幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全292件] 111件~120件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
追悼・林光先生 孤高のゴーシュは星めぐりの旅に。いまごろは、鷲の翼あたりですか! 3 01月08日 ()
みらい
写真は、1月7日の午後3時、横浜の大桟橋に停泊する飛鳥?。
ロイヤルパークホテルの66階からの撮影。日本のほこる大型客船は、
17時ちょうど、ややセンチメンタルな長声一発(汽笛のロングトーン)
をのこして新年のクルーズにでた。いってみたいなよその国。
 港はいい。『ドウリトル先生』の助手スタビンズは、
先生と出会う前に毎日、港を出入りする船を眺めて、まだしらない遠い世界の
ふしぎな夜と昼にあこがれた。
 また、飛行機事故で夭折した天才的ヴォーカリスト、オーティス・レディングの"Dock of the Bay"も思い出される。ジョージアから都会に出てきて、仕事もなくさみしい黒人が港で長い足をぶらぶらさせて日々をやり過ごす様が、
ペーソスとつきはなしたようなヒューモアで唄われている名曲だ。
いま、チャーをはじめ世界のミュージシャンが街角で歌い継いでいくCMに用いられているね。

 そんな、気軽な書き出しではじめたのだが、
年明け早々に残念な知らせをうけてしまった。
すでにご存じとは拝察するが、初期のラボ・ライブラリーの音楽の多くを
近年では1998年にSK27『セロ弾きのゴーシュ』のすべての音楽を
担当された作曲家の林光先生が1月5日に逝去された。
享年80歳。
最後にお会いしたのは2007年の春だ。
青山学院のアイビーホールで開かれた
鈴木小百合氏の湯浅芳子賞(チェーホフやマルシャークの訳で知られた
湯浅先生の遺志で創設された翻訳文学に贈られる賞)の授賞式の席だ。
そのときは、シェイクスピアの翻訳で著名な小田島雄志先生もごいっしょで
それぞれごあいさつをされたが、
林先生はじつにお元気で、その9年前の録音でごいっしょしたときと
まったくかわらない「眼光炯々」ということばがびったりの
時代も人もまるごと射抜くような眼力におどろいたのだが…。

林先生は昨年の秋に自宅の前で転ばれて頭部を打ち、
その後は意識がなかったとうかがった。
寿命といえばそれまでかもしれない。
しかし、また一人、日本のみならず世界の音楽に貢献し、
さらにはラボにもそのお力を注いでくださった先生が
天によびもどされてしまった。
「かわりとなる音楽家が、なかなかでないから
いままでまってやったが、天のほうも人手が足りんのだ」
という声がきこえてきそうだ。

林先生とラボとのかかわり、とくに賢治作品については、この日記のバックNo.でも何回か書いているので、興味のある方はタイトルで探してみてほしい。
みらい2
重い話が続くので2枚風景写真を。これも同じ66階から写した横浜である。
みらい1
東京芸術大学在学時からとびぬけた才能を発揮された林先生だが
※その才能ゆえに中退されるという英断もされている。
日本語へのこだわり、劇表現への思い、そして平和への思いを
作品にも活動にも明確に表現され続けたことに
ぼくは心のずっと深い所で尊敬してやまない。

そして、ぼくが在職中、氏自身も「ぼくは一人のゴーシュ」
と著書に書かれるほどに深い造詣と関心をおもちだった
宮沢賢治作品のライブラリー制作で
ごいっしょすることができたことは、身に余る光栄であり、
やはり心の奥でたいせつにしている誇りである。
まあ、当時はとんでもなく緊張したけれど。

今日、あらためて林氏が関わったライブラリーを順に聴いてる。
先生は、同じくライブラリーの音楽を担当されている間宮先生と
外山雄三氏と「山羊の会」を結成された同志でもあるが、
それぞれ音楽の方向性は独自だ。
しかし、伝統と現代、世界の平和と個々の個性、
そしてなにより、子どもたちへのまなざし、
さらに、この時代の音楽に責任をもつという誇りと自覚という点では
通底しあっていたと思う。

今、グローバル・スタンダードがアメリカ標準、あるいはヨーロッバ標準に
ぬりかえられる危機感を、各地の心ある文化の担い手はひしひしと感じている。
それは単に政治経済のレヴェルだけでなく、
「持続可能な開発」「地球温暖化防止」「エコ」などの
皮相的にとらえれば「口あたりよく」「多数の幸福」と認識されがちな
テーマにおいてもいえることだ。

たしかに、世界の国や地域が違いをのりこえて地球や生物が
まさに持続可能な繁栄をするための世界標準は必要かもしれない。
しかし、その一方で、小さくても少数でも
独自に営まれてきたぞれそれの文化、風俗、生活感、死生観などを
いかに尊重していくかがもとめられていると思う。
多数の幸福とともに、
文化の多様性は最大限に尊重されなければならない。

生物の種の多様性と同様、文化の一元化は滅亡への道だ。

間宮先生が民族音楽と現代音楽の融合をテーマにされていること、
林先生のオペラへの情熱、賢治へのこだわり、
原爆をテーマにした作品の長年にわたる演奏は、
音楽の分野においても、多様性が重要であることを感じさせてくれる。

意外と思われるかもしれないが
音楽は風のように空間のどこにでも入っていく自由な存在ではない。

むしろ社会の病理や危機が深刻化したとき、
音楽はまっさきに影響をうける。
いわゆる歌舞音曲の禁止である。
街はいつでも静まり返るのだ。
小さな声でも「歌いつづけるために」
どれほどの血が流されたのだろう。
そう思えばWe Are Songbirdsということばは
もうひとつのラボの命ともいえる
自負と責任のあることばだ。

Songbirdsの名称について林先生とお話ししたことはないが
歌というものについてうかがったときに、
上記のような話をしてくださった。

後では『ざしきぼっこのはなし』に続いて『雪渡り』が流れている。
どちらも音楽CDである。
ことばがなくても、情景がうかぶのはあたりまえかもしれない。

前者はピアノの連弾である。いかにも民話というひなびた和風の音という
安易な音づけではなく
硬質なピアノの、しかも連弾をもちいた林先生には
現場でぼくは思わず心のなかで手をあわせてしまった。

後者の四郎とかん子が森にわけいる「赤い封蝋細工の…」というくだりの
チェロのピチカートも泣けてしかたがない。
これらの美しい音を紡いだ林先生は
もういらっしゃらないのだ。

今夜は知人と外食する約束がある。
気分ではないが、帰ったら『てじなしとこねこ』を聴こう。
いちがつ
最後に、おそまきながら年があけてから
ラボ・カレンダーの1月をめくった。
それまでは表紙を楽しんでいたから初見である。
MOMOTAROが画面いっぱいにとびこんでくる。

めそめそしてんじゃない! 何度でも立ちあがれ!
といっているようだ。
作者の大西礼華さん(小4・万行P)ありがとう。

本来は今日は「文字、ライブラリーのテキストについて」
書くつもりだった。
それについては、近日中にアップする予定である。

そうそう、初見といえば
ライブラリーの音楽録音に参加する演奏家は
すべて初見で演奏している。
練習なんかさせてもらえない。
録音の日にパート譜を配られ、
テスト一回、そして本番だ。

そんな緊張感のなかで作品は生まれる。
つい5分前に宇宙間関係の仕事をしている後輩から仕事の依頼メール。
前にいかなきゃね。
林先生、 宇宙はどうですか!
2012年こそ諍いや飢餓や差別や迫害や貧困や汚染や難病が少しでも減少しますことを。 1 01月01日 ()
GES
あけましておめでとうございます。
中野の三澤制作所本社で、この日記を書いています。

昨年は個人的には久しぶりにおだやかな正月を迎えたと思いましたが、
その後、信じがたいできごとが日本でも世界でも連続しておこり、
凪どころか大嵐になってしまいました。

しかも、その嵐の痛ましい特徴は
「あまりにも多くの命が失われた」ことです。

2012年こそ
諍いや飢餓や
差別や迫害や貧困や
汚染や難病が
少しでも減少しますことを。

もし、だれもいない南の島に行くことができたら
ぼくは白い砂浜で水平線にむかい
そっとひざまずいて
そう祈りたいと思います。

紛争や飢餓、災害といった直接的な悲劇だけでなく
経済の破綻やさまざまな不公平や矛盾といった
社会の病理も
心と身体をむしばみます。

その影響が最も直接的に、かつあらあらしく届くのは
子どもたちであり、お年よりであり、障害をもった人びとです。

そうした緊急時に、
子どもたちとともに歩んで来たラボ教育活動の役割
というより社会的使命は
ますます大きくなってきています。

そのことは、ラボから離れて1年過ごした今
さまざまな現場で、リアルに感じています。

テューターの皆様におかれましては、
「ことばがこどもの未来をつくる」という
ラボの公共性・社会的役割に自信と責任をもって
ほこり高く社会とむきあい
慈しみをもって子どもたちと
物語をつくりだしていただくことを
僭越ながら切望します。

昨年におこったできごとは、
「フィクションだとさけびたいような現実」でした。

新しい物語はファンタジーであると年末におききしまた。

ふりかえってみれば、ラボの物語の主人公は
だれひとりとして、「あきらめる」ことがありません。
結果的に「きりぎりす」や「ブルータス」などのように
非業の死をとげるキャラクターもありますが、
かれらも最後まであきらめず「生ききって」います。

「あきらめない」こと
それが最もたいせつな才能かもしれません。

いつまで続けたら「ここまでできる」という保証は
ラボにも人生にもないけれど
「やめてしまったら」
それ以上、前進できないのは確かです。

今年もまた、自分自身がなせねばならぬことを
わずかでもすすめつつ
微力ではありまずが、
ラボのサイドラインでけんめいに旗をふりたいと思っています。

そのひとつとして、この日記で
ライブラリーをめぐる話題を
いろいろな角度から書き残していければと幸いです。

今年もよろしく!
Sugar and Spice and No One Lives Twice. ひきかえせない人生に降り積もれ青き思い出 12月19日 (月)
きょうむ
先週の火曜日、ひさしぶりにラボセンター本部をたずねた。
昨年の暮れから関わっていた教務局関連の仕事がひとくぎりついたので
その打ち合わせである。
最近は必ず持ち歩いているNikonのミラーレスで
木原教務局長と吉岡さんを撮影。
ただのスナップだが、味のある一枚になった。

そして今日の午後。
北の寒い国で独裁者の訃報。
今年は、なんという激しい年であったのだろう。
というか、911以降。
世界でおこるできごとの「すさまじさ」「過激性」「予測不能性」などが、
まるで膨張する宇宙の速度のように加速している気がしてならない。

さても
師走に入ってから、なかなか忙しくなった(あたりまえか)。
打ち合わせや会食などが週に複数回あるぞ。

基本的には週総労働時間を15時間としているが
夜にでかけることが増えると、そのペースがやや乱れる。

毎朝、6時には起きて7時までに朝食をすませる。
おにぎり1個程度の米かうどん。サラダと納豆とヨーグルト。
およそ400Kcal。
で、午前中は神聖な時間である。
本を読んだり、映像をみたり、音楽をきいたり、
仕事以外の友人・知人とメールのやりとりをしたり…。
そうすると、あっとうまに11:30になるので昼食だ。
ランチは三澤制作所から徒歩20秒の「四国屋」でさぬきうどんか
徒歩180秒のとこにあるパン屋さんのパンとサラダ。
そして、たいていの場合、そのまま散歩にでかけ、
通常は鍋屋横丁で夕ご飯の買い物をする。
もしくは、新宿西口まででかけ(10分ほどでつく)、
小田急ハルクのいきつけのショップ(VictorinoxとHunting World)をのぞき
店のスタッフとおしゃべりし、地下の「こだわりや」という
オーガニック食材の店で野菜などを買ってかえる。
まれには、東京駅すぐそばの丸善まで足をのばし
本と文具を見てから午後のお茶を飲む。

いずれにせよ、午後14時をめどに三澤制作所本社にもどる。
そして17時までの3時間ほどが、いわゆるお仕事の時間である。
これもある意味神聖な時間だ。
人間がほんとうに集中できるのは、そんなものだなあとつくづく思う。
だから3時間×週5日で15時間なのだ。
17時からは夕食のしたくをして、
17時30分には母親とふたりで食べる。
19時にはアトリエと称する部屋で、
また読書、音楽、映画などで栄養補給。

これが基本の生活であるが、月に一度は「旅にでる仕事」があり
週に一度は渋谷でマネージャーと打ち合わせがある。
なんとも、ふざけたくらしぶりである。
しかし、ストレスをためてはいけないそうなので
それを理由にだらだらしている。

芝居や映画は、なるべくマチネー(matinee)。
美術館はもちろん昼間。
どうでもいいことだが、マチネーは今もつかわれるが
夜の部を示す「ソワレ」(soiree)は
ほとんどつかわれないなあ。なぜか。

ともあれ、夜でかけるのは知人との会食がほとんどだ。

よく、会社をやめると「なにをしていいかわからない」といわれるが
残念ながら、やりたいこと、やらねばならぬことが多すぎる。
幸せである。

さて、偶然ではあるが今朝は『1984』を読み返していた。
村上春樹氏の『1Q84』ではない。1948年に書かれた
ジョージ・オーウェルの長編小説である。
あらすじとか書き出すとたいへんなので、
知らない人は検索してください(ヒドイ!)。
この小説は大学1年のときの夏休みのアサインメントで出て
ふうふういいながら原書で読んだのだが、
とってもおもしろかったし、
長い英語の小説を読み切ったという
マゾヒスティクな達成感にとらわれた。

