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今回もまただらだらと書く。ゆるされよ。
このところ、妙にいそがしくなってふうふういっている。
もちろん、かつての事務局員時代に比べたらユルユルだけどね。
「いそがしいうちが花よ」という人が多いのだが
ぼくはまったくそう思わぬ。
せっかく組織から抜けたのだから、好きな本を読み、映画を見、
気の合う人とだけ話し、おもしろおかしく暮らしたーい!
だれだ、会社をやめるとやることがなくて公園で暇つぶしすることになる
なんていったのは!
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
台風接近のさなか、はや神無月である。
絵はエリック・カール氏のあまりに有名な絵本、
『はらぺこあおむし』"THE VERY HUNGRY CATERPILLAR"
に題材をもとめている。
描いたのは平山紅麗彩(くれあ)さん(6歳/川崎市・安永P)。
主人公のあおむしが、画面いっぱいにでかでかと、
しかも食べ過ぎてお腹が痛くなるくせに、
けっこうえらそうに笑っている。
もう、それだけで幸せな気分になるので、
よぶんな説明は要らぬかもしれない。
「おいしいものはぜんぶ食べたい」というのは、
基本的な生存欲求であるから、
幼い子の魂にダイレクトに直撃する。
また、食べ過ぎてお腹をこわすのは、
だれしもが経験するのっぴきならない災難である。
カミナリちゃんの高飛びこみ(スギちゃんじゃないよ)もそうだが、
too muchは子どもの子どもたるゆえんだし、
たいせつな資質だと思う。
この絵本が世界中の子どもたちに圧倒的に支持されているのは、
まさにそうした子どもの生理に密着しているからである。
しかも苦痛をこえて沈黙と孤独をへて美しい蝶に変身していく結末は、
これはもうカタルシスともいうべきすっきり感だ。

この絵本がでたとき、「絵本を評論する」人びとや冊子が、
けっこうきびしい評価をした。
絵本に穴が開いていることから、
「絵本ではなくオモチャ」「子どもに与える感覚がわからない」
「物語がない(あるよ!)」などなど。
でも、別に絵本にレギュレーションがあるわけじゃなし、
紙のメディアの可能性を大きくひろげたことはとってもすばらしい思う。
オモチャでもいいじゃないか。
子どもは本物を見抜く。
この絵本が「ダメ」なら、子どもたちはとっくに見放しているはすだ。
だいいち、「よい絵本」「わるい絵本」という区分けは、
ぼくは好きじゃない。そのことは神宮輝夫先生から学んだ。
「ただ、この絵本はこういうところが好きだ」
ということをどんどんいいたい。
さて、平山さんの絵にもどろう。
最初にも書いたが、画面いっぱいにあおむしを描き、
なおかつあおむし自体のバランスがとれているのはすごい。
目と手のコーディネイションがいいのだろうな。
イチローみたいに。
彼女くらいの年齢だと、あおむしがとっても小さくなるか、
頭を大きく描き過ぎてすんづまりになったりしがちなのだ。
そして、この絵もまた他の月の絵に負けず劣らず
描き込みがすごい。
集中力と気力、心のパワーがなければこうはいかない。
さらに、ケーキや果物の表現も
よく見るとていねいで細部までこまやかだ。

鮮やかな色彩は、もちろん原作を参考にしているが、
これだけ何度も色をかえて描いていくのも尋常なことではない。
あおむしが、えらそうにしてもいいのだと思うのはそういうこと。
で、これだけがんばってもそんな疲労感はなく、
あおむしも太陽もみんなにこにこわらっている。
うーん、元気がでるぞ。
原画に似ていても、
ただの「写し」や真似ではないなにかをもっている。
それは平山さんの物語への思い、
それもピュアな思いなんだろうな。
子どもたちよ、やり過ぎてもいい。
というかやり過ぎなさい(人を傷けるのはだめよ)。
やり過ぎたための失敗はなにかを手にする。
やらなくてできなかったことは、一生ひきずる。
恋愛もしかり。「あのとき好きとなぜいわなかった」ってね。
はらぺこであれ! あれっなんかリンゴの偉い人みたい。


9月21日は宮沢賢治の命日。「賢治忌」である。
この日は朝から小雨だったが、ランドマークタワーに所用があり
東横線経由みなとみらい線に乗った。
移動のあいだ、ずっと『セロ弾きのゴーシュ』を聴いていた。
ランドマークの後、インターコンチで友人と複雑な話しをした。
雨はまだときおり、銀の糸のように舞い降りていたが
気になるほどではない。
港の見える丘公園にある神奈川近代文学館にむかった。
今は今月末まで寺村輝夫「ぼくは王さま」展と
常設展「文学の森へ 神奈川と作家たち」展
第2部 芥川龍之介から中島敦までを開催している。
たしか前世紀の終わりころだったか
「日本の絵本展」で司修先生の作品がでるということで、
ラボの「ゴーシュ」の絵でポスターをつくりたいという話が
この文学館から来たのを覚えている。
レセブションで司先生を前にして
あいさつをしたけど恥ずかしかった。

港は遠く雨に煙る。有機焙煎の珈琲と海苔とチーズのサンドイッチでランチ。
鎌倉、横浜を中心に神奈川に暮らした作家、文学者は多い。
彼らの原稿や資料を見ながら、
ことばを紡ぐという業にとらわれた者たちを思う。
「だれにも理解されなくても書き続けること」
それこそ人間の尊厳であるという勇気をそこからもらうのだ。
孤独も資質であるのよ。

その翌日は、わがICU Apostlesの公式戦初戦。
大井球技場にえっちらとでかけた。撮影のためである。
相手は一昨年は惜敗し、昨年は大勝した新潟大学。
ICU は選手30人弱。むこうは60名以上。
まあ、ICUは学生数も男子の数も少ないから
しかたがないのだけど…。
いまは一学年500名くらいだけど
ぼくが入学した1972年は同学年150名いなかったと思う。
多勢に無勢とはこのこと。
それでもなんとか逆転勝ちした。やれやれ。
その2週間前の文教大学との練習試合では大差の完封勝ちをして
いきおいがついていたが、公式戦となるとそうはいかぬ。
まあ、練習試合の勝ちなんて
「妹にするおやすみのキス」のようなものと
1979年にカンザス州立大学のコーチからきいた。

30名の選手に対してマネージャーは10名以上いる。
医療、練習時間のコントロール、事務、ビデオ記録など業務は多彩。
試合中はボール交換から水補給、負傷者ケアととにかく走り回る。
彼女たちもティームの柱である。

10月に入り、昨日も打ち合わせが二本も! あった。
12時30分に音響エンジニア富さん(牟岐先生が
信頼する技術者で、ぼくも制作時代に何回かごいっしょした)
と御成門で中華ランチ打ち合わせ。
それが順調に終わって1時間余裕ができたので、
南青山のスペースユイへ。茶畑和也さんの「ハートの時間」
の初日に顔を出した
茶畑さんは、昨年の大震災の直後からハートをモティーフにした作品を
「毎朝1枚」必ず制作しSNSで発表してきた。
当初、ぼく自身はハート? と思い、
富士山にもにた偉大な通俗、
あるいはcheepなギフトショッブの忘れ物的goods
(たとえば I ♥ TOKYOシャツみたいな)
のような戸惑いを覚えた。
でも、作者のストレートな思い、
さらに孤立を恐れない魂が継続を生み出し、
それがもう、太陽や星のように別の生きた存在として成立しはじめた。
ハートはときに、旅人になり、また恋人になり、
親子になり、戦士にもなり、詩人にもなった。
また、あるときには意味を拒否し、
情念を排除した記号絵画にもなった。
そして、さらにおもしろいのは、
FacebookというSNSで発表することで、
インタラクティヴなイラストコミュニケイション
ともよぶべきArt Actがうまれたことだ。
ぼくも意地になって毎日「いいね」したり、
ときには中原中也の詩を送ったり、
茶畑ブルーだ! とわけのわからぬ迷惑コメントをしたりした。
どうやら、毎朝のむサプリメントでもあるような気がする。
毎朝FBで見ていた絵がギャラリーにならぶと、
再会のうれしさと気恥ずかしさがある。
個展は今週の土曜日まで。
氏は金曜の午後以外は在廊とのこと。
ぼくは奥様がお見えになる土曜日の昼前にもういちどいくつもりだ。
茶畑さんと仕事をしてから、
もうずいぶんの時が流れた。また、なにかやってみたくなってきている。

神奈川近代文学館で
漱石山房原稿用箋を購入した。
漱石はプロの作家としての矜持をたもち、
官の世話にはならぬと、国からの文学博士授与も固辞した。
その分、連載をもっていた朝日新聞とは、
「守銭奴」と陰口されるほどの細かい契約を結んだ。
漱石は最初のプロ作家といってもいいかもしれない。
この原稿用箋は十九字詰という特殊なものだ。
そのころの朝日新聞が十九字詰だったからである。
漱石ははじめはGの金ペンで、後には万年筆で原稿を書いた。
「その万年筆は丸善の内田魯庵君に貰ったから」
「筆で原稿を書いたことは、未だ一度も無い」と
大正三年の大阪朝日新聞で
「文士の生活」というコラムに書いている。
近代文学館では、この用箋の木版版木、紙型を保持している。これは買い。
ちょっとはいい文がかけるかな。
無理か。
前のほうでちらっと書いた音響エンジニアの富さんは
今回のライブラリーの新刊音楽、牟岐礼先生の
録音とミキシングを担当されている。
ラボの仕事はおもしろいけど、死にますなあ。
140曲ですよ! と
ライオンのような巨体をゆすってわらった。
「でも、大作で、ほんとうにたのしみですよ」
だって。
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夏の終わりは、いつも駆け足で
後ろ姿しか見ることができない。
だからさみしいのだろう。
猛暑と突然の豪雨とわけがわからぬこのごろだ。
それでも、日々、夜が深くやさしくなってきている。
そして、空も少しずつ高くなさて、
地平まで巻積雲が続く日がある。
巻積雲は一時「絹積雲」と書いたが、いまはまた巻という字になっている。
いわゆる「いわし雲」「うろこ雲」ともよばれ、
かなり高い空におでましになるが、だいたいこの雲がでた
二日後くらいには天気がくずれる。
どうでもいい話だが、巻積雲は揮毫ではCCと書く。
ラテン語のシーロ・キュムロスの略だ。
で、ここで一句。
ごめんねと あしたいえるか いわし雲
さても、三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
いよいよ長月一日。八尾では風の盆だ。
絵は『すてきなワフ家』。
ヘンリーとアンの犬のきょうだいが、仲むつまじく描かれている。
作者は中谷幸聖くん(4歳/倉敷市・杉村P)。
「くん」と書いたが、最近の名前は
むジェンダーフリーでかっこいいのが多いから、
女子かもしれない。読みは「こうせい」「ゆきとし」?
中国支部関連の方、ご存じの方教えてください。
元になっているテキストの絵本は
永田武丸(ながた・たけまる、みよまる=本名)氏による漫画。
氏は「のらくろ」の田川水泡氏のお弟子さんであり、
「ときわ荘」の住人ではないが、通っていたメンバーのひとりである。
したがって「おばQ」の藤子不二雄氏とも関係が深い。
テキストはモノクロであるので、
着色は中谷くんの想像であることはいうまでもない。
おそらく、向かって左がヘンリーでバイオレット系でぬり、
右がアンでピンク系にぬったのだと思うが、
今の子どもたちは、
ほんとうに色彩に関しては解放されていてうらやましい。
絵でもファッションでも、
少し前ではタブーだった色の組み合わせや
柄のコーディネートがおおあり名古屋である(古)。
テキストのコミックがモノクロなのも幸いして、
中谷くんはまったく自由な色で犬のきょうだいを描いた。
昔の小学校なら「紫やピンクの犬はいないでしょ」と
平気で指導された(今もあるらしい!)ろう。
何度も書くが、絵は基本的に自由である。
人間にとっての自由、表現の自由が最も明確に、
力強く、深く示されるのは絵画であろう。
絵は空間的であるが、じつは音学的でもあり、
ときにはゆたかな語りももっているからだ。
好きな物語をてらいも計算も、「うまく描きたいという」欲もなく、
思いだけで描かれた幼い子の絵には勝てない。
あのピカソでさえ、
「やっと子どもように描けるようになった。70年かかった」
といっているほどだ。
この絵のすごさはまだまだある。
犬でも人間でも、生物を鳥瞰して立体的に描くのは
かなりの技術とデッサン力がいる。
フォルムをとることも難しいが、
疑似立体として見えない部分をつくることは
4歳では手にあまる仕事である。
だけど、ヘンリーもアンも好きだから
「全部描きたい」わけである。
したがって、こういうペッタンコな表現になる。
こざかしい3Dなど無視して、
「ぼくはこう見えてるんじゃ」と堂々と手足もすべて描いている。
そして、よく見れば、犬のブチ模様もきっちり描いてるのだ。
一見シンプルに見えるけど、
やはりあちこちこだわりまくって描いている。
こういう絵は、パッと見て、
「ああ、よくできたね」だけでは子どもにばかにされる。
すぐに「このおとなはアカン」と見抜かれる。
じっくり眺めていろいろ見えてくるのが絵画の本質だ。
むもちろん見た瞬間の感動とかショックもたいせつだけど。
ここまで書いたことは、ある意味、
4歳児の描画としては自然なのだが、
さらに中谷くんがすごいのは
全体のバランスがとっても見事できもちいいことだ。
そして、カレンダーの絵の規定サイズは大きいから、
中谷くんの肩幅より画用紙のほうが広いと思う。
それでも、画面すべて塗りきって余白がほとんどないのは、
この年齢ではすごい集中力と気力である。
ヘンリーが青ざめてアンが紅潮しているのも、なんとなくおかしい。
青系は男子、赤系は女子の色という文化が日本には近代以降(たぶん)あるが、
子どもが自然にジェンダーに帰属する選択をできるようになること、
すなわち男の子が飛行機の玩具をとり、
女の子がお人形を選ぶようになるのは
「性役割の獲得」であり、
このくらいの年齢から自然にできるようになっていく。
ともあれ、この作品への興味はつきない。
中谷くんにきょうだいはいらっしゃるのかとか、
どのくらいこの物語が好きなのかとか、
なぜこの物語を描こうとしたとのかなど、
しつこくインタヴューしてみたいと思うぞ。
原昨のラボ・ライプラリーが刊行されたのは、
なんと1970年。ぼくが入社する6年前にはリリースされていた。
42年前の作品であるが、
おそるべきかな今も現役で、
子どもたちに圧倒的に支持されつづけている。
その理由はいろいろあるが、
飼い犬のくせに人間を上から目線でみているという設定のなかで、
「ありそうでなさそう、なさそうでありそう」
というホームドラマが、
子どもたちをひきつけてやまないということが大きい。
家を建てたり、ピクニックにいったり、
風邪をひいたりといった曜日ごとに異なるエピソードの果てに、
大団円としては子どもたちが留守番しているところにドロボーが入り、それを子どもたちだけで捕まえて表彰される(Home Aloneはこれをパクッたんじゃないか)。
基本的にはピクニックも風邪ひきも、
子どもにとってはとっても大きなイヴェントである。
切実かつ身につまされる問題なのだ。
また、ワフ家は、父親、母親、息子と娘という
典型的Newclear Family=核家族であるが、
これも核家族なんていうAnthropology のことばが
一般化しはじめた1970年という時代を繁栄しているかもしれない。
ところで、かつて「らくだ・こぶに」氏と
私的な酒席でこんな話をしたことがある。
「ワフ家をテーマ活動しようとすると、
幼い子は自然と四つん這いになる。
でも、大人は二本足でたって擬人的にする。
たぶん羞恥心がそうさせるのだろう」
で、ぼくは、「何歳ごろから四つん這いでしなくなりますかね」
と問いかけた。
すると氏は「興味深い問題だ。ぼくにも考えはあるが、
君も考察してリポートしたまえ」。
それ以降、残念ながらこの話題にふれることはなかった。
でも、これは今でもとてもおもしろいテーマだと思っている。
まだまだつづくよ。

