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07/09/13 司修先生との再会! いのちの画家は銀河鉄道に3.11以降の社会を問う 09月12日 (木)
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神奈川近代文学館に「賢次+司修 注文の多い展覧会」を観にいった。
午前11時、首都高湾岸線は驚くほどすいている。
雲行きがあやしいがベイブリッジを渡るころには陽が射してきた。
右手にランドマークとインターコンチがかすんでいる。
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神奈川近代文学館は「港の見える丘公園」のてっぺんにあり、
緑にかこまれたとても愛すべきミュージアム。
ぼくはここがお気に入りで何度も訪ねているが、
そのきっかけが1998年にリリースした宮沢賢治のラボ・ライブラリーである。
刊行の1年後だったと思うが、
文学館の主催で司先生の作品を中心とする「日本の絵本原画展」があり、
そのとき賢次のライブラリーの原画もたくさん展示された。さらにポスターやチラシには『セロ弾きのゴーシュ』のコダヌキが大きくつかわれた。
もちろん、協力・ラボ教育センターとクレジットされ、
ぼくもオープニングによばれて
主賓の司先生の後にずうずうしくもあいさつしたりした。
この近代文学館は、そのたたずまいもすてきだが、
なにより作家と作品をたいせつにする(あたりまえのことだが)
心がいきとどいている。
そのことを司先生もよくご存じなのだろう。
それで長くおつきあいされているのだと思う。
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※会場には撮影コーナーもある。
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司先生とはじめてお会いしたのは1988年の『トム・ティット・トット』にさかのぼる。
もう四半世紀前だ。賢次作品のリリースは1998年。
これが司先生との最後の仕事だが、もう15年前である。
それ以来、すっかりごぶさたしている。
あんまり会わす顔がない(もともとないか)。
文学館についたのはちょうど正午。
館内の港が見えるUnteiというカフェで
オーガニックのコーヒーと海苔とオリーブをつかった和風サンドでランチをすませる。
となりの席の妙齢のご婦人お二人としばし会話をする。
司先生と昔からお知り合いですがと訪ねると、
過日、世田谷美術館で司先生のお話を聴き、
すっかりそのお人柄に魅せられたのだとおっしゃる。
開場は13時なので、先に展示を観ようと席を立ち、
ブックストアによると司先生のご本がいろいろ販売されている。
8月にでたばかりの白水社『絵本の魔法』を購入する。
ありがたいことに気恥ずかしいことに、
ラボのライブラリーもとてもいい位置に平積みされている。
さきほどのご婦人にもカフェできっちり宣伝したら、
ほんとに購入してくださった。やはりうれしい。
そして原画も『雪渡り』『ゴーシュ』などのラボの作品が展示されていた。
なにか旅にでた子どもにひさしぶりにあった感覚につつまれ涙腺があぶなくなった。
会場は二階にあるホールで定員は200名。ほぼ満員である。
司先生の本を購入するか持参すればサインをしていただけると告知されていたので、
ややまよったがはしたなくも整理券をもらう。13番だ。
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講演は冒頭で先生の故郷である前橋でひらかれた
障害をもつ子どもたちの絵画作品に
各界の著名人が詩や物語をつけたものがスライドと朗読で紹介された。
賢次とは直接関係ないが、絵と物語、
テキストとの関係を考えさせる「つかみ」だった。
講演は90分。その内容をすべて書くことはしないが、
司先生の「ぶれない」命への思い。戦争への激しい悲しみと嫌悪。
画家としてのきびしいスタンスが、
おだやかな口調で会場をつつみこむように語られた。
柔和さなのなかにこそきびしさがあるのだ。
水仙の花が咲くとき、亡くなったご母堂が帰ってくる。
亡くなってから、親の存在がいや増し、
まだ心のなかに生きていることを実感されるというくだりや、
先生が胆石の手術をされて、
生死の境からもどった病室で『雁の童子』の絵を描きはじめたことなどは、
ぼく自身の父親のこと、また自分の手術のことと重なり
恥ずかしながら大きく共感しゆさぶられた。
そして、東日本大震災以降、しばらくは展覧会を観にいこうとか、
画集をみようとといった「なにかを得よう、なにかを学ぼう」
という気持ちになれなかったという告白のような話にはうちのめされた。
それは大江健三郎氏もから同じ話をおききになったという。
若き日、先生は「画家にとって絵本や挿絵は糊口のための余技」
のように思ったこともあるとおっしゃる。
ただ今ふりかえると、やはりご自身に必要な作業だった。
そのなかでラボの作品も含めて、
賢次の絵本や挿絵はたくさん描かれたが、
つど受け止め方、考え方が変化し、
そのたびに少しずつ賢次に惹かれていったという。
そして先生はいま『銀河鉄道の夜』の挿絵をスクラッチボード、
黒と白で描かれている。
その作業中の作品をプロジェクターで紹介してくださった。
最後はカンパネルラのアップの顔だが、
