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先日の予告の通り、本日のJAPAN TIMESの5面に、
翻訳家・通訳の鈴木小百合さんのインタヴュー記事が掲載された。
そのまま接写して日記にアップするのは、パクリといわれるので
(記事の引用というかたちで脚注をつければ、まあ0K)
立春の日に81歳になった母親(夕食をともにしたので)に
読んでいるふりをしてもらって撮影した。
ちなみに、母が眺めている(読めないので)のはムバラク氏に関する記事。
この撮影の直前、鈴木さんと電話で話したが、ご本人も
こんなに大きな記事(ほぼ半面)になるとは思わなかったそうな。
インタヴューはJAPAN TIMES社で3時間かけて行なわれ、
インタヴューアーして記事を書いてくれたとのは石原さんという女性で、
ぐうぜんにも、わしらの大学の後輩だという。
事前にとってもよく勉強していて、
主な著作や略歴、そしてラボのことまで基礎情報を頭にいれていたとのこと。
聴き手としては当然のことだが、テレビでゼロからインタヴューする
アホなアナウンサー(けっこう多いので誰とはいわぬが)は、
爪のあかを煎じて一気飲みするように。
また、鈴木さんは「週間ST」というJAPAN TIMESの
週間誌に連載をもっている。
だからてっきり、そちらに掲載されると当初は思っていたとのこと。
それが本紙ということで、びっくり! だそうである。
お読みになられた方は、わかると思うが、
記事はたいへんよくまとまっていて、ごきげんなできである。
「通訳の仕事より、翻訳の仕事の比重を多く紹介してくれてうれしい」
鈴木さんにとって、もちろんスターや監督の通訳もたいせつな仕事
だが、軸足は好きな戯曲の翻訳、上演においている。
※翻訳では湯浅芳子賞を受賞されている。
※一度、通訳の仕事でだれが一番すばらしかったか、ミーハーな
質問をしたことがある。ここでクイズ。それは誰でしょう(こたえはラストに)。
そのあたりのブレのなさは、ほんとうに強いと思う。
掲載された写真の小さいほうは、ジョニー・デップと
ティム・バートン監督の記者会見でのようす。
大きいほうは、新刊の『ももたろう』『かさじぞう』
を手にもっている。
そして、なによりうれしいのは、
「絵本の仕事にも翻訳の領域をひろげている」と、
ラボのこともきちんと、しかもたいせつな仕事として紹介してくれていること。
先日もメールでは「ラボと新刊のこともバッチリ宣伝したわよ」と
いっていたが、
「あそこまできっちり書いてくれるとは思わなかった」
1992年の『おどりトラ』が最初だから、もう19年になるのだなあ。
ラボのことは記事の後半にでてくる。
「ラボとの出会いで、あなたのことしゃべったわよ。
名前はいってないけど」
へんな想像をしないように。読めばわかるけど。
※各支部に記事のコピーは配布されると思う。
少し大きめの画用紙に貼って、簡単な要約をつけ
クリアファイルにいれるかパウチすれば、父母会用に便利。
さて、タイトルにSuper Mondayと書いたが、これは本来は
Super Sundayである。2月のさいしょの日曜日は、
プロフットボールの全米No.1を決定するSuper Bowlが行なわれるからだ。
日本ではどうしても月曜の朝。
ラボに勤務していたころは、この月曜日に
生中継を見るためにどうやって休みをとるかに腐心したものだ。
しかし、今年はゆうゆうとコーヒーを入れて試合開始10分前から
スタンバイである。
野球はBall Gameだが、フットボールはBowlだ。
スタジアムが料理のボウルのようになっているからね。
本日の会場はダラス、
Pittsburgh Steelersと、Green Bay Packersの対戦だ。
観客は約104000名!
ベンシルヴァニアとウィスコンシンの勝負である。
Pittsburghは鉄鋼の街、だからSteelersである。
その協力な守備陣は「鉄のカーテン」(もともとはチャーチルが
冷戦をあらわすことばで使ったのは有名)とよばれた。
対してGreen Bayは
冬はめちゃくちゃ寒い(旭川より北)ミシガン湖のほとりの小さな港町。
1919年の設立だが、最初のスポンサーが缶詰会社だったので
こんなティーム名になってしまった。
さらに、Green Bayは、NFLで唯一の市民ティームである。
市民が「おらがティーム」として株をもっている。
ホームゲームのシーズンディケットは、
常に売り切れで、Waiting Listには80000名以上の名前がならんでいる。
今から申し込んでも手に入るのは数十年後。
試合はGreen Bayが制したが、じつはゲーム前に
あるハプニングがあった。
試合前のセレモニーは、毎年、いろいろなに演出がなされる。
大統領がコイントス(先攻決め)をしたり、
宇宙船からメッセージがきたり、スカイダイビングがあったりと
まあ、アメリカらしい。
しかし、もっとも重要かつもりあがるのは「アメリカ国歌」斉唱である。
フットボールのみならず、あらゆるスポーツの試合前には
国歌が流れる。そして、とくに大きな試合では、有名な歌手が登場する。
その際、いつも感心するのは、どの歌手も「おなじ歌」である国歌を
それぞれ、完全に自分の歌にして、独自の歌い方で披露することだ。
ゴスペルであったり、アカペラであったり、アリア調であったり、
じつにおもしろい。
アメリカ国歌は、けっこう長い。
ぎゃくに、「君が代」は短い。
ところで、ぼくは「君が代」を国歌とするのは反対であったが
最近、少し考えが変わった。
「君が代」は、もともとは天皇を讃える歌ではなく、
たいせつな「君」が末永く幸せにあるように、
自分の愛する親や配偶者などへの歌だったということを知ったからだ。
しかし、かつて自分たちの歌をうばわれ、
この歌を強制的に歌わされたことで傷ついた人びとがいることは
変わらない。
したがって、歌の本意はそうであっても、やっぱり
「ソンクバード」をプロデュースした身としては、
そうしたSensitivityを忘れてはいけないと思う。
だから、もろてあげて「君が代」賛成。
国歌なのだと、いいきる気にもならない。微妙。
さて、今朝のSuper Bowlでは今、大人気の女性歌手
クリスティーナ・アギレラがギター奏者とともに登壇。
すばらしい歌唱力で圧倒した。観客は大もりあがり。
しかし、あれ? と、途中で思った。歌詞が変なのだ。
ごていもねいに録画もしていたので、ハーフタイムに
再生してみた。すると…。
O'er the ramparts we watched
ところを、その前の
What so proudly we hailed
とごっちゃになったのか、
What so proudly we watched
と歌っているようん気がしてならない。
しかし、アギレラともあろう歌手が国歌をまちがえるはずかない。
「とうとう、わしの耳もこわれたか。やはり引退して当然」と
かなりへこんだ。
実際、テレビも試合場も、なにごともなかったかのよう。
観客は万雷の拍手である。
ところか、夕刻のネットニュースで、やっばり! まちがえていた。
ツィッターでおおさわぎになったそうである。
ここで、今はなき友人バーナード・レーベンスピール氏
(元財団職員、アメリカ事務所員)のことを思い出した。
長身、フィドルの名手、日本堪能。
誠実、正確でていねいなに仕事。
4-Hクラブをはじめ、交流相手の担当者からの信頼は厚かった。
おだやかで、皮肉屋、でもあたたかい男。
今、北米交流があるのは、彼の力が大きい、
というよりバーニー(愛称)なくして語れない。
しかし、バーニーは腎臓に病を得た。
さまざまに苦しい治療をうけ、移植も行なったが、
6年前の7月、40代の若さで世を去った。
信じがたいことに、死の前日まで、国際交流の仕事を続け、
ホームステイに関する手配をほとんど終わらせていた。
それで安心したのだろうか、と思わざるを得なかった。
そのバーニーが日本にいるとき、アメリカ国歌についてこういった。
「国歌は学校なとで教わるけど、ちゃんとぜんぶ歌える人は
あんまりいないよ。ぼくも歌えない」
あんまりあっさりというので、ぼくはポカンとしたとのを覚えている。
頭の回転速度が、ぼくの3倍くらいはやく、
また思考の深さにいたっては、ぼくと比較するのも失礼なほどの彼なので
それが、ほんとうなのかどうかはわからなかったし、いまもわからない。
あらゆる権威、そしてナショナリズムを忌避したバーニーだから…。
でも、アギレラでもまちがえちゃうんだからなあ。
ところで、録音スタジオには窓がない。
したがって、地下にある場合がけっこう多い。
音楽スタジオも、セリフのスタジオでもおなじ。
長い間、太陽光にあたらないから、
時間の間隔がおかしくなる。
しかし、録音は、セリフどりなら役者さんもいるし、
音楽なら演奏家もいる。
出る順番も場合によっては、売れっ子の演奏家などは
おしりの時間がきまっているから(いわゆるケツカッチン)、
まだ、時間の進行には気をつかう。
スタジオの確保時間は、かなりゆとりをもってとっているが、
無限というわけではない。
だが、編集となるとそうはいかない。
とくに英日をつくるときなどは、終わるまで終わらない。
あたりまえのようだが、たいへんなことだ。
ラボ・ライブラリーのもっとも妥協できない点である。
もちろん、録音も妥協はできないが、編集は時間のかかりかたがちがう。
役者も演奏家も人間だから、無限に録音はできない、
疲労してくれば声も演奏もおちてくる。
いい状態のときに、どれだけうまく録音できるかが勝負。
といっても、ラボの場合、念を入れて、いろいろなパターンを録音
してもらうことがけっこうある。
録音時は、その表現でいいと感じても、後で英日あわせると
微妙にむずがゆいときがある。
そこで、ニュアンスをあわせるために
ここは難しいなあという部分は、
念のためにいくつかのバージョンを録音しおくのだ。
泰斗目なんかは10こ以上、「いただいて」おく。
たが、編集の時間のかけかたは、はっきりいって異常。
たいていの技術者はあきれる。
そして、とことんやりましょうということになる。
『ジョン・ギルピン』の英日編集のときのことだ。
この作品は三輪えり花さんの、ラボ初演出である。
たしか、13時スタートだったと思う。
初日が終わったのは、27時(日付がかわると伝票が2日にまたがるので
こういう。要するに朝の3時)である。
「ここまでにしましょう。おつかれさま」
「いま何時ですか」(三輪)
「朝の3時」(わし)
「えーっ、わたしどうやって帰ったらいいの」
一同の心の声(この人は時間忘れてたのか)
そんなもんである。
太陽光のない部屋で、もくもくと、まるで炭坑の仕事。
でも、演出家、演奏家、作曲家などという
芸術の山師たちは、
スタジオという金鉱で、まだだれも見つけたことのない
美しい音や表現の鉱脈をさがしつづける。
そんななかで、すごいなあと思うのは、
スタジオ・ミュージシャンのみなさんである。
語りもすごいのだが、こちとらも一応はことばのプロであるから
いろいろ注文つけたりもする。
しかし、演奏はへたの横好きのレベルだ。
原則ラボの音楽は、アコースティックである。
生の楽器の表現力は、音の厚みからしてちがう。
ぺらぺらの打ち込み音楽は賞味期限がなさすぎる。
そこらで売ってる英語の歌はたいていそうだ。
だから、作曲家はフルスコアで書いてくる。
それを写譜屋さん(ハッスル・コピーなんて有名な会社がある)
がベース、ピアノ、バイオリンなどの楽器別のパート譜に書き写す。
スタジオに入った演奏家は、その日にパート譜をわたされる。
初見で演奏できなければ、スタジオ演奏家としては成立しないのだ。
一回テスト。これは、長さを計るとともにニュアンスを調整するためだ。
楽譜はテンポがきまれば、演奏時間は計算で得られる。
したがって、セリフの長さにぴったりあった演奏が録音できる。
演奏のテンポは「ドンカマ」とよばれるリズムマシーン
がヘッドフォンから聴こえるようになっている。
二回目が本番。
これが理想のバターンだが、写譜がまちがっていたりすると
(これは、急いでやっているのでママある)、修正。
すごいのは、作曲家はすべての音を聞き分けているということ。
「フルート、15小節目の2拍目のウラは、なんですか」
「Cです」
「それは写譜まちがいです。
Cはウソのなので、そこは、シャープつけてください」
うーむ。
作曲家も自ら指揮する間宮先生のような方もいるし、
調整室で聴いて専門の指揮者に指示を出す先生もいる。
どちらかというと後者のほうが多い気がするが。
かように演奏家はうまいのだが、とくに重要な楽器は、
はげしくうまい人が来る。作曲家のご指名によることが多い。
相性もあるし。
結局、俳優とおなじように超一流、ワールドクラスの演奏家が
ラボの音楽に参加することになる。
例をあげるときりがないが、ぜひ聴いてほしいのは
パーカッションは、高田みどりさん。
※彼女は世界的に活躍しているが、ライブラリーのバーカッションは
ほとんど担当している。
バイオリンは中西さん(大草原),篠崎さん(西遊記ほか)
などなど。
ちなみに、「ダルシン」の音楽どりのとき、
間宮先生が指名したチェロの演奏家の開始前のひとことに驚いた。
「とうとうこの弓、買っちゃった」
「へぇっ、いくら」(となりのバイオリンの人)
「うーん、ベンツが買えるかな」
びっくりして、いろいろたずねると。
バイオリンは数千万するか、名器のチェロ本体はもっと高いので
個人では無理とのこと。だから弓だけか!
※ここでクイズのこたえ。
鈴木さんが今まで通訳て、いちばん素敵で印象的だったのは
チェロのヨーヨーマだとのこと。一週間近く、ずっとアテンドしたが
んなに疲れていても、常に紳士的で優雅だったとのこと。
そして、別れ際にお礼にと自分の作品のCD(ほぼ全部)をサイン入りで
プレゼントしてくれたそうだ。
スタジオは密室空間で長時間の作業、しかもかなり神経を
けずって作業をするからだろうか。
いろいろふしぎな話は多い。
たくさんの電子機器やシールド(コード類)があるから、
磁場が霊をよぶなんていう人もいる。
誰もいないスタジオでピアノがなったとか。
調整卓(コンソール)からいきなり男の上半身があらわれたとか…。
たしかに寝てないから、脳内現象としてへんなこともおこるかなあ。
ぼく自身はいちどだけ体験したのは
『十五少年』のナレーションどりのとき。
中村俊介氏の語りのとちゅうで、だけかが変な声が入っている
のに気づく、再生してみるとかすかに歌みたいなのが聴こえる。
幸い、ほんの数秒なので、やりなおしはわずかで
かすんだが、原因はわからない。
たまに、ほかのスタジオの音や、なにかの無線の音が
電気的な不具合でまれに混入することはあるが、
この日はお盆で(ぶるぶる)、他のスタジオは空室。
雑音ではなく、歌のようにきこえたので不気味だった。
結局、20分ほど休憩して原因調査したが不明。
その後は、なにもおこらなかったが、
中村氏が「ぼく、こういうの苦手なんすよ」といったのが
おかしくて、場がなごんだ。
スタジオは経費がかかる(ちょっとした器材でもすぐ千万単位)ので、
維持はほんとうにたいへんだ。
いいスタジオがなくなると、さもしいなあと思う。
赤坂のやげん坂(一時はコロムビア通り)にあったコロムビア本社
(今は虎ノ門に移動)の第一スタジオなどは、
じつにおもむきがあった。会社の事務室のなかわぬけていくのだが
ドアをあけた瞬間、会社から芸術空間に一瞬でかわるギャップがよかった。
ここではラボの作品も多くつくられたが、
美空ひばりさんの「川の流れのように」も録音された。
名スタジオである。
今はもうない。
バーニーの遺志により、彼の墓はない、ご両親は記念の小さな
塚をつくられた。
そして、遺骨と灰は海に還った。
そのわずかな一部がご遺族の好意で日本にもちかえられた。
そして、亡くなって2年後の5月。
彼が愛してやまなったラボランドに埋められた。
鴻来坊の前庭に5メートルくらいの間隔で
対になったオオヤマザクラが植樹されているのをご存じだろうか。
その根本に、バーニーの遺骨がおさめられいる。
ブレートなどの、それとわかるものはない。
ただ、四季のキャンプのときには子どもたちの声に
かすかにほほえむように枝がゆれるかもしれない。
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写真上は渋谷の東急百店本店横。裏手にあるオーチャードホール
での音楽会の前に撮影。歩行者と窓の間隔がおもしろい。
下は青山のギャラリー、スペースユイの向かいのヘアサロンとバイク。
茶畑和也氏の個展の日に撮影。なにげない街角も、
大きな病気をするとなぜかいとおしくなる。
本当は、今日は更新の予定はなかったが、昨夜、うれしいメールが
きたので急遽アップすることにした。発信人は翻訳家・通訳であり
友人(もういまさらなので)の鈴木小百合さんからだ。
内容については事務局からもお知らせがでると思うが
よいことなので秘密にすることでもないし、速度の点も考慮して
一部を紹介する。
三沢様、
先日、事務局にはお伝えしたのですが、
2月7日付けのジャパンタイムス紙に
私のインタビュー記事が掲載されます。
通訳・翻訳家のインタビュー特集を年2回
載せるそうで、週刊STに連載をしている関係で
今回は私を選んでくださいました。
インタビューの中でラボの仕事のことも話し、
新刊の紹介もばっちりしておきました!
今度、記事をお送りします!
