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写真は4月23日月曜日の朝9時、京都市北区鷹峯・光悦寺の山門手前。
前日の雨で緑があざやかに生きかえっていた。
ひさしぶりの更新なのは、このところめずらしくバタバタしていたためだ。
組織から離れてからたしかに自由度は増したが、
やはり「群れない」ということは、当然ひとりで背負うことも多くなる。
だから組織と個人、どっちがいいなんていう議論はむなしい。
都会と田舎、男と女、などの二元論的比較はほとんど無意味だぜ。
ここで報告。
4月の頭、術後三年目ということで2泊3日の入院で精密検査を行なった。
血液検査、胃カメラ、大腸内視鏡、造影剤CTである。
で、結果が17日にでた。
血液は血算、すなわち血球や血小板、へモグロピンなどの基本構造は正常。
つづいて生化学は、尿酸値、コレステロール、
中性脂肪、アルブミン、カリウム、ナトリウム、肝臓、
腎臓関連などもクリアした。
いちばん重要なTM(tumourの略語だと思う)マーカー、
CEAとCA19-9も正常値だった!
これがいちばんほっとする。この数値に一喜一憂するのががん患者だ。
前にも書いたが、マーカーはあくまでも目安で、
がんの種類や発生部位によって対応するマーカーがちがうが、
必ずしもマーカーに反映しないものもあるのでややこしい。
ただ、ぼくのはたいへんよくマーカーにあらわれる種類だそうで、
手術する前はCA19-9が3400もあった。
血液関連はこれでよしと小さくガッツポーズしていたら、
「食べ過ぎに注意しましょう」とのチェックがはいった。気をつけよ。
続いて造影剤を入れての全身CT画像診断もクリア!
再発・転移の兆候なし。
さらに大腸内視鏡の結果もクリア。
手術でつないだところも(吻合部)きれいだし(われながらうまい! と主治医)、
ポリープもないとのこと。胃カメラもOK。
ただ。2004年に患った胃潰瘍
(忘れもしない、『ひとつしかない地球』の
オーディションの日の夜に救急搬送された。
あいさつだけして、選考会はスタッフと木島タローちゃんにまかせて
役員室でたおれてた。じつはこの日の夜、
永山裕子さんが絵を納品に来られるので、
それまではと思ってかんばっていたが、胃から出血しているために
貧血状態でふらふらだった。永山さんは、「こんな紫色の人がいる」と
どん引きしたと後日うかがった。
そして、彼女が帰った後に搬送された。)
の後が少しもりあがっているが、生検の結果問題なし。
これでオールクリアとよろこんでいたら、
主治医はニコリともせず「生検したらピロリ菌が見つかったから駆除しましょう」。
はいはいお願いします。
というわけで、除去薬セットを朝晩7日間飲むことになった。
ともあれ、死を覚悟してから三年、
たくさんのみなさんからパワーをもらって元気である。
冒頭に「群れない」などとかっこつけたが、
人間は一人では生きられない。
なにかしらにリンクし、またされて存在しているのだと思う。
さて、この日曜日と月曜日に一泊で京都にいった。
ほとんど「そうだ京都に行こう」的な突発旅行だ。
もちろん、人に会う用もあったのだか、
それは電話かメールでも足りる内容だった。
それでも、わずか1時間の話をするという理由をつけて
12時07分品川発の「のぞみ」に乗った。
こういうわがまままができるのが、一匹豚(オオカミではないので)
のいいところだ。
京都、奈良はラボに入社してから5年間、
関西総局に組織担当として勤務していたとき、
けっこうマメにあちこちでかけた。
でも、知らない寺社や庭園やお店は山ほどあるし、
一度いったところでも、重ねて味わうことで
新たな発見、感動がある。
これもまたライブラリーのごとし。
しかし、1981年に東京に戻り、
86年に制作に異動してからは、京都、奈良はおろか
プライベイトででかけた旅行はわずかしかない。
だから家族といった旅行は貴重で、ほとんど鮮明に記憶している。
1986年以降、
京都へは仕事では三度でかけた。
一回目は『なよたけのかぐやひめ』刊行の年、
秦恒平先生を招いて渡月橋そばのホテル嵐山で開催された
一泊のテューターむけ講演会。
これはなかなか好評で、午後3時ごろ集合して、
夜はたっぶりと秦先生のお話をうかがい、
翌日は嵐山から洛北の歴史探訪ツアーというゴージャス企画。
このときは現、神奈川支部の倉藤テューターのご実家に
参加者の荷物をあずかっていただいた。ありがたや。
なお、このときの講演に加筆したものが「制作資料集」に掲載されている。
二回目は『ドン・キホーテ』の英語と日本語の
すりあわせのため、当時は京都市立芸術大学教授だった
ロジャー・パルバース氏を訪ねたときだ。
このときは、以前にラボに勤めていたことのある知人の口ききで
立命館大学の立派な部屋をまる一日お借りして、
一行ずつ日本語と英語の訳対応、ニュアンス、リズムなどを
ぎりぎりと、ときにはケンカしながら、
ときには作家のプライドをずたずたにしながら話し合った。
パルバース氏も作家として、ゆずれない点はもちろんあるし、
こちとらもラボとしてこだわるところもある。
そのあたりをごまかし、衝突を回避していたら
よいものをつくれない。
というより、逃げる者は作り手になるべきではない。
しかし、そうしたはげしいやりとりがあっても着地できるのは
「子どもたちに本物をとどけたい」という
飛行高度と方位だけは一致していることである。
この点もまた重要だ。
このときは、前夜にほとんど徹夜で「テュータ通信」の
編集をしており、そのまま朝一で印刷所に入校してから新幹線に乗った。
よく京都を通りすごさなかった。
バルバース氏とのやりとりは、前述のように白熱したが、
お互いにイメージがつかみきれないと、
バルパース氏は
「じゃあ、ちょっとこの場面やってみましょう」と立ち上がる。
根っからの劇作家なのだなあと思った。
仕事で京都に行った三回目もパルバース氏がからんでいる。
宮沢賢治作品刊行の年、
バルバース氏と天沢退二郎先生の対談が御所近くのホテルで行なわれ、
その記録をとるためだ。
この日は日帰りというハードなスケジュールだったなあ。
それが1995年のことだから、
ひょんなことから仕事が生まれ、
訪れることになった昨年の秋まで、
16年も京都には行っていない。
若き日にはかなりいろいろな寺社や庭園を観た。
でも、ぼくとしては、それらはずいぶん浅い味わい方で、
血肉にはたいしてなっていない物見遊山に過ぎないと
自分できめつけていた。
しかし、ふしぎなことたが、
昨秋、そして今回と二回訪れただけなのに
いろいろな感覚や思いが、新鮮にそしてなつかしく戻ってくるのを感じた。
やはり、若いときに出会った土地に固有の色合いとか
風とか光とか香りのようなものは
心のハードディスクにけっこう堆積していて
ある程度の年齢になって再訪、再々訪すると
まるで、外国語のように蘇るのだ。
我田引水的だが、こうした土地との出会いも
ライブラリーのようにひとつの総合的な物語であり、
幼き日、青き日に、わけがわからなくても
浅かろうが深かろうが、その瑞々しい魂でふれて感じることが
なによりたいせつなのだろう。
そして、さらにいえば、
美しいものを作りだして人類に貢献することは
もちろん、人生の価値、生きた価値であるが、
美しいもの、すばらしい絵、音楽、舞台、建築、
物語、人間などに、
どれだけ出会ったかも、まちがいなく人生の価値なのだと確信する。
だから、極端にいいきれば、
ラボの物語と出会い、ラボの仲間たちと活動する、
そのことだけでも大きな人生の価値の礎になる。
いいすぎかなあ。
さて、個人的な意見だが、できれば京都はちょっとずつ味わうのがいい。
予算や日程のつごうがあるから、地元民でもないかぎり、
一回いけば、あちこち観たくなる。
しかし、そこはがまん。
今回、日曜日の12時07分発のぞみに乗ってついたのは
天気のあやしい午後2時18分。
そこから地元の知人の車で、まずは東山泉涌寺・雲龍院にむかった。
下の写真がそう。
真言宗泉涌寺派の名刹、別格本山の名をもち
皇室と徳川幕府と双方から庇護された寺だ。
しばし庭を眺める。
障子を全開、半開、そして閉めたとき。
それぞれにテイストがちがう。
灯籠のまほりに菊紋が描かれているのは皇室との関係ゆえである。
ちなみにこの寺がてきたのは14世紀の頭。







ここの庭は紅葉のときは大混雑。




上は書院の悟之間につくられた「迷いの窓」と「悟り之窓」(丸いほう)。
また、お茶もいただける。
オリジナルの薯蕷饅頭がすばらしい。
扇には菊と三葉葵。皇室と幕府から許可されたという。
お茶をたのむといただける。
下は金平糖の名店、緑寿庵清水。とってもちいさな店だけどすごい。

御所雲月の塩昆布は絶品だ。南青山にも店があるが
御所とつけられているのはここだけ、

上賀茂神社にしだれ桜がまだ。


松野醤油は地元の人が買いにいくこだわりの名店。

翌日は、光悦寺、本阿彌光悦の寺からスタート。
夜の雨で緑鮮やか。
ここは大型バスおことわりという強気が最高。
したがってすいてる。
光悦は、じつにすぐれたアートディレクター、クリエイターだ。
その才の100分の1くらいにあやかりたいとお参り。
いまさら遅い。竹の美しい格子は「光悦垣」だ。




