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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全292件] 131件~140件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
春は静かに通りすぎていく でもやっぱり物語だぜ 04月22日 (金)
ついじ
 春は今年も、だまって通り過ぎていくようだ。
春は再生の季節である。
こもれ陽に目覚める野性のように、
ゆっくりと、そして生き生きとうごきだし、
新しい命が輝くときだ。
『アリとキリギリス』のラストのように、
営みの力があふれるのが春である。
しかし、春は、そのいっぽうで
傷つき疲れた人、なにかを心配している人がいることを知っていて
特別に声をかけることもせず
静かに、だまって通り過ぎていくのだ。
 写真はタイトルとは無関係な築地松(ついじまつ)。
出雲地方の農家の主に西側と北側に植えられ、
一定の高さに美しく剪定された黒松の屋敷林を「築地松」と呼ぶ。
もともとは江戸時代に、揖斐川の洪水時に浸水のディフェンスとして
屋敷を数メートル高くつくり、屋敷まわりに土居(築地)を築き、
その土居を固めるために水に強い樹木や竹を植えたのが、
築地松のはじまりらしい。
 その後、防水よりも防風が主な役割となり、
維新後には地主層だけのステイタスから、
一般の農家にもつくられるようになった。
築地松の作成、手入れ、メンテナンスには人手と費用が
とんでもなくかかるのはいうまでもない、
だから、築地松の姿で家の格式がわかり、
縁談がもちあがったり、ぎゃくにこなかったり…、
ということもあったそうだ。
※「あんな立派な松の屋敷に嫁にいたらたいへん」なんて

 写真ではよくわからないが、瓦も石見瓦で、
金沢のように釉薬がぬられたごとなものだ。
また鬼瓦にはオオクニヌシが描かれている。さすが。
 しかし、現在ではサッシの発達で防風の意味はほとんどなく、
また松食い虫の被害がすさまじい。
昔は松の落ち葉が燃料になるというメリットもあったが、
それも今はない。
いやはや、歴史的景観をたもつのはたいへんである。
それでも、町や住民の方がたは、なんとか維持しようと
努力されているそうだ。
 それは、自分たちの住居が、長い歴史のなかで
かたちづくられてきた、出雲の季節や風景の一部であるという
凛とした自覚によるものだと思う。えらい。

 今日、母親の家で夕食をつくり、帰ろうとしたら、
「ぷうー」という脱力的音色をひびかせて
「豆腐~」という売り声を発している豆腐屋の青年にあった。
 かつては東京にも、金魚屋、石焼き芋など、
音で表現される季節があった。
 五月になれば、頭上には高層ビルではなく
鯉のぼりがひるがえった。
 消え去ったものはもどらない。
無理にもどしても、それは風にゆれるリボンのごとく
さみしいだけだ。
しかし、どこの町でも村でも、日本のみならず世界でも、
人や人の暮らしや営みがつくりだす季節感、風物詩が
今もたくさん生きている。
それは、幾多の災害、戦争、困窮などの災いをのりこえて
人びとが守り抜いてきたものだ。

 今、松島の景観をのこすか、津波被害の危険を避けて
高台に家を建てるかという難しい選択が提示されつつある。
景観保護の法律や条例があるために、
高いところにはかんたんに家を築くことはできないからだ。
 しかし、命があれば、人は解決作を見つけることができる。
命がけで守るためには命が必要なのだ。
そのためには迅速な法改正が必要だろう。
 
 出雲にいく直前の10日、日本教育会館で行なわれたフォーラムで、
ひさしぶりにテーマ活動を拝見した。
 昨年の日比谷公会堂での「国際交流のつどい」以来である。
よもつ
写真上は熊井パーティの『国生み』から。
生まれたばかりのイザナギとイザナミ。
下はヨモツヒラサカで対峙する二人。
うまれた
 とにかく、テーマ活動を見るとほっとする。
この時代、この状況(世界の日本の)で、こうした
きわめて知的で全人的で根源的な表現活動を教育プログラムとして
行なっているとことの意味を再認識できる。
また、逆に「テーマ活動を仲間とともにできる幸せ」も
いやでも自覚する。
 そして、恐ろしいほど『国生み』という物語のテーマ性は
この春の状況にオーバーラップしていた。
 発表そのものについては、日記にさらさらとかけるものではない。
しかし、その後のリポートも含めて、
いろいろと考えることができたはたしかだ。
 ともかく、この発表にむけて
さまざまな意味でハード(だったにちがいない)な道を走りぬけた
熊井パーティの諸君には喝采を。

 前述したように1年ぶりのテーマ活動だったが、
あらためて、ラボの仕事、しかもライブラリーづくりに
関わることができて、ほんとうに幸せだったし、
ありがたいことだったと思うことができた。
 制作の責任者をしていて、「もう、死んでしまいたい」
と思うことは何度もあった。
 しかし、やめたいと思うことは一度もなかった。
目を輝かせてテーマ活動する子どもたち、
一流の芸術家や冒険家とかわらないまなざしで
吹き込み選考会に来る子どもたち、
そして全力で作品づくりに
協力してくれる専門家の方がた。
 これらの人びとの期待や思いを裏切ることはできないもんなあ。

 さても、『国生み』で、よく子どもたちからきかれるのは、
ヒル子のその後である。
 ラボっ子は基本的にやさしいので,気になるのだろう。
 始祖となった神、とくに男女の二柱が、
最初の子を生むことに失敗する神話は
世界のあちこちにある。
日本だけではないのね。
※ヒルコは「古事記」にも「日本書紀」にもでてくるが、
「日本書紀」では最初に生まれた子ではない。

 さて、ヒルコが葦の舟で流されて漂着したという伝説は
日本の各地にある。
また、海から流れ着いたものを、
「えびす」として信仰する海辺の地域も多い、
そこからヒルコをえびす(恵比寿・戎)と
同一視するようになったようだ。
そこには、ヒルコへの哀れみの感情もあったろう。

 ヒルコを祭神とする西宮神社のように
蛭子とかいて、えびすと読ませる例もある。
※漫画家にもおりますな。

 こうした混同は、「古今集」注解や、
芸能などを通じて一般に広まったといわれるる。
ご存じのように、えびすは、狩猟神、農業神であり、
七福神のなかでonly Japaneseだ。
(他はインドか中国Original)。
また、海辺ではクジラなどの漂着物を「えびす」とよんで
寄神信仰の対象ともなっていた。
そして、「えみし」ともいわれるように、
外国人への畏怖の表現でもあった。
「えびす」は多様な神格・性格をもっている。
 さらにさらに、ややこみしいのは大国主の子である
事代主(コトシロヌシ)も
えびす、といわれることがある。
 と、ここまで書いて、ヒルコではなく、
えびすの話なってしまったのに気づいた。
これではこたえにならないなあ。
 これでは中身が「がらんどう」だ!
中年感傷旅団出雲編(やっと完了) オオクニヌシ・阿国・そして水都へ 04月14日 (木)
サンセット
 写真は宍道湖の夕陽。撮影は4月13日午後18時30分。
この日はその9分後に太陽は水平線にきえた。
手前味噌で恐縮だが『十五少年』のラストシーンでブリアンたちが
だまってながめていた「金色に輝くたそがれの海」のイメージ。ふふふ。
 はじめに書いておくが、長ながと2日かけた割には、
今回は、常にも増してくだらぬ内容の日記なので、
まじめに読んで「なんじゃこりゃ」と怒らぬように。
写真だけながめておしまいでもいいかも。

 さても、先月の金沢につづいて、4月は出雲、松江への旅である。
おまえは、おいしい所へばかりいってるなといわれそゔ。
でも、今は一応フリーなので仕事は選ぶのだよ。
例によっておとなの事情で、くわしい仕事の中身は書かないが
(別にあぶないことじゃないよ!)
出雲・松江は約20年ぶりの訪問だ。
 前回は新版『耳なし芳一』制作時の取材。
出雲大社で撮影し、夕刻には松江で小泉凡先生(現・島根県立大学教授・
小泉八雲記念館顧問)と会見した。
大橋のたもとの猟師居酒屋で宍道湖の幸をいただきながら
ハーンやアイルランド文学、ケルトの話に時を忘れたのがなつかしい。
翌日は、小泉八雲記念館や旧宅で凡先生のお話を
ラボっ子とともにうかがった。

小泉凡先生はハーンのひ孫にあたる。
お父上は小泉時(とき)氏。
ハーンは、孫にあたる時氏のことをTimeさんと呼んでいたそうだ。

観光協会も協力してくださり、
「ことばの宇宙」で「神がみの国の首都」
というハーンの作品からとったタイトルの松江特集をくんだ。
あわせて「夕陽のへるん」というハーンの伝記も書いた。

 ここで突然話は跳ぶが、「伝記」「人物物語」は
学校図書館でも児童館でも、
子どもたちにかなり人気のあるジャンルだ。
ヒューマン・ストーリィは鉄板!
人物の浮沈以上にどきどきするサスペンスはないし、
失敗談よりおもしろいヒューモアもあまりない。
そして成功談よりスカッとする物語もそう多くない。
要するに、その人物とともに泣いたり笑ったりする
カタルシス(浄化)でスッキリというわけだ。
 さらに伝記は、ほとんどが幼いころのエピソードからはじまるから、
自分と等身大のときがあるわけで、
感情移入しやすいことこのうえなし。

 そう考えると、もっとラボ・ライブラリーに、
伝記物があってもいい気がするのだが、
実在の人物をあつかったライブラリーは『ジョン万次郎物語』
『平知盛』『ジュリアス・シーザー』くらいか。
※『シーザー』は確かに実在だが、もうシェイクスビアという
とんでもない怪物の文学作品として存在してしている別物で
ある意味、ノンフィクションではなく壮大なフィクションである。

 では、なぜライブラリーに伝記物が少ないか。
いちばんの理由は、人物伝には、常にその本人に関する
歴史的評価がつきまとうからである。
 とくに新しい人間ほど難しい。
偉大だといわれた人が、その実像は! というのはあるある大辞典。
ベイブ・ルースにしろ、JFKにしろ、その真の評価となると二転三転。
日本人だってそうだ。
たとえば石川啄木は、とんでもない借金王だった。
彼は写真や肖像画がきらいだったので、のこっている画像は少ない。
ほとんどがみなさんの知っている、
少しかげのあるいかにも抒情的な歌人らしいあの顔。
おかげで、そんなイメージが定着してしまったが、
借金をし、さらに踏み倒す技は天才的であった。
もちろん、啄木の歌はぼくも大好きであり、
そうした破滅的な私生活が作品の質を落とすものではない。
近代五輪の創始者であるクーペルタンは、
「健全な魂は健全な肉体に宿る」
といったが、これは「宿ってほしいと願うべきだ」が原文。
現実は、けっこう逆だったりするのを、かの男爵はわかってたのね。
ピカソだって、とんでもない男だもんなあ。

 ともあれ、いろいろな研究が進むほど、
歴史上の人物の実態がどんどんクリアになってきて、
歴史の教科書もだいぶ変わってきている。
とくに画像や名称は、この20年くらいで相当変化した。
聖徳太子は厩戸皇子、伝足利尊氏の画像はただの武者像になってしまった。

さらにいえば、どんな人物でも多重な面があるために、
一個の人格として物語にするのはけっこうたいへん。
また、前述したようにその歴史評価が定着するには何世紀もかかる。
そして、その背景にある物語には、ライブラリーとして成り立つ
すごいストーリィが必要となる。
このことについて、ちょっと小難しいことをいうと、
実在人物の成長や業績は、それ自体が透明であり崇高だということがある。
ある意味、登山に似ているかも知れない。

かつて三島由紀夫は北杜夫の『白きたおやかな峰』
※ヒマラヤの未踏峰ディラン登山隊の挑戦と敗退を
登山隊医師の目から描いた作品。

の批評として「アプローチ」というタイトルで
いわゆる山岳小説は、登山という透明かつ崇高かつ荒々しい行為と
同じだけの文学的感動を物語と文体でつくりださねばならない
という意味のことを書いている。

 人物伝も、その人物の業績と歩みと同じ高みの
「ことばによる感動」をつくりださねばならないのだと思う。

そうなると、新刊の『ジョン万次郎物語』について、
なんて、いきおいで書くわけがない。
まだ、10回くらいしか聴いていないので、そんなにかんたんに
評価や感想めいたことは書かないし、いわない。
もっとラボっ子たちが育ててからである。

 さて、やっと話はもどって、ハーンも
アメリカやヨーロッパでの評価がいろいろ変化した人だ。
存命時は人気作家であったわけだが、近年という20世紀後半に
ドナルド・キーン氏などの日本研究家から
「ハーンはオカルト・ジャパン」のイメージを強調しすぎたという
批評をうけた。
 でも、ハーンはプロの作家である。
ノンフィクション・ライターではない。
彼の文のすばらしいところは、対象に強力なスポットライトをあてることだ。
すると、その対象は鮮やかにうかびあがる。
そして同時に濃い影もつくりだす。
彼は、その影もあわせて描くことで、対象をよりくっきりと
描破しようとした。それがプロの文テクである。
でも、20年前くらいにハーンは再評価され、
それ以来、安定した位置で読まれ、研究されている。
 ラボでも『耳なし芳一』があるが、
文は思ったより平明であり(あたりまえだ大衆小説家だからね)
さらに格調高く、詩的でリズムもいい。
ぜひお手本にしてほしい英文例がいっぱい。
 
 かように人物伝をライブラリーにするのは大技なのだが、
ぼくもヘレン・ケラーの物語「奇跡の人」を、
ライブラリーにしたいと、あたためて構想をねったことがある。
かなり昔に、ちょろっと委員会で話たが、
そのときはほとんど黙殺(いいすぎ)、無反応でへこんだ。
これは、今だからカミングアウトする話。

 それでも人物伝がやりたくて「ことばの宇宙」に
「ワード・プロフェッショナル烈伝」というコーナーをつくり
「ことばに生きた人びと」の物語をとりあげ、
なかなか学校教育では教えないが、魅力がある人びとを紹介した。
第1回は麗江(リージャン=街全体が世界遺産)のドンバ文字を
世界に伝えたジョセフ・ロックだった。
それから、ヒエログリフ解読のシャンポリオン、
アイヌ語の知里兄妹、哲学者のウィトゲンシュタイン、
数学者のエヴァリスト・ガロア、キング牧師、
もちろんヘレン・ケラーもいれた。
 ウィトゲンシュタインなんて哲学の専門課程でしか出会わない。
でも、その歩みと人物、ことばと知への情熱は
小学生でも感動できる。
佐藤学先生のいわれるように、
質の高さがたいせつだぜ!