この小説に登場する Big Brother(ポアンホワン家じゃないよ)と
かの北の国で、おそらくは孤独に亡くなった独裁者がだぶった。
『1984』は日本語訳ももちろん出ていて、
長いけど高校生でも読めると思う。

ノルウェー・ブック・クラブが2002年に発表した
The top 100 books of all time「史上最高の文学100」にも
この作品はランクインしている。
http://www.guardian.co.uk/world/2002/may/08/books.booksne
また、ランダムハウスの英語で書かれた文学ベスト100にも入っている。
http://www.modernlibrary.com/top-100/100-best-vels
で、じつは、ぼくはここにランクインしている全作品の
英語による読破にチャレンジしている。
幸いなことに有名な作品がほどんどなので
かなりの部分を読んでいるのだが
訳本しか読んでない場合もあるので
そういう場合は「ずる」しないで英語で読み返すというルール。
そして、同時進行はアリ(煮詰まっちゃうときの逃げ道ね)。

こういう自己挑戦はストイックにルールを守るのがだいじ。
ゆるぎない基礎力をいまさらながらだが、
つけたいと思っているのだ。
まあ、かっこつければ「ずっと修行」ってやつね。

さすがにこのチャレンジは人には勧められぬが
どんな作品がランクされていて、自分がどのていど読んでいるとか
きいたことがあるか、なんてチェックしてはいかかが。

ちなみに二つのランクのうち、後者のランダムハウスは
「英語で書かれた小説」なので日本の作品は入っていない。
だが、ノルウェー・ブック・クラブのほうには
一編だけ日本の作品が入っている。それはなんでしょう。というのがクイズ。
こたえは文末ね。
かれんだ
ラボセンにいったら、木原氏から「ラボ・カレンダー2012」をいただいた。
新しい「ラボ・パーティ研究」は、もうしわけないから購入した。
どちらも楽しみ。

思えば、カレンダーは22年も作ってきたんだなあ。
とうとう贈呈される立場になったかと嘆息。
ラボのカレンダーは
ラボっ子の描画を応援しよう! という素朴な発想がその出発点だ。
それは、今もぶれずに続いていると思う。
「ことばの宇宙」でもラボっ子の作品を応援してきたが
「もっと、でっかく」
「1年に一度くらいは勝負! というくらいの気合いで絵を!」
というところかなあ。

描画活動は、ラボ活動のなかで、子どもの表現のひとつとして
自然に位置づけられてきた。
そこには特別な技術的な指導があったわけではなく
いうまでもなくマニュアルもない。
ただ、子どもが物語と出会い、じつにシンプルな「好き」から
物語の絵を描いてきて
「テューター、見て」「わあ、○○ちゃんすてき!」という世界だ。

ラボ・カレンダーはぼくが本部にいく前の1983年から
絵の募集が始まった。
でも、当時の責任者であった「がのさん」によれば
1年目は応募作品が少なくてカレンダーが作れなかったという。

それもそのはず、パーティの時間をつかって
カレンダーのための絵を描きましょうとは、なかなかならない。

それでも1985年には最初のラボ・カレンダーができた。
ラボっ子の絵と国際交流の写真で作るカレンダーだ。
しかし、作った以上は買っていただかねばならぬ。
当時はいまよりもカラー印刷にはコストが必要だったから
儲ける必要はないが、赤字はだめよなのだ。
そうすると、どうしても支部ごとに目標をもっていだたくことになる。
当初、これが評判よろしくなかった。
「ノルマのおしつけか」「結局、テューターが負担してくばるのよ」
などなど。

でもでも、頑強に続けた。
すると、次第に応募作品が増えてきた。
継続は力なりとはよくいったものだ。

絵の選考については、昔の日記でけっこう書いているので
興味のある人は一覧からタイトルでさがしてほしい。
でも、3000枚の絵をていねいに見ていくのは
ほんとうに体力と気力が必要。
毎年、一次選考からつきあってくださっている
画家の関本浩詞先生には、ほんとうにありがとうといいたい。

あらためていうが、ラボ・カレンダーはどこにだしても恥ずかしくない。
子どもの絵、しかも物語に深くつっんだ絵でつくるカレンダーは
そうはない。
しかも、四半世紀以上もそれを続けているのである。

『まほうの馬シフカ・ブールカ』『十五少年漂流記』の絵を担当された
かみや・しん先生は
「絵を描くことは心の運動、筋トレみたいなもの。
だから、絵の具も大きくドーンとたして全力で」
とおっしゃった。
たしかにラボ・カレンダーの応募規定サイズはとっても大きい。
未就学児童、あるいは一年生の肩幅より広い。
これは、子どもにとっては脅威であり。
かなり気合いを入れないと描けない。
ちょっとお絵描きという気分だけでは無理
だから、初期のころは、途中でやめてしまった作品も多かった。

でも、近年はそうした途中描き作品はほぼなくなったと思う。
これも組織体験のすごさだ。
この規定サイズについても何回か検討した。
「幼い子どもには負担ではないか」という声もあったからだ。
でも、関本先生や本多豊國先生、そして宮本忠夫先生などから
「1年にいちどだから、ぶったおれるつもりで描くことも
たまにはあったほうがいいですよ」と励まされ、
ぶれずにサイズを維持し続けた。

「描きこみすぎてぐちゃぐちゃになるくらいでいい」
とは本多先生。
「仕事場の天井に貼って、チクショー負けねえぞといってます」とは
『かにむかし』や『おむすびころころ』の宮本忠夫先生。

画家だけではない。
『ノアのはこぶね』『ジョン・ギルピン』などの音楽を担当された
牟岐礼先生は、毎年、カレンダーの絵を芸大の研究室に飾ってくださり
さらに、ていねいなお手紙をくださる。

必ず「ぼく二つね」という、子どものような専門家もいらっしゃる。

ラボっ子たちの物語で育まれたことばの力が
色とかたちになって、まるでロケットの噴射のように
見る人の心にふきこんでくるカレンダー。

たしかに子どもの絵は、偶然によってうまれた表現も少なくない。
だが、ライブラリーときちんとむきあった子どもの作品は、
やっばりちがう。ふしぎだがほんとうだ。

2012カレンダーは上の写真のように三澤制作所の壁を飾った。
だけど、まだ表紙ははずしていないし、なかも見ていない。
年内は表紙のたくさんの作品で楽しみ、
後は新年から毎月楽しみに眺めていくつもりだ。
やっと、そういう距離でカレンダーと出会えたのだから。

その意味では、今、ライブラリーも心おだやかに聴いている。
とくにこの秋から冬は、前述のように会食の機会多く
そのなかでラボ関係の方との席もけっこうあったので
そういう日の後などは、話題になったライブラリーを聴くことが多い。
先々週もあるテューターとそのお嬢さん(社会人)と
かねてから約束していた中華を食べることがあり、
そのおりも結局はライブラリーの話になった。
もんて
上の写真はラボセンに行く前日、吉祥寺のモンテ・マーレという
イタリアン居酒屋での会食。
右は以前の日記にも登場した関西ラボOBで東京農工大学准教授の中條氏。
左はこの広場の創設者でありラボ事務局OBのアスペルさんこと佐藤氏。
※秘密にすることでもないので。
佐藤氏は現在、造園家として活動仲。
「創設者がもっと更新してください」と告げておいた。

ここはアスペルさんのご自宅の近くで、リーズナブルな値段でかなりおいしい。
ラボOBの藻谷氏がいう「元気な吉祥寺」を支える店のひとつかも。

はじめは、ラボ以外の社会・文化・芸術などの話をしていたが
中條氏がぼくらにラボで仕事をすることになたいきさつを
質問したことから、結局はラボの熱い話になってしまった。

考えてみればふしぎである。三人とも、現在はラボとは
基本的に関係ないのである。
しかも、この三名が関西ラボつながりとはいっても
明確に共有した時間といえば1976年の10か月ていどなのだ。

それほど草創から10年目のラボでは濃密な時間が流れていたのかもしれぬ。
国際交流でもいえることだが
たいせつなのはともに過ごした時間の長さではない。
温度と密度。
長さではなく高さの問題なのだと確信した。

ぼくも佐藤氏も中條氏も、今の日常はラボとはきりはなれている。
しかし、過去の楽しい思い出でというレペルをこえて
まさにそれぞれの人生と生き方と信条と、そして行動に
ラボがいまも分かち難く共生していることを
それぞれが「確認させられた」夜だった。
おそるべしラボ。

さて、クイズのこたえ。
ノルウェー・ブック・クラブの選ぶ「史上最高の文学100」にランクされている
日本の作品は!

「源氏物語」 やっぱりな!

『1984』を書いたジョージ・オーウェルは、吸入式の万年筆が
すぐに書けなくなり
しょっちゅうインクを入れることや、
高い筆圧のせいでペン先がこわれてしまうことにいらついていた。
これを聞いたあるフランス人が画期的なペンを発明してオーウェルに贈った。
がんじょうで長く書ける
VIC Ballpoint Penの誕生である。
もみぢしそうでしない、微妙な晩秋、なのにあなたは京都へいくのだ! 11月19日 ()
しせん1
写真は京都詩仙堂の書院からの紅葉。
写真を貼ってから更新するまでに4日近くかかってしまった。
仕事とか作業のペースは現役時代とちがって超自己中心なので
まあ、しかたがない。
しかし、やろうと思っていたことが進展しなかったり、
なかなか終らないのもストレスになる。
ストレスレスというのは、ほんとうにむつかしい。

さて、更新が遅れていた原因のひとつは、11月20日に
調布のアミノバイタルフィールドで行なわれた
母校のフットボール最終戦の撮影とその整理に手間どったことが大きい。
関東学生三部Dブロックに所属し、相手は東京農工大学。
すでに優勝は成城大学に決まっているが
一敗どうしの「まけられない戦い」というやつだ。
とくに四年生にとっては、まさにLast Game。
リバース
紅葉の写真に続いていきなりフットボールの写真で恐縮だが、
けっこうまじめなことを書くので
御用とお急ぎのある方も、しばしおつきあいを。
で、写真は前述した農工大戦から。
攻撃している緑のユニフォームがICU Apostles。
これはReverse Playという相手の反応を逆手に取った
ランニングプレーである。
かんたんに説明すると、まず7番のクォーターバックから
画面奥、すなわち右側のサイドにむかって走る24番に
ボールが後ろパスされる。
これは、典型的な大きく外を迂回するSweepというプレイのはじまりだ。
すると優秀な守備の選手は、すぐに24番をとめようと反応する。
しかし、このReverseは画面奥から手前、
すなわち逆方向からやってくる28番の選手に
すれちがいざまにボールを渡す。
写真はその瞬間である。
そして7番のクオーターバックかリードブロッカーとなり
露払いの役をはたす。
28番は7番の背中についていくのだ。
もちろん、敵もこうしたプレイは想定に入れている場合があり
手前のサイドにContainといって、まちぶせする。
そうした選手を7番が一人は責任をもって
自らの身体を投げ出して7番のために走路をきりひらく。
それから先はボールを運ぶ28番の勝負である。

こうしたPlayはSpecial Playのひとつであり、
決まると大きく前進するが、
時間のかかるプレイで、さらに複雑な動きが全員に要求されるので
失敗すると、ボールをこぼしてしまったり、
とんでもなくロスしてタックルされたりする。

だから、どこで使うかが作戦の妙というやつだ。
このときは、相手がICUのランニングプレーを
なかなかとめられず、かなり浮き足だったときに行なわれた。
農工大は、そのため24番に全員がむかったので
見事なBig Gainになった。

で、また話題はかわる。
 11月8日、月初にうけた術後2年半検査の
精密なデータを電話できいた。

☆個人的報告なので、この日記にはなじまないかとも思ったが
土台、自己中心的文しか書いてないのと
一応、心配してくださる方への報告ということでご理解いただきたい。

しかし、主治医が外来で多忙で予定の時間につながらずドキドキ。
1日の段階では基本の血液検査と主治医の所見ではOKだったが、
この日は画像診断・病理の専門的意見の報告。
これは、病変、転移、再発はなし!

次に腫瘍マーカー。
ぼくの場合は直腸の腺癌で
CEAとCA19-9という2種類のマーカーが目安となる。
人によって、また癌の種類によってはマーカーにでない場合もあるが、
ぼくのはとってもビビッドにでるそうで、
手術の前は通常の数十倍あった。
再発や転移の場合はおなじ性質のCancerが基本なので、
このマーカーを3か月に一度チェックしている。
これまではすべてクリアしてきたが…。
結果は、CEAが3.2ng/mでクリア!
これは、癌胎児性抗原(Carcinoembryonic antigen)
というやつで胎児と癌細胞にしかない糖タンパクで基準値は5.0以下。
そして、CA19-9(carbohydrate antigen 19-9)は11.5
この基準値は37u/m以下なのでクリア!