下が光悦のお墓。

そして、利休が切腹するきっかけとなった大徳寺。

龍月院で庭をたのしむ。

蓬莱山と鶴島、亀島。


日本でいちばん小さく、しかし底知れぬ深さのある中の石庭。

そろそろ修学旅行のみなさんが登場。
最近は小型のワゴンタクシーでまわるのがはやりだって。

『ドン・キホーテ』の打ち合わせが終ったのは、もう夜の8時過ぎ。
金閣寺そばの小さな座敷でパルバース氏と遅い夕食をとった。
外に出ると浅い春の星がふるえている。
別れ際、バルバース氏は
「かんばりまあす。よろしくおねがいしまあす」
と長身をかがめておじぎをし、もみ手をする
ステレオタイプ日本人サラリーマンの演技をした。
その瞬間、ぐうぜん通りかかった車のライトが
氏をピンスポットのような陰影のなかに描き出し、
一瞬の劇的空間か現出した。
「ラボの子どもたち、たのしんでくれるかな」
『ドリームタイム』で時代を切り裂くブーメランを投じた
タフでラフで繊細な劇作家は
わかれのことばを
また、戻ってきた京の闇にそっと置いた。
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さすがに自分でもひどいタイトルと思うが、
もうその日の気分だけでつけたので許しちくり。
写真は、国際基督教大学正門の600メートル超の桜並木。
この日記でも紹介したが、3月31日の同窓会・桜祭りの日は
莟がややふくらんだ程度だった。
4月3日の入学式でも開花したとはいいにくいようす。
さらにその日の午後は例の爆弾低気圧で大嵐。
でも、莟が固い状態なのが幸いして、あの風にもまけなかったようだ。
そして、昨日、4月7日、ついに桜のトンネルが完成した。
厳密にいうと満開ちょい前で、今日の日曜か明日くらいが
もう、完全にストッパーがはずれたオーバードライブ満開だろう。
でも、このぐらいが見頃かもしれぬ。
さても、
今日は灌仏会、いわゆる花祭り。
ゴータマ・シッダッタ(シッダールタ)、釈迦生誕の日とされている。
だからというわけではないのだが、
父の月命日(11日)も近いといこともあり
午前、母と菩提寺である宝仙寺に墓参した。
彼岸を過ぎ、卯月に入ってなお肌寒い。
墓所は寺の横から裏手にあり、入り口では六地蔵がでむかえる。
宝仙寺の参道の入口は青梅街道に面しているが、
そこから山門までは約100メートルあり(阿吽の仁王が門番、
子どものときは怖くて下をむいて通った。そのことを今でも母はいう)
山門から本堂までは50メートル。
だから墓所のあたりでは、高層ビルのてっぺんが
伽藍のむこうに巨大な卒塔婆のようにのぞいているが
車の騒音もほとんどきこえない。
※「がらんどうがあった」の「がらんどう」は伽藍堂である。
都会の墓地といっても静かなものだ。
ただ、平日だと、墓地の裏にある宝仙学園の
生徒たちのさんざめきがかしましい。
もっとも、無限の可能性をもつ若い声が届いてくるほうが
死者との対話のつらさをまぎらせてくれる。
2月に82歳になった母は膝が痛い。
まだ手術をする段階ではないが、かなり骨が摩耗している。
また右腰には人工関節が入っている。
骨盤に強化プラスティックで覆われたチタンの皿があり、
そこに大腿骨にうめこまれたチタンのボールが
ボコンと入っている。
ここで、無理矢理ラボにつなげる。
※チタン、titaniumはとっても固い金属で、かつ腐蝕しにくい。
地核のなかには鉄の次くらいにたくさんあるらしいが、
単体ではほとんど見つからず化合物として鉱石のなかにあるのがふつう。
だから、それを精製するのはとってもたいへんなので
値段が高いのである。
titaniumの綴りからもわかるように、その名の由来は
ギリシア神話で最初に世界を支配した
ティタン(タイタン)族(巨人族)である。
親玉はご存じクロノス。
クロノスは10年におよぶゼウス率いるオリュンポスの12神たちとの
戦いにやぶれ、ほろぴる。
※クロノスの遺骸はパラバラになって海を漂うが、
その身体の一部(とんてもない部分)が泡(アフロス)となり
そこから美しい神が生まれる。
それがアフロディテ(ビーナス)である。
おそろしやギリシア人。
ゼウスたちはティタン族が地獄の底のそのまた底である
タルタロスに閉じ込められていた怪物たちを
解放して味方につける。
尻尾が毒蛇で三頭の猛犬ケルベロスや、
100の頭をもつヘカトンケイルなどの、いずれもヤバイ連中だ。
なかでも最強は雷と稲妻で
ゼウスの主力武器となった。
ライブラリーにもでてくるが、
ゼウスが「雷神の王」とよばれるのもそのためだ。
人間に火をあたえてひどいめにあった
プロメテウスもティタン族に分類されるが、
その予見能力(Pro-methus)、
すなわち先を見通す力をもつがゆえに
「ゼウスは雷と稲妻をもってるから戦うのはやめたほうがいい」と
クロノスらに進言したために死罪を免れた。
でも、所詮は外様なので、ゼウスから「人間をつくれ」とか
けっこうな無茶ぶりをされて、結果はご承知の通りだ。
また、プロメテウスは「メコネの腑分け」というエピソードでも
ゼウスと対立し、このときもしてやられている。
人間の命にかぎりがあるのも、このエピソードのおかげだ。
長くなるからざっくり書くが
ゼウスが飢餓によって人類を滅ぼそうとした際、
神への供物と人間の主食をクジで決めることになった。
その際、プロメテウスは機転をきかせ、
ひとつは雄牛の不潔な胃袋に詰めた雄牛の肉、
もうひとつはきれいな脂で覆われた骨(美味しそうに見えるが中身は食べ物ではない)を差し出した。
すると、まんまとゼウスは後者を選び、
以降、人間は神に肉を供物として捧げずにすむようになった。
しかし、これもゼウスのほうが上手だった。
「骨は醜く朽ち果てる肉とは違い永遠である」のだ。
永遠の命をもつ神に、いつかは腐って消える肉は不要。
人間は一時的には旨い肉を焼いて食べることができるが、
まさに肉が象徴するように、いずれ朽ち果てる。
しかし、骨は滅びない。
人間がmotal、死すべき存在になったのはここからだと
ギリシア神話は語る。すごいね。
さて、母の話にもどる。
膝が痛いし、腰もかばうからゆっくりとしか歩けない。
でも車椅子は絶対いやだといって、
近距離(玄関から門程度の10m)は杖、
それ以上は手押し車を使用している。
買い物も近所で軽いものなら自分ですませる。
しかし、墓参りは水とか花とか線香とか
いろいろと備品が必要だから一人では困難だ。
墓参のときは、ぼくがサポートする。
母は手押し車でゆっくり移動し、
ぼくが先回りしながらあちこちかけまわる。
花を買っていると母が追いつき、ともに青梅街道を渡る。
ぼくは線香を買い、火をつけ、水桶と柄杓をとりにいく。
そのあいだ、母はまたゆっくりと手押し車を押す。
三澤家の墓に行くには斜面をくだらねばならない。
これがなかなかの作業だ。
自分のペースで母も歩きたいだろうから、
急坂や階段のように手を携える必要がないかぎり、
真横を歩かない。
空や木々をながめながら少し前をゆく。
ときどき立ち止まって母を待つ。
今日も、そうやて母は陽だまりのなかを
ゆっくりゆっくり息子のほうに歩いてくる。
つらそうではないが、見つめているとこみあげてくる。
ひたすら仕事をしていたときは考えられない
時間が流れている。
仕事だけの人生はある意味つまらないという人もいる。
しかし、冷静に考えるとそれよりいい人生がどのくらいあるというのだ
と思って激しく仕事をしてきた。
だが、こうした暮らしも、
また意味のある生き方だと思えるようになった。
卯月の空を風がわたる。
沈黙してならぶ墓石のなかを、母がゆっくり動く。
声はかけない。あせらせたくない。
待つことがちっともストレスにはならない。
ふしぎだ。
そして、
母より先に死ねないと思う。
でも矛盾するようだが、
もしかすると母は、かなうならば
ぼくの人生を見届けたいのではないだろうか。
母親の本質はそこにあるのかもしれない。
ラボ・テューターが女性である理由も
最近、少しわかるような気がしている。

昨日は、さすがに土曜日ということもあって、近隣のみなさんや
卒業生などが、観桜に訪れていた。
上は教会方向。
なお、冒頭に掲載した正門の直線は
ゼロ戦をつくっていた中島飛行機の
研究所がつかっていた滑走路だといわれてきた。
ぼくらもそれを信じていて、よく滑走路を三往復! などといっていた。
しかし、どうもそれは都市伝説らしい。
たしかにICUは東京ドーム13個分という広大な敷地だが、
もともとは中島飛行機の研究施設であった。
それは事実だし、ICUのとなりには中島飛行機の技術をうけついだ
「スバル」の富士重工の工場がいまもある。
だが、このマクリーン通り(建学の功労あった牧師の名から)を
滑走路でつかっていたという証拠になるものはないようだ。
実際には試作機ができると、近くの調布飛行場に陸送し
そこから飛ばしていたらしい。
たしかに
正味600メートルでは、いかにプロペラ機でも離着陸は困難だろう。
下は図書館方向を撮影。

3/31 4/3 そして昨日と連続で大学にきた。
もちろん、桜のためだけでなく、それぞれご用のむきがあった。
昨日ももちろん用事があったのだが特別ゲストもいらっしゃった。
写真でおわかりだと思うが…。
なにをかくそう
以前から一度行きたいとおっしゃっていた、
というより、前回渋谷でフェルメールを観て銀座でお茶を飲んだとき
「次はお花見のころ」となんとなく勢いに押されて
約束していた「かせだま」さんがやってきたのだ!
まあ、桜が見頃で一安心。
さらに、仲良しだという井口理子さんも遅れて登場。
午前のパーティを終ってかけつけられたとのこと!
かせだま「春休みでパーティするの」
井口「新学期パーティの準備ね」
船長「心がけに差があるようですなあ」
いずれにせよ、失礼な会話である。


話は大きくぶっとんで、前回の日記で載せなかった「なまはげ」。
下は男鹿の真山(しんざん)神社の境内にある「伝承館」の内部。
写真はどんどんオッケー! とあかるく管理の人がいってくれたのが楽しい。
ここは、「なまはげ発祥の地」のひとつといわれる
真山神社が管理しており、冬期は週末、それ以外の時期は毎日、
「正統なまはげ神事」を見学することができる。
それで伝承館というのだ。
この伝承館は、民家をそのまま使用しているが、
となりには近代的な「なまはげ館」があり、
さまざまな資料の展示や映像などを見学することができる。
※今回は、そこで取材をするのがひとつの目的でもあった。

なまはげ様がやってくる部屋。
なまはげの由来や詳細は、ぼくが書かなくても
検索すればいくらでもでてくるのでそちらにおまかせ。
ただ、起源には諸説あるということと、
「なまはげ」とよぶ大晦日の神事は秋田の男鹿だけだが、
似たような年越しの神事は県内や東北地方に
いくつか見られるという点は書いておこう。
下は、流し撮りの効果が出すぎて、怖すぎるのでどうかと迷った写真。
なまはげ様乱入のシーンである。
大晦日の夕方、午後4時くらいからスタートして
家いえをまわり、午後9時ころには終るそうだ。
そうじゃないと、なまはげ役の人が年越しの用意をできないからね。
この乱入は、とてつもない大音響をたてる。
それだけで、おとなも恐怖を感じる。
テロリストがとつぜん入って来たらこんな感じだろう。
たが、この大音響にも「魔をはらう」という意味がこめられている。
そして、突入前になまはげ様は七回、
途中で五回、帰り際に三回、という七五三の四股を踏む。
これも大地のオカルティックなクリーニング作業だ。

なまはげ様がひとしきりあばれ、子どもたちをじゅうぶん泣かすと
※子どもに触れることも破邪の作業だという。
家長が上座にすわらせ、年越しのお膳と酒をふるまう。
でっかい茶碗ででるので、なまはげ役にはリザープがいないと
たいへんなことになるらしい。
しかも、家から家へ走って移動するのでもうべろべろ。

そして、家長となまはげが問答をするが
その内容は時代によってかわる。
現代では
「おめんとこのわらしこは、ゲームばかりやっでねえが」
とか「○○んとこの嫁は韓流ドラマにはまってんでねえが」
なんて具合だそうだ。おもしろい。

この日、大晦日でもないのに運悪く親に連れてこられていた子どもは
いうまでもなく大号泣。
なまはげ様が去ったあとは、わらくずがすごいが、
これも神聖なものなので、元旦の朝までそのままにしておき、
年があけてから焚き付けなどに使用するという。
男鹿には60ほどの集落があり、それぞれやり方もなまはげのコステュームも
微妙に異なる。
なまはげの異形の面には角がついてることが多いが
この真山地区のなまはげ様には角がない。
それは、鬼ではなく神であることの証だとうかがった。
雪深い里で、大晦日の闇のなかで行なわれる神事。
おしこめられた冬の暮らしのなかで、
新年の訪れとともにあたたかく、そして命が芽吹く春をよぼうという
せつなく、そしてひたむきなきもちが
このあらあらしい神事にこめられているにちがいない。
夜、男鹿温泉の宿の大展望風呂から外を眺めたが、
夜景はおろか、まったくなにも見えない漆黒の夜がひろがっていた。
なまはげ様役は基本は独身男性だそうだ。
案内してくれた方は、年配の方だったが
若き日にはなまはげ役を何度もやり、
飲めなかったお酒が大好きになったそうだ。
「でも面をつけて、酒を飲むと、たしかに人格がかわります。
なかにかが乗り移ったようになり、車をひっくりかえしたりしました。
こわいですよ」
世界中、祭りは、基本的に人々を異常なテンションにさせる。
ファナティックであること、
ディオニュソス的であることは
祭りのもつ本質であろう。
ラボっ子囃しのように。
狂わなければ祭りではないともいえる。
きびしい日常の対極に
ぶっとんだ祭りは存在する。
ラボでけが人がでたら困るが
テーマ活動もソングバードも祭りの狂気に通じるところがある。
それは、ことばと身体がもつ神性とも関わるのではないだろうか。

桜を見てからお二人を調布飛行場にあるプロペラカフェにご案内した。
ここは、飛行機やヘリを間近に眺めながら、かなりおいしいランチや
スイーツがお安くいただける。
しかし、残念ながら土曜日で超満員であった。
そこで記念写真のみ。
ブロメテウスのproはさっきも書いたように「前」であり
produce program propellerなど関連する語は数かぎりない。
対して弟のエピメテウスは「後から考える人」である。
Episode Epilogue なんかも同根。
エピメテウスにはゼウスたちがパンドラというやっかいものをおくりこんだ。
パンドラには、神がみが、美、好奇心、などとともに
例の箱をおみやげを持たせた。
パンドラがあけた箱のなかからは多くの厄災があふれた。
今のわれわれには、
そのときのように、「希望」がのこされているのだろうか。
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三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。いよいよ4月だ。
はやいなあ。もう1年の第1クォーター終了だ。
絵は小野かおる先生原作の『はるかぜとぷう』。
(昨日はまさに「とっぷう」が吹いたぞ!)からライオンの咆哮。
先月は「きてれつ」のタカビー姫が怒っていたが、
今月も怒りのパワーだ。甲府市の望月孝輔くん(小1)! いいぞいいぞ!
ぼくも、このカレンダーは20年以上つくってきたが、
この場面は常に子どもたちに大人気で毎年たくさんの作品がよせられる。
原作の絵本の構図は見開きをめいっぱいつかって
ライオンが斜めに描かれているのだが、
望月くんは生真面目なのだろうか、きっちり真正面から描いて、
みごとに画面におさめた。
それがまた、ふしぎな迫力になった。タッチも元気がいい。
下書きの線がのこっているが、それを塗り絵するのでなく、
あくまでも目安にして、
というよりほとんど気にせずガッと彩色しているのがすばらしい。
全体にラフなようだが、
けっこう背景やライオンのディテールも描き込んでいる。
特に背景のビリジアン系の濃淡をつかったしつこさは、
動物園にいるライオンというより草原の王者の風格だ。
そして、深読みしすぎかもしれないが、
怒っているライオンが、どこか哀愁をただよわせているように感じる。
羅針盤も海図もなく、霧の海をさまよう日本のことを憂いているのだろうか。
きっとそうだ。若い魂ほど最先端の現実にさらされているのだから。
土曜日、低気圧が接近し、まさに「とぷう」が吹き荒れるなか
久しぶりに母校ICUを訪ねた。
桜まつりと称する同窓会の総会である。
例年この時期に行なわれ、各界で活躍する卒業生の表彰などの式典があり
その後はキャフェテリアで懇親会である。
正門から800mつづくソメイヨシノの並木は残念ながらまだ莟だった。
入学式のある3日には咲いてほしいぞ(この日も行く予定)。
満開になれば、見事な桜のトンネルになり、
新入生は2月の受験ときとは見違える風景に感動するはずだ。


