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だれがなんといおうと、やっぱり物語だぜ! 11月19日 (火)
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タイトルを見て、ひさしぶりにカレンダー以外の内容かと期待した方にはもうしわけない。
むくつけき汗臭い写真で恐縮だが
物語の噺をする前にちょっとだけおつきあいいただきたい。
先週の土日はあまりもギャツプのある週末だった。
16日の土曜日には調布市のアミノバイタルフィールドで
関東大学アメリカンフットボール連盟3部Dブロックの
公式戦最終節が行なわれた。

ICU Apostles対筑波大学Excaliburs。使徒と無敵の剣のたたかいである。
どちらも4戦無敗どうし、
勝ったほうが優勝で12月の2部昇格への入替戦にいける。
敗北すればシーズン終了である。
昨年も両校の対決があり、
ICUが勝利して勝ち点の差で優勝することができた。
しかし、帝京大学との入替戦では敗れ今年こそは2部へというのが悲願である。
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ICUは女子と男子の比率が6対4、学年によっては7対3なので、
こんなはげしいスボーツをする物好きはたいへん少ない。
対して筑波はさすがに国立大学で人数も多い。
苦戦は予想されたが、やはりおしきられてしまった。
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上のものすごい形相の青年が今年の主将をつとめた朝日田くんだ。
彼は小柄だが俊足ですぐれたパスキャッチャーであり
守備でも要である。
朝日田くんの実家は大船渡市である。
この寡黙なキャプテンは、ふるさとのこと、家族のことそして自分の未来など
いろいろなものをせおって最終学年をたたかった。
彼はやぶれても最後までどうどうと全員をはげまし、
胸をはって写真をとった。
でも、その二日後に全員に静かな悔しさをにじましたメールをおくり
みんなが泣いた。

そんなはげしい土曜日だった。
ぼくも大手術をした年から4年の間、
0Bとして彼らのすべての試合の写真を撮影してきた。
今週からは新しいティームだ。
やることははっきりしている。とにかくまた前にいくしかない。
物語といっしょで、EndingはStartingなのだ。
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日曜日朝、品川からN700「のぞみ」に乗って名古屋へ。
名古屋から東海道線新快速でで刈谷までもどる。
中部支部のテーマ活動大会発表を観るのだ。
中部方面に行くのは春の「わかものフェスティバル」以来。
このときは翌日に大阪の岸和田で人工芝工場の視察があったので
それにひっかけてでかけたのだが、
今回もじつは以前からたのまれていた千種区の覚王山というところで
ちょっとした所用というか仕事のようなものがあり、
先方にわがままをいって日取りをかえてもらい、
ちゃっかり前日入りしてテーマ活動を観ようという魂胆である。

かつて「らくだ・こぶに」氏が
「名古屋は東京と大阪に両手をかけて
ぶらさがっているオランウータンである」といったが、
それは若き日に酒席できいたために妙に頭にすりこまれており、
へんな先入観になってぼくの頭を支配している。
それは彼らしいレトリックであるが、
画像で想像すると失礼である。

ただ個人貯蓄高の多さとか味噌とか
モーニングなどの食文化や独特なファッションとか道の広さとか、
なんとなく飄々としたところとか、
ぼくとしてはみんな好きである。
そして、ぼくが知る名古屋の知人は基本的に気さくでありまじめである。
上と下の写真は『雪渡り その二』名古屋市・横地由起子パーティ
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会場は刈谷市総合文化センターの大ホール。
「わかもの」でもつかわれたなかなかいい施設だ。
音響もわるくない。
発表されたのは『雪渡り その二』名古屋市・横地由起子パーティ、
『エメリヤンと太鼓』稲沢市・森部照代パーティ、
ここで休憩があり、小学生90名による英詩とナーサーリー・ライム3編、
そしてトリが『はだかのダルシン ケルトイの掟』
羽島市・近藤智子パーティである。

