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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全292件] 151件~160件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
寛容と非寛容 年の終わりに(アジアの昔話2)  1 12月31日 (金)
なかの いせたん  
 写真上は青梅街道、中野区本町3丁目のバス停近くのショップ。
ラボセンター本部からはバスで10分もかからないところにある。
散歩ちゅうに撮影したもの。なかなかにおしゃれなオリジナルの
ニットや小物がある。
 下は本日、大晦日、正午の新宿通り3丁目の交差点。東北の角から
西を撮影。したがって正面の建物は伊勢丹百貨店本館。
ぼくが幼いときはこの伊勢丹が10階建で最高層だった。
 新宿の街は意外に静か。しかし、伊勢丹の地下食料品売り場は
とうぜんにも大混雑だった。ここの売り場面積の広さと食材の豊富さは
すばらしいのだ(最近リニューアルして、よりグレードアップした)。
 「衣食足りて礼節を知る」という有名な成句がある。
よく「論語」からのことばと誤解されるが、出典は「管子」
(春秋時代の斉の宰相、管仲のことば)だ。
 原文は「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」。
倉庫がいっぱいになって礼儀やモラルが身につき、衣食が
十分にあって名誉とか恥を知るということなのだが、
オリジナルが短縮されてしまったのだろう。
では、衣食足りた日本人は礼節を知ったかといえば
イエスとはいいにくい。いわんや栄辱をや。
『ヒマラヤのふえ』のラモルとブリンジャマティを見よ。
衣食はぜんぜん足りてなくても、感謝と礼節に満ちて生きている。
むしろ、足りすぎるだいじなものを失うんだろう。
 まあ、管仲は富国強兵を国の基本と考えていた人なので
こんなことばもいいそうだなと安易に思ったりして。
 
 昨日の朝、上の写真のそばにあるバス停のベンチに
ホームレスとおぼしき男性が1名、うずくまるようにすわっていた。
まるでかたほうだけのブックエンドのようだ。
 気温はかなり低く、男はじっと身をかがめている。コートをきこんでは
いるがつらそうだ。かたわらには家財道具、全財産がキャリアにくくり
つけられて静止している。妙に整理されているのが寂しい。
「われわれは他人の不幸をだまって見過ごすほどに強い」
とラ・ロシュフコー(17世紀フランスの箴言家・モラリスト)はいった。
そんな上から目線のわけしりことばをはねかえせねない自分がつらい。
しかし、おどろいたのはその足下だ。
 彼はピカピカの白いナイキ製のサッカーシューズ(しかも皮の)を
履いていたのだ。冷え込みに対抗して膝をゆするたびに、
クリーツ(靴底のイボイボ)がアスファルトをコツコツとたたく。
男がその靴を手に入れるまでにはストーリィがあったはずだ。
そして、おそらく、そのナイキは彼の「晴れ靴」なのだ。
 勝手な想像だが、その靴音には安直な同情を拒絶する誇りの
ような強さが伝わってきた。
 今日は年末名言集みたいになって心苦しいが
「同情は連帯を拒否する」とは岡村昭彦氏(ジャーナリスト・写真家
『ベトナム戦争従軍記』=岩波新書は名著)のことばだ。
 「かわいそう」というのは、ともすれば自分を上においている
傲慢さの裏返しになりがちだ。
 しかしかし、とまた大晦日に問い返す。
慈悲、慈愛、わかちあい、思いやり…。これらは無力なのか。
意味を失ったのか。
 いや、そうではない。
確かにいつまで歩ければたどりつけるという保証はない。
はっきりしているのは、あきらめたらそこで終わる。
その力をつけたい。病を得ても、去年より年をとっても
まだ成長したいと思う。
またまた名言で恐縮だが
「行動する人間は未来を信じる力がなければならない」
畑正憲氏のことばが勇気をくれる。
未来を信じる力、いいかえれば希望。
 ラボ・ライブラリーにはそれぞれにテーマがあるが
21世紀になってからのライブラリーに一貫して流れているのは、
まさにこの希望にほかならないと信じる。

 ラボ活動は、ある意味、ゴールのないリレーかもしれない。
ただ競争ではないけれど。

 こうして書いているうちに、あと1時間強で新年だ。
来年こそは、おだやかな年であってほしい。
 1916年のアメリカ無声映画の傑作に、映画の父、D. グリフィス監督
の「intolerance=非寛容」という作品がある。
淀川長治氏の解説付きDVDが2000円以下でAmazonなどで
手に入るので、ぜひ鑑賞してほしい。
四つの異なる時代を舞台に、人類の非寛容さを描きつつ
ラストで寛容=toleranceのたいせつさを示される。
当時としては破格の制作費をかけた壮大なセットがすごい。

 主張することはたいせつだ。しかし、受け入れることはさらに
勇気と誇りを必要とする。
 すべての迫害、差別、紛争の根底には非寛容がある。
寛容さだけでき国際的力学の抗することは難しい。
しかし、非寛容の暴走をとめることができるのは寛容だけだと思う。
深い意味でのtoleranceとはなにかが
ころからの地球のテーマになるだろう。
そのためにも、ラボっ子たちには
世界の文化に尊敬をはらうことができる垣根のない心を
物語から学んでほしいと思う。

 ほとんど「アジアの昔話」のことを書かず、えらそうな話になってしまった。

 今朝、上の写真の店の前にホームレスの男性はいなかった。
どうしているだろうと思ったとき、6歳くらいの少女をつれた
母親と、たぶん祖父であろう男性の3名の家族とすれちがった。
笑顔がすてきな母親は、はっきりとした、かつやさしい声で
こういった。
「今日はね、ママがちいさいころにだあぃ好きだった
『エルマーとりゅう』というご本を買ってあげるね」
「ほんと! うってるかなあ」
「ぜったい本屋さんにあるわよ」

 その子はきっと正月のあいだ読みつづけるだろう。
こうして人の命のように、物語もまたうけつがれていく。
 PEACE TO ALL!

 
 
HAPPY HOLIDAYS! 賢治とラージヒル 3 12月24日 (金)
しせゃんぷ おおくらやま    
 写真は札幌の大倉山にあるラージヒルのジャンプ台と、
例によってえらそうにするわし。
撮影は先日、21日午後。ここで冬季オリンピックが開催されたのは1972年。
ぼくは大学受験生で、入試二日目とラージヒル(当時は90m級といった)
ジャンプが同日だった。試験が終わったとたん、
「さあ、帰ってジャンプ見よう」とつぶやいて家路を急いだ。 
 その数日前、宮の森でのスモールヒル(70m級)では、
笠谷幸生選手の金メダルを筆頭に日本ジャンプ陣がメダルを独占。
当然、ラージヒルにも期待が集まったが、結果はざんねんながら
笠谷の7位が日本人のトップだった。
 この日は平日なので競技は行なっていなかったが、なんと
ジャンプ台の下のほうでそりやタイヤチューブすべりができる。
 スキージャンプは克服スポーツで、恐怖心との戦いにまず勝たねば
ならないが(飛ぶというより落ちるが正しい)、ある選手にきいたところ、
ラージヒルくらいになるとどんな名選手や熟練者でさえも、
飛ぶたびにこわいと感じるそうである。
 ところで、ジャンプといえば宮沢賢治のライブラリーを
制作が始まったとき、ちょうど長野オリンピックだった。
1998年2月のことである。このころは、制作スタッフを
決めているときで、すごいプレッシャーを毎日感じて
仕事をしていた記憶がある。
 賢治作品をラボ・ライブラリーにするには、スタートまでに
かなりの時間を要した。構想から12年はかかっているだろう。
 もっともラボ・ライブラリーにかぎらず構想とはそういうものだ。
賢治文学の魅力をここで書くほどあつかましくないが、
よい原作をもとにラボ・ライブラリーを制作するというのは
今やっている実写版「YAMATO」もそうだが、とってもたいへんなことだ。
 すぐれた作品ほどよい読者がいて、それぞれのイメージを
たいせつにしているからね(だから名作絵本をライブラリーにするのも
たいへん)。ある意味、完成している作品をいったん解体して、
英語・日本語そして音楽で再構築する作業は無謀といえば無謀。
でも、そこから生まれる新しい世界があることも事実。
 そのためには、作品の読み込みはいうまでもなく、
膨大な参考文献に基づく調査・研究がかかせない。
 結果的には制作に直接は影響しなかった資料探索も含めて
どれだけ枝道、回り道をするかが構想のたいせつなところだと思う。
そのことは映画も文学も基本的にはおなじだと思う。
 もちろん、プロである以上、さらにはラボという組織のお金を
つかって制作する以上、予算、時間という枠組みはプロとして
度外視することはできないが、効率と速度を直線的にもとめる
ビジネス的な視座ではどうにもならない。
 構想、すなわち準備のたいせつさは賢治作品にかぎったことではない。
しかし、それでも賢治作品は時間を必要とした。
 と、書いていくと昔を知る方がたは賢治作品と谷川雁氏の関係を
想起されるかもしれない。たしかに谷川氏はラボを離れて以降、
賢治作品のテープ(はじめは英日で、ついには日本語だけで)づくりを
重要な仕事にされていた。
 ただ誤解してはいないのは、谷川氏に遠慮して、あるいはその目を
意識してラボが賢治になかなかとりあげなかったわけではない。
その間も、東北支部からは毎年賢治作品が提案されていたし、
いつも複数の支部が賢治作品を研究していた(もちろんぼくらも続けていた)。
 ではなぜ時間をかけたかといえば、大きくはふたつの理由がある。
ひとつは、組織的な意義、社会的時代的意義。すなわち、ラボのなかで
今、この作家の作品、あるいはロシアやアジアといった世界を
とりあげる教務的、組織的な重要性と、社会に対してラボがはなつ
メッセージとしての重さだ。
 その意義については「資料集」を参照してね。
 確か村上龍氏が芥川賞を受賞されたときだと思うけど、
大江健三郎氏が総評として「今、この時代の日本、世界の状況のなかで、
なぜこのテーマで物語を書くかという時代性と社会性を小説家をめざす
人たちは意識していただきたい」いわれた。ぼくは、そのことばに
はげしく心がふるえ、青き自分を責めた。
 ラボ・ライブラリーはラボだけのものではない。というより、
ラボが次のライブラリーでなにをだすのかは、けっこう注目されている。
前々回のロシア昔話のときに書き忘れたが、小野かおる先生に、
『かぶ』の絵をお願いしにいったとき、先生は開口一番
「ラボは次にロシア無火事話やるんでしょう」といわれたという
(ぼくはそのとき同席していない)。先生は、ご迷惑と思いつつ
毎月送っていたか「ことばの宇宙」(当時は月刊)などを
ちゃんと読んでいらっしゃったのだ!
 昔の日記にも書いたが、ラボを応援してくれている人は
ぼくらが思っているよりきっと多い。
 理解してもらえずにへこむことはあるが、多くのすばらしい
専門家が期待してくれている。それはまちがいない。
ラボっ子の期待にこたえるのはもちろんだが
ラボの組織外の応援団の声援をうらぎることはできない。
今もそう信じている。
 さて、賢治の構想に時間がかかったふたつめ。
それは制作にあたる専門家のみなさんがそろうか。
つまり、英語、絵、音楽の担当者、吹き込み者、そしてアカデミックな助言者
などが、同じ時期に協力してくれるかである。
いうまでもなく、皆多忙な人びとである。
しかもギャラの多寡で動く人びとではない。
賢治作品でラボ・ライブラリーをつくることが、
いかに意義があり、かつわくわくすることかを伝えねばならない、