これで無事に正月をむかえられそうだ。
いつもながらに、ぼくにつながるすべての方がたに感謝。
半年とか1年の単位で命を計測していくのは
日々、全力で生きる動機となるなあ。
なお、癌は二人に一人はかかる病だが、
ぼくの場合はステージ3Aまで進んでいた。
直腸から外にすでに浸潤していたが
他臓器への転移、リンパ節転移は
病理レベルでは奇跡のようになかった。
何回か書いたが、オペは14時間というたいへんなものだったが、
腫瘍はなんとかすべて切除された。
しかし、細胞学レベルではわからないので、
退院後、UFTとユーゼルという経口の抗がん剤を
4週飲んで1週休みというクールを10回続けた。
これは比較的副作用の少ない薬で
ホリナートウラシルというわりかしクラシックな予防治療だが、
ききめは個人差があるという。
以来、3か月に一度の血液検査、半年に一度のCT検査をしている。
読者のなかに、お知り合いに同じような闘病をしている方がいらっしゃる場合、
少しでも参考になればと思い、くわしく書いてみた。

そんなわけで、現時点では元気なわけだが
腫瘍細胞は時限爆弾にように息をひそめているかもしれぬ。
そんな見えない相手をあんまり気にしても仕方ないので
とにかくPositiveかつ「嫌いなことをしないように」生きることにした。
それが、結局免疫力をたかめているのだろう。

で、いわゆる5年生存の半分まできた免疫力の背景を
もう少し考えてみると
・昨年秋から、全国のバワースポットにあちこちいっている。
例=櫛田神社 湯布院 熊野古道 熊野大社 出雲大社 大三島神社
兼六園 ブセナ岬 宮古島 函館山 大覚寺など

なんか、冗談ぽいが、これだけ行くと無関係ではない。
・ラボの子どもたち、テューター、OBの活躍
ここからもマジでパワーをもらっている。
なかなか直接見る機会は少ないが、
ここの日記やFacebook、そして年に何回かみるテーマ活動が
すごい力になっている。

 そして、母校のフットボールの若者たちからも!
今年も春から秋まで全試合の撮影をしたが、
彼らのひたむきな努力と闘争心からもらう力はすごい。
この試合の日も、ぼくの敬愛するティームドクターの
安田医師に検査をクリアした旨を報告したが
「撮影することで、まちがいないく、彼らからパワーもらってますよ。
医学的な証明はできないけど、免疫力向上に効果があると信じてます」
と激励された。
 
そして先週末、父の月命日の墓参を母とした。
墓参の後、ドトールでミラノサンドを二種たのみ、
ぼくとシェアするのが、母のささやかな楽しみである。
ドリンクはホットミルク。
「検査のお礼、ちゃんといった?」と母が静かに問う。
うん、といいながら、一昨年、ぼくの病気を持ち去るように
鉄腕アトムみたいにさよならした父のことを、
まだ少し引きずる自分がいる。
しかし、ひきずりながらも前には進んでいる。
人がひとり亡くなったのだ。それでいいのだ。

そんなわけでいよいよ京都である。
いろいろのおとなの事情はあるが
三澤制作所の仕事である。
さしつかえない範囲で、ちょっと遅れぎみで
じつは、すごく心配な京都の紅葉を撮影した。
日程は11/18-19の1泊という
例の如くのVery Short。
母親のことなどを考慮すると、なかなか2泊はたいへん。
今年は沖縄と宮古島でそれぞれ2泊をしているので
今回も1泊。ブータン国王より1日はやい上洛なり。
※予算的にも2泊たいてい無理。
で写真。
しせん2
上は、詩仙堂の「詩仙の間」から庭を。
詩仙堂は、いまさらぼくが説明するまでもないが
京都の碁盤の目の北東、左京区一乗寺に位置する。
まずは宿にした祇園をスタート、南禅寺近くを抜けて北へ。
とにかく、今年の紅葉は気温変化がうまいこといかなかったのか、
とってもとっても遅れていて、
一番の見頃の時期であるこの日が、南のほうはほとんどバツ。
洛北方面でさがすしかないという状況だった。
事前に現地のスタッフがロケハンしてくれていたので
効率よくまわることができ、なんとか撮影もこなしたが
鮮やかさでいえば今年はきびしい。
心配なのは、このまま色が深くならずに落葉してしまうことだと
地元の方がたはおっしゃる。
ちなみに、京都ではJR東海の「そうだ京都へ行こう」は
だれも知らない。
忘れないうちに書いておくけど、
今回の紅葉の写真は下のFacebookのアルバムにものせている。
だれでも見られるのでよろしければ。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.202885423121151.48336.100001990857831&type=1&l=463d7297f7
ししおどし
石川丈山は「鹿威し」の原形を考えた人だという。
詩仙堂は今、六六山丈山寺という曹洞宗のお寺になっている。
次も詩仙堂のお庭
しせん3
続いて、曼殊院に足をのばす。ここも、なかなか紅葉は進んでいた。
まんじゅ1
まんじゅ2
続いて、暗くならぬうちにと西に進路をとって
真言宗大覚寺派の本山、大覚寺へ。
だいかく
だいかく2
大覚寺を後に六道の辻のそばを通って嵯峨鳥居本へ。
六道の辻にある六道珍皇寺は、小野篁がその井戸から
冥界を行き来していたといわれる。
すなわち、京都の西の結界である。
オカルトシティ京都に興味津々で
ほとんど、よみがえりに近いぼくとしては
ぜひ立寄りたかったが、マネージャーが
「ボス、その六道なんたらは、今回の仕事とどういう関係がありますか」
とこわい顔でいうのであきらめた。
大覚寺の写真ではめずらしく笑っているが、
これはスタッフがおびえないためだといっていた。
小野篁は180cm以上もある巨漢で、文武にすぐれていた。
あまりなじみのない方には
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
という百人一首十一番の人といば、ああとなるかしら。
51歳(異説あり)で世を去ったが、
夜ごと地獄に出入りしてえんま大王の補佐官をしていたという。
また、反骨でしられる官人でもあった。

slems
嵯峨、鳥居本愛宕神社一の鳥居わき、鮎茶屋平野屋付近
ここの紅葉もよく撮影されポイントだ。
そんなわけで、撮影可能なぎりぎりで最終目的地に着いた。
この鮎茶屋の平野屋さんはとっても有名。
昼は5000円、夜は15000円くらいでいただける(らしい)。
当然、たちよるひまもなく、嵐山をぬけて帰路に。
嵐山といえば、『なよたけ』刊行時に
渡月橋そばのホテルに秦恒平先生を招いてご講演いただき、
翌日は地元出身の倉藤テューターの案内で
「なよたけツアー」を行なったのがなつかしい。
もう21年前のことだ。

そのころは天竜寺の付近も静かだったが、
今はあっとおどろく原宿状態。
ぼうぜんとしてしまった。
おどろいたことには「美空ひばり館」なるものもできていて
どうもかの歌姫が別荘を付近にもっていたご縁らしいが…。

祇園の宿にもどり、高台寺のライトアップを撮るかという話もでたが゜
あまり期待できないし、雨もふってきたのであきらめた。
宿で、地元スタッフの好意よる「さくら川」(ミシュラン!)の
お料理を仕出しでいただいていたら、
なんと京都在住のOBから連絡がきた。
うれしいかぎりだ。
「ぬけだせないですか」という誘いであったが
マネージャーがとんでもない顔つきになったのでゴメン!

なお、今回の京都行きについては、
元寺嶋パーティOGの鳩島(旧制高山)直子さん、
北原テューターをはじめ、多くのラボ関係者から事前情報をいただいた。
とくに、地元の上岡裕子テューターは、
貴重なご助言をくださり、おおいに役立った。
この場をかりて御礼を申しあげたい。
タッチダ
写真はエンドゾーンにかけこむICU24番。
審判が両手をあげてTouch Downの表示をだす直前である。
息をつめて見つめるマネージャーの後ろ姿と髪が
物語をつくりだしている。
この試合で引退する彼女にとっては、Last Touch Downだ。
きゃぷてん
試合は、結局のこり13秒で3点差の逆転負けで終った。
勝てた試合をミスで失ったのが正しい分析だろう。
負けは負け。
「全力をだしたので悔いはない」とはよくいわれるが
そんなのはウソである。
全力を出してつくったから、これでゆるしてとはライブラリーでも
あり得ない。結果がすべての世界があることを
若者は学ばねばならない。
「全力をだせなかったので負けた。次はギタギタにしてやる」くらいじゃないと
選手もかわいそう。

逆にいえば、全力を本番にだせるのが実力。
※ラボっ子は本番に強い!

誰もが悔しかった。その思いは試合後の観客への礼のときに爆発した。
顔をあげられない者。うなだれる者。涙する者。
しかし、いちばん悔しいはずのキャプテン14番が
凛とした一声。
「顔をあげろ! 胸を張れ!」
この日で引退する主将は
見事に感情を押さえ込んで、その役割をまっとうした。

安田ドクターのいうパワーの源がそのときわかった。
すがりつきたいほどの懐かしさに思わずふりむいても、青き嵐のころはすでに無限遠でゆれる陽炎のよう 11月03日 (木)
しゅうごう
被写界深度ということばがある。
写真のテクニカルタームだが、
ピントが合っているように見える距離の範囲のことだ。
もちろん、厳密にピントが合う場所は一平面上にしかないが、
その前後にもはっきり結像しているといえる許容範囲がある。
その範囲が被写界深度だ。
英語ではDepth of fieldといい、DOFと略される。

興味のない人には、どうでもいい話だけど、
絞りの数値をあげるとシャッターの開く大きさは小さくなり
被写界深度は深くなる。
つまり、手前から奥までピントがあった写真になる。
人物と風景をどちらもはっきりさせたいときはこれだ。

逆に絞りを開放してシャッターを大きく開けると
被写界深度は浅くなり、たとえば手前の人物にピントをあわせると
奥の背景はぼけて人物が強調される。
前々回の日記で載せた彫刻の森美術館の
ギャラリーカフェで撮った人物写真はその例である。

今のカメラはだいたいオートで撮ってくれて
それなりのできばえになるのだが、
ちょっとした技術でずいぶんちがう写真になる。
しかし、最新のカメラは人物中心とか風景と人物とかいった
撮影モードもついていて、
今述べたようなテクニックをカメラが勝手にやってくれる。
まあ、理屈はいっしょだ。

しかし、どんなハイテクのカメラでも
人間の眼というレンズと、その映像を解析する脳というカメラには
まったくかなわない。
一般的に、カメラのレンズは何枚か重ねられており
特に望遠レンズなどはたいへん枚数が多い。
したがって、どうしても暗くなってしまう。
しかし、人間の眼のレンズは左右それぞれ一枚である。
たいへん明るい。
しかも、立体視ができ、自在に被写界深度をとれる。
最新の工学技術でも、人間の眼と同性能のカメラやレンズを
つくることは、なかなか難しいらしい。

かように優秀な人間の眼だが、
残念なことに脳というフイルムには
いつまでも画像を保存しておくことができない。
場所でも人でも、長く見ていていないと
「あれっ?」となってしまうのは
人間カメラの悲しい部分である。
感動して、そのとき強力に脳裏に焼き付けたつもりでも、
年月というものは脳の映像を用意に劣化させる。

そこへいくと耳の記憶はすごい。
音はいつまでものこる。
いつかも書いたが、81歳の母親は
戦争末期、防空壕のなかで
空襲を終えて、はるか高空を「ごおん、ごおん」と去っていく
B29の爆音が今も耳にのこっているという。

ラボっ子の言語体験もそうした耳の記憶に支えられいるのだろう。
国際交流参加者の感想、OBの思い出などに
その顕著な例は山ほどある。

いやな話だが、臨終においても
聴覚は最後までのこる。

眼は口ほどにものをいうが
耳は眼ほどにものを知るのかも。
やはり聴くことはたいせなのだ。
と、また、そこにむりやり結論をもってくなあ。

さて、タイトル下の集合写真は神無月終わりの29日に開催された
武蔵高校45期の同期会の最後に撮ったものだ。
ぼくが撮ったので、ぼくは写っていない。
一昨年にも行なわれたが、
そのときは170名中、38名のみの参加だった。
今回は、卒業40周年ということと、
同期の梶取弘昌くんが、
同校の校長に就任したということもあり
60名をこえるかつての悪ガキどもが集まった。
男子校なので「アラ還(みな58~9歳)」のおっさんばかりで
じつに暑苦しい。
紅顔の美少年だったものもいたが、
そのおもかげすらもない。
厚顔の後期中年である。
かじとり
上の写真は同期会で熱唱する梶取校長と夫人。
彼は東京芸術大学で声楽を学んだぼくらのなかでも異才である。
また数学、英語の分野の卒業生から輩出することが多い校長職だが
音楽から選出されるのもめずらしい。
もっとも、梶取くんは教頭職も長く、
その実績が評価されてのことである。
ただ、校長は学校の顔であるから
そのプレッシャーと業務量はすさまじく
専門であるドイツリートの研究に費やす時間がとれず
「この学校では降格人事」とあいさつして
一同の爆笑を誘った。

『ノアのはこぶね』『ジョン・ギルピン』の音楽を担当された
牟岐礼先生(東京芸術大学教授)は
「音楽家のなかでは声楽家が他の楽器にくらべて
ギャラはいちばん高いんです。
あのすばらしい声は、もちろん訓練にささえられていますが
天賦の才は、まさに天から借りているのかもしれません。
そのレンタル期限はビアノやバイオリンなどにくらべて
とっても短い。実働期間がかぎられているんですね」
とおっしゃった。

たしかにビアノやチェロなどはかなり高齢でも、
信じられないほどの演奏が存在する。
かつてウラディーミル・ホロビッツが最晩年に来日したとき
あの手この手をつかい、さらに無理にスケジュールを調整して
聴きにいったことがある。
ちょうど、ぼくが埼玉支部(現北関東信越)の担当から
本部の制作広報に異動になった1986年のことだ。

じつはホロビッツが初来日したのは1983年、
すでに80歳のとはきで、このときの演奏は
ぼくは聴きにいってはいないが
体調不良によるぼろぼろで
「ひび割れた骨董」などというきびしい批評をうけた。
ホロビッツは、もともと波のある演奏をすることでも知られていて
ノッているときの演奏は悪魔の技といわれるほどの
タッチと加速感、そして心にせまるものがある。
彼のピアノはCDでもきけるので
興味のある人はぜひ。
1970年代のショパンやシューマンはすごい!

