幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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2017perseus3
ミッキーの日記
ミッキーの日記 [全141件] 81件~90件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
2011/05/19の日記 05月19日 (木)
すっかりひと月更新をせず、時々ここを訪れて下さっている皆様スミマセン!
なんとか大きい余震もなくひとつき過ごせました。
とはいえ一度震度5が夜中にあったようですが、「ちょっと強いな…」と思って一瞬目を覚ましましたがまた寝てしまいました。モノが倒れない、火事が起きない、ライフラインが止まらない、津波が来ない、原発が大惨事を起こさない、であればもう寝ます、寝られるうちに寝ないと。

連休が明けてからは震災前の時間、曜日で活動を行うことにしました。
これからは、聴くお話をきめて家でもCDを聴くことから再スタートです。

震災後かなり気を張っていたようで、4月中頃からどっと疲れが出ました、それもあり、少し書き込みを休んでいました。でもまた活動のようすを少しずつ書き込みしていきたいと思います。

それから、津波の片付けはどこもまだまだ。砂と海水のついた衣服の洗濯を、毎日少しずつやっています。

原発問題には気が滅入ります。娘たちの小中学校には警戒区域、計画的避難区域から転入してきた子たちがたくさんいます。部活なんかでは、チームプレイをする競技は大変だろうな。今までひとつのチームをつくりあげてやってきたのに、ここにきてメンバーがちりぢり=解散になり、本当に気の毒でならない。先日は全村が避難対象になった飯舘村を車で通りました。本当に美しい村です。外から見たダメージは何もない、まったく村は美しいままなのに、出ていかなきゃならないなんて。牛舎から見えた牛の脚、たぶん淘汰されることになった牛…車を運転しながら、喉元が苦しくなりました。

「国策による被害」

まったくそのとおりです、政府の方々。


これから自分がしなきゃないのは、晩発性障害に注意することと、節電だろうな。そして、“no more 福島”を発信すること。

今日はこのへんで。
ゆっくり再開していこう 4 04月16日 ()
月曜の震度6弱の余震をうけ、市内の小中学校は休校、
そんな中、週末のラボをどうするか悩みに悩んで、
やっぱりやることにした。
でもやるからには安心と安全を考えないと、と思い、
小2以下のラボっ子のおうちの方には活動についてもらうことにした。
3人のママとひとりのおばあちゃまがラボルームに一緒についてくださり
心強かった。
強い地震が来ると、とにかく家族が気になるのだ。


自分が小学生で宮城県沖地震に被災したとき、それは夕方で、私は友達の家から家に帰る途中だった。揺れが収まった後、呆然としていると近くの人が私に「早くうちに帰りなさい!」と叫んだ。「お母さんは大丈夫か?」頭の中はそればかりだった。家に着くと屋内がめちゃくちゃ。でも無事だった母の顔を見てほっとしたのもつかの間、母が「おばあちゃんの家に行きなさい!」と叫んだ。今度は祖母の家に走った。祖母はしゃんしゃんとしていた。母も自分の母親が心配だったのだろう。

今回の地震でも、母は子の元へ、子は母の元へ、一刻も早く駆けつけたい思いで皆いっぱいだった。私も仙台の母と3日連絡が取れず焦燥感が募るばかりだった。 こんな年になってもすぐに母の元に駆けつけられないことがとても苦しかった。けれど、震災から1ヶ月以上経っても未だ連絡を取り合えない親子、家族がたくさんいる。そのことを思えば3日など短い、そして無事を確認できた自分は恵まれている。けれど、その時はとても長く感じた。


話がそれてしまったが、こんな状況の中でも、いわきに戻ってきたラボっ子たちが元気でいる、津波被害を受けてもラボを楽しみにしている子がいる、ということが私を突き動かす。だからやっぱりラボをすることにした。

でもやっぱり私の頭がまだまだ震災モード、なかなか脳がうまくスイッチしない。 震災から1ヶ月が過ぎたんだから、ちゃんとしなきゃなぁ。
余震への気構えを持ちつつラボもちゃんとできるようにしたいんだけど…でも、やっぱりそれは慣れしかないのかな…ってそんなことに慣れたくない~っ!

