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写真は横浜、みなとみらい21の夜景。
パンパシフィック・ベイ横浜東急ホテルの23階から撮影。
下は同じ方向を翌朝撮影。

ひさびさの更新である。
今月は遠出をしなかった。どこにいっても暑いし混んでるし…。
というより、遠くの仕事を入れなかったせいもある。
しかし、バタバタの葉月であった。
予期せぬことと、予期はしていたが、
ああついに、というできごとが重なったのだ。
どらちもBAD NEWS。
今月はじめの定期検査(血液検査)では
腫瘍マーカーや生化学などをクリアしていたし、
7月の父の三回忌と祖母の三十三回忌も無事つとめたので
後は、夏をやりすごすだけだと思っていた。
やりすごすといったのは、暑さだけではない。
夏は長年しみついた習慣から
遊びにいくことが考えられない。
ラボにいた34年間、キャンプにいるか
国際交流で海外にいるか、新刊制作でスタジオに缶詰か
そのいずれかであった。
だから、まず、東京の猛暑を体感したのは一昨年が
およそ30年ぶりである。
キャンプでは、コーディネーターも大統領も村長も
数えきれないほどつとめた。
また、いまは中断しているメキシコ交流や
第一回ニュージーラント交流の団長にもなった。
と思えば、夏のあいだじゅう、
ほとんど窓のないスダジオで山師のごとく
まだ見ぬ物語をまさぐっていた。
それらは、それぞれ意味合いはちがうが
いずれもかなりの緊張を強いられる仕事である。
それがない仕事など、創造性の放棄だから
当然のことなのだが、
あのヒリヒリとする、命のやりとりにも近い時間が
生きているという実感そのものであった。
要するに、立派な病気。
傭兵、職業軍人といっしょ。
彼らは火薬や血のにおいや、命のやりとりのない日常には
すみつくことができないという。
もう、締め切りにおわれることもないし、
誤植におびえることもないし、
みずからのことばの弱さ、想像力の貧困さに
うちのめされることもないし、
シニアやスタッフ、そしてキャンパーの怪我や病気に
心をしめつけれるこもないし、
ホストファミリィからの電話でとびおきることもない。
もう、おまえは十分やったと自分にいいきかせているのに、
ラボから離れ、自分の道を勝手に歩いているはずなのに、
この季節だけは、だめなのだ。
自分のなかにいる、恐ろしい顔をした野生の荒馬が
心の奥のほうで、はげしくいななき身をよじる。
さいしょは、なんだかわからない。
でも、夏がすすむとそのいななきは、
はっきりとした責めのことばになる。
「許せないのだ!」
馬はさけぶ。
「だれを許せないのだ」と問いかける。
「おまえだよ。ぬくぬくと、安全なところで
小さくなって惰眠をむさぼっているおまえが許せない」
この荒馬をなだめるすべは、
いまとなっては、必死に勉強かるくらいしか方法がない。
この馬が出現しはじめたのは昨年の夏くらいからだ。
夏は緊張がないとだめなのだ。
さらに、ラボの夏はまた、すばらしい出会いや感動がある。
これは、その緊張のごほうびかもしれない。
その宇宙にいない自分がどこかさみしい。
だから、夏はやり過ごすしかない。
ともあれ、前述したように7月は法事と函館取材で
なんとかのりきった。
しかし、8月をどうやり過ごすかといったときに
冒頭に書いた悪いできごとが重なった。
ひとつは、夏前から容態思わしくなかった義父が87歳で他界した。
およそ四年の闘病で本人もQOLにこだわり続け
緩和医療がうまくいって
あまり苦しむことはなかったのがせめてもだ。
義母(元ラボ・テューター)が一昨年の10月に急逝したが、
その命日まではもつかと周囲は考えていたが、
16日の朝に急変し、その日の午後亡くなった。
いつものごとく母の夕食をつくろうと
スーパーの袋をかかえたまま三澤制作所の裏口の
鍵をあけようとしたとき携帯がなったのだ
夕方に対面したが、おだやかでホッとしたお顔ですくわれた。
また、夏はさらにせつない季節になってしまった。
通夜はどしゃぶりだったが、
告別式は雨があがって涼しく、
父の葬儀のときとおなじように遠い蝉時雨が…。
そして2年ぶりに嫁いだ娘とその夫にあった。
娘は多くの弔問客のなかで緊していたようだが
「元気そうだな」とだけいうと
少しやわらかな口元になった。


さて、上の二葉の写真はどこでしょう。
なつかしさや、ラ40周年のフォーラムや子ども広場が行なわれた
パシフィコ横浜である。
上がメイン展示場と会議場、下があの宮沢コンサートが行なわれた
国立大ホールだ。
ありから、もう5年。
さて、もうひとつのバタバタの要因は、
マネージャーの負傷である。
旧盆の土日、ご母堂をつれて北上に墓参にいき
帰りの新幹線に乗る前、
親戚に駅の駐車場まだ送ってもらい降りた直後のこと。
母親が軽い熱中症でたちくらみし、
マネージャーにつかまったが、
おそるべしエネルギー保存の法則。
そのいきおいで、いつしょによろけたところに側溝があった。
結果は左足の脛をベロっとすりむき、
左手首の尺骨にちょっとひびが入った。
ギブスはまぬがれたが、弾性包帯で固定。
右手はつかえるが超不便。
日曜日の夜電話があり、
「おお、おかえり」といったら。
「ボス、もうしわけない。骨にひび入りました」
「えっ」
その2日後に前述の訃報。
そりゃ、バタバタしますがな。

なんか話が暗いので、暗いついでにインターコンチの夜景。
さて、プライベートなことばかり書いたので
おわびがてら名言集。
これは、ぼくが出会った、いろいろなすばらしい人のことば。
なにかのネタになれば幸い。
「父にラボの仕事をするといったら、
『ラボ? あそこは老舗だぞ。お前でだいしょうぶか』
といわれました。プレッシャーですよね」
作曲家・谷川賢作氏=『寿限無』の音楽録音前のスタジオで。
※『フレデリック』のときは、
俊太郎氏はラボのために英日対応がしやすいように
快く新しい訳をつくってくださった。
「教育の基本は模倣からはじまる。そして人から人へ手わたしするもの。
日本はある時期からそのことをやめてしまった。
だが、ラボは続けている。それがラボの音楽を書く理由のひとつです」
作曲家・間宮芳生=自宅、夕方のやわらかな陽射しのなかで。
「ほんとうに新しいものは、ひとつしかない」
「抽象とでたらめはちがう。わけがわからなくても、
なにかが表現されていることがたいせつだ。
自由にさせてくれるラボの仕事はいいよね」
画家・靉嘔=霞ヶ浦の光る湖面を見つめながら自宅アトリエで。
「ラボの活動はいい。映画やテレビは手間がかかるけど
テーマ活動は、ひとりでもふたりでも、今すぐにでも始められる」
劇作家・ロジャー・パルバース=京都、金閣寺近くの路上で。
「えっ、演出家がいないの! すごい!」
翻訳家・鈴木小百合=はじめてテーマ活動を見た後で
「子どもの歌とばかにしてはいかん。
とくに伝承歌には、西洋音楽の基本である美しい和声がはいっている。
編曲は、それをひきだせばいい。これはいい仕事だ」
「もう一回。Bの第10小節からはスタッカートで。
そのほうが、子どもたちがゲームをしやすい」
作曲家・故広瀬量平=We Are Songbirds μの録音のとき、早稲田のスタジオで
「ラボっ子の絵ってやさいよね」
絵本作家・おぼ・まこと(『太陽の子パエトン』の絵担当)=ラボ・カレンダーの
審査で
「ラボのカレンダーの絵を仕事場の天井にはってる。
スランプになると寝転がってそれを見る。
すると、『ちくしょう、こいつらがこんなにすごいのに』と
むらむらと闘志がわいてくるんです」
絵本作家・宮本忠夫=打ち合わせで
「ラボの賢治だったら、他の人には描かせるわけには
いきません。全作ぼくに描かせてください」
画家・司修=賢治作品の依頼にいったとき自宅で。
※事前の電話では、スケジュールがいっぱいなのでとても無理だが
話だけはきいて、1作くらいはできるかもというお返事だった。
「江守徹さんがおっしゃってた、『たいへんだけど、おもしろい仕事』
ってこれだったのね」
女優・市原悦子=『フレデリック』の収録直後の調整室で。
みんなすばらしい方がた。
一流の人ほど腰が低い。
また、思い出したら書いてみる。
さて、この長い日記のタイトルはなんだったんだ!
まあ、ゆるしたまえ。
夏をやり過ごしながらも、
三蔵法師のように
とりあえずは前へ。
笑いながら荒野へ一歩ふみだそう。
ラボの夏が無事に終ったことを
静かによろこびながら。
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上の写真は「沖縄美ら海水族館」で、大水槽を内側から拭くダイバー。
この巨大な水槽を支えているのは
ガラスではなく厚さ60センチのアクリル板である。
うすい板を何枚も貼り合わせ、
かつ高い透明度を保っているからすごい。
しかし、透明度そのものでいえばガラスにはかなわないので、
しょっちゅう人力というかマンパワーで拭かねばならぬ。
さても
立秋を過ぎて残暑である。いや、「惨暑」といったほうがいかも。
涼しげな写真をならべてみようと思ったが、
アルバムをさがしても意外に少ないのでびっくり。
やはり、撮影者が暑苦しい性格なので仕方がないか。
まず、本文のみならずタイトルからして長い。
なおかつ、タイトルから内容が類推できない。最低。
そういつつ、タイトル、題は、じつはとってもたいせつである。
小説にしても、映画にしても戯曲にしても、絵画にしても。
はたまた、歌にしても、器楽曲にしても、雑誌にしても
とにかくタイトル、表題は肝腎要だ。
タイトルはキャッチコビーと同様に
特別な抽象力が必要だ。
かつて「ことばの宇宙」で物語大賞という、
ラボっ子から創作物語を募集した時期が数年間あった。
※そろそろ。またやってもいい気がする。
カレンダーの絵のようには、たくさんはこなかったが、
それでも毎年数十点の応募はあった。
そもそもはじめたきっかけは
物語をつくりたい! というレディネスは
ラボっ子のなかにぜったいあるという確信。
その企画を『大草原の小さな家』の日本語を担当していただいた
詩人・脚本家の川崎洋(1930-2004)先生にお話したら、
「わたしでよかったら、コメントしましょう」と
監修と審査を快諾してくださった。
先生は児童詩の指導や研究もされており、
子どもの発想力、ことばの力を応援していたので
お願いしてみたのだ。
先生は横須賀にお住まいで、いつも打ち合わせは京急横須賀中央駅の
喫茶店(名前おぼえてないよ)だった。
先生にとっては地元であるが、
いつも端正にジャケットにタイできちんとされており、
「先生、お飲み物は」とたずねると
常に「ぼくはオレンジジュースをいただきます」
とおっしゃられた。