ホロビッツの1986年の再来日のときも
83歳の彼が
はたしてまともに演奏できるのかということが話題になった。
ぼくも、一度生で見れればいい
くらいの気持ちで安くはないティケットをにぎりしめて
ホールにむかった。
たが、そこでの演奏は
悪魔どころか、天上界の神がみも頭を垂れて聴いてもおかしくない
すばらしいものだった。

すぐれたピアニストは数多いが、
ミスタッチの少なさはもちろん、
唄うような表現力のあるピアノを弾くという点では
ホロビッツの右にでるものはいないのではないか。

そのとき、ぼくがとくに感動したのは、
ぼくの席(当然、いちばん安い席なので後ろのほう)まで
ピアニシモがしっかりと、とどいてきたことだ。

また脱線したのでもとにもどるが
声楽家はホロビッツのような高齢者のプロはいない。
どんな鍛錬しても限界はくる。
梶取くんも、日々トレーニングを重ねているが
激務のなかでいつ声を失うかとの恐怖と戦っている。
だから
「歌える場を見つけてとにかく歌う」ということで
この同期会でも校長でありながら
「歌いたい」と司会に申し込んだ。
ちなみにこの写真は夫人とのイギリス歌曲のデュエットであるが
この前には、さだまさし氏の「案山子」を熱唱した。

なお、氏に宣伝してくれとたのまれたので
しぶしぶ書くが、
「毎日小学生新聞」に音楽教育についてのコラムを
春から連載している。
※しっかりコピーをもらった。
つぼさん
上の写真は当日かけつけてくださった恩師の一人、
大坪秀二先生である。
御年87歳だが、しっかりと立ってウィットにとんだあいさつをされた。

戦後、この学校の自由な教育を進めたのは
大坪先生が校長在任時に発揮された強力なリーダーシップによる。
制服なし、校則なし、ことさらの受験教育はしない、
しかし自ら考え、自ら学ばないものには冷たい
という今も続く校風の基盤は大坪先生が固めたといってよい。

とにかく、本質的な知的刺激を生徒に与え
生徒が自分で考えることを激励する。
そのことの意味がわかったのは、
卒業後、大学3年くらいになったころである。
それまでは、なんでこんな難しいことばかりやるのだと
恥ずかしながら思っていた。

いっぱい、知的刺激をうけていたはずなのに
その恩恵をずいぶんと無駄にしてしまった。
もうすこしまともにむきあっていたら
もうすこししまともな人間になっていたのに…。

中学・高校と、
青き嵐に、しかも瑞々しく、
かつ貴重な風にさらされていたことを
幸運に思う。

ぼくたちに刺激をあたえてくれた教師の方がたを
書いていったらきりがないが、
今回ひとりあげるとすれば、
倫理社会の和辻夏彦先生(故人)だろうか。
和辻先生は「古寺巡礼」などの名著で知られる
哲学者、和辻哲郎先生のご子息である。
夏彦先生も哲学を学び、当然にも大学レベルでの研究を
されてもおかくなかいはずなのに
先生は中学と高校の教師の道を選び、そして愛された。

ぼくがまだ、中学のとき、
和辻先生の最初の授業で、先生は黒板に
「社会とはなにか」と書かれた。
そして、ひとりずつ生徒を指名して
意見を述べるようもとめた。
だれも、まともにはこたえられない。
ほぼ全員がしどろもどろになったが、
先生はなにもおっしゃられなかった。
その日はそれで終ってしまった。

翌週、また先生は「社会とはなにか」と板書された。
そしてまた,皆沈黙して授業が終った。
その翌週も同じことがくりかえされた。

すると、さすがに、図書館にいったり、
先輩や仲間たちと議論したりするものが現れた。
とにかく、なにかこたえないとまずい、
それには、自分で考えないとはじまらないことを
ようやく、あほなぼくたちは学んだ。
やざき
上の写真は記念撮影の後、会場を後にする
矢崎三夫先生である。
矢崎先生は英語がご専門で、中1のときはぼくの組担任でもあった。
先生も校長職をされており、
「梶取くんには、すなおにおめでとうとはいいにくい」
とあいさつされて
またまた一同爆笑した。

先生は腰を悪くされていて、この日も出席があやぶまれたが
元気に参加してくださった。
外科、内科、眼科、歯科いずれも同期の医師が担当しているという。

先生がお帰りのときは全員がスタンディングオベイション。
なにやら「チップス先生さようなら」みたいに感動的だった。

今、私学を受験する小学生はたいへん多い、
いわゆるお受験というやつだ。
ぼくの時代は、まだまだめずらしくて
逆に奇異な目で見られた。
ただ、小学校の担任の先生が熱心にすすめ
親を説得してくれた。
ぼくは、まわりにいわれるままに受験したにすぎない。

テレビなどで受験塾のようすなどを見ると
子ども自身が、すげえやる気でがんばっている。
なにか複雑な気分になる。

今思うのは、校風や教育方針が
その子どもにあうかどうかがたいせつだと思う。
でも、はじめはわからないもんな。
ぼくは、すばらしい6年間を過ごしたと思っているが
途中で校風にあわなかったり
授業についていけずに学校を去った仲間もいる。

ラボっ子のなかにも中学受験をする方も多いだろう。
その受験のために費やされる時間によって
行動がせまくなることはいたしかたない。
わずかの期間だし。
ただ、小4くらいからもう準備するのは
ちょっとなあというのが正直なところ。

ところで
中高一貫というのは、ある意味培養面積が小さいけど
縦長のよさもある。
それはラボでも証明ずみだ。

梶取校長との会話のなかでも
受験の問題というのはテーマになった。
かつて武蔵は受験界の北朝鮮といわれ
いわゆる受験産業とはまったく接触をしてこなかった。
また、大学受験においても特別な受験授業はしない。
ただ少子化のなかで、受験者数を増やし
未来を担う人材を安定して育てるためには
そうもいっていられないと
校長はいう。

うーむ、学歴ということばは好きじゃないが
中学・高校のときに出会う知的刺激は
ほんとうにたいせつだ。
その意味でいえば
ライブラリーという、すぐれた知的刺激に
幼いときから出会えることは
なんと幸せなことだろうか。

なんか母校の宣伝のようになったが
※梶取(敬称あえてなし)に「あちこちによく書いてくれ」
といわれたのもあるが
年も終わりに近づくと、
受験に頭を悩ませる方も多いのではないかと思い
こんなことを書いてみたが
あまりに役立ちそうもない。

希代の天才ピアニスト
ウラディーミル・ホロビッツは
小品集のレコーディングを終えた
4日後の1989年11月5日、
自宅で食事中に急逝。
ミラノにある義父である
トスカニーニの霊廟にともに埋葬された。
Search for the Daylight 還れ、木漏れ陽に息をひそめる遠い憧れたちよ! 改 2 10月25日 (火)
でいらいと
追悼 北杜夫氏
 ほぼ全作品を読んでいるが、『どくとるマンボウ青春記』『白きたおやかな峰』『楡家の人々』『高見の見物』『夜と霧の隅で』などが好きでした。
 卓抜したヒューモア感覚もさることながら、静かで透明感のあることばの使い方も魅力でした。合掌。
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また、わけのわからぬタイトルだが
あまり気にしないでほしい。
なんか勢いで書いているだけだから…。
ただ、この間の世界のできごとにぼうぜんとする自分と
目をそむけるなと警告する自分の両立に苦しんでいる。

Daylightということばがある。
文字通り日の光の意で
いわゆるサマータイムはDaylight Saving Timeであることはご存じの通り。
略してDaylight Time とも表記する。
※アメリカでESTは東部標準時、EDTは東部夏時間。ややこしい。
ついでにいうと中西部の一部では労働組合の反対で
夏時間を採用してないところもあり、しかもそれが
時差のかわりめのところの近くだったりすると
きわめてめんどうなことになる。

それはともかく、Daylightの意味はけっこう広く
夜明け、あからさま、公然、隙間などでもある。
上の写真は一昨日の日曜日、
東小金井にある国立東京農工大学のグラウンドで行なわれた
ICU対亜細亜大学のフットボールの試合である。
すでに秋のリーグ戦がはじまっており、
三部Dプロックに所属しているわが母校は1勝1敗。
この日は負けられぬ3戦めだ。
結果は31対0でICUが勝利して勝ち点3をゲットした。

それも、まあ、この日記にはあまり関係ない。
写真を見ると白いユニフォーム(この日はアウェイなのでICUが白)の
83番の選手がボールをもって突進している。
彼の前方では長身の選手とガッチリした体格の選手が
亜細亜大の選手をブロックして83番の進路を見事にあけている。
この穴もDaylightという。
83はランニングバック。楕円球を敵陣まで運ぶのが仕事。
長身の選手はワイドレシーバーといってパスを受ける役割だが
このプレイでは身体を張って道をあけている。
写真右手のガッチリしたプレイヤーはラインズマンといって
ルール上ボールを持つことができない無資格捕球者、
すなわち道あけ専門。
一試合で100回近く体当たりを繰り返す。
得点をとっても注目を浴びるのはランニングバックやレシーバーであり、
ブロックを失敗したときは非難をあびる。
ラインズマンは辛い仕事である。

しかし、ランニングバックはラインズマンが
Daylightを開けてくれると信じて全力で突っ込む。
ラインズマンの自己犠牲にこたえるために1ミリでも前をめざす。
ラインズマンが強いティームは真に強い。
一方、ランニングバックは孤独である。
プレイが始まる直前、選手は自分の相手を目で捉える。
ラインズマンは基本は正面の守備ラインズマンを
ワイドレシーバーはディフェンスバックを。
しかし、ボールを運ぶランニングバックには
相手ティーム11人全員が自分に襲いかかってくるのだ。
正面からも横からも、死角である背後からも。

だが、孤独もまた重要である。
近づきすぎるとお互いがよく見えないこともある。
ラボのパーティ活動が原則週一なのはいいことだなあ。

皆で集まってテーマ活動することと、
孤独にライブラリーと向き合うことは
表裏一体だと思う。
発声したり身体で表現したりすることは能動的で
聴くことは受身というか受動的なイメージをもちやすい。
しかし、じつは聴くことは超能動的な行為である。

話を少し戻して、個人とティームについて。
『妖精のめうし』の絵についてニコル氏と六本木の
全日空ホテルで、うちあわせしたときのことだ。
年明けにはウエールズに録音に行くことが決まっていた
クリスマス少し前の寒い夕方だった。
絵の描き手がラボ側が選定した画家とニコル氏が推薦する画家が
めでたく一致してうちあわせは終った。
ニコル氏は「さあ、終わり終わり。ご飯ご飯」
と手をたたいた。
しかし、マネージャーのMさんは体調が悪く
もう一人の著作権管理の男性も次の予定があるという。
ニコル氏は子どものようにさみしそうな顔になり
「ぼく、一人でご飯食べるのつまらないなあ。
ラボが忙しいの知ってるけど、近くに気軽なフレンチがあるんだ」
と、ぼくらを見た。
ほんとうは戻って仕事をしたかったが、
断るのはもったいない。
おかげで濃密な時間を過ごすことができた。
食事がすみ、トマトのようになった顔のニコル氏は
食後酒のグラッパをかたむけながら問わず語り。
「ぼくは、一人で原稿を書くことは全然さみしくない。
何時間でも書いていられる。作家だからね。
でも、ラボの仕事のように、みんなで一行ずつ議論したり、
スタジオでいろいろなスタッフとわあわあいって
創作していくのも刺激的。
自由で、遊びがあって、でも手を抜かない。
そういうのはラボしかない。
ふだんは、英語で原稿書いたら翻訳者と編集者におまかせだもの」

そう、文学でも音楽でも創作は本来孤独でわがままな作業。
専門家どうしで協働するのはなかなかたいへん。
両雄相入れず。
だが、ライブラリーは相入れる。

さても、フットボールにポジションごとに役割があるように
スタジオでも多様な仕事がある。
中心は俳優だけど、
演出がいて、ミキサーがいてアシスタントがいて、
チェッカーがいて、プロデュースするラボがいる。
ボールを運ぶのは俳優。
他はそのためにDaylightをつくりだす。

