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実物を前にしながら、予期したほどの感動がない・・・《本物を見る目・聞く耳》とは・・・ |
09月15日 (金) |
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何日か前の日記に書きましたが、ルーブル美術館で「モナ・リザ」を見たときの私の印象と同じ事が「二時間のモナ・リザ」西岡文彦著に書かれていました。あの時の気持ち「懐かしいなあ」は何だったのだろうととても気になったいたので、図書館でこの本を目にした時、まず第4章自分の眼で見る~「モナ・リザ」の「よさ」が、わからない理由~に目が行きました。
・・・一流の名画といわれる作品は、教科書、画集から新聞雑誌、カレンダーなどなどの印刷物を通して私たちの眼に触れ続け、そのイメージを私たちの脳裏に焼き付けてしまっている。名画の、名画としての真価を理解できる以前から、「いいもの」として見せられ過ぎた結果、画面は歴史の年号や古典の一節のように「暗記」させられてしまっているのである。・・・
・・・美術館で名だたる名画を前に、さしたる感動がないということは、決して珍しくない。往々にして、この種の無感動は、見る者の自尊心を傷つける。当人の絵を見る眼のなさを証明しているように思えるからである。が、この解釈は基本的に誤っている。むしろ名画に関しては、感動の無い事の方が、当人の鑑識眼の高さを立証しているのである。・・・
・・・人間の美意識や審美眼の成長は、一種の不可逆反応である。いったん変化してしまうと、もとの状態へは戻れない。一度いいものを見てしまった目や、一度いいものの音を聴いてしまった耳は、二度とそれより劣ったものに惑わされる事はない。・・・
・・・聴覚にせよ、味覚にせよ、触覚にせよ、感覚と言うものは、徐々に「肥える」のではない。いいものに触れた時に、一瞬にして高度化してしまい、以降、それより劣ったものを、頑として受け付けなくなってしまうのである。・・・
・・・幸か不幸か、私達は「モナ・リザ」という最高の名画を、見慣れ、見飽きることによって、知らず知らずのうちに、恐ろしく高い鑑識眼を身につけてしまっている。・・・無自覚のうちに良質のものに触れすぎて、その「よさ」がほとんどわからなくなっているのである。完成された表現であるほど、おだやかで自然な印象しかないのは、絵画も同じである。無類の完成度を誇る「モナ・リザ」にしても、画面の印象は自然そのものである。加えて、印刷物による「暗記」は実物との対面を、初対面の時から「再会」と錯覚させる。画面を前にした感慨は、ひたすら懐かしいものでしかない。・・・・
以上本文から引用させていただきました。実際、「モナ・リザ」の前はロープで仕切られていて黒山の人だかり、私は杖をついているお陰で一般の方々より前に出してもらって見る事が出来たのですが、それはそれで、とても気を使う場所でじっくりまじまじと鑑賞する余裕はありませんでしたね。
しかし、この西岡氏の仰るとおり、《高度化した感覚は、以降、それより劣ったものを、頑として受け付けなくなってしまう》と言うのは実際良くわかります。ラボがライブラリーの製作にこだわっているのはこのことですよね。
・・・知らず知らずのうちに高度化してしまった、自分の絵を見る眼の、要求の高さの自覚を得るのに、何より効果的な方法が「類似品」の鑑賞である・・・(本文より)
ラボッ子たちは高度に完成されたライブラリーを最初から与えられているので自覚がないかもしれません(~~;)。時には類似品(?)を見聞きするのも必要かも???特にテューターは(^^)
~~~子供の頃から「お絵かき」が一番苦手だった私ですが、この本を読んで、今度はイタリア、フィレンツェのウフィツィ美術館に行かなくては!と次の旅へと夢は膨らむのでした~~~(~~;)
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