ありがたやありがたや。
いつも書くことだが、ラボ教育を理解してもらうのが
ときに困難なときがある。
しかし、テューターや事務局が思っている以上に
ラボを応援・支持してくださる方はたくさんいらっしゃる。
在職中もそのことは意識していたが、
今、また、より深く感じる。
さて、そのいきおいで『ノアのはこぶね』と『バベルの塔』について
少しだけふれたい。
「少しだけ」などと、けちったいい方をするのは、かなりのことを
「制作資料集」に書いているからだ。
しつこいようだが、「ロシアの昔話」以降のライブラリーについては
歌の作品をのぞいて必ず「資料集」が刊行されている。
常にバックナンバーは事務局(本部)にあるので
支部事務局経由でオーダーすれば手に入る。
以前の日記で書いたように、『旧約聖書』の物語に題材をもとめて
ライブラリー制作を開始するまでには、十数年を必要とした。
まるで砂時計のように、さらさら(『ノア』のラスト、
自分で気に入っている表現)と時間がながれ、やっとできた。
『旧約聖書』は、ある意味で史上最大のベストセラーである。
物語の宝庫だ。
しかし、同時にキリスト教ならびにユダヤ教、
イスラム教(詩編・律法・副員)などの聖典でもある。
宗教は思想という意味でも、人の集まりという意味でも組織である。
しかも人がかたちをあたえたものだ。
ラボも教育活動体であり、ラボ教育も、そこに集う人も組織だ。
もちろん、ラボも人がかたちをあたえた。
だが、宗教もラボもそうなのだが、
スタートは一人、あるいはごく少数であっても、
いまは太陽とか月などのように、人間とは別に存在するもののようになっている。
つまり、だれのものでもない、大げさにいうとみんなのものだ。
芸術、学問もおなじ。人間がかたちをあたえた組織だが、
もう人間とは別に存在する。
だから、それぞれのなかに、それぞれのラボがある。
学問も芸術もラボも、その意味では終わりはない、
無限の遠近法のかなたにぼんやりと像を結んでいるが、
そこまでたどりついたと思っても、その先がある。
ラボを「踊る宗教」という揶揄は、最近ほとんど消滅したが゛
ソングバードもテーマ活動も、とことんつっこめば、
そんな誤解も生まれるくらいの「ぶっとんだ境地」にいたらん。
そんな冗談はさておき(半分本気)、
ラボは宗教・政治から自由である。
その一方、信仰ということばがある。これは宗教とイコールではない。
信仰の対象がなんであろうと、個人の心の深い場所に
少なくとも土足でふもこんではいけない。
そうしたSensitivityは重要である。
『聖書』をあつかう場合は、つまりすなわち
いろいろなケアをしなければならない。
そのうえで、細心かつ大胆でなければならない。
そのためには、時代性、社会性という大きなテーマを
ぶれないかたちでもつことが肝要である。
科学(自然科学だけでなく全般)という方法論を学ぶとき
ギリシア文化とキリスト教は避けて通れない。
数学をはじめ、基礎的な知はギリシアにあり
それにOKを与えているのがキリスト教である。
ラボでは、まずギリシアの物語をつくった。
※ざっくりとした説明だが、日記だからアリ。
とくにギリシア文化は、西洋世界の価値のお手本になっている。
北米交流に参加した方なら気づいたと思うが、
州の議事堂や裁判所などはほとかんどがドーリア式とかイオニア式
あるいはコリント様式のギリシア風建築だ。
アメリカは歴史が新しいから、価値の根拠をギリシアにもとめている。
そして、いちおうビューリタンがつくった国である。
ワシントンDCを見てみるともっとはっきりする。
リンカーン記念堂(キング牧師が演説したところ)と最高裁判所
(こけらはギリシアっぽい)を結ぶの直線にはでっかいレフレクター
(池だが、エリーゼ宮のまねっぽい)
がありオベリスクみたいなワシントン・モニュメントがたつ。
この塔をはさんでホワイトハウスとジェファーソン・メモリアルと
その奥にアーリントン墓地。全体で大きな十字架になっている。
いろいろおいしいとこどりだが、中心はギリシアとキリスト教。
もっとも、ギリシア文化の目玉のひとつ
ユークリッド幾何学は長く物理学者を苦しめた。
ほぼ完璧と19世紀まで信じられていたからだ。
いろいろな定理はユークリッドの「うたがうことのできない公理」から
証明され、それらを用いてさまざまな事象が説明された。
しかし、話が地球の外にまでおよぶと説明がつかいことが
いっぱいでてきた。
ニュートンはリンゴが落ちるのを見て、
「あのリンゴをもった高い空から落としても落ちてくる。
しかし、月は落ちてこない。そして月でリンゴを落とせば…」
というヒラメキで重力の法則にだとりつく。
質量が重いものほどひつぱる力ず強いというわけだ。
しかし、そのニュートンも宇宙を説明しきることはできなかった。
彼もまた、ユークリッド幾何学を前提とした数学から
離れることはできなかったのだ。
ユークリッドの公理のひとつに「ひとつの任意の点を通る一本の直線
に対する平行線は一本だけ」というのがある。
「三角形の内角の和は180度」は、この公理からみちびかれる定理だ。
しかし、上記の平行線の公理をうたがうと、
「三角形の内角の和は、ときには180度より大きい」という定理が生まれる。
これはラバチェフスキーという数学者が考え出したこと。
ニュートンは17世紀から18世紀の人だが、
19世紀末から20世紀になると、ラバチェフスキーのほか
リーマンなどの高等数学、なかでも非ユークリッド幾何学が成長する。
さらにパリの万国博覧会ではエッフェル塔が登場、
鉄骨の塔のなかをエレベーターで移動するという斬新な発想に
人びとは未来を感じた。
また、ピカソがキュービズムとよばれる人物の内面のでも
ゆがんだかたちで立体的に描きだした。
ようするに「空間認識」が大きくひろがったのだ。
数学者も画家も音楽家も、同時代の空気を感じたことはまちがいない。
時代精神というやつである。
このへんは『時間・空間・建築』というギーディオンの名著を読もう。
ぶあつくて6000円くらいするが、建築家でなくても読める。
歴史的背景の記述もていねいだ。
話をもどすと、かのアインシュタインは、
「宇宙を考えるときに、非ユークリッド幾何学をつかったら」と
考えた。それがあのE=MCC小(エネルギーは質量と光速の二乗)
という有名な式である。
皮肉にもこれが原子爆弾をつくりだす素になったが…。
こうした人類のはてしない「世界や宇宙の解明」にむけての
努力は今もつづく。
さらに話をもどす。
しかしユークリッドのような基礎が大昔からあったがゆえに
その後のリーマンもアインシュタインも存在できた。
やはり、ギリシアの人びとの想像力と知恵ははてしない。
美学においても、ギリシア悲劇とシェイクスピアをこえる
文学はまだないというのが今も基本。
一方、その科学に倫理的に支えたのがキリスト教である。
「創世記」では、神は光で世界を誕生させる。
そして、7日かけて無機物、有機物、植物、動物、
そして人間をつくる。
まるで、地球のできるまでを見ていたかのようだ。
で、人間にのみ、Spirit、魂をあたえる。
万物の「霊長」である。
さらに、人間は人間だけが魂をもつがゆえに、
植物や動物の生命を消費して幸福になっていいというといっだ。
対して、多くの先住民、そして日本でも古くは、
すべてのものに魂を認めていた。
風にも、森にも、熊にも、ツグミにも、海にも
ライブラリーの神話や昔話を聴けば、よくわかるよね。
人間もそうした命のひとつであり、
森や動物たちと共生を願ったのだ。
だから、先住民の問題はイコール環境問題であるのだ。
人間だけに魂があるという考えと、すべてのものが
魂をもつという心、これこそ異文化である。
箸とフォークのちがいなど、異文化とはいわぬ。
食事につかう道具という点ではむしろ共通項。
科学は、こうした大義名分によって自然を活用して
人間の幸福追求に貢献してきた。
より早く、より多く、より楽に…。
そのなかでもっとも大きいのは医学だろう。
人間だけが、自然淘汰に抵抗する。その手段が医学だ。
しかし、それによって尊厳死などの哲学的課題とむきあうはめにもなった。
科学はその力によって反作用も生み出したのだ。
原子力、そして自然破壊。
そのなかで、キリスト教は抑制的な役割をもっていた。
科学のやりすぎを、ちょっとまてとブレーキをかける力だった。
しかし、20世紀になってから、その力は衰退したといわざるを得ない。
20世紀は、大量破壊兵器が数多く登場し、ノアの洪水レベルの
被害を人にも自然にもあたえることになってしまった。
しかも、戦争は常に正義と自由の名のもとに行なわれた。
こうした日記であつかうテーマとしては軽く書きすぎかもしれない。
どうしても舌たらずになるが、
ともあれ(なにがともあれだ!)、ギリシア文化とキリスト教は
基礎教養である。そして、人類文化の源流のひとつである。
しかししかし、そうしたギリシアとキリスト教、
すなわちへレニズムとヘプライズムという大きな潮流とは別の
流れ、北欧神話の世界、ケルトなどを忘れてはいけない。
ラボでもきっちり、それらのテーマがとりあげらけている。
北欧とケルトを書き出すと、もうきりがないので次の機会にまわすが、
ギリシアでもキリスト教でも語れない世界も、脈々とある。
それらもまた、芸術。文化に大きな影響をあたえている。
ちょっとだけあげると、まず北欧神話では
コッポラ監督の「地獄の黙示録」(Apocalypse Now/79)
でワグナーの楽劇から「ワルキューレ(ヴァルキューレ)の騎行」
を用いている。
ワルキューレは複数の戦いの女神(半神)であり、
最高神オーディンの命をうけ
戦死者を天上のヴァルハラ宮に案内する役割をもつ。
したがって、戦場に彼女たちが空高くあらわれるときは
死の前触れである。
コッポラはコンラッドの小説「闇の奥」をベトナム戦争
に舞台をかえて翻案したこの映画で、
アメリカ軍の9機の戦闘ヘリコプター村を爆撃するシーンで
この曲を用いた。
ワグナーにあまり興味のない方も、聴けばすぐわかる。
高空を行くワルキューレを鮮やかに、かつ不気味に連想させるあの曲。
また、保久遠の伝承叙事詩は「サガ」「エッダ」だが、
○○サガ(サーガ)、タイトルとしていっぱいつかわれている。
ケルトにいたつては、近年、とみに注目が高い、
「ケルティック・ウーマン」やエンヤなどのポップスと
よぶにはあまりに香り高い歌唱。
また、「タイタニック」でも、ケルトの音楽が使われているし、
先日紹介したイーストウッドノ「ミリオンダラー・ベイビー」では
主人公の女性ボクサーとジム・オーナー役のイーストウッドが
ゲール語(ケルト語派のひとつ)について会話する場面がある。
さらに、近年の魔法ブームも、科学では説明できぬ世界への
憧憬、あるいはヘレニズム、ヘブライイズムへの反作用といえるかも。
そんなようなも、議論や意見交換や研究や学習や思考の末、
「人類文化の源流」というテーマで,『ノアのはこぶね』のシリーズは
制作がはじめられた。
くりかえすが、趣旨の詳細のしっかりした部分は
「資料集」にがっしりと、ふうふういいながら書いたので
ぜひ読んでいただきたい。
で、『旧約聖書』の物語はどれもおもしろいが、
テーマ活動の展開という点を考えると、やはり創世記Genesisと
出エジプト記Exodusかなと思う。
ちなみに出エジプト記は、組織担当時代、群馬地区の皆さんと
オリジナル作品をつくり支部総会で発表した。若気のいたりだ。
ただ、Exodusは迫力あるが、長さとしてちょっとたいへん。
それとモーセというキャラクターのあつかいはかなり難しい。
でも、魅力あるテーマだ。
フィレンツェの天才、ミケランジェロは160センチに満たない
小さな人だったが、その作品は力強い。
彼の角をもつモーセはあまりに有名だ。
ミケランジェロは、このモーセをつくったとき、
モーセの膝に手をおいて「さあ、立って歩け!」といったという。
ピエタ(死せるイエスを抱くマリア)を生涯のモティーフとした
ミケランジェロだが、四作とも最後まで満足することができなかった。
そのなかで1499年に制作されたピエタ(サン・ピエトロ大聖堂)は
人間業とは思えぬ美しさと、無限の慈愛と悲哀を今もはなつ。
しかし、それでもミケランジェロは、「ここにはない」と思っていた。
芸術は恐ろしい。
また、話がそれたが、バルバース氏によって書かれた
『ノアのはこぶね』『バベルの塔』は、神話・伝承のライブラリー用再話
における1つのかたちである。
『国生み』でもそうだが、宗教や信仰と直接むすびつく題材は
多神教にせよ、一神教にせよ、絶対的存在をどう表現するかが大きな課題だ。
だから、ギリシア神話のように、人間よりも人間的な神がみだと
ライブラリーにはもってこいだ。
なにせ、最高神が浮気ばっかりしているくらいだもんね。
夏の星座として有名な白鳥座はゼウスの化身で
レダというお気にいりの恋人のところへむかう姿だといわれる。
夏の夜は、毎晩、銀河のまんなかを南にむかって急いでいるのだ。
『国生み』でも、四編の物語をそれぞれ異なる額縁にいれているが
第1話においては国の誕生を「こう伝える人びとがいた」とくくっている。
あきらかに日本の神話であるが、あえて距離をとっている。
しかし、その本質である男女神の協力、死と再生は見事に描かれている。
『ノア』も、一見荒唐無稽に見えるが、洪水伝承のなかに
自然を利用しつくしてきた
人間の本質を、動物たちをもちいてえぐりだしている。
興味深いというか、興味をもってほしいのは、
人間の味方をする生き物が、ヘビなどの
ふつう人間が忌避するものたちであることだ。
それと、いよいよ黒雲がせまったとき、
危機的なセリフがある。
それはだれのセリフかという問いが、たまにあるが、
よく聴けばわかる(「資料集」には書いてあるけど)。
『バベルの塔』もコミュニケイションの不能という
同様に本質的問題を提示した。
どちらも、じつは古来からのテーマである。
そして同時に現代的なテーマでもある。
『バベル』は聖書原典における記述は数行である。
これを膨らませたパルバース氏はただものではない。
しかし、完成稿にいたるには、たいへんな努力だったと思う。
第1稿はかなり長く、収録時間からいって2作品を入れるのは困難だった。
しかし、年末年始をはさんで、氏はなんどか書き直した。
年があけてから、すぐに日本語をつくりはじめたが、
氏があきれるくらいのやりとりわしたことがなつかしい。
氏の言語力ははっきりいって異常にすごいから、
微妙なニュアンスもすべて一句ごとに確かめた。
日本語との長さのバランスから、書き換えていただいた所もある。
よく怒りださなかったと思う。
だから、英語も、それから日本語も
一語、一語楽しむくらいのていねいさで取り組んでほしい、
とはひそかに思う。
氏はねっからの劇作家である。
『ドン・キホーテ』でも賢治作品のときでも、
ふたりで原稿を練っていて、イメージにずれがでてくるとると、
氏は、すぐに立ち上がって「ちょっと、やってみましょう」
とった。それでふたりで動いてみてわかる、ということもあった。
もちろん、ライブラリーのテキストをつくるとき、あまり劇的表現を
意識しすぎると鼻につく、ということがある。
テーマ活動=劇ではないからだ(言語体験のくりかえし、ラボラトリー、すなわち
言語の実験室だから失敗は成功のもと。ただ物語へのアプローチが演劇的
要素をもっているということだね)。
しかし、こうした作品の場合では、設定や状況をほ確認する意味で
書き手が表現してみるということもたいせつだと学んだ。
このライブラリー発刊後の支部総会(千葉だった)で、彼は
『バベル』でワークショップをやったが、とてもおもしろかった。
塔に我れ先にと争って入ろうとする場面だけをしたのだが、
そのエゴイズムと緊急性をどう表現するかを考えさせるものだった。
『ノア』にも『バベル』にも、いろいろなしかけがある。
それは別に手品ではなく、考えてほしい、考えざるを得ない
セリフ、場面が要所にちりばめられているからだ。
そして、いつか聖書を学ぶときがあれば、
ライブラリーがけしておふざけや冗談ではないことがわかると思う。
風間杜夫さんの録音もすばらしかった。
ほんとうにリップ・ノイズの少ない方だ。
ただの2枚目俳優ではない。
おだかやで、ていねいで、えらぶるところのひとつもない方だ。
仕事師はそういうものである。
『ギルガメシュ』の檀ふみさんもすてだった。
瀬の高い方だなあ、というのが印象だったが、
こちらも、おだやかさの裏側に高速回転の頭脳が感じられた。
恵比寿のスタジオで収録が終わり、JR恵比寿駅にいくと
ホームに壇さんが、まったくふつうに立って電車をまっていた。
とっくにタクシーで帰られたと思っていたのに…、
そのきれいな立ち姿はさすがだった。
絵は堀越千秋先生。スペイン在住のカンテ(フラメンコの歌)
とワインをこよなく愛する画家だ。
その色彩ダイナマイトの炸裂と闊達なタッチはうむをいわせない。
制作はスペインで行なわれ、
なんと作品は友人の方が成田まで手で運んだ。
半立体の作品だから、スキャナーにはかからない。
水彩やガッシュだったら原画を直接スキャンでき、
そのほうがマチエール(素材感・材質効果)やタッチ、
色合いも、より鮮明に印刷される。
だが、絵本を見ればわかる通り、作品は半立体。
回転するスキャナーは無理だし、平版でも陰ができる。
そうなると、撮影だが、問題はカメラマンである。
これはとっても、とっても技術がいる。
原画の質感わとれば色がずれ、色を忠実に再現とようとすると
質感はかなり犠牲になる。
ラボとしては、どちらも最高でよろしく、と礼のごとく無茶ぶり。
しかし、しかし、そのころ武満徹先生(とうとうラボの作品わ
手がていただくことができなかった! 何回かトライしたが、
どうしてもスケジュールがあわなかったのだよ)の全集CDという
豪華セットが刊行され、そのジャケットを堀越先生が描かれていた。
その作品を撮影したカメラマンを装丁家の坂川栄治氏が知っていたのだ。
坂川氏は近年のラボの絵本のデザインを担当されている。
ぼくの汁かぎり日本でも三本の指、いやいやトップの装丁家だと思う。
有栖川公園と愛育病院のあいだくらいのことろに
すてきなアトリエがあり、ぼくはそこで
打ち合わせをするのが大好きだった。
かくして、できた絵本はパルバース氏も大絶賛してくれた。
なにより、ぼくのぼろい日本語をよく許してくれたと思う。
なんだか、とりとめのなさが、いつもの倍ぐらいひどい。
ゆるしてほしい。
バルバース氏と『ドン・キホーテ』の打ち合わせを
京都(当時は京都市立芸大教授だった)で行なったときのことだ。
立命館大学の大学院の部屋をかりてまる1日テキストのツメをし、
食事をが終わって外に出ると、もうほんとうにまっくらだった。
時刻は10時をまわっていた。
その日は、朝まで徹夜で「テューター通信」の編集をしていて
一番の新幹線で寝ながら来たので、けっこうしんどかったが、
打ち合わせが充実していたので気分はよかった。
その日も、氏はなんどか「じゃあ、ちょさっとやってみましょう」と
立ち上がったのはいうまでもない。
夜道を歩きながら氏は
「映画は、いろいろ手間やお金がかかるけど、
演劇はすぐできる。今、この瞬間にもこの場でもはじめられる」
ほんとうに芝居が好きなのだ。
「それでは、おつかれさま」とあいさつすると
バルバース氏は「がんばりまあす。よろしくおねがいしまあす」と
日本のサラリーマンのまねをした。
その刹那、一台の車が通り過ぎて
氏をスポットライトのように照らしだし、
つかの間の劇的空間が現出した。
そして、時代を切り裂くブーメランをなける劇作家は
別れのことばを、またもどってきた京の闇に
そっとおいた。
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写真はどちらもウェールズ。上は昔の日記にのせたが、
すごい小さかったので再掲載。ウェールズの首都カーディフから
隣町のキャフェリーにいく途中の峠にあるTraveller's Innお食事どころ。
ニコル氏推薦のお店。『妖精のめ牛』の英語収録は、
キャフェリーのスタジオで行なわれたので、カーディフに滞在していた
ラボ組とニコル氏は必然的に毎日この峠を通る。
提供される食事はニコル推薦だけあって、たいへん美味。
ラムはさっぱりかつジューシィでいうことないし、
カーディフは漁港なので鱸の蒸し焼きもまるごとドン。
つけあわせの野菜、とくにジャガイモはたっぷりすぎるほど。
ウェールズ人はよく食べ、よく歌うとニコル氏。
「イングランドとはちがうよ。子どものころ
イングランドに住んだときがあるけど、
母親はよく季節の野草をつんで、おいしく食べさせてくれた。
でも、それを見たイングランドの人びとは『ニコルかとこのかみさんは
また草をひろって食べてる』とわらってた」
ラボ関係者は英国=イングランドではないということは
もちろんご存じだろうが、スタッフのひとりがつい
「(ここ、という意味で)イングランドでは、どうですか」
といってしまったことがある。
するとニコル氏は、にやりとして
「生きてこここを出たかったら、二度とそのことばは
いっちゃだめよ」
ともあれ、この店はおいくぼくはニコル氏と3度も行った。
ただし量はとてつもなく、日本人には多い。