今回、ぼくは総会出席とともに、
グラウンド人工芝化プロジェクトの発起人にもなっているため、
そのアピールと寄付集めという役割ももって参加した。
だから名札を2枚つけるはめに。
ICUは若い大学だが、まもなく建学60年をむかえる。
その記念事業のひとつとして、
関東ローム層で、でこぼこ、ぐちゃぐちゃの土のグラウンドを
人工芝にしたいという運動部連中の願いをかなえてもらおうというわけだ。
体育館をたてるのは、20億円くらいかかってしまうが、
人工芝化は1億5千万くらいでできる。
そこで、運動部を中心にある程度の寄付を集めたら、
大学も協力しようということになった。
とにかく、土のグラウンドは起伏もひどく危険であり、
雨や霜の後は泥沼化する。
そのため、サッカーもラグビーもわがアメフトも
公式会場の指定から外れそうになっている。
そうなるとホームの試合ができない。
かつて人工芝は膝によくないといわれたが、
今の人工芝は、クッションもよくなり、アマチュアレベルでは
いちばんつごうがいい。
※Jリーグはすべて自然芝。
懇親会てはなつかしい人にも会えた。

まずは、みなさんご存じの翻訳家・通訳の鈴木小百合さんである。
信じがたいだろうが同期である。
この日は、息子さんも卒業生ということで、お孫さんも連れてこられていた!
驚くべきことに、彼女は同窓会グッズの売り子をしていた。
湯浅芳子賞(チェーホフなどの名訳で知られる湯浅芳子先生の遺志で
日本の翻訳文学に贈られる唯一の賞)受賞者で、ハリウッドスターご指名の通訳、さらにラボ・ライブラリーの担当者に、なにさせるねん!
と、つっこみたくなったが、彼女が手に持っているレターオープナーは
彼女がプロデュースしたときいて、結局買ってしまった。
ラボのみなさんにくれぐれもよろしくとのことである。
「三澤くん、元気そうで安心した」
といわれ、ウルウル。

で、これまたなつかしいマアちゃん、こと大河原雅子さんとも再会。
世田谷で生活クラブ生協の活動から政治に関わるようになり、
都議をへて現在は民主党・東京都選挙区選出の
参議院議員(100万票以上あつめた)である。
彼女も同期でラクビー部のマネージャーをしていた。
ぼくとYMCA野尻湖山荘で行なわれる体育科主催の
学生キャンプをともに運営した仲である。
そして、本日、去る1月21日に逝去された教育評論家・村田栄一さんのお別れ会
「村田栄一を語る会」に参加した。
会場はフロラシオン青山。茶畑さんの展覧会でおなじみのスペースユイのちょい先。
外苑西通りをひとくだり、六本木ヒルズを遠目にしながら、
例のスキーショップJIRO(下世話なことを書くと、S井N子さんの元夫の実家)の角を右折して1キロくらい。
おしゃれなこじんまりしたホテルだ。

松本輝夫前会長と大矢省三前理事と遭遇。
といっとても松本氏からぼくは連絡をもらっての参加。
時本社長もこられていたが、人数が多くてはぐれてしまい
撮影できなかった。
ひさしぶりに松本氏と思い出話と近況報告合戦。
あいかわらず、精力的に話される。
ぼくもまけじとしゃべるので
まわりは大迷惑だったろう。

会場では村田氏の著書が飾られ、ラボのし本もちゃんとあった。

※村田氏につしいては、この日記のバックNo.
「さよならガリバー」を参照しておくれ。

ともかく、たくさんの人が参加されていたので驚いた。
村田氏の人望の高さが偲ばれる。
急逝だっために、「くやしい」「わたしより先に逝くとは無礼」
といった愛あふれたメッセージが
村田氏よりも年上の方からよせられていた。
上の写真は、もう若い人はわからなんいだろうけど
「カバゴン」こと阿部進さんである。
4時近くに、松本氏と握手して別れた。
氏からは彼が主催する研究会の機関誌を贈呈された。
そういえば、この前、松本氏とあったのは2010年の11月、
ラボ事務局OBの告別式だった。
次はできれば祝賀の席であいたものだ。
別れる人の数が
出会う人の数より増えてくる日が近づいているのたろうか。
いつかは、そういうときが来るのはわかっている。
でも、とりあえず前にいこう。
まだ知らない夜と昼がある。
読者諸姉も、まだ見ぬラボっ子に出会わねば!
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例によって、またわけのわからないタイトルである。
たぶん読者のみなさんも、もう突っ込みはおろか
リアクションすることもあほらしくなっていると思う。
それはともあれ、風花(かざはな)ということばは
きいたことはあるけれど、いったいどういうものかよくわからん、
という人がけっこういらっしゃるので、少し触れておく。
風花は、晴れた空から雪が風に舞うごとく降ることで
原因の多くは、遠くの山などに積もった雪が風によって飛ばされることにある。
写真は、秋田県男鹿半島の寒風山。
3月25日の朝、男鹿温泉より300ミリで撮影したもの。
高さ355メートルの成層火山だが、周囲に高い山がないので
じつに堂々と見える。
その名の通り、寒風のなかに凛として立っている。
私事で恐縮だが、この前日の24日、59歳の誕生日を迎えた。
3年前の31日、緊急入院して4日後に告知を受けたときには
今日まで命があるとは思っていなかった。
手術、そしてその後のケアをしてくださっている
東京都医療公社大久保病院の丸山祥司医師にただただ感謝する。
そして、本当に多くの方にパワーをいただいていることに
心からお礼を述べたい。
特にラボ関係者のみなさん、
母校ICUのフットボールティームApostlesの
監督、選手、マネージャーのみなさんには
格別の力を付与されていると思う。
Positiveに前進する若い命をぼくは食べている。
医学的に根拠はないが、positiveであることは
免疫力や自己治癒力に大きな影響があると主治医もいう。
そしてもちろん、この日記の読者にも
すばらしい力をいただいてることも忘れていませんぞよ。
今回の男鹿半島行きは例によって仕事のためなので
くわしくは大人の事情で書けぬが、
土曜日にがんばって作業して日曜日はオフになり
とってもなつかしい人と再会することができた。
ラボ教育センター東北支局に入社し、事務を担当、
その後、東京本部の制作・広報局(当時の名称)、
すなわち、ぼくのところで「ことばの宇宙」を担当してくれた
鎌田園子さんである。
彼女を知っている人は、「なつかしい!」でしょう。

とっても明晰で、人にもことばにもていねいな対応ができるので
その後、神奈川支部のデスクに異動になったときは、とっても悲しかった。
現在、彼女は郷里の秋田県井川町という八郎潟の近くの生家にいて
農業公社の種苗センターに勤務して元気にくらしている。
地元の自然、食材、農業に興味をもち
大地と人間の基礎を見つめる仕事に関わろうと思ったそうである。
しかし、そうした思いもラボで学んだ広い世界があってのことだという。
Think global and act localを実践されている。
そして、今も、というより今のほうがたくさんラボ・ライブラリーを
聴いているそうだ。
「通勤は車ですが、その往復で毎日聴きます。
お気に入りは賢治と十五少年」
というので感動して泣きそうになったが、
その場(写真の場所・撮影はわがマネージャー)は
人気のある「ゆう菜や」という農家レストラン
(無農薬野菜のてんぷらと無農薬ヤーコン麺)で、
しかも昼時で満席だったため、さすがに遠慮した。
彼女が制作にいたのは2年ほどだが、スタジオで録音に立会ったり、
テキストの校正をしたのは、今では夢のようで
「すごい世界にいたんだなあと、あらためて思います」
としずかに微笑まれた。
「わたし録音のとき、英語のまちがいひとつみつけたんですよ」
「えーっ、そうだっけ。すごい! たとえひとつでも大ファインプレー」
「それもたいせつな思い出です」
ラボで仕事した年月が、彼女にとって、
やわらかく、そして今につながる経験になっていることにホッとした。
昼食が終り外にでると、今度は風花ではなく
ほんとうの雪になった。
そんななか鎌田さんは、空港の検査場まで送ってくれた。
「彼岸過ぎの雪はよくあるんです。
でも、もうすぐ春。八郎潟の一帯では
菜の花と桜がいっぺんに咲き誇るんですよ。
そのときに来てください」
ラボにいたときとかわらない生真面目さで
気をつけするように背筋をのばしていう。
その姿は風のなかに凛と立つ寒風山のようだった。
さて、話は前後するが3月18日に
ラボ国際交流のつどいに招待していただいた。
わかものフェスティバル、中部支部・中高大生フェスティバルに続いて
ラボ行事三連発だ。
昨年は震災の影響で中止になってしまったので、
2010年以来である。
そして、ラボ国際交流センターが公益法人として認可された春という
まさにリスタートといえる「つどい」である。
※↓佐々木財団会長あいさつ @日比谷公会堂

公益法人として国から認められたということは、
長年にわたる国際交流事業の実績が
評価されたものであることはいうまでもない。
ご来賓の方がたからの祝辞にも、その旨が表現されていた。
めでたいめでたい。
だが、それは同時に大きな社会的使命、責任を背負うことであり、
より緻密な安全性、より内実をもった国際交流活動の展開が求められている
ということでもある。
そして、その活動の範囲はラボっ子のみならず、
一般的な領域、公教育とのコラボ、自治体の国際交流への協力など
これまで以上にPublicに広がる活動が期待されているということである。
誇り高いが、きびしい道をえらびとったのだ。
しかし、だからといって萎縮する必要はない。
まずは、今年の交流活動を事前活動も含めて
きっちりとやりきることがその第一歩だ。
ラボ国際交流の特徴は、ぼくがいまさら書くまでもないが
公益法人化の春に、ぼくなりの整理をしてみたい。
日比谷公会堂にいったのは、テーマ活動を観るだけでなく、
旅たつ子どもたちからパワーをもらいつつ、
上記のことを考えてみたいと思ったからだ。
ラボ国際交流は四段階で展開する。
まずは、幼いときから積み立て、そしてパーテイ活動のなかで夢を育む。
そして、二段目は事前活動である。
ウィンター、ないしはスプリングという全国規模の交流キャンプをかわきりに
パーティ活動とは別に準備の参加のための活動を行なっていく。
これは、いうまでもなく、ラボ国際交流の最大の特徴だ。
三段目は、交流そのもの、相互ホームステイである。
この「相互」という点はとても重要だ。
受け入れがあってこそ成り立つ活動なのだ。
ラボの場合、交流開始以来、来日者数よりoutoundのほうがはるかに多い。
だからかつては、受け入れの希望をだしても、
なかなかかなわなかった。
しかし、近年は外国の友の受け入れ希望はけして多くないときいた。
住宅や家庭の事情、ライフスタイルの変化などがあることは理解するが
やや、残念ななことである。
受け入れ活動も充実させていかなければ
公益法人としては恥ずかしい。
で、ラボ国際交流の四段目。
それは、もっとも長く美しい段階だ。
ホームステイで得た経験と絆を携えて生きる
残りの人生すべててである。
ラボ国際交流は一夏の経験ではないのだ。
そして、
日比谷な公会堂のオープニング、
恒例の参加者諸君の決意表明を観ながら
いろいろと考えた。
ラボ国際交流の目的がラボっ子の能力のデモンストレーション
にあるわけではない。
また、ラボ活動で学んだ成果の確認という面を否定はしないが
それがすべてでもない。
では、いちばんたいせつなことはなんだろう。
それは、おそらく愛されることだと思う。
これはけっこうむずかしいことだ。
愛されようとして、愛されるものではない。
媚をうってもきもちわるいし、甘えればいいというものでもない。
こたえはひとつではない。
たとえば、
なにかに全力に取り組む人は愛される。
いつも笑顔の人はまわりを幸せにするから愛される。
それから、なにか人にはないものをもっている人も愛される
ともあれ
受け入れをする家にとっては
「愛される人」が来てくれれればうれしい。
周囲に自慢したくなる。
そのことで地域が再結合する。
そして、家族もまた再結合、Reunionする。
家族、そして地域が再結合していくこと。
それは世界の平和への一歩であることはたしかだ。
これは、大きな公益性につながる。
ラボの場合、比較的低年齢の交流であるから、
高度な技術や経験を要する文化交流はむずかしい。
であるからこそ、「愛されること」はたいせつだなあ。
ホストファミリィの愛情を通して世界を知る。
なんと幸せなことだろう。
その経験は、世界を、人間を、自らと異なるものを
愛することのできる力になる。
そして、その力が
世界の力学に向きあい、
不公平や、差別から目をそむけない精神の根っこになる。
中島パーティの『こつばめチュチュ』は、
子どもたちの表情がすてきだった。
写真でその発表人数がわかるだろうが
この規模でのテーマ活動は大事業である。
疲労すれば、いきちがいもおこる。
でも、そんなことを微塵も感じさせない
輝いた表情がうれしかった。
「わたしたちは、この物語が大好きです」
という気持ちが伝わってきた。
ご承知のように、
『こつばめチュチュ』は複雑な人事の相関がある物語ではない。
だが、長い間、圧倒的にラボっ子たちに支持たれてきたのは、
終始、チュチュに寄り添い励ますテキストと
それを裏打ちする江守氏の語りである。
その意味では、旅立つ若者たちをおくる
国際交流のつどいでの発表テーマとして遜色はない。
幼い子どもも、高大生も、
リードする、されるという関係ではなく
それぞれ楽しんでいたのが
さわやかだった。