そんなテューターの葛藤とは別世界に子供たちは相変わらす元気爆裂(笑)、たくさんの慣れ親しんだ仲間と、慣れ親しんだ歌を口ずさめば、自然に笑顔になりました。一緒にいてくれたお母さん方も不安をたくさん抱えているはず。もしもここでおしゃべりすることで、気持ちが明るくなってくだされば、私も嬉しく思います。

まだバタバタだけど、それは今に始まったことじゃないから、今できるペースで、ゆっくり再開していこう。
いわきナンバーお断り!? 7 04月12日 (火)
本震から1ヶ月の昨日、夕方に強い余震があった。
ガス、電気が止まった。

ほどなくして復旧したものの、何となくこの日は早めにお風呂を沸かしておいた。
だから余震が来たときは「やっぱり…」という気持ちだった。
その後、断水してしまった。
やっと水道が復旧したと思ったのに、残念。

あの本震以来、揺れよりも怖いのが津波と原発。
津波は今回は大丈夫でしたが、
原発はきょう、遂に「レベル7」という原発事故レベルとしては
最悪の状態と格上げされてしまった。

主人は海岸地区に勤務先があるので
、今日の余震後、津波を警戒して近くの高台に一時避難した。
そこで話した人の話が、
とある県で車のガソリン入れにスタンドに並んだところ
「いわきナンバーは一番後ろにお願いします」といって
最後尾に並ばされたそうだ。

テレビを見ていたら、いわきのトラック運転手さんの話;
いったん他県にある会社のセンターに乗り入れたら、いわきナンバーのトラックから現地ナンバーのトラックに乗り換えて国の中心部に入るよう本社が義務づけているという。

わたしは以前、風評被害をいう言葉をあまり使いたくないと言いました。今回の事態はだれだって怖い事態だ、危機感が働くのは当然ではないかと思う。

だけど、車のナンバーが「いわき」となる福島の地域が放射能の犠牲になった挙げ句の果てに、こんどは、そのナンバーの人たちは不当な扱いを受けて、福島県民、よくよくバカみるてるよ…

みんながそうじゃないってことはわかってる、心痛を共有してくれる人はいっぱいいるのは分かっているけど…でも、悔しいよ。



だけど一人で悔しいって言ったってしょうがないので、じゃあ私たちいわきナンバー地域のひとはどうしたら、ほかの度道府県民に、ほかの国の人に受け入れてもらえるか? 考えると、まあ時が要るとは思う。

でも時を待ってなんかいられない場合は、自らがスクリーニング(放射線量測定)を受ける。

保健所で、被爆していないこと、または放射線量が除洗の必要がないレベルであれば「スクリーニング証明書」が発行されます。それを持参していって、ほかの都道府県に入り、放射能を心配している人にも、心配していない人にも説明することが必要だろう。説明するためには放射能の知識もいる。

ラボの交流で学んだことは、「自分からアクションを起こす」というスピリットだ。

だから、風評被害されていると嘆くよりも、ちゃんと自分から証明して人と分かり合うことをしていきたい。

だけど、やっぱり、私たちはもっと怒ってもいいのかもしれない。
おかえり! 2 04月09日 ()
金曜日、たくさんのラボっ子たちがパーティに帰ってきました。

市内の小中学校が6日から新学期を迎えたので、みんなそれぞれの避難先からいわきに帰ってきました。

久しぶりのラボは金曜A,B,土曜の合同にしました。
前日は夜中に強い余震があり、当日も午前中に何回かぐらぐら揺れたので、不安もあったけれど、午後のラボの時間にはわんさかやってきたのを見て本当に嬉しくなりました。
おかえり! 志賀パーティのみんな!