 ところで、人物も近年になるほど歴史的評価が変化しやすいが、
じつは文学も同様である。
 近代文学は、けっこう評価が変わりやすいし、
へたすると作者が後て手を入れたりしている。
賢治も自分の作品に、自費出版とはいえ、出てから朱筆校正しいているし
「銀河鉄道」もさまざまなバージョンがある。
井伏鱒二も『山椒魚』を晩年に直している。
 そこへいくと、古典や伝承は安定しているのね。

そして、ようやっと今回の旅だが、
奇しくも20年前と同様に
出雲大社周辺と松江市内を訪ねることになった。
ただし、こんどは取材の角度がちょっとちがうのと、
前回は足をむけなかったところにもいけるというので、
「はいはい、どこでもいきまっせ」と安易にひきうけた。
1泊2日でやや強行軍。
個人的には、もう1日とって、東出雲でヨミの国の入り口といわれる
黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)※伊賦夜坂ともいう
なども訪ね、さらにあわよくば
藻谷浩介氏(ラボOB・池上嘉彦氏に私よりよく解説するといわせた)
も着目している岩見銀山まで足をのばしたいと思ったが、
そこは先様の「こ予算」などがあるので断念。
しかし、先日の教育フォーラムで『国生み』を見たところなので
気分は「八十神モード」である。
※今回の仕事は、あまり「記紀」とは関係ないのだが…。

 というわけで、若い声がカモメのようにとびかうこともなく、
11時のJALで、おじさんは監視役のマネージャーとともに
「出雲縁結び空港」にむかった。
※最近は空港に愛称というか二つ名みたいの「つけ足し」がなされているが
どうにも違和感がある。出雲空港はJALのみだが、米子空港しANAのみ、
そして「米子鬼太郎空港」(ほんとにそう呼ばれている)だ。

 ところで、この日記では読み手をナメているというか
すぐ裏切るというか、話が急にもどったり飛んだり、
かならずしも時系列順に記述されることがあまりない、
というより、ほとんどない。
まあ、それも作文の技法ではあるが、スリリングすぎたりもするので
たまには時間経過に通り書いてみる。
えき
 出雲空港に着いたのは12時30分。
まずは出雲大社をめざすが、その手前で旧JR大社駅に立ち寄った。
ここはJR西日本の大社線(出雲市駅と大社駅を結ぶ7.5キロ)の駅だったが
1990年4月に同線が廃線となり、廃駅となった。
1912年に開業し、かつては東京から急行が直接乗り入れていたこともあった。
駅舎は出雲大社を模しており、ホームや事務室なども保存されている。
なんと、2004年には国の重要文化財に指定された。
※たしかに瓦(石見瓦)などはみごとだ。
むじんえき
 写真はホームのなかほどからの撮影だが、とっても長いのにおどろく。
東京からの急行「出雲」の乗り入れは1961年で終わったが、
その後も80年代まで「だいせん」などの急行や団体臨時列車
(サマーキャンプの臨時団体「ラボ号」、おぼえてる人いるかなあ)
が来ていたためである。
人気のないホームには春のひざしがSUN SUN。
おだやかでさみしい昼さがりだ。
出雲大社はここから徒歩15分。
現在では、10分ほどのにのところに一畑電鉄出雲大社前駅がある。
とりい
さても、いよいよ出雲大社へ。
オオクニヌシに会いにいこう。元気かな。
くだりさん
写真は大社の「下り参道」。ふつうの参道は神殿の高みにむかう
というイメージから昇り坂だが、
ここは下り坂である。
その理由は諸説あるようだがわからない。
「へりくだる」という人もいれば、
あまりらも強力な神であるオオクニヌシを
どこかで封じようとした逆の力のあらわれという
ややうがったて見方もある。
ぼくは、ちゃんと研究したわけでもないので、
フーン、らくでいいやと安易にくだった。
いずもこうこう
すると、参道わきの桜の広場で、くったくなく遊ぶ青少年たちを発見。
きけば、地元の出雲高校の新入生諸君であった。
いわゆるオリエンテイション遠足だという。
なんかとってもほっとする光景であった。
しろうさぎ
20年ぶりのオオクニヌシ。シロウサギくんも元気そうだ。
オオクニヌシは、多重な姿や名前や役割をもっているが、
これはその神格の高さをあらわしているといえる。
なんてたって、イザナギ、スサノオとつづく主流派直系だもん。
かりどの
 現在、オオクニヌシのhomeは大遷宮でリニューアルちゅう。
2014年までかかる。
鹿島建設ががんばってるが、その途中で昔の神殿のでっかい
柱の根本が見つかった。とんでもない太さ。
まさに大黒柱だ。
しかし、もともとは大黒天とオオクニヌシは別物である。
大黒のオリジナルはヒンドゥーのシヴァ神の化身であるマハーカーラ。
それが密教、仏教でもそれぞれ神となり、
仏教の大黒とオオクニヌシが神仏習合していく。
七福神の宝船(インド・中国・日本の国際交流船だ!)にものっている
のはご存じのとおりなりる

さて、このお手入れちゅうの神殿が完成しても
なかにはあがれない。それは皇族でも許されない。
しかし、ハーンは二度も奥まで入っている。
なんでかなあ。すごい。
じつは、この社の後ろの八雲山も、それ全体が聖域であり
今も立ち入ることはできぬ。
しめなわ
上は、有名な婚儀殿のしめ縄。5トンある。
出雲高校の生徒しょくんが、じつにうれしそうにはしゃいでいた。
なぜかは不明。箸がころんでもおかしい年頃だからか!
おくにあん
ここで移動。
出雲大社から10分ほどのところに
出雲阿国(1572~?)が晩年を過ごしたといわれる庵がある。
ここで、阿国は子どもたちともふれあったという。
おくにぞう
阿国はいうまでもなく、安土桃山時代の女性芸能者である。
写真は庵の横にある阿国の塔。
男装して舞踊った「かぶいた」姿が描かれている。
ぼくにとって阿国といえば、なんといっても森田曠平画伯の絵である。
あの凛としたまなざしに一目ぼれだ。
おくにぞう
庵から10分ほどの小高い丘にある阿国の墓。
※墓とされるものは京都にもある。
出雲大社の巫女であり、勧進のために諸国をめぐった阿国はここに眠る。
墓石はなく、台とその後にそれとわかる石柱がたつ。
ここは中村家(中村阿国)という私的な墓所なので行政も
公的なことはなにもできないらしい。
少なくとも、表現という仕事に、そのはしっこで関わって来た者として
あまりにもお参りに来るのが遅かったことを静かにわびた。
今も、梨園関係者をはじめ、舞台芸術関係者は大社に行く前に
この墓で頭を垂れる。
阿国は、世阿弥とともにラボの仲間は無視できない。
いなさ
稲佐の浜で、えらそーにする。「国引き神話」で知られる浜だが、
この神話自体は「記紀」には記述がなく、「出雲国風土記」のものだ。
また、神無月(出雲では神在月)で全国の神様が縁結びのサミットのために
出雲に大集合するときくは、この浜が上陸地点、
したがって旧暦10月のはじめには大社の神事「神迎え」が行なわれる。
※縁結びのサミットは、出雲大社の神官ならびに関係者が、
その昔、諸国をそういってプロモーションしたことでひろまったといわれる。
「風土記」といい、阿国といい、出雲PR戦略おそるべし。
しんじこ
阿国ロードから松江市内へ。
宍道湖が見えてきた。
この日はやたらと風が強く、遠くで嫁が島もふるえている。
広さは日本で7番め。貴重な汽水湖である(塩分は海水の10分の1)。
かつて中曽根首相のころ、宍道湖のとなりの中海を干拓して農地や
工業団地をつくるという、ほとんど思考停止的計画がもちあがったが、
さすがにそれは中止になった。
それでも、宍道湖は一部を埋め立てられたため、
かつてより少し小さくなっている。
また、土砂の流入などにより
水深もしだいに浅くなっており、最深部でも6メートルくらい、
平均では4.5メートルしかない。
 宍道湖七珍でしられるこの湖が提供する命は無限に
保証されているわけではない。
ヤマトシジミは、やっぱり宍道湖産だぜ。
※青森の十二湖もいいけど。
ようちえん
しめくくりは、松江城の内堀と外堀を船でいく「堀川めぐり」。
のんびりと下から目線で見る街もなかなか。
とちゅう低い橋を通るときがあり、4回ほど頭をさげる。
ちょっとわかりにくいがたまたまくぐった橋で、園児のみなさんが
いっしをょうけんめい手をふってくれた。
松江は水都である堀にかかる橋、そして宍道湖から流れる川にかかる橋など
全部で1052の橋がある。
※建築学的には2メートル以上ないと橋ではないそうだ。
ベニスは450、アムステルダムは1292。
松江は世界ランクの橋の街じゃ。
しろほり
船からのぞむ松江城。松江城といえば七代藩主「不昧公」。
松江とお茶とお菓子がおいしいののは彼のおかげ。
なわて
塩見畷(しおみなわて)。畷はまっすぐな道の意。武家屋敷がならび、
ハーンの旧宅(今も個人の家で一部を公開)や八雲記念館もこの道筋にある。
車がとだえた瞬間を撮影するとタイムスリップできる。
低い身分からスピード出世した塩見氏の屋敷があったのでこの名がついた。

 ハーンといえば松江というイメージがあるが、じつは松江に住んだのは
1年4か月である。
 ハーンは、故郷であるレフカズ島(筆名であるラフカディオはここから)
の風景をしのばせる松江を愛したハーンだったが、
冬の寒さはどうも苦手だったようだ。

 ハーンの旧宅や記念館では、彼が愛用した品々を見ることができる。
そのなかで、興味深いのは10段のひきだしの原稿入れだ。
ハーンは、第一稿ができる一番上の引き出しに入れ、
すぐ別の作品にとりかかる。
そして、しばらくしてから過日の第一稿をとりだして手を入れ、
二段目に移す。
 そうやって、最下段の十段めにまで来た原稿を編集者に送ったそうだ。
推敲、かくあるべし。
桜隧道(改) 告知もよろしく 2 04月07日 (木)
SAKURA

桜隧道 (しずかに巡ってきた春に)

こんなにも激しく舞いかかるのは、
わたしの遠すぎた憧れか。
そんなにもやさしく髪にたたずむのは
あなたの魂がふるえた余韻か。

どんなに目をこらしても、
ワダツミのあらぶる渚は
無限遠のかなたにかすかに結像するだけだ。
どんなに耳をよせても
あなたの最後のことばを
わたしの鼓膜はそのわずかなブレスをとらえるだけだ。

嗚呼 この桜隧道に
ただ立ち尽くすだけのわたしを
わたしはゆるすことができない。

嗚呼 この花嵐のなかで
ひざまずくだけのわたしを
わたしは脱ぎすてなければならない。

春がしずかに通り過ぎていくまえに
花があざやかに散りおわるまえに
わたしは歩き出さねばならない。

せつないほどに美しい桜隧道から
泣きたいほどにやさしい桜隧道から

写真は母校の桜(4/4現在)。
正門から教会前まで続く約800mのソメイヨシノの並木。
戦前戦中は中島飛行機研究所があったところなので、
この直線は滑走路の跡だといわれている。
正式には建学の功労者の名前から「マクリーン通り」という。
小田急バスが三鷹と武蔵境から出ており、
どちらも「基督教大学行き」なのだが、
はじめて乗った人が「基督教大学入り口」という
アナウンスをきいてあわてて降りると
たいへんなことになる。
確かにパスは正門の真ん前にとまるのだが、
さらにバスはこの直線に入っていき、
守衛室もこえて教会前にあるロータリーまで進む。そこが終点。
だから、入り口でおりてしまった人は、
自分をおきざりにして去っていくバスを
ぽうぜんとして眺め、さらにため息をついて滑走路を歩くはめになる。
正門からは比較的近い、教会や図書館でも1キロはある。

 昔はおおらかに近所の人が花見に来たし、
ぼくたちも夜中に桜の下でばかさわぎをしたものだ。
しかし、今は飲食禁止、一般の人への解放は土日のみである。
※といっても、桜並木を散歩するくらいだったら、だれもとがめない。
(いかにも遊びにきましたというふんいきを出すと、平日の場合守衛さんに
なにかいわれるかもしれない。
というのも、例の皇族が入学して以来、セキュリティがきびしくなった)

 で、学校つながりついでに告知。
皆さんご存じの鈴木小百合さんが翻訳した
ウディ・アレンの芝居が上演されると、昨日、本人から案内がきた。

「又聞きの思い出 A Secod Hand Memory」

ブルックリンの一家族のドラマで
萩原流行さんをはじめとする渋めのキャスティングだ。
鈴木さんはアレンの芝居「踊る電球」も翻訳しいていて、
ケラリーノ・サンドロビッチ氏の演出で
本多劇場で上演され好評価だった。
今回の会場は中野のザ・ポケット
5月19日から29日まで。21,22,25.28,29(マチネーのみ)
はマチネーがある。
また、21日は鈴木さんと演出家のトークショーがある。
ぼくは仲間と21日におしかけ、その後で鈴木さんをかこんで
勝手に上演祝いをすることにしている。
下が芝居のサイト。
東京近郊の方はせびどうぞ。
※10歳未満は入場できないので注意。

 http://onetwo-works.jp/nextstage_mata.html

 鈴木さんによれば、俳優やアーティストなとの来日予定者
のキャンセルが続き、3月後半と4月の通訳の仕事は全部なくなったという。
この芝居も制作者サイドは迷ったそうだが、
「動きだすべき」と判断して上演を決定したという。
ぼくは支持する。
電力の浪費などは慎むべきだが、
エンターティンメント、人生に必要な祝祭、
そして日々の仕事など
「営み」は停止すべきではないと思う。
むしろ、そのほうが長期的な支援の底力になっていくと思う。
なんて、わしがえらそうにいうことでもないか…。

 ただ、前回も書いたが、世界では震災以前から、
日常的な困難、生命の危機におびやかされている地域、人びとが
21世紀になっても継続して存在している。
脅威が我が身にふりかかりそうになって、はじめて
人間は他者を思いやることができるのだろうか。
遠くの火事に痛みと熱さを共感することは困難なのだろうか。

 テレビでは、多くの著名人、さらに海外のアーティスト
やアスリートの
「わたしの心はあなたとともにある」「がんばって」
といったメッセージを日々流している。
多くの寄付もなされている。すべて善意だ。
またも実際に被災地を訪ねて激励している方もいる。
ぼくは善意を否定しない。
でも、むずかしいなあと考える。

そのメッセージはみんな笑顔だ。
もちろん、苦渋に満ちた顔でいわれても困る。
だから、メディアにのった「ことば」はむずかしい。

ただわかったのは、
そうしたメッセージは、どんどん連続して流れるので
発信者一人ひとりの思いの強さとか、
心の立ち位置とか、
世界に対する考えとかが、よくわからないのだ。
映像と音声だけのこわさだ。