冒頭の写真の寒風山は、3万年前に活動をはじめた。
現在は気象庁指定の活火山にはふくまれていない。
周囲に高い障害物がないので、無線やテレビの中継地点には絶好だそうだ。
最近の記録としては1810年に噴火した、
という江戸幕府に提出された文書が残存する。
だが、この文書には被害や噴火のディテールが書かれていない。
また、後の調査で噴火の堆積物も見つかっていない。
つまり、農作物の被害を水増しで幕府に申告するための証拠として、
当時の久保田藩がねつ造したものらしい。
ばれれば、お家とりつぶしだが、
そんなリスクを犯さざるを得ないほど
逼迫していた北国のくらしがあった。
冷害、日照り、年貢、
そ奪われることのみであった人びとの遠い悲しみをうけとめて
寒風山は、今も凛と立っている。
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あの日から1年たった。
平安な日常が続くと人間は退屈し、変化をもとめる。
食べて、寝て、歩いて、笑って、泣いて、嫉妬して、排泄して、
愛し合って、歌って、入浴して、出会って、別れて、感動して、
祈って、疑って、いなくなった人びとを心に生かして…。
人は生活するために生きる。
そんなあたりまえのことが、
60年近く恥多く生きてきてやっとわかった。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
弥生ならぬ『きてれつ六勇士』のお姫さまだ。
グリム童話にはいろいろな姫がでてくるが、
この姫というか王様の娘は、とりわけ高ビーで、
ワガママむすめの代表か。
まあ、父親が父親だから当然かもね。
その姫さまをわざわざ、そして大迫力で描いた
小金井市の関百合河さん、やりますなあ。
このいつも超不機嫌な姫が、
絵ではなぜかマジに怒っている。
彼女に毎日に壁から「喝!」を入れられるのも悪くないぞ。
今の日本のおとなたちを見れば、
「あんたたちなんかだいきらい!」という姫のきもちはよくわかる。
自分も含めて耳が痛い。
でも、「ぐたぐだいってないで、とりあえず前にいなきさい」、
ってはげましてくれてもいるんだよね。
作者は小学校1年生。自由帳をあげたら、
1冊全ページお姫さまを書いてしまうお年頃。
だけど、そんな夢を見ながらも、
しっかりと足元も知っているんだよね。
姫が肩をいからせてがっしりと立っているのがそのあかし。
姫は逃げない。おいらたちも逃げてはいかん。
さても11日、ぼくは愛知県にいた。
名古屋の親戚のあつまりにに母のかわりに出るためだ。
でも、せっかくいくならと刈谷市で開催された
中部支部・中高大生フェスティバルを見ることにした。
おしのびであるが、当然ばれる。
なつかしいテューターや
最近Facebookで交流しているOB連、
久保くんとか神谷くん(社長!)などとも再会できた。
お顔をだけで、ごあいさつできなかった方ごめんなさい。
で、下のリンクからFacebookのアルバムを見られます。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.271622362914123.61604.100001990857831&type=1&l=21cc2cf436
2月末に「わかものフェスティバル」を観て、
今回は、他の用事のついでで恐縮だが、中部支部中高大生フェスティバル。
そして今度の日曜日は日比谷公会堂で国際交流のつどいで
『こつばめチュチュ』を観る。
この春はテーマ活動連チャンだ!
刈谷では朝10時20分から17時20分まで
たっぷりとテーマ活動漬けになった。
会場となった刈谷市総合文化センターはすばらしいホールだ。
照明もいいし、音響も超まではつかないが、いい感じ。
音楽CDがきもちよく届いてきた。
刈谷市民うらやましいぞ。
ただ、残念なのはピンマイクが足りなかったのか
二名くらいは手持ちのワイヤレスマイクを使用していたこと。
まあ、そんなことは些細なこと。
テーマ活動は、基本はとても小さな空間で
近距離の関係性のなかで、
また、観客という「観るだけの人」が
ほとんどいない状況で行なわれるものであり、
大きなホールでの発表は、ある意味特殊である。
しかし、逆にいえば、
母子二組とテューターのプレイルームから
30名以上の幼児から大学生による大きなステージでの発表、
そして、大学生や高校生という世代グループによる試みなど、
テーマ活動という教育プログラムの幅の広さは
他に例をさがすのが難しい。
さらに、いますぐにでもできるが、
いつまでも、何回行なっても終わりも完成もない。
この点もラボ活動の個性といえる。
「わだばゴッホになる」といった不世出の天才版画家
棟方志功は、「版画が版画を生み出す」と述べているが、
テーマ活動もまた、新たなテーマ活動を生み出す装置かもしれない。
もちろんテーマ活動の本質はラボっ子自身による「活動」であるから
人間がつくりだすものである。
それはラボ教育全体にもいえることだ。
しかし、45年もたつと
すでにそれは、太陽や月のように
人間とは別個に存在する巨大でまぶしいもののように思える。
はたまた、シルクロードの果てに無限遠の彼方に結像する
蜃気楼の都のようにも感じられる。
だけど、だから、それにむかって努力し続けることができる。
さきほど、「テーマ活動はいつからでもできるが、
いつまでも終らない」と書いたのは上記のことからである。
教育プログムラムではあるが、
マニュアルも指導書もアンチョコもない。
いや、教育の本質が学び合いであり、癒しでもあるとすれば
そんなものは本来不要。
ライブラリーのような睦み合うべき題材があればいい。
ラボが総合システムへと大きな舵をきった草創期、
現在のようなテーマ活動の姿を予見したものは誰もいなかったと思う。
それは当時のライブラリー制作者でもだ。
まさに、テーマ活動がテーマ活動を生み出してきたのだ。
その意味では「テーマ活動をたくさん観ること」も立派なラボ活動だ。
棟方志功のみならず仏師も
「木のなかで仏が掘り出してくれというまで待つ」という。
画家も「筆が動き出す瞬間」があるとつぶやく。
また、
モーツァルトは「はやく楽譜をくれ、音楽がこぼれ落ちる」と叫んだ。
ひとつのテーマ活動はいわゆる日常パーティだろうと
いわゆる練習(このことばはテーマ活動に使いたくない)だろうと
発表(本音をいうと発表という表現はテーク活動にはなじまない
ことばだと思う。テーマ活動のなにを発表するの? なんてひねくれるけど
ほかに適当なことばが見つからないな)だろうと
それぞれ一回性のものであり、二度出現しないものだ。
広い意味でのパフォームするものは、基本的に一発勝負。
演劇も演奏もしかり。
どちらも脚本と楽譜という記録メディアがあるが
演出やタッチで、その表現は大きく変化する。
また、毎日演じられるロングランの芝居でも日々違う。
能でも狂言でも落語でもそう。
テーマ活動は芸事ではないが、芸事と重なる部分はある。
話はとぶが(いつものことだ)、
いつまでものこっていくのは、絵画や文学である。
もちろん、受け手によって感性がちがうし
同じ受け手でも観賞する年齢、季節、気分などでも
感じ方はかわる。
しかし、作品そのものは変わらない。
基本的に文字も絵も(古い作品は画材の退色はあるけれど)ほぼ変わらない。
ラボ・ライブラリーも大雑把にいえば不変だ。
文学や絵画のような記録表現作品の仲間である。
演奏や演劇は、毎回が勝負という緊張を強いられるが
常に次はもっとよいものをという連続した挑戦ができる。
だけど、文学や絵やライブラリーなどは
発表してしまったら修正はきかない。
100年でも200年でも、いやそれ以上でものこる可能性がある。
口はばったいがそんなものの制作に関わっていたとは
あなおそろし。
ではどんなものがのこるのか。
時代をこえて存在し得る人間の本質を描いた作品であること。
この一点につきるだろう。
以前、「未来までのこしたい文学100」にただ一編選出された
日本文学は『源氏物語』だけだと紹介した。
この長大な作品を通読するのはとってもたいへんだ。
今、ぼくは英訳と同時に少しずつ読んでいるが、
秦恒平先生(『なよたけのかぐやひめ』の日本語を担当された作家)のような
指導者につきたいくらいである。
でも、おもしろい。
古典だから過去のこととふりかえるのではなく
今のことだと思って読めばほんとうにおもしろい。
やはり人間の本質を描いているからである。
そして、今、古典とよばれ時をこえて生命を得ている作品は
すべからく当時のニューウェーブである。
それまでだれも見つけなかった新しい文、色、形、音を
とりだしているからだ。
ヴェートーヴェンも交響曲第五番を発表したとき、
多くの評論家が前のほうの席に陣どった。
イケメンとはほど遠い、しかも権力に媚びない生意気な作曲家の
新作にブーイングを浴びせようという魂胆からだ。
しかし、演奏が終ったとき、
その評論家連中は、
ブーイングはおろか、総立ちになって熱狂する観衆のなかで
椅子からた立てないほど驚愕した。
この曲のあまりに有名な第一楽章の出だしは
例の四連符である。
でも、この和音はそれまでのバッハ、ヘンデル、ハイドンが築いた
緻密なモザイクのような和声の規則をゆるがすもの
すなわちニューウェーブだったのだ。
機械的に構築されたきれいな音だけで
運命の扉はたたけない、人間の本質は表現できないと
ヴェートーヴェンは考えた。
だから、ヴェートーヴェンもモーツァルトも
今聴いても、100年後に聴いても
変わらない本質をもっている。
今のポップスがどのくらい賞味期限があるだろうか。
でも、やはり音楽は演奏によって左右される。
間宮先生によると、
ヴェートーヴェンの時代は作曲家と演奏家が一体だったから
分業家が進んだ現代では,譜面通りに演奏しても
微妙に異なるそうである。
いつにもましてぐだくだになってしまった。
中高大生広場は、じつに多くの発表がありおなかいっぱいになった。
ひとつひとつについては書かない。
ただ、英語のみの発表、中学生のみの発表、
高校生のみの発表、さらに中高大生での発表、
はたまた大学生の発表があり、
よい意味で比較して考えることができ、
とっても学ぶことが多かった。
ラボから離れた今でも、テーマ活動は
物語について、言語について、そして人間について
深く考えさせてくれる。
それもまた、ラボの公共性、社会的意義であることはまちがいない。
発表ひとつひとつについて書かないといったばかりだが、
みんなとってもよくがんばっていた。
中学生以上ともなれば、
やりたいこと、やらねばならないことが数多くあるはずなのに
ラボのしかもパーティをこえた活動に
よくぞ時間と自分のエネルギーを投入してくれた。
それだけで十分!
だが、そのなかでもピカっと光る
「うーむ、こいつは将来楽しみ」っていう若者が
何人も発見できたのはうれしい。
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えらく過激なタイトルではじめてしまったが、
これは20世紀初頭のフランスの作家・哲学者
ボール・ニザン(Paul Nizan, 1905年 - 1940年)の『アデン・アラビア』の
冒頭を拝借したものだ。
ついでにもう少し引用しておく。
ぼくは二十歳だった。
それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。
一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。
恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも。
世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。
ポール・ニザン(篠田浩一郎訳)「アデン・アラビア」、
『ポール・ニザン著作集1』昌文社、1966年。
ニザンはマルロー、アラゴンらとともに反戦、反ファシズムを掲げた作家だ。
この『アデン・アラビア』はニザンが26歳のときの作品である。
さても、
若さはときに峻烈で、ときに弛緩し、
ときに金属的で、ときに液体のようであり
ときに脆くて、しかしあきれるほどしなやかでもある。
ときに美しく、ときに妖しい。
さまざまなアンビバレントが若さの大きな特徴だ。
そんなおっさんのねたみごとはともかく、
26日の日曜日、世田谷区民会館に
わかものフェスティバルを見にいった。
その10日ほどまえから
「見たいなあ。券はあるのかなあ」と
わざとらしくFacebookでつぶやいたら
「ほっとくと暴れるかもしれない」と恐怖に思ったのか
ラボ教育センターのある理事から
「招待券あります」とのメールがきた。
ほとんどやくざの手口だね。こまったOBだ。
フェスティバルは朝10時30分から17時30分までの3部構成。
10支部の大学生年代の表現活動の成果が発表される。
まあ長丁場。
主催者も観客もたいへんなのよ。
まず、はじめに書いておくのだが、
フェスティバルを企画運営した実行委員諸君、
発表した10支部の表現活動メンバー、
そして観客のみなさんに
心より感謝とねぎらいのことばをおくりたい。
1200名収容の会場を朝から夕方までフルハウスにし
大きな混乱もなく、ほぼ時間通りに運営したことは
ある意味当然ではあるが、立派なことである。
また、大学や専門学校の講義、アルバイトやサークルなど
多くの時間を多様な活動に求められる年代の彼らが
日常的にラボ・パーティの会員として毎週活動するだけでなく
自分たちの陶冶と向上を求めて
表現活動に時間と経済とエネルギーと愛情を
注いでいることは驚異であり、ただただリスペクトする。
しかも、彼らの道程の後方には、幼子たちの熱視線がある。
子どもたちとつながっていることも、みのがせない。
そのうえで、あえて今日は、彼らには耳ざわりのよくないことを
書くかもしれない。
大学生年代はラボの、ある意味で先端・前衛・フオワード、
ぎゃくにいえば最後衛・フルバックである。
その彼らに対してロートルがぼやいても
たまにはいいかな。
ところで、日本人はどうしても「中高生」とか
「もう6年生」だからなどと
学年、学齢で区切る傾向がある。
大学生年代の活動も、大学生活動という名称では
専門学校生や社会人もいるからという理由で
かなり昔に、年代という尻尾がつけられた。
しかし、やはり大学生という学齢が表記される。
ぼくは、以前から学年による区分けは
「便利だけとよくないなあ」と思ってた人である。
アメリカやヨーロッパでは、むしろ実年齢で区分けされる。
under 23なんていう具合にね。
で、わかものフェスティバルは18歳~21歳くらいがメンバーだ。
そんなわけでタイトルや冒頭にニザンの文章を引用してみた。
ところで
「わかものフェスティバル」の発表団体名は
ほとんどの支部が「表現活動」ということばをつかっている。
「テーマ活動」とはいっていない。
これは大きな点だ。
また、主催はあくまで実行委員会で
ラボ教育センターは後援である。
まあ、これはたぶんに彼らの自主性をおもんぱかってのことで
なにかあったら、やっぱり責任はラボ教育センターであるが…。
しかし、まがりなりにも表現活動ということばをあえて用い、
さらに主催という一丁前の看板をだし、500円でも料金をとる以上、
それなりの責任と結果を自らに課さねばなるまい。
ここで、読者が「また船長の長話だ」といやにならぬうちに
だいじな告知。
ここでは、ごく一部の写真をアップしているが
全発表の全写真はFacebookのアルバムにしてある。
Facebookをやってない方も以下のURLで閲覧できる。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.262762543800105.59780.100001990857831&type=1&aft=262767630466263&l=d0f860bdae
よろしければごらんくだされ。
※見られないときは私書箱に連絡ください。
世田谷区民会館は古いが、なかなか装置はいい会場だ。
ぼくは会場10分前に着いたがすでにたくさんの人。
いまや全国行事となった感のある「わかものフェスティバル」である。
関西からも