活動を始める前に、みんなで「もし、大きい地震がきたらどうするか」ということを考えて、ちょっとした避難準備をしました。
それからはSBや、オーストラリアから送られてきたエッグチョコレートでイースターエッグハントをしました。

まだ通常のパーティ活動を言えることはできていないけど
原発避難圏内ではないにしろ、 原発から比較的近いところにあるいわきに帰ってくる子供たちはいないと思っていたけれど、たくさん戻ってきてみんなの笑顔が見られただけでも幸せです。

自主避難区域に家があるれおん、りいるは、学校からの指示で学区外一時転入を余技なくされました、あなたたちが無事であればそれだけで救われます。水曜グループのみんなもいまは遠くにいるけれど、また笑顔に会える日を楽しみにしています。
Going on 3 04月05日 (火)
先週の金曜日、「いわきにいる子だけでも」と、ラボっ子が集まる日にしました。

開始10:00になっても誰も来ない… やっぱり無謀だったかなぁ、と思っていたら、あいちゃんファミリーがやってきた。数日前に避難先の千葉から帰って来たとのこと。
しばらくしたら、自転車でみなみがやってきた。震災後から身を寄せている親戚宅から1時間かけて来てくれました。 

みんなで地震があったときやその後のこと、共通の知人のこと、家族のこと、色々話して、ラボもして、お昼を食べて、昼寝をして、まだ断水中のみなみはお風呂に入っていった。ちょっと風変わりなデイキャンプみたいで、なんだかほのぼのとした空気だった。こんな時だけど、小さな幸せを感じられました。


テーマ活動、「きょうはみんなでクマがりだ」をやったのですが、

「そらはすっかり放射線!」とか言っている子もいたり…いやはや。

でも、外から子供が消えた、といっても過言ではないくらい、放射能に神経を尖らせているのが今のいわきの現状。

そんな状況のいわきが受けている風評被害に「いてもたってもいられない」と、応援物資も沢山届いています。
学生時代の友人からコーヒーやお茶類。
以前受け入れをしたオーストラリアの子から、食料や生活用品。
会津の後期テュータースクール仲間たちから水や調味料、マスクなど。
山形地区のテューターの方々から、疲れたときに嬉しい菓子類、食料。

本当に、本当に、ありがたいものばかりです。

津波の片付けは長期戦です。お弁当に使えるものや、家に帰ってからのお茶やおやつ、みなさんの気持ちがこもったこういうものがあると本当に救われます。ありがとうございます。

パーティにも、津波で被害を受けた家もります。
先日、そのうちの一件を訪ねたら、ラボっ子きょうだいも頑張って瓦礫や家の中の片付けをしていました。

津波に加えて原発とダブルパンチを受けている福島県ですが、
目の前にある砂や泥や瓦礫と格闘していると、
いわきの空にある数値の低い放射能なんて、
「こわくなんかあるものか!」
という気になってしまいます。
避難日記 その2 3 03月29日 (火)
津波の話で日にちが前後しましたが、3/19~25は、避難でいわきを出ていました。前にも書いたように行き先は仙台の実家。 

ここでおもに出てくる地域は、私の実家近辺:仙台市中心部、若林区、太白区、宮城野区の比較的被害が小さかった所です。同じ区内でも沿岸部、津波で被害を受けた地域はまったく違うことを先に述べておきます。

震災から1週間経った仙台中心部は、いわきのそれに比べたら、もう復興の兆しが見えていた。飲食店が開いているのだ。限定メニューではあるけれど、もうランチをやっている。ガソリン不足のあおりもあるけれど、自転車が勢いよく走っている。何というか、もう上昇するエネルギーが漂っているのだ。

宮城県沖地震から32年、仙台市街はやっぱり復興に強いのか。

なかなか買い物に行けない実家や、ちかくの伯母の食糧も大分少なくなっていた。
滞在中の私の役割は物資調達。
連日スーパーに1時間並ぶあいだに、自然と隣に並ぶひととお互いに震災のことを話した。
そのなかから印象的なエピソードをみっつ。

◎中国人の主婦との会話。マンションの19階に住む彼女は停電、断水のとき、1階から19階まで階段を上り下りして水を運んだという。
この大きな地震にも大騒ぎせず静かな日本人に驚いたという。
買い物の列にも、ケンカもせず落ち着いて並んでいられる日本人はすばらしいと褒め称えていた。ちょっと照れる。

◎2歳のお子さん連れの若いママ。津波目と鼻の先まで来た地域にお住まいで、数日避難所で過ごしたという2歳のお子さんが地震の日以来ママから離れられなくなってしまった、恐怖を抱えているようだ。避難所生活でお子さんが肺炎になりかかったがなんとか大丈夫だったという。