そんななかで、ひとつ心にのこったのは
サッカーの日本代表とJリーグ選抜の試合である。
これについても、賛否はいろいろうるだろうが、
ぼくが書きたいのは試合そのものではない。
ハーフタイムに流れた選手や監督、コーチのメッセージ。
それも、Jリーグ選抜の監督をつとめた
ピクシーことドラガン・ストイコビッチ氏のメッセージだ。
ご存じのように彼は名古屋グランパスエイトの監督として
ティームを昨季優勝に導いた。
ピクシーの愛称は現役時代の妖精のような、変幻自在の動きからだ。

 氏は旧ユーゴスラビアの現在はセルビア共和国の出身である。
若き日からサッカーの才能にあふれ、
16歳でトップティームのプロになった。
18歳でユーゴスラビア代表になり、
19歳で迎えた84年のロス五輪では銅メダルを獲得する。
しかし、五輪大会中に招集礼状が届く。
そしてストイコビッチはコソボ自治州に派兵され、
最も伸びざかりの時期にサッカーから1年遠ざかった。
さらに、1992年の欧州選手権の予選中、
7勝1敗の好成績で勝ち進んでいるとき
クロアチアの独立運動がおこり、クロアチア系の選手が代表から離脱、
内線で国はめちゅくちゃになり、
セルビア系住民にも多くの犠牲者がでた。
そして、この内線の制裁として国連はユーゴの欧州選手権参加を禁じた。
祖国が内線で壊滅的な打撃をうけ、多くの仲間や知己を失い、
さらにはアスリートとしての黄金期をうばわれたストイコビッチ氏の
メッセージは、とつとつとした英語によるものだったが、
ふりしぼるような思いが伝わってきた。
そこには笑顔はなかったが、「同情」は微塵もなく、
また安易な激励もなかった。
抑制された表現のなかに
家や家族や未来を不条理なかたちでうばわれたものへの哀切と、
そこからたちあがってきた一個の人間としての深い思いがあった。
さすがに皮肉屋のぼくも、ちらっと感動してしまった。

 冒頭につまらぬ「詩のようなみもの」を書いてしまったので
お口なおしに与謝野晶子の歌を

清水へ 祇園をよぎる 桜月夜
こよひ逢ふ人 みな美しき


 来週の水曜から出雲、松江に取材でむかう。
オオクニヌシとハーンに会いにいき、
宍道湖の夕日を見て、またなにか考えたい。

 
ゆきむすめ空へ 追悼 佐藤忠良氏 4 03月30日 (水)
うめ
 写真は前回紹介した兼六園で。紅梅白梅。もう桜の季節だけど…。
 最近は、夜に用がないときは17時半に夕食をとっている。
で、7時以降はなにも食べない。
基本的には母の家でぼくが調理しふたりで食べる。
一昨年の夏に父が他界してから、81歳の母がひとりで住んでいる。
といっても、ぼくのhomeから徒歩三分。
スープのさめない距離だ。
現役時代は、まったくできなかった親孝行もどきを
いまごろやっている。

しかし、母の手伝いという名目で
父が書斎というか物置のようにしていた部屋を占拠してしまった。
そこが三澤制作所の0ffice。
 先日24日は、ぼくの誕生日だったが、
「あたしがおごるわ」といって
ふたりとも大好きな寿司屋から出前をたのんだ。
食事が終わると母がポチ袋をだして
「これでなにか買いなさい」という。
いくつになっても、男の子は母親をこえることはできない。
まちがいない。
高村光太郎が母親の死に際して、
「なんという威厳に満ちた顔」と書いているが、
いまさらながら母にはかてないと思う。
母は若いときは、あちこち旅行をしたが、足が悪くなってからは
ほとんど遠出はしていない。
海外旅行もしたことがない。
ぼくは、仕事のおかけであちこち飛び回った。
青い地球のうえをうろうろした。
でも、孫悟空のように母という釈迦の手のひらからは
とびだせなかったのかもしれない。
※自分の子どもについては、ほとんど期待していない。
多分、ぼくの母もそう思っていただろう。
私感だが、子どもは零歳~5歳くらいのときの
無条件のかわいさ愛らしさで、
もう親孝行は十分していると思う。
それ以上を期待するから、いろいろ悩む。

 さて、今日も、そんなふうに17時半に母と食事をしたが、
読売の夕刊をひらいたとたん悲しい記事がとびこんできた。
偉大なる彫刻家であり、絵本『ゆきむすめ』『おおきなかぶ』の作者である
佐藤忠良氏が逝去されたのだ。享年98歳。老衰ということだ。
 つい先日、世田谷美術館での展覧会を見たばかりだったのに。
 
 氏の彫刻は「群馬の人」「帽子・夏」など、どれも明快な具象作品だ。
だが、それはとってもハイセンスで清心でおしゃれで力強い。
国際的評価も高く、日本人ではじめてパリのロダン美術館で展覧会を
ひらいたのは佐藤氏である。
ざんねんながら、直接お目にかかる機会はなかったが、
その謙虚で真摯な人柄はよく知られていた。
そして、名誉都民を辞退したり、独自の教科書編集に取り組んだりと
硬質な面ももちあわせていた方だ。
また、絵本「おおきなかぶ」は、あまりにも有名だ。
以前、ラボの『かぶ』にふれたときに書いたが、
ロシアの衣装や髪型などの考証において、
「ロシアのむかしばなし」として紹介するには事実と
一致しないといいう点から、ラボではあらたに斧かおる先生に
書き下ろしていただいた。
 ラボ・ライブラリーのスタンスからいって、それはやむを得ない
ことだったが、
氏の「おおきなかぶ」が、いまもたいへん多くの子どもたちに
愛されていることはたしかである。
「あれは、ロシアほちゃんと描いてないからダメな絵本」
などとはけして思わない。
 
 また、ひとり偉大なアーティストが世をさった。

 さて、このところ日記を更新する気に、なかなかならなかった。
この間の、震災、原発問題、そして支援のことなどを
軽々しいことばでは書けないからだ。
そして、メディアのことば、著名人のことばなどに、
いちいち「そうかな」と反応してしまう自分に疲労していた。

 生来のひねくれものだから、
「いまできること」なんてことばにも過敏になる。
 連休の中日に新宿駅にでたら、
たくさんの学生諸君が大きな声で募金活動をしていた。
みんな必死に声をはりあげている。
正直にいう。
その声のはり方に「こわい高揚感」を感じた。
そのまなざしのなかに「正義酔い」を感じた。
批判を恐れずに書くのだか、一人ひとりに
街頭募金活動という行動の根拠とモティベイションを
たずねて見たいとも思った。

もしかすると、ぼくの敵はぼくかも知れない。
でも、でも、
やっぱり「ことば」が気になる。
「被災地の人びとは、今もつらい思いされています!」

 そんなこと、わかってる。きみにいわれたくないよ!
とドニファンみたいにいったらいい過ぎかなあ。

 助け合う、救い合う、励まし合うことはたいせつだ。
しかし、正義の名のもとの高揚感には慎重になる。
かつてこの国は、アジアの平和のとめにといって
多くの若者たちが高揚して命をなげたしたのだ。
「~のために」はおそろしいのだ。
そして、かんたんに「がんばれ」ともいえない。

 こうして書きながら、未整理の愚痴をならべている自分に嫌悪する。
しかし、やはりたいせつなのは持続性だと思う。
あえて書くのだが、ぼくはかなり前からUNHCR
Office of the United Nations High Commissioner for Refugees
すなわち国連難民高等弁務官事務所に毎月1500円の
ドネイションをしている。
これはクレジットカードによる自動引き落としだ。
緒方貞子先生の講演を聴いて以来だ。
これは、ほんとうに微々たる協力だが、世界の難民の状況と
国力の割には難民をあまり受け入れていない日本に住む者として
の自覚から行なっている。
だから今まで人にいったこともない。家族にもいっていない。
ただ、こうした持続的な活動を静かに行なっている人は多い。

 だが、今回のような超大災害には、緊急支援の活動の
瞬発力も否定できない。
ラボでもラボランドから支援物資や古いシュラフなどを
提供したときいた。
いくらひねくれものでも、やっぱり「よし」と思う。

 また、ぼくの高校の同級生で福島県立医大病院教授の
宇川義一くんが、原発事故の影響を懸念しながら
不眠不休で被災者の治療にあたっている。
この病院は本来は、難病と重症者専門の施設だが、
今はそんなことはいっていられない。
高校の同期でメーリングリストをつくっており、
各分野の専門家の情報が整理されて流されてくる。
それをもとに、支援できることはなんでもやろうと
いうことになった。
ぼくの役割もありそうだ。

 先日、かなちょさんが、「震災と『うみのがくたい』」という日記を
書かれていたので訪問したが、
ライブラリーのなかには自然と人間をテーマにした作品が
じつに多いと思った。
もちろん、「捉え方」の問題でもあるけど。
順不同だが、列記してみよう。
『太陽の子パエトン』※前回も書いたが、これは本当になまなましいなあ。
『うみのがくたい』※海に消えた命への鎮魂。丸木俊先生が、生前、原子力と
人間は共存できないといっていたのを思い出す。
『大草原の小さな家』『雪渡り』『たぬき』『スサノオ』『妖精のめうし』
『鮫どんとキジムナー』※この物語は、ほんとうに救いのない結末なのだが
この物語が好きだ、やりたいという子どもは多い。

なんて書き出したが、とってもきりがない。まだまだある。

 これを書きながら『サケ、はるかな旅の詩』を聴いている。
この音楽にはいつも勇気づけられる。
 サケが生まれた河にもどってくるのは奇跡に近い。
サケのなかで、河にとどまったものはマスになった。
たしかに河は卵を生むには海よりは安全である。
だが、栄養的には海の豊かさに、かなわない。
そこで、ある日突然、遺伝子のスイッチがオンになり
若きサケは海へむかう。そして北の海で世界のサケが交流する。
しかし、その旅は突然、帰郷への冒険にかわる。
 傷ついたうろこを乱反射させて、けんめいに河をのぼる。
※中島みゆきの「ファイト!」という歌をきこう。

 この物語を聴くとき、サケたちの旅に思いをほよせて聴く方が
ほとんどだろう。当然だ。
 サケたちへの応援歌。
 でも、この物語は人間への、命への応援歌でもある。
サケたちは逃げない。
ぼくたちも逃げてはいけない。 

 佐藤忠良氏の追悼を書くつもりがいきおいあまってしまった。
『サケ、はるかな旅の師』のあとは『ゆきむすめ』を聴こう。
その次は、もちろん『大草原の小さな家』だ。
この「かあさん」役は、佐藤氏の遺伝子をうけついだ
ご長女の女優、佐藤オリエさんである。
加賀で考えた パエトン・パラドックス 1 03月17日 (木)
とうろう
 遅まきながら、先週11日に発生した東日本太平洋沖地震
ならびに、この未曾有の地震にともなう津波により亡くなられた方がたに、
衷心より哀悼の意を表します。
そして、すべての被災者の皆さまにお見舞いを申しあげます。
さらに、救助、捜索、復興にむけて生命を賭して努力されている
関係者全員に最大の敬意と感謝をささげます。
               ☆☆☆
 ふだん、へらへらとした軽がるしい駄文を書き散らしている身にとっては、
「ことばの力」などとといいつつ、どうにもにもならない状況に
無力感をおぼえる。
 いや、だからこそ「ことば」が重要なのだとも思う。

 生来のへそまがりだから、日本のために祈ろう、なんて
大きな声をだされると、個人的にはひいてしまう。
もちろん、多くの義援活動がおこっているのは、すばらしいと思う。
それを批判するほど罰当たりではない。
一方、あせって買い占めをするほど恥しらずでもない。
だから
せいぜい、買い物ののおつりをマメにドネイションするくらいだ。
でもへこむ。
しかし、おちこむことはかんたんだし、
評論めいたことをいって斜めにかまえるのも楽にできる。
でも、人間は命あるかぎり
生かされているかばり、とりあえず前へいかねばならない。
それは一昨年の大手術で生死の境から帰還した身が学んだことだ。
時計を動かすのは一人ひとりである。

 悩んだが、一昨日と昨日の1泊で石川県にいってきた。
金沢での取材である。
前から約束していた仕事だったので、断ればそれはそれで多くの
人がめいわくする。
電力を過剰に消費するといった多大な負荷をかけないかぎり
粛々と仕事をすることも大事だ。
だまりこみ、すわりこむより、まずやるべきことをと
いいきかせた。
小松までの飛行は問題なく(この路線はけっこう繁盛するラインだが
往路も空席があり、帰りの東京行きANAは、50名も乗っていなかった)。
中野から羽田までも、あっけないくらいはやく着いた。

 取材の中身はラボとは関係ないので、
契約とかいうおとなの事情で書かないが、
写真はぼくに著作権があり、他には使わないものなので
少しアップしながら、日記でつぶやいていみる。
※ここまで読んで、「こんなとき、なに金沢なんて優雅なこと」
と思われる方はパスしてね。それもふつうの感覚だと思うから。

 最初の写真は日本三名園のひとつ兼六園。
あまりに有名な霞ヶ池の虹橋と二本足の徽軫灯籠(コトジトウロウ)。
橋を琴に、灯籠を琴のチューニングに用いる徽軫に見立てたものだ。
 兼六園は、延宝4年(1676年)に加賀5代藩主前田綱紀が原型を
つくった庭で当時は、金沢城の外郭城だった。
兼六園の名は、宋代の詩人・李格非が『洛陽名園記』で謳った
「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」の六つを兼ね備に倣い、
文政5年に松平定信によって命名された。
 「人力」は、このような災害のときにその微弱さを実感する。
でも、立ち直るのも人力である。
ゆきつり
 この写真もよく知られた「唐崎松」(カラサキノマツ)。
13代加賀藩主がオリジナルである琵琶湖畔から種をとりよせ育てた黒松。
 毎年11月1日に設置された「雪吊り」がまだのこっていた。
この方式はりんごの樹をまもる方法に似ているので「りんご吊り」という。
350年以上も毎年、雪と寒さにだまって耐えてきた松が、
やさしく、そしてきびしく、たくましく語りかけてきた。