下の2枚は『エメリヤンと太鼓』稲沢市・森部照代パーティ、
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今回、中部に行こうと思ったのは
前述のように「ほかの用事にひっかけないとなかなかいけない」という
不純な動機もあるが発表テーマにひかれたことも事実。
『雪渡り』は、自分でプロデュースした作品のなかでも
いろいろな意味で印象が深い。
もちろん携わったすべてのライブラリィに
それぞれ思い入れがあってそこに差はないのだが、
季節とか社会状況とか時代性とか自分の心情のたたずまいなどから、
「あっ、いまこの物語にふれたい」みたいなものは確かにあるし、
あって当然だし、あったほうがいいと思っている。

『雪渡り』は、この秋にひさしぶりに原画を神奈川近代文学館で拝見し、
そのときに行なわれた絵の描き手である司修先生の講演会で
先生と10年ぶりにお会いしこととか
(先生は幽霊を見たようなお顔で両手を揚げておどろかれた)、
秋は賢治が亡くなった季節であり、
11月は賢次の最愛の妹トシが世を去った月でもあるとか、
そんなこんなが重なっていてどうしても観たかった。

さらに昨年1月に80歳で亡くなられた作曲の林光先生が音楽を担当されているが、
平和をおびやかすものを拒否し続けた先生がいらっしゃったら、
今の日本をどうご覧になるのかとか、
もういろいなものがかけめぐっていた。

忘れもしない、早稲田のアバコスタジオでこの音楽を録音したとき、
すでに司先生のすべて青でごく一部に虹がある絵を
いただいていてものすごい衝撃をうけていたのだが、
林先生と司先生はそのための打ち合わせを
おふたりでされたわけではないのに、
絵からとびたしたようなメロディが、
また旋律からあの絵がうかびあがるような、
そんな鳥肌がたつインバクトがアタマの数小節で感じられたのだ。

横地パテーティの発表を観ていると。
それらがすべて一気に蘇ってきて息苦しくなった。
とくに幻灯会で子ギツネたちが歌い踊る場面などは
戸越のスタジオでいきいきと録音し、
紺三郎と語りを担当された戸田恵子さんと
どうどうとわたりあったラボっ子たちの顔がうかんだ。

そんな特殊な心情でテーマ活動をみるのもどうかと思うがしかたがない。
でも、そうした昔の想い出だけでなく、
どの発表にも学ぶことがたくさんあったことも事本当だ。
子どもたちは「常に時代の先端を生きている」
それはうたがいのないこと。
とくに幼ければ幼いほど、最新の情報や状況をまともにあびる。
だから社会のひずみや閉塞や不公平は、
未来をになう子どもたちを直撃する。
そのことをおとなたちがいかに危機感と慈しみをもって
認識して行動していくのかが、今強力にもとめられているのだ。
※この『エメリヤン』についての部分はFacebookに書いた報告を加筆したものだ。
そして発表Pの「るるさん」こと森部テューターに引用していただいているので、
そこをすでに読んだ方はスキップしてください。

『エメリヤンと太鼓』は、ぼくが組織担当から本部の制作に異動した直後の作品。
ぼくはまず『ことばの宇宙』の編集をしろといわれて、
徹底的に『ロシア特集』を続けた。
だからこのライブラリーで制作に加わったのは
校正などのチェックがほとんどで、
後はスタジオや専門家の研究室で取材ばかりしていた。
この物語のテーマはかなり重たいものだ。
内容は明るくはないし、なにやら暗示的だし、
語彙は平明だけどふしぎなことばが多い。
最初から「大好きなお話」とはなりにくい物語かもしれない。
絵本も「かみや・しん」先生のぶっとんでかっこいい半立体抽象だ。

この物語はもう百年以上前の19世紀の終わりにトルストイが書いたものだが、
昔話の香りはしても古くさい感じはしない。
それは「ここにもない、どこにもない」、
でもどこかにきっとある「人間の真実」のような、
現代にも通じる人間の本質的なことをあつかっているからだろう。
トルストイは晩年、自らの大作『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などを否定し、
昔話という人間、民衆の心がつまったスタイルをかりて
自分の思想を表現したのはご存知の通りだ。
このヘヴィな物語にむきあう子どもたちが物語と睦みあい、
ときにすれちがったりわからなくなったりしながら物語に近づいていった
日々がとてもあざやかに感じられた。