9月7日の金曜日、新宿に用があったので
ひさしぶりにラボ本社によった。
今夏、ニュージーランド交流の団長をつとめた林総務部長から
なかば脅迫的に依頼していたマヌーカハニーを受け取るためである。
マヌーカは先住民マオリのことばで英語ではNZ Tea Treeといわれる。
花は桃色のかわいいものだが、なにより蜜源として最高であり
味のよさはもちろん、健康効果も高いので大人気だ。
ぼくは第一回のNZ交流団長をしたが、そのときはほぼ毎朝食べていた。
林氏は、ぼくが関西支部で担当をしていた1976年、
尼崎の松本パーティのラボっ子で、中2のときからよく知っている。
だから、ひどい話だが、ラボという立派な会社の役員になられたいまも
先輩風をふかせて、「わかものフェスティバル」のチケットをとれとか
けっこう無茶ぶりをしている。
彼がいた松本パーテイの松本テューターは
事務局員の松永由里さんのお葉はさまであった。
その後、松本パーティはラボママであった天野テューターにひきつがれ、
天野パーティは、テューターが世田谷に移転してからも発展した。
現在活躍している俳優の佐藤隆太くんがいたのはこの天野パーティである。
一時の猛暑は少しおさまったときいえ、
金曜日の正午すぎの青梅街道は、アスファルトのてりかえしがひどい。
たたで蜂蜜をもらうのも気がひけるので
事務所の女性陣にと、中野坂上のドイツ菓子の名店「ジーゲス ウント クラウス」の
ケーキを2ホールぶらさげていった。
ウィーン菓子に比較してドイツ菓子はいまいち品がないという
とんでもない人もいるが
そんなことはない!
※林くんには先月の湯田中でかった味噌。
昼やすみおわりの16階に入ると
入り口すぐ左の相談室とよばれる小部屋野ドアに
「ラボ・カレンダーの絵」整理作業中と表示がある。
「ああ、もうそんなときなのだなと」とつぶやく。
リタイアした事務所にきて季節を感じるのもせつないが、
ラボの活動は季節感に満ちているなと改めて思う。
ラボの春夏秋冬を何回か経験して、
新人テューターも新入ラボっ子もその親も
身体にラボをとりこんでいくのだろう。
物語にも季節があるようにね。
季節感は、色彩や音などと同様に、いやそれ以上にたいせつだと思う。
日本のように四季がはっきりしている国でなくても、
たとえば雨期と乾期しかないところでも、
というか、そういう極端な地域の人ほど、
そのきりかわりの微妙な自記の変化を見逃さず感じてきたと思う。
もろん、日本のような美しく分割された四季のなかにも
さらに細かい季節がある。
古典的な二十四節気などは、その典型だろう。
茶室に少し早い季節の花を一輪そっと活けるなんていう技や
料亭で旬に少しだけ早い食材を出すのも
ひの敏感さのあらわれであり、季節をただ見送っていない、
ちゃんと見つめているという心意気であり
もてなしの心なのだと、ようやっとわかるようになった。
葛飾北斎(1760~1849)は生涯に93回も引っ越しをしたが、
そのつど、障子に季節の花を小さく描いていったという。
16階では木原教務局長としゃべり、吉岡さんにケーキをわたした。
そうこうするうちに時本社長がランチからもどられたので
社長室でしばらく世間話をしてから、
林氏に連れられて昼食に出た。
Hiroという最近できた中華屋だが
「黒酢の冷やし中華1200円 今日で終わり 来年はやりません」
という表示のある
やたら値段も態度も挑戦的な冷やし中華にした。
それが上の写真。
実に具だくさんで、麺もしこしこしていて
この夏いちばんの味だった。
なんて、平和なことをかいていたら、
こんなニュースがYAHOOにでた。
小4以下も英語必修、文科省検討 指導法を研究
:日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNNSE2INK03_Y2A900C1000000/
文部科学省は小学校低学年から英語を必修にする検討を始める。
昨年度から小学5・6年生で必修化したところだが、
社会のグローバル化に対応してより早い段階から発音などに慣れ、
コミュニケーション能力を高める必要があると判断した。
2013年度に専門家会議を設け、実施学年や効果的な指導法を研究する。
蒙小学校英語について書き出すときのがないのでちょっとにすねが
検討するのはいいけど、文科省のいうコミュケーション力とは
いまもって謎だ。
単なる会話力ではないとはいっているが、その具体性は不明。
たしかに要領だから、実紙マニュアルがあるわけではないからなあ。
でも、多くの学校でおこなわれているのは短い会話と歌とゲーム。
コミュニケーション力力なんて全人的な力だから、
母語とか原体験がしっかりしなきゃどうにもならない。
もちろん、外国語という新しい表現を学ぶことで育つものもあるけど。
でも指導要領の改訂はたぶん20019年で完全実施は2021年くらい。
とすると今年か来年生まれる小どもが小4になったとき必修になるんだろうか。
ともあれ、国家が指導要領とか国の検定教科書なんぞで
教育をコントロールするのは、もはや一部の国だぜ。
芸術省ち文化省はあってもいいけど。
もっと教育が自由であれば親も小どもも選択肢が増えるし、
教員の能力も高いものがもとめられるようになる。
国が教育目標をたてるのは基本いやだ。
さて、昨日の日記でョーヨォさんが
『うみのがくたい』に取り組みはじめたことを書かれていて
ぼくも大好きな話なので感想を送った。
その一部を紹介しておく。
この物語は、曽我と日本大震災による津波被害、原発事故、
エネルギー問題、竹島、尖閣諸島、北方領土などの
海の境界線の問題などを思うと
新たな意味をもちはじめているというか、
すぐに眠りにつこうとするぼくたちの頭脳に思考させようとしている。
以下は転載
ぼくも、このお話は大好きです。
ライブラリー制作の目標にしていた作品のひとつです。
江守徹さんの語りは、まだずいぶんお若いときの声ですが、
さすがというほかありません。
イブニングスターにしても「チュチュ」にしても
江守徹という、極めて個性の強い役者の姿は消えて
透明で抑制のきいた語りが自然にとどいてきます。
同時にしっかりとその物語における語りの位置を
きっちりとキープしているのもすごいと思います。
「チュチュ」が、あれほど子どもたちに支持されるのは
ナレイションが、常にチュチュの応援者であるからです。
チュチュと同じ高度で、一年生がんばれという語りであるため
子どもたちは自然に一緒にチュチュを応援してしまいます。
ぼくが、江守徹さんと直接仕事をしたのは、
『注文の多い料理店』ですが、
あのときも、若い二人の猟師を見事に演じ分けてくださいました。
よく聴くと二人には微妙なキャラクターの違いがあることが
感じられると思います。
『うみのがくたい』の語りも、
ぐっと抑制がきいたすばらしいものです。
嵐の場面や美しい夕焼けのラストなど、
ふつうなら、もっと朗々と謳ってしまいがちですが
子どもたちの想像が膨らむ余地をのこしているのでしょう。
さらに作品のもつ鎮魂、祈りというたいせつな要素を
語りも十分に汲み取っていると思います。
丸木俊先生とは、生前一度だけご自宅でおあいしました。
先生はこの絵本の絵に2年という時間をかけられています。
イルカやサメ、魚たちの動きがどうしても納得がいかず、
近所の「お魚博士」みたいな小学生に指導を受けたそうです。
ご承知のように丸木先生は「原爆の図」に象徴されるように
核兵器はもちろん、核エネルギーにも強く反対されていました。
いま、いらっしゃれば、必ずや行動されていたでしょう。
海は、命の生まれることろであり、
戦さや冒険、そして災害などで、多くの命が消えたとおろでもあります。
そうした海と命への鎮魂と祈りを思うとき、
今、また、この物語は時代的意味をもっていると思います。
その先のやりとりもおもしろいが
興味のある方はヨーヨォさんの日記をどうぞ。
http://www.labo-party.jp/hiroba/top.php?PAGE=yokoscjk&MENU=DIARYDETAIL&DIARY_ID=71737
今回は中盤ど楽屋オチが多かったが、最後はちゃんとしめよう。
※まだ続くかもしれんけど
天才浮世絵師、葛飾北斎は、
酒も煙草ものまずただひたすら描き続けた。
嘉永2年4月風邪をひき、いよいよ悪くなったとき
枕頭には娘や弟子たちが集まった。
北斎は
「ひと魂で ゆく気散しや 夏の原」と辞世をよみ、
「あと10年生きたいが、せめてあと5年の命があったら、
本当の絵師になられるのだが」
とつぶやいて息を引き取った。89歳であった。
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中冨雅之氏を偲ぶ。
突然ファンキーなチョイワル風なおじさまの写真に驚く人もおおいかもしれない。
不覚にも、作曲家であり、音楽クリエイターであり、
優れたピアニストであった中冨雅之氏が、
昨年11月1日に永眠されていたことを、今朝、偶然に知った。
享年63歳。肺小細胞がんによる1年あまりの闘病だったという。
昨年の11月1日といえば、ぼくは術後2年6か月の検査を受けてクリアした日だ。
ぼくは、毎日のようにお世話になった専門家の動向をチェックしており、
興味深い作品が発表されたり、個展や音楽会があれば
できるかぎりいくようにしている。
また表彰とか、亡くなったなどの重大な情報は
わかり次第、余計なお世話だがラボ本部に伝えるようにしている。
しかし、必ずしもリアルタイムでは把握できないこともある。
We Are Songbirds μの廣瀬量平先生の訃報は、
仕事にむかう途中、湘南新宿ラインのホームにむかう階段で
事務所からの携帯電話への連絡できいた。
ぼくは、一目もはばからずその場に立ってないてしまった。
中冨氏の件を今知ったのは、
残念だし、悔しいし、なにより自分のアンテナの感度の劣化に憤りをかくせない。
モテすぎるからだろうか、生涯独身を貫き、
父上とご母堂が他界されてからは、ずっとひとりぐらしだった。
氏を慕い、集う、友人や後輩は数知れなかったが、
あくまでも孤独を貫く人で、
それもまた魅力だった。
中冨氏は、ラボ・ライブラリー『西遊記』の音楽を担当、
シンセサイザーと中国の伝統楽器を融合させ、
かつビートのきいた作品は、
それまでのライブラリにはないパワーで
たちまちラボっ子を虜にした。
その後は、より実験的な「ソングバード ニューバージョン」なども制作、
ラボランドの、スプリングキャンプでライヴコンサートも行なった。
俳優の大友柳太朗氏を父にもつ端正なお顔の目は、
いつも少年の茶目っ気とアーティストの静けさが同居していた。
ただ、チェーン・スモーカーであり、
睡眠もほとんどとらず破滅的に仕事をする様に、
健康を心配する声は多かった。
12月のある午後、打ち合わせに南青山のご自宅に伺ったとき、
意外にはやく終ったので、食事をしましょうということになった。
「いい店にご案内しますよ」と中冨氏はいい、
いきつけと思われる店に「ふたりだけど今日いいかな」と電話された。
ところが、どこもパーティやら貸し切りでいっぱいである。
「おかしいなあ、どうなっているんだろう」
「そうですね」
「そんなにいつも混む店じゃないけど」
で、しばらくして気がついた。
その日は24日、クリスマスイヴだったのだ。
ふたりとも気づいていなかったのだが、
そのことがなぜかうれしかった。
最近、動向をきかないので、一度連絡してみよう、
なにか、おもしろいことができないかなと考えていた矢先だった。
サマーキャンプにも参加され、
手作り楽器を指導していただいたのもなつかしい。
その後で、二人で信州鎌の中村与平氏をたずねたとき、
中冨氏が「金槌を振り下ろす自分を見ている自分がいませんか」
とたずねると、与平さんは静かにうなずいた。
すると中冨氏は「ピアニストもそうです」と、
静かに続けたのだった。
合掌。

写真は2005年、今から7年前に訪れたニコル氏の「アファンの森」で。
8月9日の撮影だと思う。
『妖精のめうし』『サケ、はるかな旅の詩』『はだかのダルシン』のうちあわせで
黒姫のニコル氏宅を訪問し、その後で、かねてからの約束で
氏が案内してくださったときのものだ。
アファンの森は氏の事務所(その奥に自宅)から車で10分ほど。
森に入れるのは研究者が最優先で、
その次にブログラムにな参加する子どもたちであるが、
その多くはDVなどで心や身体が傷つけられてしまった子どもたちだ。
また、森にあたえるインパクトを極力少なくするために、
1日に入る人数に制限を設けている。
ぼくは、森に入るまで、
「まあ、いっても整備された森だから、さほど驚くこともあるまい。
いちおう、こちらもキャンプ暦は長いからな」
などと、無礼、不遜、かつなめきったことを心で思っていた。
ただ、森にニコル氏と入った瞬間、ぼくはうちのめされる。
確かに道は土だが整備されていて広い。
だが、森の精気というかオーラというか、
自然のエネルギーが、ものすごいのだ。
この鈍感なぼくでさえ、その霊気ともいえる
生ける森の力に圧倒され、ほとんどうごけなかったのだ。
ニコル氏が、「今日はショートコースで2時間くらい。でも
案内がいないとだめ」とおっしゃられていたのんよくわかった。
「生きている森」は、あらあらしく、気高いのだ。
その体験は「ダルシン」制作の力となったことはいうまでもない。
今日は、8月12日。
27年前のこの日、JAL123便が群馬県上野村御巣鷹の尾根に墜落し、
520名も命が犠牲になった日である。
ぼくは、この日を鮮明に覚えている。
なぜなら、朝から『黒姫山の学校』(9日間の長期キャンプが1985年、
86年に行なわれた。旧集雲堂近くに埋没していた昔の炭焼き小屋を
掘り出しで炭焼きを行ない。最後にその隅でBBQをしたりした。
また、途中でLLを離れ、戸隠で2泊3日のテント生活もするという
けっこうハードなキャンプであった)に参加していたラボっ子を引率して
黒姫山に登っていたからである。
事故のことは、夕方、下山の途中、おそらく黒姫スキー場までおりてきたころ
他の登山客の会話を小耳にはさんだのが最初だ。
ぼくは隊長として先頭を歩いていたが、ジクザグの隊列をふりかえり、
最後尾の大学生に「どこかで飛行機がおちたらしいぞ」
と語りかけた記憶がある。
そして、ラボランドに着いてからがたいへんだった。
登山隊を解散し(ほかにキャンバーはいないから出迎えもなし)、
すぐに風呂に入りたいところだったが、
たろう丸の二台ある電話が同時になった。
一本は本部からで、もう一本は参加しているラボっ子のお父さんからだった。
というのは、日航機が消息を断った後、墜落した地点がなかなか特定できなかったのだ。
そのため救助の開始にかなり時間がかかった。
この日航機の事故は、事故調査が完了し、過去のしりもち事故が起因となった
与圧隔壁の破損による操縦不能が主因とされている。
しかし、いまなお、墜落場所の特定の遅さ、救助開始の遅れなども含めて
いくつかの疑義がのこっていることも事実である。
ぼくがたろう丸で電話をとったときの状況はこうだった。
「JAL123便は、山梨件、群馬県、長野県の県境方面、
御巣鷹山付近に墜落したもよう」
それで、なぞがとけた。
本部もご父母も心配したのは、
黒姫山の麓にも御巣鷹山という山はあり、
そこの御巣鷹林道は、当時の黒姫登山のコースの一部だったからだ。
「いま、黒姫から下山したところですが
こちらは関係がないと思います。爆発音もまったくきこえません」
と報告して電話をきるが、
受話器をおいた瞬間に、また次の電話がなるというぐあいだった。
日がおちて、炎上する機体が発見され、墜落場所が特定されてからも
電話は続いた。
翌日、黒姫駅に新聞を買いにいき(テレビは本部にあったが
きわめてうつりが悪かった)、事故の重大さがわかった。
そして、帰京して出社したとき、もっと悲しい事実をきかされた。
東京のラボっ子の姉妹が、この便に乗っていたのだ。
その悲報と追悼は、当時の「ことばの宇宙」に掲載された。
去年も夏はせつない季節だとかいた。
8月11日は父親の本命日であり、
12日は、日航機事故の日でもあるからだ。
この日の体験は、とても他人ごととは思えない。
鳥が飛ばないような雨の日でも
人間は飛行機で空を行く。
飛行機は事故率からいえば、最も安全な乗り物であることもたしかだ。
しかし、ひとたび墜落ということとなると、
多数の生命が失われる。
航空業界はLCCなどの参加によりますます多様化する傾向にある。
経済性が安全生をうわまわっては、絶対にだめである。
ぼくは飛行機が好きだから、より強くそう思う。
ラボキャンプも国際交流も、この安全を最優先にしてきたがゆえに
今がある。
今年も全員の無事の帰国を祈念する。

写真は湯田中温泉にて。まるで「千と千尋」に出てくる湯屋だ。

いつもの旅支度。
一泊で、でかいカメラがいらないときは、基本はこれ。
Hunting Worldのバチューサーパスの肩掛けトート、
と同じくサーバスレザーのキヤリーオール。
季節感がないのははずかしいので、帽子だけはかえている。
昨年から愛用のヘリー・ハンセン。
別にブランド主義者ではないが、いいものは使いやすい。
撮影は8月8日、午前11時30分。東京駅長野新幹線ホームで。
7日から16日までが三澤制作所の夏休みである。
Facebookにもその旨を告知してある。
そうしたら、アップした瞬間に「17日の午前に打ち合わせいいですか」
とメールがきた。
「えーっ、それはしんどいなあ」というより前に
マネージャーが「はい、だいじょうぶです。ありがとうございます。
9時50分千代田線乃木坂駅、日比谷にむかって後ろの改札ですね。
かしこまりました」
と、速攻でスケジューリングしてしまった。
三澤制作所では、代表であるぼくのランキングは最下位だからしかたない。
やれやれ。でも、およびがあるのはありがたいことである。

この日記にこれまで載せた旅はほとんどが仕事がらみであるが
今回はまったくのプライベイトトリップだ。
お盆休み前なので、列車はまだすいている。
午前なのに、すでに30度をこえているだろう。
ホームから見上げるビルの窓に積雲がちょっとせつない。
真夏は、夏の終わりを予感させる。
長野までは、ほぼ90分の移動。新幹線おそるべしだ。
かつて黒姫にいくときも、
長野まで特急で3時間半かかっていた。
ご存じの碓氷峠をこえるためである。
峠の釜飯で知られた横川で15分ほど停車をして電気機関車を増結していたのだ。
長野についたら意外に涼しい。
長野駅のあるところは標高はそう高くないし大きな街だから
東京とかわらぬくらい暑いと覚悟していたがうれしいことである。

最初の目的地は飯綱高原。
この前日から、わがICUアメリカンフットボール部か゛
ここで夏合宿を行なっている。
差し入れをもって激励訪問というわけである。
酷暑の東京での練習で
「差し入れは、なにがいい?」ときいたら、
「夜の飯練=めしれん 用のおかず」とのこと。
要するにサイズの小さいプレイヤーは
食って体重をふやすのも任務。
夕食後、宿にご飯だけ炊いてもらうので、その友がほしいらしい。
ともかく、食べて動いて寝て、自分を追い込んで、
毎日ひとつでもいいから進歩してほしい。


飯綱高原は標高1100メートル。この日は肌寒いくらいだ。

練習をしばらく見て、偉そうにひとこと激励してから
豊野、信州中野から湯田中温泉へ。
ここは、ご存じ志賀高原の入口である。
1998年の長野五輪では、ハーフパイプ、回転競技の会場になった。
その、おかげで道路はとっても整備された。
湯田中温泉は、猿の入浴でしられる渋温泉や
地獄谷温泉などの多数の温泉の複合温泉郷である。
今回は、夏季休暇の旅なので、
のんびりお湯に浸かるのが目的。
夕食後、宿の女将が熱心に勧めるので、
裏口から渋温泉へと続く温泉街を、そぞろ歩いた。
地元との旅館や店舗が協力して、レトロな湯の町の夜を演出していた。
でも、それはあざとさがなく、
じつに自然だった。夕風は羽織を着ていても涼し過ぎるほど。
見あけると暗い夜空にこぼれ落ちそうな星くず。
夏はいつも駆け足だ。








翌日、
湯田中から高速長野道で信濃町ICへ。
3年ぶりにラボランドへむかう。
はじめて訪れた1974年からは、
ずいぶん風景も変わったが、山と風と光は忘れようもない。
ドライバーに細かく指示すると
「お客さん、なんでそんなに北信にくわしいんですか」と驚かれる。
「まあ、虎はいくら洗っても黄色にならないし、
パンダは何回温泉に入っても真っ白にはならない。
しみついたものは落ちないんだよ」とわけのわからぬこたえをする。
柏木立の旧五叉路の手前でマウンテンバイクのグループとすれちがう。
そしてグラウンドでは芋掘りのグループの帰路をおいこす。
LL入り口の手前で「最徐行でおねがいしますね。子どもたちがいますから」
とあたりまえのようにいう自分が少しさみしい。
今日は野外活動でLL内にキャンパーは少しだけ。
めだたなくていい。
ぐるんぱ城に株式会社ラボランドの久下社長をたずね
冷酒などを差し入れる。
そして、まよったあげく用意したお菓子などをもってたろう丸へ。
うまい具合に道上大統領が本部前でたたずんでいるので
声をかけると寺嶋村長もあらわれて、
なんだか大事になりそうなのですばやく差し入れを渡して立ち去る。
ハイロープと新しい集雲堂をながめてから、久下社長としばし歓談。
ちなみに、集雲堂の名の由来は『ポアンホワンけのくもたち』。
ラストシーンである。
また、全国から集まる若い志を持った仲間を
雲に見たててもいる。
滞在時間はおよそ120分。
車を呼んでもらい、仁之蔵でそばを食べてから14時10分の
長野行きに乗ることにする。本当はもう少し写真を撮りたかったが、
画像に残すといつまでもひきずるような気がしたので数枚にした。
これまで何回か書いたが、
「もう十分やったはずだ」とは何度も自分にいいきかせた。
だが、夏のここにいない自分が2年たっても、なぜかさみしい。
それは、たぶん、
子どもたちやシニアメイトやコーチたちが瞬間的に成長する姿を見て、
じつは自分がいちばん成長させてもらっていたんだということに、
離れてみて、ようやっと気がついたからだ。
しかし、人間(じんかん)いたるところに青山あり。
どこにも骨を埋めるべき場所はあるのだとも思いはじめている。
ちなみに、青山(せいざん)、すなわち「あおやま」は墓地のことである。
東京の青山墓地をはじめ、青山とつく地名は多くが墓所か、
かつてそうであったところだ。「青山土手から」というわらべ歌で「青山土手から東を見れば、涙がポロポロでる」のは当然のことなのだ。
よく「人間(にんげん)いたるところに青山」と誤読され、
さらに青山を活躍できる場所と誤解されるが、
正しくは、人間(じんかん)、すなわち人の世の間には
どこにも「墓所=骨をうずめるべき場所」があるということだ。
まあ、結果的におんなじような意味になってるんだけど。
出典は柳井の僧。釋月性の詩『將東遊題壁』からだ。
男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり
GREEN GREENだね。