 季節は、人間の営み、喜び、悲しみ、ねたみ、
怒り、感動など、すべてをまったく気づかぬように
ゆうぜんと巡る。
『ありときりぎりす』のラストのように、
また春はやってくる。
 やまない雨もない。
虹の空の下、オリーブの葉をくわえた鳩は
いつか帰ってくる。
 取材のおり、管理の人(県が運営)にたずねると
年間の来園者は170万人。
桜と紅葉のときは、ものすごい人出だそうだ。
300円の入園料をとっているので維持費の5億円は
それでまかなえるらしい。
 へんな箱ものやテーマパークをつくる必要はない。
伝統をたいせつにすることで、十分になりたっている。
加賀友禅、輪島塗り、九谷焼。
さすが百万石。石川as No. 1かも。
ちゃや とおり
 写真は東茶屋街。金沢にはほかにも西、主計の茶屋街があるが
もっとも大きいのはここである。現在も八軒のお茶屋があり、
20名ほどの芸子、芸者さんが日々きびしい稽古をつんでいる。
ふだんなら平日でも写真を撮ったら人ばかりになるそうだが、
この日は閑散としていた。
観光協会にうかがうと、さすがに地震以後、ばたばたとキャンセル
がでたという。
「でも、キャンセル料はとれません」
そうだろうなあ。
 
 金沢でもテレビはほとんど地震関連の特別番組ばかりだ。
各局が専門家をスタジオによんで、津波や原発事故の解説している。
ぼくもいろいろな局の報道スタイルを比較しながら観たが、
やはり「ことば」が気になる。
これはもう、長いあいだにしみついた虎の縞みたいのものか。
気になるのは2点。
民放のキャスターの表現が、
どうしても、より危機感を煽っているように感じてしまう。
もちろん、キャスターは主観を入れてかまわないと思うし、
純客観で意見をいうことなんてできゃしない。
名キャスターと呼ばれる人、あるいは呼ばれたひとは、
多かれ少なかれ、独断や偏りがある。
それが、バランス感覚のよさや、頭の回転のはやさ
そして人柄(好感度)などで中和され、
支持されたり、されなかったりだと思う。
 そうした点をさしひいても、なにか緊張と緊迫を
自らつくりだしている印象が、民放はどの局のキャスターにもあった。
また、専門家に訪ねるときなどは、かなり誘導的な
「ひきだす」ような問いかけをしているのも…。
対して、NHKのアナウンサーは業務という感じで淡々と読む。
これは味気ないが、こういうときは正解かもしれない。

 もうひとつ気になることばは、ここ二三日のこと。
被災地や避難所にスタッフがリポートに入り、
被災者の方がたにインタヴューするときの表現だ。
「おばあちゃん、おじいちゃんはわからないの」
「ふーん、たいへんだね」
「こまることは」
 てな感じで上から目線かつ、無礼ないいまわしにしかきこえない。
と思うのはぼくだけかなあ。
 まさに死線をくぐり、肉親や、家や家財を、
なにもかもなくしたサバイバーに対して、
相手が老人だろうと子どもだろうと。
いやんなおさら、
最大のリスペクトをもった表現で遇するべきだ。
「テレビだと緊張させないように」
なんていいわれはなしだぜ。
 さすがにアナウンサーは気をつかっているが
ディレクターやスタッフと思われる人たちのインタヴューが
とくにうーむ(顔でないしね)。
 まあ、それぞれいっしょうけんめいだから、いいのかなあ。
きんぱく さわる
 写真は東茶屋街にある箔座で。
金座、銀座とならんで神社仏閣から仏壇や襖、漆器の蒔絵などに
使用される金箔をつくる箔座もまた江戸の伝統だ。
江戸幕府の統制により、箔座は江戸と京都以外では禁じられたが
加賀の箔職人はねばり強く、その技術をつないだ。
幕府の崩壊とともに江戸の箔座は消滅し、
現在では日本の金箔の99%は金沢箔である。
 地元の方の紹介で東茶屋街の箔座を訪ね、特別に築120年の
茶屋づくりの二階にあげていただいた。
 上の写真は、案内してくれたこの家のお嬢さんが
金箔を加工しているところ。手練だ。
あまった箔は横にある木箱に
「ふっ」と、軽い息をふきかけてとばし落とす。
そのさまがなんとも、優雅である。
すべてががさつな自分が恥ずかしい。
金箔の厚みは1oooo分の1ミリ。
24金にわずかに銀がまじる。
そのことで粘度があがり、箔にのばしやすくなる。
五円玉(3.75グラム)の金をたたいてのばすと
畳一畳ほどになるという。
「薄さを実感してください」といわれ手にのせてみる、
こわいほど薄い。
返そうとすると、「そのまま手にぬりこくんでください。
お肌によいそうですよ」
 写真は、そういわれて神妙にぬりこんでいる
マネージャーである。
※それ以上、詮索しないように。

 1995年1月17日(火)。
兵庫県南部地震発生。阪神・淡路大震災である。
あれから16年がたった。
 その3日後の20日、ぼくは関西にむかった。
目的はふたつ。
ひとつは、関西総局の激励と、活断層の西端である須磨のパーティに
全国からのはげましの手紙や支援品をどとけること。
そして、もうひとつは…、
この地震で命をうばわれた
小学生女子のラボっ子の担任の先生に会うことだった。

 きっかけは、京都、正確にいえば山科にあったパーティの
ラボっ子のお母さんからの連絡だった。
 それは京都新聞の記事である。
神戸新聞は地震で大きな打撃をうけたが
京都新聞の支援でなんとか発行をつつけていた。
したがって神戸新聞の記事も当然京都新聞にのる。
そのなかで、そのお母さんはこんな記事を見つけた。
「震災で亡くなった女子生徒がのこした教師との交換日誌が、
その教師をはげましている。日記には創作物語が書かれていて、
教師と同じ名前の女子小学生が主人公。
そのヒロインが弱いものいじめをしたり
いたずらしたりする男子や上級生から仲間を守って大活躍する
という痛快なストーリィ。
その学校で地震の犠牲になった生徒は、その女子ひとりであり、
その担任教師(女性)はたいへんなショックを受けていたが、
その日記に勇気をもらい、子どもたちのケアにあたっている」

 そのラボっ子のお母さんは、この記事の小学生は
もしかしてラボっ子ではないかとピンときたという。
それで、もしやと関西総局にテューター経由で連絡されたのだ。

 その日記をお貸しくださるということで、
増田テューターとともに夕刻、
浜芦屋のアーチがぐにゃりと湾曲する商店街をぬけ、
当該の小学校をたずねた。
 渡り廊下や、校舎のあちこちに「危険」の張り紙。
職員室は完全にキャンプ本部状態。
そのなかで、ジャンバーをきて、いちばん元気で大きな
声ではげましているのが校長先生だった。

 ラボっ子の担任のM先生は、生徒一人ひとりと交換日記を行なっていた。
その女子の日記を生徒から預かった日の翌日が震災だったという。
日記には、たくさんの創作物語が書かれていた。
構成や展開は似た作品が多かったが、どれも先生への愛情や
クラスメイトへの思いが強く表現されていた。
 コピーもとれる状態ではないので、だいじに持ち帰り、
すぐに東京から貴重品あつかいで送り返した。
 そのころ、ぼくは「ことばの宇宙」も担当していたが
巻末の表紙3をつかって「星のセンテンス」という企画を
毎号(このころは月刊!)行なっていた。
 これは、キャンプや国際交流や物語についての
感想文の1行から数行を選んで、それを解説という名目で
ほめまくるというものだ。
 だから、とにかくラボっ子の感想文はたくさんよんだ。
34年の事務局人生でライブラリーづくりも
うれしい仕事であることはまちがいないが、
なによりの密かな自慢は、とにかく誰にもまけないだけ
ラボっ子の感想文を読み、絵画作品を見ていることだ。
これは絶対の自身があるぞ。

 それで、この日記は「星のセンテンス・メモリアル」
という特別編集で、ほぼ全文を「ことばの宇宙」に掲載した。

 インタヴューのおわりごろ、
M先生は思い出話に目をうるませてから、
毅然として顔をあげておっしゃた。
「子どもたちは、まだおびえています。
突然昼間に嘔吐してしまったり、明け方に泣き出したり、
さまざまなストレスにおそわれています。
授業の早期再開もたいせつですが、生徒たちの心の手当てが
いまいちばんたいせつです。わたしが悲しんでいるひまはないと
彼女の物語がはげましてくれます。主人公はわたしなんですから」

 外に出ると、もうすでに浅い春の一番星がふるえている。
薄暗がりのなかでM先生は、いつまでも直立不動で
ぼくたちを見送ってくださった。

 今回の地震ではテューター全員の無事が確認されたと
本部からきいた。また、日比谷公会堂の国際交流のつどいと
スプリングキャンプが中止という残念だが、
やむを得ない連絡もうけた。
 会員ならびに関係者の無事を祈るのみだ。
ふじ
 写真は小松空港からの帰りの空路、駿河湾上空から撮影した富士山。
ちょうど一昨日夜、10時32分の地震の震源地あたりである。
 やはり美しい。
 しかし自然はときとして残酷である。
その二面性も人間がかってにそうよんでいるだけで
自然、地球にとっては、地震も津波も、嵐も噴火も
すべて大地と大気の営みにすぎない。

 どうでもいいけど、「富士」は「不死」から来て
これは『竹取物語』に由来すると、先日、池上彰氏が
説明していたが、それちょっとちがう。
 『竹取物語』のなかで、「不死」と「夜ばい」という
ふたつの由来譚があるが、これは作者(おそらくは
「和名抄」を書いた源順)の「なにんちゃって」である。
 つまり、ちゃんとした由来は他にあるということを
読者も知っているという前提、
すなわち「富士」は「不二」、「夜ばい」は「呼びあい」
であることは既知だとわかっていて
そんな男たちが夜にうろうろするから
「夜ばい」というよになったんだ、なんちゃって!
 という小説のテクニックなのだ。
 最後の不死のエピソードも、なんとなく蛇足つぽく思えるが
あのエピローグが救いとなって作品をおちつかせている。
 天才・紫式部が「物語のいで来はじめの祖(おや)」
と「源氏物語」の絵合わせで、紀貫之にいわせたのもなるほどだ。

 ここまで、読んで、あれあれタイトルに関係する中身はと思った方
も多いかしら。
 
 原子力発電について、
批判をすることも推進を支持することも
ぼく自身は、そのどちらにも明確な根拠をもちえない。
 化石燃料は有限であることは明確だから、
電気にかわるエネルギーが、あるいは原子力発電にかわりえる
発電方法が開発されないかぎり、
原発は不要とはいいきれない。
 しかし、その安全性も今回の事故以前から、
ぼくは疑問をもっていた。
 核の力、E=M×Cの二乗という、優雅な式によって
導かれた協力なエネルギーは、最悪の兵器にもなるが
たいへん効率のよい発電も可能にする。
 しかし、その力ははたして人間がコントロールできる
領域の力なのだろうか。
 核と人間は共存可能なのかどうか。
ぼくは、この矛盾するテーマを
「パエトン・パラドックス」と勝手によんでいる。
『太陽の子パエトン』は、その視点から見ると
おそろしく重い物語である。
 このときは制作責任者ではなかったが、
絵を絵かがれた「おぼ・まこと」さんと、
飲み屋でその話をしたことを思い出す。
ちなみにあの絵は色エンピツをけずった粉で彩色している。

 人間はパエトンのように太陽の馬車にあこがれ
より高みをめざしたやんちゃな男の子にすぎないのだろうか。

 次第に遠ざかっていく富士をながめながら、
そんなことを考えていると、
シートベルトサインが点灯、機は羽田にむかって降下を
ばしめたようだった。
彼氏とキーパー 気が抜けたアクセント? 3 03月06日 ()
おおみしま
 写真は今治市大三島にある大山祇(おおやまづみ)神社の拝殿。
大三島は、先日紹介した平山郁夫美術館のある生口島(尾道市)より
ひとつ四国よりにある島だ。
 オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)を祭神とし、伊予の国一宮、
日本総鎮守、さらには全国の三島神社、山祇神社の総本社という
とっても格式の高い神社だ。伝によれば、現在の大阪府高槻市から
推古天皇の2年というから594年にこの場所にうつされた。
※鎮守は土地神と混同されることが多いが、元来は人間がつくった建物などを
その先住神である地主神からディフェンスするためのものだ。
 その他、由来にはさまざまあるが、相当に古い時代につくられた
社であることはまちがいないようだ。
 美術館からの戻り道で立ち寄ったのだが、
平日の昼下がりに人気はほとんどなく、
おだやかな陽射しのなかに記紀の時代からあまりかわらないなにかが
ひっそりと息をひそめているように思えた。
 この神社は古いだけあって、興味深いことが多いのだが、
山の神(オオヤマツミは大いなる山の神の意)、海の神、
さらには戦いの神として、朝廷はもちろん、
源氏や平家など歴代の武将に尊敬された。
日本の国宝、重文に指定された甲冑の4割が、
この神社に奉納されていることでも、その力がわかる。

 イベントも四季折々に行なわれるが、
なかでもおもしろいのは一人相撲。
毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)に、
大山祇神社に設けられた土俵での相撲神事である。
これは「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負。
かならず稲の精霊が2勝1敗で勝つ。
これをだれも八百長とはよばぬ。

 稲の精霊は、たいへん弱いので、常に激励せねばならぬ。
「おはやし」で囃したて、エンカレッジせねばならない。
とくに秋の収穫後、種籾に宿った幼い精霊は、目をだしても
すぐに萎えてしまう。だから「苗」なのだという。
 ちなみに苗代というが、この代はノリシロなどのシロ、
すなわち予定地の意でもある。
ヤシロのシロも同様で、神の家(ヤ)の予定地。
次第に拝殿や社殿などの建造物をさすようになったが、
もともともはその山そのものがヤシロであったようだ。

 さても、本日のお題はアクセントである。
英語のみならず、あらゆる言語でアクセントは重要だ。
もちろん、日本語でも正しいアクセントはある。
しかし、日本語の場合は多少アクセントがおかしくても、
会話の前後の関係から意味が通じてしまう。
それに違和感を感じる場合もあるが、
あっさりスルーしてしまうことも多いはず。

 ライブラリーの録音のときは、
さまざまな音に注意をはらわねばならないが、
ぼくは、とりわけアクセントに集中して聴いていた。
もちろん、責任者になってからは、
スタジオ全体を見渡していないとならないが、
ぼく自身もなるべく録音そのものに没入できるように、
トラブルのもとになりそうな「おとな事情」の整理や
スケジュール、台本の配布やチェックなどの作業を
すべて終わらせて本番にのぞめるよう、
スタッフに分担しもらうことに心をくだいた。
 役者も技術者も演出も、ようするにスタジオという特殊空間を
共有する人びとが、いかにきもちよく、
かつ高いモティヴェイションで仕事できる環境を整えるかも
プロデューサーの仕事である。
さらに、だめなものはだめといいきる勇気と決断力かなあ。
「まあ、いいや」といってしまったら、ラボっ子に申しわけがたたぬ。
ただ、録音者を変更する、書き手をかえるといった
「人をきる」ことは、明確な理由を提示する力がもとめられる。
しんどい。でも、だれかがやらねばならない、