で、上の写真はオレンジではなくマンゴージュース。
五月に沖縄にいったときに撮影したもの。
場所はサミット会場になったブセナテラスのコテージのラウンジ。
美ら海にいく前にごちそうになったが、とっても美味。
さて、タイトルの話にもどる。
前述の物語大賞には、なかなかすぐれた作品もきて、
特大号で発表した。
しかし、優秀賞や入選はでたが、とうとう大賞は該当作がなかった。
この企画は諸般の事情で数年で終わったが、
ラボっ子の物語づくりへの思いは確認できた。
もっとも、昔だって、今だって
「先生、『ワフ家の金曜日』つくってきた」とか
「『だるまちゃんのつづき』をかいたよ」
なんて話はいっぱいあったし、あるよね。
そんな物語づくりが好きなラボっ子でも
タイトルをつくるというのは、なかなかむずかしい。
さっきいったように特別な抽象力がいるからだ。
小説家はおおむね自分でタイトルをきめるが、
新人のころは、編集者がつけたタイトルのおかけで売れた!
なんてことはよくある。
経験豊富な作家でも、「タイトルはまかせるよ
いくつか案だして」という人もいるようだ。
片山恭一氏の『世界の中心で、愛をさけぶ』も
当初のタイトルは『恋するソクラテス』だったが
編集者の助言でこのストレートなタイトルにしたら
320万部の大ヒット作になった。
いうまでもなく「名は体をあらわす」だから
タイトルは絶対自分でつける、という作家は正しい。
だけど、文筆とい仕事は、自分自身もそのはしっこにいたし、
今も、のたのたへばりついているから、よくわかるのだが、
書くという仕事、売るという仕事、宣伝するという仕事、
さらに最近では「プロデュースする」というよくわからん仕事
などに、かなり分業化が進んでしまっている。
出版自体は、かなりきびしい構造的不況で
「売れなくても、だすべき本」はがんがん消滅している。
その典型例は、文庫本。
古典的な名作、たとえばショーロホフの『静かなドン』などは
文庫では読めない。
岩波書店などは、かなりがんばってはいるが
それでも、『センダックの絵本論』(脇・島 訳)なんていう名著が
なんと絶版だ。
『ロージーちゃん』を出したとき、参考図書にしたくて岩波に
リクエストしたら、「品切れ状態で、増刷計画もない」
※絶版とは口が裂けてもいわない。プライドだね。
というニベもない返事。
岩波の著作権室には、じつにじつにお世話になったので
悪口はいいたくないのだが。
このときは、なんで! あんないい本をとガックリきた。
と、ここまで書いて、アマゾンをチェックしたら
なんと新品で2冊在庫がある!
すり直したのか岩波さん!
それは、わからないけど、
もってない人、この本は絶対買いだ! 3150円。
おおさわぎしたが、マジな話、本の未来はきびしい。
雑誌だって、付録売ってんだか、なんだか!
かつての「SWITCH」のようなぶっとんだマガジンででこいや。
実にガッツとセンスある特集をくんでいた。
バックナンバーを図書館で読む価値おおあり名古屋。
そして、この「SWITCH」のアートディレクションをされていたのが
近年のラボ・ライプラリーのテキストのデザイン担当者
坂川栄治氏である。
いつかも書いたが、日本で三本の指に入る装丁家であり、
グラフィックデザイナーだと思う。
とにかく、今はでかい本屋もランキングをコンピューター管理して
その指示で書棚や平積みを管理している。
ほとんどコンビニ状態。
才気あふれる作家と、ねばり強い編集者と、
権力にまけぬ根性のあるデスクと、
本が好きな本屋のオヤジがいれば、
いい本が売れて、そこそこご飯が食べられた時代は遠くなった。
さて、昨日の続きを書こうとしていたら、なぜか
ずいぶん前の状態にもどってしまった。
要するに昨夜、日韓戦を見ながら書き込んだ部分が
全部ぶっとんでいた。
とっても凹む。
気をとりなおしてタイトルの話にもどす。
ラボ・ライブラリーでもタイトルはたいせつ。
そして、なかなかめんどくさい。
オリジナルの場合はわりと自由に考えられる。
また、再話も実際はオリジナルに近いから、
これも自由度が高い。
タイトルのつけ方は、いろいろあるが、
基本としては、
・ことばのリズム、いわゆる語呂がよい。
・インパクトがある(個性的・刺激的・詩的)
・内容を期待させる、あるいはいい意味で裏切る。
などがあろう。
かつては9文字から12文字くらいまでが
覚えやすくてよいといわれたこともあるが、
最近では前述の「セカチュー」や「もしドラ」
(『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネージメント」
を読んだら』)などのように
短縮形ができて流行語化することをねらって
わさわざ長いタイトルにすることもはやりのようだ。
ことばを短くしてしまったり、
いいやすくしたりするのはは、ある意味、日常言語では
よくおこることだから、
ある程度は仕方ないと思う。
「新しい」も本来は「あらたしい」なのだが
いいにくいので、「あたらしい」という誤用が正しくなった。
日本語のみならず、英語でも、
YesがYaになったりは序の口で
会話でもひんぱんにAbbreviationがつかわれる。
公式機関でもNASAや、CIAなどは
制覇機名称でよばれることは少ない。
そして、この略号はマス・メディアの発達とリンクしている。
なぜなら、新聞の見出しにしても、
テレビやラジオの尺にしても、
短いほうがかせげるからだ。
ちなみにNASAの悪いジョーク。
NASA=NIPPON AMATEUR SPACE ASSOCIATION
それはともかく、短縮といえば衝撃的な体験がある。
!983年、ラボ国際交流でアーカーンソーとルイジァナの
2州を担当したときのことだ。
ルイジアナ、バトンルージュ郊外で
地元の方の案内で黒人奴隷の集落を保存した
記念公園を見学にいった。
南部のStickyなモアッとする暑さのなか、
過酷な生活を強いられていた
さまざまな施設が、じっとおしだまっていた。
背の低い木製の白いフェンスは
洗濯物が干せるように先端がとがっている。
小屋とようやくよべる寝食の場には、
それで生活のにおいがあった。
Sick House すなわち病を得たときに隔離する
あかりとりのない小屋には胸がつまった。
イスが10脚、黒板らしき板があるだけの学校では、
知識への渇望、学びへの飢餓に貫かれた。
それでも、子どもたちは学ぼうとした!
しかし、なによりおどろていたのは教会である。
屋根の上の十字架で判別できた。
なかには小さな説教壇と左右4列の長イス。
イスの背には落書きが無数。
ほとんどがかすれていて判読不能だが、
はっきりと読めたものがあった。
Y REKON ANY GOD IN THIS CHURCH.
YOU RECOGNIZE ということだ。
YouをYまでちぢめてしまうのは南部の黒人社会では
よき見られたと案内の方にきいた。
Cを音の通りKと書き換えるのは、そうめずらしいことではない。
いまではあたりまえにつかうOKも、
もともとはシカゴの記者連中が
All Correct =すべて正しい
という記事の確認を伝えるための略号だったという。
綴りのとおりならACだが、
それでは意味がピンとこない。
そこで音の頭をとってO K としたのだ。
そのほうが、音で聴く場合はAll Correctを連想しやすい。
このへんが英語のおもしろくも変なところ。
Schoolも音で綴ればどうしてもSkoolだもんな。
さて、短縮つづきでいえば
いまだに『ロミジュリ』とか『アリキリ』とか
いってませんか?
なんか、OBの苦みたいでいやだが、
大昔、まだラボに入社しようかどうしようか
まよっていたとき。
らくだ・こぶに氏から酒席であることをいわれた。
当時、ぼくは大学四年だったが、
週に一度テーマ活動をしに
ラボセンに通っていて、それ以外にもキャンプや行事の
企画に首をつっこんでいた。
ぼくは、その1年ほど前のキャンプで
氏が詩人谷川雁であるとしらずにかみついて、
命知らずな若者と思われていたたが、
氏がその度胸が気に入ったのか
こんな無謀な青年は手なずけとかないと、
なにをするかわからないと思ったのか、
たまに活動でがんばると、「三沢、飯いくか」
と声をかけてくれた。
そのころは、もうぼくは氏が何者かわかっていたが、
「はい、いただきます!」とホイホイついていった。
なにか学べるチャンスだと思ったからね。
酒席だから、話はとびまくる。
しかし、たしかに文について創造について
貴重な話をきくことができたことはまちがいない。
氏に直接、ぼくの文を見てもらったこと数度しかない。
最初は、詩というか歌詞だったが、
氏はひとこと「なかなかいいが、秋は近いとはいわぬ」。
それにぼくがかみついた。
次は、なんと今だからいうが、
「三沢、ラボの新入社員をそろそろとらねばならぬ。
(1975年ごろラボはほとんど新人採用をしていなかった)
しかし、ふつうの入社試験ではおもしろくない。
君が募集要項を書いてみたまえ」
例の長身から見おろすように一方的。
で、なんか変だなと思ったが書いてもっていった。
書くほうも書くほうだなあ。
すると後日、「読んだ。君は表現をあせりすぎるな」
と、それだけ。
ぼくは、カーボンの複写を何度も読み返した。
その意味は、いまだによくわかっていないので、
抑制のきかないこうして書いている。
さて、話を件の酒席にもどす。
そのときは氏とぼくともうひとりだれかいたと思うが
氏は宇宙と量子論についてひとしきり過だったあと
いつもは飲むときも背すじをのばして威厳をたもっている氏が
ふと、背中をすこしまるめて
「しかし、『ロミジュリ』とか『アリキリ』とかいう略称は
つらいなあ」
とぼくにむかっていった。
ぼくは、ドキ! というか、あたりまえのように
そうした短縮語をつかっていたからだ。
こうした語は、隠語である。
MSもある意味、隠語だ。
隠語は仲間内にしか通じない。
それはある意味、同志であるという快感だが、
組織を閉鎖していく。
業界用語とはそんなものだ。
それにしても作品名の短縮は作者にしてみればつらい。
タイトルもふくめて作品だもんな。
苦労して身支度ととのえて元服させた子どもが
「よっちゃん」とか「にこたま」とかよばわりされたら
それは、泣いてしまう。
で、タイトルの話のつづき。
ライブラリーの場合、英日だから、
・できれば意訳じゃないほうがいいが
・やっぱりわかりやすく、響きがよくないと
・あんまり長いとこまる
みたいなことでタイトルをなやむ。
個人的には『わんぱく大将トム・ソーヤ』なんかは
英語も日本語も、再話作品であることが明確であるし
子どもによりそっていて(でも媚をうっていない)
いいタイトルだなあと思う。
では、自分でつけたタイトルはとふりかえると、
意外と少ない。
まあもいわゆるオリジナルは、そう多くないからね。
『十五少年漂流記』は、もう最初から日本語タイトルは
この古典的な名称にきめていた。
現代はDeux Ans de Vacances 『2年間の休暇』。
このフランス語タイトルは響きもいいし、
中身をみせない色気がぁっていい。さすがヴェルヌ。
しかし、森田思軒のモコをちゃんと
メンバーの一人と認知した「十五少年」がいい。
『2年間の休暇』はちょっとよわい。
英語のCastaway Boysは、も鈴木小百合さんが
びたっと、だしてきた。
映画に「流されて」というのがあり
その原題がCASTAWAYなんだそうだ。
THE SONG OF THE SALMONは、はじめ
THE SALMON SONGだった。
Sの頭韻をふんできもちよいが、短かすぎてすわりがわるい。
悩んでいたらニコル氏のほうから、
今のタイトルにしようと提案があった。
ぼくとしては、日本語タイトルはいらないくらいと思ったが
ライブラリーでは、そうはいかぬ。
だが「サケのうた」ではタイトルにならぬ。
悩みまくって
訳仕しこみ過ぎだが、「サケ、はるかな旅の詩(うた)」。
英語やフランス語、イタリア語などの横文字の原題は
おおむね、抑制がきき、シンプルで中身を隠したものが多い。
日本語訳タイトルのほうが派手目になる傾向がある。
古い作品ほどそうかも。
グリムの『はだかの王様』も、たいていの国のタイトルは
原題にそった「皇帝の新しい服」。
※中国語版も「皇帝的新衣」
ただ、日本は古くから年少の読者を意識して
「はだかの王様」。
うまいタイトルだが訳対応無視。
『はまなのすきなうし』も原題無視。
でも、光吉夏弥先生や石井桃子先生などの
開拓者のみなさんは
欧米のすぐれた児童文学や絵本を紹介するとき
年少の読者への配慮を十分に考えて
訳し込んだタイトルにされたのだ。
原作者のマンロー・リーフは
フェルティナンドが鼻を愛する牛であることは
すぐにわかることを承知して
タイトルでは「フェルディナンドの物語」と
固有名詞にこだわり、後は読み手の想像力にゆだねた。
「子どもの目線までおとなはのぼらねばならない。
見下ろしたり、下ってゆくのではない」と
語ったリーフの思いがわかるタイトルだ。
しかし、日本の絵本として考えれば
そのタイトルではとどかない。
だから、ラボ・ライブラリーが英日であることの意味は
タイトルにおいても多角的に作品とむきあうために
とっても重要な事項である。
タイトルの英日乖離の例の好例は映画だろう。
欧米の映画のタイトルも原題は基本的に抑制がきいている。
好きな映画ではないが
ノルマンディー上陸作戦を描いた「史上最大の作戦」の
原題は The Longest Day
リチャード・ギアをスターにした
『愛と青春の旅立ち』は An Officer and a Gentleman
※たしかに映画のなかみは英語のとおりだ。
これなどは苦肉の作がヒットした好例。
おかげで、その後「愛と青春のボレロ」など
愛と青春をつけるとヒットお約束みたいな流行になったくらい。
どうでもいいけど、ハリウッドスターは軍服が似合うかどうか
というのが、けっこうイニシェイション・通過儀礼的。
軍服に対する違和感が日本のようにないし、というより
リスペクトがあるんらね。
ほへくの友人の弟が自衛官で
アメリカに会議ででかけたとき
昼休みにハンバーガー屋にならんでいたら
チーフみたいな人がでてきて
「あなたの席は別にある」と奥の個室に通されたそうだ。
なんか、今回も抑制がなく長くなった。
ぼくは、大学を1976年の6月に卒業した。
4年と1学期在籍しのだ。
どうじても3月から4月にかけて
学士論文のための再調査をしたかった。
新潟県の松之山という日本でも有数の豪雪地帯である。
そんなわけで大学にお願いして
9月に入学した海外の学生といっしょに
6月卒業にさせてくださいとたのんだらOK(でた)になった。
卒論のしめきりき6月12日である。
そこで、1日余裕をみて11日に提出。
その帰りにラボセンターによった。
昔の東京医大の前のラボセンである。
エレベーターほおりると、
ぐうぜん、らくだ・こぶに氏にばったり。
「おお、三沢か。大学どうした」
「今日、卒論提出してきました」
「そうか、じゃあ明日から来れるな」
「…卒業式はでてていいですか」
「その日はスケジュール表に『直行・卒業式』と書きなさい」
だから、ぼくがラボにはいったのは
6月12日である。
35年前の夏の直前だった。
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昨日は、帰ってきたいきおいでダーッと書いたので
例の如くバグや単なるまちがいや
意味不明のところもあるので、やや加筆修正したっす。

