことを書くが、『項羽と劉邦』を例にあげると
著作権を継承している
司馬家かその代理人に翻案と上演の許可を。とるのがすじである。
そうしたことがメンドイけどあるんだということも学んでほしい。

くれぐれもいっておくが、いわゆる創作(ではないけど)活動そのものに
ケチをつけるつもりはない。
今回も2編の作品は思いが伝わるものがあった。
だからこそ、その力をライブラリー作品で
見たかったなというのも本音だ。
バトンをうけとる幼い仲間が
「あっ、このお話、こんなふうにすごいんだ」と
率直に感動できることも
このフェスティバルの役割のひとつでもあろう。

なんか味噌をつけたようで後味がわるくなったが、
すばらしいがゆえのぼやきである。

あの日、彼らがくれた力はまちがいなく広がっていく。

ヘンリー・ソローはいった。
「より深く愛することでしか愛をとりもどすことはできない」
ひたすら物語。聴いて、聴いて、動いて。感じて話し合って。
ひたすら物語を愛するしか、ぼくたちは先にすすめない。
<< 前の日記 | 次の日記 >>
Copyright(C)2002 Labo Teaching Information Center.All rights reserved.