同行していたW辺くんなどは、元来小食なのでとても食べきれない。
しかし、「のこしちゃ、もったいないよ」
とニコル氏にいわれるので、ほとんど苦行のようだった。
で、さらにたいへんなのは飲み物。
店に入ると、まずはカウンターで飲み物を頼む。
すると番号のついたスタンドをくれるので、
それをもって案内された席につくと、
係の人が飲み物をもって料理の注文をとりにくる。
ニコル氏はあたりまえのように「ビター」とか「ギネス」とか
ビール系(ただビールとは注文できない。
あまりにも種類が多いから。)。
「まあ、昼間だから軽くね」
とはいえ、昼酒はきく。
「ニック、ぼくらは仕事だから飲めないよ」
「それならShandy Gaff(ただShandyともいう)にしなよ。
これはお酒しゃないから」
とんでもない、じつはShandyはビールベースのカクテル。
ビールをジンジャーエールやジュースで割ったものだ。
これはほんとうに飲みやすい。
しかし、まぎれもなんくお酒である。
むしろ、くいくい飲むとけっこうたいへんだ。
この昔話にでてきそうな家のつくりもいい。
下の写真は首都カーディフの市役所前の市民プール。
しかし、冬はごらんのとおりスケート場に変身だ。
空は鈍色、とにかく一週間いて晴れ間は総計20分もなかった。
これは2006年のこと。あれからもう5年かあ。なんて。
ところで、ここで問題です。下はなんでしょう。
ウェールズに関係あります。※こたえは最後にあります。
Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch
さて、今日、ひさしぶりに『ヘルガの持参金』の
トミー・デパオラ氏のHPを覗いた。
http://www.tomie.com/main.html
この物語が刊行されたころは、日記で紹介している方が
多かったが、ひさしぶりなので再掲しておく。
あいかわらず楽しい。
とくにカレンダーのところは、ちょっとプライベートなことも
書いてあったりして(もちろん、イラスト入り)すてき。
この人の名前の読み方だが、日本ではトミー・デ・パオラ
とのなっている。
しかし、本人はTommy dePaolaという表記にしていて
わざわざ、発音はTommy daPOWlaだと書いている。
だからいちおうデパオラと書く。
ラボは原音主義だからね。
その国になるべく近い音で表記する。
メルヘンではなくメルヒェン。
コミュニケーションではなく、二重母音をいかして
コミュニケイション。
しかし、あまりやりすぎてトルストイをタルストーイと書いたら
だれだかわからなくなってしまう。
ともあれ、ライブラリーだけでなく
「ことばの宇宙」も「テューター通信」もそうした表記にはこだわっている。
ことばの組織だけんね。
もう少しこの話題を続けると、ラボならずとも
日本は、おおむね原音表記で。その国の発音にカタカナ表記をする。
韓国の人名も過去には、日本風に音読みしていたが、もうかなり前から
放送ではキム・デジュンのように韓国語に近い発音にしている。
新聞では括弧に読みを入れるくふうがされているね。
ただ、中国の人名はなぜかまだ音読みである。
もっとも中国側も日本の人名を中国語の発音で読んでいる。
これは相互主義というようだ。
ぼくは1989年の第3回中国交流、すなわち歴史上
初の中国ホームステイが行なわれたとき(その1か月後が天安門事件)と
その後、中国語版SK3の録音で、2度中国に行ったが、
いつも三沢(サンナヅォ)先生(はずかしい!)とよばれた。
三蔵法師の三と毛沢東の沢だからすごい! といもいわれた。
なんのこっちゃ。
ところが、英語は、というよりヨーロッパ語はどうしても
自分たちの音にひっぱってしまうようだ。
これはしかたないかも。
ピーター、ペテロ、ピョートル、ピエトロ
パウロ、ポール、パブロ
ジョン、ヨハネ、ジャン、ファン
ジョージ、ゲオルグ、ホルヘ
それぞれ同じなわけだけど、日本人からすればふしぎ。
今のローマ教皇(法王とも書くが教皇が正しいと思う)は
ベネディクトゥス16世だが、その前の教皇は
ヨハネ・パウロ2世である。
英語ではジョン・ポール・セカンドで
スペイン語ではファン・パブロ・セグンド。
それからナイジェリアとニジェールは隣国どうしだが
どちらもニジェール川の国ということで、発音がちがうが同じ意味。
うーむ、日本語は外国語を表記するのに
あくまでも比較的だがけっこう便利だ。
でも、英語も近年、国際語化するに連れて
その国がそれぞれ公式英語表記を発表し、
国際的にはその表記に従うのがお約束になってきた。
たとえば北京は、かつての英語表記はPekingだったが
(「北京の55日」という超古い映画の原題は"55 Days at Peking")、
今はBeijing という中国語に近い表記になっている。
ついでといってはなんだが、西アフリカでも、
アジアでもオセアニアでも、独自の英語を話すところが拡大している。
英語は、もはや世界の共通語になりつつ、というよりなっている。
確かに英語は歴史的には侵略者の言語という側面があったが。
いまやそんな枠をこえてグローバル・コミュニケイション言語
になろうとしている。
また、かつてはアメリカン・スタンダードが世界標準になることは
個別の文化の独自性、多様性の危機であり、英語のひろがりは
その片棒をかつぐといった声もあった。
だが、前述の西アフリカや東南アジアの英語圏を見ると、
「そんなの関係ねえ」といったパワーだ。
鈴木忠夫先生のおっしゃるように「日本人の英語」が重要だ。
ところで、2008年から9年の春は、
小学校英語のための教員研修をプロデュースしていた。
そのときに、「なんのために英語、あるいは外国語を学のか」
という問いを教員に考えてもらうワークショップをした。
これは直球、しかも150キロごえだから、
思わず腰がひけるし、手がでない問いだ。
でも、そのことを意識しないで教壇に立つのは恐ろしい。
少なくとも「考える」ことをしなければだめよね。
指導要領にあるからではダメなのはいうまでもない。
その回答はじつに多様であることはいうまでもないが、
そのひとつに前述のように外国の人とコミュニケイションするため、
いわゆる相互理解ということがある。
まあ、これは当然のことんのだが、
ぼくは、とってもシンプルだが
「その国・地域の言語で考えないとわからない、あるいは
より深く理解できないことがある」
という点をあげておきたい。
たとえば、「原子力の平和利用」といういい方があるが、
みれはあたり前のことである。
英語的にいえばthe peaceful use of nuclear energy
なのだが、実際にはthe commercial use というほう多い。
そのほうが本質がはっきりする。
もうひとつ、法務大臣は the Minister of Justice
直訳すれば正義の大臣である。ずごい重たい仕事なのだ。
ずいぶん極端な例示だが、オリジナルの言語で
考える、日本語とは別の枠組みで思考することで見えてくる
ものがある。
それが、相互理解につながっていく。
簡単なことではない。でも、進まねばならない。
パオラにもどろう。
ラボに入ってすぐ、ほるぷの外国語絵本のシリーズを安く買える
機会があり、エイヤとばかり購入したのだが、
そのシリーズに入っていた『神の道化師』がえらく気に入ってしまった。
やわらかいタッチと色彩が心にしみたのだ。
ストーリィを自分で訳そうと思ったら、しっかり ゆあさ・ふみえ先生の
訳がもう出ていて、がっかりした(アホやねえ)。
『ヘルガの持参金』もゆあさ先生のお訳である。
ゆあさ先生は、じつはラボ教育センターの前進である
株式会社テックに勤務されていたことがある。
※現在の社長は、かすかに記憶があるそうです。
そのことがわかったのは、制作を開始してからだ。
ざんねんなことに、先生は2004年に亡くなられていたので
制作の許可はご子息からいただくことになった。
ゆあさ先生の日本語は、リズムもよく平明で力強い。
そして、きちんと訳されている。
いわゆる名作絵本の訳は、ライブラリーみたいな英日を意識してないから
けっこうぶっとんだ訳になっている場合がある。
どうしてもあわなかったり、絵本の行数の関係で
訳してない行があったり、けっこう悶絶することがある。
そのへんのくだりは、それぞれの資料集にくわしく書いているので
ぜひ読んでほしい。
『いたずらきかんしゃ』では、ちゅうちゅうが、ガス欠で
とまる場面で、さいごに「ぷう」とかすかな汽笛をならすのだが、
福音館版にはその行の日本語がない。
このときは、ラボ・ライブラリーに理解のある福音館書店
のおかげで同社も著作権者もラボ版では日本語を追加すること
に了解していただいた。
ご存じのように、ライブラリーでは、英日版の編集をするとき
子どもたちが聞きとり繰り返して発語しやすいように、
長い1文はカンマなどで分割する。
しかし、英語の関係節などは日本語の構造とは真逆なので
その分割が困難な場合がある。
とくに物語の冒頭などは、なるべくゆったりと
そして、短い文でスタートしたい。
「がらんどうがあった」
は、その典型ともいえる。
ところか、『さんびきのやぎのがらがらどん』などは、
前にも書いたが、ブラウンの冒頭は関係節でてきていて
瀬田先生の名訳をどあしても分割してあわせられない。
それで、なるべくていねいに語ってもらうって
1文で一気に読んでいる。
この関係節というやつが、けっこう英語の急所だ。
若き日に関係代名詞や関係副詞で苦しまれた方も多いかも。
「イチローのホームラン」は、Ichiro's home runでも
誤りではないが、ふつうはHome run by Ichiroである。
なんのことはないが、すっとこれがでない。
『ピノッキオ』の第4話は
「かなえられた夢」でA Dream Come Trueである。
ドリカム! なんでcomes trueじゃないんですか
という質問が、現役時代に年に二、三回よせられていた。
おわかれのようにこのconeは過去分詞である。
「かなえられた」で夢を後ろから修飾している。
だから、英日編集のけっこうたいへんなのだ。
さつきも書いたが、ゆあさ先生の訳はすばらしい。
あくすことなく、しかし訳しすぎることもない。
しかし、どうしても手をつけねばならないところが
あった。looneyの訳である。
詳細は資料集参照だが
「おつむがへん」にさせていただいた。
テレビ局に勤務した経験があり、そのあたりの事情をよくご存じの
ゆあさ先生のご子息は
「CDとして音で永久にのこるなら、それはおっしゃる通りです・
また、母も多くの子どもたちが音でも楽しめることをよろこぶでしょう」
とおっしゃってくださった。
同様の問題は、『はなのすきなうし』でもあった。
これも岩波に理解していただいた。
※岩波版も今は変わっている。
表現の自由と差別的表現の問題はむずかしい。
筒井康隆氏などは、そのことで断筆宣言をしたくらいだ。
自由の本来の意味は「なんでもアリ」だと思う。
しかし、社会的自由、個人の自由、表現の自由、
さらにそれぞれの自由と考えたとき、
その「なんでもアリ」に制約がついてくるのだろう。
自由の範囲は誰がきめるのだろう。
先日のアジアカップでも、韓国代表選手による日本人を揶揄して
と思われるパフォーマンスが差別的という批判を受けた。
世界の潮流として、差別的表現、にかでも民族、性別、身体的特徴などに
対するものへの視線は厳しさを増している。
アメリカの子どものキャンプでも、かならず、差別的言動に対する
ワークショップの時間が必ずある。
事実、夜にテントのなかで黒人のキャンパーについて差別的な会話をした
アメリカの中学生3人が大学生のリーダーにこんこんと
2時間、ワークショップ方式で反省させられていたのを見たことがある。
この場合は、となりのテントの子どもが聴いていて
翌朝リーダーに報告したのだ。
告げ口であるが、違反行為を知っていて、それを告発しないのは
もっと罪が重いというのが彼らの認識だとそのとき知った。
いろいろな団体が差別的言動に神経質になるのは、
依然として、さまざまな差別が存在しているからにほかならない。
ここで表現の自由との関係にもどれば、
「ことばそのものに差別性はない」ともいうことができる。
たが、「ことばが差別を生み出してきた」ことも事実だ。
やむを得ないときもある。
悪口、罵詈雑言などを総称して、心理学では「マイナス待遇表現」
というが、こうした問題を論じるとき、また、差別そのものを
テーマとするときは使用せざるを得ない。
また、歴史的なのも変えにくい。
"Three Blind Mice"をまさか
"Three Optical Challenging Mice"とはできまい。
ただ、私見としては、あえて使用しないという
というSensitivityは必要だと思う。
こういう表現は不快に思われるときがあるという認識。
しかし、「おへちゃ」は名訳だ!
まあ、むずかしい話はさておき、
『ヘルガの持参金』は、ある意味ミュージカル的要素をもって
仕立てられている。
歌が場面をつくっていて、ひとつひとつが「きめカット」
マンガでいえば大きなコマだ。
やり方は自由だが、歌を中心にとらえてみるのもいいかな。
冒頭のクイズのこたえは、ウェールズの地名であり駅名。
世界でいちばん長い駅名といわれている。
ウェールズ語なので英語とはちがう音だが、
むりやりカタカナでかくと
シャンヴァイル プシュグイン ギシュゴゲル フェールンドロブシュ シャンティシロ ゴゴゴッホ
※次回は『バベルの塔』『ノアのはこぶね』についてふれる予定。
ところで…、
芸術は自由? そうだろう。
芸術はその本質に反社会性も含んでいるからだ。
しかし、ライブラリーは芸術ではない。
芸術的であれとは願ってつくっていたが…。
ある名人とうたわれた落語家が,芸術家として表彰され
ると知ったとき、辞退を表明してこういった。
「あたしゃ芸はしますが、術はつかいませんから」
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写真上=紀勢本線の特急「オーシャンアロー」。京都から新宮までを
3時間ほどで結んでいる。白浜駅で停車中だ。写真中=紀伊田辺付近の車窓。
写真下=白浜温泉の宿から紀伊水道を望む。写真左手が潮岬、枯木灘方向。
夜更けに右手にある露天風呂で夜の海を眺め、中上健次や南方熊楠に
思いをはせようともくろんだが、あまりの風呂の熱さ(うめればOK)と
頬をちぎるような寒風の温度差におどろいた。
温泉なので、しばらくつかっていればあたたまると思ったが
顔の冷たさはどうにもならず早々にあがってしまった。
熊野詣では、この翌日である。
ロシアでの空港爆破テロ、エジプトの反政府デモへの暴力的鎮圧など
年があけてから、世界はまたも、暗い雲に覆われている。
呑気に温泉に入っている場合ではない。
プーチンからメドベージェフに続く10年におよぶ超強行路線、
ムバラクの30年をこえる独裁。
それぞれに複雑な政治的・歴史的背景をもつが
共通するキイワードは非寛容である。
さらに恐ろしいのはプーチンもムバラクも、
どちらも過激派制圧という大義名分を押し立ててきことだ。
それがゆえに、ヨーロッパもアメリカも、
その力の政治を「苦虫をかみつぶしつつ」見逃してきた。
まあ、オバマは「民主化してほしい」などといとてはいるが
本音はムバラクが言論弾圧をしてでもきっちり統治してくれていたほうが
中東の安定は増すと考えている節があるぜ。
※もっとも、日本の態度はさらになさけないが。
しかし、長きにわたるPowerによる統治は、
必ずその反作用を生み出す。
歴史はそれを明確に語っているにも関わらずに、
あやまちは繰り返される。
それが権力の怖さかもしれない。
権力という妖怪は、その下にひざまずかされる人びとを疎外する。
しかし、同時に権力の座にあるもの自身をも疎外していく。
『はだかの王様』しかり『1984』しかり『エメリヤン』しかり。
暴力に対して暴力で立ち向かうことの是非は、
その状況によって大きく異なるので、一般論ではかたずかない。
たとえば、ギリシアの哲学者カルネアデスがだした
問題「カルネアデスの舟板」。
舟が嵐でばらばらになり、乗員は海に投げ出される。
一人の男が身の丈ほどの舟板につかまる。
ところが、もう一人の男もその板に気づく。
しかし、板の浮力は一名をささえるのがやっと。
そこで、はじめにつかまったていた男は、
後から来た男をしずめて水死させてしまう。
これは罪になるか、という哲ならびに倫理学の問題である。
日本においては、こうしたケースは警報37条の緊急避難として
罪には問われないが、心の深いところで納得できるかどうかは
人によってちがうだろう。
血で血を洗うことは、不毛かつ不条理のきわみである。
だが、「話しあい」「歩みより」は、諍っていた双方が心から
近づこうとしないかぎり成立しない。
『エメリヤンとたいこ』のトルストイ、そして彼の影響をうけた
マハトマ・ガンジーは、「非暴力・不服従」を説いた。
アメリカでは、深いバリトンと抑揚豊かな演説で人びとに語りかけた
キング牧師が白人との融合、非暴力を主張した。
しかし、同じくアメリカで
マルコムXは、白人との融和を否定し、
独自のBlack Nationalismを主張した。
「黒人は自らの意志でメイフラワーに乗ってはいない」
「人種差別主義者は暴力的になりがちだが、知的な者も
暴力を否定することはむずかしい」
などとといった過激な演説で黒人によびかけたマルコムXは
キング師が"I have a dream."といったの対し
「彼以外のわれわれは悪夢をもっている」といいきった。
そのどちらにも多くの支持者がいた。
しかし、ふたりとも暗殺という卑劣なかたちで命をうばわれる。
独裁権力と暴力、それへの抵抗。テロと対テロを目的とした戦争。
自由、正義、解放、独立。
だれか、ほんとうのことをいってほしい。
話題が重たいが、たまには力んで考えないとまずい。
次のテーのに行くのまえに大岡信氏(ラボでは『一寸法師』の日本語
を担当されている。ありがたや)の詩を引用する。
わたしは月へは行かないだろう
わたしは月には行かないだろう
わたしは領土をもたないだろう
わたしは歌をもつだろう
飛び魚になり あのひとを追いかけるだろう
わたしは炎と洪水になり わたしの四季をつくるだろう
わたしはわたしをぬぎ捨てるだろう
血と汗のめぐる地球の岸に
わたしは月には行かないだろう
しかし、ムバラクもそうだが、ロシアや中国、
また、ちょっとちがうが北朝鮮の「超強気姿勢」は
こまったものだ。
強気は弱気の裏返しであるから、もう無理してでもなんでも
弱みを見せられなくなってしまうのだろう。
※話題をかえようと思ったのだが…。
ぼくの好きな、俳優・監督のひとりである
クリント・イーストウッドのことばをきかせたいものだ。
イーストウッドは、「ダーティ・ハリー」(どろんこハリーじゃないよ)
のころは、あんまり好きじゃなかったが、
「許されざる者"Unforgiven"」で監督・主演し、
オスカーをとったときから気になりだした。
さいしょ、へぇーっだったのが、おーっ! となった作品は
こりまたアカデミー賞をとり、監督・主演をした
『ミリオンダラー・ベイビー』である。
これは偶然、シアトルに一人でいく機内で見た。
選択できるプログラムのなかでほかに見る映画がなかったので、
オスカー作品という理由だけで、やむなくという感じでチョイスした。
レストランではたらく20代おわりの女性(だめな母親をかかえている)が、
プロボクサーをめざすという物語だ。
イーストウッドはチャンピオンを何度も育てたジムの経営者。
しかし、選手に無理をさせすぎてパンチドランカーにしてしまった
ことをいつまでもひきずっている。
そのため、なかなかタイトルマッチをくまないので、
金がほしい才能ある選手は、その慎重さについていけずシムを去る。
そのジムにのこってトレーナーをしてるいのがモーガン・フリーマン。
彼は元選手だが、試合のためにパンチドランカーになったため
イーストウッドは責任を感じてトレーナーとして雇用している。
で、まあ、ここから先はDVDででも見てほしいのだが、
見るまでは、ぼくは「どうせ、ロッキーの女性版かよ。わかりやすい
ハリウッド作品か。それがオスカーか」などとうそぶいていた。
しかし、それは見事にうらぎられた。
レンタルしてぜ鑑賞していただきたい。
イーストウッドは、この作品以降、『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ)『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙)
などの話題作をつくり続けている。
彼は今年の五月で81歳になる。
共和党員としてカーメルの市長になるなどの政治活動でも有名だが
リベラルな考えをもっていて、大量破壊兵器がやばいという名目の
イラク戦争を「きわめて重大な過ち」と批判している。
これはんなかなか勇気ある行動だ。
また、映画の過激な表現を規制する法案にはきびしく反対した。
そんなイーストウッドのことば
"Real masculinity is the confidence
to not have to prove your manhood."