タイトルからして、くだらないシャレではじめてしまったが、
あっとうまに八月葉月である。
写真上は函館山からの夜景。撮影は7/29の20時すぎ。
画面の右手が青森方向で左は函館湾。
くびれの一番細いところは1キロない。
函館山は連山で、
写真の展望台のある御殿山(334m)をはじめとする
13の山やまからなりたっている。
写真下は旧函館区公会堂のライトアップ。
1907年の大火事で消失した町の集会所を
その3年後、豪商として知られていた相馬哲平(1833~1921)が、
現在の価格にして、およそ10億円の私財を寄付して建てかえた。
1980年に大補修が行なわれ、
ほぼ建てられた当時の姿に復元されたといわれている。
構造は木造2階建て、アメリカのコロニアル様式をまねた
「擬洋風建築」である。
アメリカ的といっても細部の柱などはコリント式。
つまり、ギリシアの技術・デザインが基礎にある。
ようするに、アメリカにはもうしわけないが、
若い国だけあって、建国当時、美の基準となるものは、
ギリシアのような絶対的古典的価値にもとめるしかなかったのよね。
その典型はワシントンD.C.
アメリカの最高裁やホワイトハウスもギリシア風。
ワシントンモニュメントは、どうみてもオベリスクだし
リンカーン記念堂(キング牧師がI have s dreamの名演説をしたとこ)
もギリシアっぽく、その前の大きなリフレクターとよばれる池は
エリーゼ宮のパクリに見える。
いいとこどりなのね。
でも、ラボもテーマ活動もそうだけど、
模倣から始まるのが「学び」の基本だから、
そういうごちゃ混ぜ的、いなかっぽいところから
トゥエインやヘミングウェイやメルヴィルなんかの
かっこいい文学がでできているんだなあ。
教え込まれるんじゃなくて、自分からまねして
そして自分のものにしていくって、
けっこうだいじ。
日本の教育は。そのことを投げだしちゃったのかも。
ラボはずっとやってるけど。
でもでも、そのことが、
多くのすごい専門家がラボを応援してくれる
大きな理由のひとつだぜ。
コレホント。
この写真の旧函館区役所も、往時の日本の建築関係者が
けんめいにアメリカの技術を学びとろうとした精神が伝わってくる。
もちろん、現在も使用可能で、コンサートなどが
ひんぱんに行なわれている。
さて、
これまで南方中心にふらついてきたが、
さすがにもう暑いので、これからは北である。
というのは冗談で、またまたぐうぜんの仕事だ。
しかし、今回は昨日の朝10時30分のANAでとび、
今朝の10時発のJALでもどってきたので超強行スケジュール。
おかげで(なんの?)、五稜郭などの市内観光はほぼなし。
仕事がらみのところだけ(あたりまえだ!)。

函館空港から直行したのは、大沼国定公園である。
さすが北海道はwide open country
国立公園は全国で29あるが
北海道には6か所もある。
(利尻礼文サロベツ・知床・阿寒・釧路湿原・大雪山・支笏洞爺)
国立公園は国が直接管理し。国定公園は都道府県が管理する。
国定公園は現在、たぶん56か園で
北海道には5つある。
そして道立自然公園は12か所。
大沼国定公園の管理の人にきいたら
いちばん新しい国定公園は2007年に制定された
丹後天橋立大江山国定公園(ナガっ!)だって。

大沼は、写真の駒ヶ岳(1131)の
水蒸気爆発で生まれたせき止め湖だ。
ざんねんながら全貌はおがめなかったが
鳥の頭のような、まさにぶっとんだ山容がいい。

大沼は睡蓮がうつくしい。
夜明けに開花し、午後3時にはしぼんでしまう。
この撮影は午後1時くらい。
また、大沼はたいへん浅く、水深わずか2mくらいのところもある。
最深部でも13mあるかないかで、
この前の宍道湖同様、しだいに浅くなっている。
遠い未来には湿原になるさだめ・
、
撮影・取材がおわり、暑いのでソフトクリームを食べていたら
お土産屋で「さきいか」を売っている兄キが声をかけてきた。
一見、特殊な業界の方のようだが、
なかなかいいつらがまえ。
清原選手に似てますね、とお世辞をいうと
「よくいわれんじゃ」と豪快な返事。
明日からは湖水祭りだそうな。

大沼の次は函館市内でうちあわせである。
時間がけっこう押していたが、
ちょっとでも寄り道したいとだだをこねたら、
関係者が函館市内を見下ろす道営の牧場を廻ってくれた・
先月くらいまで口蹄疫さわぎがあり
入山禁止がとけてほどないという。
晴れていれば写真のうしろに函館市街とそのまわりの平野が
見渡せるはずだが、やっばしガスっぽくて残念。
「もうちょっとまとうよ」とか、またもだだをこねていたら
関係者が「じゃあお写真を」と時間かせぎ。
進行表命のマネージャーは、いちおう笑顔っぽいが
「ボス、いいかげん出発しないとヤバイです」
とぶつぶついってキレる寸前。
どう見ても、ヘタなくせに締め切りをまもらない
ヘッポコ作家と、その尻をたたくキャリア編集者のよう。

打ち合わせと食事会がおわり、地元の方の案内で
函館ナイトドライブ。
まずは日本三大夜景の函館山。さすがに人でいっぱい。
震災後、函館も観光客はガクっと減った。
外国の方に人気のある街だったが、
ほぼ全キャンセルの時期があったという。
でも、7月になってから少しずつだが
回復のきざしはあるという。
案内してくれ方は、展望台の人びとに手をあわせていた。
泣きそう。
今ここでふみとどまらねば、なりません。
と低く、しかし強くおっしゃられた。
そうですね。
ほんとうに美しいところには、
ぜったい人はもどってくる。
ちなみに、夜景も年代ごとに変化があり、
北島三郎氏の歌にででくる松風町あたりが
もっともまばゆい時期もあったそうだ。
で、現在の人気は五稜郭周辺だという。
「そこにいきましょう」といったら
マネージャーが「もうしわけありません」ときっぱり。
はやく帰ってネタ整理しないとね。

でも、地元の方は「どうしてもお見せたいところがあるので
あとちょっとだけ」といってくれた。
しかし、車をおりるたびに
だんだんマネージャーがふきげんになっていく。
それはともかく、函館は坂の町だ。
上と下の写真はどちらも教会だが、
「チャチャのぼり」という坂の上にある。
ここはたいへんな急坂で、腰をまげで前傾しないとのほれない。
「チャチャ」はアイヌ語で「お年寄り」のことだ。
上の写真は「聖ヨハネ教会」下は「ハリストス正教会」である。
Greek Orthodox、ギリシア正教はロシアをはじめとする東欧に広がる。
※正教は原則として国名+正教で表記される。
教会の屋根はキューポラ、いわゆるタマネギであり、
その先端に十字架がつく。『シフカ・ブールカ』のお城がそうだね。
このキューポラは後にイスラムが使用する。
十字架はなくなるけど。
タマネギは正教が先。

この、はば広い坂八幡坂。昔近くに八幡神社があった。
海まで見下ろせるため、映画やCMでよくつかわれるという。
「たとえばどんな作品ですか」ときいたら
地元の人が、「えーっと…」となってしまい。
マネージャーにまたにらまれてしまった。

そして、函館の港の倉庫街へ。
震災のときは、函館もかなりゆれ、
津波も4m級が押し寄せた。
坂道が多いことも幸いしたか、
港のそばの店舗や倉庫などの一階部分がダメージをうけたが
現在では、その傷跡は見当たらない。
しかし、亡くなられた方も1名あった。

函館といえば、土方歳三、石川啄木である。
啄木は、前にも書いたが、数少ない写真のイメージとは
かなりかけはなれた、とんでもない借金王である。
ファイター土方とデカダン啄木。
どちらも破滅的なキャラクターだが
ふしぎな光彩をはなつ。
これは、おまけだが土方歳三アンパンというのがあって
空港でも買えるが、たいへんに美味である。

最後の写真は宿にむかう途中、路面電車の十字街駅。
函館は北海道の南玄関で、まさに入り口なのだが、
なぜか最果てのにおいがする。
個人的な印象だけでいえば
稚内や根室などよりそれは強い。
たぶん、結界の近く、そんなにおいかもしれない。
それは土方も啄木もきっと味わっていたと思う。
前述した相馬哲平は
89歳で世を去るまで、函館のためにいろいろな篤志活動をした。
彼がおこした相馬商店は系列も会社も含めて
巨大な財閥となり、北海道の金融業界、不動産などあらゆる分野に君臨したが
哲平は「郷土報恩」と質素倹約が
モットーだったといわれる。
相馬商店は、現在も相馬株式会社と名をかえ、
大規模ではないが、不動産業、社有林育成などの事業を続けている。
冒頭にくだらぬシャレと書いた。
しかし、ダジャレなどの言語遊戯は
「生きる力」のもとである。
さらに「ことばの力」を得る源泉のひとつだ。
その好例は、いうまでもなくナーサリー・ライム。
言語遊戯のもつナンセンス、諧謔、皮肉、ヒューモア、
そしてなにより、生理的な音のきもちよさ。
これらは、人を解放し、「ことば力」「生命力」を増強する。
ララバイ、子守りうたは、その証明のひとつだろう。
ゆりかごが落下してしまう、とんでもないライムは有名だが、
日本でも「寝ないとネズミがとってくう」というおどかしと
同じくらいの量の「寝たならネズミがとってくう」という
赤ちゃんにしてみればダブルバインド、
二律背反どうすりゃすいいの的なヴァリアントがあると
百々先生からうかがったことがある。
子育ては、惜しみなく愛情と体力と経済力をうばう。
そのストレスをうまくリリースするのに
ナンセンスや逆転は、生きる力になっていく。
そして、ナーサリー・ライムは
時代をこえて生つづけてきた
英語の音とリズムのエッセンスがギュットと
凝縮されている。
さらにもうひとつ、ナーサリー・ライムは
基本みじかい。
「英語がいえる」ことは、絶対目標ではないが
「いえた喜び」はたいせつにしたい。
短ければいいのか、という反論もありだが、
達成感を得やすいという点もありだよ。
中身? いいじゃん。おもしろければ。
※おもしろさの内容がだいじかな。
最後に、今はキャンプまっさかり。
そこでやっと流れ星の話。
この夏は「ペルセウス座」と「みずかめ座β」の
ふたつの流星群がおいしい。
みすがめ座の極大日は、じつは昨夜と今夜。
でも、まだまだ見られるし、
ペルセウス座は8月がピーク。
明け方近くがいいともいわれるが、8時くらいでも見られる。
※昨夜の函館は曇りで×
空気のきれいなキャンプ地で
流れ星をさがすのもいいなあ。
わしだって、
流星がきえるあいだに、小石をひとつひろえたら
すてきな願いごとが叶うと信じていたのだよ。
そう、おだやかな夏でありますように、
諍いのない寛容な世界でありますように。
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今日読み返したら、誤植と、脱字で意味不明なところが
けっこうあるので、修正した。
東京は7月がお盆である。
写真は、三澤家の菩提寺である中野坂上の宝仙寺。
真言宗豊山派の寺である。
※ラボセンターから徒歩10分
タイトルや書き出しから、なんか暗そうな話だな
と思った人は大正解。
だけど、写真コンテストやラボ・カレンダーの季節でもあるので
ちょっとしたヒントみたいなことも書く予定。
まあ、おつきあいくだされ。
そんなわけで、13日に寺の墓所に参った。
子どものときから、お盆は7月というのが
身体にしみついた四季なので、
全国的には8月のいわゆる旧盆がメジャーと知ったのは
大学生になってくらいである。ああ、はずかし。
一昨年に病気をするまで、
お盆のころは(も)、当然にも多忙であるから、
実家によりつくことなどなかった。
しかし、大きな手術から生還し、
退院した直後に、
父がぼくの病気をもっていくかのように旅立った。
享年85歳。
8月の旧盆の直前だった。
通夜の夕、蝉時雨の空に
はるか父の魂がしばし佇み、
そして遠ざかっていくのを感じた。
だから、夏はぼくにとっては、ややせつない季節だ。
父には、なにひとつ親孝行らしいことをできなかった。
ぼく自身の仕事をどう思っていたかを
きくこともできなかった。
ただ、国際交流や録音などで海外に出るたびに
買ってとどけたハチミツやチョコレートを
甘いものが好きだった父は、
よろこんで食べていたと母からきいた。
父は自分が弱っていくのを自覚したときから、
足がよくない母のことをずいぶんと心配していた。
ぼくは亡くなる2日前に、
「おかあさんには、できるかぎりのことをするから」と
すでに朦朧としている父の心のなかに語りかけた。
聴覚は最後まで残るから声にだしてもよかったのだが、
へんに安心されてそのまま、なんてなったらこまると思ったのだ。
以来、基本的に夕食は基本的に母と食べている。
買い物もする。
母は手押し車を用いれば歩行可能である。
だから、極力自分のことは自分でしている。
洗濯も入浴もできる。
朝食は父の写真に語りかけながら
納豆と卵とみそ汁をひとりで食べる。
毎日メイクし、外科に膝の治療にいき、
ランチはドトールのミラノサンドか
コンビニのミックスサンドをホットミルクでいただく。
ただ、重いものはもてないし、
どうしてもひとりで夕食をつくると
かんたんなものになってしまうので、
まあ、いっしょに食べようということになった。
妻のほうも一昨年の秋に母(元テューター)が急逝し、
父親のケアがあるので神奈川にいざるを得ない。
それぞれが親をひとりなくすという犠牲の後に、
やっと孝行らしきことをスタートできた。
しかし、母の世話といっても、
そんなわけだから、たいしたことではない。
母の家が三澤制作所の本社なので
大きなパソコンなどは全部そちらである。
だから、買い物は午前にすませて
昼からは本社で仕事をしている。
話がそれたが、13日は墓参し
おもりものや、蓮の葉、わらの馬や牛などの盆の準備をした。
果物やお菓子も供えた。
お盆は盂蘭盆会の略といわれるが、
仏教行事だけでは説明できない部分も多い。
ぼくは、無神論者であり、信仰はもたないが、
※もちろん、人の信仰は否定しない。
心に土足で踏み込むような野蛮なことはしたくない。
死者との対話はたいせつだと思っている。
ぼくは、基本的には毎日、仏壇にむかい
照れ屋の父と
ポケットに手を入れて胸をはる祖父と
その横によりそう祖母の
動かない笑顔に話しかけている。
人は亡くなっても、死なれた、あるいは死なせた側が
記憶から消し去らないかぎり
生きて、存在しつづける。
他者を心のなかに生かすこと、
それは、人間の尊厳である。
それができにくい時代だという。
他者を心のなかに生かすことができなければ。
人の痛みも、傷つきかたもわからない。
恋愛もできない。
※それこそ、他者を心のなかに生かす行為の結晶だから。
他者を心に生かす力を育てるのは、
物語に入り込むことが有効な方法のひとつ。
それだけでもラボの存在意義は少なくない。
日本人の神仏混合的な考えからいえば、
死者は年月とともに、その個別性が透明になっていき、
40年くらいたつと、祖霊、
すなわち「ご先祖さま」という
集団霊として、家族のみならず地域全体にまつられていく。
そうやって、人は死別り悲しみからなつかしさ、そして尊敬へと
心もちをかえていくのだろう。
世代交代のシステムともいえる。
三澤家の菩提寺である宝仙寺は、
中野坂上から5分ほとでアクセスもよく、
大きな駐車場もあるので
有名人が、よく葬儀を行なう。
でも、住職におはなしをきいたら、
宝仙寺が直接葬儀をするのは檀家だけで
後は式場としてレンタルしているという。
仏教か神道であれば宗派は問わず貸していると
きっぱりとこたえてくれた。
それはともかく、宝仙寺は真言宗豊山派の寺としては
なかなかの格式である。
総本山は、いうまでもなく高野山金剛峰寺だが
豊山派としての本山は
奈良の長谷寺である。
ここは、建築的にもすばらしい寺だが
残念ながらまだいったことがない。
秋には、なんとかいこうと思っている。