 さて、アクセントに話はもどる。
もちろん、録音中はセリフの読み違え、ニュアンス(訳対応)、ノイズなどの
さまざまな要素を聴かねばならぬ。
 マイクを吹く(これだけは、機械処理できぬ)とか、ペーパーノイズ
(台本をめくるときの音)などは、エンジニアの耳が確かだ。

※台本がらみで補足すると、台本は中質紙で袋とじ(小口、すなわち本の
外のへりが袋になっている。なお、本のとじているほうはノドという)
が音がしなくてよい。それからあたりまえだが、日本語台本は縦書き。
本来日本語は縦書きの言語だからだ。

 表現全体は演出家の耳がある。よほど英語とずれないかぎり
演出家にまかせたほうがよい。
 だから、ぼくはアクセントにこだわって聴くようにしていた、
アクセントちがいを聴きのがすと、後でたいへんなことになるからだ。
正しいアクセントのテイクをさがして差し替えることは可能だが、
とっても時間がかかってしまうので、あんまりやりたくない。
小技の編集なしで、一発で録れたものがいいにきまっていね。

 しかし、それが正しいアクセントがどうかわかりにくいものもある。
たとえば「風車」などは、前アクセントと平なのとどつらも正解。
こういう場合は、どちらかに統一してもらうよう役者さんに指示する。
 また、アクセントで意見がわかれるときもある。
そんなときのために、ちゃんと「日本アクセント辞典」というものがあるので
それで確認する。
これは、録音スタジオにはかならずおいてある。
NHKが出しているものだ。
 
 ところでところで、近年はこのアクセントが、とくに若い人のそれが
平になっている傾向がある。
「若い人」のといういい方はだいきらいなのだが、
この場合やむなくつかう。

 たとえば、「彼氏」。これは本来、前アクセントだが、
多くの人が平に発音する。
 他に例示するとサッカーのキーバー、さらにはクラブ。
なかには前アクセントの「クラブ」は部活、あるいはおじさんのいくところで
平な「クラブ」は若者の社交場というへりくつもあるようだが、
圧倒的に平なアクセントが増えている。
キーバーなどの解説者も民放のアナも平気で平に発音しているから驚く。

 なんでかなと考えてみると、
おそらく、いやきっと、
アクセント、特に前アクセントは意識していわないと
発音できないからだぞ。
 彼氏もキーパーも、前にアクセントをつけて発音するのは
けっこう意志が必要なのだ。
逆にいえば、平に発音するのは楽なのである。
だから、ことばに力がない。
 ことばは変化していく生き物だから、用法の変化は自然なことだ。
 英語でも、たとえばbedtimeなどは、ローラの時代はbed-timeと
ダッシュ付きだったかーが、今は一語である。
※定着すると一語になるそうだ。
また、誤用がそのまま定着した例も少なくない。
「新しい」は「新たしい」(新たに、新たなの変形)が正しかったが
いいにくいので音が入れかわったものだ。
 また、近年では「全然」が肯定的に使用されており、
これもいずれ定着しそうだ。
 
 ただ、アクセントの平な画一化はちとヤバイ(これもいい意味で使われ
はじめているな)。
 ことばが力をなくし、やせていってしまうからだ。
ことばが力をなくせば、心も力をなくす。だよね、

 テーマ活動を見ていて、よくライブラリーを聴いているかどうかは
すぐにわかる。
 それは英語のみならず、日本語でも同じだ。
ごまかせないぜ。

 さて、最後に問題です。
熊(クマ)、年賀(ネンガ)、
このふたつのアクセントはそれぞれどこにあるでしょうか。

 
瀬戸内中年感傷旅団 その3 1 02月28日 (月)
おしろ しき
 写真は松山城(国重文)と、松山市内の子規庵にある正岡家の墓。
子規の遺骨の一部が分骨されている。花がたえることがない。
子規と漱石が過ごした愚陀仏庵もだすねたかったが、
昨夏の集中豪雨による土砂崩れで全壊してしまった。残念。

 四国の旅から帰った2日後、病院で検査をうけた。
一昨年の14時間という大手術のあと、
定期的にフォローしているのだ。
 この日は血液検査だけであるが、それでも検査はいやなものだ。
手術直後は2週間ごとの外来診察だったのが、4週間になり、
今は3か月ごとである。
 自分の病気のことを開陳するのは、この日記のテイストにあわないし
第一おしゃれじゃないので、これまであまり書かなかった。
これからもたぶん書かないだろう。
 ただ、最近「その後、おかげんはいかかですが」などと
メールや手紙などをいだだくので
ある程度の報告は定期的に必要なのかなとも思う。
 かくして検査の結果が一週間後に出た。先週の金曜日である。
通院したわけではない。電話でDr.からきいたのだ。
 主治医は都内の(財)医療公社のO病院の外科医局長のM医師。
この日の午前11時30分に電話するように指示されていたのだ。
代表番号に電話してその旨をオベレーターに告げると
すぐにM医師につながった。
 「ああ、Senchoさん、どうもMです。えーと、今データみますね。
うん、腫瘍マーカーも正常、肝機能、腎機能もいいですね。
予定通り次は5月のCT検査でいいでしょう」
「あの、血糖値はどうですか」
「HbA1cも域値内ですからだいじょうぶ」
 「あざあす」
 会話の表現の詳細には一部変更があるが、
内容は事実である。
 ちなみにHbA1c(ヘモグロビン・エー・ワン・シー)とは
血糖値の1~2か月の平均値である。
通常にはかる血糖値だと、前日から絶食したりすれば
一時的に低くごまかせるが、
HbA1cだと平均値なので生活習慣がそのままでる。
 ぼくは、2006年にストレスから高血糖症になり
一時インシュリンをうっていたことがある。
だから、最近食事の量もふえてきたので
ちょっぴり気になっていたのだ。

 ともあれ、電話による検査の説明は5分で終了。
どんよりしていた気分はすっきり。
検査結果が悪ければ
午後の予定であるマネージャーとの食事をかねた打ち合わせを
ドタキャンしてやろうとたくらんでいたが、
ゲンキンなものでいそいそと着替えて
調子にのって高いメシを食べてしまった。

 電話による診察はこれで2度目だが、
たいへん便利というか、ありがたいやり方だ。
交通費もかからないし、診察料もかからない。
多忙なDr.にとっても好都合だ。
 M医師が手をぬいているわけではない、
CTなやMRIなどの精密な検査をした場合は
データや画像を見せながら、
じつにていねいに説明してくれる。 
 ほとんど好奇心から、ろちゃくちゃ細かい質問をする
ぼくみたいなモンスターペイシェントにも
ひとつひとつ対応してくれる。
ありがたい。
 ただ、今回のような場合は電話で十分というのが
同医師のスタンスだ。
 まったく同感である。
どこの病院でもやればいいのに。

 一昨年、85日入院し、その退院直後に父が他界、
さらにその2か月後に義母が急逝した。
その間、日本の医療がかかえる様ざまな課題を
見つめることができた。
まさに身をもってである。
 とくに高齢者医療、老人福祉については
いいたいことが山やまもっこりだ。
この国は、ほんとうに豊かなのか!
なんて力むのはこの場にふさわしくないが…。

 人間だけが「医療」によって自然淘汰に抵抗する。
であるがゆえに、人類の経験をこえた哲学レベルの課題が
数多く生まれている。
尊厳死、臓器移植、胎児の性別判定、医療保険制度、
遺伝子治療…。
だからといって、ヒポクラテスの時代にもどれとは思わぬ。
医学、医療の進歩によって多くの命が救われ、
多くの苦痛が癒されたことはまちがいない。

 それにしても医師は、たいへんな職業である。
常に最先端の技術と知識を取り入れ、自らを陶冶しつつ、
日々、多くの患者とむきあう。
そして、前述のような倫理的な
その生き方

命題も背負わねばならず。
さらには。わずかなミスでも医療過誤で訴追されることがある。
医は仁術と気軽にいえる時代ではない。

 谷川俊太郎氏は「詩人とは職業ではない。生き方だ」
ということをいわれた。
 このことばで、へたくそな詩を中学時代から書いていたぼくは
「ああ、これで一生、詩をつくっていこう」と思った。
男って単純。
 冗談はさておき、医師はプロフェッショナルであるととともに
「医師という生き方」をどのように抱いているかが問われていると思う。

 ぼくは主治医であるM医師を尊敬している。
本人は怒るだろうが、見かけは冗談の通じないこわもての外科医だ。
しかし、その技術の正確性と医療に対する真摯な姿勢、
問題意識の高さには頭がさがる。
 M医師はぼくの14時間の手術(とうぜんだが、その間、飲食もトイレもなし)
を執刀してくださった。
 午後11時に終わり、ICU(母校じゃないほう)に運ばれたぼくは、
痛みでまったくねむれなかった。
 背中からの麻酔、さらにはかなり強い痛みどめを点滴しているのだが
ほとんど効かない。
 まあ、かなり腹筋をきっているからとうぜんだろう。
眠れる薬を点滴してもよいといわれたが、
逆に眠るのがこわかった。
身体はほとんどうごかせない。
 モニターの音が無機的に響く。
15分ごとに腕にまいたベルトがぎゅうっと収縮して血圧をはかる。
それで時間の経過がわかる。
まさに長い夜だ。
たぶん午前3時ごろだろうか。
2度目に入れた、別の痛みどめが効いて、かなり楽になった。
まったくねていなかったが、妙に元気だった。
後でわかったことだが、長い手術のときには
頭は寝ているけど身体はマラソンしているようなものなので
けっこう興奮系の薬もつかう。
それがまだのこっていると、術後ハイみたいになるらしい。

 そして朝がきた。明るくなり時計が見えた。
ああ、6時かと思ったところに、
M医師があらわれた。
「ああ、元気そうだね」というと、
モニターのデータを見て、
「これはもういいだろう」
といって、鼻から気管まで通っていた管を抜いてくれた。
※それまで、そんなのが挿入されているなんて気づいていなかったが…。
そのときM医師の目が真っ赤に充血していのに気づいた。
 医師が去ったあとで看護師にきくと
M医師はぼくのオペの後、そのまま当直されたという。

 14時間の手術だけでも人間業ではない。
スタジオでも14時間の集中作業はあるが、
休憩なしではありえない。
すごいなあ。

 話がどんどん重くにりそうなので、このへんにしておこう。
ともかくも、今は元気である。
 3か月単位で検査をするのが気が重いが、
まあ期末テストみたいなものだと思っている。
赤点とらなきゃいいや。

 さて、もうほとんど今回の日記も終わりに近いのだが
ライブラリーの話をまったく書かないと、
なんか極私的なカミングアウト大会に終始してしまうので、
ちょっとだけ。
 表現の原型みたいなことについて。
つまり、自己紹介とか、自分自身のアピールみたいな
セリフとか歌について。
 たとえば、『だるまちゃんとかみなりちゃん』の
「おれは男だ強いんだ」なんてところ。
それから、『しょうぼうじどうしゃ じぷた』の
それぞれの車の歌。
 『ビーター・パン』1話の海賊の歌、ピカニニー族の歌、
ロストポーイズの歌。
 それから、『西遊記』の「弟子たち勢揃い」なんて
全体が自己紹介だね。
 『セロ弾きのゴーシュ』も動物たちが順番に自己紹介する。
そう考えると、ライブラリーのなかに、
こうした自己紹介、自己アピール的な表現はけっこう
たくさんあることに気づくはず。
 国際交流でもそうだが、自己紹介は表現の原型というか基本。
自分を語るのは難しいが、結局自分でやるしかない。
 基本であるがゆえに、けっこう物語の核というか土台になっている。
だから、その部分が元気よくできたりすると、
全体にテンションがあがったりする。
そんな見方もたまにはいいかも。

 最後に一句。
 松山城 梅のむこうで動かない。
これを城の写真とともにfacebookにアップしたら
ラボOBがひとり「いいね」をくれた。
瀬戸内中年感傷旅団 その2 漱石とPrivacy 3 02月23日 (水)
どうご そうせき
 本当は、昨夜に更新しようと思ったが、会食が楽しく
帰宅が遅くなったので今日にした。
 会食の相手は二人。一人は特別参加で
この「ひろば」にもベージをもっている事務局OBアスペルさん。
もう一名は、1970年代後半に関西支部で活躍、
現在は東京農工大学で准教授をされているラボっ子OBの中條氏。
※元槌賀Pでニックネームは「ノーちゃん」。
 最近はじめたfacebookのおかげで、なつかしいOB・OGと
どんどんつながっておもしろい。
エジプトの革命のスピードにはおよばぬが、毎日のように
「おぼえてますか」となつかしい顔からリクエストがくる。
 会食の場所はアスペルさんご用達の吉祥寺のイタリアン。
気のおけない店で、味はすばらしかった。
それぞれの居場所が東小金井、吉祥寺、中野なので
まあ中間点というわけだ。
 18時というはやい時間のスタートだったが、
34年ぶり(三名は1977年に関西支部にいた)の集まりだったが、
ラボおそるべし、あっという間に時の川をこえてしまった。
とくに、ラボの初期の「なにかがそこにはある」と信じて
「すべて手探りで」ひた走っていた時代を共有できたことは
本当に幸せなことだと思った。
 ところで、吉祥寺といえば10日ほど前、池上氏の番組で
やはり著名人OBである藻谷浩介氏
(日本政策投資銀行参事役・地域エコノミスト)。
が、「元気のある街」として紹介していたなあ。
若田さんといい、OB。OGが活躍しているのはうれしいのお。

 前回は平山郁夫美術館をたずねた生口島の報告。写真上はその前日に
撮影した「道後温泉本館」。
 道後温泉の歴史はめちゃくちゃ古く、3000年以上昔に遡る。
事実、付近の山からは縄文式土器も発掘されている。
足を痛めた白鷺が、岩の間から流れる水で傷をいやしたのを見た村人Aが
「ありゃ、これはお湯だ」という話が伝承されている。
また、「伊予国風土記」には
オオクニヌシとスクナヒコが伊予へ旅をしているとき
スクナヒコがバテてしまったので、
オオクニヌシが海の底に管を通して大分から
湯を導いたという逸話がのっている。
神様も温泉が好きだったのだなあ。
厩戸皇子が入ったという記録もある。
伊予の国という名も「湯の国」が変化したものという説もあるらしい。
名称の由来の真偽はともかく、
道後温泉は有馬温泉、白浜温泉とならんで
日本三古湯のひとつである。