「ほんとうの男は、雄々しさを人に見せつけないものだ」
さて、冒頭にSave Our Shipと書いたが、
まさに地球号は嵐のなか。
羅針盤も海図もない状態である。
つらつらと思うのだが、急にいきなり地球全体をひとつの船と
考えるのはけっこう無理がある気がする。
それよりも、大きな船、小さな船が船団を組み、
それぞれの役割を果たしつつ力をあわせて
夕凪の渚、まだ見ぬおだやかな海をめざすというのが
当面もとめられのではなかろうか。
Save Our Shipは、よく緊急信号SOSの元のことばだといわれるが
モールス符号で、・・・ --- ・・・
すなわち、トントントン・ツーツーツー・トントントンという
短点3つと長点3つの組み合わせで打電できる利便性からである。
モールス符号の発案者であるモールスは
新聞社などにはりついて、膨大な資料から
英語の字母の使用頻度に順位をつけた。
これもすぐれたことばの感覚だ。
最もしようされる字母は e で探偵小説の暗号の基本にもなっている。
したがってモールス符号でeは、・ 、短点1つだけですむ。
SOSが万国緊急信号となったのは1908年の国際無線会議だ。
それまではCQDが使用されていた。
CQDは、"come quick, distress"(すぐ来い、遭難した)
として記憶されていたが、より打電しやすいSOSになった。
このSOSが最初に長距離をとんだのは
1912年のタイタニック号の遭難時である。
1909年にもSOSが使われた遭難があったが、
タイニックは無線を発明したマルコーニ社製の長距離無線をつんでいた。
4月14日の夜、マルコーニ社のニューヨークの支局で
ひとりの若い、というより少年に近い無線技師が
その無電を傍受した。
彼は、その夜、無線機にはりつき大西洋上のすへべての船に
タイタニック遭難の情報を送り続けた。
モールスが19世紀なかばにモールス符号と信号機
を発明するにいたったのは、
最愛の妻の死を、旅先で、
しかも亡くなったかなり後に知ったためだった。
その悲劇に、モールスは、
なんとかして情報を遠くまではやく伝えたいと考えた。
タイタニックの夜、徹夜で世界にSOSを打電した
デービット・サーノフは、後にRCAとNBCという
ネットワークを設立。
ラジオの父とよばれるようになった。
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タイトルからすでにくだらない駄洒落で恐縮だが、熊野本宮にいってきた。
往路は伊丹まで飛び、新大阪から紀勢本線の特急「オーシャンアロー」
で南紀白浜へ。白浜の温泉でくつろぎ、もうしわけないが新鮮な魚をいただいた。
白浜のお湯は塩分がありしょっぱい。
さらに温度が高く、あるていど水でうめないと熱くてはいれない。
翌日は熊野詣で。そして、白浜空港から空路。
羽田までは実質40分ほどのフライト。はやいはやい。
そんなわけで、日記もほったらかしであった。
ところで、出発前々日の日曜日の夜、翻訳家の鈴木小百合さんと、
また電話で話をした。東京支部総会で新刊をめぐって講演したが
とっても楽しかったそうである。
「くれぐれもラボの皆さんによろしく」
と例によってさわやかすぎる声でいわれた。よかったよかった。
その前日の土曜日は「王様のブランチ」の生出演があり、けっこうタイトな
スケジュールをぬっての講演。ありがたや。
熊野三山のひとつ熊野本宮の成立は、およそ2000年ほど前。
もともとも社地は、熊野川の中州にあったが
1889年の大洪水で社殿は流出。
現在は、その場所に平成12年に建てられた大鳥居(高さ33.2mもあり日本一)
と碑がのこされている。
現在の社殿はそこから少し離れた山のうえにある。
そこは勝手に撮影してはいかんのね。
熊野本宮は、三山のなかで西方極楽浄土であり、
新宮の速玉大社は東方浄瑠璃浄土、
那智大社は南方補陀落浄土と考えられた。
すなわち熊野全体が広大な神域であった。
本宮には熊野坐大神(くまにぬにますおおかみ)、
家都美御子大神などが祀られているのだが
熊野三山の祭神は、とってもとっても複雑で書ききれない。
さらに、権現、つまり仏教の影響で仏の化身としての神もあてられているため
もう、たいへんである。
そのなかで、熊野坐大神は、
伝によれば大陸のほうから飛来したともいわれる。
この日に案内してくれた方は、スサノオだという。
また、熊野川の中にあったので水神だという説もあり、
さらには八咫烏をメッセンジャーとしていることから
太陽神という説もある。
鳥は空を舞うからだろうか。エジプトのホルスを連想させる。わくわく。
八咫烏は神武天皇をガイドした三本足のカラスであることはご存じの通り。
そして日本サッカー協会のシンボルマークでもある。
昨夜、アジアカップの準決勝で韓国との激しいたたかいを制した
ジャパンの選手の胸には三本目の足でボールをおさえる
八咫烏のエンブレムが輝いている。
また、3という奇数は陰陽でいえば陽。それで太陽のイメージらしい。
さらに3は、昔話ではおなじみの「マジックNo.」でもある。
『3びきのコブタ』『三人のおろかもの』『三びきのやぎのがらがらどん』
など3のつく話は多い。
そして、エピソードを3回くりかえすバターンもいっばいある。
※さがしてみよう。
『白雪姫』でも原作では白雪姫は3回だまされる。
ライブラリーでは長さの関係で腰紐とリンゴだけなのがちょっとざんねん。
『白雪姫』といえば7もふしぎな数ではある。
ともあれ、物語のなかの数字も
あたやおろそかにはできぬ。
けっこうだいじな意味をもっていることが多い。
で、ついでに、予定外だが『白雪姫』のことに少しふれようと思ったが
ずいぶん昔の日記で「おすすめの音楽CD 7 白雪姫の色」という
のを書いているので、そっちを見てください。一覧からいけます。
でも、めどくさいという方のために少しだけ補足。
『白雪姫』には6歳~7歳、要するに1年生くらいのときには
出会ってほしいと思う。
この物語の色はいうまでもなく、白・赤・そして黒だ。
でも見えない色として青もあると思う。
グリム兄弟は、「子こどもと家庭のための童話」
初版では、この物語のお妃を白雪姫の実母としている。
しかし、後に「継母」に変えている。
弟のほうが、実母では残酷すぎると考えたらしいが、
継母は先妻の子をいじめるというステレオタイプはいかが
なものか。
ラボではもちろん実母だ。
ただ、さすがだなのと思うのは、
白雪姫の誕生にpregnantの生々しさをださずに
お妃の「ふしぎな力」の結果として透明に描いていることだ。
以下は過去の日記からの引用。
「この物語のテーマはいうまでもなく女性の自己愛の分裂。
自身の永遠の美しさを願う心と、自分の美しさの完全なクローン
それも若い分身をもちたいという心の根源的矛盾の物語。
だから継母ではだめなのだ」
このライブラリーができたのは、ぼくがラボに入る以前のこ
となのでこうした話は、当時の制作者から食事や酒席できいたこを
頭のなかにメモしておいたことや、
また音楽を担当された間宮先生から後年うかがったことだ。
「資料集」のない時代の作品の資料も必要だろう。
白・赤・黒については日記を読んでください。
ところで、お妃の旦那はででこないよね。
どの程度の城主なのかな。
そんなこともおもしろい。
でも、とにかく雪の白さに心を動かされで身ごもる
という発想はすごいなあ。
妃が指をつき(ここも詩的)、血が三滴(ここも話し合いのポイント)。
物語のドアタマは雪が降っているけど、
一瞬、青空が見えたのかもしれない。
ほら雪国の人ならわかるでしょう。
それでチクットと。
この青はやはり希望の青だと、制作者はいっていた。
また、間宮先生も残酷な話には希望が用意されている。
妃の死は次の物語のはじまりではないかと、おっしゃられたのを思いだす。
最後の写真は熊野本宮への参詣道、いわゆる熊野古道のひとつ
中辺路のスタート地点、滝尻王子。
世界遺産である熊野三山、そして古道は近年人気のパワースポット。
すでにここは、本宮の胎内であり、ここからけわしい道がはじまる。
熊野古道沿いには九十九王子とよばれる神社が点在するが、
この滝尻王子は格式の高い五体王子のひとつだ。
王子は10世紀ごろにはその名が見られ、
12世紀から13世紀にかけて一気に組織化される。
その中心となったのは修験者たちである。
かれらは、貴族などが本宮に参拝するときのガイドも行なっていた。
王子は儀礼の場所であり、前述したように神域としての結界でもあった。
大きくは参詣するものを守護する役割である。
熊野三山ならびに古道は、世界遺産に指定されてから
急速に訪れる人がふえた。
古道沿いに住むおばあさんにきくと、
夏などはほとんど窓全開で上半身はなにもきにすで気楽に過ごしていたが
世界遺産指定以降は、夏が暑くてかなわんと笑っておっしゃった。
今回はひさしぶり、というか20年ぶりの熊野詣で。
古道をすべて歩くのは、何年かかるかほからない。
100名山をのぼるのは、無理っぽいので、少しずつ歩いてみよう。
春には吉野にもまたいってみたい。
吉野の桜は若き日、関西総局勤務時代に友人とくるまでてかけた。
舞いかかる桜吹雪のなかで、ぼうぜんと立ちつくしたことがなつかしい。
その度の直前に「らくだ・こぶに」氏が
「日本人の魂は、死ぬとすべて吉野に集まる気がする」
といったが、そのことが単なる比喩ではない実感として感じられた。
今年は氏の17回忌。
あの吉野の山のひときわ大きな桜になっているのだろうか。
先日、びーちゃんさんが、鬼について日記に書かれていた。
『ももたろう』が新刊にあるから、鬼もそろそろ話題になるだろうな。
鬼についてはいろいろな文献があるが、
1冊紹介したい本がある。すでに参考図書などで示されていたらごめん。
馬場あき子『鬼の研究』ちくま文庫
馬場氏は歌人であり、文芸評論家であり、さらに民俗学に深い造詣
をもつすごい人だ。
『鬼の研究』歌人のリリシズムと民俗学的な冷静な分析という
ふたつのおいしさがある本。男性的ともいえる切れ味のある文がきもちいい。
あくまでドライなタッチだが、行間からはふしぎな抒情・詩情があふれる。
鬼という字が文献に登場するのは8世紀に編まれた『出雲国風土記』
である。それには阿用という土地に隻眼の鬼が登場する。
その概要は
「若い男が耕作をしとていると、一つ目の鬼があらわれて
その土地をよこせいう。男が抵抗すると、鬼は男を食べてしまう。
男は食べられるときに「あよ、あよ」と悲鳴をあげた。
それで、その場所が阿用とよばれるようになった」
というものだ。
男の年老いた両親は植え込みに隠れて惨劇の一部始終を見る。
この一つ目の鬼の正体についての馬場氏の考察がおもしろく、
さらに詩情豊かである。
息子を眼前で食べられた両親が見上げた空には、
常にうばわれる者として生きた農民の悲哀がだたよっていたことだろう。
この人食い鬼は「風土記」から見て、「遠い昔」のできごとだ。
馬場氏はこの鬼を狩猟時代の荒々しい巫祝のなごりと解く。
このほかにも馬場氏は、さまざまな鬼を歴史的に紹介しつつ
その変遷と凋落を語る。そのひとつひとつが恐ろしく美しい。
しかし、鬼は次第に姿をかくす。
平安時代、今日の闇に出没する恐怖をまとった鬼は、
やがて一寸法師や桃太郎にお約束のように退治されてしまう
こっけいなモンスターに堕落する。
荒あらしい本来の鬼は、暴力と反逆のシンボルとしての鬼は
能や舞にわずかに生き残る。
そして、江戸時代にんると鬼はまったく姿を消す。
逆にいえば江戸時代のシステムは、すでに鬼のようなアウトサイダー
の存在すら認めないような強固さをもっていた。
日本の鬼は、じつに多彩である。
ときには、オカルティックに識別、あるいは選別された者であり
ときには目に見えないものであり、
ときには異国の者でもあった。
そのなかで、ひとりあげれば酒呑童子だろう。
集英社から出ていた(図書館にはあるかも)野坂昭如氏の
『酒呑童子 お伽草子』もおすすめ。これは絵本仕立て。
反逆の鬼である酒呑童子にとらわれた御姫さまたちを
源頼光をリーダーとする特殊部隊が救出にむかう物語。
またもに戦ってはとても勝てない酒呑童子に
毒酒を飲ませて首をおとすという、かなり卑怯な戦法で
頼光たちは勝利する。
さらに赤鬼、青鬼、小鬼までも皆殺し。
どっちが鬼だかよくわからない。
ちなみに頼光の家来のひとりが金太郎のニックームで有名な
坂田金時である。
金時は足柄山で熊にブレーンバスターをくらわせてしまうような
やんちゃきわまりないネイチャーボーイだが、
じつは舞の名手である。
酒呑童子をヨイショして毒酒を飲ませるという作戦の途中で
なんかばれそうになり、場の空気がおかしくなったとき
金時の舞でなんとかつないだ。
『一寸法師』も『ももたろう』も、オニほやっつけるが
酒呑童子の物語のように残酷さはない。
それは、表現がおおけさかつ単純であり、具体的描写きがないからである。
これは、日本の昔話の特徴のひとつであろう。
熊野古道には、かつて龍も鬼も出現しただろう。
人びとは道の王子で祈りをささげ、魔を封じてもらった。
現代、鬼はまったくほろびたのかだろうか。
反逆の精神は、ある意味重要である。
それでも月のない夜、
耳をすますと、高層ビルの上方から、
ともすれば安易に眠りこんでしまいがちな
われわれの魂をゆりさますような
鋭いさけびがきこえてくる
ライブラリーをつくっているとき、
「鬼になる」と自分にいいきかせていたが
なれなかった気がする。
○○の鬼といわれたら一流のあかしだ。
鬼はどこへいったか!