この写真が長谷寺。あれ、と思った人、その通り。
写真がないのでJR東海のサイトからのパクリである。
「いま、ふたたびの奈良へ」のコピーによる
美しいCMは、きっと見たことがあるだろう。
というより。あのCMのバックに流れる曲が
気になっている方も多いのではないだろうか。
あれは、男女の外国人アーティスト、
ネッロ・アンジェルッチとドナ・バークが歌う
「Again」という曲で、
ボロディン作曲の歌劇『イーゴリ公』から
「ダッタン人の踊り」をCM用にアレンジした曲。
厳密にいうと、このオペラの第二幕で使われる舞踊音楽だ。
舞台は12世紀。捕虜になったキエフ公国のイーゴリ公を
なぐさめるべく、遊牧民族 ダッタン軍のコンチャック汗が
命令して踊りを見せる場面。
CMの美しい旋律、女声合唱
「風の翼に乗って、ふるさとに飛びゆけ」
をバックに「女奴隷たちの踊り」 が始まる。
原曲は、もちロシア語。
興味ある人はAgainで検索すれば120円くらいでDL可能。
13日の夕方は、玄関をあけはなち、私道で迎え火をたいた。
仏壇に灯りをともし、岐阜提灯をかざり
お供えもした。
わらの馬と牛を用意し
※これにも諸説あって、ご先祖は馬にのって牛に荷物をもたせて
くる、あるいは来訪は馬ではやく、帰りは牛でゆっくり、など。
お盆らおがらをのせて火をつけた。
母が
「じいちゃん(父のこと)、みんな連れてきてね」と
ささやく。
風がつよく、おがらはあっというまに燃えてしまう。
まさに刹那。夏も刹那、そして人も刹那。
刹那は、サンスクリット語のKsanaの音訳といわれる。
仏教ではたいへんに短い時間のことだ。
指をぱちんと弾くのが65刹那ともいわれ、
宗派によっては75分の1秒というリアルな指定をしている。
それほど、夏も、人の人生も一瞬のことなのだ。
仏教の単位は小さいものから大きいものまで、とにかくスケールがでかい。
釈迦入滅後の末法の世、
56億7000万年後に弥勒が出現して衆生を救済する。
これなど、気の遠くなるような時間への想像力である。
また、『寿限無』でおなじみの五劫のすりきれ。
劫は天女が舞い降りて羽衣で岩をすりへらしてしまう年月だが、
※いちおうこの岩は一辺が20キロメートル。だが、天女が
何年に一度おりてくるかは厳密にはどこにも書かれていない。
もともとはヒンドゥーの宇宙論的な数字である。
ひとつの宇宙が生まれてから消滅するまでの年数ともいい、
ブラフマー(仏教では梵天)の1日に相当するともいう。
いずれにせよ、劫は一応研究され計算されていて
43億2000万年ということである。
もう、わけがわからないが、
ヒンドゥー、仏教などのインドを中心とする
広い意味での哲学は、
現代のテクノロジーの発達によって必要になってきた
テラ、ギガなどの巨大数から、ナノ、ピコといった極小数まで、
すなわち宇宙から量子レベルまでの数の認識を、
その想像力のなかにもっていたわけで、
これはやっぱり、ギリシアもびっくりの心のバワーだ。
なんて、あんまりわしらの日常とかけはなれた話のようだが、
「未来永劫にありえん」とか
「きょはてがけるのが億劫(おっくう=おっこうのなまり)だ」
なんて、けっこうよく使っているよなあ。
さて、ぼくには今や夏はさみしい季節だが
ラボにとっては「想像しい季節」だ。
カレンダーにフォトコン。
どちらも、25年以上つきあってきたが、
秋口は、この応募作品の整理と選考で、
いつもふうふういっていたのを思い出す。
でも、みんなけんめいに描いた絵や、
これだ! と選んだ写真を送ってくるので
こちらもしんけんモードである。
でも、はっきりいって3000枚の絵を全部、
気合いを入れて見るのは、はっきりいって命がけだ。
気軽に描かれた作品もあるが、
ライブラリーを聴きこんで、それこそ
全霊をぶっこんで描いた作品が多いから、
ほんとうに魂も体力ももってかれてしまう。
これ、まじな話。
バルバおじさん(関本浩詞先生)と
一次選考からはじめるが、
すべての作品に「ありがとう」の印を押し、
バーティごとに枚数と通過枚数を書いていく。
※ほんとうは、それぞれにコメントを書いてあげたいが
それはさすがに無理。
ユーススタッフやバイトのみなさんにも手伝ってもらい
朝から夜までかかる。
パーティで1枚だけの応募でもそれが通過するときもあるし、
パーティで50枚だしてすべて一次不通過だってある。
二次選考はライブラリーの絵本作家の先生にも参加していただく。
本多豊國先生はほぼ常連。
3000枚から選ばれたおよそ150枚(1次通過で20倍!)を
後悔しないようにていねいに見ていく。
支部・パーティはいわず、タイトルと学年・性別だけ公開。
審査員がA~Cのランクを口ぐちにいうが、
いちばん高いランクに分類される。
つまり、ひとりでもAという審査員がいたら、
他がすべてCでもAに分類される。
次にCの作品をもういちど見て、Bにあがらないか確認する。
さらにBを見て、Aにアップするものがないか見る。
実際、Cから入選までに復活した例はいくつかあった。
そして、ここからがたいへん。
Aの作品群をタイトル、テーマでわけていく。
同一テーマは新刊場合のみ重複も考慮するが、
基本は1テーマ1作品。
めったにないが、同一パーティの入選は2点まで。
そんな内規がある。
それと、カレンダーなので季節感もたいせつ。
ここで、大ヒントだが、晩秋から冬のテイストの作品は
やや有利! これほんとだよ。
どうしても、春夏っぽい作品が多いんだ。
それと、みんながあまり描かないテーマも
けっこう狙い目。
ただし、これはねらいすぎてもアカン。
でも、その物語がほんとうに好きならぜひ挑戦。
逆にいうと
『かぷ』『がらがらどん』『だるまちゃん』『ぐるんば』
などは、すごい作品が過去にいっぱいでているので、
勝ち抜くのはたいへん。
でも、やっぱり、これらのおはなしが
いかに不滅の人気作品であることがよくわかるけどね。
うまい絵は、だれも期待していない。
どれだけ。お話とむきあい、格闘したかが勝負。
それは、やっぱり絵にはっきりでる。
学校で「絵がうまい」といわれる子はたしかにいる。
でも、それはラボ・カレンダーの絵では
たいしたことではない。
お話との関係が、ほんとうにだいじ。
たとえば、「せんせい、できた」といわれてから、
「がんばったねえ。せんせい、ちょっとあずかるね。
あと二回くらいお話きいごらん。
そうしたら、もう少し書き足したくなるかも」
なんて、少しあっためるのもだいじかなあ。
子どもは、テーマ活動でもそうだけど
自分のなかで完成しちゃうと、そこでとまっちゃうことがあるけど、
ちょっと時間をおいて客観視させると
まだのびしろがあったりする。
もちろん、子どもの絵はぐうぜんが支配する部分もある。
たまたま筆がよごれて、おもしろいにごりなったりするから。
それから、どうしてもがまんできなくて
おとなが手をだしちゃう。
これはNG。
とくにおとなが手を入れた作品はわかってしまう。
でも、これはきびしく守ってきた。
それと、絵本のそっくりさんもつまらない。
見えているものより、見えてないものを描いてほしい。
見えない人、いなくなった人と心で対話することが
たいせつなように。
かたちや色にとらわれずに、自由に描いてほしい。
とくに輪郭を描いて、なかを塗るという
アニメ的な絵は世界が分断されてしまう。
それを学校で教えたりしているからこまる。
低学年ほど、絵や音楽は専門家が指導してほしいぞ。
カレンダーの審査も、最後は血なまぐさい。
審査員の好みがわかれるからだ。
『パエトン』のおぼ・まこと先生なんか、
「ぼく、これ、ぜったい」といってはなさない。
もう、ほとんど子ども。
いつかも描いたがラボ・カレンダーは多くの
アーティスト、しかも画家だけでなく、
音楽家の先生方も楽しみにされている。
ラボっ子の物語への感性に触発されることが多いからだ。
そして、写真コンテストのことも書こうと思ったが、
さすがに長くなったのでどうしようかな。
でも、ちょっとだけ。
これは、もともとホームステイのいい写真がほしい。
事務局やテューターのシャペロンでは、
撮影きない、生のステイの写真を集めようということではじまった。
だから、ホストファミリィのお父さんが撮った写真なんかが多い。
「撮られコンテスト」でも、いいじゃないかと。
きわめておおらか。
※どうでもいいけど、シャペロンとは
もともとは、フランス貴族の子女のお目付け役のこと。
勝手に恋愛したりしないように、社交の場で見張っていたのだよ。
子女たちは、その目をごまかすために
もっていた扇で会話をしていたのだ。
ともあれ、そうはいっても写真コンテストだから、
自分で撮った作品は、かなり評価が高くなるよ。
それと、何を撮りたいのかがはっきりわかる作品はいいね。
とくに、一緒に遊び以外の活動わしている作品。
仕事とかなにかボランティアとか、なんてのも高得点。
動物、日本文化ネタ、なんかはいつも多いけど、
やっぱり、心と心の通いあいが伝わってくる写真はいい!

上の写真は今日の夕方の送り火。
牛と馬は帰路をむいている。
おみやげももたせた。
「じいちゃん、また来てね」
母がささやく。
まだあかるい7月の夕まぐれ。
刹那の夏が逝く。
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昨日、あっひさしぶりに更新したな。でも途中だ。けっ」
と、思った方には申し訳ないが、
出だしから、がらっと内容がちがうので、あらためて読んでくだされ。
文月になったばかりというのに、とんでもない暑さだ。
写真は、とくに本文とは関係ないが清涼剤がわり。
先月、宮古島にいったときの宿泊したホテルのプール。
なんか、すてきそうなのだが、
すぐそばにもっときれいなビーチがあるので、だれも泳いでいなかった。