 上記2点をクリアするために12年を要したといっていいだろう。

 さらに賢治作品は再話が不可能に近い。基本的には文学たがらことばは
かえられないが、古典作品や神話・昔話などはラボ・ライブラリーとして
再話し、音声化し、また音楽もつけることで新たな命を得る。
 しかし、賢治作品はそのことば自身がラボ・ライブラリーのような音声性、
音楽をもっているために、一言でも変化させると味がかわってしまう。
たとえば『注文の多い料理店』の冒頭
「二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、
ぴかぴかする鉄砲てっぽうをかついで、白熊しろくまのような犬を二疋
つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、
こんなことを云いいながら、あるいておりました」
のところの「木の葉」は、ふつう「このは」と読むが
賢治は「きのは」と読ませている。声にだしてみるとわかるが
「きのは」と「このは」ではぜんぜんきもちよさがちがう。
 こんな具合だから、再話は困難である。
となると、収録のサイズが問題になってくる。
作品選定に時間がより多くかかるというわけだ。
結果的には『セロひきのゴーシュ』だけはサイズを縮小したが、
これも監修者の天沢退二郎先生の綿密な指導により、
ことばは変化させていない。

 ここでカミングアウトすると、ぼく自身は若いときには賢治は
読んではいたがあまり好きではなかった。というより、魅力がわからなかった。
それが1995年、第2回のメキシコ交流(今やってないのが残念)
の団長をつとめたとき、賢治をもっていった。
 太陽ギラギラ、底が抜けて真っ黒に近い青空は
賢治と真反対のイメージがあったが、
じつは賢治の作品のように悲しいまでに美しかった。
そして、なんだがスポンジが水をすいこむように賢治の物語が入ってきた。
まさにみずみずしい果実(メキシコは果物がうまい!)である。

 さて、賢治のライブラリー制作に関わった人びとは、
多分、日本では最高のメンバーだといいきっていいと思う。
まさに奇跡のようにスケジュールが一致したのである。
 まずは、監修者として賢治研究の第一人者である天沢退二郎先生を
おむかえできたことは最大の幸福だ。筑摩かに出ている
新校本の賢治全集は高いけどほんとうにすばらしい。
その緻密さには鳥肌がたつ。
 英語はロジャー・パルバース氏。ロシア語、ポーランド語も話し
日本語で駄洒落をいう(近年もメールの末尾に「労蛇」などと書いてくる)
ことができるほどの「ことばの天才」にとっても、賢治の英訳は難関である。
なんどもはげしい議論をし、ときには彼のプライドに土足で踏み込むほどの
やりとりをしたが、そのことで信頼関係は増した。
なれ合いからはなにも生まれない。
 そのなかで印象的だったことをひとつだけ書く。
『雪渡り』をめぐってあれこれ議論をしていると、
パルバース氏が「物語でいちばんたいせつなものは
なんだと思うか」と突っ込まれた。
 ぼくは、この作品はとくに好きだったということもあり
即座に「透明感です」とこたえた。すると氏は少年のような
四郎のようなキラキラした目で" Transparency!"といって笑った。
英語と日本語で同時に同じイメージを共有できた瞬間。
そのとき、「これでいける」と思った。
 音楽は林光氏。『一人のゴーシュとして』という著作があるほど
賢治への思いは深い。先生について書くときりがないが、
感動したエピソードを三つ。
 ひとつは「星めぐりうた」のピアノ伴奏を林先生自らが
「ぼくが弾きたい」とおっしゃったこと(CDを聴こう)。
ふたつめは『ざしきぼっこのはなし』の音楽が、僕自身が
こうなったらすてきだなと思っていた通りに
民芸調、昔話調のいわゆる和風ではなく、硬質なピアノ
(これは連弾です。CDを聴いてみてね)だったことだ。
音楽はどこに何秒、なんに対してつけるかは打ち合わせするが
編成や曲調は作曲家しか立ち入れない城だ。
※なまじ細かい注文をするとたいていだめになる。
 それゆえにイメージ通りの音がてでくるとほっとする。
さしてみっつめは、『雪渡り』の音楽が、司氏の絵を見てもいない
のに、あまりにも絵とマッチしていたこと。透明感。
 しかし、冷静に考えると同じ作品の絵と音楽だから
あたりまえなのだが、それでも感動してしまった。
 個人的には「赤い封蝋細工のほおの木の芽が、風に吹
かれてピッカリピッカリと光り、林の中の雪には藍色
の木の影がいちめん網になって落ちて日光のあたる所には銀の百合
が咲いたように見えました」
という人間業とは思えぬ美しい文にかかぶさるチェロのピチカート
のところが大好きである。

 そして絵は司修氏。氏はすでに『トム・ティット・トット』などで
ラボにご協力いただいていたが、当時はかなり大きな仕事をされて
いてたいへんな状況であることをきいていた。
 しかし、ぼくらのなかでは司修氏以外、あまり考えられなかった。
ひとつ気になったのは氏が『ゴー
シュ』の絵本を描かれていたことだ。
その絵を使用するのではなく、新しく描けというのはアリなのか。
 しかし、悩んでもすすまないので例によって企画書を
一方的に送り、無礼を承知で電話した。
 するとやはり先生は「賢治作品なので協力したいが。かなり忙しい。
今回は…」とおっしゃる。そこで
「正直いって先生以外に絵の候補者はまだいません。考えてもいません。
詩2編と歌、物語3編をすべてとはいいいません。2編だけ、いや1編だけ
でもお願いしたいです。林先生、天沢先生も協力してくださいます。
のこり作品については、先生のお眼鏡にかなう画家を紹介してください」
 とせまった。よく考えると(考えなくても!)かなりの無礼だが
ここが勝負だからしかたない。
結局、とりあえず話はおかがいましょうと先生からおっしゃってくださり、
お宅にうかがうことになった。
 先生のアトリエは東京の西部・武蔵村山市にある。立川の駅から
車で20分くらいかかる緑豊かなところだ。
 2月の寒い日である。はじめに書いたように、その日は
長野オリンピックのラージヒル団体が行なわれていた。
 立川からの車のラジオで日本は3位である。
でも、なせが仕事もジャンプも逆転がまっている気がした。
司宅に着くと、先生はいつものような深いまなざしで
ぼくらを迎えられた。
 けしてえらぶらず、しかしゆるぎない迫力。
ぼくは先生に会うたびに心を鍛えなおされる。
 結論は早かった。ぼくらがあいさつをすませた直後
「企画はわかりました。ラボの賢治であれば、他の人に描かせる
わけにはいきません。ぼくに全部描かせてください」。 
 そしてやわらかな笑顔。
 帰りの車が来て、ドアをあけた瞬間、ラジオから絶叫が聞こえた。
「日本、逆転、金メダルです。やりました団体ジャンプは金!」。
  かくして賢治の制作はスタート。ここからが仕事。
でも、ここまでも仕事といいきかせた。