もちろん地元東京も

北関東からも

神奈川からも


昼食を近くの喫茶店でとっていたらそこでも神奈川軍団。
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ご父母も、それから10歳くらいの子どもたちもいる。
ぼくがこのフェスティバルを見るのは数年ぶりだが、
前回はたしか神田だったが、じつに遠くから小学生が
母親ときていて、その親子ともども感動していたのを見て
感動してしまったのを思い出した。
その子はキャンプでシニアメイトだった大学生が出るときいて
はるばる関西から親子できたという。
そのときの発表テーマは、けっこうヘヴィな作品が多かったのだが
彼は「ぜんぶもっているライブラリーだけど
今まであまり聴いたことがなかった。でも、帰ってすくに聴きたい」
とうれしそうにいった。
ありがたいことである。
で、開場になり、入り口でプログラムのようなものをいただいた。
「大学生の本気」とある。
いやなおじさんは、ここで? となる。
なぜ、なんで本気? というわけだ。
あたりまえだろう。
表現あるいは活動と名付けるものは本気、
人生を総動員してむかわなければ意味がない。
文学、音楽、絵画、演劇、映画、なんでもそうである。
ふだんは「うそん気」なのかな、なんてイヤミだなあ。
しかし、まあまあと思って席についてから
実行委員長とコーディネイターのあいさつ文に眼を通した。
きびしいことをいうが、意味がよく伝わってこなかった。
プログラムに主催者として書く言語としてはつらい。
ほんと、こんなきびしいことを書くのはめずらしいが、
せいいっぱいの愛情と思ってほしい。
すくなくとも文からは本気の意味も
彼らの本気度合いも読み取ることは困難だった。
ましてや一般の人はそうだろう。
18歳以上のラボの仲間だからこそ、
「ことば」に生きるわれわれだからこそ
テーマや、それを表現する言語とは、もっともっと格闘してほしいのだ。
特に公的に表わす場合は、徹底的に吟味し
推敲されぬばならない。
いつも書くことだが、ラボ活動のもつ社会的役割は
ラボ内部の人間が感じているよりも、はるかに大きい。
公教育が、地域社会がなし得にくい「学び合い」を
知的に、かつ美しく、さらに柔らかく実践しているラボ。
しかも、活動の水源を母語と外国語と物語という、人間存在、
人間文化の本質にもとめているラボ。
各界に、すでにすぐれた人材を輩出しているラボは
社会から期待されていることを、
ラボの大人、すなわち18歳以上は誇りをもつべきだ。
しかし、同時にまた期待されるがゆえに、厳しい目があることも
自覚しなければならない。
そのためには、傷つけあってでも高みをめざす
まさに切磋琢磨が求められるのだ。
2012年の日本で今、自分たちが、
なにを、なぜ、そしてどのように考え、表現するのか
きびしく問わぬばならない。
遊びでも、趣味のサークル活動でもないのだから。
もちろん、いわゆる大学生年代の活動は、ほぼ4年のサイクルで
山や谷がてでくる。
ぼくは、いま母校のフットボールティームに関わっているから
そうした学生の組織バイオリズムのアップダウンがわかる。
※だからといって今年が谷というわけではないよ!
今年の実行委員メンバー、発表メンバーの平均年齢や
平均ラボ歴とか個々のデータがないと
あんまり断定したことはいえないことも承知している。
で、発表そのものだか、
いろいろと考えさせてもらうことができた。
これは、ある程度以上のキャリアがあるラボ関係者のコンセンサスだろう。
冒頭に書いたように、まず「よく頑張った」と評価したうえで。
しかし、変ないい方だが、
ものすごく伸び代があると感じたことはたしかだ。
どの発表も、よい点と課題というか努力すべきポイントが
とってもとっても明確だったから。
テーマ活動はあくまで教育プログラムだから
発表については、過程をぬきに評価めいたことはできない。
でも、この年代の自立した活動なら話は別だね。
各グループに尋ねたいこと満載。
さらにいきおいで書くと
個人的には、表現活動といっているのだから
テーマ活動の一般的な枠組みを破壊するようなものが
もっとあってよかったかな。
カトリーヌさんも書かれているが、ぼくが恐怖を感じたり
混乱をおぼえるような実験的、挑戦的ものが見たいぞ!
Facebookのアルバムですべての写真を見ていただくと
よくわかるが、
いわゆる身体表現にふしぎな共通点を感じる。
写真はあくまで二次元的だが
ときに真実を写し出す。
心とことばと身体の厳しい関係を思った。
ことばが強くなければ、身体も弱い。
そして心も届かない。
ことばありき。
それは、個々の努力の領域である。
ラボの活動は他にあまり例がない個性的なものだ。
だから、お手本がない。
常にラボっ子自身がパイオニアだ。
それが強みでありアキレス腱にもなる。
自分たちの力、強さも弱さも自覚しにくい。
人間は自身の弱さを身にしみてから成長する。
大学生年代であっても、いやだからこそ、
正面から向き合う大人が必要だ。
それはテューターであり、
事務局員でもあってほしい。
また書き過ぎてしまったが、
ひさしぶりのラボ活動にふれ、
さまざまな刺激をうけたことはまちがいない。
単一言語、再話、身体表現、語りなどについて、
また、いくつかの物語については新たな発見もできた。
それらについては、次回以降の日記で少しずつ書いていこう。
そうした刺激を与えてくれた彼らに喝采を!
また、じつにくだらないが、ある意味本質的だった
東北支部のナーサリー・ライムに、
また、たったひとりでThe Song of the Salmonに挑戦した
四国支部には特別な愛を!
下2枚 神奈川支部 『ナイチンゲール』


下2枚 北関東信越支部 『十二夜』(再話)


下3枚 九州支部 『白雪姫』



下2枚 東北支部 「ナーサリー・ライム メドレー」


下2枚千葉支部 『人はなんで生きるか』(再話)


下2枚四国支部 『サケ、はるかな旅の詩』


下2枚中部支部 『かえると金のまり』


下2枚関西支部 『ピノッキオ』


下2枚中国支部 『国生み』


下2枚東京支部 『ナイチンゲールとばらの花』(再話)