いつかも書いたが、スタジオには窓がない。
まさに金鉱掘り。
創作という金塊に取り憑かれた山師たちが集う場所だ。
Daylightを浴びるのはOKがでてから。

そして、パーティというティームにも多用多彩な役割がある。
どんなに目立たなくても、
そこに必要とされ、期待される役割があれば、
子どもはそこに自分の居場所があることを自覚し
責任感と自我を育むはずだ。
なかじょう
さて、かたい話が続いたので後はジョギング。
上の写真は試合の後、ラボOBの中條拓伯氏と
六甲山というお好み焼き屋さんで食事をしたときのスナップ。
中條氏は1970年代後半から80年代にかけて
関西支部で活躍したラボっ子で、
神戸大学で電子工学を学び、現在は農工大で准教授をされている。
そして、ご近所のよしみでICUでも非常勤で講義中。
昨年久しぶりに再会し何度か食事をした。
最近はFacebook仲間である。
今回もFacebookで彼のウォールに今度農工大に行くよ
と書きこんだら、じゃあ飯でもとなったわけ。
目の前にある芋焼酎「ジョン万次郎」は、
関西支部の直川テューターからいただいたそうである。
ごちそうさまなのだ。

この場には、財団事務局長の間島氏も夫妻で同席していて写真もあるが
プライベイトなので、かわりに氏が九州の会員時代に
参加した1984年末のウインターキャンプの写真を掲載する。
ついでに、スタッフの集合写真ものせるので
「わあ、懐かしい」とさけんだ人は…。
まじくん
冬いち
やかつ
このときのテーマは『ドリームタイム』。
最後は1986年の黒姫山の学校のスタッフ写真。
9泊10日!!
やまがくいち

神無月も間もなく終わる。
霜月になれば、街は冬へと急ぎだし、
人びとは急がされる。

諍いに目をそむけることはでしない。
ランニングバックのように
Daylightに向って、とりあえず前へ!
蛇足だが
see daylightは、めんどうごとの出口が見えるの意。
burn daylightは、昼間に灯りをつける、
すなわち、余計なことをするということ。

えっ? おはえがいうな!??
はるか高空で硬石のふれあう透明な音がひびく 秋の真ん中で立ち尽くす 10月15日 ()
訃報
夕食のカサゴの煮付けをつまみつつ夕刊を開いたら演劇集団円の俳優、有川博氏の訃報が目に飛び込んできた。享年70歳。すばらしい表現者が、また天に還った。ラボ・ライブラリー『プロメテウスの火』ではプロメテウスを熱演。コーカサス山に縛られる場面では、あまりの声量にレベルメーターが振り切れるほどだった。合掌。
おおやま
秋である。
どうしようもなく秋である。
嘆きがこぼれぬように
だまったまま、うつむいて、
あるいは息をつめて心をしぼりこみ、
できうればその美しさだけを味わっていたい。

この数年では最もおだやかな秋のなかにいる。
このおだやかさが世界に満ちてほしい。

上の写真は先週の日曜日、10月9日に
神奈川県伊勢原市の成城大学のグラウンドから撮影した
大山(おおやま=1252m)だ。
ほとんど偶然だが、光のバランスがうまくいって
なかなか「いいかんじ」のグラデーションになった。
大山は丹沢大山国定公園に属し
その美しい山容ゆえに、古くから山岳信仰の対象になった。
1700年代から信仰登山がはじまり、
大山詣りは江戸時代の庶民にとっては江ノ島詣りとパックになった
お楽しみのひとつでもあった。
古典落語にも「大山詣り」という演目があり
長屋連中がその道中でドタバタをくりひろげ
最後は、女性たちが丸坊主になってしまい
「お山は晴天、みんな毛が(怪我)なくておめでたい」
というサゲでおわる。
今は、どうかわからないが、
噺家の皆さんの初詣は伊勢原の大山が習いだった。

大山に通じる道は数多くあるが、
有名なのは現在の国道246号線であろう。
この道は都心では青山通りなどとシャレた名でよばれるが
渋谷を過ぎて三軒茶屋あたりになると
もう、246(にいよんろく)であり、
大山街道である。
多摩川をこえ、神奈川に入り246はさらに西をめざすが、
ラボでいえば「たま川」地区のどまんなかをぬけて、
伊勢原をめざす。
もっとも多摩川をこえると246はバイパスだらけとなり
旧道はずたずたになっていてわかりにくい。
川崎宮前区の郷土史の研究家にきいたら
渡辺華山がこの道を歩いた日誌を書いているそうな。
首都大学1
上の写真は、ほぼ1年前、八王子の首都大学東京(旧都立大学)で。
そのころの日記にも掲載したものだ。
なんで、わざわざまた載せたかといえば
下のわずか三行の詩を紹介したいためだ。
ぼくの大好きな作品のひとつ。

カチリ
石英の音

-藤 井 壽 雄
(沼中三年)-

この鋭く、かつ透明感あふれる
シェイプアップされきった
体脂肪率ほとんどゼロの作品は
昭和の大作家井上靖氏が沼津中学三年在学時、
友人のひとりである藤井氏が書いたものだ。
この詩はいまも沼津市の妙覚寺境内の
石碑にのこっている。
井上氏はこの寺に下宿して中学に通った。
そして友人たちと海で泳ぎ、山で遊び、詩や歌をつくった。
中学三年といっても旧制であるから、17歳~18歳のころである。

青春まっただなかで柔道一直線(古!)だった井上氏は
この藤井氏の詩に、いたくはげしくインスパイアされ
文学の世界に大きく傾斜していく。
やっぱり、「ことばは未来をつくる」のである。

なんてことを思いながら
一昨日は頼まれ原稿を書きつつ
『ロミオとジュリエット』と『ありときりぎりす』を聴いていた。
そして、ふたつのことを思った。

ひとつは、『ロミオ』の第1話の舞踏会あらしにいく
ロミオ、ベンボリオ、マキューシオの場面。
ペロナの夏の夜。
おそらくは「ぬめっとした、なまめかしい」空気。
Give me a torch.
の場面である。
三人の若者の距離感、さらには青さ、
また石畳の濡れて光るさま、
舞踏会への期待とふるえ、
そんなものが、息苦しいくらいに
リアルにせまってくる。
もちろん、セリフの間とかもいい。
セリフはすべて当時のラボっ子である。
はっきりいって素人。
それもすごいのだが
ささえる音楽が鳥肌ものである。
間宮芳生おそるべし。

ライブラリーの音楽は足し算ではいけない
足し算では説明になってしまう。
かけ算となってふくらませなければ

そのことばがよみがえった。

いまひとつは、『ロミオ』にも『ありときりぎりす』にも
共通する(もちろん、他の作品でも数多くいえること)ことだ。
やりとり、いわゆるカラミの部分のセリフの間と英日の問題である。
ライブラリーが英日という二言語であることは
濃厚なクリームスープのような栄養満点であることの証であり、
聴くだけでも心の滋養になるのだということは
これまでも何度か書いた。

一方、テーマ活動は、ざっくりいえば
言語体験・言語実験(だからラボラトリー)
をくりかえしながら、作品とその世界に接近していくという
教育プログラムである。
そのアプローチの方法が演劇的手法、空間表現的やり方であることが
多いということだ。
この点についても、いくたびか触れた。

だからテーマ活動のいわゆる劇的・表現的完成度は、
最大の目標ではなく、その道筋、言語体験・実験を通して学ぶ
世界や言語そのものが重要なのだと思う。

ラボのテーマ活動を高く評価してくださる専門家は多い、
しかし、一方で演劇的手法で教育活動をしている方がたからは、
二言語での活動や発表にもどかしさ、
違和感を感じるという声をきくことがある。

それはまあ、当然といえば当然である。
スターキィもマキューシオも死ぬという
人生で一回しかできない行為を
英語と日本語で二度するはめになったりするからである。
You only live twice! 007じゃないし!

冗談はさておき、この劇的矛盾は
英日で活動するときの宿命的問題である。
しかし、実際はラボっ子は
かるがるとのりこえている(ようにみえる)。
もちろん、そのなかで英語と日本語を発声しているときの
感情の動きやバランスは、もっと研究してみたいテーマである。
幼い子が英日ワンセットで自然にいうのと
高校生くらいになり、十分にそれぞれを意識して発声するのでは
どのようにちがうのかも興味深い。

ただ、英日という、ある意味不自然な言語世界が
つくりだす広い宇宙が魅力であることはまちがいない。
「机」という語りと「a desk 机」ではあきらかに違う。

また、シェイクスピア作品などは
Blank verse、iambic pentameter /弱強五歩格
のような詩型をもたぬ日本語だけでは
その言語的魅力を味わうのはけだし困難だが
ライブラリーのような英日構造はひとつの興味深い方法だ。

さらにいえば、劇的表現をするときの
もどかしさこそが、テーマ活動の本質であり意味たどもいえる。
それは、二言語の二重表現の違和感のみならず、
雲や風や魔法などの身体による劇的表現が
一筋縄ではいかないことなども含めてのことである。
それらを個人やグループの身体で逐一再現することも
また、削ぎ落として表現しないことも
テーマ活動の過程でラボっ子たちは考える。

すなわち、こうしたもどかしさのなかで
煩悶することもまた活動なのだと思う。
だから「劇をしやすい作品」をしたかったら
学校演劇の台本でいい。

まあ、このことは、こんなお気楽な日記で結論できるはずもない。
書きたいのは、そんな背景をふまえての
録音するときの役者さんの苦労である。

『ありときりぎりす』を例にとる。
冬が近い「ありの城」でのAnt3とAnt1(ありの軍曹的エラソーなやつ
でも、ラストでちょっとかっこいい)のカラミ。

Ant3 Sometimes I wish I was a grasshopper.
   ときにはきりぎりすだったらなあと思いますね。
Ant1 A grasshopper! You must be crazy!
きりぎりす? おまえ気でも狂ったか!

これも何度か書いたことだが、英語と日本語は別に録音し、
あとで1行ずつ、昔はテープを切ってはり、
いまはコンビューターで英日に編集する。

ここで日本語に注目する。
演劇的リアリティからいくと、
Ant3の「ときにはきりぎりすだったらなあと思いますね」
に対してAnt1の感情は
「ときにはきりぎりす」くらいですばやく反応するはずだ。

とくにAnt1は気が短いわけだし、
その前のAnt3の「わかりました。わかりました」
という投げやり的ないいまわしに、すでにキレかかってるから
「ときにきりぎり…」くらいでキレはじめ、
「なあと思いますね」のAnt3のセリフを完全に「食う」かたちで
かぶせてたたみかけるのがリアルな演出である。
ようするに悠長にさいごまで人の話を聴かないのだ。

役者は当然そうやりたい。
しかし、それはこまる。
なぜか。
まず、セリフが重なると「聞き取れないことばがでる」
そして、これが決定的なのだが
次の英語が割ってはいれない、すなわち英日に編集できない。

したがって、
「すみません、ここはセリフ食い気味にいきたいところなんですが
英語を編集でいれるつごう上、間をあけてください。ブレスも
かぶらないようお願いします。でも、気持ちとしては食い気味
でかぶせ気味で、きれない感じでお願いします」
という無茶苦茶な注文をすることになる。
ぼくが役者だったら、「そんなのできねえ」と
ほうりだすかもしれぬ。
しかし、みんなプロである。
ライブラリーを聴いてもらうとみなさん納得して努力してくださる。
なお、この場面では英語のやりとりは
Ant3 Sometimes I wish I was a grasshopper.
Ant1 A grasshopper! You must be crazy!
で、grasshopperということばが最後にででくるので
日本語ほど食い気味になる必要はない。
でも、やはり英語の役者も
ここは間をおかずにすぐに突っ込みたいから
やはり近くなりすぎて、プレスがかぶったりしてしまう。
そこで、おんなじ注文をするというわけだ。
いやはや、身体をつかわず声だけで
聴き手を納得させる表現をするってたいへん。

それと、もうひとつおまけ。
この部分のようにライブラリーのなかには
「いいあい」や「口げんか」「命令」「緊急事態」などの
緊迫した場面は多々ある。
しかし、そのシーンをよく聴いてみると
じつは、役者さんたちは
けっこう「ゆっくりとしっかり」セリフをいっている。
これは意識して聴くとわかる。
じつは、あせって早口で話すと感情は伝わらない。
とくに音声だけの場合は
きちんとしっかり安定したペースでセリフをいうことが
感情を伝える最善の方法だと彼らは知っているのだ。

もりのなか
さても、前回に書いたように箱根にある
彫刻の森美術館にいってきた。
超有名Hakone Open Air Museumである。
およそ70000平米(古!)の敷地に彫刻、立体オブジェ、
さらに美術館が点在する。
なんて細かく紹介を書くときりないので
興味のある人、いってみたい人は
下のURLの公式サイトをみてちょ。
http://www.hakone-oam.or.jp/index.html