 本日はクリスマス・イブ。エリツク・カール氏から
メールがきた(ファンクラブ会員や関係者に自動送信)が
それに
HAPPY HOLIDAYS and best wishes for 2011, the year of the rabbit!
I hope you have a wonderful holiday season and a very happy new year.
とあったのがおもしろかった。
 今、アメリカでは宗教の自由性を意識してMerry Christmasではなく、
HAPPY HOLIDAYSということがofficialにはほとんどだ。
 PC(パソコンではなくpolitical correctness)は、けっこうめんどいけど
やっぱりたいせつかも。
 とくに差別的発言にはとってもとってもきびしい。学校でもキャンプでも
かなり意識している。
 ということは、けっこうそういう問題が多いということだよね。
 でも、それだけ意識するなら、もう戦争やめようぜ。
Peace to All
アジアの昔話 1 『ヒマラヤのふえ』 12月17日 (金)
はなよめ なんが
 写真上は、恥ずかしながら長女の結婚式。今春、本人たちの希望で
バリ島で行なわれた。昨年は僕自身も大病し、夏には父が、秋には
義母(元ラボ・テューター)が他界した。二人が病をもっていったかのように、
ぼくはどんどん元気になった。ハードな一年だったが、
そのあとにはこうして新しい家族が生まれる。
 ゆずりはという植物がある。春の新しい葉がでると
古葉はいっせいに落葉する。双方が同じ枝に繁ることはない。
父も義母も孫の花嫁姿を見ることはかなわなかった。
 幼い芽も、若いつぼみも、色づいた葉も、すべて同じ幹で
共生できるラボのような場は、ますます貴重だとマジで思う。
さらに…、物語のなかで生きる体験は、他者を自分のなかに
生かす力を育てる。亡くなった人、遠くに去った人を心の
なかに生かしていくことは人間にあたりまえに備わった力なのに、
20世紀後半以降、テクノロジーの発達と反比例するかのように
脆弱になってきている。
 思いやること、好きになること(恋愛も他者を自分のなかに生かす行為
だと思うっす)、受け入れること、わかちあうこと。
それらは他者を心のなに生かす力がなければ不可能だ。
 さて、ロシアの昔話をめぐってぐだぐだ書いてきたが、
ここらで話題を転換。じはらくアジアに飛んでみたい
(『エメリヤンのたいこ』、トルイストイなどにもふれたいけど)、
 まずは『ヒマラヤの笛』。
というわけで、2枚目の写真はナンガバルバット(8125m)。
ヒマラヤ山脈は、世界の屋根の名の通り8000m級の山が14座
 (8000m峰はヒマラヤにしかない)、
7000m級にいたっては100座以上ある。
 パキスタン、アフガニスタン、ティベット、中国、ブータン、
インド、ネパールにまだかり、東西はなんと2400kmもある。
ヒマラヤはhima(雪の)、alaya(すみか)の意であり、
まさに雪と氷の極地だ。
 写真のナンガパルバット(裸の山の意、まわり高い山がない)は、
ヒマラヤ山脈の西端にあり、その美しい姿からは想像できない
「人食い山」とよばれるほど多くの登山家の命を飲み込んだ山だ。
急峻なことはもちろん、山全体が雪崩の巣であり、
とくに南壁は標高差4800mというほぼ登攀不可能
といわれた(後年、メスナーがこの壁を登った)。 
 ヒマラヤの8000m峰は、すでにすべて登頂されているが、
ナンガパルバットへの挑戦はひとつの物語である。
 1953年は、イギリス隊のヒラリーとテンジンは世界最高峰チョモランマ
(エベレスト)登頂に成功した年。その一報をナンガパルバットをめざす
ドイツ・オーストリア合同登山隊は山中できく。
 ナンガパルバットはとくにドイツにとっては執念の山で、
それまでに6度挑戦してすべて敗退。しかも、隊員、シェルパ
あわせて31名もの犠牲者をだしていたのだ。
 だが、このときも登攀は困難をきわめ、アタック隊員は次つきと脱落。
最後にのこったのは、ひとりのインスプルック生まれの天才、
ヘルマン・ブールだけだった。ブールは、たったひとりで
無酸素、しかもテントもなく極寒のなか一晩を過ごし、ついに登頂する。
 さらに驚くべきは、仲間からあずかったピッケルを証拠にと山頂にのこし
ブールは困難な下山(手袋も片手だけだったという話もある)を敢行する。
キャンプにもどってきたブールは、さながら老人のようであったという。
 写真の解説が長くなったが(今さら)、これに関連しておすすめの本は
『ヒマラヤ登攀史』(深田久弥・岩波新書)と『8000メートルの上と下』(ヘルマンブール著・横川文雄訳・三笠書房)だ。前者は、ヒマラヤ8000m峰の登攀の歴史がドラマティックに書かれていてあっというまに読める。後者はけっこう厚い本だが、ブールの自伝で名著といわれている。

 われらが心の故郷ラボランドのロッジ名「ヒマラヤ」も、
いうまでもなくこの山脈である。
 初代のロッジ配置は北を上にした世界地図の配置になっていて、
ぐるんば城前広場からロケットにのって下界を見下ろした設定になっていた。
現在の2代めロッジもなんとかその配置に近づけて建てた。
 ようするにだれもが知っている世界の有名な山や川や湖の名称を
ロッジ名、しかもその頭文字がART BHNとすべて異なるもの
にして混同をさけているのだ。
さらに初代ではブロックごとに屋根の色も異なっていた。
 南米がアンデス山脈、北米がロッキー、トンチンが中国(洞庭湖)、
バイカル湖がロシア、そしてヒマラヤ山脈とアフリカン代表ナイル川。
 さて、ようやくラボ・ライブラリーの『ヒマラヤのふえ』。
原作者のA.ラマチャンドランは、インドでは絵本作家という
認識はされていない。というより、大芸術家であり、
国立美術大学の美術部長もつとめられた大物だ。
それは、どうでもいいのだが、この透明感あふれる絵本は、
インドの伝統美術と近代絵画の手法がとけあっている。
 ラマチャンドラン氏は日本にも何度かきていて、
故丸木位里、俊夫妻とも親交が深かった。
 現在、『ヒマラヤのふえ』の日本語版絵本は「木城えほん故郷」
(宮崎県)から刊行されているが、初版は福音館書店。
松井直先生が5年くらいかけてラマチャンドラン氏と話しあいながら
つくりあげた気合いの入った絵本だ。
※この物語がライブラリーに入ることになったいきさつは「資料集」を
参照していただきたい。
 アジアの昔話の制作でも多くのすばらしい出会いがあった。
今回は、なんかラボランドのことと山登りの話で終わってしまった。
 次回は、その出会いについて、英語、音楽、吹き込み者の皆さんに
のことなどを書こうと思う。

 ナンガバルバットを初登頂したヘルマンブールはその代償に
凍傷で手足の指を何本が失うが、その後も次つぎと高峰を制服する。
4年後にブロードピークというチョモランマの近くにある8000m峰を
登ったときの記録を見ると、ほとんど走って登攀してかけくだってきた
きたかのように書かれている。
 ブールはその足で、花嫁の峰とよばれる7000m峰のチョゴリザ
にむかう。しかし、その登攀のなかばで雪庇を踏みぬいてしまう。
同行者のカメラには先行するブールが写されており、
一瞬の雪嵐の後のカットには彼の姿はない。
  
 ナンガパルバット山頂にブールが残したピッケルは、
1999年7月、日本の登山隊が発見した。
ロシアの昔話5『かぶ』その参 1 12月11日 ()
わし ごしき しおやぐら
 写真は裏磐梯、五色沼。最も大きい毘沙門沼でえらそうな態度。
撮影は10月なかば。その下もおなじく五色沼のひとつ。
 五色沼は1888年7月の磐梯山噴火の際におこった
岩屑(がんせつ)なだれにより生じた湖沼群だ。
磐梯朝日国立公園の名所だが、今のような美しい景観
になるにはひとりの男の壮絶な物語があった。
 1914年、醸造業を営む遠藤現夢は、噴火で荒れ果てていた土地を、
命豊かな森に復活させようと決意、私財をなげうち1300ha以上
もの植林をなしとげた。磐梯高原緑化の父である。
 最下段は五色沼への玄関、磐越西線猪苗代駅近くにある
「しおやぐら」。ここのそばは絶品。もりそばを1枚たのんで、
小さな皿のそばを好きなだけおかわりする皿そばが名物だ。
 五色沼もこのそば屋も、22年ぶりの訪問である。
1988年秋、『プロメテウスの火』(ロシア昔話の次に刊行)
完成の打ち上げで、制作・広報のスタッフで2泊3日の旅行を
したが、1日めの昼食をとったのがここだ。
 この店は、当時東北支部の代表をされていた斎藤テューター(元)
のご紹介だった。そのころ斎藤テューターは、
ご主人が猪苗代湖の研究施設に勤務されている関係で
猪苗代でもパーティをひらかれていた。
 ふところの広いお人柄と、見識の高さ、そしてラボとラボっ子を
愛してやまないお心に、何度も蒙を啓かれたものだ。
後に猪苗代に美しいセカンドハウスを建てられ、
そこを事務局員の結婚パーティに解放されたこともあった。
この旅行の際も、「素通りしてはいけません。まず、しおやぐらで
そばをお食べなさい」とご指示をいただいた。
その後は、五色沼から天元台を経て白布温泉(ここもいい!)
に1泊、翌日は斎藤テューターが大内宿や塔のへつりなどを
案内してくださった。
 残念なことにその10年後くらいに、ご主人の体調が思わしくなくなり、斎藤テューターはラボから勇退された。
ぼくはそのことをかなり後に、北日本支局の責任者からきき、
しばらく無音であった自分を恥じた。
 この秋、しおやぐらの味はかわっておらず、同行者に当時の思い出
を紹介していると、店のご亭主とおかみさんが登場。いきさつを
話すと斎藤テューターをよくご記憶されていて感動した。
 
 さても、ようよう『かぶ』の続きである。
 前回は小野かおる先生がラボのために『かぶ』の絵を描きおろし
された話まで書いた。だから絵について。
カトリーヌさんが前回の感想で「かぶ」が赤いことを書きこまれて
いるが、この物語のかぶは、まさに小野先生が描く
オレンジがかった赤いものだ。ロシアのかぶはこの種が多い。
ごぞんじのビーツの仲間のようだ。
するどい子どもは表紙の絵だけで「あれっ?」と思う。それもよし。
 かぶの色だけでも、ロシアのふんいきを伝えているのだが、
ほんわかした絵のなかには小野先生の綿密な考証があふれている。
 遠くに描かれる小屋はイズバーとよばれる素朴な丸太小屋だ。
なんといってもロシアは木の文化。木は鈍な感じがあたたかい。
第一、厳寒時に外で金属にふれることはきわめて危険。
石の文化になるのはずいぶん後だ。
教会も「シフカ・プールカ」のお城も木造である。
 登場する3名の衣装も典型的なロシアを含めて
スラブ全体に見られる装飾がほどこされている。袖口や裾に注目。
じっちゃのわらじ(ラーポチ)も伝統的なかたち。
とくにじっちゃの衣装は、貧しい農民がよく身につけていたものだ。