◎初老の女性。地震の日ご主人が相馬に出張、車で逃げているところに津波が来て車がコントロールを失い止まらない、運良く?電柱にぶつかり止まったときウインドーを空け脱出し、泳いで何とか足のつく所に行き、あてどなく何時間も歩いたところを救助の人に助かり病院へ移送、低体温症で33℃になり、ご自宅に電話したあと意識不明に。しかし数時間後に意識を取り戻し、無事戻ったという。

みんな色々あっても、そこに並んでいられるだけ幸せだったと思う。

仙台のラボ事務局にも顔を出してみた。

橋本局長、鐘ヶ江さんが電話での対応に追われていた。ふたりとも少し疲れていたけれど、元気そうだった。永田さんも大変だという。
事務的には休止中の北日本支局だけど、明日にでも再開という勢いで頑張っていた。皆さん、とにかく無事でよかった。

ラボセンター近くの、焼魚定食がおいしい店の窓に、

「くじけないぞ 仙台・東北」

と書いた紙が貼ってあった。

そうだ、東北人にはこういう芯があるんだ。
力をもらったことばだった。

25日に私だけ一足先にいわきに戻ってきた。
28日には娘2人も戻ってきた。昨年「ひとりだちへの旅」を経験した長女がいれば大丈夫、と、迎えはしなかった。国際交流に出してよかったと思うことは、親も子も、こういう時に肝が据わる。

地震、津波に加え、原発問題という未曾有の試練があるこの地域だけれども、とにかくここで頑張るんだ。

いわきもくじけない。 
津波のあとで 3 03月27日 ()
今日は津波のあと片付けをした。 

主人の実家のある、いわき市の豊間(とよま)は、津波で壊滅的な被害を受けた。
実家で暮らしている義父母は近くの山に避難して無事だった。
家屋こそは流されなかったけれど、波の力でガラスは打ち破られ、
家の中は入り込んだ海水に物が動かされ、泥や砂が大量に入り込んだ。

地震の3日後に行った時には道路が流れてきた家で塞がれていが、今日見ると、それらは片付けられており、道路脇に処分された家財道具や材木が積み上がっていた。 人影まばらな中、たくさんの自衛隊員の方々が仕事をしていた。原発で緊張感が高まる日々でも、自衛隊員の方々はずっと作業をしてくれていたんだ、と思うと、感謝の気持ちがこみ上がってきた。

原発のことがあったので、片付けに来たのはその日以来だった。
今日は、主人とその両親、姉夫婦、千葉から来た兄、それと私で、ひたすら波で濡れてもうだめなものを処分した。家は残っている。だから片付けて、どうするかはそれから考える。

お昼のおにぎりを食べたあと、近所を歩いた。その光景は…まちが丸裸になってしまった、という感じだ。

たくさんの家が無くなった。
海岸への道を歩かなくても、家がなくなったから斜めに突っ切って海岸に行ける。 長女が少しの間通っていた保育所は、なんと、体育館の壁がなくなっていた。
園児達はみんな無事だったか? きっと保護者がすぐ迎えに来て避難して無事だ、と自分に言い聞かせている。

通園で通る道に、かまぼこ工場があった。
そのかまぼこ工場が、そこにあったはずのかまぼこ工場が、
あったのが…なかったんだ、、、たぬき4話のあの台詞、実感。


ほかに目にしたものは、1階一部屋がえぐり取られたように破壊した家、
横転した家、土台だけになり全壊した家、木にぶら下がっているプロパンガス、田んぼに家の屋根だけが見える。

実家にも、どこの家の誰のものなのか、色々なものが流れてきた。
誰かの結婚式の写真、ふとんとベッドのマット、どこかの家の外壁のかけら、瓦、長靴、ホースを巻くやつ、あけていないジュースやビール、箪笥など。

実は、衝撃的なものもあった。数日前のことで、私が見つけたのではなく、主人が見た…近所の方の亡きがらだった。

これが現実か、これが津波の脅威か、むごすぎる。

丸裸になったまちを見たあと、主人の実家に戻ってきた。
ここには家屋がちゃんとある。
「ここがまともに見える。…まともじゃないのにね」
と私が言うと、義母も
「まともじゃないのにね」
と言った。