いつもいっているが、
テーマ活動そのものは教育プログラムだから、
「うまい」とか「いい」とか「よくいえている」
などということは極論すればどうでいいと思っている。
第一、こんな大きな舞台での発表は本来の活動からは異質なものだ。
でも、物語にパーティ全員で「日常とはちょっとちがうかたちで」、
いろいろな思いとそれぞれの人生
(高校生は高校生なりに幼い子は幼い子なりに)を総動員して
けんめいに取り組むことは、
たいへんだけれど最高のぜいたくであり、
それだけですばらしい教育プログラムだと思う。
支部発表会は、たしかにラボをアピールするよい機会ではあるが
ぼくは「ライブラリィを可能なかぎり聴きこむ」という条件を満たしていれば、
まずあるがままのこどもたちの姿を
愛情をもってうけとめることがいちばんだと思う。

さらにいえば、あるパーティが表現する物語が
どういう「仕上がり」かというよりも、
その物語に取り組んできたパーティが
どのような「物語と睦み合い方」をしてきたかのほうが
圧倒的に関心が強い。
同様に皇帝に取り組む仮にAくんが表現する皇帝がどうかというより、
皇帝に取組んだAくんがどうであったのかに思いがいく。
なぜなら教育プログラムだから。  

発表会は発表するパーティがなにをつたえるかより、
観ているラボの仲間ひとりひとりが「なにを汲み取るか」が重要であり、
それこそが支部発表の意味だとぼくは勝手に思っている

で、ここまで書いて矛盾するようなことをいうが、
「エメリヤンをみちびくおばあさん」役の女子の表現にインパクトがあった。
個人をほめるのはどうなんだといわれるが、
感じたことなので書く。
このおばあさんがエメリヤンに助言する場面は
半沢直樹もびっくりの長ゼリフ。
これを彼女は自然なリズムで、ことばひとつひとつを意識して
ていねいに語った。

森繁久彌さんの名言に「セリフは歌え、歌は語れと」というのがあるが、
まさにそれを地でいっていた。
ぼくはセンターの10列目くらいにいたが、
彼女がとても大きく見えた。
高校1年生くらいかなと思ったが、
英語も日本語もとても自然で幼い子のようである。
高校生くらいになるとどうして「発音の個性」がかたまってくる傾向があるが、
彼女は紙粘土のように自在である。

後で本人にきいたら中1だというのでびっくりした。
しかも小柄な女性である。
さらにきくと、取り組みはじめのころは「とにかくいおう」という意識が強く、
三枝成章先生の音楽が1分以上あまってしまったそうだ。
それが音楽のリズムやメロの変化にびったりのって見事な尺だった。
ただ聴き込みの多さと、物語へ接近していく角度と深度の結果だと思う。
それらのパラメーターが彼女自身を大きく見せていたのだ。

※下の2枚は『はだかのダルシン ケルトイの掟』羽島市・近藤智子パーティ
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『はだかのダルシン』はニコル作品の再話だが、
この物語だけでなくライブラリィ全体が「ニコルの世界」の一巻だ。
2006年にニコル氏とともにウェールズ、カナダと飛び回り
英語のセリフや音楽の録音をする貴重な体験ができた作品でもある。
ニコルさん自身のラボへの思い(『タヌキ』が実質上の彼のプロ・デビュー作品)、
がつまっている。

彼は作家としての孤独性をたいせつにしている一方で
自然保護や森林再生、そしてラボ・ライブラリーづくりのような、
未来と子どもたちにむけて、おとなたちが「仲良く喧嘩しながら、
ともに作っていく」ことの感動もだいじにされている。
バンクーバーでの『サケ、はるかな旅の詩』の音楽録音の後、
作曲家のダンカン氏、絵を担当したカナダ先住民出身のスーザン・ポイント氏、
そしてバンクーバー在住のニコル氏の長女Miwakoさんなどを招いて
ささやかな食事会があった。