 衣装に興味がある方には、イワン・ビリービンの絵本がお薦め。
ピリービンは19世紀末から20世紀にかけて活躍したロシアの
アーティストだ。画家という範疇にはおさまらない天才といえる。
絵はもちろん、イラスト、デザイン、さらにはストラビンスキーの
舞台美術も担当した。
 紹介したいのは『ロシア民話集・カエルの王女』(新読書社・
佐藤靖彦訳)だ。アファナーシエフが編纂した昔話が
ビリービンの大胆な構図、精密なフォルム、そしてなにより
息をのむ美しい色彩て描かれている。
衣装のパターンなどは文化資料としての価値があるとさえいわれる。
 人物を立体的に描きながら、わざと衣装は平面的に描き、それでも
違和感を感じさせない技法などは「ビリービン式」と呼ばれている。
この絵本は、残念ながら書店で見つけることは困難かも。
アマゾンのUsedで24000円などというふざけた値段でているから、
ぜひ図書館で見つけてほしい。
 といっていたら、日販のboople.comで3300円のくらいで
取り寄せ可能なようだ。
 話をもどして、この絵本には、表題の『カエルの王女』を
はじめ5編の昔話がおさめられている。
そのなかの『うるわしのワシリーサ』にはバーバ・ヤガーも登場。
えらいリアルでこわく、そして美しい。
ビリービンはほんとにお薦めだ。
 この絵本のなかの『イワン王子と火の鳥と灰色オオカミ』に
登場する火の鳥は、手塚治虫氏の火の鳥のデザインに大きな影響
をあたえていると思われる。
 誤解してほしくないのは、手塚氏がまねをしたといった
しょぼい批判をしているわけではない。むしろ、ビリーピン
まで勉強している氏のすごさに震える。
 というのは、じつはロシア昔話の制作が進んでいた
1987年、池袋で「ロシア・アニメ・フェスティバル」があり、
前衛的なアニメ作家の短編が数本上映された。
その解説を当時「ことば宇宙」に「ロシアへの招待」を連載されていた
早稲田大学の伊東一郎先生がなさるので、ぼくもほいほいと参加した。
上映が終わり、解説のために会場が明るくなったときだ。
だれもが知っているベレー帽の紳士を会場の下手すみに発見した。
手塚氏である。マンガの神様は。こんなところまで、情報をもとめて作品の糧にしているのかと思うと鳥肌がたった。

 ここで、もういちど『かぶ』の絵にもどる。ヘアスタイルのこと。
まごむすめは、かぶりものをせずに後ろで髪をひとつに編んでいる。
これは独身であることのしるしだと伊東先生からうかがった。
結婚すると髪をふたつにわけて、ココシーニクとよばれるかぶりもので
髪をかくす。ばっちゃがそうである。
 ロシア民謡の「赤いサラファン」に、「わたしの髪わけるには
まだはやい」という歌詞があるが、ようするに「お嫁にいくのはまだ
はやい」ということなのだ。
 衣装や髪の毛のことも含めて絵については「制作資料集」に詳しいのでそちらを参照してほしい。ただ、もってない。あるいは、
どこにしまったかわからへん、という方のために少しふれた。
なお、「制作資料集」はすべてのバックNo.があるはずだから、
ほしい人は支部にリクエストすれば購入できる。

 さても、「ラボ・ライブラリー制作資料集」は新刊が出るたびに
作成されているが、その第一号がこのロシアの昔話についてだ。
それまでのライブラリーに「資料集」はない。
もちろん「制作資料集」がなければテーマ活動ができない
なんてのは幻想だ。子どもたちは、大きな心と耳で物語を
自分のものにしていくからね。
 「制作資料集」の役割はふたつ。ひとつは制作の記録を残すこと、
もうひとつは新刊紹介時の講演や関連資料をまとめておくことだ。
いずれも後年のためである。
 その中身はご存じのように、記念講演要旨や連載の再録、
そして「制作ノート」だ。しかし、この「制作ノート」は、
はじめのうちはなにか「ネタばらし」あるいは「苦労話」
のような感じがして、とっても書くのがいやだった。
ただ、それをまとめることで次の作品へのたいせつな
ふりかえりになると自覚できてからはそうでもなくなった。
 また、より深く知りたいテューターのために、また、子どもか
ら質問されてたときにたくさんの資料にあたらなくても
「資料集」1冊でだいたいのことがわかるというのも
たいせつだなとも今は思う。
 
 「資料集」は「指導の手引き」や「アンチョコ」ではない。
物語のテーマにしても、キャラクターにしても、これが正解なんて
ものはもちろんない。ないからおもしろいのが物語ともいえる。
物語の背景や作者のことを調べたりするのは悪いことじゃないけど
自分の心とことばだけで物語に近づいていくのが
テーマ活動の本質であると信じたい。
 で、あるからこそ、ライブラリーを造る側としては逆に
徹底的に背景やテーマやキャラクターやことばひとつひとつに
こだわりまくらねばならない。
 そうすることで自然に子どもたちは物語の本質をより深く感じとる
ことができる。そんな関係にあるような気がする。
 ライブラリーにかぎらず、芝居でも小説でも映画でも、ていねいに
つくりこまれたテキストは、キャラクターひとつとっても
百人百色の多様なイメージをひきだす。しかし、その多様な
イメージをならべてみると、同じではないが、
まったく異なってもいないことに気づく。
 そう、パーティで物語のある場面について話し合うとき、
子どもたちが物語を聴いていればいるほどたくさんの意見がでる。
でも、それはけっこう調和していないだろうか。
よいテキストとはそうしたものだ。

 話がまたまた長くなって恐縮だが、
一昨年の冬から昨年春にかけて、茨城県の市立小学校で
ラボの『かぷ』をつかった英語のワークショップ授業(その学校の
教員がラボの助言で)を行なった。
 対象は5年生。週1時間(45分)で10週。
児童一人ひとりはライブラリーがないから
学校で聴くだげだが、市内の教員を公開授業も行ない
10週めには英日をかけて発表もした。
 そのなかで、おどろかされたのは子どもたちの物語を
感じ取る力だ。第1回の授業で、絵本もみせず、なんの説明もせず
まず「英語だけ」でCDを聴かせたが、子どもたちは
みごとに『おおきなかぶ』だといった。
 みんな、この物語は小2のときに国語で出会っているから、
当然そういうこたえになるが。すごいと思った。
 授業では「はい正解」とはいわず、「では、どんなお話か
日本語でも聴いてみましょう」と英日版を流した。
子どもたちのうれしいそうな顔。「わかった!」という喜び。
 続いて「ふしぎたなと思ったことば」をノートに書いて、
次に班で同じような意見をとめた。ここでは紹介しきれない
ほど新鮮な意見がいっぱいでた。
 多かったのは動物のセリフ、すなわち鳴き声が
おもしろいという感想だ。しかし、ぼくがもっともたまげた
(おどろ木には、びっクリという実がなり、たまゲタという
履物ができる)のは、ひとりの女の子の感想だ。
 それは「世界じゅうどこで聴いても、犬の鳴き声は
だいたいおなじようにきこえるはずなのに、
どうして英語と日本語ではこんなにちがうんだろう」というもの。
 もう、ぼくはその子の家におしかけて両親に
「おじょうさんをラボにください」といいたくなった。
 こうした子どもの気づきを発見できる教員がほしい。
 また、「じっちゃとばっちゃだけで、なぜ父さんやお母さん
がてでこないのか」ということで話し合う班もあった。
 もちろん、こたえはでない。でも、異なる意見がとびかう
ことが重要であることはまちがいない。

 ラボ・パーティのなかでもそうした話し合いはよくおきると思う。
たとえば(昔の日記に書いたが)、「かいだんこぞうは夜
どうなっているか」という問いには、きっと多様なこたえがある。
「夜にとけて大きくなってる」「ちいさくかたくなってる」
「ぎゃくに白くひかってる」などなど。どれも個性的だが、
調和している。
 さっきも書いたが。よいテキストとはそういうものだ。
 重要なのは、こたえが単一ではない問いが存在することを知り、
さらに「あっ、そういう考えもすてきだね」という他者の自分と
は異なる想いを認める力を学ぶということだ。
 それもまた、ラボ・パーティの存在理由だなと改めて思うのだ。