先週の日曜日で、日曜劇場「JIN 仁」第二部が最終回をむかえた。
テレビドラマとしては、驚異的視聴率。
裏番組は「行列のできる法律相談所」※これはどうでもいい。
いまをときめく子役と芸達者の阿部サダヲによる「マルモのおきて」。
これらを抑えてぶっちぎりの高視聴率。
視聴率はわしらに関係ないがね。
原作者である村上もとか氏の作品は
『岳人列伝』『赤いペガザス』などは読破していたので
『JIN』も全巻読んでいた。
連載の当初が自分が入院していた時期とも重なり、
医療に関する本は、それこそ漫画から専門書まで
読みとばしていたときでもあった。
結末の処理が原作とテレビ版では大きく変化していたので
ちょっと驚いたが、全体に脚本・テキストはよくできていた。
※テレビを見てから原作を読みはじめた人もいると思うので
ネタバレになるといかんので、原作とのちがいはかかぬ。
ただ、三澤制作所マネージャーの分析によると
主演のふたりはこの作品を機に交際しているので
それに配慮した終わり方にしたのではないかということである。
ともあれ、ラボ関係者でもこのドラマを見ていた人は多いと思う。
一瞬だが、近藤勇役で宮沢和史氏がでていたし、
これまたOBの佐藤隆太氏も
東修介という後半の重要な役で出演していたからね。
例によって話はとぶが、宮沢氏といえば
5月、6月と那覇空港を計4回利用したが、
そのたびに、宮沢氏の『島唄』がインストで流されていた。
文句をいうわけではないが、
沖縄にはオリジナルの島唄はもちろん、
りんけんバンド、ネーネーズ、
喜納昌吉氏、ぼくの好きな天才はじめちとせ、
などなどそうそうたる地元音楽家がいるのに、
ウチナーではない人、
古い蔑称でいえばヤマトンチュの作品を
わざわざ選曲しているは、やっぱりこの歌の知名度と
メロディのもつグローバリティかなあと思う。
ちなみに、最近ではヤマトンチュといういいかたは
ほぼなくなり、ナイチャー(内地人)というと宮古島できいた。
生物学的には人類は単一種である。
現代人は分類名「ホモ・サピエンス・サピエンス」。
すべて交配可能。
したがって、人種といういいかたはおかしい、
アングロサクソンもモンゴロイドも強いていえば「亜種」だ。
人類にはspeciesはなくraceという単語も不要である。
しかし、まったくおなじではないがゆえに、
有性繁殖によって多様性が確保されているがゆえに
微妙なずれが諍いを生む。
中東でもアフリカでも旧ユーゴスラアでも、スペインでも
「うちわもめ」は歴史上たえていない。
しかも、そのもめごとの根底に宗教がからむと
話はさらにややこしくなる。
そして、そこでは言語も重要なテーマである。
ぼくは、すべての紛争について
暴力的解決を支持しない。
正しい戦争なんかない。
もちろん、テロリズムも支持しない。
その一方で、21世紀になっても血と汗にまみれた
地球の岸辺に立ちくすだけの自分がなさけない。
ただ、これだけはいう。
戦争で失われるのは、かけがえのない多様な命だ。
それぞれ「ひとつしかない one and only」の命だ。
大西巨人氏のことばに
「戦争におけるすべての死は犬死にである」
というのがある。
戦争にヒーローなどいらない。
そして、もうひとつ紛争や侵略によって失われるものがある。
言語と物語だ。
このふたつに微力ながら、命がけで関わってきたものとして
これは、ほんとうに許されざることだ。
まさにUnforgiven.
自然遺産も文化遺産もたいせつだが
無形の芸能、物語も人類のたいせつな生きたあかし。
どんな少数民族であっても
その言語や物語は尊重されねばならない。
なんか暑いのにうっとおしい話で恐縮。
しかし、民族内、あるいは民族どうしの
※民族ということば生物学的につかうか、人類学的につかうか
言語学的につかうかでなかなかめんどいが…、
諍いやずれは、多くの文学や映画にもとりあげられている。
そういうものから学こともたいせつかなあ。
ひとつ紹介すると
侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の「悲情城市」という映画。
1989年の作品で同年のヴェネチア映画祭でグランプリをとった。
彼はすでに国際的に評価の高い監督だから
すでにご覧になっている方も多いと思う。
この映画は
終戦直後の1947年にはじまった、
もともと台湾にいた人、本省人(当時はまだ日本国籍)と
大陸から移住してきた外省人との40年にわたる抗争の襞を
ある一家の歴史をとおして描いている
監督自身は広東出身の外省人であり、
作品は戒厳令が解除された直後に発表されたため話題をよんだ。
構成、演出、そしてなにより脚本・スクリプトがすばらしい。
映画をめざす人はぜひ見ておくべき一本。
ここにも「ことばの力」が映像を支えていることが証明されている。
また、音楽は日本の「センス」というグループが担当。
これもエモーショナルでよい。
レンタル屋さんでぜひ借りよう。
話は「JIN」にもどる。
大沢たかおも綾瀬はるかもよかったが、
※綾瀬はるかさんは、天然ぶりが有名だが
それが、あの自然な演技の基本になっている。
いわゆる天然は、役者の重要な資質のひとつ。
勝海舟の小日向文世氏(SK31での語りもよかったなあ)もさすが。
海舟は側室だらけのとんでもない発展家だったが
その破天荒さと策略家の両面がうまくでていた。
全体に「うまい俳優」さんでうめられていたので
安心して見ることができたと思うが、
個人的には、なにより内野聖陽演ずる坂本龍馬が抜群だった。
異論もあるだろうが、福山龍馬と比べては失礼。
内野氏は江守徹氏と同じ文学座の所属。
舞台を中心に活動し、テレビドラマはかなり選んで出演しているようだ。
彼はNHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」で一躍メジャーになった。
じつは、作品名はかかぬが、
内野氏にライブラリーのナレーションで
オファーをかけたことがある。
しかし、そのときは「舞台に集中したいので、ほかの仕事は
ご遠慮申しあげている」という男らしいこたえがもどってきた。
今思うと、さわやかな断られ方だったが、
もう少しねばってもよかったかなあ。
さらに、そのときは別の役でトヨエツさんこと
豊川悦司氏にもオファーをだしていた。
ご本人からは挑戦してみたいという返事があったのだが
どたんばで海外の仕事がはいり、
どうしてもスケジュールが
あわなくなって断念。
ついでにいえば中村勘太郎氏もスケジュールで断念したひとり。
※彼も絶対にのびる!
さて、内野氏の龍馬はアクセル全開の全力疾走の演技だった。
内野氏はもともともは抑制のきいた芝居が魅力だが
激動の時代を熱くかけぬけた龍馬を、そのまま熱く演じた。
ふつう、あんなに大きな芝居をすると
クサくなってしまうが、
大沢たかおをひきたててつつ
物語の緊張感をつくりだす力は
やっぱり演技の基礎力の確かさだなあ。
作品全体に「やりすぎ」的芝居が散見されるが
それに違和感をもたせないつくり方になっていた。
演出力と演技力とテキスト力。
くりかえすが「ことばの力」
ところで、この日記はサー女子ワールドカップを
テレビ観戦しながら書いている。
今日はグループリーグの第二戦、メキシコ合衆国との試合。
※メキシコ合衆国であることは意外と知られていない。
Estados Unidos Mexicanos である。
そういっていたら、あっというまにJAPANが2点とってしまった・
サッカーついでに、もうすでに二ュースで流れていたので書いてしまおう。
先月、那覇から宮古島にむかうANA機内のこと。
三澤制作所御一行は前から2列めにすわっていたのだが、
まうしろのシートにサッカー日本代表のサイドバックで
イタリアのインテルで活躍している長友選手と
そのフィアンセとおぼしき女性がすわっていた。
なんて、ゴシップ的、パパラッチ的話題で品がないが、
たぶんそうだと思っていたら、あとでニュースで確認した次第。
フィアンセのご実家が宮古島のとなりの伊良部島だそうで
そちらにあいさつにいかれたようだ。
長友選手は、キャップをまぶかにかぶってはいたが、
鍛えあげられた身体は一流アスリートのものだった。
「見てみぬふり」は、こういうときはいいことだ。
宮古島といえば、昨日、島でお世話になった方から
マンゴーがとどいた。完熟である。
じつは、チビマンゴーとは別にふつうのマンゴーを
いただいてもちかえったのだが、
時期がはやかったらしく、なかなか食べごろにならない。
それを心配した地元の方が「これならまちがいない」
と送ってくださったのだ。ありがたや。
冒頭にも書いたが、いよいよ7月である。
まだ梅雨はあけていないが、
風も雲も、どんと力強くなってきた。
今日は昼間、渋谷の街を歩きつつ
「黒姫の山中では、紫陽花の青が暗い林道のなかで
浮き立っているだろうなあ」
と、遠い目になってしまった。
夏は、やはり特別な季節だ。
前回の日記を「心の筋肉つけろよ」と結んだが、
心も身体もぐんとのびるときだ。
夏休みっていいひびき。
40日も休みなんだからね。
「2年間の休暇」はやりすぎかもしれんが。
タイトルに緊張の夏と書いたが、
これはもちろん、某有名蚊取り線香のCMのパロディである。
確かに今年の夏は電力不足と原発という
暑さを倍加させるストレスがまちうけている。
しかし、ラボの夏は粛々と進んでほしい。
それぞれの子どもたちにとって、5歳には5歳の
13歳には13歳の夏。
それは一度しか体験できないのだから。
「緊張の夏、ラボの夏」というコピーを見て、
クスッとした人は、そうとう昔からラボに関わっている人だ。
もちろん、いまだって、
キャンプも国際交流も安全の確保は最重要課題だが、
交流のシステムができる過程では
いろいろな緊張があった。
幸いなことに死亡事故は、キャンプも国際交流も
これまで一件もない。
これは参加者数からいえば奇跡に近い。
あたりまえのことだが、すごいことだ。
これも、子ども自身の力を信じつつ、おとなが身体をはるという
ラボの特徴がその要因のひとつだろう。
ぼくがラボランドにはじめていったのは、
1974年の正月あけのウィンターである。
今思えば、それがラボとの出会いだった。
そのころ、大田区と横浜市緑区でパーティをされていた
故・末テューター(お嬢さんの北原テューターが関西で活躍中)
が親戚づきあいをされていた河原林さんが
大学の先輩で、その方からキャンプを手伝ってほしいとたのまれたのだ。
それからのいきさつは、またの機会にしよう。
しかし、ラボという名前も活動内容も知らずに
ボランティアとして参加したキャンプから
ラボっ子たちやテューターの方がたと知り合いになり
いつのまにかテーマ活動をはじめ、
さらにはなぜかラボに就職し
※そのころは大卒ならかなり就職は選べたのに!
ついにはライブラリーに関わるとは夢にも思わなかった。
ラボにとって、夏はたいせつだ。
夏さぼると、秋しんどい。
事務局もテューターもラボっ子もおなじ
この夏も青春の日付変更線をこえ
それぞれの地平線白書をかきかえ
あたらしい自分と出会ってほしい。
そう心から思っている。
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夕刻、那覇経由で宮古島からもどった。
ひさびさの更新で気が引けるが、ともあれ書こう。
先月の沖縄本島につづいて、南の島連続攻撃となった。
沖縄から帰った直後、次は宮古島へいくと公表したら
多くの友人、知人から、羨望というか
なかには、ほとんど脅迫めいた感想が殺到した。
会社勤めの方にはもうしわけないが
こちとらフリーランスの一匹羊(オオカミにはなれぬので)
苦も楽も自己責任だ。
奇しくも沖縄がマイブームのようだが
とくに仕事で沖縄と深いつながりがあるわけではない。
ことさら因果関係のある大人の事情もない。
ほんとに偶然。
まあ、自分で選んだことは確かだけど
タイトル写真は島の南にあるシギラの浜。
例によって宮古島の話をしつつ
またライブラリーにからめて書いてみたいが
今回もまた長いわりには無内容であるので
そこんとこよろしく。
宮古島は、最近、テレビ番組などで話題になったせいもあり、
観光客はじりじりと増えている。
また、5月には宮古島トライアスロン、
6月最終週にはロックフェスと
定例イベントも増えてきた。
しかし、当然にも
こんどは自然をどのように守るかという
でっかい課題とむきあっている。
※小笠原が自然遺産に指定されそうだが
これも、島に入る人数を制限するといった
かなりの「経済的がまん」がひきかえになっている。
ニコル氏のアファンの森も、
森へのインパクトを最小限にするため
やはり人数制限をしている。
よく、手つかずの自然というが、
まったくのほったらかしでは、
生物にとってよい環境が持続するとはかぎらない。
人間のできる範囲はかぎられているが
手をいれてまもられる自然もある。
里山がいい例だ。
しかし、探検家フリーチョフ・ナンセンが
「地球もまた一瞬のできごとにずきない」
といったように、
宇宙レベルからみれば、人類の歴史や歩みもへのつっぱり。
ましてや人間の100そこそこの寿命なんて…。
と、シニカルにならざるを得ない。
だが、そうではない。
その短い時間を、宇宙から見ればまばたきのような年月を
全力で泣いたり、わらったり、愛したり、歌ったり、表現したりする。
そのことを、われわれは「生きる」というのだ。
戦争したり、うらんだり、ねたんだりしているヒマなどない。
なあんて、最初から重たいぜ。
さて、今回ハードな日程なので
一応障害者であるぼくとしては、同行のマネージャーがたより。
そういうときこえはいいが、
三澤制作所は超零細組織なので
代表(ボスとよばれる)とマネージャーの2名が全構成員だ。
ボスはご存じのとおり頼りなく、がさつで鈍感なので
マネージャーはだいたい機嫌がよくない。
そのマネージャーが、今回ははりきっている。
というのは、宮古島のマンゴーはじつに美味で
価格もリーズナプルなのだ。
マンゴーは宮古島産は味も価格もグッド。
てなわけで、まずはマンゴーをもとめてドライブ。
いつもは、ぼくのほうがすぐ寄り道したくなり
「ボス、次の予定まで10分です。そこを見ている時間はなし」
と冷徹にいいきるマネージャーが
マンゴーには目がなく、最優先事項だという。

上の写真は地元の人の御用達、ワイドー市場。
(ワイドーは宮古島語で「がんばろー」
タイトルの「んみゃーち」は沖縄本島のめんそーれにあたる
いらっしゃい!)
ここは朝9時から開いている。
この日は午後にいったがもうないといわれた。
今年は冬の寒さのせいもあり、生育が遅れている。
かつ作柄もかなりきびしいらしい。
結局、翌朝9時にこの市場に急襲したが6個買えただけだった。
それもふつうのマンゴーである。
ふつう? そうマネージャーがねらっているのは
東京などの市場にはでない小さいままで熟したマンゴーだ。
これが、じつに味が濃くておいしいろる大きさは
やや大ぶりのビワくらいか。
昨年は一袋に30個くらいはいって1000円だった!
※マネージャー談
下 左下にみえる袋のなかが ちびマンゴー(これがいい!)