ポール・ニザンはフランス共産党で活躍するも、
党内部のもめごとから離党、
最後はナチスの侵攻に抵抗すべく
ダンケルクの撤退作戦に参加する途中で戦死する。
平知盛と同じ、35歳の若さだった。
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例によって、なんのこっちゃわからんタイトルで恐縮である。
写真はごぞんじ、音楽家・音楽指導者の木島タロー氏。
すでにショコラさんがこの日記で書いているし、
Facebookユーザーは彼のタイムラインやラボ関係のつながりで
ニュースフィードにのっているから多くの方がご存じと思うが、
木島氏が参加しているアルバムThe Music of Blacknessが
NACCP Image Awardを受賞した。
このところ、暗いニュースでばかりで日記を更新していたので
ひさびさの明るい話題でたいへんうれしい。
NACCPとは全米黒人地位向上協会/全国有色人種向上協会
National Association for the Advancement of Colored Peopleのことで、
ボルチモアに本部があるアメリカで最も古い公民権運動組織の一つだ。
英語の組織名としてColored Peopleという語彙が生残っている
稀有な例だ。1909年2月12日に設立されたが、
これはエイブラハム・リンカーン生誕の100年目に当たる。
この団体が1970年からさまざまなジャンルのアートに贈っているのが
lmage Awardで、黒人芸術のグラミー賞といわれるほど名誉なものだ。
今回はRecording部門の優秀World Music賞が木島氏が参加して制作された
The Music of Blackness に贈られたのだ。
おめでとうございます。
しかし、こういう名称の公民権団体が
まだ活動しなければならないのもアメリカの現実なのだ。
ぼくは、人種ということば意味がないと思っている。
なぜなら種とは交配が可能かどうかということであり、
昆虫は数百万種といわれるが、人類はどんな民族どうしも
子孫をのこせるから一種しかいない。
人種はしいていえば亜種に過ぎない。
肌の色、眼の色、背の高さ、言語などは
種のちがいではない!
したがって人間にSpecies
ということばをつかうのはむろん誤り。
これは動植物の種である。
ではraceということばはどうか。
Caucasoid, Mongoloid, Negroid, Australoid
というethnology、あるいはanthropology的な分類
に対応したことばである。
これを種と約してしまうのは、やっぱりまずい。
われわれはモンゴロイドであるが、そういう種ではなく
人類学的な特徴(肌は黄褐色、黒髪、黒目、乳児期にお尻に青い痣など)を
もっているにすぎない。
いわば個性である。
身体の障害が、個性であるととらえる考え方は、世界に浸透しつつあるが
いわゆるraceもまた、個性と考えるべきで
種ととらえるところに優劣の判断、そして差別が生まれる。
で、すなおに、木島氏のことを書けばいいと思うのだが
またもや悪い癖で話をそらす。
2月7日に、3か月に一度の血液検査をうけたが
じつは12月にフットボールの納会で
居酒屋の板の間に3時間すわっていたときから腰痛がするようになった。
激痛ではないが、にぶい痛みである。
Cancer Surviverにとっていちばんのストレスは再発と転移だ。
発症からほぼ32か月、今年の5月でちょうど術後3年経過する。
術後は1年にわたって経口抗がん剤を服用し、
それ以後は3か月に一度の血液検査、半年に一度のCTでフォローし、
これまではすべてクリアしてきた。
ぼくの場合、直腸がんであったから、
転移・再発の可能性が高いのは肺・肝臓・脳なとである。
しかし、いきなり骨盤や脊椎にとばない保証はない。
数%は可能性がある。
一応オペで悪性腫瘍はすべて摘出され
「骨盤まで念入りにけずりましたから」ということだが、
どこかに時限爆弾のように潜んでいないとはいいきれないのだ。
その旨をDr.に相談したら
「症状をきくかぎりでは、いわゆる腰痛だと思うけど、
骨シンチグラムの検査をしてみましょう」ということになった。
これは静脈から半減期の超短い放射性医薬品を注射し、
その薬が全身にまわった2時間後にシンチレイションカメラで
頭から足先までを撮影、
放射性医薬品が発するガンマ線をとらえて骨の状態を見るものだ。
これはCTやMRIと異なり、
薬を入れてから待ち時間があるのと
画像を得るため、撮影に20分から30分かかるのでちょっとめんどくさい。
それと保険適用で17000円くらいするので費用が高い。
検査は2月13日の月曜。
結果は、血液検査については電話で14日に、
骨シンチに関しては17日の金曜日に外来で説明を
きくことになっていた。
まずは第一関門の血液検査である。
11時30分に電話する約束だったが、
交換からDr.につながるまでタイムラグがあるからと26分に電話してしまった。
ドキドキ。フラゲである。
で、フライング電話をしたのだが、
Dr.もまちかまえていたようで
「三澤さん、血液は問題なし。腫瘍マーカーそのほかも異常値はないよ。
骨シンチも見たけどだいじょうぶ」
「じゃあ骨については金曜日に外来でうかがうことになってますが、
どうしましょう」「どちらでもいいですけど、
おこしになればデータをプリントします」
「ありがとうございました」
てなわけで、今回はかなり覚悟していたがセーフだった。
そんなわけで金曜日には病院に赴き、Dr.からデータをもらい
骨の画像もいっしょにみた。
自分の全身骸骨像を見るのはあまりいいものではない。
しかし、ホッとした。
その外来はあっというまに終ったので、
お茶をのんでから紀伊国屋書店をのぞき
ついでにバルト9という新宿3丁目のシネコンに足をのばして
「はやぶさ、はるかなる帰還」を見た。
渡辺謙氏が好きなのと、
※氏はもともとは『おどりトラ』『ドリームタイム』でライブラリーにも
出演されている橋爪功氏や故岸田今日子さんとおなじ演劇集団円に所属されていた。
その昔、といっても20年ほど前には昔のラボセンのとにりのビルに
円の事務所があり、稽古場も鳴子坂にあった。
音楽がピアニストの辻井伸行さんがでがけているので
それにもたいへん興味があった。
さらに、はやぶさのイオンエンジン開発責任者の
國仲均教授が母校である武蔵高校の大後輩であり、
昨年お会いしてその個性に感銘をうけたことも理由のひとつだ。
※昨年お会いした縁で、氏にはラボっ子を
JAXAの相模原キャンパスを案内していただき
そのもようが「ラボの世界」に掲載されたのはご承知だろう。
國仲教授は映画では山中教授という名で
江口洋介氏が演じるのだが、ちょっとイメージが…。
といったら本人におこられるかな。
辻井氏の音楽はいい意味で抑制がきいている感じがした。
もちろん、いいできなのだが、
もっと感情を爆発させた彼のベートーベーンの演奏のようなものでも
よかった気がする。
だが、エンディングロールに流れる
彼のピアノをメインにした音楽はとってもすばらしかった。
最近のシネコン、すなわちシネマコンプレックスは
(バルト9もその名の通りScreenが9ある)
音響がとってもいい。
映画はいうまでもなく映像芸術であるが、
やっぱり音(セリフ・実際の音・音楽)がものすごくだいじだ。
しつこいけど、やっぱり音なのだ。
だが、その音を導きだすものは
やはり脚本すなわちテキスト、まさに「ことば」なのだと思う。
その意味では、朝日新聞の女性記者役の夏川結衣さんが説明的ナレをするのだが、
つきはなした感じの語りが、あまり効果的ではなかった気がした。
あまり情緒的なのもクサイが、ちょっと平な感じかな。
夏川さんファンごめんなさい。
映画みながら、いちいちそんなことわ考えているんだから
めんどくさい奴である。
だから、映画は一人でしか見ない。
はやぶさについては、アニメやテレビでも作品化されだが
この映画がいちばん手とお金がかかっているだろう。
世界のKen Watanabeだからね。
しかし、渡辺氏はすばらしい俳優さんだ。
若いときに、ラボで仕事をしてほしかった。
ざんねん!
映画はストーリィ仕立てではあるが、
かなり科学的ドキュメントの要素もあり國仲氏の講演とポイントでは一致していた!
136分、この手のものといったら失礼だけど、
ていねいにつくられた映画だと思った。
はやぶさのことをちゃんと知りたい人、
日本の宇宙開発がいかに貧乏か知りたい人にはおすすめ。
そして宇宙開発の意味や問題点など、
いろいろとたいせな提起もふくのれている。
さて、やっと木島氏の話題である。
どうしてもタローちゃん、となれなれしく呼んでしまうのだが
ここはきちんと木島氏と書こう。
氏とはじめて出会ったのは2004年の春浅いときである。
GTS1『ひとつしかない地球』の制作のときである。
場所は東京芸大の教室のひとつ。
Winter Wonderlandほか3曲くらいのリハーサルだ。
GTS1全体の編曲と監修は、同大学の教授でもある牟岐礼先生だ。
いうまでもなく
先生の作品は『ノアのはこぶね』『バベルの塔』
『ジョン・ギルピンのこっけいなできごと』なとで聴くことができる。
クラシック畑の方にGTS1の編曲をお願いするのは
とょっと奇異な印象があったかもしれない。
ただ、いわゆるポピュラー音楽に「手慣れた編曲家」にはお願いしたくなかった。
なぜならラボ・ライブラリーだからである。
Songbirdsでも、そうだが
このライブラリーでもアコースティック、アンプラグド
すなわち電気楽器を基本的には使わないことにこだわった。
※一部のロック調のもの、たとえば「アリラン」
などのエレキギターはおもいっきり使っている。
話が飛んでもうしわけないが、この「アリラン」は韓国のロックのパイオニアである
ユン・ドヒョン氏と彼のバンドの作品だ。
2002年のサッカー日韓ワールドカップのKoreaの公式応援歌の
音源をそのままつかっている。
韓国でロックは長い間、「不良の音楽」「退廃の音楽」などと誤解され、
なかなか社会全体に受け入れられてはいなかった。
それに対して、ユン・ドヒョン氏は
地道なコンサート活動を続けながら
内容ある歌詞とすぐれた楽器をつくりだし
若者たちのみならず、ロックミュージックを韓国に
根付かされる礎を築いた。
「アリラン」にはいろいろな種類があり、
GTS1にも「ミリャンアリラン」も収録されている。
多くのアリランがあるが、共通するのはすべての
魂をふりしぼるようなLOVDE SONGである。
人を恋する詩。
これはどんな詩よりも強く、激しく、そして美しいと思う。
またまた話がそれるが、
905年に奏上された『古今和歌集』は醍醐天皇の勅命により
紀貫之、紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒が選者となった。
「万葉集」に入らなかった作品のなかから
「いいね!」というものを選んだのだが、
集めてみると、圧倒的に恋の短歌が多かった。
というより多すぎた。
で、勅撰和歌集でLOVE SONGばかりではまずいだろうということになり
この四名の選者たちが、恋以外をテーマにした歌を
自分たちでつくってバランスをとることになった。
そりもひとり20首以上つくることとなり、
いやはや、その苦労がたたったか、紀友則は完成を見ずに亡くなってしまう。
「万葉集」の「ますらおぶり」に対して「古今集」は「たおやめぶり」
つまり、女性的だといわれるが、
個人的にはそうかなあと思う程度だ。
「古今集」は清少納言も紫式部もすごく評価しているが
明治以降になって、子規とか和辻哲郎は
けっこうきびしいダメだしをしている。
こちとら専門家ではないから、好きな歌は好きかなあ。
ともあれ、「アリラン」は激しい恋の歌である。
この応援歌で韓国ティームはベスト4になったのだね。
この歌が音源そのままで仕様できることになったのは
韓国ラボのおかけである。
「ミリャンアリラン」はビクター音楽産業のご協力だが
それ以外の韓国の曲は韓国ラボのお力が大きい。
とくに「アリラン」については、当時の韓国ラボ理事長が
ユン・ドヒョン氏と懇意な関係にあり、そのおかげで
音源協力が得られた。ありがたい。
さて、木島氏にもどろう。
牟岐先生はクラシック、性格にいうと現代音楽、環境音楽がご専門。
だけど、そういう方がいわばスタンダードに近い
ポピュラーソング、フォークソング、ゴスペルソングの編曲をすることは
ライブラリーにとってはとってもだいじだと思った。
なんといっても、ライブラリーにおいて歌の作品は
物語にくらべてタイトル数は少ない。
だけどラボ活動においても、Very重要であることは
ぼくがいまさら書くまでもない。
あらためて力みながらで書くが、SinbirdモGTS1も
あくまでもラボ・ライブラリーであり、単にに
英語の歌のCDではない。
だとすれば、その内容、音は吟味されねばならない、
その時のはやりの編曲ではだめで
長く賞味期限がある、厚みのある音が必要なのだ。
ヒット曲を商業的につくるのでもなく、
英語であそぶ道具をつくるのでもないのである。
ちなみにSongbirdsμは、リリースされてからすでに22年がたつ。
ぜんぜん古くさくなんいでしょう!
自画自賛。なにせ2年かけてつくったからね。
広瀬先生、お空から見てるかな。
だからGTS1も厚みのあるしっかりとした西洋音楽の基礎に支えられた技術と
感性、さらにラボ活動への共感をもっている方にお願いしたのだ。
その牟岐先生が信頼する録音技術者の富さんという方がいる。
この方が、先生の「英語のポピュラー音楽の発音や歌唱の指導者がほしい」
という依頼にこたえて紹介したのが木島氏だった。
ぼくも、そのリハーサルに当然たちあったが、
ぼくはやや事務所を出るのが遅くなってしまい、
すでに牟岐先生と木島氏はリハーサルをはじめていた。
じつはその日、事務所を出る直前に宮沢和史氏のマネージャーから
「ラボ用の歌ができた! 事務所の社長があずかっているので17時に
とりにきてほしい」という電話があったのだ。
宮沢氏にラボ用の歌を依頼し、承諾は得ていたが、
いつできるかと気をもんでいるやさきのことだった。
そんなこんなで出発がおくれたが、
リハーサルを見るなり、ぼくは木島氏にほけこんでしまった。
「この人をラボの味方にするのが仕事だな」
そう思い込んだ。
で、リハが終るやいなや、失礼にもラボにぜひ協力してほしいとくどいた。
氏もその後、ラボとこんなにたくさんつきあうとは思いもよらなかったろう。
氏は自由の森学園から国立(くにたち)音楽大学に進み
演奏家、作曲家、音楽ブロデュース、合唱指導と
幅広く活動されている。
本人は謙遜してあまりいわないが、国連英検1級保持者。
GTS1の録音のとき、デニース・オーウェン先生と木島氏がふたりで
合唱指導されたが、デニースが日本語で木島氏が英語で会話するのが
なにかおかしかった。
ご承知のように、英語の中間母音はどうしても音がくらい。
それを、どう明るく発音するかが
英語のプロシンガーの一番たいへんなところだと木島氏。
たしかに、イタリア歌曲やドイツリートなんかと比べると
英語はer とかurみたいにこもる音が多いよね。
ともあれ、木島氏はスプリングキャンプでもワークショップを
されるとのこと。楽しんでほしい。
氏もまた、ラボ教育の社会的意義を理解し、
そしてラボっ子たちを心から愛してくれる専門家のひとりだ。
さて、来週の日曜日は「わかものフェスティバル」だ。
久しぶりにテーマ活動をみるぞ!
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三澤製作所のラボ・カレンダーも如月になった。
やはりはじめて眼にするページだ。どんな絵かなとわくわくしながらめくる、
『鏡の精』ではないか!。
ハーンのなかでもとくに美しく、そして妖しい作品だが、
ラボ・カレンダーの絵の題材になるとはめずらしいなあ。
今年の干支にびったり! なんてことより、
龍のうろこのていねいな描き分け塗り分けや
画面から飛び出しそうなパワーがいい。
バランスとか遠近感が多少ゆがんでいるのもかえってきもちいい。
文句なく物語につつこんでいる。横浜市・加藤Pの長田堯斗くん作。
原画を見てみたいぜ!
この絵が1月でもいい気がするね。
作者は中1だから、なにか思い入れがあってこの作品を選んだのだろう。
そのへんの背景には興味がつきない。
テーマ活動をやったのだろうか、それはいつ?
とにかく好きな物語だから描いたのか? それはなぜ。
ラボ・カレンダーの絵の応募者数は年齢と反比例する。
もちろん、中高生で「絵うまいぜ!」という作品も送られてはくる。
でも、なかなか入選しない。
デッサン力やデザイン力にすぐれていても
物語へのつっこみの深さと思いの強さ
そして自由さと奔放さでは3歳~8歳にはかなわないからだ。
でも、「鏡の精」はちょっと驚きだ。
さきほど゜もいったようにパース(遠近)とかパランスや背景処理などで
いわゆるケチはいくらでもつけられる。
でも、物語が伝わる。こればかりはどうしようもない。
ところで、龍はいうまでもなく想像上の動物というか神である。
しかし、そのパーツを見てみると角は鹿であるし
ヒゲはナマズ、顔や牙は猪、身体とウロコは蛇、ツメは猛禽類である。
すなわち実在する動物の寄せ集めである。
人間は、まったく未知のものを表現することは困難なのだ。
だから、夢とか怒りとか、嘆きとか恐れなどを描こうとすれば
どうしたって、いわゆる抽象になるのだろう。
ハーンといえば、松江に取材にいったのは昨年四月、はやいなあ。
このカレンダーの絵を背中において『耳なし芳一』のライブラリーを聴いた。
小泉八雲の英語は、格調高く、そしてじつはわかりやすい文である。
ぼくたちのお手本になる文のひとつだといっていいと思う。
東京帝国大学で英語を教えていたのは有名だが、
英国留学していた夏目漱石の帰国によって、
大学を去ることになったとき、
学生たちは猛反対した。
ハーンの講義は静謐にして誠実で、かつわかりやすかったという。
ハーンは、もともとは新聞記者だから、対象を描き出す力はすごい、
強烈な光わあてて、浮かび上がらせ、さらにその光がつくる陰影も描くことで
より対象がはっきりとする。
プロだなあと思う。
ハーンの作品は一時期、ドナルド・キーン氏などに
「オカルト・ジャパン」のイメージを過分に強調しているという
批判をうけたことがある。
前面否定はしないが、ハーンはプロの小説家、フィクショニストである。
それに、「日本瞥見記」などの紀行文では
瞥見というタイトルでもわかるように、
「あくまでチラ見だから、ほんとのところは奥深いよ」と
抑制をきかせている。
ともあれ、ハーンのライブラリーは
いま聴くことよろし。
観世氏、岸田氏、江守氏というゴージャスな語りもすごい。
ハーンは日本が暗い時代に突入する直前の分かれ道に
とまどうようにたちどまり、そして静かに消えた。
昨年、松山取材の日記で漱石の「坊っちゃん」が時代を打つ作品だと書いたが、
日本を独自の視点でとらえていたハーンもまた、
重要度を増してきていると思う。