ぐるんば城からたろう丸本部を観る。
たろう丸のたろうは、いうまでもなく、
ガールフレンドの誕生日に、
プレゼントをかかえ疾走するあの全力少年の名だ。
丸は本丸、二の丸などのように建物をあらわす。
さらに、古来より、りっぱに育ってほしいものには丸をつけた。
武士の幼名になんとか丸は多いし、船や刀にも丸はつく。
ようするに「いずれは立派になるのだよ」という祈りが丸にはある。

38年たって木々が大きくなったというのが、いちばんの印象かな。
ぐるんぱ城は、開営式のとき、最初に紹介される建物だ。
今は、どうかは知らないけど、
かつて、大統領か村長はこういった。
「大きいから、ぐるんば城です」

スポーツ選手がよく試合後のインタヴューで
「みなさんの声援がほんとうに励みになりました」とこたえる。
なんかそれって社交辞令だろうと思っていたが、
ハイロープを体験すると、ほんとうに激励の声が勇気をくれ、
身体も心も動かすということがよくわかる。

株式会社ラボランドの久下社長と。出会ってから38年。
ともにシニアメイトをしていた昔にフラッシュバックする。
お互い、けっこう遠くまできたけど、なんとかやってます。
ちなみに、鴻来坊は、鴻=コウノトの来る宿坊ということである。
実際にコウノトリが来るわけではない、
古来より、コウノトリは、西洋では赤ちゃんを、中国でも
遠くから幸運を運んでくる鳥といわれている。
日本でもインドでも、遠方から来る人は幸せをもってくるとされる。
すなわち、遠くから来た、外国のシャペロンや引率の先生をお泊めする
迎賓館なのだ。
ニコル氏がここにカンヅメになって『国生み』を書いたのはご存じの通り。
また、長年、ラボ国際交流に貢献し、アメリカ・カナダの交流団体からも
信頼の篤かったバーニーこと、バーナート・レーベンスピール氏の
遺骨の一部も、こここの庭にツインで植えられたオオヤマザクラの根本に
埋められている。
氏を偲ぶプレートも設置されたのでお参りした方もいらっしゃるだろう。
ラボランドには、城も丸も堂も坊もある。
建物の基本が用意されているのだ。

黒姫駅で電車をまつ。今はキャンプはほとんどバスだから
この駅を知らないラボっ子やテューターも多いだろう。
ここでも多くの出会いの物語があった。
短い夏旅が終る。
短いのは夏? それとも旅?
黒姫の 夏風にただ吹かれては
遠ざかる日々と頂きを観る
もう少し書くよ 更新中
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広島原爆忌。あの閃光は、ジオラマでも映画のセットでもなく、
戦時下ではあったが、普通に生活し、
いつものように暑い夏の一日をはじめようとする人びとが暮らす、
その軒先に炸裂した。一瞬にうばわれた日常。その不条理。
67年めの夏。「あやまちはくりかえしません」
という約束をわたしたちは守りきれるか。
バトンは確実に渡されねばにらない。
暗い記憶は忘却したくなるのが本能である。
しかし、忘れてはいけない記憶をどう伝えていくかは、
まず自らがどう考え、なにを表現し、なにを愛し、
なにが美しいのかを、きびしく問いかけるところからはじまると思う。
8月6日、これまではキャンプか国際交流で子どもたちとむきあっているか、スタジオで音とむきあっていた。でも、こうした問いかけを自分自身に発しながら、子どもたちにも、そして作品にも語りかけてきた。
今日は、世界中で、祈りととともに問いかけてほしい。
諍いのない世界に一歩でも近づくために。
ユズリハは漢字では𣜿葉、𣜿とも書き、ユズリハ科ユズリハ属の常緑高木。
古名はユズルハで、その名の通り春に枝先に若葉が出たあと、
前年の葉が譲るようにいっせいに落葉する。
家が代々続いていくように見立てた縁起物ともされ、
正月の飾りや庭木に使われる。
三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる。
8月葉月である。
絵は2010年11月にリリースされた
"John Manjiro Was Here"『ジョン万次郎物語』。
この年の10月末でラボを正式に退職し、
ぼく自身も新たな漂流にでた秋であり、
その意味では、制作にはまったくタッチしていないが、
ふしぎな思いでうけとめた作品だ。
三澤制作所といっても、所詮はなんの仕事もまだないニート同然。
とりあえず看板だけあげて、
海図も羅針盤もなく海にでた神無月の終わりだった。
それはともかく、ライブラリーのテキスト絵本で
絵を担当されたのは
高知の前衛アーティスト武内光仁氏。
この人のオリエンタルの風とユニバーサルな感覚が溶け合った
深みのある色合いの抽象作品がぼくは好きなのだが、
この絵本ではまた異なる境地への挑戦のようだ。
そのあたりのことは、また後で書くとして、
かんじんのカレンダーの絵についてふれよう。
作者は福山大翔くん(小3・世田谷区/高山P)。
おそらくは、万次郎たちが捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出されて後、
鯨と出会い、小型の捕鯨ボートで鯨とりたちが鯨と格闘するさまに
万次郎が感動する場面だろう。
原作の絵本にこの構図はないので「写し」であるはずもなく、
福山くん自身が「ここはオレが描く!」と、
想像力のスイッチをいれて描きあげたのだと思う。
絵の下半分以上は絶命寸前の巨鯨(いてぇーじゃねえか!
このやろうという声がきこえそう)なので、
全体に色調は暗い。
男たちのコスチュームがけっこうおしゃれなのがいいセンス。
これで黒ずくめの服で返り血とかあびていたら、
毎朝眺めるカレンダーとしてはかなりつらいかも。
しかし、とにかくすごいのは絵のパワーである。
パワーだけでいったら、全12か月のなかでも一番ではないだろうか。
逆にいえばパワーのみといってもいい作品だが、それがまたすがすがしい。
テクニック的なことをいっても意味がないくらいだ。
たとえていえば、アメリカンフットボールかラクビーで
タックラーを数人はねとばして独走し、
さらに腰に二、三人しがみつかせたまま
強引にタッチダウンあるいはトライ(家庭教師ではない)!
といったところだろう。
なんて書いてから、もう一度よく見たら、
海のなかとか空とかの描き込みはかなりしつこい。
このしつこさは、なかなかの技である。
でも、福山くん自身はあまりテクニックという意識なしに
いきおいで描き込んでいったのではないだろうか。
だとすれば、そのパワーの源はなにか。
さっきもいったように、原画にないシーンを描こうという時点で、
すでに創造への一歩を踏み出しているのだから、
それ自体がエネルギーのいる
ポテンシャルの高さが必要な行為だ。
その前に
「創造は模倣からはじまる」ということばを思い出してほしい。
これは世阿弥、ピカソ、間宮芳生先生など
各分野の名だたるアーティストが共通して語り
そしてSENCHOなどの野蛮な凡人ですらいっていることで、
「テーマ活動」の本質もそこにあるわけである。
だから、その模倣のために何度もライブラリーを
聴くことがたいせつなのだ。
話がそれついでに続けるが、
たとえば書家をめざすものは褚遂良(ちょ すいりょう)の
『雁塔聖教序』(がんとうしょうぎょうじょ)などの、
これはもう漢字楷書の最高のお手本を臨書する。
※臨書はざっくりいうとお手本をよく見てその通りに書くこと。
ほんとはそんな単純じゃないけど。
これは、玄奘三蔵が貞観19年(645年。日本じゃ大化の改新)に
インドから持ち帰った仏典の翻訳を進めていた際に
皇帝の命令で書かれたものだ。
玄奘の出発年については複数の説があり、
現時点では確定説はない。
帰国についても異説はあるが、この645年という数字が
さまざくな資料から、まあ信頼できるといわれている。
掟やぶりの密出国した玄奘は、
帰国時には許され、大歓迎のなかを帰朝する。
玄奘は教典の翻訳を願いでるが
皇帝太宗はその条件として、
旅の記録と通過した各国の情報をリポートせよと命じる。
まあ、諜報記録ですな。
それが『大唐西域記』だが、
これは玄奘が自らのメモをまとめ
翻訳に参加した弁機という僧侶が編纂を手伝ったものだ、
それによれば玄奘の帰国は
「正月七日、玄奘四五歳の男ざかり」とある。
確かに陝西省博物館にのこされている玄奘の画をみると
180センチはゆうにあるたくましい身体、
目鼻の通った顔立ちと意志の強さがみなぎる眼差しで、
そのカリスマ性を今に伝えている。
玄奘は110か国以上を旅しているが、
一歩、唐の国から出たら、中国語はほとんど通じなかったはずだ。
しかし、『大唐西域記』を見ると
玄奘はたいへん尊敬され、留まってほしいと懇願されている。
少し前に新井白石のことを書いたが、
玄奘もまた、「人間どうしならコミュニケイション可能」
というポジティヴな確信を持っていたのだと思う。
また、彼は肉体的にも超人的である。
玉門関をでて挑むタクマラカン砂漠は、
ヘディンの探険記でも名高い危険地帯で
「天に飛鳥なく、地に走獣なし」とよばれた空白地帯だ。
逮捕状も出ていた玄奘は
灼熱の昼間は休み、気温が急降下する夜間に行動したらしい、
また、海抜マイナス200メートルというボクドオラの盆地に枯渇し。
さらには標高4000メートルをこえる高原では高山病にもなやまされただろう。
そうした、さまざまな玄奘に襲いかかる自然の脅威は
妖怪や変化となって『西遊記』に登場することになる。
そして、玄奘の強力なキャラクターは
そのパワーゆえに分裂し。
闘争心が孫悟空に、
煩悩やさまざまな欲望(あれだけ生命力があれば欲望も強いはず)が
猪八戒にというように、
異形の弟子たちに変わったのではないだろうか。
だからのこった三蔵は、まさに赤子のような
信仰心だけの無垢な存在となったのだろう。
『西遊記』は、のもともともは寺で行なわれた仏教説話である。
それが後に独立して縁日の講談などの芸となっていき、
話もよりダイナミックになっていった。
それを呉承恩という人が小説にまとめたのだ。
で、『雁塔聖教序』は
皇帝太宗がその功績に対し「聖教序」(序)の文を作り、
皇太子であった高宗も「述聖記」(記)を作文した。
碑文はこの「序」と「記」で、二碑に分かれており、
両碑を総じて『雁塔聖教序』と称し、
西安の大慈恩寺内の大雁塔に現存する。
保存は極めてよい。
ぼくも1989年の中国交流の副団長として西安にいったとき、
この碑文みたが、人様に見せる字を書くことが不可能なぼくでさえ。
すげえなあと思った。
これを皇帝の命令で描いたのが褚遂良という書家で、
『雁塔聖教序』は、書の歴史上、最も洗練された楷書だという。
そのことを後で知って、ぼくはさらにたまげた。
話をもどすが、すぐれたお手本となんども出会い、睦む。
すなわち「よく見」「よく聴く」ということがあって、
真似することがスタートする。
日本の公教育は、いつからかこの模倣に始まる学びを放棄してしまった。
なぜかといえば、評価がむずかしいのと、
教師の力量がすごく問われるからであり、
すぐれたお手本をそろえるのがコスト的にも手数的にもたいへんだからだ。
模倣はしょせん真似ではないか?
いやいや、模倣とは単にかたちやスタイルのモノマネではない。
その作品の底に流れる原作者の精神や思いにまで
心をとばしてわけいっていくことである。
そこから、自分のスタイルが少しずつできていくのである。
その一番わかりやすい証拠は母語の習得だといえば納得だろう。
その自分のスタイルの萌芽のひとつが
福山くんのように表現されていない部分を表現したいという思いだ。
だから、創造への一歩と書いたのである。
ここまで読まないと意味が通らないひどい文である。
そして、その一歩は確実に物語へのエネルギーがなければ踏み出せない。
万次郎は男たちと鯨の、
生命のやりとりのダイナミズムに感動する。
で、福山くんもいっしょに「すげえぜ、かっけー」
と感動してしまったのだ。
さらに、万次郎の本質でもある未知なるものへの好奇心、
漁師というプロとしてのほこりにも
福山くんは心をゆさぶられた。
で、その感動力でおしきった作品なのだ。
これも、ぜひ担当のテュターにおききしてみたいが、
福山くんは「そんなに絵は好きではない」あるいは
「気がむかないと描かない」のではないだろうか。
もし、しょっちゅう絵ばっかり描いてる子だったらごめんなさい。
それと、この作品のこの場面を描こうと思った動機もきいてみたい。
東京支部の方、高山テューターをご存じの方、よろしく。
万次郎は、この後、鯨油だけとって、
肉を捨ててしまうアメリカの漁師たちに
「なんともったいない」とつぶやく。
そう、かつてアメリカは鯨油のために鯨を乱獲していたのである。
忘れんなよてめえら。まあ、お下品。
ところで、このライブラリーが刊行されたとき、
何名かのテューターの方から感想をもとめられた。
たぶん、この日記にも書いたことだが、
「まだ、二、三回しか聴いてないので
30回くらい聴いてからなにかいいます」
とおこたえした。
もちろん、それは本心からであるが、
すべての本音ではなかった。どきっ。
ぼくが、まったくの外部の人間だったら
それこそ何をいってもいいのだろうと思う。
しかし、34年あまりラボで仕事をし、
しかもその大半をライブラリー制作と機関紙誌編集に
責任ある立場で携わってきた者が
退職した直後に、自分が手がけていない作品について
軽軽にあれこれということは厳に慎むべしと決めたのだ。
前回の日記にも書いたが、
制作の現場を離れることについては、
多少の寂寥感はあったのものの、
ふしぎな安堵感と潮時感を感じたことは確かだ。
もう身をけずらなくていい、
そう心の奥底で声がした。
「死んでもいい」と思って仕事はしてきたが、
それはただの自己満足に過ぎない。
さらにいえば思い上がり。
作品は結果がすべてである。
そして、ラボ・ライブラリーの特殊性を考えると
組織から離れることは、
制作に参加する資格も喪失するのだと自覚した。
これが、もともと作家としてひとりでやっていた作業であるなら
恐らく、死ぬまで続けているのだろう。
しかし、これも前回ふれたように、
小さいが、またライブラリーとは異なるが
新しい自由と責任のなかで「なにかをつくる仕事」が
続いているのは、結局は
「そういう世界」から離れられない性なのかもしれぬ。
とはいえ、人は自分が居た道に後から来るものには
どうしても警戒、嫉妬する生き物である。
そのことも認識せねばならない。
冒頭にユズリハのことを書いた。
若芽がでたとき、前年までの葉はいっせいに落ちる。
同じ幹に若葉と前年の葉が同時に
長い期間繁ることは難しいのだ。
ライブラリーづくりは、まさにユズリハの世界かも知れぬ。
しかし、ラボの組織全体はそうではない。
大きく枝をのばした幹に常に若い芽と、
そこにやさしく養分を送り続ける昔からの葉が
みごとに同時に繁ることができる。
古い葉もいつかは散るが、それは枯死ではない、
自らその時期を決めて、幹のまわりを吹き渡る風になる。
※なんかの歌みたいだなあ。
『ジョン万次郎物語』がリリースされて3年近く。
あれからかなり聴き込んだ。
だからといって、まだまだへんな評論は書けぬ。
なぜかといえば、これは仕方ないことなのだが、
音楽のタイミングとかセリフの間とか
日本語の選択とか、英日の間とか、
ようするに細かいところが
「ここは、さすがにいいなあ」とか
「ここは、ぼくだったらこうだけどなあ」
と超個人的好みの問題になってしまうからである。
もちろん、ライブラリーの聴き手がどう感じるかは
まったくもって聴き手の自由であるが、
ぼくが、いちいち細かい感想を開陳することになんの意味もない。
絵はとくにそうである。
ライブラリーの主役はいうまでもなく音声、しかもセリフなのだが、
絵本はいつもみなさん気になさる。
もちろん、万人が気に入る絵などない。
また、テーマ活動をはじめる前は
じつはあまり好きじゃないと思っていた絵が
物語とともに大好きになることはよくある。
ともあれ、この絵については、
じつはぼくも武内氏の作品を知っているだけに
この画法にした背景をぜひ知りたいと思っている。
で、失礼ながら、ぼくはまだ、この『ジョン万次郎物語』の
制作資料集を入手しておらず、当然にも読んでいない。
頼むのを忘れていたというかなまけていたのだ。
というわけで絵についてはまたいつか。
渡辺俊幸さんの音楽は、ぼくのお気に入りだ。
「ロバのシルベスター」でごいっしょしたが、
夏休みを犠牲にしてつきあってくださったその誠実なお人がらは
音楽にもよくあらわれている。
氏がはじめてラボセンに打ち合わせに来られたとき
ラボっ子たちが、ライブラリーを聴いて
なんどもグループで再表現し、
音楽だけのCDで発表するということを伝えると
氏はたいへん驚かれて
「それは気合いがはいりますね」
と襟をただされたのを覚えている。
そして録音の当日、
作曲家の多くの方は、その音楽をどんな情景にあてる(そういう用語)
のかということはほとんど説明しないのに
(余分な情報をあたえずスコアの通りに演奏してもらい
細かいニュアンスは作曲家が指示するから)、
渡辺氏は「ここは主人公が、ふしぎな石で…」
とじつにていねいに曲の説明をされたのが印象的だった。
「ああ、この方は演奏家と共有しながらつくるんだなあ。
こういう先生もいるんだと」
と感心したのがなつかしい。
そして、またひとりラボの応援者になってくださりそうだと
よろこんだのだ。
ご存じの方も多いが渡辺氏のHP
↓下は「万次郎」のことが書かれている
http://blog.toshiyuki-watanabe.com/?eid=1094692
↓下は「シルベスター」についてふれているラボのことも
http://blog.toshiyuki-watanabe.com/
そうそう、アーサー・ビナード氏の英語が
リズムがよく、かつ平明で力強いのはうれしい。
いわゆるむずかしい単語はないが、
じつに理知的できもちがよい。
これはまったく個人の感想。
さて、『ジョン万次郎物語』は、
ライブラリー初の伝記もの、ヒューマンストーリィである。
『シーザー』も『知盛』も実在だけど、まあ歴史ものだよね、
『大草原』も伝記といえば伝記だが、家族の物語だから個人の伝記
とはまたちがう。
伝記は伝奇であり、やはり個人の物語はおもしろい。
感情移入しやすいし、わかりやすい。
だから、児童館でも学校図書館でも伝記はとっても人気がある。
どこで調べてもまずまちがいない。
だけど、ライブラリーにするのはなかなかたいへんだ。
とくに近年の人物(万次郎も近年!)は評価が安定しないからである。
後の世になって意外な事実がわかって評価がかわることはけっこうある。
また、周囲が勝手につくったイメージと実際のギャップもある。
そこへいくと古典や神話・伝説になるとそうした心配はない。
第一、実在かどうかもわからないし、
ましてや神様を評価したところでどうにもならない。
古典や昔話に描かれているのは、
いつもいうが、人間の普遍的な真実であり
知恵であり、祈りであり、愛であり、悲しみであり
希望であり、生きる力であるのだ。
もちろん、万次郎に関しては研究が進んでいるから、
今後、より評価が高まることがあっても
株価のように下落することは考えにくいだろう。
その意味では安心である。
かつては、功なり名を挙げた人物については
Negative Imageは表現しないことが多かった。
でも、みんな人間であるから
なさけないところも、ドロドロしたところもある。
それだからといって、たとえば音楽家であれば
曲の評価が下がるわけではない。
というより、芸術関係の人物は
おおむねどこかおかしいほうが多い。
石川啄木の歌はぼくも好きたが、
啄木は大借金王で、そのせびり方や踏み倒し方は
さすが文学者というほどにうまかった。
しかも、その借金の使い道はすべて遊興費である。
周囲はその才能を惜しんで朝日新聞社で
長谷川二葉亭四迷の遺稿集の校正係という
重要な仕事を世話したが、
仕事は見事にやるものの給料を前借りして
遊郭に遊び、のこりは酒と本につかってしまう。
彼ははげしい写真ぎらいだったので、
現存する画像が極端に少ない。
みなさんが観るのは、よく教科書にのるあの一枚である。
あれは、とてもよくとれていて
繊細で内省的な抒情派歌人というイメージが
みごとに定着してしまった。
しかし、啄木の短歌はいつ読んでもいい。
好みを数首紹介する。
「一握の砂」から
石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
青に透く かなしみの玉に枕して 松のひびきを夜もすがら聴く
長く長く忘れし友に 会ふごとき よろこびをもて水の音聴く
今夜こそ思ふ存分泣いてみむと 泊りし宿屋の 茶のぬるさかな
葡萄色(えびいろ)の 古き手帳にのこりたる
かの会合(あひびき)の時と処(ところ)かな
下の一首は長男を生後3週間でなくしたときの啄木の慟哭。
かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり
啄木は26歳の若さで世を去る。
その2年前の1910年に起こった幸徳秋水らが拘引された
いわゆる大逆事件に、
新聞社勤務であった啄木は強い関心をいだいた。
そして翌年に逮捕された26名中11の死刑が執行されたとき
啄木は「日本はダメになる」とつぶやく。
私生活はハチャメチャな啄木であったが、
そのまなざしは常に時代を見つめていた。
大逆事件は、まさに日本が暗い道筋に入っていく
大きな岐路のできごとであり
天皇利用者たちが、その権力を侵そうとするものは死であるという
協力な恫喝であった。
※この大逆事件は半世紀後に再審され全員の無罪が確認されている。
このころに啄木がノートに書き綴っていた詩編が
死後、『呼子と口笛』として刊行されている。
明治の夜、住宅街は基本真っ暗であった。
同時代にいた漱石、鴎外、一葉などともに、
啄木もまた暗い闇のなかに立ち、
それぞれの立ち位置で時代をうつ作品をおくりだそうとしていた。
しかし、現実の進行はきびしさをまし
啄木は「時代閉塞の現状」という評論を書くが
掲載されることはなかった。
啄木のくだりの最後に「呼子と口笛」から
ぼくの好きな一編を
飛行機
一九一一・六・二七・TOKYO
見よ、今日も、かの蒼空
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
啄木が岩手で生まれた1886年といえば
万次郎はもう日本に帰国しており還暦を迎えていた。
そして万次郎が波乱の生涯を閉じたのは1896年。
啄木は12歳で盛岡尋常中学で
金田一京助と出会っていた。
金田一は啄木のひとつ上だったが親友となり、
成人してからも金田一自身が結婚するまでは啄木に金銭的支援を続けた。
万次郎がアメリカにいた時代は
『トム・ソーヤ』の時代とオーバーラップする。
そのあたりも興味はつきないが、長くなるので別の機会にしよう。