とても女性的に描かれていた。
設定ではカンパネルラはジョバンニの年上の友人だが、
賢次のなかの思いは妹のトシであるという先生の絵思いからそうなったと語られた。
「妹(いも)の力」である。
司先生がご自身の絵を解説されるのはめずらしいことだ。
ぼくは先生と仕事をするときは、
あまり余分なことは伺わなかったし、
とにかく全力で自由にやっていただくことを心がけていた。
だから、今回のように作品への思いをおききする機会はたいへん貴重だ。
画家は絵で語るのだから、解説や解釈はいらないからである。
したがって、ぼくが毎月書いているカレンダーの絵の感想などは
野暮のきわみである。
ただ、好きなものは好きで、
どうして好きなのかを表現することで描いた子どもや周囲の激励になればということだ。
話はそれたが、先生は『銀河鉄道』を通して3.11以降の世界を問い返そうとしている。
先生が賢次作品の絵本をはじめて描いたのは、
高度経済成長のまっただなかだった。
そのときといまの日本はどう変化したのか。
かつて第二次大戦のとき、多くの画家が戦争賛美、戦意高揚の作品を描いた。
あるいは描かされた。
しかし、先生の身近に、まったくそちらに組せずに、
日常的な風景を描き続けたアーティストもかなりいたという。
そういう人びとの存在は、
ときとして世界に対する無力感にさいなまれそうな魂への最大の励ましだとおっしゃる。
今、この世界で日本で芸術家としてなにが可能か、
命の尊厳とやすらぎのためにできることがあるはずで、
それは賢次が純粋に考えていた農村と芸術というテーマからも学んでいると結ばれた。
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講演が終わり、サイン会にならんだ。
ぼくの番になり「たいへん、ごぶさたしています。ラボにいた三澤です」
と勇気をふるってごあいさつすると、
先生はいつもの少年のようなきらきらした瞳(今年喜寿をむかえられたとは思えぬ)と、
おおげさな手振りで驚いてくださった。
「賢次もトム・ティット・トットも、ラボの子どもたちが愛しつづけています」
と伝えると、先生はほんとうにうれしそうに
「そうですか。ありがとう」と笑顔でこたえられた。
15年のときを一気にこえて、ああぼくは十分報われたと思った。
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会場には、地元の石橋テューター、三島テューター、
さらには川崎からは島岡テューターもお見えになっていた。
石橋テューターのご子息もこられていて、
韓国交流のキャンプの今夏限定のバッジをもらってしまった!
展覧会は今月29日まで。みなさんぜひ。
http://www.kanabun.or.jp/
日にちは前後するが、その前日
Rameeshaこと元ラボ事務局員である板谷安子さんのベリーダンスの公演を観に
武蔵境へいった。
武蔵境は大学の関係でしょっちゅうでかけているが駅の北側はひさしぶりだ。
今夜はアイリッシュハープ、アルパ、
そしてギター、ベースのユニットとのコラボレイションだ。
板谷さんは幼い時から日本舞踊を学び、長じてベリーダンスに魅せられた。
彼女はラボ時代の後輩である。
といっても直接の部下だったわけではなく、
せいぜい新刊が出る時などの研修で話をするくらいだった。
ただ、とても素直で、ぼくのぐだぐたの研修を熱心に聴いてくれたこと、
そして感性豊かだということが印象に残っている。
板谷さんが踊りを学んでいることは、つい最近まで知らなかった。
それがこの春に突然「踊りに専念するべく退職する」というあいさつをいただいた。
仕事でもたいした関係もなかったぼくに、
わざわざ直接に報告をくれる律儀さに感服したが、
それは踊り手としてプロになることへの決意の強さの表れでもあると感じた。
で、今夜はプロ宣言して最初の大きなステージだ。
会場には、多くのラボ関係者も姿を見せていた。
常に素直でひたむきだった彼女の人柄のなせる業だ。
休憩をはさんで16曲、アンコールも含めて17曲はあっというまだった。
踊りは激しく、やさしく、美しかった。
また、アイリッシュハープの透明感ある音色、
アルパのねっとりした音の比較も楽しめた。
仕事をやめて踊りに専念するという決断は、
そうかんたんなことではなかったはずだ。
満面の笑みを会場にふりそそぎ全身で舞うRameeshaの姿からは、
なにかを吹っ切った者のさわやかな覚悟が伝わってきた。
そして改めて確信した。
身体による表現者にとって素直さは、
最もたいせつな資質なのだ。がんばれRameesha!
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ここで少し賢次関連の続き。
今年の9月21日は賢次没後80年だ。
賢次は文学史の位置づけできびしくいえば
「地方インテリの悲劇」の体現者であり、作品数もけして多くない。
しかし、ぼくは賢次は作家とか農業指導者とかいった
人間がはれるようなレッテルにおさまる人ではないと思っている。
むしろ、19世紀末の日本の東北に一瞬出現し、
40年にみたない年月、シリウスよりもまばやく全天に輝きをはなち
そして、また一瞬に宇宙のかなたに流星のごとく飛び去った
「現象」とでもいうべき存在だと感じている。
彼の後に文体でも言語でも、それを模倣するものすらあらわれていないのも
そのあかしだと思う。