昨年の日記で「冬は街かむき出しになるから、表現するものにはつごうがいい」
などと穿ったことを書いたのが、冬の王様の院裏にふれたのか
とんでもない冷え込みだ。
とくに豪雪地帯の皆様は心よりお見舞い申しあげる。
写真は、今年はじめて訪れたICU、撮影は午後16時たから
ほんとうはもう少し暗いのだが、それではよくわからないので
ちょっとばかり補正してある。
教会も武蔵野の雑木林といっしょに凍えている。
空は鈍色(にびいろ)、Mamas & Papasの「冬のカリフォルニア」の歌詞みたい。
名曲だが、知っている人は年代ばれます。
ご存じのように今年は日本海側はたいへんな豪雪だ。
雪国には知り合いも多いのでけっこう心配だ。
連日、豪雪のようすがTVやネットで紹介されているが
ほぼ毎日のように登場するのが新潟県の津南(つなん)だ。
津南は長野から十日町を結ぶ飯山線(信濃川が沿線を流れている)の街。
ここから日本海方面に山を越えたところに松之山(現在は十日町市に統合)があるが、
ここもとんでもない大雪が降るところである。
ぼくは、ここで1975年1月から1年半、
社会心理学のフィールドワークをしていた。
ここは夏はとても涼しく、おいしいお米がとれ、
さらに松之山温泉という日本三大薬湯のひとつに数えられるお湯がある。
しかし、冬場は豪雪のため多くの男性は出稼ぎに埼玉県や東京にでる。
また、どうしても産業が少ないため、地元に残る若い人が少ない。
したがって、農業や雪下ろしといったヘヴィな労働は
じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんの肩や腰にかかってくる。
とにかく冬は飯山線もバス(直江津から2時間!)も止りやすく
はじめて訪れた1975年の1月も、2週間近く孤立状態になった。
ぼくは、その松之山で調査して、出稼ぎによる「父親の不在」が
母親と子どもの「依存性」にどういう影響があるか、
また、同時に過疎地でもあることから、過疎(今はさらに限界集落
ということばができている)と高校生の進路選択におよぼす影響という、
クロスオーバーというかインターメジャーといえばかっこいいが
いま思えばけっこうはずかしい舌足らずなテーマで論文を書こうとしていた。
それもきっかけは、自発的なものでなく心理学の先輩の美しい女性から
「豪雪地帯に調査にいくんだけど。雪になれている人がいないから
手伝ってほしい」と誘われたからという不純なものである。
それまでもティームで松之山には研究隊がいっていた。
夏休みには光間(ひかるま)という集落の空き農家を借りて
長期のフィールドワークほしていたのだ。
しかし、夏だけ来てもわかんねえよ。
という地元の人のなんどもいわれ、とうとう冬にいくことになったのだ。
しかし、研究メンバーは女性が多く、雪の装備も冬の野外活動の経験もない。
そこで、フットボールとキャンプばっかりやっていて
心理学の教室より体育科のほうによく出入りしているぼくに
雪上作業隊長という名誉称号があたえられることになった。
ぼくたちが松之山にはいったのは旧正月前、
現地のことばでいう小正月直前のたしか10日くらいである。
直江津では曇りだったが、バスが山間部に入ったころから雪が降りはじめ
結局、そこから24時間×7日間、まったくやまなかった。
ティームは10名ほどで、小正月の「墨塗り」や「どんど焼き」などの
行事を調査するAnthropologyとの共同隊であった。
その中身を書き出すととんでもなく長くなるのでまたにするが、
ともあれ、集落内の道幅は30センチほとで、ちょっと踏み外したら
腰まで雪の埋まってしまい、それこそ凍死の危機。
だから行動は最低三名だった。
茅葺き屋根の雪下ろしも手伝ったが、
あれはたいへんな作業である。
当時、体力自慢だったぼくは、午前中かかって半分ほどおろした。
90分ほどお昼ご飯を食べて休憩をして、また屋根にあがったら、
ほとんど元に戻るくらいに積もっていた!
ところで、あの雪下ろしは屋根の高いところから降ろさないと
たいへんなことになる。
下から降ろすと上部の雪を支えるものがなくなるために、
「ナゼがつく」つく、すなわち雪崩状態になって雪ごと落下し、
さらにその上から雪が落ちて来て大事故になる。
雪下ろし事故も連日報道されているが、ほんとうにおそろしい。
それは都会からきた生意気な大学生たちの、まあままごとみたいな研究だった。
でも、役場のみなさんも、村の人びともとても協力してくれた。
結局。ぼくはその松之山で卒論を書くことになった。
76年の6月、ぼくは論文をもって松之山を訪ね、
調査に協力してくださった学校や役場に報告した。
全部と穂でまわったのだが、
いくさきざきで、スープやおにぎりで歓迎してくれたのがうれしかった。
松之山は、今も雪が降っている。
しかし、夏はほんとうにすばらしいのでぜひ訪ねてほしい。
近年は屋外芸術の街としても知られるようになった。
観光協会(十日町市)のHPもある。
http://www.tokamachishikankou.jp/
ところで、過疎はなにが問題か。
じつは、過疎になると、集落の機能が縮小し、
過疎のなかで過密がおこってしまう。
そのことがまた、過疎化に拍車をかけてしまうのだ。
おこらないで読んでほしいのだが、
パーティでも過疎化がおこるとパーティの機能が小さくなる。
だから、会員の補強はとてもたいせつだ。
そんなこと、「きみにいわれるまでもない」だとは思うが
この寒い今から準備して遅くない。
ラボの社会的役割が大きくなってきている今だからこそ、
一定以上のメンバー数で活動の質を高めていく努力は
公的な責任であるといってもいい過ぎではないと思うようになった。
数が質を高めるのは、見落とせない点だ。
でもいいすぎかなあ。


先月末、この日記での書き込みが発端で、
光栄にも
かせだまさんこと、忰田テューターとお友達の江上テューターを
渋谷、青山、銀座をエスコートした。
渋谷でフェネメールを見(平日なのにすごい混んでた!)
青山学院のアイビーホールでランチをいただき、
ラストは銀座のマリアージュ・フレールでお茶。
風があまりなく穏やかな午後だったが、
現役のテュータの方と久しぶりにお話すると
じつに身が引き締まる。
現場で子どもたちとむきあている迫力がすごいのだ。
このところ、いろいろラボ以外の教育関係者とあったりするが
ラボ・テューターの迫力と大きさにはかなわない。
ほんとだよ! みなさん自信をもつて!
写真は、お茶のひとこま。おふたりはタルトを。
ぼくは下の写真のアイスケーキを。
松之山で書いた卒業論文は予想以上に手間取り、
追加調査をその年(76年)の3月に実施したために
卒業を2月から6月にのばした(ICUは9月生もいるので)。
ぼくはラボにわがままををいって、4月の入社をまってもらった。
で、
卒論の閉め栗は6月12日である。
ぼくは前日の11日に学部に提出し、その足で新宿のラボセンによった。
すると、エレベーターをおりたとき、ばったりと「らくだ・こぶに」氏に会った。
「おお、三澤、大学はどうした」
「今日、卒論だしてきました」
「じゃあ、明日からこれるな」
だから、ぼくのラボ入社は1976年6月12日である。
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いつか書いたが、ぼくは家で夕食をとる時間は
基本的に17時30分である。
場所は三澤制作所本社。
母と二人分を17時から用意し30分でつくる。
その前の2時間くらいがオフィスタイムである。
原稿書きか写真の編集みたいなことがほとんどで
その他の書類仕事や雑用はすべてマネージャーまかせ。
ひどいボスである。
で、夕食のときは、ややお行儀悪いが新聞を眺める。
ニュースは常時ネットでチェックしているが新聞も重要だ。
紙でしか載らない情報もあるからね。
ただ食事中なのでざっと見出しを流し、
後で興味のあるところ、とくに書評や劇評、その他の文化情報などを
ゆっくりと読む。
でも、最初にチェックするのは訃報や受賞の欄である。
これは現役時代からの職業病に近い。
もし、ラボの制作や教務に関係のある方だったりしたら!
ということがあるからだ。
もちろん、ネットでもわかるのだが、
いわゆる超有名人でないと情報が遅れることがある。
今日の悲しいニュースもそうだった。
日曜日だから朝刊しかない。
しかし、不覚にもぼくは夕方まで朝刊を見ていなかった。
また、今日は読書に時間を割いていたので、PCやiPad2も
あまり見ていなかった。
そして、夕食になり、
ぼんやりと夕刊を眺めていたら最初に眼に入ったのは,
教育評論家・村田栄一氏逝去の報。
21日、急性心不全のため逝去された。享年76歳。
お若いテューターの方は、そのお名前はご存じないかもしれない、
しかし、今、とても活躍されている尾木氏よりもずっとはやく
現場の小学校教員として、
自由な教育への模索を大胆かつ深く行ない、
教師引退後も、多くの教員に影響を与えた方だ。
そして、もちろん、ラボにもさまざまなご協力をいだたいた方である。
村田氏は、川崎市の小学校教員時代(1960年代)、
村田学級の名で知られる独自の教育活動を展開、
文部省(当時)の高圧的な指導への懐疑を現場教員として
初等教育の根幹である小学校1年生に実践的に開示した
学級通信・ガリバーで世に知られるようになった。
※学級通信・ガリバー : 村田栄一/著 : 社会評論社
ご本人が注釈をいれられて今も改訂版で読めます。
時代背景がかなり異なるので現代にそのまま適合しないこともあるが
村田氏の原点ともいえる著書。
村田氏は教師退職後、スペインでセレスタン・フレネの教育にふれ
その自由教育運動に共鳴、
帰国後は教師を対象としたワークショップなどを展開された。
今の50代の教員で氏の教え子は多いと思う。
ラボ教育にも深い理解と共感をもって関わられ、
創立25周年の教育フォーラムでの司会や
各地での講演などでたいへんお世話になった。
また、1990年に氏はラボ教育活動についての本も出され、
キャンプそして国際交流にも参加された。
ラボっ子とともに渡米した際には氏自身もホームステイされ、
ホストファミリィへのインタヴューなども行なわれた。
ぼくは、その夏に氏とともにインディアナ州での留学生研修を見学、
続いてワシントンDCにおもむき
ナショナル4Hセンターを表敬訪問したり、
アーリントン墓地やホワイトハウスなどにも同行した。
旅の間、氏の深い知識に終始圧倒されたが、
当時はまだ36くらいの青二才であった
ぼくの話も真剣にきいてくださり、
的確なコメントをいただいたのはとても勉強になった。
そのころ、ぼくは宮前区の鷺沼にいたが、
氏は宮前平小学校近くにお住まいで、
なんどかおじゃましてお話をうかがったのもなつかしい思い出だ。
謹んでご冥福を祈念する。
なお、葬儀は親族のみで行ない、
後日に「お別れの会」が開かれるとのことである。
先日の林先生、そしてネイザンに続いて、またラボを
応援し愛してくださった星のような才能が
また、ほんとうの星になってしまった。
食事の途中だったが、元会長の松本氏に電話をした。
多忙な方だから絶対でないとおもいつつ携帯かけると、
数秒で出られ、ぼくが「こぶさたしてます。三澤です」
といいおわらぬうちに、
「村田さんのことだろう」と静かな声がきこえた。
冷静だが、いつもの彼のテンションではないと直感した。
賀状には「またお会いしたい」と書かれていたそうである。
昨年、脳梗塞をおこされやや後遺症はあったものの
それ以外はお元気だったようなので、松本氏も驚きををかくせないみたいだった。
「お別れの会で会おう」
そういって電話は終った。
松本氏とは、昨年初夏のあるバーティの周年行事以来だ。
出会う人の数よりも
別れる人数のほうが多くなりつつある。
でもでも
それでも、前へ。
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すでにお聞きの方もいらっしゃるかもしれませんが
去る1月15日、GTS-1「ひとつしかない地球」でIf I Had a Hammerをはじめとする
数曲の英語の歌唱で素晴らしい声をきかせてくださっている
歌手で音楽指導者のネイザン・イングラム氏が1月15日、心筋梗塞のため
急逝されました。享年61歳。謹んでご冥福を祈ります。
イングラム氏は歌手として一流であるだけでなく、エイベックスの
音楽トレーナーとして安室奈美恵さんや高橋克典さんを育てています。
また、氏は福島在住で、震災後もまったく帰国せず音楽で人びとを激励
し続けました。そのお人柄にも多くの人びとがひかれていました。
黒人男性独特のリズム感と節回しに
編曲を担当された牟岐礼先生も大きなインパクトをうけたと
当時の機関誌や講演で語られています。
歌手は天から借りている声の期限がいちばん短いとは牟岐先生のおことばでした。
また、地上には彼のような音楽で人を励ませる者がまだ必要なのに。
彼の名前はGTS-1のテキストの巻末にクレジットされています。
ぜひIf I Had a Hammerを聴いてください。
彼もまた、ラボの趣旨に参道し心をこめて唄ってくださっています。
彼は亡くなりましたが
録音という形でいつでもその声を聴ける時代にいることに感謝します。