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今日の夕方、翻訳家・通訳の鈴木小百合さんと電話で話した。
内容は、同期の食事会をしようといったプライベートなことだが、
やっぱり忙しい(ハリウッドスター御用達だからね)のときいたら、
今週末に東京支部の総会におよばれしていて、『ももたろう』の話
をするので準備しているということだった。5月には、九州にも
行けるのとうれしそうに語った。
東京での話はぜひだれかリポートしてほしい。
記憶では、鈴木さんには中部に『十五少年』のとき
『寿限無』で九州2か所(南九州と福岡)、40周年のときに
広島に行っていただいたと思う。
ラボの仕事は緊張するけと、いつもやりがいがあるし
テーマ活動に演出家がいないことに感動するという。
そして、ラボ・テューターのみなさんには頭がさがるとも。
鈴木小百合さんにかぎらず、ラボ・テューターは講演者には
すこぶる評価が高い。その理由はだいたい共通している。
・とにかく熱心に話を聴いてくれる。
・とにかくよく勉強している。
・子どもたちにむかうまなざしがあたたかい。
・テューターという仕事にほこりをもっている。
・熱烈歓迎してくれる。
この全部はなかなができることじゃないと、みなさんおっしゃる。
ほんとだよ。
写真上は、母校のフットボールティーム ICU Apostlesの試合。
下は応援にきてくれたAngelsのみなさん。以前にも書いたが、
2009年の秋から、手術後のリハビリがてらOBとして試合の写真を撮っている。
写真は本職ではないが、文句をつけるのは編集者としておてのもの。
自分の写真は自分でほめればいいので楽である。
ぼくは大学1年の秋からフットボールをはじめた。集団スポ
ーツの経験がそれまでなかったことと、
なにか自分と縁遠いハードな運動に挑戦したいと
という思いからだ。
ほんとは、春から入りたかったが、
とってもそんな余裕はなかった。
当時はFEP(Freshman English Program)という英語の集中教育があり
(今もあるが別名称)、毎週月曜日にテキストになる
本が発表され、それをもとにディスカッションなどの授業がある。
そして翌週の月曜日の朝、たしか8時50分だったが、試験が実施される。
問題はContentsについて50問、Vocabularyが50問。
はじめは訳本が簡単に手に入ったり、読んだことがある文学など
がテキストなのでも、まだなんとかなった。
はっきり覚えているが、最初のテキストは『老人と海』、続いて
『変身』『異邦人』だった。このあたりは高校時代に読んでいたので
セーフ。ただし、その後はだんだん長く難解になり、夏休みの課題には
オーウェルのやたらぶ厚い『1984』(村上春樹氏の『1Q84』のほうが長いが
退院した後に一気読みした)がでたのには仰天。
さらには、ベケットの不条理劇『ゴドを待ちながら』と進み、
3学期には、どこからもってきたんだという論文になった。
今ふりかえっても、よく単位をとれたと思う。
でも、鍛えられたことは事実だし、writingなどでは論文の書き方などを
学部のはやい時期にみっちり学んだことは後年役にたった。
Writingは、ほんとに基礎からで、まずobjective writingといって
ひとつのテーマについて様々な専門家のopinion, viewを
引用し、あるいは簡潔にまとめて紹介することをした。
それで脚注の付け方や参考文献ののせ方などを練習する。
だから、I think なんて書いたりすると100年はやいと
つきかえされた。
青息吐息でついていったが、夏休みが終わると
学校を自ら去った仲間もいておどろいた。
やめさせられたのではない。自分に負けたのだ。
そんななかで、これは身体も心もタフにならんといかん、
という警鐘が心のなかに響いたのだ。
それでよせはいいのにフットボールである。
痛かったが、おもしろかった。仲間もできた。
縦のつながりもでき、PE(体育科)にも出入りするようになり
野尻湖での学生キャンプにも関わるようになった。
ただ課題だけをこなす学生から、ずいぶん変わったのは
フットボールのおかげかもしれない。
そのキャンプの人間関係がきっかけで、ぼくはラボと出会う
ことになる。そのことは、いずれ別の機会に書くかもしれない。
なんか、苦労話的自慢話のようでわれながら見苦しいが、
けして、高校時代の英語の成績がたいしたことなかった
ぼくがハードなプログラムについていけたのは、
ひとえに母語の力だと思う。
自分なりにではあるが、比較的幼いときから
本を読み、とくに思春期になってからはかなり読んだことが
母語をきたえ、ことばの力の源泉となったのだと思う。
それから、へたくそなりに英語の歌の訳を試みたり、
詩を書いたりしたことは無意味ではなかったと思う。
INとOUTをとくに母語においてしつこく行なうことは
ほんとうにたいせつだと思う。
さても、フットボールは、アメリカの人気スポーツのひとつ
であることはいうまでもない。フットボール、野球、バスケット、
アイスホッケーがいわゆるメジャー・プロスポーツだ。
シーズンが微妙にずれるから、スポーツ好きのアメリカ人は
休むヒマがない。
近年はメジャーリーグにいく日本人野球選手は多いが、
残念ながらアメリカで他のプロ・ティームスポーツに
定着した日本人選手はまだいない。
バスケットの田臥勇太選手が挑戦して一時期のこったが
すぐに解雇されてしまった。
ともあれ、プロスポーツは、アメリカを見る際には、
ひとつのキイワードになる。
国際交流の参加者で、事前になにか調べるとしたら
「アメリカの歴史」などと大きなところから入るのもいいが、
スポーツや映画や遊園地などの大衆文化の視点から
近づいていくのもおねしろいと思う。
そこから、言語や歴史などにも興味がひろがっていく
可能性が十分あるからだ。
たとえば、ニューヨークには多くのプロスポーツティームがあるが、
野球はYankees(ヤンキーの語源は諸説ありすぎ)、Mets、
フットボールはGiantsとJets、バスケットではNicksとNets(正確には
ニュージャージー)などがある。
よく見るとMets(メトロホポリスとヘルメットがかかっている)、
Nets(バスケットのネット)、Jetsと韻をふんでいてかっこいい。
それから、サンフランシスコのフットボールティームは
49ersである。これはいうまでもなく、1949年ごろに
カリフオルニアの金鉱に集まった山師たちの俗称。
したがってヘルメットとパンツは金色。さらにその
はげしいディフェンスはゴールド・ラッシュとよばれる。
亀井俊介先生にインタビューしたとき、その後の食事会
(居酒屋なつきあいますとおっしゃられた)で、
「大衆文化の視点から見るアメリカ」のたいせつさについてうかがった。
「マスコミも一般人も、どうしても大きな変化をに注目してしまいがちだが、
大衆文化のなかにこそ、アメリカのあまり変わらない部分がある。
経済や政治の変動だけでなく、そうした変わらない部分を見る
こともたいせつです」ということばが忘れられない。
※『アメリカン・ヒーローの系譜』はおすすめ。
また、そのときに能登路雅子先生(東京大学大学院教授・財団理事)
をご紹介いただいたのもなつかしい。
名著『ディズニーランドという聖地』はお読みになった方も多いと思う。
能登路先生に昔の(医大前の)ラボセンでインタビューしたとき
バイクでこられたのにはおどろいた。
聴き手には中高生のラボっ子が10名ほど。
先生が「ディズニーランドはみんな好きですか」とお尋ねになると
ほとんどの子が「好きです」とこたえた。
でもひとりの大学生男子が「ぼくは、興味がありません。
ディズニーの映画も好きではないですし」と、まじめな顔でいった。
すると能登路先生はいきなり、
「あなた恋人いる?」
彼がどぎまぎしていると、
「もし、恋人や好きな人がディズニーランドに行きたいといったら
どうする?」と続けられた。
そこからラボっ子だちが話にのめりこんだ。
デイズニーランドの象徴はミッキーマウスだが、この
本来はペスト菌を媒介し、不衛生のシンボル的生物が
愛されるというふしぎな現象は、安全な冒険という
テーマパークの構造と合致する。
そして、その背景にはやはりアメリカの歴史がある。
トム・ソーヤにしても、ハックにしてもターザンにしても
けして優等生的ではない。
端正なだけの2枚目より、ラフでタフなヒーローに人気がある。
このあたりも、ラボっ子たちが興味をもっておかしくないなあ。
話がよれよれになったが、本来は、鈴木さんと話したこともあって
『十五少年漂流記』のことを書こうと思っていたのだ。
すでに書いているほうも疲れたが(読み手はもっとたいへん)、
ぜんぜんふれないのもくやしいので少し続ける。
今だから書くが、この物語は千葉支部をはじめいくつかの研究会から
「自然のなかで育つ少年の魂の物語」ということで
なんども推薦されていた。
しかし、再話、収録時間、そしてまるごと4話が可能か
などの諸条件から、「いつか」という作品だったと思う。
それが。刊行への道を歩みはじめることができたのは、
当然にも、それまでの研究の積み重ねがあってのことだが、
同時に「時代が押し出す」という、ライブラリーのみならず
表現作品が内包するふしぎな力も介在していると思わざるを得ない。
それは2003年の『ノアのはこぶね』のときにも感じた。
人類文化の源をテーマにこのシリーズはつくられたが、
奇しくも『ギルガメシュ』の音楽録音の日は、
アメリカ軍によるイラク空爆開始の日だった。
時間丁度にスタジオに来られた間宮先生は
「いやあ、なかなか指揮棒が見つからなくて」と笑いながら
ぼくらのいる調整室に来られた。
しかし、その目き笑っていなかった。
「ぼくは、今日怒っています。ちょっと激しい録音になるかも
しれません」
それは、単にイラク空爆のことだけを非難しているのではなく
21世紀になっても、諍い、争うことから逃れられない
人間への悲しみと怒り、そしてだからこそ子どもたちへ
希望をあたえたいという強い意志のあらわれだったと思う。
しかも、その空爆されたイラクはギルガメシュ王の土地であり
ウルクの遺跡はだれも守る人がいなかった(後に自衛隊がPKOでいく)。
話はもどって『十五少年』は21世紀になって最初のライブラリーである。
20世紀はまさに戦争の世紀であり、しかもそれは過去の戦とは
比較にならない残虐さと悲惨さと不条理に満ちていた。
たが、ミレニアムの希望は9.11によって、無惨にもうちくだかれる。
ヴェルヌが『2年間の休暇』を書いたとき、世界はいわゆる列強が
覇権をきそい、きなくさい匂いが世界にたちこめていた。
ヴェルヌは、それまでいろいろな空想の乗り物や機械を
作品に登場させ、その多くはかなりものが現実化した(CMでやってるね)。
『十五少年』には、潜水艦もロケットもでてこない。
というより原始的なくらしが描かれる。
しかし、リアルさという点で見ると、動植物や自然描写において
実際とは異なる点が多々ある。
ヴェルヌがめざしたのは、やはり空想小説であり、ファンタジーである。
つまり、暗い雲に覆われはじめた世界状況をうれいたヴェルヌは、
出身国の異なる少年たちが、相違をのりこえて共和国を
建設するという夢を描いたのだ。
「資料集」にも書いたが、この物語の日本語再話は、
いろいろな作者による試作や検討を経て、
ラボ教育センターで行なった。
※この物語においては、再話のポイント、とくにキャラクターの設定が
ラボ・ライブラリーの要求にこたえられるかたちにするのは、
日本語と英語を相談しながら、つくっていくことが最適という判断だったのだ。
だから、鈴木小百合さんには、ほんとうにご苦労をかけた。
なんども構成をつくりなおし、その度に訳していただいた。
しかし、鈴木さんから、「英語だったらこうしたい」という意見
がくると、リズムや自然さがくずないかぎり、日本語をなおした。
こういう作業は他の作家に依頼すればそうかんたんにはできない。
こうした融通無碍さは、ライブラリーのやり方としては、
とくにオリジナル作品の場合、ひとつのやり方である。
再話のよい点はそこだ。
書いて訳す、意見を交換する。また書く、直す。
そうした往復作業はたいへんだったが、やりがいのある仕事だった。
後年、鈴木さんもそういってくれた。
※今日の電話では「『ももたろう』は中村さんの日本語が美しかったので
とてもやりやすかったわ」といっていた。たぶん、総会でもそう話すだろう。
まあ、『十五少年』ではめいわくかけました。
エピソード4(このEpisodeという章立てもズ好きさんの提案、映画好き
だからね)のラストは、10回以上書きかえた。
じつは、終わり方は3パターンくらい考えた。資料集には書いて
いないその別ラストをひとつだけ紹介する。
それは、
少年たちが島を去る日、飼っていた鳥や動物たちを逃がしてやる。
少年たちは、動物たちがなごりおしそうにとどまると期待するが、
折がだしたとたんに一目散に森にむかって逃げてしまう。
ひとりが、「あれわど世話したのに、恩知らずなやつらだなあ」
というと、もうひとりが「人生なんてそんなものさ」。
といって終わるというもの。
でも、これは一見しゃれているが、長い物語の終わりとしては
あまりにも感動がないので、自分で没にした。
で、ご存じのように、夕映えの水平線に消えていく島を
万感の思いで見つめるという、ラストにした。
で、ありふれ感がでないように、徹底的にことばを
磨いた。あの数行だけで鈴木さんと数回やりとりしたと思う。
で、決めてとなったのは大学1年の夏まおわりに萩市の沖合で
見た、本当に金色に輝く夕日の海だ。
そういう実体験、リアルな体験しだいじだなあ。
国際交流やキャンプには、みんないってほしいぞ。
そして、テーマソングをつくったのはまさに9.11のときだった。
これも、鈴木さんにプロットというか、ほぼ今の日本語歌詞に近いものを
送り、英語にしてもらった。
坂田晃一先生から、「いい歌になりますよ」といわれたのが
うれしかった。
「海」「希望」「平和」そんなものがこめられていることは、いまさら
解説する必要はないだろう。
とくに海には、「こんなにもぼくを呼ぶ」、遠く、まだ知らない
夜と昼へのあこがれや、戦や冒険で帰らぬ者への鎮魂、そして嵐や凪といった
多くの詩的イメージがある。そして少年の青さや気負いやあやうさもある。
さらに、テーマ活動のとき以外にもうたってほしいと思う。
じつは、このテーマ曲も(サザンクロスララバイはすぐできた)、
当初は少年団行進曲だったのをがらっとかえた。
それもこれも911がきっかけである。
かつてキャンプでこう話たことがある。
吉田拓郎の歌からの引用だが、
「古い水夫は、どこに浅瀬があるかとか、潮の流れなどを
よく知っている。ラボという船にも古い経験ある水夫は必要だ。
だが、コロンブスの時代から、だれもまだ知らない新しい海を
見つけるのは、新しい若い水夫だ」
ヴエルヌの夢は、まだひとつだけかなっていない。
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写真はバンクーバーのキャピラノ川の河口付近で。
※できれば"Song of the Salmon"の音楽CDをかけて読んでほしい。
時は2006年4月3日。『鮭、はるかな旅の詩』の音楽録音の翌日。
ベンチに赤いラクジャとサングラスであやしく腰掛けているのがわし。
このころは今では考えられぬほど太っていて恥ずかしい。
その手前後ろ姿の巨人はニコル氏。
奥でビデオをかまえているレモン色のマウンテンパーカーの男性は
当時、ラボのシアトルオフィス勤務だった間島氏(現・財団事務局長)。
シアトルからバンクーバーは近いので応援にてもらった。
この写真を撮ったのはニコル氏の長女でバンクーバー在住の美和子さん。
彼女はこのときの録音のコーディネイトをすべてやってくださった。
さらに、カナダ先住民の画家スーザン・ポイントさんとラボとの
仲人という大役も果たしていたいだ。
1972年、この川のもう少し上流で、ニコル氏はカナダ政府の
環境保護局の環境問題緊急対策官として海の汚染と戦っていた。
この写真は、たぶんそんな話をきいているところだ。
バンクーバーも大都会だが、4本の川に鮭が帰ってくる。
というか、きびしい環境保護法を制定することで
川をよみがえらせたのだ。
このあと、「日本もまた間に合うはず」と美和子さんが
目せをうるませながらいったことは忘れない。
バンクーバーの4月はじめは、意外におだやかだった。
遠くの山はすべて真っ白だが、市内は桜とマグノリアが満開だった。
通りごとに並木の種類が異なり、安吾と賢治がいれかわりたちかわり。
さても、年が明けてからは、ご前中は音楽を薄くかけながら
本を読むか書きものをしている。
年末にBOSEの小さいがなかなかよいスピーカーを入手したので
うれしがってジョージ・ウィンストン(アルバムは"December"が好きだ)
とか、KEI AKAGI TRIO(ケイ・アカギは、マイルス・デイビスが最後にくんだ
コンボの日本人ピアニスト。大学の先輩でもある)とか、Rin(邦楽演奏者
の女性3名のユニット。アメリカでも活躍。2009年に解散。「胡蝶の夢」
「美貌の国」などはおすすめ)、五つの赤い風船(古い! しかし、もうこういう
グループはでてこないなあ)、ハプニングス4とか、マニアック
なアーティストの作品を聴いている。
さきほど薄くかけて書いたが、小さな、いわゆるCDラジカセ(もはや死語)
くらいの大きさのスピーカーは、じつはかなりのヴォリュームをあげないと
その本来の力を発揮できない。
力のあるスピーカーは、音量をさげても一定の表現力を保つ。
だから、ラボ・ライブラリーも、住宅事情いろいろあるが
できるかぎり大きな音で聴いてほしいと思う。
ヘッドフォン(耳に入れるやつでなくかぶせるタイプ)で聴く
のもいい。
そうすると、人物の距離感などが見えてくると思う。
それから、これは間宮先生に昔指摘されたことだが、
発表会で音楽CDの音量をほとんどきこえないくらい低くして
しまうのは音楽家にとってはつらい。
子どもの声が聴こえやすいようにとの配慮もあるが、
音楽のもつ意味あいもまた重要。
音楽をキイやきっかけにして動いていることは
しょっちゅうあるはず。
音楽CDのタイミングをまがえたりすると、ブーイングがおこるもんね。
音楽CDついでにいえば、1977年、ラボに入社して2年目、関西総局にいたころ
とてもおもしろい『きてれつ六勇士』の発表を見た。
発表は学校の講堂によくあるようん高さのステージで行なわれたのだが、
舞台センターの下の床、すなわち観客席の最前列のその直前に
ラボ機(当時使用されていたライブラリー専用アナログカセット再生機)
が置かれた机とイスがあった。
司会の紹介に続いて、5年生く上手らいの男子が下手から登場し
センターの机のところまでくると、観客にむかってぺこっとお辞儀をした。
続いて、舞台には上手、下手両方から発表する子どもたちが
全員あらわれて整列すると、舞台下の男の子はくるっと
舞台のほうをむいて右手をあげた。
