幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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ラボ・カレンダー11月 ことばはときとしてむなしい。でも、ことばの力ををいまこそ! 10月31日 (木)
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いきなりフットボールの写真で恐縮だが、
どういうわけか母校のティームが開幕3連勝していて、
しかもいまだ無失点である。
ICUは女子学生の比率が高く、
6対4よりもう少し女子が多いという状況なので、
フットボールのようなはげしい運動をする男子はきわめて少ないのである。
講義スケジュールやアサインメントがきついから
練習も週3でしかできないので
いかに合理的に効率よい練習をするかがだいじである。
まあ、フットボールは机上の作戦が半分をしめるので
ミーティングも重要で記録写真屋ヴィデオは必需品だ。
4年前から全試合の記録撮影をしているので、
シーズンである秋はけっこう忙しい。
今年の夏はひまでボーッとしていたが
秋はけっこう公的機関の仕事などもはいってばたばたしている。
まあ国やいろいろな組織にラボの話ができるいい機会ではあるが。
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三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。とうとう霜月11月だ。
今年もあと二月。
芭蕉は『奥の細道』の冒頭で
「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、
行かふ年も又旅人也」と書いた。
月日は次つぎと通り過ぎて永遠に帰ってこない。来ては過ぎる年も旅人」
ということだ。
この有名な書き出しの出典は
唐の天才詩人李白が「春夜に従弟の桃花園に園する序」という文である。
夫天地者萬物之逆旅 夫れ天地は萬物の逆旅にして
光陰者百代之過客  光陰は百代の過客なり
逆旅というのは旅館のことで、
「天地はすべてのものの旅館であり、光陰(月日)は永遠の旅人なのだ」と
春の桃の花見の飲み会にもいちいちこんなことを書く李白は
さすがというほかない。李白の文はこの先にも続きがあって、
「だからわれわれの人生も夢のようなものである。
そんなはかない存在のわれわれだが、
この天地から詩文をつくる才能をいただいている以上
おおいに飲んでよい作品をつくろうではないか。
もしできないやつがいたら、そいつは罰ゲームで一気飲みだぜ」というものだ。
なんか、酔っぱらいが飲む理屈をつけているようにしか見えないが、
クリエイターとしての自負と気概があらわれている。
芭蕉も人生の終末を見据えながら、
たぶん帰れないであろう旅立ちにあたって、
この偉大な詩人へのオマージュとして、
また詩人としての自分の決意としてこのことばを引用したのだろう。
ぼくは芭蕉研究家じゃないから聞き流してね。
でも芭蕉もちゃんと漢籍を勉強していたんだなあ。 
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さて、前置きが長くなったる11月の絵は”Frederick”である。
こぞんじレオ・レオニの絵本に題材を求めたものだ。
奇しくも昨年の11月のカレンダーもこの作品である。
うーむ、『フレデリック』」を描けば11月の絵に入選するのか? 