そして。賢次のすさまじいまでの純粋さとそれゆえの苦悩、
自然と人間の共生、真の幸福への格闘といった流星賢次のコアなるものは
21世紀に入ってから、その輝きを年こどに増していると確信する。
まるでハレー彗星のごとく賢次星は大きな透明の尾をひいて
地球に接近してきている。
そこから学ぶことは少なくない。
その感覚を時代を司先生もぼくなんかの千倍くらいおもちなのだろう。
さて、こころからは雑談である。
ラボの話もででくめるが、めんどくさい人はここで終わり。

2020年に東京で夏期オリンビックが開かれる。
札幌と長野の冬期五輪をあわせれば4度目だ。
ぼくは1964年の東京のときは小学校6年生で、
そうとうな衝撃だった。
札幌のときはちょうど大学受験の冬で、
ICUはずいぶん試験日がはやく、
二日目がちょうど90m級(現在のラージヒル)が行なわれる日で、
試験終了後「さあ、帰ってジャンプみよう」とつぶやいて三鷹駅に急いだのを覚えている。
ふしぎなことに長野五輪になると少し記憶がうすれている。
開会式の演出は浅利慶太氏だったが、
御柱をモティーフにすえて日本の伝統と歴史を表現したようだったが、
うーんとなってしまった。
クライマックスで、ご本人にはなんの罪もないが
スケートの伊藤みどり選手が巫女というかシャーマンのようないでたちで
現れたときにはどん引きしてしまった。
とくに、その年は賢次のライブラリーの製作に追われているときだったので、
あまり五輪に関心をもつ余裕がなかった。
ただ、司修先生の家に絵を描いてくださいとお願いにあがった日が
ジャンプ団体の日だった。
その10日くらいまでに先生には文書で企画と条件をお知らせしていたが、
電話での感触は「個展も近いのでスケジュール的にはぎびしい」というものだった。
ぼくは無礼にも「音楽は林光先生、監修も天沢退二郎先生、
英語はパルバースさんです。これ以上のユニットは考えられません。
先生以外の画家を考えていません。
作品数が多いのですべてとはいいません。
ただこのメンバーに司先生がいらっしゃらないのはありえません! 
どうしてもご無理ならどなたか若手を紹介していただき、
先生がアートディレクションしてください(これも今思えばひどい話である。
若手にも失礼だし世界の司修に無礼の極み)」と一方的にいった。
その迫力にまけたか、それまで毎年会社から中元でおくっていた
先生お気に入りの梅干しがきいたかわからないが、
「わかりました。時間をください。○○日にきてください」との返事をいただけた。
先生の家は武蔵村山で当時は立川から武陽交通という
先生指定のタクシーでいくしかなかった。
とりわけ寒い日で空はどんより。
タクシーのラジオではジャンプ団体の実況を放送しているが
こちらはそれどころではない。
松本氏と「最低2作品は描いてくださることになるまで席ををたたない」
と確認した。まるで居直り強盗。
司先生のアトリエについたとき、
アナウンサーは悲痛な声で「原田失敗! 日本逆転されました」とさけんだ。
いやな予感。
ドアをノックすると、先生のおだやかだがずっしりした声が「どうぞ」。
どんなお顔をされているかとドキドキ。
すると、先生はいつもの少年のようなちょっといたずらっぽい瞳で笑いながら、