それがキューだった。舞台上で全員礼。
すると男の子はおもむろにイスにかけて、音楽をスタートさせた。
『きてれつ六勇士』のあのファンファーレである。
それかから物語の最後まで、男の子は見事な音楽係をつとめた。
後でテューターにたずねると、その男の子は自分で志願したという。
そして、だれよりもテープ(当時)をたくさん聴いてきた。
家では自分でひとり語りをしながら音楽係のリハもした。
だから、ふつう舞台の袖などの陰で行なう音楽操作を
指揮者のように舞台下中央においたと、そのテューターはおっしゃった。
※かなり前に勇退されている方
またまた長い前置きだが、きょうはSongbirdsの話。
現在も、おそらく、いやきっと、所有率第1位のラボ・ライブラリーは
"We Are Songbirds μ"である。
入会するとほとんどもつもんなあ。
このライブラリーが刊行されたのは1990年12月。
もう21年もたつのだ
「わたしたちは歌う鳥たちである」
なんとすばらしいタイトルだろう。
歌うという表現する姿勢、さらに羽ばたくという高みをめざすイメージ
ラボっ子そのもの想起させる。
ギリシア文字のμは音楽の神ムーサイの頭文字から(名付け親は「がのさん」)。
なぜこの1文字がついたかといえば、これ以前にアナログテープの
"We Are Songbirds"が存在したためである。
このSongbirds(以後はこれで表記)こそ、
もうひとつのラボの柱といえるほどの歴史をもっている。
テープのSongbirdsは,当時のラボっ子はほぼ全員もって
いたが、さらにその前にラボ機とラボ・テープがテューターだけが
所有していた草創期、"Now It's a Play Time!"というSongbirdsの
原型ともいうべきテープがあった。
テーマ活動以前の話である。
こんな調子で書いていくとラボの歴史を全部書くはめになるので
話をすっとばすが、歌はラボのなかでは早くから重要アイテムだった。
今でこそ、あたりまえのように歌やゲームは「英語塾」や小学英語で
とりいれられているが、1960年代の日本では斬新だった。
ともあれ、Songbirdsはμが登場するまで20年間、ラボっ子たちの
表現エネルギーをひきだし続けた。
そのころにつくられた遊び方や踊りは、その多くが今もうけつがれている。
さらに、70年代後半にはSongbirds 2、そして3も刊行された。
第2集ではスクエアダンス、フォークダンスなどの
それを踊れるようになることがひとつの目標となるような曲が登場、
高学年のラボっ子たちはえらくテンションがあがった。
また、ハワイの歌、ブルガリアの舞曲などは、歌や踊りがこんなにも
世界をひろげてくれるんだと教えてくれた。
第2集は1978年だったと思うが、ぼくは関西から
東京に出張して、まる1日、指導をうけた。
汗だくだったが、関西に帰って他の事務局員やテューターに教えねば
ならないという責任感で必死だった。
ブルガリアの舞曲のホロは11分の7とか、ぼくらの身体のなかには
ないリズムで、新鮮かつしんどかった。
日本にひとつだけあるブルガリア舞踊団の奥野先生がご自身で
指導にきてくださったのがうれしかった。
ちなにハワイの歌は、ハワイの偉大な王の名をもつ
「カメハメハ・スクール」の協力による。
この学校では、美しいハワイ語をのこそうとハワイ語教育を行なっている。
※創立したのはカメハメハ大王のひ孫の方。
歌、とくに伝承歌は昔話のように、その歌を生んだ人びとの
喜びや悲しみ、そしてその地域の風光を内包している。
だから1枚の絵はがきより、曲のほうがその地域のイメージを
ダイレクトに感じさせてくれる。
だから、幼いときかいろいろな国や地域の歌やおどり触れることは
垣根のない心、自分とは異なるが、他者にとってたいせにしているものを
理解し、うけいれる心を育てる。
そして、歌も物語と同様にひとつの表現にとらわれることなく、
自由に取り組んでほしいと思う。
「知らないとできない」はなし。
ラボの草創期から1980年代末まで、Songbirdsがラボに
あたえたものははかりしれない。
しかし、時代はCD、デジタルにむかっていた。
また、草創期には最新鋭機であった「ラボ機」も、
さすがにその役割を終えるときが近づいていた。
なにより、ラボ機を購入あるいはレンタルすることが
条件であったことが入会のネックになりはじめていた。
ラボ・テープはすばらしいとだれもがいうが、
それを再生できるのは特殊なラボ機だけというのは、
きびしいことである。
※CD化は1990年から行なわれたが、研究はその数年前から
スタートしていた。1980年に結婚して、翌年に東京もどっていた
ぼくも、その研究メンバーにはいっていた。
CD化は一気に行なわれたが、賢治作品のころまで
ラボ機ユーザーのためにテープも同時に刊行されていた。
今思うと、それもたいへんな作業だった。
当然、SongbirdsもCD化にむかった。しかし、この音源は
すでに相当古く、デシタル化可能かどうか微妙だった。
また、Songbirdsには、まだ教科的なにおいも残っていた。
たとえばOne, One, Oneでは、2コーラス目に入る前の間奏に
"Boys and girls. You say a number"というナレが入り
実際に数字のところだけ演奏のみになるといった具合だ。
また、伴奏もきわめてシンプルてオルガンのみとか
ピアノのみといった曲も多かった。
また、77の全曲のうち、ほとんどパーティでとりあげられる
ことの少ない曲や、Ten Little Indiansなどの Songbirds本来の
目的のひとつである異文化理解という点からは
Sensitivityに欠ける曲もあった。
まあ、そんなこんなで、せっかくCDにするのなら
新しく編曲して、また新曲も入れて制作しようということが
提案され、ライブラリー委員会でも話し合いがなされた。
そして以下のようなポイントが整理された。
・多くのラボっ子に愛されている「人気曲」は基本的に継承。
・新曲もとれいれる。
・編曲は新しさだけを追求せず、「賞味期限」が長くなるように
しっかりとしたものにする。
・そのためには、コンビューターによる打ち込みではなく、
すべて演奏によって録音。
・楽器も基本的にはアンプラグド、すなわちアコースティックで。
ただし、シンセを1楽器として使用することはあり。
・絵本を制作し、チャプターごとに曲の内容を整理する。
※それまでものSongbirdsのテキストは絵本ではなく楽譜とかんたんな
解説だけだった。それが他のライブラリーと同じ価格というのはつらかった。
これをもとに、いよいよ制作。まる2年かかった。
編曲を依頼したのは、間宮先生や一柳先生、林先生とともに
現代音楽の巨匠といわれる京都芸術大学の広瀬量平先生だ。
広瀬先生の「天籟地響(てんらいちきょう」は、芸大の教科書にも
のるようなすごい作品である。このCD(カメラータ・トウキョウという
これまたマニアックなすごい録音のいいレーベルからでている)
を買ったらジャケットがの絵がすてきだった。
ずうずうしく広瀬先生にサインしてもらい、
「先生、ジャケットの絵はすばらしいですね」といったら
「ああ、加山くんが描いてくれたんだ。いいだろう」
と気軽におっしゃった。
あとでジャケットをひきだしてクレジットをみたら
加山又造とある。へなへなとなってしまった。
歌の録音は、物語同様、いやSongbirdsのように曲数が多いと
それ以上に時間がかかる。よく、アルバムづくりに3年くらい
平気でかけるアーティストがいるが、それは作曲にかかる時間も
さることながら、録音とミキシング、さらにはトラックダウン
にこだわるからである。
広瀬先生のスケジュールから、演奏の録音、歌の録音、そして
トラックダウン(楽器ごとの音、歌などをまとめる作業)の日程をあわせると
最速で2年かかることは当初から明らかだった。
その2年、もちろん他の仕事もしていたが、とにかく
スタジオにいる時間のほうが長い2年だった。
また、新しい曲の選定にあたっては東京の東久留米にある
インターナショナル・スクールCAJ(Christian Academy in Japan)の
音楽教師、デニース・オウエン先生にたいへんお世話になった。
彼女はサラ・ニシエさんの息子さんが同校に通っていることから
ニシエさんの紹介でお手伝いしていただくことになったが、
昼休みや放課後という貴重な時間をさいて、
いろいろな曲を紹介してくれた。
先生自らピアノをひき、さらには低学年の生徒さんたちを
よんで、実際に踊りを見せてくれたりした。
Hey, Betty Martinなんか、あまりに可愛いのですぐ候補にした。
また、あいさつの歌がねうすこしほしいというと、
英語でいちばんよくつかわれるあいさつは Hi! よといって
その歌を歌ってくれた。
きれいな歌なので「だれの作曲ですか、伝承歌じゃにないですよね」
とてずねると
「わたしの曲です」。
「ラボください」「はい、どうぞ」
なんてすてきな人なんだ(もちろん、ちゃんと謝礼してます)。
広瀬先生に「いわゆる子どもの歌」の編曲をしろというのは
まあ、ねかなり無謀なことである。
しかし、先生はとっても楽しんでくださった。
「英語の歌はね、あたりまえだけど西洋音楽にはのりやすいんだよ。
とくに伝承歌は長く生き残ってきただけあって、そのなかに
自然な和声がいっぱいつまっている。だから、それをひきだして
やればいいんだよ」
たしかに日本語の歌を西洋音楽にのせようとすると
アクセントのためにメロディの規制をどあしてもうける。
1音に1語、細かくいうと1シラブルがのるからだ。
そこへいくと西洋語は1音に1音節がのるので自由度が高い。
しかし、せっかく広瀬先生にラボの仕事をしていただくのに
編曲だけで作曲がないのはもったいない。
そこで登場したのがラストの曲"We Are Songbirds"である。
ぼくは、この企画がスタートしたときから
Songbirdsというタイトルのすばらしさをもっといかしたいと思っていた。
それには、"We Are Songbirds"というメインテーマ曲をつくるのが
いちばんだとも思っていた。
そこで、「ことばの宇宙」で一夏かけて歌詞の募集をした。
しかし、残念ながら採用できるものはなかった。
でも、ラボっ子の志は受けとめたいから、日本語の歌にはラボっ子
たちに参加してもらうことにした。
※ラボっ子の選考会は何度か行なったが、その度に背筋がのびる。
こんなにも多くの子ともたちに愛されているライブラリーは
なんて幸せ者だろうと思う。
ぼくは、選考会のときに必ずいうことがある。
「スタジオにいけるのは数名です。でも、このよびかけに応募するという
行動をおこしただけで、もうみなさんは制作に参加しています。
だから、結果にかかわらず、このライブラリー制作に参加したんだ
と自慢し続けてください。ぼくも、そんなみんなとこの選考会をできることをほこりに思います」
歌詞が集まらなかった以上、つくるしかない。日本語の歌詞のイメージは
すでにぼくのなかにあった。ただ、それで作曲してしまうと
英語をのせにくい。英語の歌詞を先にかためたい。
そこで、プロット的な箇条書きのメモをデニース先生に送った。
デニース先生から届いた歌詞はすばらしかった。
広瀬先生もからもOKがで、楽譜が送られてきたときはどきどきした。
これを受けて、日本語の歌詞は、基本的には訳ではなく
同じ内容を別に歌う道を選択した。
大作になったが、いろいろな機会にかけてじっくりと浸透してほしいと思った。
歌うことへあこがれ、歌の力がテーマであることはいうまでもない。
歌詞は楽譜が届いた日に一気に書いた。
して3日ねかせてから、細かいところを少しだけなおした。
先生のところに送ってから3日後の夜、だぶん11過ぎだと思うが
広瀬先生から直接ぼくの家に電話がきた。
びっくりしたが、先生は曲の構成について先生の考えを
いっしょうけんめい伝えてくださった。
それはわすがな変更についだったが、ぼくがきめたことを
変えるのだからと、わざわざ電話をくださったのだ。
かくして、"We Are Songbirds μ"は、できあがった。曲ひとつひとつに
思い入れがあるが、そのへんの背景は「パーティ活動の友」を見てほしい。
録音やトラックダウンは主に早稲田大学文学部の向かいにある
アバコ・スタジオで行なわれた。
ここには、当時録音部長だった堀さんという超絶的録音職人がいらして
彼のおかげで、よりすばらしいものになった。
もの静かな方だが、ミキシングの技術はほほんとにすごい方だ。
できあがりをの感想をきいたら「ゴキゲンでけっこうですね」
とにこっとされたのがうれしかった。
広瀬先生は2008年の11月に他界された。残念だ。
デニース先生とは、その後、「ひとつしかない地球」で
またお世話になった。いわずもがなだが、宮沢氏の曲の
英語版はデニース先生の作詞である。宮沢氏も気に入ってくれた。
宮沢氏といえば、"We Are Songbirds μ"のトラックダウンをしているときに
ちょっおもしろいことがあった。
ずうっとやっていると、耳もアタマもへんになるので、
ちょっと休憩しましょうということになり(その日はぽくと堀さんだけ)、
ロビーに出ると、ちょうど隣のスタジオも休憩のようで何人かが
でてくる気配がした。すると、こんな声がきこえてきた。
「マーシーのギターはテイク・ワンのほうがいいなあ」
声の主は「ブルーハーツ」(当時)、甲本ヒロト(現クロマニヨンズ)
氏である。
ぼくは、彼の書く歌詞がすごいなあと思ていたのでうれしかった。
そのときは、それだけのことだつたのだか、
後に甲本氏が岡山でラボっ子だつたという話を
宮沢和史氏の事務所の社長さんからきいた。
コンサートで甲本氏といっしょになったとき、
それがわかり、盛り上がったとのこと。
歌は、人間の言語表現のなかでも力強く明るい。
明るさのなかに悲しみもある。
人と人をつなぐもある。
われら歌い鳥たちは
歌うことわやめてはならない。
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写真は昨秋に訪れた大分県湯布院の金鱗湖近くで。ひっそりと
祀られている地蔵菩薩。横に肥料のような袋が積まれているのが
けっこう罰当たり的だが、それでも地蔵は心なしか笑ったような…。
地蔵菩薩は釈迦入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの56億7000万年もの
気の遠くなるような仏なき世で衆生を救う。
地蔵はサンスクリット語のクシティ・ガルパ(大地・胎内)の訳語と
いわれ、まさに大地のような慈悲の心をもつ。
と、ここまで書いて、よく考えてみれば
新刊に『かさじぞう』があるわけだから
賢明なる読者の皆さんは
きっと地蔵についても勉強されているにちがいない。
したがって、へたなことを書くと大恥を晒すはめになるのでやめとこう。
地蔵は六道を行脚し、救済の旅を今も続けている。
旅する神仏といえばスサノオもいるなあ。
というわけで、今回はさすらう者に思いをはせてみたい。
ウーム、ちょっと無理目の枕だなあ今回は。
この日記に先日遊びに来てくださったcarmenさんが
『ハメルンの笛ふき』の発表を見たということをご自身のページに
記されていたのを読み、ふとこのタイトルを思いついた。
『ハメルンの笛ふき』の制作では、英詩のリズムと
矢川澄子さんの美しい七五調の日本語のリズムをどうあわせるか
というのがスタート時点では重たい課題だった。
しかし、そもそも英語と日本語を微妙な間(ポーズ)で
つなけで、自然に聴こえるようにするというラボ・ライブラリー
独自の技は発想自体が無謀である。
しかし自然に聴こえる、というか子どももおとなも
何回も聴くことがてきるのは、以下に列記したような点からだ。
1.基本的に英語も日本語もテキストが魅力的(平明で力強いが
詩的感動がある)
※これはわかりにくいが、例をあげてみる。自分が関わった作品
だと恥ずかしいので『オオクニヌシ』の冒頭を思い出してほしい。
じつに映画的、しかもシネラマ70ミリ(懐古的)のひろびろとした
風景が見えてくる文だ。とくに、ぼくが好きなのは
冒頭部分(スタジオではアタマという。頭の部分のさらに最初のところは
ドアタマという。ちなみにおわりはケツ、ケツはドンケツ)のケツ。
「若い声がカモメのようにとびかい、海がまた光った」
ハスキー 短く刈り込まれた表現だが、みごとにアタマの場面のイメージを
まぶしいほどに、あざやかにしている。
八十神の荒あらしいエネルギーを、空をまうカモメで比喩し、
彼らの神力に呼応するように輝く背後の海。
湿気のない、リリシズム、抒情があふれている。
ほぐが、30年間、いつも意識し、のりこえるのは無理でも
少しでも近づきたいと手本にした文のひとつだ。
2.英語も日本語も語り手がすばらしい。
※これも当たり前だが、英日を自然に聴かせるには
英語も日本語も同じくらいの語りの技術が必要ということだ。
声質は必ずしも似ている必要はない。『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』
のご存じ大山のぶよさんのドラエモン声と、ジェリー・ソーレスさん
(JRや成田空港で彼女の声はよく聴こえるぞ)の透明感のある声は
逆にマッチするからふしぎ。
語り手の選択、とくにナレーションはたいへん。基本的な技術は当然として
なにか人間的迫力とか、人生を総動員したような存在感とか、
1行のなかで感情を変化させられるとか、いろいろなことをもとめてしまう。
それをやってしまう役者もすごいが。そんなこともあって、
いわゆる声優さん(彼らもいい仕事をしているが)ではなく、舞台俳優
を起用することになる。声優さんは、マイクのつかい方もうまいし
滑舌やリップノイズ(たいていの音は今は消せる)が少ないが、
テーマ活動を想定すると、どうしても役者のもつ動的なリアル感が、
それも三次元の肉体的・生理的なライブ感がほしいからただ。
ライブラリーの語り手は皆すばらしいが、とくにぼくの好みを書く。
こんなことは、現役のときにはいえんもんね。ただし順不同。
☆鈴木瑞穂氏=『国生み』『なよたけのがくやひめ』のあの声。日本語の
語りをマスターしているひとりだと思う。
☆橋爪功氏=故岸田今日子詩とおなじ演劇集団円(渡辺謙氏もいた)所属。
おすすめは『おどりトラ』。彼は3回、本番で読んだが。
まったくNGなし。読み間違えもアクセントちがいもなし。
どれをOKテイクにするかまよったほど。なにんと20分でとり終えた。
じつはその録音の前に、『不死身の九人きょうだい』のユニット
どりがあり、円の若手俳優がさんざん演出家にダメだしされて
かなりの時間をかけて録音した。
その後で橋爪さんの録音があったが、若手陣が、さあ
大御所がタメだしされるのわ見てやろうと休憩質から出てきたときには
もう録音が終わっていた!
☆風間杜夫氏=この人も本当にうまい。うまいだけでなく、
『ノアのはこぶね』のとき驚いたのはリップノイズの少なさだ。
というよりほとんどない。びっくり!