このちびマンゴーをもとめてたどりついてのは、
昨年と同じ場所で発見したおばあの露天。
左下に3袋見えるのがそのブツである。
マネージャーは、さすがの交渉力で3袋ともゲット。
しかし、おばあも申し訳なさそうにいっていたが
値段は昨年の3倍近く。それでも安いけど。

上は、「今年はマンゴーがきびしいさあ」と語るおばあ。
ちなみに、この場所の露天はIt's against a low.
だが、マンゴーばかりにごたわってもいられぬなあと思っていたら
ちびマンゴーをやや物足りないなからもゲットしたマネージャーは
「ボス、次は砂山ビーチで取材です」
と、急に仕事モードになった。
とっても
上の写真がその砂山ビーチ。もともとはこんな急な坂はなかったが
風でふきよせられた砂が丘をつくった。
宮古島に名のあるビーチはいくつかあるが、
ここも、とっても美しい浜である。
ただし、さんざん泳いだりもぐったりしたあと、
この急坂を登ることになるのでぜいぜい。

上の写真は、つちやさん。6年ほど前に神奈川から移住した。
それまでは田園都市線の宮前平(ぼくは鷺沼にいた!)駅前で
庄屋というチェーン居酒屋のオーナーだっが
やのすけくんという男の子の子育てのためにこの島にきたという。
基本はサトウキビ園を営んでいるが農閑期などは
このビーチでのんびりと、いろいろな人との出会いを楽しんでいるという。
宮古島に移住を希望する人のサポート活動もされている。
いろいろ世話になったので、彼の宮古島紹介文の一部を紹介する。
「宮古島市の総人口は、約55000人です。
島々は全体が概ね平坦で低い台地状を呈し、
山岳部は少なく、大きな河川、湖沼等もなく、
生活用水等のほとんどを地下水に頼っています。(MAX標高115m)
地層は、ほとんど隆起サンゴ礁を母岩とする琉球石灰岩からなり、
砂岩と沈泥状の泥板岩が重なりあったブロックで形成されています。
農業粗生産額の構成割合は、
平成14年においてさとうきびが51.1%で最も多く、
以下、葉たばこ16.7%、肉用牛15.0%、野菜7.9%等となっています。
また、平成7年から12年にかけて、
農家数、農業粗生産額ともに減少しています。
特産品には、織物の宮古織り・サンゴ加工や宮古焼き
三線・泡盛、フルーツ・海産物などがあります。
とあまぁ、なんだか難しくご説明しましたが、
海!海!海だけあれば満喫!って方は楽園だと思います。
ほとんどの仕事が農業、漁業、観光業でしめられてます。
手に職がないと、なかなか仕事に恵まれないので、
体が健康であるのでしたら農業をお勧めします。1月~3月は、
「サトウキビ」 3月~6月には「葉タバコ」
6月~9月には「マンゴ園」の日雇いで生活できると思います。
どの仕事も人手不足で、毎年大変そうです。
問題は、10月から1月の4ヶ月間ですね。
もしものために、多少の貯金がほしいところです。
ど、じつにリアル。
生活は楽ではない。
サトウキビは世界的に供給過剰気味だし
タバコにいたっては需要が激減している。
また、タバコは土地を荒らす。
単年度の収入はいいのだが、常に新しい畑をもとめねばならない。
かつてはJTの社員が多数住んでいたそうだが
今は買い付けに来るだけだと、
島の方からぎひしいことばをきいた。
しかし、つちやさんいわく
「ぼくは海にもぐって1時間くらい20個くらい食べられる貝を
ひろうことができるようになったけど、
島生まれの子どもは同じ時間で200個はとってきます。
野生の力がちがいます。
都市を否定しませんし、島では不便なこともあります。
ただ、時間と海と空と風はいっぱいあります」
つちやさんに再会を約し、マネージャーのお告げでさらに島の北端へ
下は宮古牛ならぬ宮古馬。体高は120センチくらい。
日本在来種で、分類としてはポニーである。
在来種馬は日本にら8種いるが、そのなかでもっとも現存頭数が少ない。
いまは40頭に満たない、
1991年に天然記念物に指定されている絶滅危惧種。
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島の北端に近づくと3基の風車が見えてくる。
もともとは7基あったのだが、
2003年の台風で全部倒壊し、いまは3基が復元稼働中だ。
このときはも、なんと最大瞬間風速74メートルという
尋常ではない(あたりまえだ)暴風が島をおそった。
風がなければ動かない風車が、風によって倒される皮肉。
今、持続かつ再生可能な自然エネルギーへの転換が
大きな話題になっている。
風力もそのひとつだが、課題はいっぱいある。
風力発電の設置数、発電容量などの世界1は中国、2位はアメリカ。
すなわち、だだつぴろい国土が必要なのだ。
宮古島は海に浮かぶまつたいらな島なので風はOKだが
台風、さらには羽の回転の騒音や低周波による健康被害なども
やっかいな問題でという。
すべてのエネルギーは長所と短所をもつのである。

ただ、風車はなんどでも再建できるが
核エネルギーは,暴走したとたん、人間の手に負えない。
以前にも書いたが「太陽の子パエトン」は
まさに、人間と核エネルギーの関係をつきつけているといってもよい。
髪の領域ということばは好きではない。
だが、
鳥が翼をやすめる嵐の日にも
人はジェラルミンの鳥で轟音をひびかせて空にあがる。
医学で自然淘汰に抵抗する。
森の緑より、鮮やかな緑をキャンパスにもとめる。
風のうたよりも、美しい音色のために鍵盤をまさぐりうつ。
業であろう。
さて、この風車の少し咲きに宮古島の北にある
池間島にかかる大橋がある。
全長約1.7キロメートルの美しい橋だ。

今回、えらそうに自然のことなどを書いたが、
ラボ・ライブラリーにおいても自然は重要である。
「自然と人間」は多くの作品で、主たる、あるいはサブの
たいせつなテーマになっている。
むしろ、自然と無関係な作品をさかずほうが難しいはずだ。
というか、自然がまったくなす物語ってライブラリーにある?
そう、昔話はもちろん、自然が物語を生むのだ。
近代。自然がなくなったのではない。
人間が勝手に遠ざかっただけだ。
そしてライブラリーもまた、CDというプラスティックの
メデイアではあるが、そのなかみは自然そのものだ。
ナレーション、人間の声はいうまでもなく自然。
そして、楽器も基本はアコースティックなので自然。
リトルプリンスさんの日記を見ておどろいたのだが、
We Are Sonbirds μを聴いた新入会のお母様が
音楽にくわしい方で音の厚みに感動したということだ。
そのことにこちらも感動してしまった。
この所有率第一位のμは、刊行からすでに20年たっているが
賞味期限はまだまだあるのだなあ。
うるうる。
μは、ほんなとに丸2年かかった作品。
もっと自慢していいぜ。

こむずかしい話がつづいたので、
上は地元の方にごちそうになった宮古島の食材だけでつくった前菜。
紅芋のビシソワーズ、海ぶどうと島豆腐、島野菜のラタトゥユなど。
食い物自慢は下品だが、じつに健康的な味。

上の写真はシギラの浜でなにやら考えているふりをするわし。
南風=「ぱいかじ」にふかれて
キャンプと国際交流の無事と成功を南の海に祈ってきた。
ラボの夏はすぐそこだ。
心の筋肉をつけろよ!
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雲の流れがはやい。
沖縄から帰ってからは、ぽーっとするはずだったが
なぜか仕事のようなもので忙しい。
三澤制作所は、週休2日ではなく週働2日が原則なので
あまりよろしくない。
しかし、先週の火曜日に術後検査の正式な検査結果がでて
(例によってDrに電話してきいた。これはよいシステム)
画像の詳細な診断と血液の分析もクリアしたので
じつは悪くない気分。
沖縄に行く前に「たぶんだいじょうぶ」というDr.の
見立てをきいてはいたが複数の医師の判断があることがだいじ。
※ぼくがいっている病院では「トリプルチェック」が基本。
あまりよろしくないのは、先週は細かいスケジュールだったので
映画や芝居を見るまとまった時間がとりにくかったこと。
それでも、街をふらつくことはできるから
あちこちでかけた、あれこれを書くのだ。
だから、いつにもまして無内容なので
ライプラリーの深い話みたいなものを期待しないよーに。
上の写真は本日から始まった
「山口マサルとニューファミリー」というアート展で
茶畑和也氏(『寿限無』の絵の作者)と。
会場は南青山のスペース・ユイ。
例のごとく余談だが、
青山は基本的には墓地、あるいは骨をうずめるべき場所のことである。
青谷土手から東みれば、涙がでるのはとうぜんだろう。
このギャラリーは小さいがけっこう有名で
宇野亜喜良氏や和田誠氏なども古典をひらく。
外苑西通りを南へ下り、最初の信号
(JIROというぼくの好きなスキーショップの角)
を右折して100メートルくらい。
向かいはフェリーニの映画のタイトルからとった
8 1/2(はっかにぶんのいち)というヘアサロン。
茶畑氏は、ここで昨年も個展をひらいたが
今年はグループ展である。
といっても、今回のはちょとかわったグループ。
首謀者はイラストレーターの山口マサル氏。
山口氏といえば明治製菓のバッケージ(たけのこの里! とか)
やTVCMでよく知られたアーティストだが、
今日から6月5日まで(このギャラリーは数日で入れ替わる)
開催される展覧会は氏がツィッターで出展者をよびかけたものだ。
茶畑氏は、されに反応して4点を制作された。
11時のオープン直後に着いたら
長身の茶畑氏が身をかがめながら招きいれてくれた。
1年ぶりの会話は、どうしても近況報告中心。
中部支部のラボっ子として活躍されていたお嬢さんは
この春から、東京で美術の専門学校に通われるという。
もう『寿限無』から7年以上たったんだなあ。

話しているうちに正午を過ぎたので、
ランチにしましょうと外にでた。
朝は少し雨がのこっていたが、急に青空がひろがった。
風がやや強いがさわやかだ。
茶畑氏おすすめの中華屋で鳥そばを食べた。
Facebookの話でもりあがりつつ、
ギャラリーにもどる途中
路地のむこうの空にむかって六本木ヒルズが
まるでなにかオカルデイックなモニュメントのように見えた。
考えてみれば、このビルもある意味で遺跡的な建造物かな。
夕方4時、茶畑夫人も名古屋から来られるというので
別件を終了させてからふたたびギャラリーへ。
かつて『寿限無』制作のとき、茶畑氏のご自宅にうかがって
(中部支部の発表会を見た足でいったのを覚えている)
ご夫妻を前に「ラボ・ライブラリーの絵を描いてください」
と頭をさげ、ゆっくりと顔をあげたら
まだ夫人がポカンとした顔をされていのが、つい昨日のことのようだ。
ちなみに、夫人はずはらしいセンスのラボ・ママである。
おふたりにお願いしてギャラリーの前で写真を撮った。
互いに自立しつつ支えあう美しい夫婦の肖像。

時間は少しさかのぼって先週の水曜日、
東京駅そばの丸善OAZO店にでかけた。
特に買うと決めていた本はなかったが、
※買いたい本が決まっている場合はAmazonで勝手しまうからなあ。
まあ、頭の森林浴みたいなもので、
ギャラリー同様になぜか落ち着いて心の整理整頓になる。

一階から順番に見ていくが、
一階は場所がらビジネス書が多いので
さほどわくわくしない。
上の階にいくにつれて、かなりマニアックになっていく。
1つの階で、へたをすると1時間がすぐたつ。
じつに安上がりなレジャーである。
この日の最終目的地は4階。
4階には洋書の一部、地図、さらに時計やバックなどもあるが、
ぼくが行きたかったのは筆記具売り場。
いうまてもなく字はへた。
というより、速記がといわれたことがあるくらい。
とてもお見せできるものではない。
今思うと、「ことばの宇宙」の編集で
指定やキャプション、リード分などを手書きで入校していたのは
奇跡がおきていたとしか思えない。
そのわりにき筆記具が好きで、いまだにだいじなサインや
手紙やハガキは万年筆をつかう。
愛用は若き日はパーカー75だったが、
近年は父親からゆずりうけたモンプランのマイスターシュテック146。
これの書き味は最高。長く書いても疲労感がない。
ブルーブラック、あるいはロイヤルブルーのインクの色もいい。
吸入式だが、10000字くらいは書ける
そんなわけで、父親が一昨夏に他界したこともあり、
とりわけたいせつに使ってきたが、さすがに年代ものなので
ボディーがとうとう、「もう修理無理」となったので
やむなくご購入にでかけたというわけだ。
モンブランの万年筆には、いろいろなカスタム版もあっで
ヘルヘルト・フォン・カラヤンとか、
マークトゥエインなんていうビンテージモデルがある。
カラヤンはさすがにキザすぎるし、値段も分不相応。
トゥエインにも心が動いたが、
ほかにもいろいろためしてみた。
じつは、国産万年筆もパイロットの五万円クラスなどは
かなり安定した書き味が得られる。
パーカー、ウォーターマンもいいが、
結局、モンプラン146にした。ペン先はBB。
長年、手になじんだものには勝てないな。
丸善のいいところは、万年筆をすべて試し書きさせてくれることだ。
あたりまえのことだが、自動車でも試乗してから買うように
万年筆のように「使用感」が命のようなものは
テストしなければ購入しにくい。
けして安くないものだからね。
しかし、意外なことに、万年筆の試し書きが自由にできる売り場は多くない。
デバートはたしてい無理だし、
銀座のモンプランの直営ショップでも
テスターという試し書きようの万年筆では書かせてくれるが
全種類あるわけではないので、実際に買いたい軸の太さ、弁先の太さで
試すことができない。
丸善の肩をもつわけではないが、ここは、いやがらずに
ほとんどすべての種類を試させてくれる。
※もちろん、購入の意志があるこを示すことはマナー。
146にきめて代金を払おうとすると、
無料で名入れをしてくれるという。
30分ほどでできるというので、同じフロアのカフェで待つことにした。
東京駅のホームを見下ろしながらメニューを見ると
「檸檬」という名のスイーツがあった。