 猪苗代は野口英世博士の故郷でもある(記念館がある)。放蕩と
超人的研究力という矛盾のなかで生きた野口の物語は
ひとつのサスペンスともいえる。
 帝大出ではない野口は、ついに日本で居場所を見いだせず
ロックフェラー研究所のエースとして活躍する。
野口は細菌時代の最後に位置した、いわば職人的医学者だ。
彼を死にいたらしめた黄熱病の病原体はウイルス。
それは通常の顕微鏡では目視できない世界の住人だった。
野口の墓は、ニューヨーク市ブロンクスのウッドローンにある。
ロシアの昔話4 『かぶ』その弐 1 12月08日 (水)
首都大学1 首都大学2 写真は八王子市南大沢の首都大学東京(2005年、東京都立大学・都立科学技術大学・都立保健科学大学・都立短期大学を統合して設置された)のキャンパス。撮影は11月はじめ。
 昨秋から、リバビリがてら母校のフットボールの試合を撮影している。今年も9月から週末は2週間ごとにあちこちのグラウンドにでかけた。この日もここで亜細亜大学との公式戦があったが惜敗。がっくりして悲しいほどに青い空や休日の校内を撮った感傷ショット。ちなみにわがティームの愛称は"Apostles"(12使徒)。対する亜細亜大学は"Angels"。ウーム、やはり勝てないか。
 ところで昨日、OECDによるPISA(国際学力テスト)で上海が三冠王になったことと、日本がわずかに順位をあげたことが話題になった。ラボ・ライブラリーをつくりながら、本当の知とはなにか、学びとはなにかをけっこうまじめに考えてきた身としては、「けっ! そんなテストがどうした」といってしまいたいところである。
 なぜなら、ラボ・ライブラリーとともにあるテーマ活動は、濃密な言語体験を積み重ねる全人的な学びであり、さらには物語という想像の森に、幼児であろうともそのときまでの人生を総動員してむきあう、まやかしではない知的な行為だからだ。
 しかし、しかし、このテストの対象が高1であることを考えると、「けっ」ではすませられない。16歳といえば、はっきしいっておとなである。どこの国でも地域でも、相応のマチュアリティ、社会性、教養、市民性などが要求される年齢だ。このテストで測定される読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーは単なるガリ勉や丸暗記ではポイントを獲得することは難しい。豊かな想像力、言語力、なかでも主体的に学ぼうという知的積極性がなければ、読解力はいうまでもなく、他の2部門も育たない。すなわち、このテストで計測されている「学力」は総合的な人間力とまったくイコールでないにしても、かなりリンクしているといえるだろう。
 さらに気になるのは、日本の大学の世界的評価もあまり高くないことだ。QS(国際高等教育機関)が毎年発表するランキング(規模、教員の評価、論文引用数、留学生数などの多項目でリサーチ)では、東京大学が24位、京都大学が25位だ。1位はハーバード、2位はケンブリッジ。PHD製造場とさえいわれるあのMITでも6位だから、まあしかたないか。
 大学に行くことは、青春の選択肢のひとつだから、こんなランキングはさっきのテスト以上にどうでもいい気がするが、今、ピンチにある人類と地球への貢献が可能な人材を耕す場として大学の役割はたいせつだ。研究できる人間を育てないとほんとにやばいぞ日本。その第一歩として、まずは幼いときからラボ。と、例によってひいきのひきたおし。でも、まじめな話、ラボは「自ら学ぶ」ことのよろこびを発見できるところであることはまちがいない。
 でも、ふしぎなのは、日本の高校は大学への入り方はいっしょうけんめい教えるけど(今はそうでもないか)、大学の役割とはなにか、なにをするところを考えさせることはほとんどない。まず、そこからだぜ。

 さて、ようやく『かぶ』の続き。この累積昔話(前回参照)の原題を直訳すると『かぶ』。「大きな」はついていない。したがってラボでも『かぶ』。と、ここまでは了解。英語のタイトルは"The Turnip"。A Turnipではない。野暮な解説だが、このtheはもちろん定冠詞。ただし、「誰にでも察しのつく、例の、その」のtheではなく、「バナナでも、リンゴでも、ミカンでもなく、まさにかぶ」という代表単数的な役目である。タイトルだからこそ成り立つ使い方といえる。
 日本語の名刺はやわらかいので、英語のように冠詞をつけて仕分けする必要がない。だから逆にいうと、英語において冠詞の役割は重要で、母語話者でないと自在に使いわけるのはいへん。ラボ・ライブラリーでも冠詞は重要で、その好例は、昔にも書いたが『かいじゅうたちのいるところ』。あの冒頭の英語はThe Nnight。ふつうならA nightとかOne nightとか、特定できない「ある晩」にすべきところだが、センダックはTheではじめた。つまり、マックスがあばれたのは、昼間になにか彼の身におこったことを想起させるのだ。友だちとけんかをしたのかもしれないし、おかあさんに怒られたのかもしれぬ。いずれにせよ、なにか夜に爆発する要因となる事件があった日の夜なのだ。
 しか、そのできごとがなにかをいちいち問わない(子どもはいわれたくないからね)センダックのいさぎよさが、子どもたちが彼の作品を圧倒的に支持する理由のひとつなのだとも思う。
 こんな重箱のスミ的なトリビアはテーマ活動には関係がないが、theひとつもおろそかにできない事情と考察が、ラボ・ライブラリーの背景にはある。
 
 『かぶ』をロシアの昔話の構成にふくめることについては、幅広い年齢の子どもたちに出会ってほしい、楽しんでほしいという点からも、はやくからきまっていた。日本語再話も英語も音楽も最強のメンバーがリストアップされた。課題は絵である。彫刻家・画がの佐藤忠良氏(ラボの『大草原の小さな家』で日本語音声を担当している女優の佐藤オリエさんの父上)による『おおきなかぶ』の存在があまりにしてい有名だからだ。別に競争ではないから、独自の絵でいけばいいのだが、これだけ有名だとひきうける画家いるかは不安。 

 絵本もラボ・ライブラリーも民俗文化資料ではない。だが、その物語をうんだ人びとの知恵や情熱や涙がしみこんでいる昔話や伝承をとりあげるときには、絵はダイレクトに子どもの想像力にアタックするがゆえに、具象的表現の場合はとくに、できるかぎり事物は正しく描かれるべきだ、それがラボのスタンスだ。
 その場合、ほうほうはふたつ。ひとつは、『アリ・ババと40人の盗賊』『妖精のめうし』『鮭、はるかな旅の詩』『西遊記』『不死身の九人きょうだい』などのように、その血が流れているアーティストに依頼すること。もうひとつは、その国の文化に造詣が深い日本人アーティストにたのむことだ。
 なぜそんなことを書くかというと、佐藤氏の絵はロシア昔話というコンセプトからいうと、衣服や髪、かぶそのものの表現などが、前述したラボの考えとは異なるからだ。っていことわっておくが、『おおきなかぶ』を否定しているわけではない。あの絵本を宝物のようにしている子はたくさんいる。
 ぼくは「いい絵本、わるい絵本」といった区別は好きではない。神宮輝夫先生からも「わたしは、かつて絵本の善し悪しを書いていたことがありましたが、病気で入院したとき、近くの病室に長期入院の子どもいて、働いているためにたまにしか見舞いにこれない母親に絵本を読んでもらうのをなにより楽しみにしていました。しかし、その子がいとおしくだきかかえている絵本は、ぼくがそれまでわるい絵本と批判していた作品でした。それ以来、ぼくは『よい本、わるい本』ということわやめました。好きな絵本とはいいますが」と、いうお話をうかがったことがある。
 話をもどして、ラボとしての『かぶ』の絵は小野かおる先生が快諾して担当してくださった。先生の父上はロシア文学研究家・翻訳家にして詩人の中山省三郎氏である。中山氏は43歳という若さで世を去られたが、その薫陶をうけた小野先生の思いが『かぶ』にはあふれている。
 その絵については「資料集」を参照していただきたいが、それではさみしいので次回にふれたい(『かぶ』は次で終わりかなあ)。

 本日、12月8日はさまざまなことが起こった日だ。太平洋戦争開戦、ジョン・レノン射殺などなど。そして針供養、おこと納め。
 おこと納めは、事八日ともいい、妖怪(とくに一つ目小僧)が跳梁跋扈するときといわれる。祖父がいた30年以上前には、東京の実家でも一つ目小僧が苦手としている目籠(目がいっぱいあるので)を高く飾って魔除けにしていた。
 たしかに、そのころ季節があった。
ロシアの昔話3 『かぶ』その壱 2 12月03日 (金)
つがる しらかみ
 写真は五能線「リゾートしらかみ」車内。この路線は青森県川辺から秋田県東能代をむすび、鯵ヶ沢から東能代までは日本海沿いをひた走る。途中には十二湖、白神山地などの美しい自然がまっている。「リゾートしらかみ」は、青森から五能線を経由して秋田までいく快速で、「一度はのりたいローカル線」で常に上位にランクされる人気列車だ。写真の車両は青池編成(十二湖のひとつ青池のイメージ)。ほかにもクマゲラ(白神山地の鳥)、ぶな編成がある。青森をでて弘前を過ぎて五所川原。ここから鯵ヶ沢までの約15分、津軽三味線のライブがある。ゆれる車内にもかかわらず力強い演奏にびっくり。さらに右の女性の歌がすばらしかった。演奏が終わると日本海が見えてくる。なかなかの演出。やるなJR東日本。

 さて、ロシア昔話。まずは『かぶ』をめぐるあれこれ。
 このおはなしを「素がたり」デビューの題材にするラボっ子はとっても多い。短いからという弱気な理由でもよいではないか。リズムを味わって一人語りの快感を体験できるならグー。ひとつの物語を語りきれたということは、けっこうな自信になるよね。「詩とナーサリー・ライム」の監修と日本語を担当された百々祐利子先生も「2行で終わるライムもありますが、それでも一編です。最初から最後までぜんぶいえた! という達成感はたいせつです」とおっしゃっている。

