幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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C・Wニコル氏講演会「私とラボとの幸運な出会い」

                            2005年1月21日
                            主婦会館プラザエフにて

ニコル氏が初めて日本を訪れたのは1962年、22歳の秋のことだった・・・。1940年生まれ、辰年。現在は64歳。
南ウェールズに生まれたニコル氏は、英国海軍軍人である父親に憧れ、12歳でシー・カデットに入団する。シー・カデットとは水兵の勉強をするところ(青少年健全育成のための慈善団体)。船舶操縦、ロープ結び、手旗信号、水難救助などの海軍演習、射撃などを学ぶ。そこには柔道との出会いもあった。柔道(柔術)は英国海軍に100年も前から取り入れられていたという。
シー・カデットに学ぶことは学業より魅力的だったが、父親はニコルが海軍軍人として生きてゆくことは相応しくないと考え助言をしてくれた。
一方、格闘に目覚めてゆく彼は、やがてYMCA柔道クラブにも通い、ひたすら技に磨きをかける日々が続く。クラブでは茶帯の元コマンドに指導を受けるが、ある日、さらに強い黒帯の男が現れる。15歳で出会った最強の黒帯男は、礼儀正しく、物腰の穏やかな日本紳士だった。日本人の精神に打たれ武士道、日本への感心が次第に高まっていった。
ニコル氏には、大きなふたつの夢(人生の目標)があった。ひとつは探検家になって、北極を探検すること。もうひとつは日本で格闘技を学ぶことだった。
17歳で家を出て、カナダに渡る。周囲にはキャンプに出かけてきます、と言いながら北極遠征に参加。北極地域の野生動物調査などを行う。以降、初来日するまでに3度の遠征を果たす。(2度目の遠征の後、19歳で英国に戻り最年少のプロレスラー「ニック・デヴィート」としてリングにも立っています。)大学に進むも、北極への思いを断ち切れず、再びカナダへ。3度目の60年には北米北極圏研究所、デヴォン島探検隊として5名が、北海道ほどある広大な島で19ヶ月間を過ごすという経験をする。
こうして遠征などで得たお金、6000ドルを持って、昭和37年(’62年)にいよいよ来日。約2年半、日本で夢の武道修行を実現する。1ドル360円。サンマの塩焼きが60円で売られていた時代であった。
著書には、出発前友人から、日本で最も有名な外国人作家としてラフカディオ・ハーンを手渡されたとある。作家の見た日本──。「商店、幽霊、寺院、幽霊、自然についての詳細な記述は私の好奇心をかきたてた。ハーンの描いた世界のほんの一部でも体験できると思うと楽しみで胸が高鳴った。」講演では触れられなかったが、ラボ・ライブラリーの『耳なし芳一』はニコル氏のそんな熱い思いにご縁を重ねて生まれた作品なのだろうか。日本のくらしに関するハーンの著書はすべて読破されたそうだ。が、「日本人となったいまは、八雲を見る目も当時とは違う。すべては過去となった。」「だが、藪のうぐいすの声、寺院の荘厳な鐘の音、はたまた京都の路地裏に響く下駄の音を耳にするにつけ、私は憂愁の想いにとらわれる。それは背後から忍び寄るひそやかな気配にも似ている。私に響きかける小泉八雲の魂の影法師なのだろうか」とある。日本人でさえも忘れている日本人として大切にすべき心を、氏のことばの随所に問われているようで、襟を正される(あるいは身が引き締まる)思いがする。