いきなりの家族写真で恐縮だが、
先週の土曜日、義父の一周忌法要が中野の宝仙寺であった。
前にも書いたが、宝仙寺は真言宗豊山派の寺で
本山は天空の寺、奈良の長谷寺である。
まあ、暑い日なので礼服はたいへんだったが、
とりあえずぼくは2日前に床屋にいった。
ななぜかというと、
6月9日に入籍した長男(神奈川・野田パーティ=先代OB)が
法要の寺がたまたま三澤の菩提寺であり墓所でもあるので
ぼくの亡くなった父と祖父母に結婚を報告したい、
さらに夫人を母親、すなわちおばあちゃんに紹介したいと
殊勝かつ泣けることをいっていたからだ。
撮影は本人たちの許可をとったけど、
あんまりプロフィール的なことをばらすのも
まずくはないが、どうでもいいことなので書かない。
ただ、4年の交際であり、4歳年上の夫人である。
電撃入籍といい、年上の落ち着いた夫人といい
「まるでイチローか松坂だな」というと
むふふ、と不適にわらっていた。
さすがにわが息子である。
とも働きであり、超多忙なので今のところ新婚旅行のめどは
たちそうもないらしい。
「年上の女房は金(かね)のわらじを履いてでもさがせ」
とは古来いわれることだが、
その旨をあとで母親にいうと、
「あれは『一つ年上の』が正しい」と
ぴしゃり。
でも、いいおじょうさんじゃないのと笑ったのでほっとした。
出会える人の数よりも、別れる人の数が増えてきたと
昨年、母親はぽつりといった。
ああ、だれにもいつかはそういう日が来るんだなあ。
と妙な共感をしてせつなくなった。
そして土曜日、母は
「でもこの年になって、こんなすてきな出会いがあるんだわね。
ありがたいことよ」とやわらかなことばをそっと置いた。
ぼくは、ああ、永久にこの人には勝てんなと思った。
長男夫婦は、縁あって親戚の小さなマンションが空いているというので
ちゃっかりとそこに住むことになって引っ越しもした。
4階建ての4階でエレベーターがないとぼやいているが
場所は目白台で若夫婦にはもったいないくらいだ。
唯一のこった都電の駅も近くにあり、
雑司ヶ谷の墓地も遠くない。
この墓地には、多数の著名人の墓があるが
万次郎の墓所もここである。
息子の新居に行く気はまったくないが
万次郎の墓参りにはいってみようかと思っている。
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写真は母校、International Christian Universityの教会遠景。
つい先日まで、雨の京都だ、箱根だ上高地だと、ふらふらしていたら、
あっとうまに祇園祭も過ぎて、梅雨前線も北へ去って
いきなり真夏になってしまった。
ラボの季節である。
ひろば日記にも、Facebookにも
「国際交流出発」の書き込みが目立つようになった。
ラボランドにも事務局員の先発隊が入村している。
ラボっ子たちはもちろん、テューターも事務局員も
心の筋肉を増強できる季節がやってきた。
夏はやっぱり特別なシーズンである。
※夏にさぼると、秋にひどい目にあう。
人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と
若き春から老いの冬まで、季節と色にたとえられるが
やはり夏は燃えるマゼンダなのであるよ。
ちなみにマゼンダはカラー印刷の基本となる4色CMYK
のうちに赤である。Cはシアンで青。Yはイエローで
Kは黒(BLという場合もある)。
インクの顔料のもとは鉱物や化学物質である。
もちろんインクそのものに害はなく、
絵本を舐めても害はないが(ても不衛生だからやめましょう)、
インクを洗浄する薬品の取り扱い時に換気不十分なために
胆管ガンを発生させた事例があきらかになったのはショックだった。
印刷という、世界三大発明(あと二つは火薬と方位磁針)のなかでも
文字や絵の可視的表現を広範囲に、
しかも未来まで伝えることができる技術が
それに携わる人間の命をおびやかすとは悲しい話だ。
もっと、この件は印刷会社の経営体質、労務管理に
問題の根源があるようだ。
印刷の歴史はほんとに古く、
東アジアでは、2世紀ごろ中国で紙が発明され、
7世紀ごろには木版印刷が行なわれていたといわれる。
さらに11世紀には陶器による活字を使った印刷が行なわれていた。
金属活字による印刷は13~14世紀の朝鮮(高麗)にあらわれている。
現存する印刷物で、製作年代がはっきりと判明している
世界最古のものとして、日本の百万塔陀羅尼がある。
ヨーロッパでは、1450年頃のドイツの
ヨハン・グーテンベルクによる金属活字を用いた
活版印刷技術の発明で印刷が急速に広まったのは知られた話である。
カラー印刷はこの4色の網点の割合の変化で
ほぼすべての色が表現できる。
とうしても中間色がだしたい場合は特別の色を加えて6色で
印刷する場合もあるが、そうなるとコストがドンとアップする。
家庭用のプリンターも6色インクものと4色のものがあるが
6色のほうが色彩表現力は豊かだ。
話はずれるが、家庭用のプリンターは今や激安で
一万円台でも十分美しい写真印刷ができる。
ところが、家庭用プリンターは業務用ではないから
どうしても脆弱である。
ふしぎなことに保証期間がすぎるとこわれてしまう。
そうすると、修理費用はびつくりするほど高い。
買ったほうがいいことになる。
いまや、ブリンターは機械そのものの販売ははっきりいって赤字で
インクやトナー、ペーパーなどの消耗品で利益をだす構造になっている。
これは、専門家のOBからきいた話である。
さて、赤をマゼンダと書いたが、実際のマゼンダは
かなりピンクに近い色である。
判子のような真っ赤な色はM100Y100、
すなわちマゼンダとイエローを100ずつ、
CとKをゼロの配合にしたもので、
業界用語で「金赤」とよばれる。
これは江戸切子(ガラス工芸)で、
赤の色を発色させる為に金を使用したことに由来する。
で、この金赤は広告ものには、
どこかに使用するというのが基本である。
しかし、高級感を出す場合は逆に使用を避けることもある。
そうそう、ラボ・マークをデザインしたのは
日本のほこるデザイナー・粟津潔(あわづ・きよし1929-2009)氏だ。
氏は絵画もグラフィックデザインも独学で学んだ。
それまでグラフィックデザインは広告の一技術であったのを
アートの領域にまで高めたのは氏の業績だ。
ラボ・マークは7つの円弧でできている。
すなわちコンパスを7回つかえば描ける。
外周の大きな円はとぎれているようだが
あれは白い線で「塗られている」のである。
7つの海、そして人間の口蓋を連想させる
すばらしいデサインである。
なお、ラボ・マークを印刷する場合の指定色は
カラーであればC100、モノクロならBL100である。
グッズやシャツなどに別の色が用いられることもあるが
基本的に公的な文書、テキスト、パンフなどは
すべてC100か黒のはずだ。
さて、
昨年も書いたが、
またこの季節をなんとかやり過ごさねばならぬ。
ラボから遠ざかって、もう3年近くたつのに、
現在はやるべきことが多々あるのに、
ラボの夏活動の場にいない自分が、なぜかさみしい。
「もう十分やっただろう」といいきかせる嘘はなんどもついた。
キャンプも国際交流も、未来ある子どもの安全確保という
絶対的条件のうえに成り立つ活動であり、
テューターはもちろん、プロである事務局員は
なみなみならぬ緊張を強いられる。
しかも、安全だけにとらわれた「ことなかれ主義」は
問題外であり、企画力、経験、技術、
子どもたちと一個の人間としてむきあう力がもとめられる。
ラボの夏は、その「つらさときびしさ」が自分成長させてくれる。
ぼくは心の底で静かに思うのだが、
夏活動で子どもたちは大きくなる。
それはまちがいない。
その伸び幅はすさまじい。
だが、じつはいちばん成長しているのは、
その子どもたちと向き合う、シニアメイトではないか。
さらにいえば、事務局やテューターというおとなたちが、
子どもたちやシニアメイトたちによって
もっとも成長させてもらっているのではないか。
きっとそうだ。
だから、そこにいない自分がさみしいのだ。
プロスポーツ選手が、なかなか現役をあきらめきれない心情が
この年になって、やっとわかるようになった。
ともあれ、
この夏活動に参加するすべてのラボの仲間の
安全と健康と大いなる成長を祈念してやまない。
ふりかえれば、ぼくが最初に事務局シャペロンとして
国際交流参加者を引率したのは1978年。
ミシガン州であった。総勢75名。
ぼくは入社2年目で関西支部の組織担当者だった。
まだ25歳である。
その年の1月、突然、東京の本部に出張してこいと
当時の総局長に指示された。
「どんな仕事ですか。研修ですか」
「いけばわかる。朝一で財団にいけ」
当時は、そんな無茶もありありだった。
そこで、指定された前日に上京し、実家(現在の三澤制作所)に泊まり
9時ちょうどに財団本部に出頭した。
すると専務理事の石川氏(知っている人はいるかなあ)と
S原財団理事長から
「三澤くん、きみはこの夏アメリカにいってもらう」
とあっさりいわれた。
ものの5分。
それで出張は終わりである。
いまでは考えられぬもったない話であるが、
それほどシャペロンという仕事はたいへんなことだったのだ。
ラボ国際交流が始まってまだ7年目で、
25歳のガキがシャペロンになるなんてことは、
当時のラボではかなり異例だった。
※自慢のようでやだなあ、と、自分で書いてて思う。
秘密にすることでもないのでぶっちゃけるが、
そのころの事務局シャペロンは
基本は英語が堪能で、ほぼ毎年担当している
固定的なスタッフがまず中心にいて、
ブロックのリーダーをつとめていた。
そのほかの事務局シャペロンは
年功に応じてといったら語弊があるが
ラボで組織活動で経験を積んだ方が
順番で参加するという、いわば「名誉シャペロン」的要素があった。
のこりのメンバーは当然にも各地のキャンプ要員。
なかでも若手は、まちがいなくキャンプ。
だから、
年明けの事務局の話題のひとつは
「今年は、○○さんがアメリカじゃないか」みたいな
シャペロン予想だった。
円とドルの為替が変動制になっていたとはいえ、
まだ200円以上だったころである。
仕事だろうとプライベートだろうと
海をこえて旅するのは一大事だったのね。
その夏、1978年といえば成田空港開港の年である。
ぎりぎりまで反対運動が行なわれていたため
見送りや出迎えがものすごく制限されていて
空港内はセキュリティ要員のほうが多いくらいで
とにかくガラガラで、ロビーのイスも座り放題だった。
そのころは成田集合ではなく、
代々木のオリンピック記念青少年センターに前日集合し
オリエンテーションと州別活動を行ない、
翌日、バスで成田にむかった。
ご父母の見送りもこのOMYCまでである。
そしてフライトはなんとチャーター便。
TIAというチャーター専用会社。
名機といわれたあのDC8である。
現在のエアバスに比較したら2列2列の
ほとんど潜水艦のような機内。
イリノイ州とオハイオ州とシカゴ・オヘアまではいっしょ。
当時はアメリカにいくにはアンカレッジ経由である。
給油のために着陸するのだ。
ぼくは同乗した二名の先輩事務局員の指示で
いちばん前に座り
客室乗務員のパーサーであるドイツ系の女性のアナウンスを
通訳してラボっ子にアナウンスするという役目をおおせつかった。
そして、神よ仏よ、飛行機は無事離陸し
機内食もすんだ。
チャーター便だから、マイクもつかえるので
パーサーにたのんで
「これから飛行機は地球の夜の部分をとびます。機内の照明をおとしますので
乗客は睡眠をとるように。機長からの指示です」
という、ほとんどやらせのアナウンスをしてもらい。
次にぼくが
「ラボっ子のみなさんは、おわかりと思いますが、
たいせつな情報なので念のため通訳します」と続けた。
パーサーもしゃれのきく方でウインクして協力してくれた。
その効果はてきめんだったことはいうまでもない。
さてもDC8はアンカレッジで給油をした後、5時間ほどの飛行で
シカゴ・オヘア空港に到着。
ここで3州はそれぞれの最終目的地にむかう。
国内線を移動するときは、さすがにどきどきした。
ここからは、だれも頼る先輩はいない。
後ろをふりかえると、73名のラボっ子、3名のテューターシャペロンが
ぼくを真剣にまなざしで見ている。
このとき、
「こんな若造が責任者でいいのか」とはじめてびびった。
準備から集合、そして出発まではあれよあれよのできごと。
シカゴの空港で自分たちだけの州になって
はっとわれにかえったということだ。
しかし、あわててもはじまらない。
準備をしてきたはずと腹をくくった。
なので、搭乗すべき国内線のゲイトで
案内のエージェントと予定通り出会えたとき、
やたらと饒舌に英語で話したのが、いまではなつかしい。
その初ホームステイ、初国際交流仕事は
あたりまえのことだが、きわめて強烈だった。
交流センターに提出するリポートとノートは
とんでもない量になった。やりすぎ。
それでも、なにか表現したりなくて、
撮影した写真にコメントをつけたノートをつくり
「風のミシガン」というタイトルをつけた。
中身はエッセイあり、できごとの記録あり、詩あり、考察ありという
じつに自己満足用。
でも、それから国際交流やキャンプにいくたびに、
写真とコメントをつけた記録ノートをかならずつくるようになった。
業務命令でもなんでもない。
でも、そうした作業が後の仕事のトレーニングになったことは確かだ。
それらのノートは人に見せることはあまりなかったが、
そんな活動を見てないようで見ている人がいて、
「こいつは制作みたいなことにむいてるかも」と思ったのだろう。
ふしぎなことたが、前述した「そこにいないさみしさ」は
ライブラリー制作については
自身でもおどろくぐらいあまりない。
その理由はたぶん二つくらいある。
ひとつは、文とか、絵とか音楽とか写真とか、
創作(とよべるものでもないが)したり、表現する活動は
今も三澤制作所として続いているから。
もうひとつは、ライブラリーというのは、
ラボのなかにいてこそ制作できるものであることを
身体で理解して納得しているからだ。
なんかわかりにくいのて、もう少し説明すると、
ライブラリーづくりは、「みんなで力をあわせて」
と「がんこにワンマン」のバランスの産物であということだ。
よけいわかりにくくなったが、
ティームプレーと強力な才能という相反するものが
ライブラリー制作のなかでは成り立っているのだ。
それに加えて、ラボ教育プログラムのなかで
全国の子どもたちがつくりだす組織活動があるからこそ
ライブラリーは制作可能なのだ。
基本的に芸術は「みんなでなかよく」なんてあり得ない。
画家にせよ、小説家にせよ、音楽家にせよ、
「世界一わがままで自分勝手」でなければ
意味がない。
でも、ライブラリーは芸術的な要素を多分にもつが
芸術そのものではない。
ここがむずかしいところだ。
しつこいようだが
全国のパーティの日常活動があり、
地区研があり、支部の研究があり、全国委員会があり、
事務局の研究があり、組織活動があり、
すべてのラボのもろもろの流れがあってこそ
ライブラリー制作という極めて贅沢な仕事は成立する。
だから、そこに身をおいていない人間は
「専門家」という立場以外ではライブラリーづくりには参加できない。
ラボは、ラボ活動をしている者のなかにしかない。
ぼくは今、けっこうおだやかなきもちで
少しなつかしく
でも新鮮に、かつきびしく、そして楽しく、
ライブラリーを聴いている。