「ラボの賢次じゃ、ほかの人にはさせられないですね。
ぜんぶぼくがやります。いや、やらせてください」といって頭をさげられた。
心のなかでガッツポーズである。
前述したが先生のラボでの最初のお仕事は1988年の
『トム・ティット・トット』である。
それが今も多くのラボっ子に愛されつづけていること。
また、教材ではなく作品であること。
抽象、具象を問わないこと。
子どもむけ、子どもにおもねる必要のない全力の作品であること。
これらのラボのロングセラー度とライブラリーへのこだわりのスタンスが
先生に認めていただいるから、
やはりかなりの無理をしてもおつきあいしてくださったのだと思う。
短い冬の日がかたむき、むかえにきたタクシーがホーンをならした。
外にでると壱岐が白い。シートに腰をしずめると思わず「ふーつ」とため息。
その瞬間。ラジオが「やりました、日本、再逆転で金メダル、
ジャンプ団体金メダル」とさけんだ。
それが長野五輪のいちばん記憶かもしれない。
東京の圧勝。その背景にはやはり経済力が大きく関わっている。
ロビーワークもプレゼンの準備や練習もコストをかけなければ成立しない。
石原知事の時代から東京五輪招致にはすでに莫大に金がつかわれている。
マドリードの政府高官の「われわれには日本のような巨人に対抗できる経済力はない」
というコメントが印象的だった。
猪瀬知事が決定後にいみじくも
「戦いであり、ビジネスだ」といいきったのは真実なのだと思う。
オリンピックそのものを否定するわけではない。
安倍総理ではないが、ぼく自身、1964年の五輪はものすごいインパクトがあり、
終ったあとの喪失感もまたすごかった。
閉会式で最初は美しい国ごとの隊列で歩いていた選手が、
次第に入り乱れ、ついには日本の旗手が肩車された場面は感動した。
スポーツの力にふるえた。
七年後を目標にする若いアスリートたちのモティベイションは確実にあがるだろう。
経済効果もあるだろう。
感動を共有する体験をもつことはたいせなことだ。
ただ、国家と国民はけして一体ではないことを常に頭におかねばならない。
国家は国民に委託された装置に過ぎない。
憲法改悪、TPPなど、いきおいですすめてはこまる。
そしてなにより、世界に安全を約束したことをどう実行していくのか。
監視する責任き国民にある。
1964年の開会式では自衛隊のブルーインパルスが
五輪のマークをジェットで描いた。
大仕事を終えた五機はその五色の煙をひいたまま、
国立競技場から西に帰投したが、そのときぼくの家の上を通った。
ぼくは東の窓をあけたぼうぜんとそれを見上げていた。小6の秋だった。
Re:07/09/13 司修先生との再会! いのちの画家は銀河鉄道に3.11以降の社会を問う(09月12日)
かせだまさん (2013年09月14日 11時46分)

ごぶさたしております。

司先生、お噂通り とっても素敵な方なのですね。

そして夢と力のある展覧会なのですね。

あつくてばてていましたが

行って観たいです。ありがとうございました。
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