今回も当然にもお仕事である。
写真もいっぱい撮ったのだが、
例によって室内作品や、いろいろ大人の事情で掲載NGが多い。
したがって、余分(おこられるなあ)な人物が写ってたりするが
そういうことなのでよろしく。
で、下の写真はエントランス近くから広めの画角で撮影したもの。
人物をいれれば個人の記念写真になるので
いやがるマネージャーにたってもらった。
そんなわけで憮然としている。
ぜんけい
とにかく、広いがアート好きなら1日楽しめる。
また90分くらいあれば、ざあっと見ることもできる。
ここには、ラボにいたときはバルバおじさんと
神奈川の長谷川パーティともに
Magical Museum Tourというバクリ的タイトルの企画で訪問したし
その後、個人としても何度もきている。
2月のクソ寒いときには、ここを見てから
熱海のMOA美術館で尾形光琳の「紅梅白梅図屏風」を見たりした。
※この作品公開は季節がきまっている。
しかし、尾形光琳はすごい! ぶっとんでる。
この時代はもちろん、トータル的に日本を代表するクリエイター
の一人だと思うぜ!
ぴかそ
ここに来ると必ず立ち寄るのは
敷地の最も奥に建つ「ピカソ館」だ。
ビカソの長女マヤ・ピカソからゆずりうけた作品が多く、
65歳以降に南フランスで制作された
陶器、デッサン、版画などが300点以上もおさめられている。
ことあるごとに、
ぼくはこの森の緑をあび、そしてピカソと対話する。
彼の陶器は、その範疇をとびこえて
絵画や彫刻のにおいもする。
自由闊達、天衣無縫、そしてゆるぎない造形のたしかさ。

ぼくはここでエネルギーをもらい
「表現」について、小さな頭で考える。
そしてそのたびに「考えるな、感じろ!」と
ピカソに恫喝されるのだ。
創造と破壊をくりかえしたビカソの前では
抽象とか具象とか、個展と前衛とか
そんな分類は意味を剥奪される。
きもちいいくらいだ。

そして、ラボの絵本をながめ。
「これでいいのだ!」とバカボンのパパのごとく叫ぶ。
鳥の鳴き声を耳にして心を洗われるとき
その声を分析しない。
創造は想像と深い関係にある。
ラボの絵本のなかで
いわゆる抽象とよばれる作品と
子どもたちがふつうに出会えることの幸運を思うのだ。
かふぇ
さても、ビカソ館のほど近くに緑陰ギャラリー(上の写真)という
小さな展示場がある。
じつは、この一階の「ギャラリー・カフェ」が超おすすめなのだ。

彫刻の森美術館にはほかにもエントランス近くに
箱根飲茶楼やベラ・フォレスタなどの飲食サービスがある。
がっつり食べるなら、このフォレスタのビュッフェがいい。
窓が大きく森を見おろしながら
地産地消のメニューがリーズナブルな価格でいただける。

で、このギャラリー・カフェなのだが
コーヒーなどの飲み物は紙コップでのサービスなのだが
これがなかなかいける。
ジェラートや地元の肉をつかったおしゃれなホットドックもよし。
しかし、なんといってもここはスイーツである。
700円~1400円といいお値段なのだが
世界のバティシェが四季折々にきていて
11月中旬まではカカオのきいたチョコレートケーキと
フルーツタルトがすばらしい。
下の写真がそれ。
あまいもの
六本木のパスティッチェリアISOOの磯尾直寿氏が手掛けた
スイーツ“森の雫”。
7センチタルトには、ブルーベリーのコンフィ、
スミレ風味のホワイトチョコクリームビタミンカラーのマカロンのせ!
でもこれは11月13日ころまで。700円。
めいげん
客席のそばでは上のようなピカソのことばが
なにげに挑発してくる。
ぴんと
この日は曇っていたが、あたたかので
気分よく外に席をとった。
ボスのいいつけで走り回るはめになった
マネージャーはそろそろガソリンがきれたので
コーヒーとスイーツでごまかそうとしたが、
やはり仏頂面である。
ちなみに、これはテストがわりに撮影した一枚だが
見事に人物にビタッとピントがあい
背景の緑がうまくぼけてくれた。
それだけのことでわざわざアップしたが
まあ、背景ぼかしのお手本です。
家族
ここのコレクションを全部紹介はできぬが
ぼくのお気に入りのひとつがヘンリー・ムーア(1898- 1986)作品だ。
上の「ファミリーグループ」は1948年から1年かけてつくられた。
雲の流れや日の光を感じながら見ると
この個性的なフォルムが、彫刻は生活に密着しているのだという
彼のメッセージが伝わってくる。
ばわー
これもお気に入り。
ニキ・ド・サン・ファール(フランス、1932-2002)
「ミス・ブラック・パワー」1968年
この作品は樹脂でてきている。作者は女性だが、この力強さと
尊厳と威厳は遮光式土偶と勝負できる。
男は勝てない。
えぶじ
後藤良二(日本、1951-)
「交叉する空間構造」1978年
ダイヤモンド、すなわち炭素の原子の構造を模し
強化プラスティックと鉄などでできている。
入り口近くにあるので、すぐに見つかる。
幾何学的な人体の組み合わせが
逆に人間力を感じさせてくれるので好き!

彫刻の森には、また、有名な彫刻作品の模刻もたくさん見ることができる。
レプリカとはいえ、実物大のモーセなどはすごい迫力。
ミケランジェロは身長160センチに満たない小柄だったが、
モーセが完成したときは座しているモーセの膝に手を置き、
さあ、立って歩け! と叫んだ。
ミケランジェロの模刻は他にも「ピエタ」がある。
彼は生涯のテーマとしたが、ついに満足することなかった。
しかし、わしらから見ると、模刻でも神品だ。
下の写真はオーギュスト・ロダンの「バルザック」。
フランスの国民的作家の死後、
ロダンは肖像画から作成した。
文豪のことばのエネルギーが溢れ出ているようだ。
しかし、ボロをまとっているかのように見えたため、
批評家にも大衆にも「国を代表する作家を愚弄した」と
さんざんに酷評される。
ロダンは激怒し、この作品をしまいこんだ。
停滞していた彫刻界に衝撃与え、新風を送りこんだといわれる
「バルザック」が世に出るのは、
ロダンの死後、30年近くたってからだ。
ろだん
そうそう、彫刻の森は子どもたちが遊べたり触ったりできる作品も多い。
楽しみながらアートに近づくのはいいな。
はこね
はこね
取材がおわり宿にハィッたとたんに雨。
日頃の行ないがいいのか悪いのか。

でも、旅先で、宿に落ち着いてから
夜にふりだす雨はきらいじゃない。
ささくれていた心も
少しは
なだらかになるから。
荒野にだれも座らない椅子がぽつんとたたずみ、かじりかけのリンゴひとつ。さよならスティーヴ(改) 1 10月06日 (木)
すてぃーぶ
例によって、ひどい誤植が多いので改訂版。
来週の金土で、箱根は宮の下に取材に行く予定なので、
更新は秋の箱根の写真とともに、その直後にしようと考えていた。
しかし、もうおわかりと拝察するが
朝、つらいニュースを雨あがりの美しい光のなかできいた。
たまらずに外にでると水のにおいがまぶしい。
鼻孔をくすぐられるようだ。
また、ひとり創造性にあふれた男が空に帰った。

最近は6時には起きて顔を洗うが、
その直後に音楽をかけながら
(今朝はジョージ・ウィンストンのThanksgiving)
iPad2でメールやニュースをチェックする。
それから朝飯だ。
オバマのスピーチにもあったが、
このiPad2を世に出した人物の訃報を
iPad2で知るとは…。

写真は三澤制作所のメインマシンである
iMac 27inch、3.1GHzクアッドコアIntel Core i5、
4ギガのメモリー、1テラバイトのハードディスクを搭載した
現在最強最速のMacである。
この7月にエイヤッと購入した。
外ではiPad2とiPhoneをもちあるき、
事務所では、ほとんどの作業をこのPCで行なっている。

その画面でこちらを見つめているのは、
本日朝、この世を去ったApple社の共同創業者であり
この夏前まで同社のCEO(Chief Executive Officer)だった
Steve Jobs氏(1955-2011)である。

氏は、ぼくが語るまでもなく、
Apple社をマイクロソトを上回る
株価時価総額の会社に育て上げた伝説の経営者であり
開発者であり、コンビューター文化の創造者だった。
2004年に膵臓がんを患い、奇跡の復活をしたあとも
肝臓移植をするなど信じがたいような闘病生活をしつつ
AppleのCEOをつとめ続けた。

じつは、Apple社のPCのシェアは5%ほとで
はっきりいって高くはない。
ビジネスの分野ではほとんどがマイクロソフト社の
基本ソフトであるウィンドウズを搭載したマシンが使用されている。
また、MacのPCはApple社だけが制作・販売しているが
いわゆるウィンドウズPCは数多くの電気・電子機器メーカーが制作して
提供している。

しかし、Appleは、
携帯音楽ブレーヤーの分野で一人勝ちしていた
ソニーのウォークマンを奈落の底に
つきおとしたiPodをはじめ、
iPad、iPhoneなど
人びとの生活をかえてしまうほどの
次つぎに魅力的な商品を提供してきた。
その独自の洗練されたデザイン、驚くべき機能などは
いつもApple教の信者たちを興奮させてきた。
※かくいうぼくも信者のひとりである。

さらにすごいのは、その独自の製品を
結局は他社が後から追いかけることになることだ。
iPodは携帯ディジタル音楽プレーヤーをつくらせ
iPadは各社にタブレットを開発させた。
そしてなにより、スマートフォンはiPhoneが登場しなければ
これほどの広がりを見せていないだろう。

それらの劇的な革新を担ったのがジョブズ氏である。
発想力、デサインセンス、強引なまでの交渉力、
(ここでいうデザインとは単に外見だけでなく、
先々のサービスまでも含めた全体的構造のこと。もちろん外見もかっこいいが)

そしてだれもがとりこになるプレゼンテイション力。
新製品の発表会では常に
トレードマークである黒のタートルネックに
ブルージーンというラフなスタイルで登場する。
もうそれだけで、観客(わざわざ有料入場券を買っている)も
そして専門誌の記者や学者たちでさえ
クリスマスプレゼントを背中にかくしてドアの前に立つ
父親を見つめるまなざしで心をときめかすことになった。

その一方でジョブズ氏は、独善的であり
傲慢で未熟で、脆さがあり、完全主義者であるといった
きびしい評価も常に受けてきた。
それがゆえに、一度は自ら創業したApple社を追われてもいる。

発言も過激で、名言集が本や映像になっているくらいだ。
「無能な味方は敵である」
「常識にとらわれることは、他人の人生を生きることだ」
などはとても有名だ。
ペプシコーラの社長をヘッドハンティングしようとしたときは
「のこりの人生も砂糖水を売ることに費やすか、
世界を変えるチャンスを手にしたいか」
というほぼ暴言に近いプロポーズをした。
また、スタンフォード大学の卒業式での式辞
Stay hungry, stay foolish.
もよく知られている。

とにかく、刺激的な人なのだが、
創造性の豊かさ、発想力、予測力には
ライバルたちでさえも脱帽せざるを得なかった。

ジョブズ氏がApple社(当時はApple Computer社)
を立ち上げたのは1976年。
ぼくがラボに入社した年である。
そのころは、PCは日本では一部の専門家のもので
一般家庭の電気製品としての値段でも機能でもなかった。
ぼくも興味はなかった。

1981年に関西支部から本社にもどってきて
しばらくたったとき、ワープロが一台だけ総務にはいった。
たぶん100万くらいはしただろう。
そのころは、チラシは手書きで、
さすがにガリ版ではなかったが
謄写ファックスで原紙を切り、それを印刷していた。
地図やイラストも手書き。
だから、いわゆるMSをするのには
とんでもない手間がかかったのだ。

そのころは、ぼくは組織担当であったが、
制作や広報では全部手書きで編集をしていた。
ぼくも1986年に本部勤務になり
まず「ことばの宇宙」を担当したが、
手書きで編集、指定を行なった。
写真もいまのようにデータではなく
いわゆる紙焼きにトレーシングペーパーをはって
大きさやトリミングを指定していた。
それで,毎月、32ページ、
年二回の64ページの特大号をつくっていた。

でも、そうしたコツコツとした作業が、
後のライブラリーづくりに役にたったことはまちがいない。

その後、ワープロの専用機がだいぶ安くなり、
ぼくでも買えるようになった。
でもPCはまだまだ高かった。

そんなぼくが最初に手に入れるたPCは
NECの製品である。
当時ラボ機という専用再生機の技術でNECの子会社と
関連があったために、ちょっと安く買えたのである。
それでもPC9801という上位機種は手がでなくて
PC880Iマーク2SRという、ひとつ下の機械にした。
とはいえ、当時本体とモニターで約30万円。
それも値ぎり倒したうえの、給与控除の20回分割払い。

そのころアップルはもうすでに世にでていたが、
とても高かった。論外。
また、当時のAppleはモニターがけっこう滲む感じで
バキッときれいな日本製のモニターのほうが好きだった。

それがApple党に変化したのは
当時、財団で仕事をしていた
故バーニー・レーベンスピール氏の影響である。
氏は一体型のクラシックとよばれるMACを使用していて
見たこともないマウスとかいうものを操作して
スイスイと仕事をしていたのだ。
ただ、そのモニターはモノクロであったので
ぼくは「白黒なんだね」と小馬鹿にしたようなことを
ほざいてしまった。
するとバーニーはあわれむような顔で
「でも、ホストファミリィのリストはカラーでなくて
いいでしょう、日本のコンピューターは大きいだけね」といった。
そのひとことが気になって、そこからApple社のPC
すなわちMacを勉強しだしたのだ。

当時は個人はもちろん、会社でもPCをそろえるのはたいへんで
かなりの予算が必要だった。
Personalといいつつ部署に一台あればおめでとうだった。

それが、いまや一人一台は常識というかあたりまえになった。
てか、One on oneでないと仕事にならない。
日常の仕事はもちろん、出勤管理や会社の文書配布、資料の配布
などすべてがPCである。

一方、どこの会社でもそうだが、PCにむかっていると
仕事をしているように見えてしまうこわさもある。
たいせつなのはPCで効率化されて生まれた時間で
いかにクリエイティヴな仕事をするかだ!