「日本は素晴らしい国です」とニコル氏は言う。北には流氷、南には珊瑚礁の海がある。旅の自由、職業の自由、宗教の自由、そして、植民地の経験がないので植民地メンタリティーがない。つまり何事かが起こったときにも何者かのせいにしない、自分自身に責任を負うことができる国民なのだという。
67年から2年間はエチオピア政府の依頼により国立公園を創設し、公園長を務め多くのレンジャーを従え野生動物や森林の保護を推し進めてきたが、エチオピアの政治腐敗はひどかった。多くは戦争で破壊されてしまった。飢餓と背中あわせの不毛な闘いに終止、悔しい思いでエチオピアを去った。(『ゴロヒゲ平左衛門』でノミがでてくるのはこのエチオピアでノミに苦しめられた経験がもとになっているとのこと。ノミのサーカスも英国時代にみたことがあるという。)
69年、再び日本へ。三人の子どもと日本人の妻を養うため、まずは、活を考えなければならなかった。そんな折、偶然にもニシフジさんと再会する。初めての滞在でアルバイトをさせてもらった東京イングリッシュセンターは「ラボ教育センター」へと発展し、ニシフジさんはその職員だった。こうして運命の糸に手繰り寄せられるようにして、ラボの世界でアルバイトをすることになった。「雁さん」こと、いまは亡き偉大なる詩人であり当時のラボ専務、谷川雁氏との出会もここにはじまった。「雁さんはチャンスをくれた」。そうして70年には書き下ろし英語童話第一作『たぬき』が誕生する。日本ではたぬきが変身する、というところにおもしろみと愛着を感じたという。ラボの物語を書き、テープを作る日々が続き(当時は録音テープを切ったり貼り付けたりして編集するというアナログな作業もされていたとか。)、2年ほど日本に腰を落ち着けた。
その後も、カナダ政府からの依頼で漁業調査局、環境局の技官として幾度も北極地方へ赴く。環境局ではカナダ西海岸の環境問題緊急対策官に任命され、カナダの太平洋岸に大事故が発生すると、オフィサーとして現場に駆けつけるのが仕事だった。当時はアラスカに1,000km以上もある大きなパイプラインが完成した頃で、大型タンカーが重油をシアトルまで運ぶようになっていた。カナダの西海岸は複雑で、北から南へ何百キロにもかけて多数の島々が散在している。そこを通れば船は荒れる海に出なくてすむが、そこを通すわけにはいかなかった。タンカーをどう通すのか、石油の流出から鮭を、自然環境を、守らねばならなかった。
この間幾度か日本に戻って仕事を手伝ったが、自分の住むべき場所はあくまでカナダであり、仕事は北極でと考えていた。しかし、グレイトベアレイクという地での調査でのこと。ウラン(広島、長崎を襲った原爆の元)を、人々がその内容も知らされないまま無防備な装備で採鉱させられていた。その衝撃にこれまで自分ひとりの関心ごとだった探検を、日本、カナダ、世界のために役立つものにしなければと思った。
日本に戻ってからは、和歌山の太地(たいじ)という所で、くじらと日本人を題材にした歴史小説を書いていた。ところが、本ができるまで収入がない。お金がないことを分かっていて雁さんは、『古事記』を英訳する仕事を手伝わないかと声をかけてくれた。数週間ごとに黒姫の雁さんのもとへ通い、ラボランドの鴻来坊に寝起きをしながら翻訳作業に取り組んでいた。囲炉裏端では酒を酌み交わして語り合った。
雁さんから学ぶことは多く、ことに神話と日本語について。自分の血に流れるケルト民族の昔話、神話にとてもよく似ているものがあり、浦島太郎にそっくりなお話もケルトの昔話にあることには驚いた。
こうして太地に1年住み、南氷洋に1年行った後、40歳を迎えた。これから先は大好きな日本で過ごしたいと考えていた。でも、どこに住むべきか? 沖縄も北海道も好きだった。好きな土地はたくさんあった。が、「長野ではだめかい?」と背中を押したのは「雁さん」だった。美しい山々に抱かれた広い大地、野尻湖もある。「ああ、黒姫か!」とすぐに決めた。
ラボランドの近くにアファンの森というのがある。(アファンとはケルト語で「風の通るところ」という意味。)本を書いたり講演で得たりしたお金で、黒姫の土地を少しずつ買い足して、手間ひまをかけてその土地に豊かな森を育む作業をしている。クマやタヌキなどの野生動物が安心してすむことができ、川には岩魚が泳ぎ、春には花々が咲き誇ることのできる場所を取り戻すためだ。
生まれ育ったウェールズは、かつて石炭産業が盛んだった。人々は産業のために次々と木を切り倒し、森の面積は国の5%しかなくなってしまった。月の表面のように荒れ果てた土地だった。戦争が終わると国のエネルギーは石炭から石油へ。石炭は全く必要とされなくなり、炭鉱は不要になり、失業率は三七パーセントにもなっていた。自然を破壊すると国の文化や経済国もおかしくなる。そのことに気づいた南ウェールズの人たちは、豊かな緑を取り戻すために、アファン・アルゴートという場所に森を作った。そして森はいま、12%までに戻っている。その現実をこの目で見て、日本にも森を作ろうと決めた。“アファンの森”というのはアファン・アルゴートからとった名前。土地はC・W・ニコル・アファンの森財団にすべて寄付し、森の復活を願っている。実施している研究対象は、どんぐり、クマ、ヤマネ、鳥類、植物、昆虫、地質、水質など。ほかにも題材はたくさんある。               
大きな木は小さな風をつくる。
英国の街では、つい四、五十年前まで冬には石炭を燃やしていた。石炭を燃やす煙と霧が一緒になり、大勢の人が肺病などで死んでいた。緑をふやせば街の空気もきれいになって病気も減る。森には命を活かす力がある。森の恩恵を受けて病を治してゆく方法もたくさんある。日本にはまだ豊かな緑がある。原生林もある。日本を美しい国にすることが大事だ。95年7月、日本国籍を取得し、名前はカタカナで「二コル・シーダブリュ」となった。これからも日本が平和で美しい国であり続けることを願い、そのための「架け橋」でありたいと願っている。