 写真の「道後温泉本館」は、共同浴場番付でも西の横綱にランクされる。
建てられたのは1894年。老朽化していた昔からの建物を
いわゆる「近代和風建築」として明治時代にリニューアルしたものだ。
※1994年に国の重要文化財に指定。
 現在でも、もちろん入湯可能(宿泊施設はなし)。
入浴料は400円で、プラス800円~1100円で広間や個室の
休憩室が利用できる。
 なんて、観光案内になってしまったが、
わざわざ紹介するのは、ここが夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する
温泉であるためだ。
 そもそも、今回の松山行きは漱石と子規をたずねる旅だった。
松山といえば、四国最大の街(人口約51万人)。
みかん(ポンジュースのホームだ!)、松山城、
最近では、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』がテレビドラマ化され
秋山兄弟が話題にもなった。

 しかし、ぼくにとっては、やはり子規と漱石である。
なかでも、漱石は、ぼくが全作品を読んでいる唯一の作家なので
思い入れが強い。
 出会いは小学生のとき。
講談社の少年少女世界文学全集の日本編で『坊っちゃん』を
読んだのが最初である。
そのおもしろさと文章のうまさに陶然とした。
しかし、あのような活版2段組みの上製本、ケースの入りの全集、
しかも子どもむけなんてのは、現代ではまず出版企画はおこらないだろう。
写植やプリンターではなく、活字で印刷された本は
字が起立していてきもちがいい。
書籍のあるべき姿のような気がする。
 続いて河手書房の「世界文学全集」そして、岩波の漱石全集にすすんだ。
これは、同級生の家が近くで本屋をやっており、そこのお父さんが
すすめてくれた。
 このお父さんは、おもしろい人で三島も小6のぼくに教えてくれた。
ある日、店先で本を選んでいたら
「『仮面の告白』なんていいよ」というので手にとろうとしたら
おかみさんが、「子どもによろめき小説教えてどうすんのよ」
と笑いながら叱ったのを思い出す。
 『坊っちゃん』に感動していたぼくは、親にたのみこんで
出たばかりの漱石全集を買ってもらった。
恵まれていたなと思う。
 月に一冊ずつとどけられるのがほんとうに楽しみだった。
 
 その後、たくさんの物語と出会うことができたのは、
とにかく最初の講談社の全集のおかげだと信じている。
 たぶん、ライブラリーもそうだと思うが、
ひとつ「わあ、おもしろいなあ」と心から思える作品に出会うと、
「もしかすると、これは、それからあれは」と
どんどん他の作品にもふれてみたくなるのだ。

 だから、なるべく多く、すぐれた作品を用意するのは
マジでたいせつなことだといまさらのように思う。
 『十五少年漂流記』『ロビンソン・クルーソー』『スイスのロビンソン』
『ガリバー旅行記』『にんじん』『オズのまほうつかい』
 もう、あげたらきりがないが、
日本編では『坊ちゃん』『路傍の石』『春の城』『永訣の朝』
『蠅』などが強烈に心にのこった。
 とくに横光利一の『蠅』は、小品だが内容は鮮烈である。
ふつう小学生にあたえようとは思わないみの物語を
少年少女世界文学全集のなかにチョイスした編集者のセンスには
ただ感服するのみだ。
 このとき(たぶん小5)、『蠅』を読んでいなければ
横光利一をその後読むことはなかったろう。
 利一は菊池寛門下、川端康成などともに新感覚派とよばる作家・俳人だ。
 近年は、太宰は生誕100年ということもあり映画にもなったりして
あらためて読まれるようになっている。
 小林多喜二も『蟹工船』がちょっとしたブームになった。
 坂口安吾もあいかわらず人気がある。
 しかし、横光利一はなせが再注目されない。もったいないなあ・
梶井基次郎もそうだ。『檸檬』なんか、青春時代に読んで当然という
作品なんだけどなあ。
 紀伊国屋書店にレモンを爆弾に見立てて置く。なんてイメージは
じつに鮮やかなんだけど。
 
 こここでその横光利一の『蠅』の冒頭を引用しておこう。
「馬は一条の枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背の老いた馭者
の姿を捜している。馭者は宿場の横の饅頭屋の店頭で、将棋
を三番さして負け通した」
 この後にすぐ、一匹の象徴的に蠅が登場し、
続いていろいろな人物がさまざまな理由で馬車に乗ろうと
この宿場にやってくる。
 そして…。
 まあ、ラストは衝撃的で、そこでも蠅は重要なメタファーとなる。
ぜひ読んでほしいなあ。

 ライブラリー制作の仕事をしていると、どうしても読書は
制作している作品の関連図書や、次期候補作品についての
文献が多くなる。
 その中身もライブラリーの性格上、
ほんとはそうであってはいけないのだが、
いきおい児童文学、絵本、ファンタジーといった作品にどうしても
かたよる傾向がある。
支部の研究でもそのtendencyはあったと思う。
だから、意識して、自分にもライブラリー委員にも
日本の近代文学や世界の「いわゆるおとなむけの文学」も
読むべきだと、しつこくいい続けた。

 以前にも書いたが、ライブラリーが題材をもとめる作品は
「時代性」「社会性」「テーマ性」「物語性」「組織性」などの
多元的な要素から選ばれねばならない。
であるならば、その選択する範囲は広いほうがよい。
「ライブラリーにしやすさ」とか「テーマ活動のしやすさ」
みたいな結果を、あまり考えすぎると、だいじなものを見失う。
 とくに「テーマ活動」のしやすさということばは麻薬である。
「テーマ活動」は、いうまでもなく演劇とは異なる。
あくまでも教育プログラムだ。
 母語と外国語による物語を聴き、再表現し、考え、
さらに表現を深化させていく。
 いわば濃密な言語体験・言語実験のくり返すことで
物語と睦みあっていく。
 だから、テーマ活動に取り組むと、必ずといっていいほど
その物語が好きになる。
 ただ、その言語体験、物語へのアプローチのしかたが
身体と音声による表現活動であるために
多分に演劇的要素をもっている、ということだと思う。
 だから「うまいテーマ活動」などは誰も求めない。
セリフや語りが「いえる」ことは素敵なことだが、
それよりも、その子どみがどのように聴き、どのように物語に近づこうと
したかが問われるのだろう。
 だから、ライブラリーを制作する側からいえば
「劇的表現がしやすく」みたいな小技を用意しようとすると、
子どもからそっぽをむかれる。
むしろ、「どうやって表現するんだ」という煩悶するところに
物語とテーマ活動の緊張したいい関係があるのだ、なんて断言してしまう。

 ずいぶんと力んでしまったが、要するに、
絵本作品や児童文学やファンタジーもいいけれど、
たとえば日本の近代文学がひとつもライブラリーにないのは
ちとさみしいのお。
 芥川でも一葉゛ても、仕立てかたによっては
感動的なライブラリーになるはず。
※あくまで個人の感想だからね。

 話はもどって、この講談社の文学全集以前に、最初に
物語への興味をもたせてくれたのはケストナーの
「エーミールと探偵たち」だ。岩波の大版である。
母の妹、すなわち叔母がプレゼントしてくれた。
次が『ドゥリトル先生航海記』だ。
 この物語のスタビンズのように、いつか遠くにって
まだ知らない、夜と昼を見たいと思っていたぼくは、
ドゥリトル先生と友人になったスタビンズに嫉妬した。
 なにより、ドゥリトル先生がスタビンズを子どもあつかいせず
「スタビンズくん」として対等に接することに憧れた。
 そんなこともあり、文学全集でも外国作品を先に
どんどん読みすすんでいった。
 というより、日本の文学にそんなおもしろい作品があることを
よくわかっていなかっただけである。
 そんななかで、最初に出会った心ひかれる日本文学が
『坊っちゃん』だったのだ。

 漱石が松山の旧制松山中学に教師として赴任したのは
写真の道後温泉本館が建てられた翌年の1895年である。
ご承知のように、『坊っちゃん』は、そのときの体験がもとになっている。
 作品で主人公の坊っちゃんこと、「おれ」が毎日のように
通った「住田の温泉」がこの本館である。
※2枚目の写真は松山市内の「子規庵」に展示されている。
『坊っちゃん』の書き出しの原稿だ。構成の朱がはいっていて
リアルである。

 一般的に、『坊っちゃん』は痛快青春小説のように読まれる。
確かに、ガキのぼくでもすいすい読める筆力と展開のおもしろさ
小気味よさは、さすがに文豪漱石である。
だが、何度か読むと、かなり鈍なぼくにもこの作品のが見えてくる。
 くり返し聴いたり、読んだりすることはじつに重要である。
物語でも音楽でも,山とか谷がある。
一度くらいふれただけだど、山頂だけ、海でいえば
氷山の頭しか認識できない。
だが、くりかえし味わうことで、だんだんでこぼこや入江や
谷底や川や森が見える位置まで降りていくこどができる。
そうして、やがて全体が見え、同時により細かい部分も鮮やかになる。

 漱石は、もともとは造詣が深かった漢詩の世界のような
悠々とした世界に遊びたい人物である。
急速に近代化、というより西洋化する日本を少なくとも手放し
ではよろこんでいなかったと思う。
 帝国大学を出て高等師範の英語教師になった漱石は、
同時に日本人英文学を学ぶ違和感に苦しみ、
神経衰弱と強迫観念に悩まされる。
 そして、逃げるように赴任したのが松山である。
 
 その後、漱石は国から英国留学を命じられる。
1901年、20世紀のしばまりの年である。
ここでも漱石はロンドンの湿った気候と、
日本にはないたくさんの窓のがならぶ街の構造におびえ
いつもだれかに窃視されているという幻想に苦しんだ。

 西周をはじめとする明治の知識人だちは、外国語に
多くの漢語による訳をあたえた。
「哲学」しかり、「数学」しかり。
ちなみに「野球」は漱石と信仰のあった子規が名付けた。
子規は野球好きで「打者」「投手」「捕手」などの
ほとんどの野球関連語の訳をつくった。
 その功績で、子規は野球のHall of Fame すなわち殿堂入りしている。

 しかし、当時の日本人の概念になかったことば
たとえばPrivacyなどには、ついぞ訳をあたえられなかった。
Privacyは、辞書をひくと「私的自由」が一番目の意味として
あげられているが、どうもピンとこない。
 やはり日本の伝統文化にはないことばなのだ。
 漱石の時代の平均的一戸建ての家屋は、
平屋で縁側があり小さくとも庭があった。
垣根はあったが、せいぜい腰の高さであり、
道行く人と縁側で新聞を広げる漱石はあいさつができた。
垣根は単にオカルティックないわば結界にずきなかった。
 ロンドンの小さな窓がたちならぶ閉ざされた空間に
居住することは、漱石には耐えがたいことだったろう。

 2年ほどで漱石は半強制的に帰国させられ、帝大で教壇に立つ。
それに押し出されるように小泉八雲が帝大を去ったのは
有名な話である。
 漱石が『吾輩は猫である』を発表したのは1905年。
日露戦争終結の年である。
 このかなり無謀な戦争は、日本もロシまアも金がなくなり
へろへろになったところで、アメリカの仲裁で終戦する。
日本は勝つには勝ったが、賠償金などはいっさいなく、
ただ無駄遣いだけがのこった。

 日本国民はこの勝利にいたるまで、つかのま、
国家との一体感を味わう。
だが、すぐにポーツマス条約の後、
国家との乖離を身にしみることになる。
いわゆる「近代的疎外」というやつである。
 国家と個人の乖離にもとづく疎外、これは大衆のみならず
漱石をはじめとする知識人たちもまたもっていた時代の病である。
 この後、日本は大逆事件を象徴とする、
言論統制と閉塞の時代にむかっていく。

 漱石も鴎外(帝国軍医監という権力の側にあったが)、啄木も
その閉塞への危惧を抱いていたことは作品からも知れる。

 『猫』で評価を得た漱石は、翌年、『ホトトギス』に
『坊っちゃん』を発表する。
そして、1907年、朝日新聞と契約しプロの小説家となる。

 『坊っちゃん』の主人公「おれ」は、西洋化にひた走る以前の
おだやかな日本への強いあこがれを持つ漱石の分身である。
その象徴は「おれ」を溺愛するばあやの「清」だろう。
 ご存じのように「おれ」は、山嵐とともに赤シャツと
腰巾着の野だいこをボコボコにし、ただちに教師を辞職して
東京に帰ってしまう。
 
 「おれ」のたたかいは、結局はテロである。
そして、「おれ」も山嵐も勝利することはできなかった。
 武士の時代は遠く去り、役所や会社などの新たな組織のなかに
新たな職制というヒエラルヒーが生まれ、
官僚や教頭のようなパワーエリートが台頭しはじめていたとき、
「おれ」すにわち『坊っちゃん』は、周回遅れのランナーであり
時代に逆行するやんちゃ坊主に過ぎなかった。
 だから、「おれ」は老いた清をひきとって生涯めんどうを見る。
清こそ、漱石が帰りたかった「おてだやかな日だまり」の古き日本である。

 この『坊っちゃん』で漱石はプロの小説家として生き抜く決意をする。
国からの文学博士の授与も辞退し、
官の世話にはならない志をつらぬいた。
朝日新聞とも細かい契約を結び、金の亡者との陰口もささやかれたが
それはプロの作家としての矜持にほかならない。
 
 『坊っちゃん』の構想をねっているとき、門人たちが
漱石にその概要をたずねた。
 漱石が「松山時代の教師の話を書くつもりだ」とこたえると、
門人たちは口ぐちに
「先生、それはリアリスムですか、自然主義ですか」「実話小説ですか」
などとと問いただした。
 すると漱石は、
「ばかいっちゃいかん、小説なんて体験がなければなにも書けん。
問題は、それにウソの枝葉をいかに広げるかだ。
その枝葉は大きいほど豊な話になる」
といったという。

 日露戦争はアメリカの仲介でポーツマスで講和条約を結ぶ。
その中心的役割を果たしたのは、
テディの愛称で知られ、ぬいぐるみのクマの名称の由来にもなった
セオドア・ルーズヘルト大統領である。
瀬戸内中年感傷旅団 道後から神の島へ 1 02月17日 (木)
ひらやま 
 四国へ行くといったら、友人、知己のほとんどが、
「土佐だろう。龍馬か万次郎か」と口をそろえていう。
その口調は、「けっ、すぐ流行にのるやつ」という
なんとか見下したいという下心と、その裏側にある
「ちぇっ、ひまな奴はいいなあ」という羨望がミエミエである。
 どっこい、こちらは希代のへそ曲がり。親子三代のかわりものである。
行き先はだれもあたらない。愛媛県松山だ。
 ラボで働いたおかげで、日本や世界のあちこちに行くことができた。
※一番多いのは、群をぬいて黒姫!
 アメリカは、ステイした州、とにかく足を踏み入れた州までいれたら
40州くらいになる。カナダは3州。
 メキシコ、ニュージーランド、中国(北京・上海・西安)、
※北京は録音(中国語SK3)でも訪問した。
そしてウェールズ…。
国内でも、海の学校で高島、平郡島などにも行くことができた。
幸運なことである。今さらだが、旅は個人の世界をひろげる。
もちろん、このほかにもプライベートで、ちょこちょこはでかけた。
しかし、個人的旅行は、年齢と反比例して減少の一途。