☆二木てるみさん=『はなのすきなうし』だけなのだが、
光吉先生のやわらかな日本語をじつに繊細に語っている。
文にはひとつもむすがしいものはない。しかしこの物語のような
シンプルな文こそ魅力的に読むのは誰にでもできるものではない。
1行のなかで感情が動いているのがわかる。ぜひ聴いてみてほしい。
☆中村俊介氏=もともとプロの語り手ではない。「メンズクラブ」のモデル
さんでスタートした人。『十五少年漂流記』はバクスターが帰還後、大学生
くらいになったとき、当時の日記から懐古して語るという設定だったので
大御所ではなく「若さ」がほしかった。でも聴きぐるしくてはこまる。
悩んでいるとき、何人かの信頼すべき専門家から彼を推薦する声があった。
そこでデモの声を聴き、ひらめくものがあったので彼が起用された。
声のなかに、前にも書いた役者として最もだいじな資質である素直さが
感じられたからだ。結果はご存じの通り。
録音の日(真夏、お盆のころ)、えらい美人のマネージャーが付き添って
きていた。17時スタートなのでおわりは23時予定。とぃっても、
この日はラボ以外の 予定は入れてもらっていないのでデスマッチである。
彼女が「うちの俊介は、モデルとか歌はできますけど
ナレーションできますかねえ」と心配そうにいっていたのが今では笑える。
ほかにも書きたいすばらしい語り手き多いが、先に進まないのでまた。
3.音楽の力。
前回はかけ算と書いたが、『ハメルン』においてはその役割は
きわめて重要。坂田晃一先生の音楽でアタマから一気ら中世に飛べる。
音楽だけぜひ聴いてみてほしい。
ともあれ、音楽が背景にあったり、なかったりすることで、
英日という異物どうしの組み合わせはずいぶんなめらかになる。
4.間の調整
じつは、英日をつくるときにこの点が最も重要である。
セリフや語りは、それぞれ別べつに録音する。役者さんの
スケジュールにもよるが、英語あるいはその他の日本語以外の言語
が原作の場合、英語から先に録音することが多い。
また、英語から先に演出を固めていくほうが、日本語の役者さんに
よりこまかいリクエストをしていくことができる。
もちろん、逆もありだが、聴き手である子どもたちにとっては、
日本語がキイとなるからニュアンスの差
(表現上、どうしても差異がでる部分もある)を
うめるには英語表現でイメージを固めて、
日本語をあわせていくほうが演出的にはつごうがよい。
ともあれ、別べつに録音した英語と日本語のセリフや語りは
それぞれ独自の間をもっている。英語版は基本的には、その間を
生かしてつくる。
しかし、英日は日本語をばらばらして1行ずつ英語につけていく。
この間、ポーズは人工的なものである。これが一番時間のかかる
作業である。こんなことをすめのはラボだけ。ふつうはスタジオ代とか
人件費とか時間を考えたら「そこまでやらない」。
でも、このポーズ調整の作業によって、もともと異質な英語と
日本語という組み合わせを自然に、そして楽しく聴けるのだ。
この間は機会では設定できないので、まさに1行ずつ調整し、
次にパラグラフ全体を聴いて微調整し、少しずつ聴く固まりを
大きくしていってさらに調整する。
その間に、微妙なノイズやブレスをとったり、気になる発音は
単語ごと入れ替えたり(今は子音ひとつでも可能)する。
こんな、まあ手間のかかることは、子どもたちに本物をという
覚悟がなければできない。というか、はじめてラボの録音・編集に
参加した録音エンジニアはみんなびっくりする。
ともあれ、英日、あるいは日英というのはふしぎな世界だ。
何度も書くが、もともと音的には異質なんだからね。
ちよっとずれるが、関西語(弁という表現はきらいなので)と関東語も
音韻的にはぜんぜんちがう。また、津軽語などはフランス語っぽい。
冗談のようだが、ぼくの友人で「ま」という男は
「まくはりめっせ」は関西語だと本気で思っていた。
彼は麻布十番で「おシャレな所だねえ。アザ・ブ・ジュバン」
ってフランス語だろう」と大まじめにいった。
ともあれ、異質なふたつの英語・日本語を同時に聴くというのは、
濃厚なポタージュのような栄養満点。聴くだけで効能ありだ。
A desk. とだけいうのと、A desk. 机 というのでは
空間のひろがりがちがうと思いませんか。
なんだか、『ハメルン』に行く前にとっても長い横道というか前道
になった。これが日記のいいところ。
さて、だんだら服の笛ふき男が何者だったか
また、12世紀なかばの夏にハメルンでおきた大量失踪事件の背景に
ついては、資料集にもあるし、多くの書物もでているので
そちらにまかせたい。
ただ、思うのは「笛ふき」というパフォームと、ネズミはらいという
厄よけのオカルト能力をもった笛吹き男の心情、孤独である。
定住することなく、街から街へ。
その特殊技能と容姿から畏怖され、敬われたりもしながら、
けして平和な家族の団らんや集団の輪のなかには近づくことを許されない。
どこの国にも、文化圏にも、そうしたさすらうパフォーマーはいた。
イスラムにもアフリカにも、インドにもそして日本にも。
『安寿と厨子王』も、もともとは説教節とよばれる街頭パフォーマンスだ。
独特の抑揚をつけたラップのような調子で語られ、
人びとはひきつけられ涙した。
ラボ・ライブラリーのなかで、そうしたパフォーマーをあげれば
なんといっても、日本代表「耳なし芳一」である。
芳一もまた、本来はさすらいの琵琶法師である。
芸能の人であり、平家の怨霊をエンターテインすることである。
それがひとつの寺に所属してしまう。
平家からみれば、自分たちの「いやし手」であった芳一が
本来は自分たちを拘束する寺(怨霊から人びとをまもる)という
いわば敵にとりこまれてしまった。
「とりかえせ」というわけだ。ぶるぶる。
この物語にも芳一という類いまれな能力をもったバフォーマー
の深い孤独が底にある。
それは、作者であるハーンの心情とも重なって見える。
ハーンもまた、旅をし続けた人である。
彼は『怪談 KWAIDAN』(Kがつくのがみそ。「くわいだん」という
当時はあった音を妻のセツの声から聴きわけていたのだ)
のなかでも芳一をいちばん気にいっていたが、
それは、5歳で母と生き別れ、左目の光を中学のときに失い、
ずっとさまよい続けた自らの孤独と
さらには琵琶法師と小説家というエンターティナーどうしの
苦悩と高揚をハーン自身が芳一に重ね合わせていたためだろう。
ハーンは、ついぞ日本語はあまりうまくならなかった。
それは、日本を定住の地とは考えでいなかったためといわれる。
※帰化はしているが…。
詩人のランボーは「ほんとうの旅人は、風船のように、ただ
旅立つためだけに旅にでる」といった。
また、高見順は「帰れるから旅は楽しい」と書いた。
近年、ドナルド・キーン氏などにハーンは「オカルト・ジャバン」
を強調しすぎたという批判を受けたことがある。
しかし、プロの作家であるハーンは、対象にむけて強力な光をあて、
それによって生じる影を書くことで対象をより鮮明に表現したのだ。
※最近は再評価されているようだ。
ハーンの終焉の地(1904年没)は新宿の現在の大久保小学校がある所だ。
彼が世を去った一年後、島崎藤村が上京し、そこから1キロほどの
ところに住む。
さらにハーンが東大の講師(後に漱石が帰国しハーンはやめる)になった
1896年、東大近くの本郷菊坂にいた樋口夏子こと一葉が
奇跡としか思えぬ作品を短い間にのこし24歳という若さで他界する。
ハーンの時代の文学をラボっ子もきちんと読んでほしいなあ。
ハーンの死後、日本は統帥権という妖怪とともに、暗黒の時代へと
傾斜していく。表現の自由はうばわれ、文学も大きな打撃を受ける。
ハーンは、まさに日本の別れ道の手前でたちどまり、
あたりを静かにながめて、そっと去っていったのだ。
最後に、『ハメルン』にもどろう。
物語のラストに詩があるが、ここに注目。
「ねずみはらった笛ふきたちの」というところ。
すなわち物語に登場する笛ふきはひとりなのに
ここではPipersと複数になっている。
こうした「笛ふき」(ハメルン市の記録では魔法使いとなっている)
はヨーロッパの各地にいたのだろう。
この部分の日本語訳は版によってちがうが、そのあたりのくだりは
資料集を見てほしい。
ざんねんなのは矢川先生がお亡くなりになられていて、
今、いろいろとお尋ねすることができないこと。
凛としたすてきな先生だったが、なぜ自ら命をたたれたのか
は凡人には推測不能だ。
『ハメルン』の絵はケイト・グリーナウエイだ。イギリスの最高絵本賞
にその名をのこす。コールデコットもイギリスの人だが
アメリカにとられてしまったた(アメリカで客死)。
グリーナウエイの絵は繊細で独特の色彩はファンも多い。
子どもを子どもとして描いたといわれるが、彼女の師匠も指摘している
通り、躍動感や表情の豊かさなどでは同時代のコールデコットには
はっきりいっておよばない。
ただし、この物語はグリーナウエイの画風がぴったりはまった。
あの暗さかたまらんのね。
コールデコットもグリーナウエイも1846年3月生まれである。
グリーナウエイが5日だけおねえさんだ。
グリーナウエイは56歳で、コールデコットは39歳で世を去った。
しかし、ふたりが後の絵本にあたえた影響は大きい。
ハーンについては、「ローリング・ストーン」という
ロック雑誌の編集長だったジョナサン・コットの
「さまよう魂」(晶文社・真崎訳)という本が読みやすい。
また、ロジャー・パルバース氏も『旅する帽子』という
ハーンをテーマにした小説を書いている。
もうひとつ、コットは同じ晶文社から『子ども本の8人』(鈴木晶訳)
という名著を書いている。これはセンダックやリンドグレーンなどの
絵本作家にインタビューしたものである。とくにセンダックのは
おもしろい。
この本の英語サブタイトルは"Pepers of the Dawn"である。
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写真はレインボーブリッジを台場側から撮影したもの。左端に東京タワー
も見える。この橋ができてから今年で18年になるが、首都高速道路の
混雑がかなり緩和されて、とくに羽田空港への所用時間は大幅に短縮
された。長さは約800メートル。じつは人間も歩いて渡れる。
ぼくはこの橋が好きで、羽田に行くときやお台場に遊びにでかける
ときには、車、バス、ゆりかもめ(橋は上下になっていて下を通る)
などで必ず渡る。夜もいいが、日射しまぶしい昼もいい。
青島刑事ではないが、封鎖してはいかん。
この橋は水面からの高さは50メートル以上ある。それは「クイーン
エリザベス?」が通過できるためだった。しかし、悲しいかな彼女は
この橋をくぐってはいない。しかも、その後は世界の豪華客船がさらに
巨大化したために、この橋をくぐって東京港に着く豪華船はない。
今は横浜が海の玄関になってしまった。
橋は水平への世界の広がりを感じさせてくれる。
そして、隔てられていたものをつなぐという平和訴求のイメージがある。
だから美しい。
レインボーブリッジやベイブリッジものような新しい橋もいいが
猿橋や錦帯橋、渡月橋などの昔からの橋もいい。
ゴールデンゲートやバンクーバーのライオンズゲイトなどもいい。
だから、橋が封鎖されたり、破壊されたり、板門店のように
軍事境界線になってしまうことは、とてもつらい。
今日の読売夕刊の書評に住井すゑさんの『橋のない川』でてでいたが
これも、人間の差別という不条理を象徴するタイトルだ。
驚いたのは、この名作を大きくとりあげていたことだ。
ある意味、青春時代に読んでいて当然という作品が、
それだけ大きくとりあげられる背景には、根強く部落差別問題が
潜伏する病のように残存している現実と
「重い文学」に近づかなくなった日本人の傾向性への警鐘だろう。
橋の対照にあるのが塔だろう。「バベルの塔」に象徴されるように
塔は権力、パワーの誇示の匂いがする。
祈りのかたち、高みへの憧れともとれるが、
それもなんらかの「力」の結集が空へのベクトルだと思う。
だからといって、塔がきらいだというわけではない。
西洋の塔もアジアの塔も日本の塔も、それぞれ特徴があり、
おもしろいし、美しい。
そして、無力がゆえに傲慢になりがちな人類がいとおしくなる。
そうして見ると、タワーブリッジなどはとってもおもしろい。
タイトルにしたカンタータとは古い音楽用語でいうと「校声曲」だ。
基本的には、器楽伴奏がついたソロが複数の声による声楽曲で、
有名な作曲家はたいてい何曲かのこしている。
どうしてそんなタイトルをつけたかというと、ひとつはTNPではないが
「なんとなくカッコイイ」から(遠藤憲一はいいなあ)。
もうひとつは三木卓氏の『星のカンタータ』(理論社)を紹介したいからだ。
じつは、この児童文学の大傑作は、ぼくが担当するずっと以前の
「ことばの宇宙」に連載されていた物語を単行本からされたものだ。
当時は「星雲の声」という題だったのだか、単行本になるときに
この書名になったのだ。
三木氏はすばらしい詩人・作家であるが、こうした児童文学も
数多く書かれている。
そのなかで『星のカンタータ』は、ぼくはいちばん好きだ。
その内容は、人間の表現、ことば、コミュニケイションをテーマに
しており、まさにラボと重なるのだよ。
感動的なストーリィ、よみやすくそして美しい文体。
ついつい派手になってしまうぼくのような駄文とは比較にならぬ
抑制のきいた表現は、ぼくもよく手本にしている。
この本は復刻されていて、アマゾンでも手に入るので
ぜひとも読んでほしい。小学生でもだいじょうぶ。
さて、アジアの昔話のつづき。
前回は、間宮芳生先生のことを書きはじめて終わった。
先生は、SK24以前なも、『白雪姫』『こつばめチュチュ』
『ロミオとジュリエット』など、歩きはじめてまもない
ラボ・ライブラリーの音楽を担当された。
間宮先生と林光先生、このお二人がいらっしゃらなければ
今のライブラリーの基礎はできていない。
※もちろん、初期には『ピーター・パン』のベッカー氏や
『山やまもっこり』の佐藤允彦氏などのすばらしい音楽家も
参加している。佐藤氏は慶応大学経済学部を首席で卒業した後、
バークリーで音楽を専門的に学んだんでもない人で。
ドレミの音階を周波数でおぼえているといううわさがあった。
帰国後、ジャズピアニスト、作曲家としてデビューした年にでた
『パラジウム』はいきなりジャズディスク大賞をとってしまった。
ゼウスたちが人間に厄災をおくるべく鍛冶屋の神
ヘパイストスに命じてパンドーラをつくったとき、
他の神がみはいろいろなものをパンドーラにあたえた。
アポロンは音楽好きの心を、ヘルメスは好奇心を、
アフロディテは愛をといったぐあいだ。
ラボ・ライブラリーも、いろいろな力をさまざまな分野の
方がたからいただいて命を得ている。
ただ、パンドーラとちがうのは、
ライブラリーは厄災ではなく豊かさを人間に運ぶ。
前回も書いたが、SK24の音楽担当には民俗(族)音楽への造詣
が不可欠だった。
めんどくさいので、これからは民俗音楽で統一するが、
それと現代音楽の融合が、間宮先生の大きなテーマである。
そして、変なたとえわして申しわけないが、
ライブラリーづくりは贅沢な生活のようなところがある。
というのは、いったんあげてしまうと、そこからなかなかおりられない。
本物の味といってもいい。
いい肉や魚や野菜と出会うと「もう、ほかのは食べられないね」
などとかっこつけたりするが、まさにそういうことだ。
間宮先生も林先生も、はっきりいって当時から大御所であり
超一流である。
谷川雁氏のような迫力ある外ならともかく、
ぼくのような、はっきりいってちんぴらの制作につきあってくれたのか
今もってふしぎでならない。
おふたりとも、だまってすわられているお姿を拝見すると
スタジオでも他の場所でもオーラはものすごく、
3メートル以内に近づくとショックとばされそうな気がする。
さらに、おふたりともご高齢であることをまったく感じさせない。
それは、たぶん両先制と仕事をして、
とくに間宮先生からはかなりきびしくも温かい指導もいただいて
ようやく気づいたことなのだが、
間宮先生も林先生も、今の日本の音楽に対するご自身の責任を
ぎひしく自覚していらっしゃるのだ。
だから、すごい迫力とエネルギーに満ちているのだ。
時代と仕事への責任感。
どこかの政治家にきかせたいものだぜ。
ともあれ、間宮先生にSK24の音楽を担当していただきたい。
というのは、もう電光石で決まった。
しかし、前回書いたように、おとなの事情で
そのころのラボと先生には距離があった。
冷静に考えると、SK24の時期には、もうこだわるべき
おとなの事情はほとんどなくなっており、どちらが声をかけるか
というタイミングだったと思う。
昔仲ののよかった友人とちょっとしたことで疎遠になり、
なんとなく声をかけずらい、今思えばだがそんな状況。
その前年に、先生は紫綬褒章をうけておられ、
ラボからささやかなお祝いを送った(紅白のワインだった)。
もどってきたらどうしよう、という不安もあったが、
無事にうけとっていただいた。
それは軽いサインの交換だったかもしれない。
とにかく、後は正々堂々とプロホーズあるのみ。
そこで、ラボから企画書と手紙を送った。
その手紙はぼくが書いたのではない。
同時の制作責任者(賢明なる読者はおわかりだと思うが「
かのさん」である)が全力でしたためた。
返事は確か「自宅に来て、くわしい話をききたい」と
いうものだったと思う。
これも今思えば、ほぼオーケーという意味なのだが、
お宅にうかがう道すがら(3名)、「イエスといって
いただくまで帰らないぞ」などと力んだ打ち合わせをした。
先生のお宅は世田谷の成城学園である。
ドアベルを押すと「どうぞお入りください」と奥様の声。
上がり口の壁面には高松次朗氏(『国生み』をはじめとするライブラリー
を間宮・高松という二大巨匠が手がけていること自体奇跡)の作品が
さりげなく飾られている。
先生はグランドピアノがおかれた仕事場でイスにすわられていた。
手にはラボからの企画書がある。
「せまくもうしわけないね」
奥様がイスをだしてくださり、先生含めて4名が円形にすわると
膝と膝がたいへん近い。これは緊張する。
さあ、だれが口火をきるのか(ちろん、ぼくではない。室長代理
とかいう半端な立場=肩書きはどうでもいいのだが、だったからね)
という空気になったとき、いきなり
「馬頭琴はおもしろいねえ。それにモンゴルの音楽はね。
スイギット(資料集を読んでね)というすごい歌唱法があるんですよ」
と先生がにこやかに話をはじめられた。
「えっ」と思う間もなく、先生は背後の本棚から民俗楽器の本をとり
だし、ぼくたちに示しながら馬頭琴のルーツなどをお話してくださった。
そこからは、一気に具体的な企画と作品についてである。
企画書にはスケジュールや締め切りや、もちろん予算なども
示してある。それらへの質問は一切されない。
それまでも、すでにいろいろな専門家の方とお会いする機会はあったが
このとき、はじめて、
「こういう機会に学ばなかったら、この仕事をする意味がない。
ラボっ子たちに申しわけがたたない」と自覚した。
アジアの昔話の各作品の音楽については「資料集」にまかせて
小ネタ(でもないかな)を少し書く。
アジアの音楽といえば、三拍子系である。三拍子は馬のリズム
でもあり騎馬民族の血でもあるらしい。
そして、韓国の伝統音楽も三拍子系である。