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つたないメモをもとに、かなり日にちを置いてから書き起こしたため、講演会の内容を忠実に再現することはできませんでした。
二コルさんは丁寧にお話をされながらも10分に一度ぐらいは私たちにちょっとした笑いを仕掛けるという、ユーモアを大切にされる方でしたので、私がまとめた妙に堅くなってしまったレポートからお伝えできないのが残念です。そしてまた、2階のガラス越しでお話をうかがっているときには気づかなかったのですが、(子どものトイレに付き合いがてら)ちょっぴり会場に足を踏み入れると、熱風が吹いているように熱く語っておられるのが印象的でした。
黒姫山のニコルさんについては、以前からエッセイなどを通じていくらか存じていましたが、その裏で、ラボとこのように深いご縁で繋がっていたということは驚きで、偶然ではない不思議な力を感じます。ニコルさんをはじめ、ラボ・ライブラリーの製作に携わる方々は、一流な先生方が勢ぞろいですが、肩書きより何よりも、すばらしく熱いエネルギーをもっている、そういう方々が集まってくるラボは不思議なところと思えてきます。(また、そのような世界を子どもに与えられることは贅沢で大変ありがたいことでもあります)
4歳のわが子には『やぁねぇ、おとこのこのイヌって!』って、という台詞をニコルさんが書いたのか?という驚きがあったようです。北極のお話や日本のために森をつくっているのだということは、少し話してやることができましたが、私たちが日頃いかに自然音痴、環境音痴になってしまっているか、切実に考えなければならないと思いました。
質疑の際に「いまの子どもたちは活字からことばを学んでいくことが多くなっているが、ことばは目からではなく、耳から覚えなくてはならない。」「ことばにはリズムと色がなくてはいけない」といったことをおっしゃいましたが、空気の色や風の音、鳥の声・・・、そんな自然を美しいと感じる心を育てることも、きっと大切なのだろうと思わされました。
「国の未来は環境と教育にかかっている」というメッセージにしっかり応えてけるよう、これからも、ラボのみなさんとともに確かな歩みを踏みしめてゆきたいと願いながら、報告を終わらせていただきます。
舟川先生、素敵な司会をありがとうございました。そしてお疲れ様でした。

                                 佐藤たか子
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