まともじゃないけど、家族みんなで片付けた家の中は、大分すっきりした。主人の両親には、しばらく我が家にいてもらうことにしている。兄も我が家に滞在して実家の片付けをする。断水中の姉家族もうちに洗濯や風呂に来る。明日は仙台から娘たちも帰ってくる。

みんな元気でいる。それだけで有難い。

津波のあと片付けは、まだまだしばらくかかりそうだ。
避難日記 その1 03月25日 (金)
震災数日後、津波を被った主人の実家で「何から手をつければいいのだろう」と立ちつくした日と同じく、今、何から書けばいいかわからない。頭がいっぱいいっぱいです。

でも、まずはお礼から。掲示板にたくさんのメッセージを、ありがとうございました!たくさんの励ましの言葉、本当に嬉しいです。やっぱりことばって人を元気にするんですね。改めて実感しています。 

さて、大変ご無沙汰しておりました、19日~昨日まで仙台に避難していました。「仙台に避難!?」となぜ被災地に行くかと思われると思います。たしかに仙台も被災地でした。用事で通った道が、海砂でざらついていた。いわきの沿岸部と同じだ。そこが津波の被害をうけた場所であることがすぐに判った。仙台港に近い七北田川の河川敷には、流されて来た自動車、ひっくりがえったボート、台風の増水のときよりも強力な水圧があったことがわかる様子でした。

けれども、その日のその川の流れはごく自然で、まるで津波なんかなかったかのように何食わぬ顔で流れているのです。数日前は、人の命さえ奪ったというのに。

話戻って、なぜ仙台かというと、私の故郷ということもあり、地震が起きた日からずっと両親と実家が気になっていたこともあります。幸い大きな被害がなかったので行けることになったのがひとつ。

もうひとつは、福島第一原発の万が一を考えました。

発電所から我が家までは43㎞、屋内待避の圏外でもあるし、
放射線量も低いことから私は避難を考えていませんでした。
ただでさえ風評被害(あんまり使いたくない言葉だけど…)を受けているの土地なのに自分もここを出て、「やっぱりいわきは危ない」と思われるのもいやだった。けれど、主人がリスクの分散を、と考えて、親戚や私の父に相談して、主人の父母と娘2人そして私の避難先を確保していた。

自分なりの考えがあったから避難はしたくなかったけれど、そこまで考えてくれているのならと思い、そして子供たちのことを考えて、義父母を送り出し、ラボっ子たちの無事を確認して、私たちも出ることにした。
移動は車でガソリンが許す限り行って、車はどこかに置いて、そこからは父に迎えに来てもらうようにと言われたが、それだけは拒んだ。車だけは主人に残していきたかった。北東北が主な仕事場の父だって近々仕事が始まる、ガソリンを使わせたくなかった。

幸い19日には長距離バスが出ることがわかったのでそれを利用することにした。朝一番のバス、福島空港行きはさほどの混雑はなかったけれど、東京行きのバスには物凄い長蛇の列ができていた。

いつもは一本で行ける いわき-仙台を、この日はその便はなかった。福島空港・郡山・福島でバスを乗り換えて仙台に行った。中継地はどこも避難をする人でごったがえし。バスを待つ列では、そばにいる老夫婦や若い女の子と会話をした。それぞれの震災のときのことを話し合う。親戚も大変な目に遭っている。自分自身も大変な目にあっている。だけどどうにもならない運命、受け止めて、とにかく今は行くところに行く、そんな感じだ。
ちょっとの間の、縦長交流。こんなときの交流は、身を寄せ合い体を温め合うように、お互いを思いやり心を温め合う。


さて、省エネもあるので今日はここまで。
今日も、いわきは晴れです 8 03月18日 (金)
間違って、いっぱい書いたのに消しちゃった…。でも、とにかく、私は元気です。

パーティのみんな、多くが遠方へ避難しています。
ラボのママたちにメールや電話でいっぱい元気もらって、こんなときだけど、地震、津波の被害、原発のあおりを受けた被災地にいるけど、元気です。

いわきは、平、内郷、錦など一部水道直りました。
うちはまだダメです。

ここしばらく放射線量はかなり低めです。
アリオスで40歳未満に配布しているヨウ素もらいに行ったけどなくなってました。

市立小中学校は23日まで休み。その日、修了式も小学校の卒業式できなくなりました。


閉店してるスタンド前、車が大行列。タンク車はくるのかどうかわからないけれど。
津波で流された我が家の車からもガソリンとカメラを盗まれてた。

今日もいわきは快晴、空は青く、まちは静か。
放射線量も少ない。
放射能という、見えない恐怖にかられている。
情報が交錯する、真実はどこにあるのだろう?