 『かぶ』は確かにリズムが楽しい。それもそのはずで、もともと『かぶ』と『わらじをひろったきつね』は、ことばのお尻をそろえた語り(ロシア語の原典ではきれいな脚韻を踏んでいる)として伝承されていたからだ。これほど伝えやすいかたちはない。
 私見だが、自然を崇拝し、そのなかに精霊を見ていたロシアの人びとは、ことば(音声)にも言霊あるいは「もの」のようなふしぎな力を感じていたのだと思う。「ジャックのたてた家」がその昔、「しゃっくりどめ」のおまじない(息をとめて3回唱える!)だったように、『かぶ』もなにか呪術的な役割をもっていたのではないだろうか。
 それと、楽しいことばの積み重ねは言語遊戯として側面もあったはずだ。ことばの遊びは日本でも世界でも、しゃれ、地口、はやくちことば、回文、なぞなぞなどじつに多様。その宝庫のひとつはナーサリー・ライムだ。
 しかし、おやじギャグもふくめて、言語遊戯にはそれ自体に意味はないことが多い。ほとんどがナンセンスである。でも、それらは生きる力であり、ストレスをとりはらう秘薬だ。
 そのいい例がララバイだ。子育ては、惜しみなく体力と愛情をうばう美しくも凄まじい行為であるのは皆様よくご存じの通り。子もり歌には、子への無限の愛と背中あわせにストレス昇華のパワーがある。Hush-a-bye, baby, on the tree top はメロディもきれいだが、ラストは赤ちゃんがとんでもないことになっている。ナンセンスかつびっくりだ。
 前述の百々先生によると、日本の「眠らせ歌」にも「寝ないとネズミがとって食う」という歌詞とおなじくらいの数の「寝たならネズミがとって食う」というバリアントがあるという(余談だが根の国の住人でネズミという説も不気味)。その逆説、ナンセンスから子育てのパワーを得ているのだ。
 ロシアの人びともまた、きびしい冬にとじこめられるストレスをとりはらう力を
『かぶ』のような楽しいリズムとオチに求めたのだろう。

 第一回でちらっと紹介したウラジーミル・プロップという研究者は、『かぶ』やわらじをひろったきつね』を「累積昔話」という名称で分類した。その特徴は、ことばの積み重ねとともに、ある行為をなんども次第にエスカレートしていくかたちで繰り返し、突然に意外なかたちで終わる構造にあると述べている。その構造についてふれるとたいへんなので、興味のある方は『ロシア昔話』(プロップ著・斎藤君子訳・せりか書房。たぶん3900円!)を読みましょう。

 ライブラリーの『かぶ』の日本語は上記の斎藤君子先生(今やたいへんな昔話翻訳・研究の大御所!)。ロシア語原典のように脚韻をふむかたちは日本語では困難だが、原典のもつリズムのよさを見事に表してくださった。「じっちゃ」「ぱっちゃ」は最高! このことばで全体のリズム、とくにテンポがびしっとした。
 英語のテキストはサラ・アン・ニシエ(西江)さん。これまたすばらしいリズムだ。この人のこだわり方はハンパではないので、いずれ書かねぱならぬ。
 語りはドリーン・シモンズさん(大の相撲ファンで相撲部屋の二階に住んでいたことがある)。そして『国生み』以来、ひさしぶりにラボっ子が日本語音声吹き込みに参加した(歌ではその前に『西遊記』のテーマ曲がある)。とっても楽しい録音だったことを今でも鮮明に記憶している。
 
 ここまで来れば、『かぶ』が単純で短いおはなしなどと軽くかたずけらけれないのは明白になった。それどころか、まだまだ奥がある。日記に書く長さではないなあと、いやな予感がしてきた。
 とりあえず、今日はここまで。次回は英語のこと絵のこと、『大きなかぶ』とのちがい(タイトルも原題のままの『かぶ』"The Turnip"。「おおきなかぶ」でも"A BIg Turnip"でもない!)などについてふれたいと思う。
 
 さても津軽三味線といえば先代の高橋竹山先生。よく、渋谷の「ジァンジァン」に聴きにいった。
 光を失った音楽家の演奏はなぜ心をうつのだろう。レイ・チャールズ、ステーィビー・ワンダー、長谷川きよし,辻井伸行…。そして、芳一!
 
60階から西を見ればね=書き写すこと 12月01日 (水)
サンシャイン
 ロシア昔話の話はまだまだ続くが、ここでひとやすみ。写真は池袋のサンシャイン60の最上階から西の眺望。撮影は11月はじめの13時。緑の少なさには今さら驚いてもしかたない。むしろ、ふみとどまっている感がいとおしくさえある。
 ニューヨークも東京同様に孤独と疎外に満ちた街だが、セントラルパークという巨大な緑の空間を確保した。1981年、ここでサイモンとガーファンクルが50万人
を集めて一夜だけの再結成コンサートを行なった。
 オープニングMCはエドワード・コッチMayer of the City of New York。あいさつはたった一言、"Ladies and Gentelemen, Simon and Garfunkel."。続いて50万人万来のbig handだ。
 かれらは史上最強のデュオだと独断でいいきりたい。そのハーモニーも神業的だが、ポール・サイモンの音楽性の高さと詩情豊かな歌詞がしびれる。人間のコミュニケイションの不能と困難性、それに起因する孤独、なかでも少年と老人の孤独といった哲学的テーマを、けして告発的ではなく、ときにポップに、ときにリリックに歌いあげるサイモン。ぼくは中学2年のころに出会い。全部の曲を覚え、ノートに書き写し、さらにはなんとか日本語の詩にしようと辞書と格闘した。学校の英語の成績はけっこう恥ずかしいものだっが、そういうことは好きだった。
 その際、日本では歌詞カードがついてるのがあたりまえだったので参考にしたが(輸入版はほとんどんない。著作権がややこしいから)、けっこうまちがっていることも発見し、なんどもレコード(重要)を聴きなおしたりした。ことばのお尻がそろうことも、そのときはカッコイイなあと思うだけで、脚韻なんてことばをしったのは高校生になってだいぶたってから。
 日本の詩はもともと好きで、萩原朔太郎、山本太郎、高村光太郎、立原道造、中原中也、そして谷川雁などがお気に入りでよくノートに書いていた。今考えれば甘いものも辛いものももごちゃまぜだね。でも栄養バランスとしてはよかったかも。そのころ英詩にはほとんど興味がなかったけと、サイモンとの出会いがきっかけとなり、英語の詩もエライなとエラソウに思ったのだ。
 とにかく、好きなことば心にとどくことばを書き写してみたいと思う心の構造はふしぎなものだ。書くことによって、人の作品なのに自分だけのものにしたような気になる。同時に、こんなにも美しいものを知っているんだぞという自己満足も得られるのだ。「どれだけ美しいものを造りだしたか」ということは、まちがいなく人生の価値だが、「どれだけ自分が美しいと思うものに出会って感動したか」も生きる価値であると確信する(このことばは、なにかで読んで「すげえ! そのとおり」と思ったのだが、誰のなんだっのか忘れてしまった)。とっても励まされるこばだよね。こどもたちに伝えたいなあ。
 シェイクスピアの翻訳で名高い小田島雄志先生(ラボ・ライブラリーの『ジュリアス・シーザ』はもちろん小田島訳)は、学生時代に夏休みに汗だくになってシェイクスピア作品をノートに書き写されたとうかがった。
 だから、ラボっ子でも、だれにもいわれないのに好きなライブラリーを「おはなしにっき」などに書き写してくることがよくあるのは当然のことなのだ。あこがれるものに近づきたい体内にとりこみたい。そんな貪欲さってすてきだし、後にぜったいに役立つ基礎体力になる。好きなことばを書いてながめる。キモクない。
 もちろん、声にだすこともたいせつだが、前回はあまり文字否定みたいなこを書いたので、今日は書くことにこだわってみた。
 近年、というか昔から、よく若い人に「どうしたら文章がうまくなりますか」という質問をされる。すると僕は「あなたは、どういう文章がうまいと思うのか」と問い返すとたいていこたえられない。あるいは、「こたえられたら質問しません」というひらきなおりのようなファイナル。アンサー。まあ、そりゃそうだけど。
 僕も別に「うまい文」を書こうと思ったことは一度もない。その目的にあわせた文を書こうとは努力するけど。なぜなら媒体や内容によって文体も異なるからね。詩と小説はちがうし、エッセイと新聞記事もちがう。
 文のテクニックがないかといえばプロ的には「ある」といえる。小説にも詩にも戯曲にも技法が存在する。ただ、そんなことは後のことで、とにかく「読む読む、書く書く、書く書く、読む読む」しかない。
 しいていえば、超基本的なこと、たとえば「トートロジー(同語反復)、一文にはもちろん、同一段落内で同じ表現を用いない」などといったことは学んだほうがいいかもしない。学校では教えない、というより教えられないからね。でも、よく読む子、よく聴く子は勝手に身につけてしまうけど。
 それと、僕自身が気をつけているのは(別にあたりまえのことだが)
・書いた後、少なくとも頭のなかで音読する。
・できれば2~3日ほっておいて、もう一度読みかえす。
 この二番目はとりわけたいせつ。小泉八雲は,10段のひきだしがある机(松江の記念館に展示されている)に第一稿を入れ、読みかえして加筆修正した原稿を二段目に移動。そうやって十段目まで達した原稿を出版社に送っていたという。
 ちなみに絵もそうするとぐっとよくなるよ。
 ここだけの話(意味ない発言)、『十五少年漂流記』のラストシーンの日本語は15回以上書きかえた。そのたびにらつきあって英語をなおしてくれた鈴木小百合さんには感謝感謝だ(この日記はそんなに読み替えさない、ごめん)。
 ところで、ニューヨークといえば先日「ゴースト、ニューヨークの幻」をテレビで放送していた。1990年のアメリカ映画で大ヒット作なのはご存じの通り。この作品で占い師を演じたウーピー・ゴールドバーグが一躍スターになった。ストーリィだけ見るとはっきりいって陳腐で、ラストなどはびっくりするほど単純だ。しかし最後まで見させてしまう力がある。それは、デミ・ムーアの美しさだけではない。なによりテキスト、すなわち脚本がしっかりとできているからだ。
 この映画に難しいことばはほとんどない。この作品が公開された翌年の夏、僕は高校留学生(90名もいた!)を引率したが、そのときの研修(インディァナ州のパデュー大学で! 今年の日本人ノーベル賞)で、先生がこの作品を「英語字幕」付で留学生諸君に見せたくらいだ。シンプルなことばで、しっかりと無駄なく、そしてリズムよく自然に積み重ねて物語を構築する。映画も、まずテキストありき。どんな映像美もテキストがボロければあかん。日本ではなかなかいい脚本家がそだたんのよね。なぜかしら。ラボっ子のなかからでてほしい。
 単純に見える短いセリフでも、よいテキストにはこまかい感情の起伏がある。そう思ってライブラリーを聴くのも楽しい。試みに『花のすきになうし』の二木てるみさんの語りを聴いてみてください、短い一行にも微妙な変化を感じとれると思う。こどもたちは自然に感じとっていると思うけど。
 