さて、前回も掲載したラボ・カレンダー7月の絵が再登場だ。
絵については当該の日記を読んでいただきたいが、
少し加筆したいと思い、また紹介したのだ。
というのは、
絵の作者である中本怜音(れおん)くん(小3・いわき市・志賀P)
本人と志賀テューターから、怜音くんとこの絵にまつわる話を
書いてよろしいというご許可をいただいのだ。
ぼくは日記でこの『太陽へとぶ矢』への怜音くんの思い入れが
尋常ならざるものがあると書いた。
そして、原子力という
人間がコントロール困難なエネルギーについての
問いかけがあるようにも感じると書いた。
それは、単なる反原発ではなく、
自然と人間、エネルギーと文明のようなもっと
大きなテーマへの言及だとも書いた。
以下に志賀テューター(シャペロンとして渡米中)からの報告を
抜粋して掲載したい。
れおんくんがこの作品を選んだのは
おそらく2009年に支部発表会での思い出の発表だった
からだと思います。
はじめてナレーターをつとめて嬉しかった、
と文集に書いてくれました。
それまでは甘えっ子だったれおんくんが自信をつけた、
彼にとってはターニングポイント的なテーマ活動でした。
絵は昨夏ジブリの映画を見て
そのなかに点で描写するすてきな油絵がでてきて
「ぼくもあんな絵が描きたい」といって描いたそうです。
(れおんくんママ談)
れおんくんは南相馬からいわきまでラボに通っていました。
当然震災後は避難を余儀なくされ、
横浜に転校し、昨夏おかあさんの実家のあるいわきに
母子で移り住みました。
今はお父さんと離ればなれで暮らしているけれども、
とても愛情を受けて育った子
で、ほんとうにいい子なんですよ。
2011年2月には妹がカレンダーの絵になったすばらしいご家庭です。
やはりすさまじい物語があった。
絵には魂がうつりこむ。おそろしい。
というより、魂がうつりこんでこそ絵である。
今、NO NUKES、反原発がひとつのムーブメントになっている。
いわゆる原子力ムラをめぐる醜い動きや
経営のために姑息なことをくりかえす電力会社については
さすがのぼくも侮辱された感じをもってしまう。
しかし、今、最優先なのは福島を中心とする
震災および原発事故からの復興である。
と、ぼくは思う。
個人的には、原子力と人間は共存が困難であると何回か書いた。
ひとたび事故になると、その毒性は万年レヴェルになるからだ。
しかし、原発も含めて、基地問題もそうなのだが、
現代の社会システムはきわめて複雑になってしまった。
その複雑さのあらわれの典型は、
それに関わることで家族を養っている人が多数いるということだ。
だから、
All or Nothingの即断的結論をだすことがむずかしい。
そのためには、原発にかわる代替エネルギー案を明確に提出して
息の長い、根気のいる議論と考察をしていかねばならない。
もちろん、電力会社も行政もデータは常に開示せねばならない。
「真実」に不都合もへったくれもないのである。
正しい事実がどうかだ。
瞬発力のあるデモやアピールをむだとは思わない。
しかし、もっとたいせつなことは
倦まずたゆまず、社会で考え続けていくことだと思う。
そして、緊急性の高さは福島にあるを忘れてはいけない。
8月初旬、ぼくはある用があって「いわき市」にいく。
そのときに、できれば怜音くんにあってみたいと考えている。


写真は2枚とも教会の横手で撮影したもの、
先週の土曜日がアメフトの夏練習初日であり、
激励にでかけたときに撮影したものだ。
下の写真は、ちょうど行なわれていた結婚式。
この教会では基本的に卒業生なら式をあげることができる。
はずかしながら、30年前にぼくもここで式をあげた。

さて、今日7月20日はアメリカのアポロ11号が
月に着陸し、人類がはじめて月面におりたった日である。
1969年のことだ。
ぼくは高校2年だったが、
西山千氏の「こちらヒューストン」
という無機質でちょっと個性的抑揚の日本語同時通訳に
「すごいことができる人がいる」と感動した。
たぶん同時通訳という職業がクローズアップされたのは、
このときがはじめてだろう。
とにかく、ぼくは人類初月到着より、
同時通訳のほうに心ひかれていた。
変な奴である。
でも、素朴に
「アメリカという国は、どこまで領土を広げたいのだろう」
と首をかしげていたことも確かだ。
ここで大岡信氏の詩を紹介しておく。
それで、この日記の変なタイトルの意味が少しわかるかも。
「私は月にはいかないだろう」
私は月にはいかないだろう
わたしは領土をもたないだろう
わたしは唄をもつだろう
飛び魚になり
あのひとを追いかけるだろう
わたしは炎と洪水になり
わたしの四季を作るだろう
わたしはわたしを
ぬぎ捨てるだろう
血と汗のめぐる地球の岸に
わたしは月にはいかないだろう

賢明なる読者のなかには
「なんでやたらとICUの写真が載っているんだ?」と
疑問に思われる方もいらっしゃるだろうが、
これにはチョットしたおとなの事情がある。
ICUは、学生の日本の大学満足度一位にランクされているだけあって
きびしいが学生の探究心を刺激するプログラムに加え、
東京ドーム13個分の緑豊かな敷地のなかに、
開架式図書館、研究棟、カフェテリア、男子寮、女子寮、男女寮、
日本庭園、教員住宅など、
学生数に比して十分過ぎるほどの施設が点在する。
ぼくも、ICUに行くたびに、
「こんなところで学べるなんて、なんと恵まれているのだろう。
ここで必死に学び、社会に貢献しなければバチがあたる」と思う。
しかし、残念なことにフィールドだけが関東ローム層の赤土で、
雨がふればドロドロ、乾けば砂嵐という極めて悲惨な状態である。
そこで、アメフトやラグビー、サッカーなどの
フィールド系クラブのOBが協議会をつくり、
来年度の建学60周年記念事業のひとつとして取り組めないかと、
大学事務局と話し合いを進めてきた。
そして卒業生中心に寄付金を募り、
総費用の半額を集めれば、残りは大学が用意して具体化する
という方向が確認された。
で、半年間活動した甲斐あって、なんとか目標を達成し、
来春には人工芝のフィールドで試合やPEができる運びとなった。
そんなわけで、大学の理解と協力に応えるために、
より多くの若者の関心を高めるべく、
というより、早い話、受験生を増加させるよう
ことあるごとに大学の宣伝をする次第だ。
なぜなら、かくいうぼくも協議会メンバーであり、
寄付金募集の発起人のひとりであるからだ。
そんなわけで、ICUの写真が載るのはご寛恕いただきたい。
大学によると、関東地方以外では知名度はまだまだで、
一昨年、秋篠宮家長女が入学して若干ニュースになったが、
いまだに集中治療室とまちがえらるというのは悲しい。

写真は教会前から正門に続く800mのマクリーン通り。
春に桜満開の下、「かせだま」さんがお立ちあそばしたところ。
夏は緑のトンネルになる。
遠近感を出すために写真がきらいなマネージャーに立ってもらった。
下は4月に日比谷潤子新学長を表敬訪問した際に、
学長室で撮影した大学旗。
広げていいるのはフットボール部部長で海洋生物学教授の
小林牧人先生。注=失礼なことをした。
ちなみに旗の青は、United Nation Blue とのことだ。

タイトルに「生かす力」「生きる力」とかっこつけたことを書いたが、
やっとその話題である。
「生きる力」の弱体化が叫ばれて久しい。
その強化は学習指導要領にも示されている。
だが、ここにきて、生きる力の語義を
もう一度しっかりと考える必要を感じる。
1996年に文部省(当時)中央教育審議会が
「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」
という諮問に対する第1次答申で、
我々はこれからの子どもたちに必要となるのは、
いかに社会が変化しようと、
自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、
主体的に判断し、行動し、
よりよく問題を解決する資質や能力であり、
また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、
他人を思いやる心や感動する心など、
豊かな人間性であると考えた。
たくましく生きるための
健康や体力が不可欠であることはいうまでもない。
我々は、こうした資質や能力を、
変化の激しいこれからの社会を「生きる力」と称することとし、
これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。
と述べた。
このときから、「生きる力」は教育の新たな目的の一つとして上げられるようになり
その後の学習指導要領の改訂時に総合的な学習の時間が創設された。
いわゆるゆとり教育の開始である。
たぶん、これを読んだ方は
「えっ、なにをいまさら」と感じたことだろう。
そう、そんなことは、ラボでは1960年代からいっていたのだ。
ただ、大きく答申とラボがちがうのは、
答申には「そのための具体的なプログラム提示や
ふみこんだ思想」はないが、
ラボには、人間の思惟・行動・文化などの基本に言語をおくという
思想を明確にだし、
外国語、物語、交流という具体的な活動を掲げているということである。
「ことばがこどもの未来をつくる」
は立派なテーゼなのだ!
※まあ、答申とは「こんなふうなこを基本に」
というだけのものだからしかたないか。
ゆとり教育についての是非論をここでする気はもうとうない。
というより、ぼくは文科省という国の組織が
教育をコントロールすること自体にずっと疑問をもっている。
ラボのような民間で子どもたちと関わろうと思ったのもそのためだ。
暴論を承知でいうが
国家が教育を全体的にどうこうしようという発想から
なんとか脱出していかないかぎり、
教育問題の根源的解決はむずかしい。
今話題になっている教育委員会もそこにつながることだ。
教育の独立は重要なことことで
某O坂市のように、パワーのある行政の長が
勘違いして「正しい教育」を導いたりすると
とっても危険だからだ。
ヒトラーも、みんな最初は「すげえ、いいこという力のあるリーダーだ」
と思っていたのだから。
まあ、それはいいすぎとしても、
日本の公教育の選択肢はもっとひろがっていい。
ぼくは、第1回ニュージーランド交流に団長として参加したが
そのとき、あちこちの幼稚園から小学校、中学、高校をまわって
とても感銘をうけた。
フィンランドの教育が註も喜されて久しいが
ニュージーランドの教育は、もっと注目されていい。
ネットで「ニュージーランド 教育」で検索すれば
山のようにヒットするのでぜひ調べてほしい。
とにかく、ほくが目の当たりにしたのは
子どもにも親にも、選択肢が多いということ。
教育委員会はずいぶん前に廃止になっていて、
学校と保護者と地域による評議会が運営していることが多いこと。
※その分、親も教員も意識の高さがもとめられる。
また、
机を一方向にむけた教室は、まったくなかった。
とっても全部は書けないが、
なかなか授業についていけない子どもへの配慮などは
子どものプライドも守りつつ行なっていて感動した。
そして、これはシュタイナーでもフレネでも
フィンランドでも、ニュージーランドでも、
メキシコ(今は停止しているメキシコ交流の第二回団長もした)でも
共通して感じるたひとがある。
それは、教育環境、教室、教員が、
芸術的であることを意識していることである。
それも子どもにtalk down、おもねたものでなく
全力のアートである。
近代芸術はもちろん、NZでは先住民マオリのアートが
メキシコではインディヘナのアートが
幼稚園ですでにちゃんと紹介されていた。
教育と芸術はきりはなせないものなのだ。
美しいものに感動する人間は
それだけで生きる力を得る。
しつこくいえば
心のなかに、その作品を生かすことで
生きる力を得る。
また、
いなくなった人も、心のなかに生かせば
死んではいない。
恋愛もまた、他者を心のなかに生かすことである。
他者を生かすことができないから
人の痛みがわからない。
心のなかに、人やアートや、人の悲しみやよろこびを
「生かす力」こそ「生きる力」のもとだ。
他を生かす能力こそ、生きる能力なのだと思う。
そのために、物語で他者の人生を生きる。
母語以外の言語の近づくことは
まぎれもなく生きる力の源泉である。
ラボ活動の社会的意義、ライブラリーの公的意味は
そこにも存在する。
と、いささか興奮して書く。はあはあ。
下の暑苦しい写真2枚は、わがアメリカンフットボール部
Apostlesの夏練習初日のようすである。
最近は二期制の大学は7月末が前期試験で
8月-9月が夏休みであることが多い。
そのため、サマーキャンプの準備班の大学生コーチが人出不足になりがち。
ICUは、三学期制で、6月20日過ぎには夏休みである。
といっても、夏休みにはいるとすぐ、多くの学生がSea Programで
海外にでてしまう。
そんなわけで、6月15日-7月14日の1か月がフットボール部の短いオフだ。
これから3週間、体力づくりと基礎練習を続け
8月8日からの長野で8日間の合宿をはる。
そして9月の2週からはリーグ戦である。


この土のグランドも、ようやく来春には人工芝になる。
最近の人工芝は天然芝にはかなわないもののクッションもよく、
ダストもなく、身体によい。やれやれである。
さて、冒頭に祇園祭りも過ぎて書いた。
かつて祇園祭をアメリカの学生に説明するとき
堂々と
「Onomatopoeia Festival」といった男がいる。
彼は今、社会的にたいへん立派な仕事をしているので
名誉のため名はあかさない。
ぼくは、すぐに突っ込んだ。
「それは擬音だろう。ドカーン」
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写真は上高地、梓川にかかる河童橋から観る奥穂高岳(3190m)。
ジャンダルム(gens d'armes,フランス語で憲兵。転じて前衛峰の意)
ものぞいている。
あまりにも有名な北アルプス・穂高連峰の雄姿だ。
奥穂高の右手には前穂高、明神岳、左手には西穂高がそびえる。
北穂高はこの奥のほうなので見えない。
また、意外なことだが穂高連峰は松本市内からは見ることができぬ。
おとなりの塩尻市からは可能だ。
撮影は7月3日の午前9時45分。この後、11時には小雨がふりだした。
きわめてラッキー。
7月2日から奥飛騨、上高地と一泊での弾丸取材があったのだが、
その話は後にまわそう。

先週の土曜日、6月も終るので三澤制作所のラボ・カレンダーをめくった。
1日フライイングだが、翌日は午前はお寺の施餓鬼、
午後は打ち合わせでいそがしいので、この日に実行となった。
『太陽へとぶ矢』"Arrow to the Sun"より。
原作絵本はこの日記の読者ならご存じの
アメリカのジェラルド・マクダーモット
(Gerald McDermott、1941ー )。
彼はこの作品で1975年のコールデコット賞を受賞している。
カレンダーの絵を描いたのは中本怜恩くん(小3/いわき市・志賀P)。
名前だけでは男子か女子かわからないけど、
たぶん男の子かなあ。だれか教えてください。
※その後、HITACHIさんから情報をいただき男子と判明。
ありがとうございます。
もとになった物語はNative Americanの共同体である
Pueblo の神話。
Pueblo を共同体と書いたのは、そのなかに20越える部族があるからである。
だからPueblo People、あるいはPueblosといういい方はあっても
プエブロ族というのは大雑把すぎる。
原画はNative Americanのアートによく見られる
モザイク調のデザインをベースにした洗練されたグラフィックだ。
この絵本は、後年、Native Americanの研究者から
批判を受けた作品でもある。
そのなかで重要なのは、キバが恐ろしい場所ではないこと、
またPuebloには、「おやなし子」非嫡子という概念は存在しない
というものである。
ただ、これにも意見が別れるところがあるので、
ぼくはこれ以上言及しない。
ラボ・ライブラリーは文化人類学の研究資料ではないので、
あまり歴史的整合性や時代考証にこだわり過ぎるとへんなことになる。
ただ、エスニックなストーリィをあつかうときは、
そのオリジナルの文化に真摯なリスペクトをもつことを
忘れてはいけないと思う。
また、文化の底にあるものへのsensitivityもだいじだ。
さて、怜恩くんの色彩ダイナマイトの炸裂は
けして原画にまけていない。
タッチも含めて太陽のパワーにまっこうから勝負している。
太陽のふしぎな力で生まれた男の子が矢となって
父親をもとめて太陽へとび、試練をうける。
色彩の迫力もさることながら、
やはり描き込みの「しつこさ」がすばらしい。
矢を射ようとする(たぶん老人)人物のプロポーションなどは
はっきりいってバランスがよくないのだが、
そんなことが「まったくどうでもいい問題」になっているのは、
色彩とタッチと描き込みの力だ。
しかし、このお話を怜恩くんが選んだ理由に興味がある。
この物語は「太陽信仰」が基盤にある。
それ自体は日本も含めて世界中の先住民がもつものである。
太陽のエネルギーはあらゆれ生命にとって命のもとであるからだ。
もちろん人間文化においても、狩猟にせよ農耕にせよ、
太陽の運行はなによりたいせつなものだったのだ。
この絵にはそうした太陽を象徴とする自然への畏怖を感じる。
うがったいい方だが、震災への鎮魂と災害のない世への
祈りのようにも思えてしかたがない。
さらに、ここから先はぼくのまったく勝手な解釈なので、
場合によっては無視してほしい。
今、人間がつくりだした「太陽」が大きな驚異となっている。
かつて原爆詩人・峠三吉は核爆弾を「呪いの太陽」と表現した。
この絵は空に輝く命の太陽への祈りとともに、
人間がつくりだした宿痾ともいえる「呪いの太陽」
への決別の宣言のようにも思えるのだ。
まあ、そんなへりくつはさておき、
この物語への思いの深さは、先月同様、
やはりなにか尋常ではないと思う。

大正池と穂高連峰。有名な立ち枯れの木々は、
今やすべて根からくずれて水没してしまった。時の流れおそるべし。
ところで、ちょっと反則だが読者へのお得情報。
ラボ・カレンダーの絵の題材で入選をねらうなら、
冬の月にふさわしい物語、場面を描く! である。
なぜなら応募作品か少ないからだ。
また、冬の物語、場面はライブラリーのなかにはさほど多くない。
だから、ねらい目。
でも、『てぶくろ』『ぐりとぐら』は
けっこう多いので注意。
まあ、こんなのは邪道情報だけど、
『雪渡り』とか『十五少年』とか『大草原』とか『ありときりぎりす』とか
白雪姫』とか見たいなあ。
『十五少年』や『まほうの馬シフカ・ブールカ』の絵を
担当された、かみや・しん先生は
「絵を描くのは心のトレーニング」とおっしゃったが
夏というキャンプや国際交流で心に筋肉をつける季節に
カレンダーでもハートをシェイプアップしてほしい。
ラボのカレンダーの絵のサイズはかなり大きい。
3歳児、5歳児の肩幅よりも広い。
これは体力的にも精神的にも相当な脅威だ。
でも、だからこと、一年に一度は
ぶっ倒れるくらいのパワーと集中力で絵を描くなんてのも
たいせつなんだというのが、あのサイズの理由だ。
そして、物語で学べるという幸せ、
絵を描いていられるという幸せに思ってほしい。
下の写真は大正池と焼岳。