結局私たち市井に住まう民は惑いつつも、自分を信じて動くことしかできない。
「生きるために、それぞれの持ち場で皆がんばる」
それがみんなが今できること。

掲示板へ、パーティのみなさんやテューター、ラボを愛する皆さんからの「元気だよ」「がんばって!」の応援の書き込み、待ってます。
福島県・いわき市志賀P、ラボっ子皆無事です 12 03月15日 (火)
パーティのラボ家庭全てと連絡が取れました。
3/14(月)の段階で、ラボっ子とその家族みな無事と確認できました。

今週はラボができる状態ではありません、休止にします。
その後のことはこれから連絡します。

それから、パーティのみんなにメッセージです。

ゆいちゃん、ママのおなかの赤ちゃん守ってね、ママが「ラボのみんな無事?」って心配してくれてましたが大丈夫だよ。まおちゃん、0歳のかいちくんとママをたいせつに、がんばろう!はるかちゃん、津波の影響を受けて家に被害を受けたと聞き本当に心が痛いよ、たけど無事でよかった。あきやくん、パパが必死に水戸から歩いて帰って来たんだよね、あきやくんの笑顔を思い浮かべきっと頑張ったはず、ママを守ってね。たきくん、そうくん、パパが復旧作業で毎日がんばっていると思うと感謝でいっぱいです、落ち着くまでおばあちゃんのうちで元気でいてね。あいちゃん、たいきくん、市役所で働くパパはきっと毎日必死で市民のために働いているはず、笑顔でパパ・ママを和ませてね、はるくんを守ってね。あゆかちゃん、あすかちゃん、いわきにひっこしてきて半年でこんな被害にあってびっくりしたでしょう、でもこんな状況こそあなたたち姉妹の持ち前の明るさが両親を励ますはず。そうくん、かいくん、ぬいちゃん、はまのおじいちゃんたちは大丈夫ですか?テューターのこと、ママが色々心配してくれて、ありがたいです。ゆうあちゃん、かのんくん、地震の日ママが津波の影響を受けて、心細かったでしょう、でもみんな無事で本当によかった、みらちゃんを守ってね。りいるちゃん、れおんくん、いちばん離れているから余計に心配だよ、四倉のおばあちゃまは大丈夫?きっとははが連絡とりあって安全を守ってくれてるよね。ひなたちゃん、はぐむくんもひーちゃんも大丈夫ってママに聞いて本当に安心しました、本当によかった。あやかちゃん、一緒にスプリングキャンプに行くの、すごく楽しみにしてたけど…岩手のおかあさんの実家は大丈夫ですか?家族で協力して無事に過ごしてね。なつみちゃん、あかりちゃん、地震の次の日うちに来てくれて、2人の顔を見ることが出来て本当に本当に嬉しかった、何よりの励みになったよ。お母さんとみなみちゃん家族の心当たりや水の情報交換することができて、とても心強かったよ。
みなみちゃん、ゆうへいくん…「薄磯は津波で全滅」と聞いて目の前が真っ白になりました。ラボのみんなも心配していました。やっと届いたママからのメールで家族無事の知らせを受けましがた気がかりで3件の避難所を回ったけど会えず不安でしたが、昨日、本当に偶然、ママに会うことが出来て、2人で抱き合って泣きました。そして、奇跡的に家屋が流されなかったと聞いて、本当に驚きました。
みなみからもらった「いつ復旧するかわからないけど、笑顔で会おう、ぜったいに」というメールを心に刻んで、頑張るね。

わたしたちの地域は今は避難場所や自宅で缶詰ですが、めげないで、精一杯生きましょう。


被害を受けた地域のラボっ子、ご家族、テューター、事務局のみなさん、一緒に頑張りましょう!

福島県いわき市 志賀美貴子
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