ニコル氏は乾杯のまえにめずらしくたちあがってあいさつするといった。
いつもなら「酒を前にしてあいさつする奴はぶっとばす」と笑う氏が、
ちょっと緊張してみんなにいった。
「ラボはただの英会話の会社じゃない。
物語とアートと音楽で子どもたちのことばと表現をそだてる会社。
その中心になるのがラボ・ライブラリー。
みんなのおかげて、またすばらしいライブラリーができる。
ほんものが子どもたちにとどく・ありがとう」
すばらしい夜だった。
4月のはじめ、北国は雨だったがそれはあたたかい春の雨だった。

そして、近藤パーティのダルシンもまた、
たくさんのことを教えてくれた。
自分でいうのもおかしいが、
「あれっ、この物語、こんなにおもしろかったか」と新鮮なきもちになった。
この物語はケルトの世界を下敷きにしながら
ニコルさん自身が展開するファンタジーであり、
少年ダルシンの成長譚だ。

ケルトの祝祭や通過儀礼が登場するが、
あくまでもフィクションでありケルトの昔話そのものではないし、
ケルト文化研究資料でもない。
ただ、ヘブライイズム、ヘレニズム、キリスト教やギリシア文化がかたちづくってきた
ヨーロッパの価値観や文化では説明できないものを
とらえているもうひとつの大きな潮流としての
ケルトが底流にあって人間の成長にたいせつな本質を語っているのだ思う。

そのことをなにか資料や講義などの頭で考えるのではなく、
言語体験のくりかえしのなかで近づいていこうとしたのが近藤パーティだったように思う。
とにかく、全体が個々がライブラリィをよく聴いて
いるのが耳だけでなく全身で感じられた。
結果として「よく聴き込まれた発表」はなにかが伝わってくる。
それを汲み取るのがたいせつだ。

で、さいごにまたほめる。
悪役であるグンダー総督のセリフが冒頭にあるが、
この男子の声がすばらしい声だった。
もうこれはもって生まれたものなのだが、一気にひきずりこまれてしまった。
こういう声はやはり天からのさずかりものなのだろうか。
それまで特別な訓練とか発声指導はうけていないという。
それがよかったのかもしれない。
発表会は15時過ぎには終った。

もう1編くらいは観たいなという感じだ。
でも、食事といっしょで八分目がいいのかもしれぬ。
「いい発表」も「わるい発表」もない。
でも、個人的に「すてきな発表だった」というのはアリだと思っている。

そして、むだれがなんといおうとやっぱり物語だぜ!
Re:だれがなんといおうと、やっぱり物語だぜ!(11月19日)
がんこちゃんさん (2013年11月19日 21時18分)

タイトルがなんと言ってもカッコいいです!!
やっぱりだれがなんといおうと物語で良いんですよね!
「あのパーティ、よくCDを聴いてるな!」と思ってもらえるのが
目標でした!
それがSENCHOさんに伝わったことが一番嬉しいです!
中部の発表を観に来て下さり本当にありがとうございました!
Re:だれがなんといおうと、やっぱり物語だぜ!(11月19日)
エコーさん (2013年11月21日 14時22分)

いずれも読み出したら離れられない掲示板!

お願いは以前のようにパラグラフ毎に行間開けてください。制限字数上
かもしれませんが、

読ませていただきやすいし、疲れません。

お願いします。
Re:だれがなんといおうと、やっぱり物語だぜ!(11月19日)
SENCHOさん (2013年11月21日 20時04分)

エコーさん

さっそく実行しました。
やっぱり物語☆
かせだまさん (2013年11月28日 18時45分)

とても素敵な日記ですね。

中部の発表会、行ってみたかったですね。

いきいきした写真もすばらしいです!!

ありがとうございました。
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