いうまでもなく梶井基次郎の代表作にちなんだ洒落だ。
「檸檬」の初出は1925年、同人誌「青空」創刊号に掲載された。
基次郎,24歳のときにの作品であり、
小林秀雄が激賞し、彼の代表作になった。
病んだ主人公が、ぞれまで好んでいた詩や文具への興味をなくし
果物屋で買ったレモンを時限爆弾に見立てて
丸善の本の上に置きざりにする。
この丸善は京都である。
基次郎は31歳の若さで結核により世を去るが、
彼の命日である3月24日(檸檬忌)はほぐの誕生日である。
それはどうでもいいが、中3で読んで衝撃をうけた。
そのころは有島の『カインの末裔』とか、
なんか暗めの作品ばかりもとめていたようだ。
だいぶ前に横光利一のことを書いたが、
梶井基次郎なども、ぜひ若いときに読んでほしいなと思う。
それからテューター、とくに支部のライブラリー関連の委員の方にも
読んでもらいたいなあと思う。
もちろん、梶井作品が直接ライブラリーの題材になるとは
思わないが、児童文学やファンタジーというラボに
比較的身近と思われるジャンルとは異質なものに
ふれることもとっても重要だと思うからだ。
水にも、海があり、川があり、池があり、沼があり、
また、湖があり、井戸があり、雨があるのだから。
さて、昨日の日曜日、台風の影響でとんでもない荒天のなか
フットボールの試合の撮影にでかけた。
母校のICUと東京外国語大学が、
おなじ三鷹・調布エリアの仲間ということで
昨年から、アカテミック、スポーツなどの多方面で
協力し、かつ競い合っていこうということになった。
そこで、両校にあるフットボール部も
定期的に試合を行なおうというわけである。
見た目は派手なスポーツだし、
将来的には、アメリカの陸軍士官学校対海軍士官学校のような
伝統的な試合になれば話題づくにもなるという目論見もありあり。
アメリカのArmyとNavyの試合は確かに名物のひとつで
あまり軍隊のことを書きたくはないが、
とってももりあがるので有名だ。
なにせ得点が入ると、その点数の分だけ
陸軍はしPush-up すなわち腕立て伏せをし
海軍はなんと大砲をぶっぱなす。
勝者に贈られるのはBrown Jug 茶色の酒がめである。
これは、どちらだったか忘れたが、
相手校の寮から、密造していた酒がめを深夜に持ち去ったことに
端を発し、フットボールで決着をつけようじゃないかという
のがはじまりらしい。
ICU VS 外大の試合会場は調布のアミノバイタルフィード。
どちらかの学校のグランドという案もでたが、
ホームとアゥェイになるのはいかがなものかということで
公共会場になった由。
じつは、両校の学長も多いに乗り気で、あいにくの荒天にも
かかわらず記念Tシャツを着込んで参加された。
下は、この試合のためにつくられた交換用の額入りペナント
をもつ、鈴木ICU学長(左)と長谷川監督。

試合前にはセレモニーも行なわれ、ハーフタイムには
チアリーダーの応援合戦もあった。
下は試合前の攻守をきめるコイントス(硬貨を
なげて裏表を予測する)の風景。
両校の学長もかなり気合いが入っている。
じつは、この写真はかなりめずらしい。
なぜかというと、この位置からの撮影は通常の試合では
規則上できないからである。
この日は特別に連盟と競技場から許可がおりた。

試合は、54対7という思わぬ大差でICUが勝った。
ティーム名はICUがApostles、外国語大学がPhnatoms
まあ、使徒と幽霊では勝負にならないかなあ。
なんて、失礼なことを思ってしまった。
新しいモンブランは書き味はごきげんだが、
父の形見のモンブランもなんとか書くことはできる。
息子が結婚したら渡そうかと考えているが、
なにせ、いろいろモロクなっているので
息子にしてみれば、時限爆弾をもらうような
ただの迷惑になるやも知れぬ。
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↑写真は沖縄美ら海水族館で、垂直採餌するジンベエザメ
金曜日に沖縄から帰った。今回は3日間の行程だったので
さすがに写真を整理するだけで眠くなってしまった。
すでに何回か書いたが、一昨年の5月14日に手術を受けた。
以来、基本的に3か月おきに血液をチェック、
半年ごとにCTなどの比較的大きな検査を受けている。
ただ、CTによる被爆はノーリスクではない。
さまざまなデータが出ていて、その有用性と危険性については
多くの意見があるが、少なくとも濫用や連続的な使用は避けるべきだろう。
2月に血液検査の結果を電話できいたことを書いたが、
今回は術後2年目の画像診断である。
というわけで、沖縄に行く前日に造影剤を入れた全身CTを撮った。
結果は、1週間後、これはさすがに直接聴きにいくのだろう、
と思っていたら、検査直後の診察室で
「今、撮りたての画像をいっしょに見ましょう」
と主治医のM医師がいったのでびっくり。
肺、肝臓、その他をともに見ていったが、
※なんか自分の活き造りを見ているよう!
主治医が見るかぎりでは良好ということでホッとする。
「後は、血液をとってもらってから帰ってください。
放射線医のコメントや詳細のデータは、来週電話してください」
いやはや、これでストレスなく旅にでられるなあ。
かくして、翌日の朝10時30分のANAで那覇にむかった。
なにをかくそう、はじめての沖縄行きである。
これまで、あちこち飛び回ったが、仕事では沖縄と縁がなかった。
『鮫どんとキジムナー』制作のときは、
制作室(当時の名称)の室長代理をしていた。
でも、広報と機関誌紙をほとんどひとりで担当していたので
『一寸法師』のライブラリーは、校正とか音声のチェックだけの参加で
『キジムナー』の沖縄録音にも行かなかった。残念!
このとき録音された『キジムナー』のウチナーグチヴァージョンは
小那覇全人さんが担当された。
※全人氏の父上、小那覇舞天(ぶーてん)氏も著名な喜劇役者だった。
全人氏は、今もお元気で
沖縄ラジオの「方言ニュース」を週二回担当されている。
ちなみにこの方言ニョースは開局した1960年以来続く
ウルトラ長寿番組で、平日の13時からのオンエアだ。
『鮫どんとキジムナー』は、英語も日本語の平明で力強く、
さらに本多豊國先生の沖縄カラーの色彩ダイナマイト炸裂の
版画もすばらしい。
しかし、ストーリィは冷静に考えると、
救いがない、へルプレスな物語だ。
鮫どんも孤独、キジムナーもさみしい。
でも、子どもたちには人気がある。
そこにはとてもたいせつなことがあると思う。
『妖精のめうし』などもそうだが、
自然との約束を人間はなんなか守れない。
雪女しかり。
その弱さを自戒するかのように物語は生まれるのだろうか。
ライブラリーのキジムナーの結末はきびしいが、
それは、きっともうひとつの物語のはじまりを示唆している。
そうでなければ救いがなさすぎる。
この物語と出会うことで、
未来にむけて、海や大地を守っていこうという
意志の種が子どもたちにまかれる。
そこからもう、次の物語はスタートしている。
命と同様に物語もつながっいくはず。
さても、ヘルプレスとえば、沖縄から帰った翌日の夕方、
中野のザ・ポケットでウッディ・アレンの芝居
『又聞きの思い出』を観劇した。
だいぶ前に告知したと思うが、鈴木小百合氏が翻訳を担当している。
この日は芝居の後、演出家と鈴木さんのトークもあるので、
例によって大学時代の悪い仲間が10人くらいおしかけ、
芝居とトーク後の 10時という、やや非常識な時間から
鈴木さんをかこんでリユニオンということになった。
下がそのときの写真。おわかりと思うが右はじが鈴木氏。

芝居は家族のドラマだが、商売べたな宝石商の父親(萩原流行)と
その息子(身重の妻あり)、芸能プロの社長で金持ちの父親の妻の兄
という男性三人が全員不倫をしているという、とんでもない設定。
アレン自身がミア・ファーロー、ダイアン・キートンなどと
けっこうハードなプライペートを展開する人だが、
彼の戯曲は男女のドロドロ、
とくに男の浮気が重要なモティーフになっている。
芝居はテンポがよく、ふつうに書いたら2時間30分はこえるドラマが
2時間びったりでおさまっている。
映画のような場面展開。さすがアレン。
映画ならカット割でできるところを芝居で舞台転換するのは
けっこうたいへんな演出力。
古城氏のディレクションもよかった
そんで、結末はヘルプレス。
アレンのコメディと思ってみた人はびっくり!
ところで、ウッディ・アレンは来日したことがない。
なぜだろう。
インタヴューぎらいは有名だけど…。
さて、沖縄にもどろう。
沖縄にはプライペートでも機会がなかった。
沖縄、琉球の美術、音楽、歴史には
若いときから強い興味をもっていたが、
なにかかまえてしまって足をむけることができなかった。
第二次大戦、ペトナム戦争、そしてアメリカ軍基地。
沖縄が直面しつづけ、今もたたかっている多くのことに
自分自身の非力を恨んできた。
福音館書店の松居直先生は
「知らないことは恥ではない。知ろうとしないことを恥じよ」
とおっしゃった。
だから、目をそむける卑怯者にはなりたくなかった。
本や資料で学ぶことはできるが
でも、実際に行ってみないとわからぬことは多い。
だからといって、脳天気に沖縄観光レッツゴーともいかぬ。
うじうじ。
でもでも、なにかこころひかれる風がある光がある。
谷川健一氏の『海の群星(むりぶし)』
※(たにがわけんいち=1921~ 民俗学者・作家・歌人 谷川雁氏
ら谷川4兄弟の長兄)
を読んで感動(NHKが緒方拳氏が親方役でドラマ化した。
録画がどこかにないかなあ。もういちど見たい)したり、
サンシンの音色と沖縄の音階(レとラを抜いているのが
西洋音楽との差異。インドネシアの音楽やガムランなどもそう)に
なにか魂をぐらぐらさせられたり…。
THE BOOMの「島唄」が大ヒットした後、
宮澤和史氏にインタヴューができた。
氏がラボっ子時代に懇意にしていた山梨の望月テューターのとりもちである。
いわゆるミュージシャンない、アーティストとしての静けさをもった
人だというのが最初の印象だった。
ぼくなんかの世代はギターといえば、まずフォークギターで、
エレキギターは退廃と体制の象徴のように思いこんでいた。
※本音はエレキは金がかかり過ぎるので手が出ない。
だから、ボブ・ディランが事故で休んだあと
エレキをもって登場したとき裏切り者よばわれされたりしたくらいだ。
よく考えれば幼稚なことである。
しかし宮澤氏の世代は、もう最初からエレキである。
そしてロックンロールがいちばんかっこいいと信じた世代である。
どうでもいいが、エイトビートの3拍めと7拍めに強拍があるのがロック。
宮澤氏もとにかくロックがやりたくて、
そして自分のことばを伝えたくて、上京し大学生活をおくりながら
表参道のホコテンでライブを続ける。
じつは、ラボも何回かパーティをのぞいたそうだ。
ただ、ここでラボにのめりこんだら音楽への道が
遠のくといいきかせたとのこと。
ホコテンで固定ファンはできてきたが、
なかなかメジャーにはならない。
また、日本人が日本語でロックをやることの意味にも
なんとなく「ほんものにならないなあ」というもどかしさを感じだした。
つまり
ブランクバースの詩形がない日本語で
シェイクスピアをやることのもどかしさ。
※これについては「英日」というラボのスタイルはひとつのアイディアだ。
外国人が落語をする難しさ。
なんてのと同根。つまり根っこの不確かさ。
そんななかで、宮澤氏は沖縄に行き、
さまざまな歴史的なできごとを学ぶ。
それまでの自分の「知ろうとしていなかったことに驚き」
同時に沖縄の民謡、すなわち島唄の力強さに感動する。
※日本の民謡で、毎年新曲がでるのは
河内音頭と島唄だけだ。
そして気づいたのが「ロックというジャンルわけはいらないんだ」
というシンプルな真実だった。
そのなかで生まれたのが「島唄」であり、
氏はエレキをサンシンにもちかえて登場する。
沖縄戦においてガマ(壕)のなかで命をおとした
ふたりの少女の実話をもとにしたこの曲は、
大きな世界観のなかで歌われる平和への祈りが人びとの心をうち
ご存じのように世界中で歌われるようになった。
「この歌が最後の挑戦と思って書きました。
でも、幅広い年齢の人びとに歌ってもらえる歌が一曲でもつくれた
ことは、音楽家としてうれしいことです」
宮澤氏は、そう最後にしめくくった。
沖縄や周辺の島々の映像も多くみた。
なかでも印象的だったのは
椎名誠氏の『うみ・そら・サンゴのいいつたえ』。
とにかく美しい画だった。
その美しさもまた大きな問題を抱えている。
この映画にでている余貴美子(よ・きみこ)さんがすばらしかった。
彼女は。それではじめて存在をしったのだが、
存在感と表現力がすりこまれた。
『はだかのダルシン』にとりかかったとき、
脚本の書き上がるダイブ前から、
ぼくはナレーションは余さん、と決めていた。
オファーにすぐオーケーがきたのがとてもうれしかった。
彼女のその後の活躍はご存じの通りだ。
話はまたまたそれてしまった。
そうやって沖縄へのうじうじは続いていた。
しかし、ひょんなことから会社員生活とバイバイし、
ぐんと自由度が増したという錯覚のなかで、
人生ののこり時間を考えるといあリアルの狭間のなかで
ぐうぜん、沖縄で仕事のオファーがあった。
その中身は例によっておとなの事情で書かぬが
今回は2泊でき、しかも美ら海水族館にいく時間がとれる。
美ら海水族館は、あの巨大水槽への興味と
館長の内田詮三氏がとってもおもしろい人なので
とにかく沖縄のもろもろとは別に一度行きたかったのだ。
ともあれ、ここまでたいくつな話をあちこちとびながら
書いてきので、しばらく写真をならべるので
お疲れやすみてきに見ていただければ幸甚。
下の写真は美ら海水族館のエントランス遠景。
場所は沖縄本島のほぼまんなかの東シナ海側。
那覇しないから70キロくらいはなれているので
アクセスがけっこうたいへんだ。
1975年の海洋博の会場あとちにつくれた大きな公園内にあるが
水族館は博覧会当時には現在のとなりにあった。
その水族館は2002年8月に老朽化のために閉館。
同年11月に今の美ら海水族館となった。