私事で恐縮だが(いつも私事ばかりだから、いまさらか)
6月なかば、ちょっとした事件があった。
買い物を終えて三澤制作所に午後出社したら、
母の義妹(母とは仲良し)がみえていてひとしきりおしゃべりをした。
17時少し前に叔母を青梅街道のバス停まで送り、
さて今日は少し夕食が遅くなるかなと思っていたところにiPhoneがなった。
モニターを見ると「すばる」とある。
めずらしや長男からだ。
「おーっ、どうした」「報告があります」
息子はぼくとちがいむだなことはしゃべらず、必要なことだけ低い声で話す。
そして、少なくともぼくよりは勤勉で誠実である。
ぼくが入院したとき、
シリアスな病気であると最初に知らせたのは彼である。
誰に告げてもびっくりするから、どうしようと思ったが、
Dr.が息子さんがいるなら
それがいちばんいいですという助言にしたがったのだ。
「すばる」と名付けたのは、星が好きだったこともあるが、
呼びつけにされてもいい名前であることと、
ジェンダーフリーでいける名だという、なんか薄弱な理由からだ。
出典は「枕草子」(角川第239段・新潮236段、岩波 254段)に
星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ。
よばひ星、すこしをかし。
尾だになからましかば、まいて。
したがってF重工の車でもなければ、T村氏の歌でもない。
なにか用事があるときはたいていお互いにメールだから、
電話というのはちょっとドキドキする。
とくにこの二、三年、主な電話でのやりとりの内容は
葬儀とか法事とか墓とか寺とかのことである。
「6月9日に入籍しました」「おーっ、それはおめでとう」
さすがにびっくり。すばるは現在30歳であり、
4年前から交際しているM美さんという女性がいることは知ってはいたが、
えらく電撃的で、まるで芸能人のようである。
まあ、時間の問題とはうすうす感じていたが、
本人に、たまに「どうなんだ」ときいても、
あまりはっきりしたこたえはなかった。
だから、ぼくもそれ以上つっこむことはなかった。
ただ、ぼくとちがって、
なにごとも慎重に考えて大胆に判断する男なので、
住居とか仕事とか、未来とか、
自分たちなりの絵を描いてからのことだろうとは予想していた。
それから、入籍を決断した経緯などをきいたが、
じつに明確な説明があったので
「いやいや、それはおつかれさま、というか、あらためておめでとう」と、
こちらが狼狽してしまった。
ともかく、今は多忙な時期で、また夏には法事もあるので、
式は秋に小さくやるという。
その前に、すばるには祖母にあたる母にあいさつに来たいという。
「おふくろ、よろこぶよ。いつでもきなさい」「わかった」
結婚は基本的に配偶関係となるふたりの問題だ。
そこにいろいろ家のハビットとか慣習とかをもちこむと複雑になる。
まあ、家を継ぐことがたいせつな職業とかもあるから、
そうかんたんなことではないが、
結婚する当人たちの意思と愛情が明確なら、
親の介入は不要だと思う。
と、せいいいっぱいの祝福をこめて思う。
すばるくん、おめでとう。ちなみに「おめでた婚」ではないそうだ。

上の写真は河童橋。
このところ、週労2日が基本の三澤制作所のルールを逸脱している。マズイぞ。
さて、昨日は奥飛騨平湯に一泊し、
今朝は8時に上高地にむけて出発した。
昨日の晴天から一挙に天候がくずれる予報だったが、
朝早いスタートの甲斐あって奥穂高3190mやジャンダルム3162mを
のぞむことができた。
登山という行為、しかも初登頂というパイオニア登山を行なう理由として
「そこに山があるからだ。 Because it is there」は
登山家マロリーのことばとしてしられるが、
実際に彼が発したことばかどうかは未だに明確ではない。
ヨーロッパ最強の登山家であり、
人格者としても知られていたマロリーだが、
新聞記者のあまりにしつこい質問についに切れて、
思わず口走った一言ともいわれている。
そのマロリーはチョモランマで命を落とした。
彼が登頂したかどうかもまた、長年議論されてきた。
近年、白蝋化したマロリーの遺体が発見されてから、
その状況から判断して、
残念ながらマロリーは登頂できずに遭難したという説が有力だ。
しかし、登頂を完全否定するには不可思議な点ものこされており、
マロリーを愛する人びとは彼こそがチョモランマの初登頂者と信じている。

上は河童橋付近でさんざめく中学生諸君。
彼らはたぶん、前方に見える明神岳の麓の明神池まで行くのだろう。
さほどハードな道ではないが、ここから1時間30分9くらいかかる。
物語へのアプローチも登山に似ているところがある。
登りきったと思っても、見上げれば、
はるかに高い頂きが頭上にそびえているからだ。
そして、登る過程のなかで多くを学び、
登りきったときの達成感はすべての苦難を無化する。
さらに疑うことができないのは、
自らの手足で一歩ずつでしか
高みをめざすことはできないという事実。
ともに頂きをめざした仲間の絆は全人的だという事実。
さらにさらに、これらのことは
ラボ活動そのものにもいえるだろう。
教育活動は、成長して巣立っていくメンバーと
新しく生まれくる仲間が、常に代謝を続けている。
そこに終わりはない。
テーマ活動に完成があり得ないように、
ラボ活動にも完結、完成はきっとない。
完成といった瞬間にラボはラボであることを放棄してしまう。
そう、ゴールのないリレーをしているともいえる。
それはある意味苦しい、
でも、すでにたくさんのOBOGによって証明されているように
必ずバトンは受け継がれることもまちがいない。
下の三枚は奥飛騨平湯温泉にて。
線香花火は地元の若手スタッフが用意したもの。
なんか、もう、夏の終わりみたいなふんいきになり
変な空気になってしまった。



下は上高地帝国ホテル。ここのカマンベールチーズケーキは絶品。
もちろん、いただいた。
上高地の宿は、基本的に11月15日に冬期閉館に入る。
その前日の夜のパーティは大人気だ。

ラストは小雨に煙る国宝松本城。
戦国時代の城は荒々しい。

チョモランマの初登頂は
現在、公式的には1953年5月のイギリス隊、
ヒラリーとテンジンによるものだ。
次に1960年に中国隊が
登頂したが、これは証拠の問題で近年まで認められていなかった。
それまでは1963年のアメリカ隊が第二登頂だったが、
このとき、いじわるなメディアが
「もう初登頂でない山に登る理由はなにか」と尋ねた。
するとアメリカ隊隊長はこたえ。
「Because it is still there. そこに、まだ、山があるからだ」
これは便利。その後もチョモランマへは多くの登山家の憧れである。
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「花と女性を盗むのは罪ではない」
このおそろしく罪深く、わがままの極みともいえる、
盗人につごうのいいことばは、文豪ゲーテによるものだ。
写真は箱根ガラスの森美術館で撮影した薔薇。
※この日記を書き直しながら
『太陽の子パエトン』『プロメテウスの火』をきいている。
人間と火、人間とエネルギーについて思う。
人間がコントロールできない力があることも思う。
この日記で原発に関する論を書く気はない。
この広場の性格になじまないと思うからだ。
しかし、今、「たろう」のように
「アイスクリームがとけちゃう」という緊急の警鐘を
多くの国が日本にむけて鳴らしていることは無視できない。
ぼくは、個人的には原子力と人間が共存することは困難だと思う。
いったん制御できなくなると、その毒性は天文年レヴェルだからだ。
パエトンもプロメテウスも
今、大きな意味を新たにもちはじめている物語だ。
ゼウスはいずれ、人間がわずかな松明の火にとどまらず
原子の火をつくりだし、それによって繁栄と困難を導くことを
予見していたのではないだろうか。
先週、ちょっとした用というか仕事みたいなものがあり
箱根に行った。
水曜から木曜日にかけての一泊。
当初は悪天候が予想され、スケジュールがこなせるか懸念されたが、
低気圧の通過速度が速く、朝10時に新宿で降っていた雨は、
小田原を通過するころにますっかりあがって
陽がさしてきた。
このところ、四月と五月の京都行きは二回連続初日が雨で、
今回も80%の降水確率という予報であったため
ついにマネージャーやスタッフからは
「ボスは帰納法的に雨男」という
不名誉な烙印を押されかけていた。
とくにマネージャーからは
「三澤制作所の業務内容に雨乞いも追加しますか」
と真顔で皮肉をいわれた。

ともあれ、天気予報のうれしいはずれにより、
撮影をはじめとする外での仕事はどんどん進み、
自由行動ができることになった。
といっても片付けとか整理とか、めんどうごとがあるのだが
それは「よろしく」のひとことでおまかせして
実際はかなり冷たい視線を浴びつつ
そこにいても邪魔になりそうなおじさん二人をさそって
彫刻の森美術館にむかった。
箱根に行き、少しでも時間があると
ここには必ず立ち寄る。
はじめていったのは学生のとき、
その後は家族とも訪れたし、ラボの「ことば宇宙」の
"Magical Museum Tour"という
あきらかにThe Beatlesの曲名のパクリの企画でも乱入した。
そのときは、バルバおじさんとともに
長谷川バーティの子どもたちと1日をここで過ごすというものだった。
そのころは川崎に住んでいたので
箱根はじつに近い。
だもんで、その後もプライベイトで何度もでかけた。
昨年の11月にも入館した。
今回でもう20回目くらいだろう。
エントランスのエスカレーターで一気に下がると
上の写真にあるフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(1840-1917)
の「バルザック」がむかえてくれる。
昨年の日記に書いたが、無風状態だった彫刻界に新風を吹き込んだ
と、後年いわれる作品だ。
ロダンはフランス文芸家協会の依頼をうけ
7年もの歳月をかけて1898年にこの彫刻を発表した。
しかし、この作品はオノレ・ド・バルザック(1799-1850)
という大作家を一見ボロをまとったとように表現したと
評論家からも大衆からもきびしい評価をうけた。
ロダンは、それにぶち切れてしまい
「じゃあ、見せない」といって倉庫にしまいこんでしまった
といういわくつきの作品なのだ。
ここにあるのは、もちろん模刻、すなわちレプリカだが
強い意志で上を睨むバルザックは
その破天荒な人生、
社会をおおきくとらえる広大な視野、
欲望と理性、芸術と現実の暮らし、魂と肉体などの
相反するものを緻密にかつ鮮やかに描く作風、
といった
現在、われわれが知るバルザックそのものを描いている。
このバルザックは、ぼくみたいな小物には声もかけてくれぬ。
でも、ぼくはていねいに心のなかであいさつして
「あなたのように、人間の精神の内部をあばきだす文
がかけるよになりたい」とお願いしている。
それから、敷地のいちばん奥にあるピカソ館にむかって
緑のなかをくだっていく。
彫刻の森に来るひとつの理由が
このピカソ館である。
ここでいつも、
勇気とパワーと魂の視力を
激励と恫喝のなかでいただく。
パブロ・ピカソ(1881-1973)は、
いうまでもなく、ぼくなんが語るのも失礼な人類を代表するアーティストだ。
その作品全体から発するエネルギー、メッセージ、
フォルム、色彩、タッチ、すべてが圧倒的であり
いつもぼくはうちのめされる。
しかし、なんどでもひきつけてやまない魔力もあわせもつ。
で、これはぼくの個人的な思いだが
線の美しさという点でいっても、ピカソは最高だ。
大作も小品も油彩でも彫刻でも陶器でも
ほんとうに線がきれいだ。
それを裏打ちしているのは、
ひとえにすべてを見通す底知れぬ視力と、
無限ともいえるデッサン、
そしてなにより精神のパワーのポテンシャルの高さだろう。
※ピカソは多作という点でも世界一で、絵画だけでも35000点近くあり
版画にいたっては10万点をこえる。
作品展数では一個人のアーティストとしては最高である。
ギネスにものっている。
ピカソは数かずのことばものこしている。
そのなかで、とても有名な「七つの助言」を紹介しておこう。
1. 必ずできると信じろ
「思いついたことはできる。思いつかないものはできない。
これは避けがたく、明白なことだ」
2. 限界を超えろ
「私はいつも自分のできないことをする。どうやればいいのかわかるからだ。」
3. 「その時」を待つな
「インスピレイションは常に存在する。見つけにいくんだ」
4. 動け
「明日に引き伸ばせば、それは死んでしまう」
「行動がすべての成功の鍵だ」
5. 正しく問え
「他の人間はなぜそうなったかを問う。
私はいつも何ができるのか、なぜできないのかを問う」
6. ジャッジせず、隠された美を見ろ
「我々は脳をブン投げて、ただ目だけで見ることができればいいのだが」
7. 遅すぎるなんてことはない。
「若さと年齢は無関係」
いずれもピカソらしい、傲慢ともいえる自信と創造性にあふれている。
ぼくも、失礼ながら
ライブラリーづくりや「ことばの宇宙」づくりにむかうとき
心の底に置いていたことばたちだ。
とくに6番はたいせつだと思う。
それぞれに解釈していただいてかまわないと思う。
テューターの方にもはげましとなれば幸いだ。
絵画もライブラリーもテーマ活動も
ある意味、高度な遊びである。
日々の生存のためにどうしても必要なものではない。
また、絵は実体とは異なるし
物語は基本的にフィクション、虚構である。
でも、絵画も物語も、それぞれもつきつめていけば、
手ざわりある現実への大きな力になることはまちがいない。
夏目漱石も弟子たちにむかって
「体験がなければ小説なんて書けない。
だが、たいせつなのは嘘の枝葉をどれだけひろげられるかだ」
フィクションのもつ力を漱石は、そのように説いた。
そうしてみると
「ない・ない・ないの国」り
「うそっこ」は、じつに示唆にとんでいるといえる。
この恐ろしいピカソ館にたどり着く前の坂道で、
いつも、ひっそりと静かに息づいて出迎えてくれる
緑のなかの小さな彫刻がいとしい。

上の写真は『ゆきむすめ』の作者であり、
日本を代表する彫刻家である佐藤忠良(1912-2011年)氏の「マント」

朝倉響子(1925-)「女」

北村西望(1884-1987)「将軍の孫」
彫刻の森美術館といえばヘンリー・ムーアや
ニキ・ド・サンファールの大きな作品が名高いが、
じつはこれらのキュートな妖精たちもみのがせない。
みんな夜は歩いたり、おしゃべりしたりしているはずだ。

写真は芦ノ湖。
芦ノ湖といえば、東京箱根間往復駅伝競走、
通称「箱根駅伝」の往路ゴールならびに復路スタート地点である。
往路、天下の嶮を駆け登ってきた選手は、
この写真のように湖を右手に見ながら最後の力を振り絞る。
そして、ラストは芦ノ湖に向かって右折すればすぐゴールだ。
この右折からゴールまての距離は「えっ!」というほど短い。


そこからほどない湖畔の広場に箱根駅伝の記念碑がある。
写真は「箱根駅伝栄光の碑 若き力を讃えて」だ。
1996年の第70回大会を記念してたてられた。像
の高さは箱根駅伝の総距離の10万分の1にあたる214.7m。
裏面には歴代の優勝校名とタイムが刻まれている。
第1回大会では15時間以上かかっていたのが、
近年はほとんどが11時間台だ。
10時間台は3つだけで、
そのなかでも今年の東洋大学の
10時間51分34のいう記録はとんてもないぶっちぎりである。
像は「ストップたろう」が青年になってたらこんな感じというひたむきさと、
「メロスは黒い疾風(かぜ)のように走った」
という太宰の文が想起される緊迫感、
さらには殉教者のようなせつなさと尊厳さえただよって、
とってもよいのだが、なんと作者が刻まれていない。
現地のミュージアムできこうと思ったが不明。ネットでもわからない。

ある程度の年齢以上の方で関東出身者なら、
幼き日、下写真の「ひみつ箱」を
おみやげにもらって遊んだことがきっとあるだろう。


その意匠こそ、箱根がほこる伝統工芸が寄せ木細工だ。
江戸時代、ほぼ200年前、箱根小田原の畑宿にて石川仁兵衛が始めたとされる。
デザインの原型は箱根旧街道の石畳だったらしい。
種木は様々な木材を使用するため、材質も堅さも異なっており、
それらを考慮した加工技術には相当な熟練を要する。
6日午後、箱根旧街道のバス停「本陣跡」前で
店をかまえる浜松屋さんを訪ねた。
主は仁兵衛から数えて七台目にあたる伝統工芸士・石川一郎氏。
この日はノーアポでいったので一郎氏は不在だったが、
写真の弟さんがていねいに仕事を見せてくださった。
寄木細工は、「ひみつ箱」のみならず、
さまざまな生活道具、そして美術工芸品としてつくられている。
また立体にとどまらず、
美しい絵とみまごう木象嵌も寄木細工の技法のひとつだ。
なお、この日、ぼくは写真の12手であく「ひみつ箱」と、
小さなからくりオルゴール(ねじを巻き寝かせると鳴り、
ねじをある左下にして立てると止まる)を購入した。
曲は「世界に一つだけの花」。
82歳の母はSMAPのファンである・
理由をきくとジャニーズのなかで、
唯一内容のわかる歌を唄うからだそうだ。
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日記の続きを書こうとしたら、訃報をきいた。
新藤兼人監督が亡くなった。享年100歳。
数多くの作品があるが、
ぼくにとっては1970年、モスクワ国際映画祭金賞の
「裸の十九歳」が最も衝撃的で、新藤作品に注目するきっかけとなった。
故永山則夫の連続殺人事件をもとにしたモノクロ作品。
当時新人だった原田大二郎の演技がすばらしかった。
この映画を観た7日後、たまたま父親の車で成城学園を通った。
美しい並木道ほ信号で停車したとき、
横のガソリンスタンドで洗車をしながら談笑する
原田大二郎氏と夏八木勲氏をみた。
成城の5月の緑のなかの二人が、とんでもなくカッコよかった。
後年、制作の仕事をはじめてからは、
いつかこのお二人と仕事をしたいなあとひそかに思っていた。
話を新藤監督にもどす。70年にわたる監督人生は、それだけですばらしい。
しかし、長く続けることはけして価値ではないとご本人は思っていただろう。
常に、前作をこえるものをめざしたからこそ可能であった継続だ。
「裸の十九歳」を観たとき、ぼくは17歳だった。
ぽつぽつと、詩のようなものや短い文章のようなものを書きながら、
70年安保だとか、ベトナム戦争だとか
部落問題だとかを小さな頭で考えはじめながら、
「ことばとコミュニケイション」に関わっていきたいと
ばくぜんと将来を描き出そうとしていた。
合掌。
5月29日は歌人与謝野晶子の命日、白桜忌である。
晶子は恋愛感情を激しく歌ったことで知られるが
本日は堺市の生家を思うこの一首を。
海恋し 潮の遠鳴り かぞへては 少女(おとめ)となりし 父母の家