 そんなこんなで、いざフリーな立場になると、
そしてマジな話、人生ののこり時間を計算するようになると、
動けるうちに、あちこち行かねば! というわけだ。
 で、振り返ってみると、四国には一度も行ったことがない。
ふしぎだが、仕事でもプライベートで縁がなかった。
 
 そんなわけで(どんなわけだ!)、如月の旅は四国である。
なぜ松山なのかは、読んでいくと多分わかる(偉そー!)。
でも、それほどすごい理由ではないのであしからず、
ただ土佐は、なんか付和雷同チックなので次回かなあ。

 最初の写真は2日目、つい昨日の昼ごろ。
平山郁夫美術館にて。
 朝、9時過ぎに後述の道後温泉から車で出発。
今治市経由で、「しまなみ海道」を北へ。
バレンタインの大雪がウソのような青空だ。
やがて橋をこえる。
来島海峡は早春の陽射しを、海風と舞踏させて乱反射する。
水面はべた凪だが、車内からも潮目がはっきりと見える。
まさに瀬戸だ。
大島、そして大三島(後述)をこえて生口島(いくちじま)へ。
ここは、もう、広島県尾道市である。

 平山郁夫美術館は、この島の港から10分ほどのところにある。
平山画伯は、1930年、この島で生をうけた
画伯の画業については、ぼくが小賢しい能書きをたれる必要はないだろう。

 ずいぶん昔の「ラボの世界」の「十代とともに」に平山画伯の
インタヴュー記事が掲載されているが、
ぼくはそのころ制作にはいなかったので、
「へぇーっ、すげえなあ」と記事を読んだ記憶のみが残っている。

 この美術館は1997年4月に開館、
http://www.hirayama-museum.or.jp/index.htm
大作の下絵や少年時代の作品など、貴重な作品と出会うこともできる。
もちろん、ここから世界の美術館に貸し出しが行なわれている。
※個人的感想だが平山氏のアーティストとしての
 世界評価はもっと高くてなってほしい。
※賢治と平山郁夫の世界評価については不満だぞ。

 国民学校の四年生のときの絵日記などを見ると
すでにその画力が炸裂している。
デッサン力、構成力、そして色彩。
画材はとぼしいはずなのに…。
そしてなにより、その観察眼におどろく。

 ピカソもいったが、絵においてたいせつなのは、
「まずよく見ること」である。
音楽においては、よく聴くことであり、
文学においては、よく読むことである。
 どうしても、inputは受け身と考えがたちだが
むしろ、描くより見ることがたいせつであり。
弾くより聴く、書くより読むことが、まずは重要なのだ。
いうまでもなく、ラボにおいては
「ことばを聴く」「絵本や、発表を見る」というinput
がたいせつであることはいうまでもない。
英語や日本語が「いえる」みとは、すてきなことだが、
聴くこと、はとても積極的な表現行為だ。
 「うまく描こう」「うまく書こう」「うまくいおう」
と考えたらだめなのね。
 平山少年も、ぜったい「よく見て」いたはず。

 ティールームには、瀬戸内の光が静かにふっている。
画伯自身も述べているが、瀬戸内の風と光が
画家平山郁夫の根っこにあることはまちがいないと実感できる。
 間宮先生の「幼いとき、どれだけ美しい自然の音や色を体感することは、
音楽のみならず、あらゆる芸術において、
すぐれた過去と出会うこととともに
たいへん重要です」ということばを思い出した。
 そして、
 平山画伯ももうひとつの原点は被爆体験である。
この人類がおかした最大のあやまちのひとつが
画伯の画業・画風・画法・思想・活動の根幹にある。

好きな「求法高僧東帰図」をぼうぜんとながめていると、
ひとりの紳士が、やさしく声をかけてくださった
それが写真の平山助成館長であった。
 館長は平山画伯の実弟である。
あやしげな中年が、やけに熱心に観覧しているので
ちょっと心配になって接近されたのかと邪推したが、
とても親しくお話していただき、名刺までちょうだいしてしまった。

 そうこうしているうちにすでに正午を過ぎた。
ていねいにお礼を述べて辞する。
 入り口に子どもたちの絵画が展示してあるのも
教育者でもあった画伯の志をうけついでいる証だろう。
 外に出ると、海がまたひときわあざやかにきらめく。

 シルクロードを中心に35万キロにおよぶ取材旅行をした
昭和の玄奘の魂は、
 今はふるさとの海や、天山山脈のはるか高空に、
そしてインドの大地に、
自在に遊んでいるのだと確信した。

 平山画伯といえば、ライブラリーの『ふじみの九人きょうだい』
の画家、劉欣欣(リュウ・シンシン)氏とのエピソードがある。
劉氏は、中国の東北地方の出身。
『ふじみの九人きょうだい』は、雲南省イ族の昔話をもとに
テキストはラボのオリジナルだから絵の担当者もきめねばならない。
 その前に、
 「ちびくろサンボ」とともに「シナの五人きょうだい」の
差別問題論争をご記憶の方はあるだろうか、
前者のほうは、黒人をステレオタイプとして侮蔑的に描いている
ということで問題になった。
 個人的には、確かにスタレオタイプ(昔のカルピスのロゴも
黒人がストローで飲んでいる姿が同様に問題になった)ではあるが、
それほどサンボを侮蔑しているようには思わない。
 例によって表現の自由はどうなんだという、けっこう不毛な
(個人的な感想だからね。いちいち目くじらたてぬように)
議論もあり、自費出版するグループもあらわれたと思う。
 「シナの五人きょうだい」も同様であったが、
シナ=支那ということば、中国の蔑称だということ、
すなわち中国に対する日本の侵略行為の象徴としての名称だということも
悩ましい問題だった。
加えて支は支線などようするに枝葉の傍系ということであり、
那はへんぴな所という意もある。
 ただ、シナの語源はラテン語由来とされる説が有力(らしい)
とされており、そうとう古くからある歴史的呼称である。
 シーナがインドではチーナになり、また英語のChinaにもなった
といわれる。ただし、Chianaの語源は長安からだと、
中国の方からきいたこともあるぞ。
 しかし、支那という名称に歴史的背景から否定的になるのは
ある意味まっとうなSensitivityかも知れぬ。
 さらに、話は飛ぶが、
ライブラリーの『ナイチンゲール』にもシナということばがでてくる。
むかしシナの国の~ というあのくだりだ。
 この物語もヨーロッパから見たアジアという歴史の襞(ひだ)゛か
感じられるが(まだまだふしぎな所だった)、
昔話の形式に自らのファンタジーを投影したアネルセンは
(アンデルセンは、デンマークではもちろん、ヨーロッパではアネルセンという
音が基本。どこにもD音はない。いまさら無理か)
まったくふつうに、中国の呼称としてシナ、あるいはシーナと
書いたのだ。
 だから、日本語を書かれた山室静先生も、特別に意識せず
その音をつかわれたのだと思う。
じつは、このシナということばを司修先生にご指摘をうけたことがある。
司先生は、戦争憎み、平和をテーマにされている大画家である。
石原慎太郎氏の小説の挿絵をよく書かれていたが、
石原氏が政治家になったときから、
「ぼくとは考えが異なるので、お書きすることはできません」
といいきったほどのぎひはい方である。
 そのときは、すでに山室先生は亡くなられていたが、
シナの語源と山室先生の、ことばと文学に対するお心を
説明することで、司先生にはご理解いただいた。
 
 本題にもどる。
シナということばの議論はさておき(しかし、このことばが
そうした歴史的背景があるという認識はたいせつ。
無邪気に昔ながらの支那そばなどと平気でメニューに書いて
いるラーメン店はこまったものだ。たぶんおいくないだろう)、
 『サンボ』も『五人きょうだい』も、
大問題なのは、どこの国の話がよわくわからないことだ。
以前の日記にも書いたが、昔話を具象的に描くときは
それにりの考証が必要だということだ。
それは最低限の、その物語を語り継いだ人びとへの
リスペクトである。

 『シナの五人きょうだい』では、五人きょだいのヘアスタイル
がすべて弁髪である。
この髪型は満族のものである。イ族のものではない。
清朝の皇帝が弁髪なのはご存じの通りだ。
ラストエンペラーは漢族ではないのだ。
ジョン・ローンが弁髪を自らきるシーンはすごかったなあ。
 やつぱり地域不明になっちゃまずいよね。

 それで、『九人きょうだい』にやっともどるが、
そんなわけだから、やっぱり中国の画家に描いてほしいなという
事になった。
 何人か候補があがったが、結局、迫力のある
劉氏に決まった、
この当時日本でデザイナーとして活動しつつ
精力的に抽象画の制作をしていた気鋭の画家を紹介してくれたのは
ラボの中国交流をコーディネイトし、北京月壇中学との交流にも
尽力されたオフィス華林(ホア・リン)のリンさんである。
 劉氏は前述したように、中国の北部、
たいへん寒いところに生まれた。
両親はガラス工場ではたらいていたが、物質的には豊ではなかった。
ただ、劉少年は幼いときから絵が好きで、ヒマさえあれば
描いていたという。
 だが、画材がない。墨だけはあったという。
さすが書の国である。
 筆は、そこいらを走っている馬をつかまえて
その尻尾の毛でハンドメイド。いのちがけである。
 たが紙もない。貴重品だから、あったとしても
日本の子どもみたいに「失敗したから新しいのちょうだい」
などということは許されない。
でも、たくさん描きたい。
 そこで劉少年は、家にたくさんあるガラス板に
墨で描いた。これだと描いたら、すぐ布でふけば
また描ける。何度でも描いては消し、描いては消しだ。

 やがて小学校に入る。そこで、好きな絵が学べると
劉氏はよろこんだ。
だが、不幸にも文化大革命の波がやってきた。
 勉強などとんでもない。ましてや、芸術などは
反革命の象徴といわれた。
 『西遊記』の絵の李庚氏の父親は中国芸術家協会
副主席もつとめた大芸術家であり、その書は
国外持ち出し禁止であるが、
親子ともどもモンゴルに「下放」され、
牧童生活を強いられた。
 
 劉氏の学校も教師はほとんどいなくなり、
授業は成立しなにかったという。
 ただ、なぜか美術の先生がひとり、健康上の理由
(だったらしい)で学校に残っていた。
その教師が毎日、絵の指導をしてくれたという。
 やがてときは流れ、文化大革命にも終わりがきた。
劉氏は大学生年代である。
 「まともな勉強は、なにもできていない。
ぼくは、どうやって食べていこうかと思いました」
 途方にくれる劉氏にその美術教師は
北京の国立芸術大学を受験するように勧めた。
劉氏はきりつめた生活のなかから旅費を捻出し
30時間以上かけて北京にでる。
 そして、気の遠くなるような倍率を突破して
芸術大学に入学をはたす。

 物語はここからだ。
平山画伯がシルクロード、東西文化の交流をテーマに
創作、さらに文化財保護に情熱を注がれたことは
あまりにも有名である。
 画伯はシルクロードの取材や調査に来るごとに、
芸術大学に立ち寄り、講演をしたそうである。
 劉氏が最終学年になった春も、画伯の講演がひらかれた。
大きな階段教室は超満員、壁際には教職員がきびしい顔つきで
警備もかねて直立不動でならぶという、ものものしいふんいきである。

 講演が終わり、通訳の教授が
「平山先生が質問はないかとおっしゃっいます」
とアナウンスする。
 しかし、だれも手をあげない、というか
そんな空気ではないのである。
なにせ、壁際の教授陣が、じーっとにらんでいるのだ。
 だが、そのころ、日本の伝統美術、さらには近代美術、
そして平山画伯の仕事に興味をもちはじめていた劉氏は、
まったく空気を読まなかった。
「はぁい」と手をあげた。
すると、いっせいに全学生、全教授が彼をにらんだそうである。
通訳は当然指名しない。
 するし画伯は「あそこで一人手をあげていますね」。
そういわれたら通訳は無視できない。
苦虫を一万匹かみつぶした顔で劉氏を指さした。
すると
「先生、ぼくは日本の美術を勉強したいんですが。
どうしたらいいですか」

 これには一同、もう唖然。たおれそうになった女性教授もいたそうだ。
でも平山画伯は笑いながらこういわれたという。
「きみは、日本語ができますか。日本語の勉強ができたら
わたしのところの大学院にきなさい」

 「はい、わかりました」とこたえた劉氏は、その後、
ほどなく日本に来てしまう。
 日本語学校に通いながら、芸大大学院入試のための創作を
開始する。
 入試は秋だ。
 「まだ、日本語はたいしてできなかったけど、
大学院の試験は実技、作品の提出だけだったから」
 
 劉氏は巨大な入試用の作品を三点、山手線で三往復して
運び込んだ。受付の人が仰天していたという。
 結果はデザイン科に見事合格。
「その年、何人入れたの」ときくと
「ぼくだけ」
 恐るべし劉欣欣。
 彼は、もう中国に帰って活動しているが元気かなあ。

 劉さんとは、年が近かったせいもあり、
また美術の考えも同感できることが多く、すぐになかよくなった。
 そのころ、「ことばの宇宙」に
宇宙人の「やればできるクッキング」という企画があった。
新刊が出るとそれに関連する料理を
ラボっ子とつくってもりあがり、
そのレシピや感想文をのせる
お気楽だが段取りがたいへんなコーナーである。
 ロシアのときは、ピロシキ、「大草原」ではターキーロースト
などに挑戦した。
 
 劉氏には「餃子をつくれ」とたのんだ。
ひどい話である。
 でも、彼は「おもしろい、やりましょうと」ふたつ返事でOK。
友人の中国人夫妻(しかもその婦人のほうは料理学校先生を教える先生)
を連れて来てくれた。
 場所は、ラボっ子の家に迷惑もかけられないので
ぼくの家でやった。
 参加するパーティは、息子が入っていた野田和美パーティである。
息子が小1のときだ。
 その息子も今年で29歳。
 
 残念なことに、野田和美テューターは、もうこの世にいらっしゃらない。
とにかく、ライブラリーをよく聴くパーティだった。
 そして、かぎりなくラボとラボっ子、そしてテーマ活動が
大好きな方だった。
 研修の発表で王様役をしたら、だれもかなわないくらいおもしく
そして聴き込みもすごかった。