 
ロシアの昔話2 『かぶ』から『エメリヤン』 1 11月29日 (月)
かむり
 写真はウェールズの首都カーディフ。撮影は2006年1月3日。『妖精のめうし』の英語収録で訪れたときのもの。またもタイトルと関係ない写真で始まったなと思うかも知れないが、じつはちゃんと「なぜロシアには昔話がいっぱいあるのか」という話とつながっているのだ。
 このどこの街角にもありそうな案内標識はバイリンガル表記になっている。上段が英語、下がWelsh(ウェールズ語)だ。侵略され、かつては禁じられたことばをウェールズの人びとは守り抜いた。戦争の最大不条理、最悪の犯罪性は多数の死をもたらすことにあるが、ことばをうばうことも許されざる行為だ。母語を剥奪されることは魂を無くすことであり、ことばで成り立つ文化も破壊される。もちろん物語も例外ではない。悲しいことに第2次大戦で日本もまた隣国でこの過ちを犯した(このことはロシア編の次くらいに予定しているアジア編でふれる)。

 さても前回、ロシアにおもしろい昔話がいっぱいある(アファナーシエフの編纂した昔話はおよそ600編で世界一)背景に「文字の発達が比較的遅かったことや、きびしい自然ときびしい政治」があると書いて寝てしまった。
 ロシア語はキリル文字(スラブ諸語で多く用いられている)で表されるが、この文字はギリシア文字をもとにつくられた。記録に見られる最も古いキリル文字は10世紀なかばくらいなので、けっこうあたらしい文字だ(漢字とかヒエログリフとかとんでもない昔だもんね)。
 ロシアでは多くの人びと(約8割)が農民であり教育の機会も少なかったことから長く素朴なくらしが続いた。さらに、ナポレオンも撃退した厳冬は文字伝播のスピードを鈍らせた。
 人は文字を得ることで記録を可能にし、ついには心のなかのことまで書き表すようになった。文学の誕生である。しかし、ご承知のように文字を知る以前から人間は物語をつくりだし、語りついでいた。それは生きる知恵であり、祈りであり、風であり光であった。ロシアにおいても、むしろ文字という記録の装置、記号がないがゆえに、記憶と想像力がきてたえられた可能性は高い。
 むろん文字文化を否定するものではない。ただ文字をもたない民族に、文字だらけのぼくたちにはない、みずみずしい詩情、しなやかな感性、乾いてたくましい抒情に満ちた詩や物語がたくさんあることは確かだ。アイヌしかり、ネイティヴ・アメリカンしかり。
 20年前、日本語・中国語版のK3Sの収録に北京に赴いたとき、北京放送テレビ劇団の皆さんにたいへんお世話になった。連続テレビ小説「おしん」は、中国でも大ヒットしたが、SK3の中国語音声吹き込みはこの「おしん」の吹き替えをした役者さんたちである。
 このとき、当時の北京放送日本語部部長、李順然氏とお話しする好機を得、いかに中国の人が物語好きかというエピソートをたっぷりうかがった。その最後に氏は「でも、ほんとうにおもしろいのは昔話です。それも文字をもたない少数民族の伝承話がいいですよ。漢民族の漢字文化はすごいですが、漢字は表意文字でもあるのでいろいろなが概念もひっぱってきます。文学にはそれも有効ですが、物語性の自由さや骨太の美しさでいったらかれらにはかないません。ラボもぜひそうした少数民族の昔話にトライしてみてください」とおっしゃった。
 このことばは、中華料理で満腹の胃と脳にもがっちりと埋め込まれ、イ族の『不死身の九人きょうだい』への第一歩となった。
 と、ここまで書いて、文字を使っている自分の矛盾にぼう然としつつ、話をロシアにもどす。
 
 文字のゆっくりとした発達に加え、前述した冬の苛烈な自然、そして皇帝による圧政は、人びとのくらしをきびしいものにした。冬も権力も常に人からなにもかもうばいとったのだ。しかし、どうして人間からはぎとることができないものがあった。それが「想像力」である。ロシアの人びとは、タフでラフな環境のなかで人間存在の最終兵器的である想像力を育んだのだ。
 今、皮相的には満ち足りた時代に生きるぼくたちは、この力を失う危機に貧している。物語は人間の想像力の美しい結晶体だ。そこから学ぶというその一点だけと
ってもラボの存在意義は明白だ。
※だからといって貧困と飢餓を推奨するものではない。世界の生産物の七割を三割の人口が消費する不公平は是正されねばならない(日本人もその三割の属する)。
 
 ロシアの昔話を考えるとき、もうひとつ無視できないのは信仰と宗教である。多くの地域がそうであったように、ロシアの人びとも厳しいながらも自分たちを生かしてくれる自然を崇拝し、森にも動物にも命を感じた。そして、多くの精霊や妖精を生み出し、対話したり祈ったりした。森の魔女バーバ・ヤガーもそのひとりだ。
 ところが、10世紀の終わりにキエフのウラジーミル1世によりグリーク・オーソドツクス(すなわち正教)への国教化、集団改宗が行なわれる。一神教がやってきたのだ。これについて書き出すとたいへんなので後日にまわすが、『森の魔女バーバ・ヤガー』で少女がイコン(聖像)に祈るのもその影響だ。
 小難しい話がづ着いたので、コネタをひとつふたつ。ロシア正教の特徴のひとつにキューポラ(タマネギの屋根)がある。「シフカ・プールカ」のお姫さまのいる城にもついている。てっぺんには十字架があるが、それをとってはまえばイスラムのモスクだ。じつはイスラムが後でこりゃいいデザインだと用いたのだ。
 その2。ロシア玩具にマトリョーシカがあるが、これは日本の入れ子コケシをまねしたんだと故金本源之助先生(先生からは「ことばの宇宙」用に貴重な資料をたくさんお借りした)からおききした。
 
 さすがに疲れたので、今日はここまでにするが、最後に冒頭のウェールズ。  
 ウェールズ語は英語とは似て非なるという言語だ。写真の看板の右のほうに城をしめすCsatleとCastellなどはまだわかりやすいほう。首都のCardiffはCaeardyddで、むりやりカタカナで書くとカエアディス(ddはthに近い発音らしい)。
 『妖精のめうし』はニコル氏の提案でこの物語の故郷であり、氏の故郷でもあるウェールズで行なわれた。英語の語りは、カーディフ出身でウェールズ・アクセントとクィーンズ・イングリッシュを使い分けるBBCの現役アナウンサーが担当している。故森繁久彌氏は、「セリフは歌え、歌は語れ」という名言をのこしたが、彼女の語りはまさにその通り。ぜひ英語のこみでも聴いてほしい。

 地球にとって、生命の多様性は貴重であり重要である。人間にとって言語の多様性もまた重要である。常に母語とすくなくとももうひとつの言語に触れること、そのことが豊かな精神を育む。これもまたラボの存在意義の大義だ。
 組織から距離をおくと、またいろいろなことがみえてくる。
ロシア昔話1 『かぶ』から『エメリヤン』 3 11月27日 ()
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写真は10月はじめ、青山のスペースユイで開かれた茶畑和也氏(『寿限無』の絵を担当)の個展で。ここは小さいが和田誠氏や宇野亜喜良氏などのすごい作家の展覧会を短い会期でばんばん開催する気合いの入ったギャラリー。おまけ的話だが、青山墓地はすぐ近く。もともと青山は墳墓の意で、青山とよばれる場所は全国にあるが、今も墓地、ないしは過去は墓地だったというところが多い。We Are Songbirds 2の「青山土手から」も墓場の土手ということである。あの草むす丘には先祖、もしかすると近い仏が眠っている。涙がぽろぽろでるのは当然。さらにおまけを書くと『人間(じんかん)至る所に青山(せいざん)あり』ということばがある。これは幕末の月性(げっしょう)という僧のものだが、人の世のなかには、どこにも墳墓、すなわち骨をうずめるべき場所はある。どこでもがんばれるということ。このことばは巷間、人間を「にんげん」、青山を「うつくしい山=活躍できる場所」と誤読、誤解されるが、結果としておなじような意味に解釈されている例だ。