それは冗談だが、晩秋から冬をテーマにした応募作品は比較的少ないし、
なかでも晩秋は冬よりも稀少なのだ、
ねらうにはチャンスである。なんて邪道はいかんけど。
描いてくれたのは青山明外くん(小4/藤沢市・渡部P)だ。
「あきと」と読むのだろうか、どなたかご存知の方はご教示あれ。
めくった瞬間は、あっやられたという感じだった。
11月の絵だから、ぼく自身も先入観で紅葉とリンクする
赤系、茶系、橙系の色合いを勝手にイメージしていからだ。
やはりおとなはいかんなあ。
まだ12月の絵は見ていないが、
おそらく今年の作品のなかでは最も抑えた色調だろう。
ほかの月にくらべれば迫力や派手さはない。
でも、じつに落ち着いた感じが気に入った。
そこで20分くらいじっと眺めてみた。
きびしい季節にむかって準備するのねずみたちが
とにかくていねいに描かれている。するといろいろ見えてきた。
まずとにかくバランスがいい。平面的なようだが奥行きがけっこうある。
これは大事なことだ。
さらに色調は抑制的なのたが、じつは色数はかなりある。
背景、木の葉、ぶどうやトウモロコシなどの作物など、
それぞれに同系色を微妙にかえて味をつけている。
要するに単純に一色で「塗り絵」されたものがひとつもないのだ。
これはたいへん根気のいる作業だし、
そのことを楽しめないと持続できるものではない。
それは明外くんか絵が好きなだけでなく、
この物語への思い入れがかなりあるからだと信じる。
そのあたりどうなのだろうか、ぜひきいてみたい。
とくに背景の色変化は絶妙で、ここは計算では描けない感覚の勝利だと思う。
ただ、その感覚がよびおこさせるものが物語にあったのだろうと思いたい。
いずれにせよ、今書いたようなことが
入選の大きな理由になっているのではないかと想像している。どうかな。
昨年の同作品の感想と重複するが、
レオニの絵本はだれにでも楽しめる一方で
人間の尊厳とか存在に関わる重要なテーマを、やわらかに提出してもいる。
「あるがままを愛する」「自分の心に自由に生きる」。
それらのことは口でいうのは簡単だが、じつはなかなか社会はゆるさない。
フレデリックのような孤独、孤立もまた表現者のたいせつな資質である。
青山くんもまた、理解されようと思ってこの絵を描いていないだろう。
だから彼もすぐれた表現者の資質をもっているはずだ。
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この物語はまた、「ことばの力」が大きなテーマである。
そのことばの力はけして楽観できる状況ではない。
20世紀以降、現実がフィクションをこえてしまうくらいの
劇的なシーンをつくりだすため、
現実や世界をことばで支えることが難しい時代が続いている。
その傾向はますます強く、詩人、文学者にとっては、
現実とことばの関係のあやうさ、現実に対することばの「脆弱性」を
どのように強力な想像力で補うのかはじつに悩ましいことである。
たとえば9.11の同時多発テロにしても、
あんな悪魔的シナリオを書くライターはいない。
「嘘だとさけびたくなるような真実」は
「ほんとうだと信じたくなるようなフィクション」をふきとばしてしまう。
しかし、そんな時代や状況を「ことばの力」でうちぬこうとたたかうのが
ワード・プロフェッショナル、作家や詩人の仕事であり責任である。
レオニはこの物語ではさらに「ことばの力」が生み出す
「絶望を希望にかえる力」「命を活性化する力」を描きたかったのだろう。
彼はオランダで生まれ、イタリアに住んだが
ファシスト政権から逃れてアメリカに亡命する。
そのおだやかな画風からは想像ができないきびしい人生をあゆんだ人だ。
そんな背景をもつからこそ、「ことばの力」「ことばをつくるたいせつさ」
「ことばをつむぐものの孤独」を、
おだやかにしかし強く表現したかったのだろう。
そして、そのレオニの思いは世界中にうけつがれ、
日本の藤沢の少年にもまちがいなく届いたのだ。
このライブラリーはぼくがプロデュースした最後のシリーズの一作なので
思いも深いし記憶も鮮明だ。
ラボっ子の選考会もたいへん勉強になった。
また語りの市原悦子さんが、
最初事務所サイドで「市原のひとり語りならいいが、
子どもたちとの共演は彼女の世界観がかわるから」と難色をしめしたのに対し、
その二三日後に出演快諾の返事がきて一同喜んだのをおぼえている。
その謎は正確には不明だが、
本番が終ったスタジオで市原さんが
「江守さんが、たいへんでめんどうかもしれないけど、
おもしろくていい仕事とおっしゃってのはこれだったのね」と
赤いスカートでニコニコとおっしゃったのが、
たぶんそのこたえなのだろう。
芭蕉が引用した大詩人李白は8世紀、唐の時代に活躍した。
遣唐使の阿部仲麻呂とも親交があり、
仲麻呂が帰国途中に遭難死したときいたとき李白は号泣したという。
かつての長安、現在の西安市の公園には仲麻呂の追悼碑がある。
ぼくも見にいったが、その裏の追悼文は李白によるものだ。
李白は62歳のとき船にのって酒に酔い、
月をとろうとして溺死したともいわれるが証明はされていない。
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