例によって、またわけのわからないタイトルだ。
だが、これは春活動をけんめいに取り組まれている
ラボ・テューター、ラボっ子、そして事務局員への激励タイトルだ。
夜明けの旅人は、暗いなかでも自らのベクトルと脚力を信じて歩き出す。
その一歩の積み重ねが、後に続く旅人たちへの道しるべになる。
ぼくは、テューターという仕事は基本的に孤独だと思っている。
もちろん、全国組織があり、支部があり地区があり、仲間がいる。
そしてライブラリーという無限ともいえる水源がある。
だけど、パーティでそれぞれの子どもたちにむきあうとき、
テューターは尊厳に満ちた孤独のなかにいる。
極端な話、単にパーティの運営のみならず
場合によっては子どもたちの人生にまでふみこまざるを得ないほどの
深い愛情をもって個々の子どもたち、および集団に関わるテューターは、
誤解をおそれずに書くけど、自ら深い孤独をかかえこむ。
だから逆に、子どもたちを物語を、そして仲間をたいせつにするのだ。
なんてえらそうだけど、
今月の14日で、14時間の大手術をうけてから丸3年が経過した。
これまで転移も再発もなく生きながらえているのは
ラボの関係者のみなさんからいただいてるパワーのおかけである。
あらためて御礼申しあげる。
さて、三澤制作所のラボ・カレンダーをめくった。
ちょっとフライイング気味。
5月はまだ4日あるのに切り取ってしまったぜ。ワイルドだろう。
でも、過ぎ去った月の絵はぜんぶ綴じて保存してるぜ。
バインドだろう。
もちろん、この月の絵も今日が初見だ。
まるではじめて録音に参加する
スタジオミュージシャンのようにドキドキする。
※ライプラリーの音楽録音をする演奏家も
もちろん初見で演奏する。
その日にできたばかりのパート譜だけで演奏。
テスト1回、そして本番である。
初見がきかなければスタジオミュージシャンはできない。
まあ、たいていは子どもの絵の迫力に圧倒されて、
しばらくはぼう然と眺めているだけだ。
6月の作品は『平 知盛』。ご存じ「平家物語」に題材をもとめた大作だ。
日本語テキストは木下順二氏、語りは野村万作氏!
そして音楽は池辺晋一郎氏。なんとも豪華。
さらにテキストの絵には赤間神宮所蔵の「源平合戦図屏風」がつかわれている。
このライブラリーのリリースは1986年。ラボ20周年の記念作品だ。
当時、ぼくは北関東支部の担当をしていたので、
この物語の制作には参加していない。
この年の秋から制作・広報にうつり、
最初の仕事が「ことばの宇宙」の知盛特集だった。
特大号で64ページもあり、へろへろになりながら編集した。
でもそのときは、そこから22年以上も
ライブラリーに関わることになるとは夢にも思わなかった。
さて、この超ヘヴィな作品にまっこうから勝負を挑んだのが、
安東基くん(小3/横浜市・熊井P)だ。
時に元暦2年3月24日(偶然、ぼくの誕生日。ジーコもこの日)、
源氏VS.平家のファイナルバトル。壇ノ浦の合戦である。
よく知られたことだが、ここはたいへんに狭い海峡である。
しかも潮の流れは複雑。
源氏は、平家にくらべて水上戦には慣れていなかったが、
この潮流の変化を利用して反転攻勢、平家をほぼ全滅させる。
源氏を率いたのは戦闘の天才である義経。
彼が当時の戦のルールを破って
非戦闘員の漕ぎ手や船頭を弓で射殺させたことが大きな勝因といわれており、
ライブラリーでもそうなっているが、正確な史実としては不明だ。
「平家物語」の原作にも先帝(安徳天皇)が入水した後に
平家の軍船に源氏が殺到して船頭や水夫を襲撃したと記述されている。
いずれにせよ、凄惨かつ激しい戦闘場面である。
すでに、赤旗が波間に落ちているところを見ると、
もう合戦は終盤だろう。ひとつの時代が終わる直前だ。
主人公であり平家のリーダーである知盛は若干35歳(満34歳)、
彼がこの場面に描かれているかどうかは、
ぼくの眼では読み取れないが、
知盛が自分たちの世の終焉が
歴史の大きな回転力によってもたらされること、
しかもそれは人間の力ではどうにもならないことを自覚し、
自ら幕をひく決意をした瞬間だろうと思う。
安東くんには残念ながら面識はない。
だから推測の範囲でしかないが、
彼はたぶん絵を描くことはきらいではないだろう。
だけど、9歳~10歳という年齢で、この壮大な物語の最も重要な場面を、
これほどの執念で描き込むことは、
先月の絵にまけないくらい尋常なことではない。
単にこの物語が好きだけでは納得がいかない。
少し細かく見ると、絵全体のバランスがとてもいい。
大小の軍船の配置、距離感がそれぞれ絶妙。
巧まずして北欧諸国の国旗に見られるような
右によった十字になっている。
一番大きな軍船がかなり右にあるので、
やや右が重い感じもするのだが、
左の中型船がしっかり描けているのと、
波涛をこえて左に揺れながら進む軍船の
力強い方向性によってうまく中和されている。
また、左右の比率も1対√2になっていて、とてもきもちがよい。
ゴールデンアングルだね。
人物も、じつにていねいに描き込まれていて、
さらに驚かされる。たぶん安東くんの頭のなかには、
一人ひとりの物語ができあがっているのだろう。
そうでなければ、
ただ武器をもった兵士を適当に配置してお茶をにごすはずだ。
ここまでディテールを描くために
さすがに細いペンによる下書きをしているが、
彩色が大胆ではみだしを気にしていない強さがあるのでOK!
(ここローラふうに)
さらにさらに、海と波と潮が、なんといってもすんばらしい。
青の感じも軍船の色と補色になって、
とてもすがすがしい(ぜひ原画を見たい)し、
白の線がつくりだす動きも最高だ。いやあ、まいったなあ。
しかしかし、そういった技術的なこともさることながら、
いかに歴史上のできごととはいえ、
この激烈な戦いを描いた絵がかもしだす
ふしぎな、せつなさと祈りにも似たきもちはどこから来るのだろう。
海は美しい。そして命の生まれるところでもある。
しかし、戦でも冒険でも、災害でも、
海にきえた魂、波間に消えた夢や人生は
古来から、そして近年も数えきれない。
この安東くんの絵は、
海に還った人びとへのレクイエムなのだろうか。
さて、申し訳ないが、ここで少し宣伝。
興味のない方は読みとばしておくれ。
でも、突然ラボの話になるかも。

写真は5月26日に府中の東京外国語大学で開催された
東京外国語大学PHANTOMS対国際基督教大学APOSTLESの
第二回アメリカンフットボール定期戦の試合前。
左から、小林牧人部長(生物学教授)、
日比谷潤子ICU学長(言語学)、
長谷川信彦APOSTLES監督。
学長が持っているのは両ティームで交換する
額装されたペナント。

写真上は、試合開始直前、選手たちを激励する学長。
明るく「昨年に続いて勝ちましょうね!」
といわれたので、みんなすごいプレッシャー。
この定期戦は昨年から始まった。
しかし、ただのスポーツ交流ではない。
けっこう遠大な計画達成のためのstepなのだ。
もともと、三鷹・調布・小金井・府中といった
武蔵野とよばれる地域には、たくさんの大学がある。
ICUと外大以外にも、一橋大、電通大、東京農工大、東京経済大、
亜細亜大、さらに足をのばせば中央大、首都大学東京など
多くの学府が綺羅、星の如く居並ぶ。
これらの大学どうしは各メジャーや図書館情報などでは
交流があるが、
たとえば、単位を相互にとれるとか、研究施設、会議施設などの
相互活用とか、大規模な共同研究といった、
全学レヴェルでのダイナミックな組織的交流のシステムは
構築されてはいない。
もったいない話である。
たしかに、少子化のなかで、私立大学はもちろん、
そしていまや国立大学法人として
独自の運営をせまられるている国立大学も
受験生数、学生数の確保のシリアスさは、
ある意味、企業間の競争に近い。
※少子化という点においてはラボも例外ではない。
そんななかで、学生の取り合いをしていては共倒れだ。
シャッター商店街ではないが、互いの大学が協力して
「若者が学びたくなる環境、学びやすい環境、学びたくなる未来」
をつくりだすことが肝腎だ。
また、さらに危機的であるのは、
日本はすでに高学歴社会ではないということ。
別に高学歴がすべてとは思わないが、
一定以上のアカデミックな力を国の若い世代がもたなければ、
持続可能な社会も、飢えや恐怖や不公平のない世界も、
もたらすことは困難だ。
では、その力とはなにか。
下に紹介するのは東京外国語大学の亀山学長が語る
身につけたい能力だ。
1)Communication (多言語社会に貢献するコミュニケーション能力)
2)Imagination(多文化社会をみつめるリアルな人間的想像力)
3)Exploration (グローバルな地域社会にひろがる精緻なリサーチ力)
4)Cooperation (地球社会と協働する果敢な行動力)
こうした力を学部の四年間で身につけ社会に出る者、
さらに大学院に進み、より深く広く、
海のごとく学ぶ者が生まれてほしい。
事実、世界の高学歴といわれる基準はすでに大学院卒だ。
残念ながら、日本の大学進学率は高いが、
大学院への進学率は極端に低い。
これは経済社会のあり様とも関連するので
無理からぬところもある。
院卒で仕事がなかったりするからね。
ただ、若者の専門的な学びへの意欲が
増加経過にないことが問題だ。

で、ことのおこりは2000年に
東京外国語大学が府中に移転開始したときから始まる。
偶然は必然とはよくいったもので
三鷹と府中というエリアに、言語とコミュニケイションを
その学びの柱のひとつにしている大学どうしが、
まさに軒を接する距離、自転車でいける近さにならんだ。
両校の交流にむけての話し合いは、具体的なレヴェルでは
4年ほど前からときいている。
その手始めにまずはスポーツからということになったのだ。
で、最初に話にのったのがフットボールティームである。
それというのも、外大の亀山学長、そして今春任期満了で退任された
鈴木ICU前学長が、おふたりともフットボールがお好きで、
ぜひにというお話があったのだ。

そうした話を受けて、両校のティームどうし、
また大学どうしも計画を進め、
ついに昨年、調布のアミノバイタルフィールドという公式会場で
記念すべき第一回定期戦が行なわれたのだ。
その結果は、おどろくべし54対6という大差でICUが勝った。

しかし、外大はその大敗に発奮したのか、秋のリーグ戦では
見事にブロック優勝し、さらには入れ替え戦にも勝利して
2部へ昇格してしまった。
わが、ICUは残念ながらブロック3位で3部のままだった。

そして、今年の第二回は外大のホームでのゲーム。

ハーフタイムには両校のチアリーダーたちがコラボパフォーマンス。
ちなみにICUのチアはANGELS、外大はRAMS
試合は昨年より接戦だったが19対10でICUが連勝!
Apostles=使徒が、Phantoms=幽霊・幻に負けるわけにはいかん。
上は試合後に選手を讃える学長。

試合後は、両校の選手、OBOG、コーチ、監督が
参加しての懇親会が開かれた。
中央の日比谷学長の向かって左どなり、
べースボールキャップの方が
東京外国語大学の亀山学長である。
「両校がもつと緻密に交流し、
三鷹・府中の地を国際アカデミックゾーンとして
ブランドイメージをアップさせていきましょう」
というあいさつが新鮮だった。
ブランドということばは、誤解されるかもしれないが、
老舗であるラボにとっても重要だ。
ラボのブランドイメージは
ライブラリー、テーマ活動、ラボランド、国際交流、
そしてなにより、すてきなラボっ子と
孤独でにぎやかで、賢くてシンプルで、
髪ふりみだして、しとやかで、
強くやさしい泣き虫で、美しい
ラボ・テューターという
他に類を見ないものがすでにある。
それをどう、高め、どう広げるか、
そのことが今たいせつな仕事なのだろう。
学長の若わかしい発想と行動力は注目である。
ラボと同じくらい青春そのものだった
三鷹・府中の地に、そして母校と外大に
微力ではあるが恩返しをしていきたい。
こうした活動に関わりだしてから、すでに多くの出会いがあった。
出会う人の数が別れる人の数よりへらないですみそうだ。
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先月の京都行きからほぼ一月。
他生の縁あって、仕事の続きでふたたび西にむかった。
そして、またしっかり1日目は雨である。
スタッフ全員に雨男と名指しで批判された。
上の写真は祇王寺の庭。
清盛と祇王、祇女ゆかりの寺だ。
苔に落ちるこもれ陽が昔をしずかに語っていた。
下は翌日、晴天の化野念仏寺の竹林。

下もおなじく化野。モデル役は地元参加の技術スタッフさん。
テスト撮りで位置とかアングルをきめているところ。
この後、本職のモデルさんで撮影するのだが、
それは契約という大人の事情でアップできないのよ。

でも、この寺の累々とした死者の風景は、冬や夕刻にながめると
賽の河原(それで西院という別名がある)を想起させる
はかなさと、妖しさと、せつない美しさがあるが、
この日は青空とやわらかな陽射しのなかで
石塔も石仏もおだやかによりそっていた。
化野の化(あだし)は、はかなさ、むなしさのことであり、
同時に、極楽往生と死から生への生まれかわりの「化」でもある。
吉田兼好も『徒然草』でふれているし
式子内親王も歌を詠んでいる。
どちらも、人の命のはかなさに言及しているが
ここでは、西行法師の歌を紹介しておこう。
誰とても
留まるべきかは あだし野の
草の葉毎に すがる白露
この寺に来ると
さすがにぼくのような鈍にして愚な者も
遠くなった人びと、いまなお諍いやまぬ人類を思う。
で、下の写真は13日の日曜日に開催された東京支部テーマ活動発表会から。
越智和代パーティ『ジュリアス・シーザー』

例によって全部の写真は
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.310763618999997.69469.100001990857831&type=3&l=a67c204bb6
のFacebookアルバムで見てください。
『ジュリアス・シーザー』はシェイクスピアが
テームズ河畔のThe Globeの支配人兼、座付き作家になったとき
同劇場のこけら落としのために書いた戯曲だ。
ときに1600年、日本では非常に効率の悪い戦争をやっていた。
もっとも、戦争の効率化は比較にならないほど大量の死をもたらす。
しかも、非戦闘員もまきこんでいく。
ただ、過去も昔も戦争は人間最大の不条理である。
正義の戦争などない。
大西巨人氏が大作『神聖喜劇』のなかで
「戦争におけるすべての死は犬死にである」と書ききっているように。
『ジュリアス・シーザー』はプルタークの「英雄伝」が下敷きになっている。
絶対権力者、シーザーとその暗殺前後をめぐる物語は
すでにこの時代のロンドンではよく知られたストーリィだった。
ごぞんじ「忠臣蔵」みたいにね。
劇場のこけら落としの作品に
失敗、しょぼい観客動員はゆるされない。
誰にでもわかるタイトル、人口に膾炙している物語が求められる。
シェイクスピアは、今では大芸術家であるが
プロの作家であり、プロデューサーでもあった。
大歴史悲劇「シーザー」で満員だぜ! という計算はあったろう。
しかし、それで終らないのがシェイクスピアだ。
目立つのはなんといっても、下手人であるブルータス。
すなわちブルータスの物語になっている。
『シーザー』で客をよんで、じつはという技だ。プロだなあ。
ライブラリーでも、たとえば『ノアの箱船』は
巻タイトルを考える場合
物語の長さからいったら『ギルガメッシュ王物語』だ。
でも、それだとあまり人口に膾炙していない。
子どもたちやご父母から
「先生、こんどの新しいおはなしなんですか」きかれたとき
「『ギルガメッシュ』よ」
「?」
っていうのもこまるからね。
もちろん、オリジナルで
『こつばめチュチュ』『国生み』みたいなタイトルもありだけと…。
京都行きは15日火曜日。
朝、半年に一度、人口股関節の検査をする母を
代々木のJR病院に送り、
検査と問診に立ちあってから品川に向かった。
駅につくと雨がふりはじめたので、
京都につくころには止んでいるかと期待された。
しかし、八条口におりるとやっぱり雨。
この日に予定されていた葵祭も順延とのこと。
どうも夜まで降り続くらしい。
となると、今回のロケ地のなかでの選択肢は雨でも美しい詩仙堂へ。
しかし、この週は修学旅行ラッシュ、
とくに川崎市を中心に神奈川県の中学が大挙京都入りしているという。
詩仙堂は大型バスが近くに駐車できないし、急坂の上だから
大きな団体はあまり来ない。
でも、最近の修学旅行はワゴンタクシーをチャーターして
小グループで廻るのが主流なので詩仙堂も安心はできぬ。
そこで先発隊が先にロケハンすることになった。やれやれ。
ぼくは本隊なので、その間に老舗のお店がならぶ寺町通を取材だ。

上は、寺町二条上ルの茶舗「一保堂」。いわずとしれたお茶の名店だ。
宇治の新茶、煎茶を一時間かけて水出しした一服を
小ぶりの白磁でいただく。
頭の先からすーっと、気持ちが落ち着く。すごい!