 さて、ようやくロシアの昔話。ラボ・ライブラリーでは『まほうの馬シフカ・ブ
ールカ』だ。もう23年前になるが、ぼぐがはじめて制作に関わった最初のライブラリーだ。そのころは「ことばの宇宙」がメインの仕事だったので全面参加ではなか
ったが、はじめてスタジオに入ったときは大緊張したことを覚えている。
 このライブラリー5編の物語にもそれぞれ書くべきことがいっぱいある。さあ、どれから手をつけようか。
 その前に、ロシア(このライブラリーが発刊されたときは、まだソビエト連邦だ
った!)というとどんな連想をするだろうか。地理的には日本の北から北西に大きくのしかかる国であること、また政治体制の違いや歴史的関係から、漠然と「大きい」「さむい」「こわい」といったネガティブイメージがうかびがちだ。事実、江戸のころは「恐ろしい」にかけて「オロシヤ国」などとよばれた(ジョン万次郎とともに元祖国際交流男である大黒屋光太夫の漂流体験をもとにした井上靖氏の小説は『おろしや国酔夢譚』)。
 確かに北方領土問題(どうなっとるのか! 国後島は、ほんとに目の前に見えるぜ!)などを思うと、そうしたロシアへのマイナス感はいなめないが、じつはよく考えると日本人はロシアの芸術や文化がけっこうすきだ。昔話のおもしろさは後で書くとして、バレエ、サーカス、民謡、料理(ボルシチ! ピロシキ!=ピロシキは複数形で単数だとピローグだとロシア料理店に取材にいったとき知った)、そしてなんといってもドストエフスキー、ゴーゴリ、プーシキン、トルストイ(『エメリヤン』の作者だね)などの綺羅、星の如く居ならぶ文豪たち(このことについては『エメリヤン』編でふれます)。
 横道にそれが、「キラ星の如く」というのは誤用。綺は絹、羅は薄い絹織物のことで綺羅は美しい衣服の総称。「綺羅、星の如く居ならぶ」は、そのようにすばらしい人材が星のようにたくさん存在する様のこと。どうも年とるといちいちうるさい。それはともかく、かようにロシアの芸術・文化は魅力的なのだ。
 ぼくも、中学から高校にかけてロシアの音楽が身体にしみこんだ経験がある。午前の授業が終わると、育ち盛りの腹ぺこ男子学生(私学の男子校だった)の頭のなかは昼飯のみ。持参した弁当でも、外に食べにいってもいいのだが(なんという自由)、ぼくは生徒集会所とによばれる食堂(とにかく安い=カレー50円、ラーメン35円=町の相場は60円~80円、最高級のカツライスが60円)を利用したていた。 その待ちに待った昼休みには放送班とよばる連中がDJをして音楽をかけた。選曲はクラシックからジャズ、ポップスとまったく彼らの趣味。そして、ぼくが集会所にたどりつくころ、ちょうど放送がはじまりテーマ曲がかかる。
 すると、じつにいいタイミングで小麦粉とカレー粉を炒めた、あの黄色い日本式古典的カレーのにおいが鼻孔を刺激するのだ。その曲がチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」。グラモフォンレーベルの名盤、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウィーン交響楽団(ウィーンフィルではない)演奏。ピアノはリヒテル(この人はウクライナ生まれ)だ。今はどういう曲がテーマかは知らぬが、ぼくが在学中の6年間はずっと同じ曲だった。途中で演奏はバーンスタインとクライバーンに変わったが、ぼくはカラヤンの緻密な指揮とロシアの大地を連想させる力強いタッチのリヒテルのピアノが好きだ。ともあれ、そのおかげでいまだにこの曲を聴くと悲しいことにカレーの匂いを感じてしまう。オペラント条件づけ。パブロフの犬。
 くだらぬ私事であるが、それほどロシアの芸術はすごいのだよ。

 さて、ロシアの昔話といえばアレクサンドル・アファナーシエフ(1826-71)にふれざるを得ない。ロシアのグリムといわれるこの人は、結核のため46歳という若さで世を去ったが、600編におよぶ民話・伝承を編纂した。その数はグリムをしのいで世界でいちばん多く、また、民俗研究の資料としても価値が高い。『まほうの馬シフカ・ブールカ』『かぶ』『わらじをひろったきつね』『森の魔女バーバ・ヤガー』は、彼が編纂した昔話集をもとにしている。
 それともう一人、ウラディーミル・プロップ(1895-1970)もロシア昔話では重要。この人は民話を分析・分類した人で(1928年、そんなことする人はいなかった)、後に多方面に影響をあたえた。プロップの『魔法昔話の起源』(せりか・斎藤君子訳=斎藤先生はラボ・ライブラリーでも日本語担当されている)はとんでもなく厚い難解本だが名著。
 あんまり頭でっかちになって昔話を語るのもどうかと思うが、そういう流れなので許してね。とにかくこのお二人のおかげでこのラボ・ライブラリーはある。
 
 ロシアのみならず、どの国の昔話もそれぞれ特徴があっておもしろい。それは、人びとの生活感、知恵、愛情、血、悲哀、喜び、そしてその地域の風、光、歴史などがぎっしりエッセンスとなってつまっているからだ。昔話こそ最高の学びのもとといいきれる。だから、ラボ・ライブラリーに昔話が多いのも当然。いうまでもなく物語の原点じゃけんね。
 それをふまえてロシアの昔話のおもしろさについて。その背景にはいくつかのたいせつなことがある。
 ひとつにはロシアでは文字の発達がおそかったこと。そして、きびしい自然と帝政によるきびしいくらしも無視できない。それらは、結果として人間のある力を育むことになった。
 と、ここまで書いて、時間切れ。次回はこの続きから。
 うーむ。横道にそれ過ぎた。反省。



 
たろうはいそいでいる 憂国忌に 11月25日 (木)
ぼこう
写真は最近けっこう頻繁に訪れている母校。正門から続く800mの桜並木の終わりかけから教会を撮影。この長い直線は戦中は中島飛行機製作所の滑走路だった由。

 さて、『たろうのおでかけ』。ごぞんじ全力少年のたろうが、ガールフレンドのゆきちゃんの誕生日に、プレゼントのアイスクリームと花をもって、ペットたちとともに疾走するロードストーリィだ。この物語が交通安全指導書でないことは確かだが(昔、ほんとうにそう使用している幼稚園があって驚いたことがある)、なにかテーマ活動の本質のひとつがあるような気がしてならない。
 主題というとおおげさだが、『たろうのおでかけ』の中心にあるのは彼の「緊急性」だ。「アイスクリームがとけちゃうんだ」というのはすごいわがままだが、逆から見れば愛する人のために、今がんばらねばいつがんばるんだというガッツが伝わってくる。
 現在、28歳の長男が5歳のときの話。そのころ、彼は川崎のパーティでお世話になっていたが、ある夏の夕方、『たろうのおでかけ』を聴きながら、ぐるぐる部屋を廻っているのを目撃した。最初から最後までずっとである。ゆきちゃんちにつくころはへとへと。「いったいどうしたのだ」とたずねると「だって、アイスクリームがとけちゃうんだ」。これをテーマ活動というかは別として、なにか感じ取れる逸話である。
 さても、ぼくたちは、ついつい日常のなかで、日々の疲弊にうもれ、緊急性を失いがちだ。そんなぼくらに、たろうはいつも目をさませといってくれる。
 旧ソ連の物理学者でノーベル平和賞受賞者のアンドレイ・サハロフ博士(この人は水爆の父といわれたが、後に良心から核競争に反対し迫害をうけた。しかし、平和と民主化を提唱しつづけ、ペレストロイカの父といわれる)は、「科学者は汚染をいちはやく感じ、変化して伝えるムラサキツユクサであれ」と述べた。
 世界を知る目をもちたい。今知らないのは恥ずかしいことではない。知ろうとしないのは恥ずかしいことだ(これは福音館書店の松井先生からおききした)。
 今、警鐘をならさなければならない。そんな不公平や悲劇が世界にはまだ満ちている。たろうはいそいでいる。日はすでに高い。
 
 ところで、この物語の絵は堀内誠一先生。『ぐるんぱのようちえん』の作者でもあることはご存じの通り。先生は小1で私家版雑誌をつくり、14歳で伊勢丹に入社してデザインをしていた天才的なアーティストだが、たろうやぐるんぱのオシャレな感じはいつ見てもかっこいい。先生は54歳という若さで世を去られてしまったのが残念だ。1987年秋の「ことばの宇宙」に「さよならぐるんぱ」という小さな追悼文を泣きながら書いたのを思い出す。なお、先生がデザインした雑誌である「アンアン」や「ブルータス」などは、今も先生がつくったロゴを表紙につかっている。

 さて、ここから先は本日のできごと。ラボにあんまし関係ないので興味ない人はパスしてね。
 11月25日は憂国忌。三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で割腹自決した日だ。1970年のこと。この年は大阪で万博が開催されたり、日米安全保障条約が自動延長に入29るという、大きなできごとがたくさんあった。アメリカではリチャード・ニクソン(この人はクェーカー教徒!)が大統領に就任し、ベトナム戦争はカンボジアまで戦火が拡大していた。ぼくは高校3年生で、小さな頭で戦争や差別問題を考えなながら、三島由紀夫や梶井基次郎や漱石、ヘミングウェイなどを読みふけり、同時にガールフレンドがほしいなあという青い悩みともむきあっていた。
 アメリカが戦争でむだづかいしてくれるため、日本経済はどんどん成長。戦争はいやだといいつつ、アメリカの侵略の手伝いで繁栄を享受している自分との矛盾にも苦しんだ。そして、まだ漠然とした自分の未来を手をかざして探しながら、詩みたいのもや歌みたいなものをシコシコと書いていた。
 そんな年の、よく晴れた晩秋の日に三島は遠くへ行ってしまった。奇しくもその日は母の父の告別式で、父母の指示で妹を連れて帰宅する途中に立ち寄った定食屋のテレビが臨時ニュースを伝えていた。
 三島の作品論をここで展開するほど厚かましくはないが、彼の文章は漱石とともに、日本語のお手本のひとつだ思っている。美しいのはいうまでもないが、あいまいさがなく、緻密に組み立てられた建造物のような確かさがすごいと思う。

 1970年。週末の新宿西口地下などでは学生とサラリーマンが真剣に議論したりする風景があった。
 2010年。三島没後40年。今、警鐘をならす力を失ってはいないかと、自分に問いかける。朝鮮半島の緊張も対岸の火事ではない。
 行動することもたいせつだが、思考することもたいせつ。物語のなかに、多くのこたえがあることを思う。
 たろうはいそいでいる。日はすでに高い。ゆきちゃんの草原はまだ遠い。
 
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