タイトルと写真は、例によって何の関係もない。
というか、題はいきおいとふんいきだけで書いている。ヒドイ。
BGMは、ジャニス・ジョップリン。
そのしゃがれた、しかし、
圧倒的な声量と表現力が真冬に冷えきった心をゆさぶる。
ジャニスとファーストネームでなれなれしく呼ぶが、
この27歳という若さで夭折した歌手は、
今も多くのファンをひきつけてやまない。
彼女が活躍したのは1960年代だから、
若い世代は知らないかもしれない。
好き嫌いはあるかも。
だが、ぼくは白人女性ヴォーカリストでは
ジャニスをこえる存在はまだいないと信じている。
写真は2006年1月、ウェールズの首都カーディフの市場で。
これまで何回か紹介した『妖精のめうし』の英語録音で
同地を訪ねた際に撮影したもの。
ニコル氏じきじきに「おもしろいよ」と案内してくださった。

上の写真が、その市場の入り口である。
とにかく冬場は日か短く天候がよくないし、当然にも寒いので
屋内につくられた細長い市場だ。
中は二階建になっている。
この魚屋さんは、この入り口近く。
カーディフは港町だから新鮮な魚がたくさんあがる。
ニコル氏いわく、欧米の人はふつう食べない海苔も
カーディフでは食するとのこと。
それも板海苔ではなく、岩のりのようにとろとろのままで勝負する。
「白いご飯にのせて、醤油をたらすと最高よ!」
※サイコウよのコウにアクセントをもってくるとニコル氏っぽくなる。
さて、今日は少しライブラリーのテキストについて書いてみたい。
といっても、たいした内容ではないからよろしく。
さらにテキストといっても、コンテンツやストーリィではない。
絵本テキストそのもののこと。
ようするに文字の話なので、つまんないかもしれない。
もちろん、ライブラリーの本質は、いうまでもなく音声である。
しかし、テキストは伊達や酔狂でついているわけではなく、
絵とともに重要である。
ただ、テキストはこう使いましょう、なんてマニュアルはないし
テューター・スクールでも研修でも
文字のことはほとんどふれないのではないだろうか。
※今はどうか知らないので、ちがってたらごめんね。
ご承知のように、ラボ活動ではテキストをひらいて
1行ずつ指導していくなんてないし、
テキストをよく見ながら、物語を聴きましょうなんてことも
ほとんどいわないだろう。
でも、テキストを見ながらライブラリーを聴く
状況は実際たくさんあるだろう。
幼い子でも、物語への興味から
文字と音声との関係に自然に関心をもつことはふしぎではないし、
絵本を見ながら、全体視的に文字も眺めているうちに
いろいろな発見をしたりすることもあるある。
そうした事象に対して特別な指導とか話し合いとか語りかけが
どの程度あるか、あるいはまったくないかは、
個々にゆだねられているからわからない。
ラボっ子はテキストの文字と、
たぶんぼくたちの想像以上に出会い、睦み合っていると思う。
そのことは音声言語ほどではないにしても、
貴重な言語体験となっていることもまちがいない。
単語ひとつひとつが独立していなかったり、
あるいは鏡文字だったりしても、
子どもが嬉々として「おはなしにっき」などに
絵とともに文字も書いてくるのはそのあらわれだ。
幸いなるかな、ラボではいちいち
「この文字はぎゃくだから、こう書くといいのよ」
みたいな大きなお世話をしてこなかったので
あいかわらずラボの子どもたちと文字の関係は
ゆるゆるでおだやかで、やさしい。
そもそも好きな物語をそのまま書いてみたいというのは
いつかも記したが、かっこよくいえばその作品へのオマージュだ。
シェイクスピアの翻訳で、さらに芝居好きの先生としても著名な
小田島雄志先生は、若き日、夏休みにせっせと
シェィクスピアの全作品をノートに書き写した。
ぼくも、中3のころから好きな詩人の詩を
一生懸命、へたくその極みの字で書いて、眺めて口ずさんだ。
そうすることで、その作品のたましいが自分のなかに
入り込むような一体感と
こんなすごい作品をぼくは知ってるんだぞと自分で確認することで
自己のアイデンティティを激励する高揚感を味わったのだ。
おそらく、幼いラボっ子の心にもおなじようなことがおこっている。
幼い子が「書き写す」のは、オマージュなのだ。
一流は一流を知るのだよ。
そりゃそうだね。幼い子ほど、最先端の情報とともに
古代からの累々とした遺伝子情報の蓄積をもっているんだから。
余談だけど、その意味でも幼子から学ぶことは正しい。
で、一昨年、ある小学校英語の研修でおどろいたのだが
分科会の質疑応答で
「楽しそうに学んでいる子どもが発音とか、
文字をあきらかにまちがえたらどうしますか」という質問がでた。
これに対して活動リポートをした教師は
「その場では指摘しません。記憶しておいて
くりかえすようなら指導を考えます」
とおこたえ。
するとすかさず
「では、最初に指摘しないでその誤謬(難しいことば知ってるなあ)が
化石化(そんなことばがあるんだ!)したらどうするんですか」
という議論になった。
ぼくは、冷や汗がでてきた。
「もしかすると、この小学校の先生たちは、
子どもはまちがえるもの、だからそれを矯正するのが自分の仕事
と思い込んでいるのか」
そこには、子どもから学ぶという意識は皆無なのでどん引き。
子どもはまちがう、教師が正しいという前提がせつないぜ。
まあ、本日のタイトルの真意はそのへんにある。
さて、幼い子でなくてもテキストは見るでしょう。
発表が近くになり、反則承知で
テキストの文字を見てセリフをおぼえた。
※もちろん、音声も聴いて補強するんだろうけど、
そんな経験がある人、正直に前にでなさい(笑)。
まあ、そうやって「覚えた」発表はすぐわかるんだよね。
ただ、これはある年齢になっていて
自分の発音が固まっていると、
CDの通りのつもりでも
その人の音になることは自然なこととしてあるから、
かんたんには評価できない。
それから、テューターでも高大生でも、
しばらく音声だけで物語とむきあってから
文字を見て
「えっ、こんなふうにいってたんだ!」とびっくりするのもあるある。
ぼくも『鍾乳洞のやみ』を聴いていて
「アラジンの宮殿」のくだりで、自分の聴きとりと文字の格差があり過ぎて
がくぜんとしたことがある。
もっとも『トム・ソーヤ』は全ライブラリーのなかでも
会話の部分のスピードはトップクラスだ。
それを楽々と身体にとりこむラボっ子はすごいと思う。

で、上の写真は箸休め。これも初公開かな。
2006年の4月、ウェールズにいった3か月後
『サケ、はるかな旅の詩』の音楽録音でヴァンクーヴァーにいったときのもの
ニコル氏、間島氏(当時、シアトル事務所にいた。ヴァンクーバーまでは1時間、100ドルでこれるので助っ人にきてもらった)とともに写っている女性は
カナダ先住民(First Nation)出身のアーティスト、スーザン・ポイント氏。
彼女がこの作品の絵を担当した。
彼女はシャイでとてもすてきな方だが、とにかく映像をとられるのがおいやで
PVへの出演は固辞された。
でも、このアトリエには気軽に通してくださり、
この一枚だけは「いっしょにとりましょう」といってくださった。
あとは、別日の打ち上げのときのスナップだけ。
この日も、山奥の小屋で作品制作に没頭していたのを
わざわざ小型飛行機で戻って来てくださった。
スミソニアンにも展示室をもつ超多忙な彼女が
ラボのために作品を提供してくださることになったのは
ひとえに、ニコル氏と彼の長女でヴァンクーヴァー在住の
MIWAKOさんのおかけである。
じつは、ここからが本題。
ふだん眺めてはいても、さほど意識はしない
ライブラリーのテキスト絵本の文字のこと。
ご存じのごとく、英語だけのテキストもあるし
英日あるいは日英表記の作品もあるが、
これらの文字の割付(文字の配置)には原則がある。
滅多に語られることはないが、
秘密にすることでもない。
まず、ライブラリーに限らず本には余白、
マージンというものがある。
左右(綴じた側をノド、開く側を小口ともいう)、天地
どのくらいとるかは、装丁家がきめるが
この余白が多いほど高級感がでるといわれる。
ここで、ラボのテキストがすべて縦書きであることを
いまさらのように書く。
もちろん英語が入るので、ラボのテキストはどうしたって縦書きだ。
だが、日本語は本来は縦に書く言語である。
日本語の録音台本は、いうまでもなく縦書き。
横書きでは役者の生理にあわないし
呼吸も間もがたがたになる。
この日記もやむなく横書き。
だから、仕事の原稿は縦書きである。
もうこの時点で異質なものが出会っている。
話をマージンにもどそう。
ラボのテキストでは英語はマージンをこえる語まで
文がのびた場合は、そのはみだした単語ごと次の行におくる。
ハイフォネイションはしない。
文字に興味をもって子どもがテキストをみたときに
単語がスッキリ認識できるように。
また、文字間は文字のプロポーションにしたがうので
英語の行末はそろえない。
逆にいまでも文字間を調整して行の幅を揃えている
海外の雑誌ゆ本があるが、どちらかといえば少数派。
日本語については、一字でもマージンをこえたら
その文字だけを次行に送る。
ただし、読み点とトメマルだけはぶら下がりといって
はみだしてよいことにしている。
※これは、普通の出版社でもやっていること。
そして意外に気づかないのが、英日テキストの場合
英語の文字は日本語よりワンサイズ大きいこと。
これは、比較してみた場合、同サイズだと
日本語のほうが大きく見えてしまうからだ。
これは、日本語は原則として正方形にぴったり入るのだが
英語はそのプロポーションによって痩せて見えるからだが
母語は大きく感じやすいということもあるかも。
※ここでいう1サイズ上とは一辺が0.25mm大きいこと。
さらに行間というややこしい問題もある。
英語と日本語の行間、英語が折り返したときの行間、
日本語が折り返したときの行間、
さらには場面が大きく変わるとこの行間と
さまざまある。
もうあらかたの人には興味のない話題と思われるので
ここらでやめよう。
ただ、なにげなく見ているライブラリーの文字、
絵と違ってほとんど話題にならない文字にも
多くの心が込められていることも
書いておきたかったのだ。
長年、ライブラリーの装丁を担当されている
坂川栄治氏に、改めて感謝したい。
テキストの文字もよくみると発見があるはずだ。
『西遊記』の英語と日本語は文字の色が異なるが、
そんなぜいたくはこの作品だけ。
『ひとうちななつ』の主人公の仕立屋は
I で表記されているが、これが三人称的にあつかわれるため
イタリックになっている!
なんて、ほんの一部。
さて、最近、マザー・テレサのことに関わる機会があり
遅まきながらこの偉大な宗教家について学んだ。
かつて来日したときに彼女は
「近くで苦しんでいる人に目を向けず、遠くに援助するのは
偽善者です。日本は、もっと国内に手をさしのべるべきです」
と、おだやかに、しかし毅然として述べた。
いあわせた政府関係者、海外慈善に熱心な文化人たちは
凍りついたという。
彼女はこう続けた。
「愛は身近なところからはじまるのです」
Think globaly but act rocaly.
世界と結びながら、毎週、地域の子どもたちと
その人生にまでひたむきに関わるLabo Tutorの
存在意義を再々確認した次第。
各支部の総会と、春活動への鮮やかなスタートを
心より祈念する。
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