詩仙堂丈山寺の山門。
石川丈山は59歳のときにこの別荘をつくりはじめた。
ぼくとタメ年ではないか!
とんでもないセンスとガッツだ。
その両方をもつのは難しい。

詩仙堂は昨秋11月以来。雨の庭もいい。
四季の変化を想定したプロデュースなんだなあ。



詩仙堂をでたのは15時少し前、雨は依然として降り続き、
寺社の撮影は困難ということで街場を撮ることにした。

上は堀川通り鞍馬口上る御所田町の紫式部の墓。方墳である。
ここは、あの電車好きの、ノーベル化学賞受賞者田中氏が勤務する
島津製作所の敷地内にあるので、
とうぜんにも同製作所が管理している。
ちなみに島津製作所は京都市内にかなりの敷地をもち、
工場のみならず病院から寮までさまざまな設備かある。
田中氏専用の巨大な研究棟まで建っている。
式部は藤原為時の娘であることはわかっているが、生没年は不詳。
生まれ年は970~978年までの数説、没年も1014~1031年までとさまざまだ。
これも日本史の大きな謎のひとつだ。

なにせ世界にほこる日本の天才作家だから、物語づくりに長く関わり
いまも駄文をなりわいとしている身としては、お参りせねばバチががあたる。
昨年4月には、出雲で中村阿国の墓を訪ねたが、
これで国内の大先輩はだいたいカバーしたと思う。
式部の本名は香子(かおりこ・たかこ・こうし)という説があるが
これも現在では、その真偽についてはあいまいなままだ。
ペンネームの式部は、父あるいは親族の官職からというのが通説で
さらに『源氏物語』のヒロイン紫の上から
紫式部よばれるようになったらしい。
式部は幼いときからとんでもない記憶力と、表現力があり、
すぐれた学者、歌人であった父の DNAをうけついでいた。
藤原宣孝とかなりの年の差婚をするが、
一女をもうけた後、夫ははやばやと他界してしまう。
その後、式部は一条天皇の中宮・彰子に家庭教師役として仕えた。
『源氏物語』は、その間の1006年から1009年に書かれたといわれる。
式部の行動範囲は、その生い立ち、立場からいってもそれほど自由ではなく
きわめてがきられていたはずだ。
だからこそ、式部は貴族や姫、女官たちの生活や思いを
じっくりと強力な洞察力で見ることができた。
そして、54帖におよぶ壮大なロマンのなかに
男女の相関、恋愛の業などをじつにリアルに描いた。
しかも、それは時をこえても変わりにくい
人間の普遍的な心のあり様でもあった。
だからこそ、この作品が世界でも高く評価されているのだ。
特定の時代の特定の階級の、しかも限られた空間が舞台でありながら
「未来に残したい世界文学100編」にただひとつ日本から選ばれたのは
「人間の普遍的真実」に根ざしているからなのだ。
それが、古典の強みである。
いつも書くことだが、ベートーヴェンは100年後に
聴いてもやはりベートーヴェンであるように
『源氏物語』もまた、200年たって読んでも新鮮だろう。
人間の本質がそこにあるがゆえに、過去のフィクションであっても
常に「今の現実」のように読むことができるのだ。
古典を昔の事と読んでいてはおもしろさはわからない。
今の事と思って読みたいものだ。
しかも、古典はその当時のニューウェーブだ。
かっこよかったんだろうな。
紫式部の前後には、伊勢、清少納言、和泉式部、赤染衛門など
すぐれた女性アーティストが、綺羅、星の如く居ならぶ。
※綺羅星の如くは誤り、綺羅の綺は綾織りの絹織物、羅は薄織りの絹織物で
総じて美しい着物、転じて優れた人物にもつかわれる。
綺羅星と一語で使うのはまちがいなのだが、最近はよく使われる。
いずれ定着してしまうかも。
同様に「間髪を入れず」も誤用で、「間、髪を入れず」(それほど隙間がない)が正しい。
やはり女性はすごいなあ。
ぼくはフェミニストではないが、いろいろな個人的事情から
女性は崇め奉るようにしている。ぶるぶる。
『源氏物語』「絵合わせ」のなかで、
※絵合わせは、貴族どうしが物語をきめてお抱えの画家に一場面を描かせ
どちらの作品が、より的確にあらわしているかを競う遊び。
式部は登場人物である紀貫之に「『竹取物語』は物語の出で来始めの祖(いできばしめのおや)」だと語らせている。
式部は、彼女から見てもずっと昔に書かれた『竹取物語』を
日本の物語のルーツだと登場人物をつかってメッセージしているのだ。
・漢字仮名まじり文という斬新な試み。
・宮中にいなければ書けない内容。
=登場する男たちは、すべて天皇の子とか超身分の高い貴族。右大臣以上。
右大臣と左大臣は、役職的にはかなりの差。そしてラストにはとうとう帝も
・はるか日本をとびだしたエキゾティックなふんいき。
=宝探しは、もちろん想像上のフィクションだが、海外の情報をもっていなけ
ればこれほどには書けない。
・竹取の翁という、竹づくりで竹をうる非農民、すなわち身分の低い翁が
かぐや姫を得ることで一躍、長者になり、あわよくば朝廷とつながろうと
姫と心理戦をくりかえす。しかし、姫が月にかえることですべてを失う。
すなわち、翁のアップダウンというサスペンス。
=翁は、竹取と蔑まれてきたこともあり、きたえられていて、なかなかしたた
かである。帝にいいよられてる姫に、「こんな年寄りの願いをきいてくれない
か」と、まずはかぐや姫が総論でイエスをいわざるをえない状況をつくり、
それから、各論というより本論の結婚にじわじわ詰め寄る。
・洒脱なことばあそび。
=「よばいのもの」の語源は「姫を見たいと屋敷のまわりを夜に這い回るもの
たちを、よばいのものたちというようになった」という記述が原作にあるが、
これはなんちゃって、という作者の遊び。よばいは「呼ばう」すなわち、男性
が女性に正しく求婚する妻問婚の儀礼がもとになっている。また、地方によ
っては臨終の者の名を屋根の上で呼んで昇天しないようにすることも「よば
い」といった。この物語が書かれたころには、男性が女性の寝屋に侵入とい
うふとどきな行為がすでにあり、その語源はこれがもとなんだよ、なんちゃ
ってという、見え見えの嘘とわかってふざけている。プロの技だ。
また、ラストの「不死の山=富士山」の語源エピソードも創作である。一見。
蛇足のように見える部分だが、これが救いになって話をしめている。
さて、固い話が続いたので、今の京都にもどる。
上の写真は上京区の上七軒。室町時代、七軒だけ茶屋がつくられた。
北野天満宮と深い関係がある。
地元の方は「かみひちけん」と発音される。
現在でも10軒のお茶屋さんがあり、約25名の芸妓・舞妓さんがいらっしゃる。
歌舞練場(花柳流)もあり、3月には北野をどりが行なわれる。
雨の上七軒もいい風情だ。
かつて土方歳三がここで遊んでいたのは有名。

上の写真は上七軒の和菓子の名店「老松」。
京都の老舗は水曜日定休が多いが、和菓子屋さんだけは、
この時期はお茶会が多いので、不眠不休のいそがしさだという。
※嵐山にもお店があり、ここのお庭もすばらしい。

店内に飾られている菓子型。生菓子はもちかえれないので
干菓子と松風をゲットした。

老松店内から。暖簾ごしの光。
『竹取物語』のところでことば遊びにふれたが、
言語遊戯、言語の美しさでいえば、やはりシェイクスピアだ。
『シーザー』でも随所にことば遊びやしゃれが登場する。
さすがに英語のマザーランドだ。
また、無韻詩, Blank verse(登場したのは1554年ごろ)
を完成させたのもシェイクスピアだ。
Blank verseは韻=rhymeはふまないが、meter すなわち韻律をもつ。
なかでもシェイクスピアが多様したのはIambic Pentameter
弱強五歩格とよばれるものだ。
たとえば
A horse! A horse! My kingdom for a horse!(『リチャード三世』)
ティター、ティター、ティター、ティター、ティター
という弱強五回のリズムで1行が語られる。
こういう詩型は日本にはない。
ラボライブラリーのように英語と日本語で味わう意味は
この点だけでも大きい。
小田嶋雄志先生のお訳はすばらしいが、先生自身も
ぜひ英語もともに聴いてほしいとおっしゃっている。
続いて上七軒から大覚寺へ廻ったが、すでに15時30分。
雨もやむ気配はなく、光量的にはつらくなってきたので、
1日目はこれでということになった。
するとスタッフとマネージャーがなにやらひそひそ話。
なんとなくやだなあとまっていると
スタッフ、マネージャーがユニゾンで
「明日は朝、8時45分スタートです」「ひえーっ」
宿は渡月橋そばのすばらしい旅館。ありがたや。
翌日は嵐山・嵯峨野が中心なので、これなら人が出てこないうちに
いろいろと行けると納得。

朝一、ピーカン。
天竜寺前を過ぎて老松さんの横から竹林へ。
水曜日はトロッコ電車も定休なので人もすくないとおもったが、
すでに9時前には野々宮神社まで中学生がきていた!

下は小倉山と右手に落柿舎(小さな鳥居)。小倉山はご存じ百人一首の選定場所。落柿舎は俳句をたしなむ方にはたまらない場所。芭蕉の弟子去来の別荘だった。芭蕉は1691年の4~5月に、ここに滞在して『嵯峨日記』を書いた。
今回はなかまで行く時間がなかったのが残念。

光がよいうちに先をいそごうと滝口寺へ。
ここは、滝口入道と横笛の悲恋の寺。


いつ修学旅行生が乱入するかとひやひやしつつ祇王寺へ。

前述したが、こもれ陽にゆれる苔が美!
毎日、門徒の方などが手入れをされている。
しかし、ここでなんと40人ほどの中学生諸君と遭遇。
やり過ごすことにした。
この写真にはその生徒さんたちが少し写っている。
いつまでいるのかなと思ったら、
ものの10分で女性教員が
「はい、清盛のことを偲んだら。次にいきますよ」
「はあーい、ゴクゴク(水飲む音)」
こちらは助かったが、ちょっとひどすぎ。
まあ、10名以上でくるのがまちがいだが、
もうすごし自由にゆっくり見させないと
なあんの意味もない。
これで感想文を書きなさいといったら、
はっきりいうが「バカにするな」だ。
ともあれ、この後、静かになった庭を撮影。
でも、それも権利関係でアップできないの。

ひっそりと山から摘んできた少し早い季節の花が一輪。
こういう心映えがすごい。
なんとも詫びた、しかも心がひろがるぜいたくではないか。
そして化野念仏寺へむかう。

念仏寺から下におりた道は鳥居本、愛宕神社の下道でもある。
ここは、有名な鮎茶屋の平野屋さんがある。
※HONDAのCMにでてくる。

光がますますよくなったので直指庵から嵯峨天皇陵へ。
嵯峨野を奥へとはいっていった。
下は 直指庵。ここは紅葉のときはすごい人だが、
今はたぶんだあれもこない。


葉もみぢに命の力をもらう

『ジュリアス・シーザー』を書いた後、シェイクスピアの作品は一変する。
それまでの『ロミオとジュリエット』や『ヴェニスの商人』のような
性善的観点から、がらりとドロドロの物語になる。
「シーザー」はその分かれ道的な戯曲だ。
前にも書いたが、はっきりいってラボの高校生や大学生が
取り組むにはかなり高いハードルである。
中世英語であるし、各セリフも長いし、さきほど紹介した詩型の問題もある。
だが、東京支部の発表会で見て感じたのは、
じつにすがすがしい青春群像ドラマだった。
もちろん、発音とか表現とか、ライブラリーの聴き込みなどには個人差があり、
それをいちいちここで述べることはしない。
ただ、「愛するが故にシーザーを暗殺する」という
ブルータスに象徴されるように
ほとんどの人物が、悩み、ゆらぎながらも,結局は
自分の人生を生ききるというこの物語のひとつの本質を
身体とことばで表現しようとしたことはまちがいない。
登場人物ははっきりいってみんなオッサンである。
しかし、高校生が挑戦してもおかしくないのは
それぞれに生ききるという若さがあるからだ。
それが、まさに青春群像劇のように感じられたのだ。
時間の関係で発表はシーザー暗殺直前までだったが、
最後まで見たかったというのは本音だ。

さても、長くなりすぎた。
本当は『安寿と厨子王』の説教節、それからまだ書いてない
神奈川の発表のことなどにも触れたかったが、それは後日にしたい。
すみません。
上の写真は、帰りののぞみが出る直前の12時30分(列車は1317)に立ちよった
枳殻邸。ここは、東本願寺の飛び地である。
大谷家はここにお住まいになっている。
京都のどまんななかで、ビルがまわりにはあるが、
すばらしい庭である。
頼山陽も絶賛したらしい。
ぼくは、京都駅近くで少し時間がある場合は
東寺かここにいく。
ここの拝観料は最低500円という、かわったシステム。
入り口で「真宗大谷派の門徒さんですか」ときかれるが
正直に「いえ」とこたえれば500円でいい。
それで、美麗パンフレットを2種類のうちから選ぶ。
だから二人でいけば両方手に入る。
もちろん、一人で両方ほしいときは売ってくださる。
この庭をプロデュースしたのは、詩仙堂をつくった石川丈山。
やはりとんでもないクリエイターだ。
丈山は、59歳で詩仙堂を建てた後は、聖賢の教えをつとめとし、
清貧のなかにこれを楽しんだ。
隷書、漢詩の大家でもあり、煎茶道の改組でもある石川丈山は、
寛文12年、1672年5月23日、
従容として90歳の天寿をまっとうした。
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昨日の続きを書こうとおもっていたが、朝、残念なしらせをきいた。
以下にNY TIMESの記事を紹介する。
http://www.nytimes.com/2012/05/09/books/maurice-sendak-childrens-author-dies-at-83.html?_r=1&pagewanted=all
掲載されている写真はコネッティカットの自宅で愛犬とくつろぐ姿。
2006年の撮影とある。
見出しは
Maurice Sendak, Author of Splendid Nightmares, Dies at 83
と衝撃的だ。
記事の冒頭は「20世紀で最も重要な子どもの本のArtistとして
広く認識されているモーリス・センダック」ではじまり、
それに長い関係節が続いている。
絵本作家とはいわず子どもの本のArtistと表現しているところに
NY TIMESのセンダックへの評価がうかがいしれる。
死因は脳卒中の合併症とあるが、いつごろ病を得たのかといった詳細は不明。
基本的にプライベイトを見せない孤高の人だった。
ただ、残念である。
センダックの業績については
ぼくなどがいまさら語ることもないが
この機会に重要な本を紹介しておきたい。
原題 CALDECOTT & CO.
センダックの絵本論
モーリス・センダック
脇 明子,島 多代 訳
■定価 3,150円
■1990年 岩波書店
絵本の祖コールデコットからディズニーや
同時代の若いイラストレーターまで
自身の創作活動に直接間接に影響を与えた人々について
折にふれ率直に語った名評論。
センダックの貴重な語りと、彼の作品への思い、
子どもたちへの思いがよくわかる。
コールデコットへのオマージュともいえる。
原題の「コールデコットと仲間たち」が泣かせる。
一時品切れ状態だったが、今はアマゾンでふつうに買える。
もっていて損はない、というかぜったい読みたい1冊。
それと
Piper of the Dawn
子どもの本の8人―夜明けの笛吹きたち
ジョナサン コット 鈴木 晶 訳
晶文社
これは中古で買うか図書館だけど名著。
著者のコットはロック雑誌「ローリング・ストーン』誌の名編集者。
その一方、無類の子どもの本好きとして知られるが、
8人の世界的な児童文学作家・研究者と語り合い、
その対話にみずからの評言を加えて、
子どもの本のもつ本能的な知恵と驚嘆の世界をきりひらいてみせる。
このなかで「もっともめんどくさい作家」センダックへのインタヴューは圧巻。
うわべや権威や、あまい菓子やそのばしのぎの理屈や、
なれなれしさといった、子どもが見抜くおとなの手練に常に抵抗しつつ
子どもの心の深いところに寄り添っていたアーティスト。
であるがゆえに、自身は深い孤独を内包していた表現者。
さよなら、センダック。
あなたの作品は永遠に愛され続けるよ!

写真は連休最終日の6日、茅ヶ崎市民文化会館にて行なわれた
神奈川支部テーマ活動発表会から。
下田弥生P 『ピーター・パン』「海賊船上の決闘」
なお、6編の発表テーマとパーティ行進は後ほど掲載するが
日記では多数アップするのは無理なので以下の
URLでFacebookにあげたアルバムで全部閲覧できます。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.306650256078000.68809.100001990857831&type=1&aft=306663532743339&l=d6e66b690f

緑のグラデーションが日々息ぐるしいほどに明度をあげている。
昨日の嵐とは真逆のおだやかな午後、
やわらかな風にほほをなでられて
青梅街道から三澤制作所のある路地にむけて左折する。
手に食材をもったまま、ふと上を見れば
公務員官舎の大きな木が空をかくしている。
その木漏れ日のなか、ゆっくりと前にすすむ自分。
三澤制作所のラボ・カレンダーの5月をめくった。
『はなのすきなうし』。
ご存じの通りオリジナルはモノクロの線画。
だから、まったくマネではない。
ただこの物語への思いだけで自由に描いている。
作者は明石市の杉浦萌弥(明石市・追原P すぎうら。もえみ 小1)さん、
すごいぞ!
主人公のFerdinandを、
牛を描くときならだれでもやりそうな白のままではなく、
うすいピンクで塗ったセンスはとんでもない。
また、それぞれのオブジェクトは輪郭線を描いてから水彩で彩色されているが
自然な同系色のクレパス使用しているので、
それがあまり気にならないのもいい。
最近では黒のフェルトペンで輪郭をとってから
塗り絵するような指導が小学校で行なわれたりするが、
そうすると世界が分断されてしまってつまらない。
いまはコミックの影響も強いから、
まずフォルムをしっかりとりたくなるのかもしれぬ。
牛の輪郭だけは黒だが、
肌の黒い部分にも使用しているので違和感がないなあ。
さらに、花やその周囲も地面も木の幹も葉も、
空も太陽も、よく見るとじつにていねいに、しつこく描き込まれている。
ここまで突っ込めるのは物語への思いが尋常でないことの証しだ。
この物語はリーフが親友の画家のローソンが仕事でへこんでいるときに、
40分くらいで書き上げてプレゼントしたといわれる。
1936年の作品だが、当時はスペイン内乱のさなか。
したがってこの絵本はさまざまに政治的な解釈をされたという背景がある。
しかし、作者のリーフは
「フェルジナンドが花の匂いをかいで闘わないのは、
よい趣味を持ち、またすぐれた個性に恵まれていたからだ」(岩波の解説より)
と述べている。
また、絵を描いたローソンもすばらしいことをいっている。
「ぼくは、いわゆる子どもむけのイラストレイターではない。
子どもを対象として企画された作品では、
文でも絵でもお子様用にTalk downする傾向がある。
でも、それには激しく反発したい。
むしろ子どを相手に仕事のほうがむずかしい。
おとなたちのもやもやした要求にこたえるより、
子どもたちの明快な理想の高みにこたえたい。
つまり子どもたちのところに降りるのではく、
子どもの視線の高さまで、ぼくたちは、Rise up、
つまり昇っていかねばならぬ。
子どもたちには、ぼくの技術と思いをすべて与え、自由に選択させたい」
この二人のことばに、『はなのすきなうし』が
世界中の子どもたちに76年もの間、
みずみずしいままで支持されている理由がある。
それともうひとつ。フェルジナンドの母親がててくるのだが、
あるがままの彼を受け入れる姿にも感動がある。
「子どもは、そして命は、あるがまま、存在するだけで美しい」
という真実も胸をうつ。
この物語でラボ・ライブラリーを制作したときはとても楽しかった。
日本語の語りは女優の二木てるみさん。
シンプルで短い文のなかで繊細な感情のゆらぎを香らせる技はすごい!
こういう一見、単純素朴な文を語るのは、ほんとうにむずかしい。
1行のなかに感情の変化がある。
ぜひじっくり聴いてみてほしい。
森繁久彌氏は「セリフは歌え、歌は語れ」といったが
なるほどなあと思うはずだ。
じつはこの絵とコメントみたいなものをFacebookにアップしたら
作者のパーティの追原テューターから描き込みがあった。
それによると、この絵はなんと8回描き直しているとのことだ。
さらに、この絵を描いているとき作者の家族に
とてもつらい状況があった。
萌弥さんのお母様からお許しがでたので書くが
この絵が完成した4か月後の12月末、
萌弥さんのお父様は、闘病の末にお亡くなりになったのだ。
お父様は萌弥さんの作品がラボ・カレンダーの絵に入選したのを
とてもよろこばれたそうである。
しかし、完成品を病室にどとけることがかなわなかったのが
心のこりだと追原テューターはおっしゃる。
そのお話をFacebookで知ったぼくは
萌弥さんの
尋常ではないこの絵への没入の大きな理由を感じとった。
絵は心の訓練みたいなものだとは、
『十五少年漂流記』や『まほうの馬シフカ・ブールカ』の
かみや・しん先生がラボっ子にむけていわれたことば。
この絵は、はげしさとせつなさと、そして祈りに満ちている
萌弥さんの心の鏡なのかもしれない。
その思いはきっと空をこえてお父様のところに届いている。
神奈川支部発表会より
下田弥生P 『ピーター・パン』「海賊船上の決闘」


川上優香P 『たぬき』「騎馬警官隊にくわわる」


藤原康子P 『グリーシュ』


三井麻美P 『西遊記』「金角銀角との戦い」


岩楯幸P 『スサノオ』


高久聡子P 『はだかのダルシン』「ドゥールの子」


テーマ活動はやっぱりおもしろい。
あらたむな誕生と、再生と、発見と、感動と、ゆらぎと、おそれと、あこがれ…
これらの
今、なかなか出会うことが少ない心の深いところにとどくメッセージをまた、
茅ヶ崎でうけとった。
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