別に秘密でもなんでもないので書くが
ラボの社員のPCは基本ウィンドウズである。
機械が廉価だし、今の若い人は中高生のころから
ウィンドウズになれている。
また、ビジネス用のソフトウエアも多い。
それを社員や常勤のアルバイトにも貸与している。
ネットはシステム管理部ですべてのPCをがっちり守っているから
ラボのセキュリティは極めて高い。
なにせ会員情報だけでもすごいからね。

ただ、制作・広報だけはぼくの時代から
一貫してMacである。
Macは割高なのだが
これだけは、在職中は、
なにがあってもぶれずに
ずうっとわがままを通させてもらった。

その理由はいろいろあるのだが、
当時音声とか映像のプロ用ソフトウエアは
圧倒的にMac用だったのだ。
今はウィンドウズ系も多く見られるが
スタジオや印刷所は、ほぼMacだった。
それと、なにより英文のフォントが美しかった。
当時のウィンドウズだと、いかにもパソコンという文字
しかなかったのだ。

とにかく1991年以降のライブラリーのテキストや音声は
すべてMacによって生み出されている。
Macさまさまだ。
『おどりトラ』の英語版絵本は
福音館が印刷しているが、
文字はラボのMacで入力したフォントである。
入力した本人がいっているのでまちがいない。

ライブラリーづくりはPC、MACのおかげで効率化はしたが
結局、仕立て、仕上げるのは人間の感性である。
PCが万能なのではない、
PCは、使用する人間の創造性、想像力が問われている。
スティーヴ・ジョブズ氏はそうした考えをもっていた。
PCがビジネスの現場に日常化することで
仕事の標準化が進んだかもしれない。
だが、それが結果として「人とはちがう創造性」をうばう
ことにもなるのだ。

ジョブズ氏はアイディアに満ちた製品で
われわれを常にな挑発し
それを使いこなすクリエイティヴィティをひきだした。
ぼくは、彼の最も偉大な点は
経営手腕そのものよりも
そうした人間の創造性の素晴らしさへの確信にあったと思う。

ライブラリーの作品が決定して第一稿ができると
最初の仕事は、テキストの入力である。
これがたいへんだが、楽しい。
そして作品を理解する道筋でもある。
英語、日本語、それぞれに打ち込み、
それを英日に組み合わせていく。
※手書きのときはたいへんだったろうなあ。

長い文は接続詞で分割する。
ただ、英語は関係節というややこしいことがあるので
二文にわけると意味が対応しないことがあったりして多いに悩む。
『三びきのやぎのがらがらどん』の冒頭などは好例だ。
ブラウンの英語も、瀬田先生の日本語もすばらしい。
もちろん、どちらも改変はできぬ。

物語の冒頭だから、幼い子どもたちも
しっかりとおはなしに入っていけるように、
できれば短い文で、いいやすく、聴こえやすく
かつ、ゆったりとはじめたい。
実際、独り語りの物語の冒頭と中盤では
語りのスピードは異なる。

しかし、この物語の場合、「テーマ活動の友」で
見ていただければすぐわかるが
冒頭の文は分割することができない。
意味があわなくなってしまうのだ。
意訳とかいうレベルではない。
まさに関係節だからだ。

ま、そんな悩みをしつつ
英日の組み合わせを一行ずつつくっていくことは
演出全体、仕立て全体を考えるために
作品を理解していく重要な作業だ。
ほんとにMacにはお世話になったのだ。
キイボードはガタガタになるまだ叩き込んだからね。

前述したようにMacのファンは
その創造性にしびれているのだが、
今朝、ジョブズ氏の訃報が流れたとたん
Facebookで交流しているたくさんのOB・OGから
彼についての書き込みが一気によせられた。
ラボっ子のような個性的で創造的な連中はMacユーザーが多いのだなあと
あらためてびっくりした。

Appleは、これからも新しい製品をだしていくだろう。
しかし、ジョブズ氏というカリスマを失った今、
あのわくわく感があるかはわからない。
独裁者は後継者を育てられぬのが通例だからだ。

できるリーダーが卒業した後のパーティも
しばらくはたいへんだったりするよなあ。

昨日、iPhoneの新型が発表された。
それは、みんなが期待したiPhone5ではなく
4Sという改良型だった。
でも、アメリカのあるサイトで
4SはFor Steveだという書き込みを見た。
だとすれば泣ける。
※翌日、Appleの広報はそれを否定

タイトルの写真は下記のAppleのサイトで見られる。
http://www.apple.com/

そこには同社のメッセージもあり
Apple社はvisionary and creativeな天才を失い
世界は驚異的な人物を失ったと書かれている。
Visionary =先見性のある
には幻視者という意味もある。
彼をあらわす象徴的な表現だと思った。

大詩人イェーツは
「人はだれも、心に傷をうけると幻視者になる。
しかし、ケルトの民だけは生まれながらに幻をみる」
といった。
この数年は新しいアイディアと病という
きびしい戦いをしていたジョブズ氏の
心の奥にあったかもしれぬ深い闇は
たぶん、だれにもわからなかったのだろう。

最後にジョブズの発言のなかで
ぼくが気に入っていることばをひとつ
追悼として書いて擱筆(かくひつ・筆をおくこと)する。

「君が美しい女性を口説こうとしているとき、
恋のライバルが10本のバラを贈ったら、
君は15本贈ろうとするかね。
もしそうなら、その時点で君は負けている」

リンゴの齧り跡が少し大きくなった。
ごめんねと明日いえるか鰯雲 / 長月おわりの空、悲しいまでに高い。(改) 09月26日 (月)
ひぐれ1
いろいろ誤植がひどかったので改訂版。
写真は9月14日、横浜の海から見た「みなとみらい」の夕景。
出航直後の17時30分の撮影だ。
一応予告したシーンである。
10人乗りくらいのクルーザーからの撮影なのでけっこうゆれる。
たいした写真ではないが、いつもぐだぐだとした
日記を読んでいただいているので
しばらくは暮れゆく横浜をご覧あれ。
下の写真はちょっと時間がもどるが、その少し前の「ぷかり桟橋」。
ここから出航した。
この桟橋は、山下公園などともに横浜の観光船の発着場のひとつ。
当日は業務系の船なので、むかって左手の桟橋から出た。
ぷかりは、ちょうど「パシフィコ横浜」と「横浜グランドインターコンチ」の
真うらというか海側にある。
その名の通り、うき桟橋なので風のある日はゆらゆら。
まんなかの緑の建物は船のティケット売り場だが
二階はインターコンチ直営の「ピア21」というレストラン。
わりとリーズナブルな価格で、すばらしいロケーションの食事ができる。
※このレストランは浮いてない。
きけば、このあたりの海底は3月の地震で沈下してしまい。
桟橋が少し低くなって、波をかぶるときがあるという。
ぷかり
出航して30分、太陽がみなとみらいのむこうに沈む。
夕陽を撮影するのは4月の松江以来だ。
ひぐれ;2
ベイブリッジに近づく。
この美しい吊り橋(斜張橋というらしい)は長さ868メートル、
海面からの高さは55メートルもある。
長さ高さともレインボーブリッジをうわまわる。
橋は世界を横にひろげるから好き。
塔は、なんかいばりちらしている感じだな。
教会もお城の塔も電波塔も、見せびらかしのところがある。
※高みをめざしたいきもちはわかるけど
バベられちゃうもんな。
註:バベる=言語コミュニケーションができなくなる状態。
ぼくの造語。
べいぶ
大桟橋のむこうに富士山! 富士山をどれだけ遠くから撮影するか
というのに挑戦している人たちがいるが
このシーンもなかなか条件がそろわないと難しいらしい。
この日は空気も澄んでいたのでラッキー。
ふじさん
氷川丸とマリンタワー。
関東在住の方はどちらかには遠足でいってるんではないでしょうか。
かつては、どちらも横浜港のシンボルだった。
氷川丸は御年81歳、12000トンの貨客船。
今も博物館として見学可能。
ひかわまね
なんか横浜の宣伝をしているようだが
このところ函館に続いて港にこだわっているのだ。
よる
この日の日没はおよそ18時30分。
撮影は1時間(夕景をとるには十分、船の借り賃はけっこう高いぞ)。
みなとみらいにあかりがついた。
さあ、ピア21でディナーかな。

タイトルにも書いたが、長月もまもなく終わり、神無月である。
じつは、神無月の語源ははっきりしていない。
出雲大社に八百万の神が集結し、オオクニヌシが座長となり
縁結びのサミットをするため、
全国から神がいなくなるからという話は
中世以降の俗説というのが現在のメジャーな意見。
出雲では確かに神在月といういい方を今でもするが
出雲大社のスタッフが全国をプロモーションしたために
生まれた話である。
じゃあ、神無月の語源はということになるが
完全な説はない。
もっとも、いわゆる語源で完全に証明されているものは少ないけどね。

ぼくは個人的には水無月のように
ofという意味での「の」が「な」になったという考え方に
今のところ傾いている。
水の月が、水な月、水無月である。
本来雨の多いときだがら、これは納得できる。
神無月も収穫に感謝する月、すなわち米の神さまの月だから
神の月、神な月、神無月というわけだ。
「の」なのに反語的に無という字を当てているのもおもしろい。

まだほかにも雷がない月で雷無月、新しい酒を醸す月なので
醸成月(かみなしつき)など、いろいろな説がある。
ともあれ、こうしたことばの由来を調べることは
いにしえ人の思いや感性にふれることなのでたいせつだ。
また、ことばひとつひとつの意味を深くとらえるきっかけにもなる。

灘高校の伝説の教師の話を先日テレビでみたが
「銀の匙」を1年以上かけて読むというのは
そうした「一語の重さ」を感じとる活動にほかならない。

その点でいえば、ラボのテーマ活動は、
まさに「ことば一語、一語にむきあう」教育プログラムだと
いまさらのように思う。
そのためには、深くライブラリーを聴くことを重ねるしかない。

物語は山と谷の連続だから、数回聴いた程度では
谷底も山頂も一部しかわからない。
くりかえし出会うことで、常に新たな谷やサミットが見えてくる。
だから「かんたんな物語」など存在しない。

なんていうけど、かたひじ張らずに、まずは聴くのがよいのかな。
つーる
さて、いきなり古い写真だ。
先日、三澤制作所の机を整理していたら
一昨年、85歳で他界した父親の古い写真がでてきた。
これはおそらく1957年ころ(ぼくは4歳)の撮影だろう。
父は若き日、バイク青年で
この写真は仲間とどこかのお城にツーリングにでかけたときのものだ。
左から2番目のやせてまぶしそうな目つきの悪そうな男が父だ。
バイクはアリエルという今はもうないイギリスの名車。
皮のライダースとブーツで
思い切りかっこつけている。
戦後、12年のころだ。
みんな堂々としていて、なんとかっこいいのだろう。

父はこの1年後、ぼくの妹が生まれたのを契機に
二輪から四輪に乗り換える。
もっとも、四輪も若いときからのっていて
小平にあった陸軍の研究所で
空襲が来ると、二台だけ残ったジープを林にかくす
というのが任務だった。
昭和20年、3月の大空襲のときも東の空が真っ赤に燃えるのを
ぼうぜんと見ていたという。

じつは、母もこのとき、同じ陸軍の研究所で雑用係をしていたが
父とはまだ出会っていない。
この研究所は、なぜか空襲されなかったが、
※三鷹の中島飛行機(今、ICUIと富士重工があるあたり)などは
当然のごとく空爆された。
暗い防空壕のなかで
高空を通過していくB29のゴオンゴオンという
ターポ付エンジンの音が今も耳の記憶から離れないと母はいう。

父は80歳まで車を運転した。
ギアチェンジだけできれいにカープを曲がる技術は
子ども心にすごいなと思っていた。
その父も80歳になった日に免許を返還した。
あれほど好きだった車だが、
いや好きだったからこそ
「もう乗るべきではない」といいきった。

母と父は見合い結婚である。
この写真の6年前のことだ。
母はそのころ、新宿の二幸(現在のスタジオアルタ)のうらの
商事会社で事務員をしていた。

春、桜のはじめごろ
父を紹介した人がもってきたいわゆる見合い写真は
なんと三人が写っていたという。
物がないときとはいえ、ひどい話である。
しかし、ともにならんでいる二人が
老人と子どもだったので父がどれかはわかった。