だたし、単なる三拍子ではなく、そのなかにいろいろな要素がある。
現代の日本人は洋楽の影響大で圧倒的に4つ系あるいはその倍数、
フォービート、エイトビート、16ビートにそまっている。
ちなみ、エイトで三拍目と七拍目に強い拍があるのがロックだ。
トントンダントン トントンダントン。
だから、
三拍子というとすぐワルツを連想して、なんか古くさいと思い込みがち。
しかし、三拍子もかっこいいのよ。
『大草原の小さな家』のメインテーマを音楽CDで聴いてほしい。
ほんと、いいすっよ。
詩情豊かなメロディが目の前に大草原をつくりだす。
ドラムのフィルインのところなんかぞくっとする。
この音楽は堀井勝美先生。
演奏もすんばらしい。なにせこの物語は
「父さん」のバイオリンがけっこうキイなので
中西俊博氏(うまい!)と彼のグループ。
そして、ベースは「カシオペア」の鳴瀬氏、そしてアコースティック
ギターは石川鷹彦氏という泣けるメンバーだ。
堀井先生は『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』も手がけておられるが、
あの冒頭のさわやかなリコーダーも大好きだ。
あれは、ふつうのソプラノリコーダー。
小学校の縦笛のちょつといいやつだ。
演奏者と録音技術で、あんなにも輝いた音になる。
例によって、話がアジアからそれたが、その気ままさが
日記のよいところなのでOK牧場。
昔の日記に、絵は空間的、テキストは自由自在、
そして音楽は時間と書いたことがある。
絵の空間性(高松先生や司先生のように音楽性も豊かな絵もあるが)
は当然として、音楽が時間をコントロールしていることは
ラボ・ライラリーの大きな特徴だろう。
映画やテレビと異なり、ビジュアルは静止画の絵本なので、
主役であるテキストの暴走を制御するのは音楽なのだ。
ライブラリーを聴いていると、シーンの変わりめ、
たとえば一夜あけて、のようなところで5秒から7秒くらいの短い
音楽が入るときがある。
ブリッジといわれるテクニックなのだが、わずかそれだけの
音楽でもちゃんと意図をもって作曲される。
それによって、ことばを「刈り込む」ことができ、
作品がぐっとしまってくる。
テーマ活動を1度でもしたことがあれば、そのことがよくわかるはずだ。
なお、ライブラリーの音楽は英日版と英語版とそれぞれ別に録音される。
いわゆる編集でつくることはほとんどない。
しかし、このブリッジだけは、共通で使用することが多い。
英語版用に短くくすると、なんだが短すぎて効果がなくなるからだ。
前述したように、ライブラリーの本質、根幹は、まずテキストありき
なのだが、音楽の果たしている役割はじつに大きい。
これも読者にはいわずもがなだろう。
そんなことを思いながら、『スーホの白い馬』の冒頭を聴いてほしい。
もちろん全部聴いてほしいが、物語の冒頭はとくにたいせつだ。
聴いてすぐに、子どもたち、おとなたちを別世界に連れていかねば
ならないからだ。
※センダックは「すぐれた物語は入り口と出口が異なる」といった。
タイトルはノンモン(ノン・モジュレイションからできたことば)
といって音楽でくるまずに素で語られる。
※タイトルまわりの音楽、タイトルの語りも難しいのよ。
語り手さんには、タイトルから読みはじめてもらうけど
終わってから、別にタイトルだけ何パターンか録音させてもらって
選ぶということが多い。
でも、あんまり回数やりすぎると、タイトルは短いので
わけかわからなくなってしまうので注意も必要、
それからすぐメインのメロディ。ここが間宮先生のすごいところ。
変にもったいぶって前奏とかつけると、おいしい主メロにナレ
ががふってしまうので魅力をけしあってしまいます。
まず、いきなり、あっあの物語とわかる音楽がたいせつ。
いい映画なんか、みんなそうでしょう。
音楽を4小節くらいかけただけで、だれでもすぐに題がわかるってやつ。
そして、ナレーションとともにモンゴルの風景が描かれますよね。
さらに、途中から音楽はスーホのきもちへと変化していきます。
どこからかって? それは聴いてみましょう。
子どもたちと聴いて話し合うのもいいし。
口でいわずにテーマ活動、ナレや動きで表現してもいいかな。
なんだか急に文体が常体から形体になってしまって
悪文の見本。
まあ、とにかく、ライブラリーの音楽は主役ではないのに
時間をきっちりコントロールして物語をすすめてくれる。
足し算ではなく、かけ算(これも昔書いた)。
音楽についても書き出せばきりがない。
今日はこれくらい。
さても、『星のカンタータ』のことを書いたが、
先日、ジャック・ニコルソン主演の『カッコーの巣の上で』を
ブルーレイで見た。原作はケン・キージーの
"One Flew Over the Cuckoo's Nest"。
ミロス・フオアマン監督の傑作。オスカーの主要部門を
ほとんどかっさらった。、
それで思うのだが、
「表現して認められないのはさみしい。しかし、その孤独を恐れて
表現をやめてしまうことはもっと孤独だ」ということ。
パンドーラとライブラリーのことを前半に書いたが、
共通点がひとつあった。
それはどちらも根底の「希望」があることだ。
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写真は練馬区豊玉にある母校。正門から少し入ったところから校舎を見る。
ぼくはここで中学・高校の6年間を過ごした。
写真の右手前には当時、露場(ろじょう=百葉箱がたつ気象観測場)があり、
毎朝9時にこの露場と屋上で気象観測を行なっていた。
えっ? と思うかもしれないが、ぼくは気象部に属していたのだ。
ぼくは幼いころから、星とか宇宙のことが好きだった。
長男に「すばる」と名付けたくらいだからね(付記しておくが
F重工の車からでもない、谷村なにがしの歌からでもない。「枕草子」
の「星はすばる」からだ)。
小学4年のころからは、毎月京王バスに乗って
渋谷の東急文化会館の五島プラネタリウム(今はない!)に通っていた。
思えば、宇宙のふしぎにも惹かれたが、それ以上に星座を
めぐる神話が好きだったようだ。
だから、中学生になったら天文部に入りたいと思っていた。
入学式のときに校舎の屋上を見上げると、当時としては立派な望遠鏡のドームが
ぎらりと太陽光を反射しているのが見えたので、
なかなかやるなあ、よし天文部員になるぞと意気込んだ。
しかし、いざドームにいってみると、そこに天文部はなく、
あるのは太陽観測部という妙な部だった。
驚いたことに、その望遠鏡は夜に星やら銀河やらをロマン豊かに
眺めるのではなく、真昼に太陽の黒点を観測するためのものだという。
しかも、直接太陽を目視するとたいへんなので反射版に投影するのだという。
太陽の黒点やフレアの変化は地球にも大きな影響をおよぼすが、
当時はそんなことは知らないから、ただぼうぜんとしてしまった。
あせったぼくは教師や先輩にいろいろきいてみた。
すると次のようなことがわかった。
・もともとは「地球物理部」という巨大な部であった。
・あまりに範囲が広いのと、いろいろと方向性でもめめことが多いので
・「物理部」「地学部」「気象部」「太陽観測部」にわかれた。
ということだが、それにしてもマニアックなわかれ方だ。
悩んだあげく、望遠鏡の魅力はあったが、ぼくは気象部を選んだ。
黒点だけを眺めるより、雲と風とか雨とか雪をしらべるほうに
まだ詩情を感じたのだ。
かくして、ぼくは6年間、毎朝9時に気象観測を行ない、
夏休みには合宿して八ヶ岳や富士山の雲の研究をした。
なかでも毎朝の屋上と露場の観測は重要で、日曜日も夏休みでも
二人組で必ず続けられた。気象観測は欠測、すなわちデータがとぎれ
るとその記録価値が半減する。
創部以来、欠測がないのはすごいなあと思った。
この定時観測には部としての研究であるとともに公的任務ももっていた。
学校内にありながら、気象庁東京管区気象台中新井観測所という
気象庁所属の甲種観測所(人間が観測する)でもあったのだ。
したがって、データをとぎれさせることはできないのだ。
※気象庁から観測料が支給され、それで器材を購入しいた。
※事件があると警察が雨量などを聞きにくるこもあった。
9時からの観測は10分程度で終わるが、次の授業にはわずかだが
遅刻する。それも学校によって認められていたくらいだ。
現在は完全にロボット化されていてリアルタイムで気象庁にデータが
送られており、人間が観測する必要はなくなったらしい。
この夏もの猛暑で各地の気温がテレビなどで紹介するが
東京の気温は都心の気象庁と、練馬の温度が紹介される。
「東京では練馬で35度を記録しました」というニュースは
昨夏、なんどもきいたはずだ。なぜいつも練馬なのかと
思ったかもしれないが、
それがこの写真の地上1_5メートルの気温なのだ。
ちなみに全国で気象庁観測所で気温を報告しているのは90か所で
意外と少ない。
先ほどは、太陽観測部を小馬鹿にしたようなことを書いてしまったが、
かれらも営々と太陽観測を継続している。
しかも、この部からは日本がほこる逸材を輩出しているのだ。
昨年、小惑星イトカワから数々をピンチをのりこえて地球に帰還、
さいごはカプセルだけをのこして自らは燃え尽きた(あの瞬間
ウルッときた人は多いはず)「ハヤブサ」のプロジェクト・リーダーであり
イオンエンジンの開発者であるJAXAの國中均教授は、
この太陽観測部のOBだ。しかもこのプロジェクトには、國中教授のほかにも
2名の太陽観測部OBが参加している。恐れ入りました。
こちとら、気象観測を6年やったがキャンプのときに天気を読むくらい
しか役立っていない。
というのは冗談で、ライブラリーづくりにもそうした自然科学的センスは
とってもだいじだなあと、今になって思う。
たとえば、『ロミオとジュリエット』でロミオが忍び込んだ
ジュリエットの家の庭にはどんな花が咲いているのか、
さらにいえば湿っているのか、乾いているのか、といったイメージは
演出におえいても音楽においても重要だ。
ためしに仮面舞踏会にいくロミオたちの会話
"Give me a torch."のところの音楽を聴いてみてほしい。
息ぐるしいほどに、3名の距離感、青さ、石の路面の湿感、
夜のなまめかしさが映画よりもリアルにせまってくる。
これは、いうまでもなく、音楽をつくられた間宮芳生先生の音楽性の
すごさだが。加えて先生の自然科学的な感覚の鋭敏さの現れでもある。
※間宮先生のことは後でふれる。
また、『なよたけのかぐやひめ』の冒頭で、翁が竹をとりに
竹やぶに入る場面を思い出してほしい。
この竹やぶも、どんな竹やぶなのか、広さや深さや明るさなどのイメージが
なければテキストのよさが音に繁栄されてこない。
翁は「よい竹育てよ、まっすぐな竹育てよ」と竹に語りかける。
名優、今福将夫さんである。
ここで今福さんは、まず「よい竹育てよ」で、
目の前にある竹に近距離でやさしく語りかける。
そして、「まっすぐな竹育てよ」で、竹やぶ全体に語りかける。
これで、竹やぶのひろさが表現される。ぜひ聴いてみてほしい。
さらに、
「竹をとり、竹でものをつくってくらす」、つまり非農民である
が故に、さげすまれ遠ざけられてきた男の悲哀と、そんな自分を
成り立たせてくれる竹への想いが凝縮された1行でもある。
原作が『竹取物語』というタイトルであるのは、
この話が、まさに翁が不遇の身から姫を得ることで
一躍「富貴の人」になり、また一老人にかえるという
サスペンスであるからだ。
これらはほんの一例だが、ラボ・ライブラリーにかぎらず
文学でも映画でも芝居でも絵画でも、自然科学的感性は重要だ。
というより、自然科学、人文科学、社会科学などとわけるのは
中世ヨーロッパの大学の発想だから、21世紀の今は
学問の壁をとりはらった総合人間学的発想が求められるということだろう。
その意味では、物語というのはまさにうってつけであることは
いうまでもないのね。
さて、ようやくアジアの昔話。
前々回に、このライブラリーの制作では多くのすてきな出会いがあった
書いたので、そのことにふれねばなるまい。
ライブラリーづくりでは、作品ごとに新しい出会いがあり、
いわばラボの応援団が増えていくわけだが、
アジアの昔話SK24では、とりわけ大きな出会いと再会があった。
一人は英語担当の鈴木小百合さんである。本当は先生と書くべきなのだが
本人がいやがるので「さん」づけで書く。
最近は、海外映画スターの通訳としてテレビで見かることが多い。
彼女かラボ・ライブラリーの作品を手がけたのは、『ヒマラヤのふえ』と
『おどりトラ』が最初である。
その後、『おむすびころころ』『ききみみずきん』『鮫どんとキジムナー』
『十五少年漂流記』『寿限無』『はだかのダルシン』そして新版『ももたろう』
と多くの作品の英語を担当されているのはご存じの通り。
中部や九州、中国支部では講演もされたことがあるので
お目にかかつたテューターの方も多いだろう。
ラボ・ライブラリーの英語テキストは、通常の翻訳とは異なる部分が
多々ある。その点については、きわめて重要なので別の機会に詳しく書くが、
ざっくりいえば、とっても無理な注文がいっぱいつく。たとえば
・書かれている日本語は全部訳出することが基本
・だけど、日本語の長さにだいたいそろえるように
※訳出する言語のほうが元文より長くなるのは当然なのだが…
・長い文は分割して録音できるように(子どもが一気にいえる)
※英語は関係節などがあると日本語にあわせて分割するのが困難。
『がらがらどん』(マーシャ・ブラウンは絵もすばらしいがテキストも平明
でかつ美しくて最高!)の出だしは、この関係節のおかけで分割できない。
ほんとは、出だしだから短くゆっくりばしめたいのだけど仕方ない。
・とかなんとかいいながら、美しく詩的で自然な英語でなければならない
これは一部だが、とんでもない注文である。
ふつうはあきれるか怒るがどちらかだ。
こんな注文をニコル氏やサラ・アン・ニシエさんや、ロジャー・パルバース氏
などというとんでない人が受けてくれてきたのだ。
みんなすごいのだが、アジアの昔話でのサラさんののこだわりはすごく、
『スーホ』の発音の原音を知りたいと、ぼくとモンゴル大使館までいった。
そのときの書記官がバータルスフさんという人で、スーホはどちらかという
とスフで、スとフの間に小さな無声音のクが入ることを知った。
スフは斧という意味で男の子の名前にはよくつけられるそうだ)。
話はそれるが、ラボは基本的には原音主義なので、なるべく言語に近い
表記を英語でもする。孫悟空しかり、三蔵法師しかり。
中国語は英語でも表記しやすい(映画「ラストエンペラー」で、登場人物
が皆英語をしゃべっているのは奇妙なのだが、愛新覚羅溥儀を「アイジンジェ
ロー・プーイー」と中国語風にいっていいたのは興
味深かった)が、
モンゴル語など、あまりなじみのない言語はけっこうたいへんだ。
ノーベル平和賞を受賞したポーランドの労働組織「連帯」の指導者
レフ・ワレサ氏をおぼえていらつしゃるだろうか。
無名の彼が一躍世界の舞台に登場したとき、日本のマスコミはポーランド語に
なじみがないためワレサとしたが、原音的にいえはヴァエンサである。
まあ、しかしあまりうるさいことをいうと、今さらトルストイをタルストーイ
と原音に近く書いてもわけがわからないな。
話を鈴木さんにもどす。アジアの昔話の収録作品がは決まり、担当者の
選考に入ったとき、まずは英語をどうするかだった。
サラさんには「スーホ」と「不死身の九人きょうだい」をお願いすることは
すぐに決まったが、スケジュール的にも量的にも全4編を手がけるのは
困難だった。また、全体のバランスからいっても、異なるタッチの英語が
ほしてということになった。
また、SK24は『九人きょうだい』以外の3編は、楽器、音楽にまつわる話
である。その点からいっても音楽的感性(オノマトペも含めて)のある英語
でつくりたかった(もちろん、ニシエさんの音楽的感性はすばらしいが)。
しかし、前述したラボのムチャ注文を受け入れてくれて実力のある人
なんて、そうはいない。
そのとき思いついたのが鈴木小百合さんである。
鈴木さんと出会ったのは、ぼくが大学2年になる直前くらいだと思う。
日本に帰国したしたばかりで、それはそれは可愛らしかった。
どういうわけかぼくら悪ガキのグループと仲良くしてくれて
いつしょにスキーにいったりもした。
卒業後、それぞれに忙しいなかで友人を通して鈴木さんが
独立して戯曲の翻訳や芝居のプロデュースをはじめたということをきいた。
それを思い出したのである。
しかし、昔のよしみを仕事とからめるのは逆にむずかしい。
友だちだからあたりまえ、とはならない。
あくまでプロどうしの話である。
結果はご存じの通りである。鈴木さんの、リズムある英語のすばらしさ
『おどりトラ』『寿限無』などのオノマトペを聴けば明確だ。
またキャラクターにびったりした名セリフもたのしい。
ドニファンの"You don't have to remind me."「きみにいわれるまでもない」
なんか最高!
ところで三年ほど前に鈴木さんが翻訳してプロデュースした
シャンリィの「ダウト、疑いをめぐる寓話」(白水社)が
吉祥寺で上演された。この戯曲はストレートドラマとして2005年のトニー賞
ならびにビュリツツァ賞戯曲部門をとった傑作だが、
日本での舞台をつとめたのが『ヒマラヤのふえ』の語りをされている
寺田路恵さんと『おやすみミミズク』のミミズク役などをされている
清水明彦さん(お二人とも文学座)だ。
初日に鈴木さんと仲間と数人で見にいったのだが、すばらしいできだった。
鈴木さんとともに楽屋をたずねたが、寺田さんがずいぶん昔の
『ヒマラヤのふえ』の仕事を覚えていらっしゃって
清水さんともラボつながりであることがわかって
鈴木さんともども奇縁を感じたのがなつかしい。
昨霜月、鈴木さんにあらたまって退職あいさつを送った。
すると返信に「心をこめて、でも楽しんで仕事をされていましたね」
と書かれていたのに涙してしまった。
そして、ラボのスタッフやテューターの皆さんの情熱にはいつも感心
させられます。これからもよろしく、とあった。
さきほどSK24は楽器・音楽の物語が3編と書いたが、ライブラリーの
音楽をどなたにお願いするかも大きな問題だった。
たいへん民俗(民族)音楽に深い方が第一条件であるが、
そうなると前述した間宮芳生先生が最高である。
しかし、このころ、ラボと間宮先生は距離があった。
その数年の前まで、先生はラボから離れた谷川雁氏がプロデュースする
賢治作品の音楽を書いていらしたからだ。
いわゆるおとなの事情である。
その先生がラボの仕事をしてくださるには、ちょっとした物語がある。
それについては長くなるので次回にしよう。
あわせてアジアの昔話の音楽について
もう少し書く。
この日記を書きながらSK24をずっと聴いていた。
そして、つらつらと思った。
人間は幸福追求の名のもとに自然環境をそうした改造してきた。
近代はその想いが強調され賞賛されてきたといえる。
そして同時に人間環境もまた、自然と同様に資源のようにとらえ
人を使い資本をたくわえるシステムを生んだ。
しかし、そうした想いは自然への攻撃性を生み、人間への
攻撃性も育んでしまった。
自然環境問題は、とりもなおさず人間環境問題なのだ。
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