 でも、その遺志は、知美さんにしっかりと受けつがれ
神奈川の野田知美パーティとして活躍している。
 物語とともに命もつながっていくのだなあ。
ミューゼスの海からの帰還 はやぶさ伝説 2 02月11日 (金)
いおん はやぶさ
 昨日、待ちに待った惑星探査機はやぶさのプロジェクト・リーダー
である國中均教授のお話をうかがう催しに参加した。
 場所は神保町の学士会館。木曜会という母校の高校が不定期に開催する
同窓生による講演と懇親会がセットになった集いである。
 國中教授は、果実の日記にも書いたし、テレビでも紹介されたように
太陽観測部という黒点の観察・研究をする部活をされていた。
ぼくは45期の卒業で教授は53期。当然面識はない。
 教授の正しい肩書きは
JAXA 宇宙航空開発研究機構 宇宙科学研究所 宇宙輸送工学研究系教授
月・惑星探査プログラムグループ 
探査機システム研究開発グループ・リーダー
である。すごい長さ!
 「はやぶさ」の打ち上げを記憶している方は、いらっしゃいますか。
それは2005年5月のこと。
いよいよ帰ってくるとわかった昨年の春ごろから
ようやくマスコミも政府も! さわぎだしたのである。
 「はやぶさ」がめざした小惑星(Asteroid)イトカワは、
差し渡しがわずか500メートルほどの小さな天体である。
かたちは2枚目の写真のようなラッコ(JAXAではそうよぶ)のよう。 
※イトカワの名は日本のロケット工学の父、糸川英夫博士に由来する。
しかし、イトカワを発見したのはMITのグループ。

 小惑星帯(Asteroids Belt)は、火星と木星の間にあり、
構成する天体の数は48万個も以上といわれる。
イトカワは、そのにかでもかなり小さいもので、高性能の望遠鏡でも
地球からは、ほとんど点にしか見えない。
そこまでたどりつき、サンプルをとって帰ってくるのは、
ほとんど無謀、だれもが無理と思っていたことだった。

小惑星への接近そのものは、比較的はやくからに行なわれいる。
1989年のアメリカの木星探査機ガリレオがイダという
比較的大きな小惑星に節金して映像を送ってきた。
そして、その後もいくつかの探査により映像が得られているが、
それらの探査機はすべてoneway ticket 片道飛行。
したがってサンプルをもって帰ることはできない。

 小惑星に宇宙研究者が注目するのは、太陽系生成のしくみに
せまることが可能だと推測されるからである。
 地球は生物が誕生して、大きく環境が変化しているために
太陽系が生まれたころの資料はほとんどない。
 だから、地球以外の太陽系天体のサンプルがほしい。
そして、これまで人類が地球に持ち帰った天体サンプルは月のものだけだ。
しかし、月のようなでっかい天体は熱などでかなり変形している。
そこで、イトカワのような
できるかぎり小さな小惑星のサンプルは貴重なのだ。
もちろん、地球に落ちてくる隕石も小惑星由来が多く、
これも貴重なサンプルである。
だが、これも地球突入の際の熱で溶けたのこりかすであるので
手つかずの表面のサンプルはとれない、

 地球からイトカワまでの距離は、およそ0.28天文単位
(1天文単位は約1億5000万kmなので、4,200万kmだ。
この気の遠くなる距離を往復するためのエンジンを開発したのが
國中教授である。
 教授は、それをなしどけるエンジンの条件をとてもシンプルに語られた。
・なるべく小さな力で長くつかえること。
・なるべくこわれにくいこと。

 そこて開発されたのがイオンエンジンである。
イオンエンジンを説明すると、とっても長くなるが、ざっくりいうと
キセノンなどのガスをプラズマ(物質は気体・液体・個体の三態に加えて
プラズマという状態がある)状態にすることで発生するイオンをつかう。
なんのこっちゃであるが、ようするに電気エンジンである。
これに対して、ロケット打ち上げのときにつかう燃料を爆発させて
その力を動力とするのが化学エンジンだ。

 おどろいたことにイオンエンジンそのものの技術は1964年くらいからあり
ラボとあんまりかわらない歴史である。
ただ、そのころのイオンエンジンはまだまだ遅く、とてもイトカワなんて
遠くの宇宙に行く力はなかったそうである。
國中教授たちは、先輩から受け継ぎ、
なんと45年もかけて育てあげた。
そして、まだまだ成長させようとしているのだ。

 イオンエンジンを4機搭載(通常3機使用、1機は予備)した
「はやぶさ」はなんと秒速30キロという速度で
宇宙を航行することができる。
これは化学ロケットの数倍から数十倍の速度だという。
しかも、たいへん長く力を発揮できる。
しかし、その力はたいへん弱い(約23ミリニュートン、すなわち
1円玉2個が落ちるちくらいの力)ため、
真空状態の宇宙空間でしかつかえない。
だからロケットで打ち上げて、それから宇宙にでたらイオンエンジンで
イトカワにむかってGO! というわけだ。
 では、どのくらい長くつかえたらいいのかというと、
基本的には14000時間、約600日連続でつかえねばならない。
そのためには、20000時間(約2年半)の実験が必要だそうで、
國中教授は、2年半ずうっとイオンエンジンを運転する実験を
3回行なったそうである。しんじられない粘りである。

 当然、開発には時間とお金がかかる。
惑星探査には、少なくも年間3億くらいの予算が要るそうである。
だが、当初の開発予算は年100万円だった。
その予算をどうとるかに教授は腐心する。
 「イトカワのようなにはるか彼方のちっほけな天体から
必ずサンプルをとって帰れるのかね」
 と上層部はきく。
例の事業仕分けでも某K間K代氏などにめちゃくちゃいわれたそうだ。
「自信はありません」
といったら、ぜったいに予算はとれない。
で、どうするか。
教授はそのこたえを、デカデカとスクリーンにうつした。
「ハッタリとツッパリ」
 一同爆笑だったが、ものすごいプレッシャーのかけ方である。
「未来はあるものではない。創るものです」
教授はそういいきった。
 
 かくして、本来の研究とはちがう政治経済のパワーも発揮して
國中ティームはついに「はやぶさ」を空にはなつ。
 まず、地球をまわる軌道(近宇宙というんだそうだ)のせて
十日間。そして、地球の引力と地球が太陽をまわる遠心力を利用して
イトカワの方向に「はやぶさ」を放り投げた(スイングバイ)。
次の計画としては、いちばんでつかい惑星である木星の引力を
つかって、もっと遠くに放りなけたいそうだ。
ほとんど「ほら男爵」の世界。

 もっとも地球周回を、ぼくらは「廻る」というが
専門家によると人工衛星は「落ちている」もので
ただ地面が半永久的に近づかないから廻っているとのこと。ふしぎ。

 「はやぶさ」の往路は比較的順調だったそうである。
約2年かけて「はやぶさ」はイトカワに接近、どんどん写真を送ってきた。
望遠鏡では点でしかなかったイトカワが、日々大きくなってくる。
そして表面が見えてくる。
この時期は毎日がわくわくして楽しかったそうである。
少年だぜ!

 しかし、もうこれだけ地球から離れると電波の往復に30分かかる。
だから、地球のコンピューターで精密な計算をして、
その結果だけを「はやぶさ」のコンピューターに送ることで
姿勢の制御や撮影などを行なうのだそうだ。

 ここまでで國中教授は仕事の半分が終わったので一安心。
しかし、いちばんたいせつなミッションはサンプルをとること。
そして帰ってくることだ。
 ここで、想定外のことがまずおこる。
イトカワの表面が予想よりはるかにでこぼこだった。
そこで、分析の結果、もっとも平そうな
ミューゼスの海(教授たちはイトカワのクレーターや地域に名前をどんどんつけた。鴨居=神奈川の地名とか、駒場とか,自分たちに関係ある名前が多いが
これはかっこいい)が着陸ポイントに設定された。
ミューズは、ご存じソングパードμのもとになった音楽の神ムーサイ
(musicの語源でもある)でミューズの神がみの海ということで
「ミューゼスの海」だそうだ。

 着陸する前には、まずターゲットマーカーという目印をおとし、
それを頼りに降下していく。
なお、このマーカーには世界中180か国から集めた88万名の人びとの名前が
きざまれているそうだ。
 着陸といっても時間はほすが1秒、その瞬間に弾丸のようなものを発射し
舞い上がったチリやホコリをすいげて、ただちにずらかという、
いわば一撃離脱、カバディのようなやり方だ。

 しかし、一回目の着陸は見事に失敗。
「はやぶさ」はイトカワの大地にゆっくりとバウンドして落下、
30分くらいころがっていたらしい。
しかも、その後、通信ができない時期が1か月もあった。
さらにまずいことに、その自己のせいで脱出用の化学ロケットが
イカレてしまった。
だが!真空中なのでイオンエンジンはつかえる。
それでもういちど宙にうかび、再着陸とサンプル採取に挑むことになった。

 しかし、國中教授の半分本音は
「もういいじゃあないか、帰ってこようよ」
「お願いだから、イオンエンジンこわさないで」
という、親のような気分だったという。
 
 それでも、2度目の着陸とサンプル採取は(たぶん)成功。
いよいよ帰還の旅だ。
 ところがとつこい、さぐざまなトラブルが続いたたため
かなり電池などをつかってしまった。
そこで太陽光での充電や、いろいなたてなおしのために
3年も帰還を延期することになった。
 このときは、もうほとんど関係者以外は、
「やっぱ無理じゃん」という態度だっとらしい。

 それでも國中教授はあきらめない、イオンエンジンを信じて
地球にむかって「はやぶさ」を航行開始させる。
だが、However、あれほどのテストをくりかえしたイオンエンジンも
予想をこえる酷使によって4機あったものが次つぎにおかしくなった。

 そして、ここから驚異。國中教授は、そんな最悪の事態も予測して
残ったエンジンを組み合わせて使用することで
「はやぶさ」を見事に地球の軌道まで近づけたのだ。

 次に悩ましいのは、地球のどこに帰還させるかである。
はじめの計画では地球の引力にとらわれる前に、
サンプルの入った耐熱カプセル(直径40センチくらいの中華鍋を
ふたつあわせたようなの)を切り離し、「はやぶさ」本体は別の目標に
むかって旅をづつけるというねのだったという。
 でも、いろいろ計算すると、「はやぶさ」本体ごと大気圏に突っ込む。
すなわち、ぎりぎりまで「はやぶさ」をコントロールしないと
正確な場所に落下させることが困難なことがわかった。
 
 帰還地点はオーストラリアの砂漠。そのどまんなか。
これは、かなり前から決まっていた。
ところが、オーストラリア政府がなすなすOKしない。
そりゃそうだ。どこの国でのもほかの国が空からおとした中華鍋が
ふってくる。それが、もし都市におちたらどうするんじゃ。というわけ。
それから、回収もたいへん、砂漠のまんなかに仮にうまく落ちたとして
どうやってみつけるか。
 着地予定地点は、ヘリコプターでいくほかない砂漠のまんなか。
陸路、ジープなどでいくことはほぼ不可能。
 さらに、そこからもちだすのは輸出となり、
日本にもちこむのは輸入となる。
 それやこれやは、一人や二人の大学教授ができることではない。
もっと研究だけさせてくれ! というのが教授の心のなかである。

 でも、ねばりにねばった。
いよいよ、帰還が現実なってくると、ついに世界中の研究機関や
マスコミがさわぎだしたのである。
それで、ついにというか、やっとというか日本政府も動きだし、
オーストラリア政府も着陸許可をだすことになる。
 ここで最後のひとふんばり。
國中教授は神技的なコントロールで「はやぶさ」を誘導、
ほぼピンポイントで砂漠のまんなかにカプセルを着地させる。
 大気圏に突入した「はやぶさ」は、カプセルをきりはなし、
宇宙の神秘という宝を抱いたわが子の旅立ちを見届けると、
自らは燃え尽き、輝く星となって蒸発する。
 その瞬間をニュース映像で見て感動された方は多いだろう。
ぼくも、号泣してしまった。

 カプセルの中身の分析は進み、3000以上ものミクロン単位の
サンプルが検出されている。それらは、まちがいなくイトカワのもの。
しかも、その3倍くらいはまだ見つかるという。
 かつては望遠鏡で点にしか見えなかったイトカワを
ついに顕微鏡の世界でとらえることができたのだ。
 
 これらのサンプルは、いまた゛いっさい地球の外気にふれさせてはいない。
さらに今回のサンプルのうち約3割は手をつけずに未来にとっておく。
それは、未来でもっとすぐれた分析方法、知見が生まれたときのため、
まだ見ぬ研究者たちのための、まさにピラミッドやスフィンクスだ。


 今回の困難なミッションの成功の要因について、
教授は興味深いいい方をした。
 通常の機械はつくると人と使う人がちがう。だから
その能力を万が一にそなえて90%で用いてもらうようにつくられる。
「はやぶさ」は基本的に5つのシステムでできているので
この方式だと90の5乗、すなわち6割弱の力しかでない。
 ところが、「はやぶさ」はつくり手と使い手がいっしょ。
だから、協力しあうば、休ませたりがんばらせたり、することで
110%の力でかうことができる。
 そうすると110の5乗というすごい力になる。
 「ようするに火事場の馬鹿力です」
 
 こんな教授の話をぜひラボっ子にきかせたいと
お願いをした。今も取材依頼は多いそうだが、
なんとか「ラボの世界」に掲載したい。

 國中教授は、「はやぶさ2」を準備している。これは2015年の
打ち上げ予定だ。
 2003年の「はやぶさ」うちあげから12年、
こんな間隔では技術とはよべないと、教授はきびしい。
もっと早く、もっと短い間隔でとりくめないと、
人類への貢献は困難だとおっしゃる。
 アメリカのようにTechnology on the Shelf
つまり、先行して完成している技術が棚のうえにいくつもあり、
なにかプロジェクトをおこすときには、それらをとりだして
すでに開始できる。
そんな人的、経済的体制が必要だという。
しかも、それが持続可能、サステイナブルでなければならない。
宇宙を知ることは、地球を知ることでもある。
自然環境問題は地球だけで考えてすむことではないのだ。

 おさむい日本の科学状況、子どもの自然科学ばなれなど
宇宙研究の未来はけして楽観できない。

 たが、國中教授はまったく落胆も絶望もしていない。
「はやぶさ2」のむこうに、さらなる想いを抱いている。

 それは最大の惑星、全能の神ジュピターの名をもつ木星と
その先の星からのサンプル採取である。
 
 「未来はあるものではなく、創るもの」だからだ。
 
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