母は、当時、会社の先輩に告白されていたが
すっぱりと父をえらんだ。
ふざけた写真だけど、まぶしそうな目が気にいったのだそうだ。
だからというわけではないが、
父の遺影もやっぱりまぶしそうな顔をしている。
なお、母にふられた先輩は会社をやめて
なにくそとかんばって独立して成功したらしい。

その母も80である。
膝がいたいが、それ以外は元気だ。
毎月、ぼくと墓参する。
菩提寺である宝仙寺が近いので助かる。

最近は母の記憶をたどってもらい、
こうした話をききだしている。
それもたいせつな物語の活動だ。
父が亡くなってから、はじめて話す内容も多く
「えっ」というようなエピソードもある。

父がジープを林にかくしているころ、
母は毎日、自転車で将校の弁当の配達や
書類の整理をしていた。
母が最初にあこがれた人は
背の高い、やはりまぶしい目をした士官だったが、
マリアナ沖から帰ってこなかった。

そして終戦
昭和20年長月のおわり、
母は15歳の秋のまっただなかだった。
ふときづいてみると僕たちは、やさしいことばになっていた。秋、心の地図をぬりかえて 09月12日 (月)
にほんまる
昨日は、ぐちゃぐちゃの書きかけで寝てしまった。
反省。ようやっと更新である。
写真はまたまた横浜、みなみとなみらい21。
なぜか、最近はこの近辺の仕事が多いのでしょうがない。
桜木町駅からランドマークタワーをすぎたあたりからの風景。
左かすかにパンパシフィック横浜ベイ東急とパシフィコ。
中央に横浜グランド・インターコンチネンタルホテル。
そして右はしに日本丸。
本音をいうと
元町とか馬車道とか山下公園とか
横浜美術館(いまトリエンナーレやってる)とか、
山手のほうとか外人墓地とか、
いわゆる横浜っぽいところを撮りたいのたが…。
ただ今週は、うまくすると海からの薄暮の横浜撮影できるかもしれぬ。
それを可能にする撮影技術があるかどうかだが。

かつて多くの航海練習生を育てた日本丸。
いまはメモリアルパークに展示され、もう海にでることはない。
自分のことのように、いとおしくなってしまう。

さて、前回、ライブラリーや機関誌をつくっているときに
出会った方がたからいただいた、ちょっと「いいことば」を
落ち穂拾い的に羅列したら、予想外に反響があった。
だったら、忘れないうちにまた少し書いておこうかな。

「ぼくも、ひとりのゴーシュです。音楽で学ばねばならないことは
いっぱいあります。みなさんも、物語が学ぶことは多いはず」
林光=作曲家・宮沢賢治作品の音楽録音のスタジオで。

「この絵本、ぜんぶください!」(ラボの絵本を見て)
「ウェールズまで、わたしもいっていいですか。切符とっちゃいました。
光とか風とか色とか感じて描きたいから」
永山裕子=画家・『はだかのダルシン』の絵のうちあわせの夕方、
渋谷東急プラザの喫茶室で。

「へんな話のほうがおもしろい。『ごろごろにゃーん』なんて最高ですよ。
長新太さん自身もへんな人だけど。なにこれ? くらいじゃないと」
小野かおる=画家絵本作家・ラボのお母さんたちとの取材で。

「ラボのテューターの人たちって、なんであんなに熱心で、
そして勉強家ばかりなんでしょう。子どもたちは幸せですよね」
牟岐礼=作曲家/東京芸術大学教授・講演会の後で

「乾杯の前に長いあいさつする奴は殴られてもしょうがないけど、
みなさん、ちょっときいてください。
すばらしい絵と音楽のおかけで
すてきな作品を子どもたちにとどけられます。
ラボはふつうの英会話の会社じゃありません。
芸術的な物語でことばを学ぶことをしている教育組織です。
ほくは、そのための作品をかいたこと、そしてみなさんと仕事を
できたことをほこりに思います。ありがとう」
C・W・ニコル=作家・バンクーバーの日本式居酒屋にて
『サケ、はるかな旅の詩』の音楽録音のうちあげで、
音楽家や画家やスタッフに対して。外では静かな春の雨がふっていた。

「ぼくらの絵を見て、子どもたちは『うまいなあ』と思うだろうけど
子どもたちの絵を見て、ぼくたちプロは『すげえなあ』と思う。
そういう関係です」
本多豊國=画家・「ラボ・カレンダーの絵」の選考会で。

「プロなら、きみはジュリエットのイメージじゃないけど、
ジュリエットの人生と出会う経験もだいじだからやってみるか、
なんて、いうことはできません。でも、ラボのテーマ活動は
まさにそういうことができる。だから、いろんな役に挑戦してください。
挑戦する子どもに意味があります。教育でしょうから」
出口典雄=演出家・シェイクスピアシアター主宰

「やったー! 終わった! さあ、釣りにいける」
「見えないものを見ることがたいせつですよね」
村上康成=イラストレーター・"We Are SOnbirds μ"の絵が描きあがって
国立駅前の喫茶店で

「『ロージーちゃんのひみつ』をラボで? いいじゃないですか。
ロージーちゃんて、想像力と行動力があって
ラボっ子そのものみたいでしょう!」
吉田新一=英文学者立教大名誉教授・軽井沢の自宅から電話で

「頭ごなしにしかっても子どもは萎縮する。
だけど、ほめて育てるとうことが、ぼくは必ずしもいいとは思いません。
ほめられるために努力する子、おとながこうすればよろこぶということを
察知する子になる場合もあるからです。だからむつかしい」
間宮芳生=音楽家・スタジオで

「高松次郎先生、野見山先生、中西夏之先生、元永先生!
なぜ、こんな方がた絵本を! ラボってとんでもないですね。
でも、みんな楽しんで描いてらっしゃる。
そして、子どもむけという意識がない、全力です。すごい!
こんな作品と幼いときから出会えるなんて幸せすぎる」
かみや・しん=絵本作家・埼玉県のアトリエで

「えっ、司修先生が絵をお描きになるの。まあ、よろしくお伝えくださいまし。
それじゃあ、緊張しちゃうわ」
渡辺美佐子・女優=『トム・ティット・トット』の日本語録音前に

「『寿限無』はいわば前座噺です。けして大ネタじゃありません。
でも、親ばかとはいえ、はじめてさずかった子どもへの
無償の愛があふれています。その意味では今の時代に必要だと思います」
林家三平(当時いっ平)=噺家・『寿限無』の打ち合わせで

さても
最近はFacebookで、多くの古い友人や知己、
とくにラボのOB・OG諸君とコンタクトがとれて、
なかなか充実した交流ができている。
ネット上のつきあいだけでもうれしいが、
実際にあって食事をしたりするとまた愉しい。

そのなかで、なにより驚き、かつ喜ばしいのは、
Facebookの書き込みでもメールでも、実際の会話でも、
じつに、それぞれが自分のことばで意見や考えを述べていることだ。
話題は政治・社会・経済・芸術と多岐にわたるが、
もう、わしなんか足下にもおよばぬしっかりとした知識にうらうちされた
深い洞察が感じられる。
そして、ことばもきちんと選択されている。
さらにヒューモアもある。
まあ、主に40代後半から50近くのOBたちなので
当然といえば当然なのだが(いつまでも子どもじゃないし!)、
その力のいくばくかはラボで培われたものだと確信する。

というのは、我田引水ではなく、
かれら自身がラボへの深い共感と
ラボで過ごした青春の日々を、単なる黄色くなった思い出ではなく
きっちりと総括したうえで、ほこりとしてもっていることだ。
かれらが学んだのは、まちがいなく、
「ことば」であり、「考える力」「表現する力」「想像する力」だ。
ことばは未来をつくったのだ。

また、もうひとつうれしいのは、かれらの多くが
お子さんをラボっ子にして、追体験していること。
この夏はキャンプや国際交流にわが子を参加させた親としての
感想やよろこびがFacebookに多数アップされた。

断っておくが、ぼくはFacebookのエンヴァジェリストではない。
ただ、ツィッターとちがい、文字数制限がなく
実名性と、プラペート情報をコントロールしやすいのが
いまのところ気に入っている。
人口でいえば、中国、インド、Facebookである。
ちなみにぼくのアカウントは三澤正男、もしくはMICK MISAWAである。

たわー
さて、上のちょっと小さな写真は建設用の足場である。
すわっているあやしげな若者たちは
わがICUフットポールテーィム・Apostlesのコーチ陣である。
通称タワーとよんでいるが、
フットボールは鳥瞰で見下ろさないと展開がわからないので
スタンドの上やこうした足場の上から戦略をたてる。
ここから有線や無線のインカムで下のコーチや監督に
状況をつたえるのだ。
よく見ると、そのあやしいコーチ陣のうえにまだ人がいる。
これはVTRや写真の記録をとっているのだ。
フットポールは、こうした記録や分析がたいせつ。

ところでこの足場。映画界では「イントレ」とよぶ。
無声映画の傑作「イントレランス Intolerance」がそのおこり。
これは1916年、グリフィス監督の大傑作。
四つの時代の物語、それも人間のIntolerance=不寛容をあつかった
ストーリィが同時進行するという壮大な作品だ。
このとき、グリフィスは古代バビロンの街を巨費を投じて
セットで再現し、この足場を組んで鳥瞰で撮影した。
以来、この足場はイントレとよばれる。

そんなウンチクはどうでもいいが、
2001年の9月11日から10年がたった。
10年、decadeは、歴史を考えるための
ひとつの単位というかまとまりといえるだろう。
あの日を、そしてあの日までの世界を
さらに、あの日からの10年をどうとらえるかは、
ある意味、生き方を問われているともいえる。

MITの言語学者ノーアム・チョムスキーは
9.11の後、「小国のそれをテロといい、大国のそれを戦争という」と発言した。
この過激なことばにもアメリカ国内で議論はおきなかった。
チョムスキーはアメリカのマスコミにはほとんど黙殺されているからだ。

いうまでもないが、ぼくはテロリズムを支持しているわけではない。
しかし、テロを生みだす構造や要因を無視して
テロリズムを戦争という、より大きな暴力で根絶することはむなしい。
また、テロによって勝ち取る自由も正義もあり得ない。

ところで、昨日、残念に思ったのはニューヨークでの追悼式典を
ライブに近いかたちで放送した日本の局はBS1だけだった。
まあ、逆を考えれば、日本の平和式典をながながとアメリカで
中継はしないだろうから、しかたがない。
だが、オバマやブッシュのスピーチ、そしてアメリカ市民の
追悼と鎮魂のかたち、思いなどをライブで感じとりたかった。
もちろん、きちんと演出された式典からわかることと、
隠蔽あるいは表面には見えないことの双方があることは承知のうえでいうのだが。

過去に書いたことだが、9.11とその後については
ラボの物語とふしぎなくらいにリンクしている。
2001年の秋は『十五少年漂流記』の制作追い込みであった。
音楽の録音が近づいていて、エンディングの歌を
考えているときにのあの事件がおこった。
そして、一気に歌詞のプロットを書き、鈴木小百合さんにおくった。
あっというまに英語の歌詞ができ、
坂田晃一先生がすばらしいメロディをくださった。
それで、さらにあっとうまに日本語の歌詞もできた。
だから今も「海へ」には、特別の思い入れがある。

そして、『ギルガメシュ王ものがたり』の音楽録音の初日が
アメリカのイラク空爆開始の日だった。
たいへんけわしい顔で間宮先生がタクトをふった。

なお、あの物語に登場するウルクは、
後に自営隊がPKOで駐屯した地のすぐ近くである。

こんなことを書きながら無力な自分にいらだつのであるが、
仕事上、21世紀になってから
ぼくのなかに「ぶれずに」努力してきたことがある。
それは、ライブラリー制作において、
それぞれの作品のテーマとは別に、「未来への希望」を
常に共通するメッセージとして意識していたことである。

ぼくは、ラボっ子に「自ら思索し、自ら行動できる人」に
なってほしいと思う。
そして「行動する者には未来を信じる力がいる」
※これは畑正憲氏のことば

『十五少年』以降、『ノア』、『寿限無』、『ひとつしかない地球』
『ダルシン』『ロージー』※省略系ごめん
などには、まさに「希望」が根底にある。
希望こそが最後の生きる力だと思う。
MGR
さて、写真は試合中、サイドラインでスタンバイすマネージャーたち。
大量の荷物は水や救急用品など。タイムアウトになった瞬間、
彼女たちはこれらをもったままダッシュ。
ほるだ
上の写真はフィールドゴールをねらうとき
ボールをささえるホルダーの勇姿。めだたないが、重要な役割である。
下の写真は、そのホルダーが支えたボールがキックされる瞬間。
きつく

さいごは、めだたたないが重要な役割の写真をならべた。
テーマ活動でも、めだたなくてもたいせつな役割はある。
なんて、あたりまえか。

多くのOB・OGがお子さんをラボに入会させていらっしゃる。
こういうのを世代効果というそうだ。
そのはしわたしをライブラリーやテーマ活動がしている。
そう考えるとほかほかする。
OBたちの二世がラボの未来をつくるのはまちがいない。

横浜のしずかな入江で
日本丸は、いまはもう動かない。
しかし、1930年に進水し、1984年に引退するまで
200万キロ近くを航海し、11500名の船乗りを育てた。
新しい海を見つけるのは、
そうして育った新しい海の男(女)たちだ。
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