続いてはだれもが写真を撮る看板の前で。撮影は案内してくれた
地元の方。横は金沢編でも登場したが、三澤制作所代表のマネージャー。
この日は急に熱くなり、かつぼくが撮る写真のメモを全部とるので
すでにきげんが悪い。
※つまらぬ詮索はせぬように

ところで、美ら海水族館は国営である。
年間来場者数は270万人。
沖縄の県全体の年間観光客が500万人だから、
※県が設定している目標値。この数年はクリアし続けている。
すごい貢献度。三人にひとのはリビートするという。
下はウミガメ。

下はマンタ。和名はこれまでイトマキエイだったが、
じつはマンタには2種類いることがわかり、
ここのマンタは「ナンヨウマンタ」が正式和名になった。

続いてゆうぜんと泳ぐジンベエザメ。
いちばん巨大な個体で現在は約8.4メートルの体長。
まだまた大き弾くなるそうで14メートルくらいにまでなるらしい。
そして、これが、水族館がほこる
大水槽「黒潮の海」だ。深さは10メートル。7500トンの水を
厚さ60センチのアクリル板
(うすい板を何枚も張り合わせてる)で支えている。
現在、この水槽にはオス二頭、メス一頭のジンベエザメがいて
人口飼育による繁殖をこころみている。
これができれば世界初だ。
ジンベエザメの繁殖については不明な点が多く、
卵胎生ではあるが、身ごもった個体の捕獲はこれまで
生存したものはなく、死後でも一例しかない。
※その個体には310ひきの赤ちゃんジンベエが入っていた!
四階建ての高さをもつ水槽の上部はあけはなたれ自然光がふりそそぐ。
これだけの高さがあるために冒頭のような垂直採食が可能だ。
あの立ち食いは、自然の海でもやっていることなのだ。
こうした巨体な水槽をつくったのは館長の内田詮三氏だ。
氏は東京外大インドネシア語学科卒という経歴ながら、
水族館ひとすじのプロだ。
ジンベエザメの人口飼育の記録をどんどん更新したのも
彼の力である。
べらんめえ調の館長の熱いハートは飼育スタッフたちからも
絶大な信頼を得ている。
氏はいう
「水族館は、ある意味人間の悪行なんだよ。動物にはめいわくかもしれん。
だから、いつでもやめてやるという覚悟がいる。
でも、やる以上は可能なかぎり適正環境をあえたい。
そして、自家再生産を追求して野生個体の導入をなるべくしないんだ」
氏はさらに
「つぎはもっとでっかんい水槽をつくりたい。
そこでザトウクジラがゆうゆうと泳いだら、
みんなたまげるぜ」

下は、身じろぎもせず水槽を見つめる男の子。
きっと、この子は「まって、いかないで」という手をふりきって
もっと大きな海にこぎだす。なんちゃって。

下はマナティ。完全にやるきなしふうがいい。
メモをとるのにあきてきたマネージャーが
「代表、カンペキにナメられてますね。フフフ」

ゴンドウイルカのオキちゃん。なんと芸歴35年!

オキちゃんの仲間の大ジャンプ。彼女も芸歴20年ごえ。
マネージャー「あんなに芸させられてかわいそう」
空気がへんになったので
ぼく「ギャラもらえるんだから」でと笑いをいれたら
「でも、イワシじゃねえ」

沖縄はいま梅雨だが、午後には晴れてきて激アツ。
へろへろになって帰ると、宿舎でシーサーがおでむかえ。
シーサーは獅子の沖縄ダイアレクトといわれる。
阿吽の一対が多いが、もともとは単体。
いつのまにか狛犬などの文化とまじってしまったようだ。

最後まで読んでくださった方ありがとう。
でも、歴史的な場所とか基地とかがまったくでてこなかった
のでおどろいたかも。
でも、沖縄戦のことや基地のことは、やっぱしそうかんたんに書けんのね。

帰る日の朝、海はおだやかに凪いで、空をうつして輝いていた。
宮澤氏のインタヴューの終わり際、
氏は
「これは「ラボの世界」にのるんですね。
『ことばの宇宙』じゃないんですね。
ぼくはその響きが好きなんで
ちょっと残念かな。冗談ですけど」
そういって、いたずらっぽく笑ったが、
その目はアーティストではなく、ラボの仲間のものだった。
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写真は昨日、グリーンホール相模大野で開催された
神奈川支部テーマ活動発表会で。武パーティの『ノアのはこぶね』冒頭。
このところ、連チャンでテーマ活動を見ている。理由はいくつかある。
順不同で箇条書きしてみよう。
・映画といっしょで、テーマ活動は見はじめるとけっこうクセになる。
・最近仕事で写真も撮りはじめたのでその練習。
・やっぱりテーマ活動がすき。
・自分が関係した作品は気になる。
・このところ教務局から依頼されて手伝っている仕事があるが、
頭で考えるだけではだけだと思う。
まあ、そんなところだが、なかでも撮影はおもしろい。
ぼくは写真のプロではないが、ライブラリーについてはプロ(だった)。
だから、子どねたちの動きや表現の展開が読めるので、
きっと、こうくるなと先回りしてカメラをかまえ、
「さあこい」と表情や動きをつかまえにいく。
これは、その通りになるとかなり快感。
昨日は東京支部と神奈川支部がどちらも発表会を開催。
みごとにコンフリクトしている。
東京は練馬で近いし、新刊もでる。
しかし、うーむと悩んで遠いが神奈川にいくことにした。
※ああ、東京支部ごめんなさい。
その理由は
・神奈川は2年ぶりだ。
・息子と娘(すでに二人とも社会人)がお世話になった
野田パーティがでる。
※わが子が参加していたのは先代のlate great 野田和美バーティ
今回はご長女が率いる野田知美パーティ
・『エメリヤン』と『ノア』が見たい。
・いきおいで神奈川支部の方に「いきますよ」といってしまったこと
まあ、いいわけはともかく9時半にマネージャーの車で出発。
連休のラストサンデー。山手トンネルから首都高速、
そして東名高速で横浜インターをめざす。
五月の光がまぶしいなあ、なんてうきうきしていると
なんと40Kの道を40分で着いてしまった。
グリーンホール相模大野は、なかなかいいホールだ。
駅から5分、なぜか伊勢丹のなかをぬけるという不思議な構造だが
ぼくが入った車寄せのある裏手には大きな公園もあって
その名にふさわしい。
ホールは音響がとてもすばらしい。
十分一流音楽家の演奏会ができる。
いやいやまさに大舞台(おおぶたいが正しいよみ)。
いろいろ書きたいことはあるのだが、
とりあえず、少しばかり写真をならべてみよう。
ふんいきが伝われば幸いだ。
まずは野田パーティの『エメリヤンとたいこ』


次は加藤パーティの『一寸法師』


午前の最後は武パーティ『ノアのはこぶね』


午後のトップは前田パーティの『エメリヤンとたいこ』


続いて青池パーティは大作『平知盛』


最後は川村パーティの『へいぬりあそび』『おさげの天使』E version


この日は総計で400枚くらい撮影した。
舞台写真はけっこうむずかしいが
器材が最近はぐんとよくなったので、素人でもこの程度は撮れる。
逆にいうとこの程度がせいぜい。
※この程度でよかったら、写真撮りにいきます。
もちろんノーギャラなので、スケジュールがあうこと、
できあがりに文句をいわないことが条件。
この日行なわれたテーマ活動ひとつひとつについて、
なにか批評的なことを書く気はまったくない。
いわゆるevaluationはかっこわるい。
だけど、考えたことをつらつらと夜に書いてみようっと。
ラボにおける発表会とはなにか。
なんて、いきなり大上段だが、それをせ考えるひとは
とってもだいじだと思う。
ぼく個人の考えでは、発表会には多様な意味と目的がある。
だから、個人のパーティでも、地区でも、支部でも、
その目的について毎回確認し、認識しあって取り組むことが肝腎かな。
先日のShow off 見せびらかしということを『トム・ソーヤー』に
からめて書いたが、
発表会が「ラボっ子の能力のデモンストレイション」が最終目的ではない
とぼくは思っている。
そのこてはコンセンサス、共通理解を得られることだろうか。
今はフリーだから、あえて踏み込んで書くのだが、
発表以前に「テーマ活動とはなにか」というコンセンサスを
ラボ全体で確認するのはなかなか困難だ。
おおむねいっしょという同心円にいることは確かだが、
言語、教育、成長、身体、交流、異年齢、
などの諸項目の細部について話し合えば必ず微妙な差異は現出する。
その差異を認め合うのが、いうまでもなくラボの美点であり魅力であり、
ときにはやさしい弱点なのかも知れぬ。
物語のテーマ解釈と同様に、ある程度の多様性を評価しあうなかで
ラボは進んできたことはまちがいない。
さきほど、同心円と書いたが、それは「ことばの宇宙」という空間に
おきかえてもいいだろう。
いずれにせよ、その中心にあるのがラボ・ライブラリーだ。
その宇宙、あるいは同心円に居住していることが仲間の絆。
さらにいいかえれば、物語というおなじ地下水脈に根をおろしている
樹木がパーティであり。咲く花や実る果実は多様でもいいのだろう。
なんて、まじめなんことをたまにはつぶやく。
さて、発表会にはさまざまな目的があるべきと前述したが、
いわゆる「見栄えのよしあし」や「声の大きさ」
さらに極端にいえば「テーマの掘り下げ」すらも
ある意味、ほんとうに極端にいえばどうでもいいとぼくは思う。
※もちろん、かっこいい発表が悪いというわけではない。
ただ、そのパーティ全体が、あるいはラボっ子ひとりひとりが、
その物語に取り組むことでなにを目指したのかが重要なのだ。
Aパーティが発表する物語がどうかというより、
その物語に取り組んだAパーティがどのように
格闘し、悶絶し、学び、成長したか問題なのだ。
同様に、一人ひとりのラボっ子、たとえばBくんが表現した
主人公がどうであったかではなく、主人公に取り組んだBくんが
どうであったのかが見たい。
ようするにテーマ活動はバフォーマンスではなく教育活動だからだ。
したがって、その学びの歩みがわかる発表に、ぼくたちは感動できるのだ。
その意味では、昨日の発表はいずれも感動的だった。
大きな舞台での発表はたいへんである。
ふだんは、けして広くない空間で行なっている活動を
ステージにのせて、しかもパーティ全員でというのは
その準備や練習の過程を考えただけでも涙うるうるだ。
やはり大会場での発表はかなり特殊なのだ。
ふだんのパーティで、よくライブラリーを聴いて
きれいにことばを発している幼い子が、
大きな舞台で高校生とあわせるとき、
不幸にして高校生の聴き込みが甘く、「覚えた」セリフだったりすると
幼い子のことばが消えてしまうような事態は、
テューターの読者の方は経験のあることだろう。
そんなこんなをのりこえて立つステージだから、
どうしたって気合いが入るのは当然。
しつこいが、発表は見せびらかしではない。
しかし、昨日は(も)
「この物語をわたしたちは、こういうふうにとらえ
こんなふうに表現します。見てください!」
という子どもたちのきもちがずしんと届いてきた。
子どもたち自身が「伝えたい」と思ったとき、
その発表は「英語がいえるよ」という見せびらかしを
はるかにこえた大きな教育プログラムの果実となるんだなあ。
さても、少し興奮しすぎたので話題を変える。
というか、素朴な感想を書いてみる。
冒頭に書いたように、幕開けすぐに発表したのが
野田パーティだ。先代の野田和美テューターには
息子と娘がお世話になった。
彼女が他界されてから、もう10年近くになるだろうか。
とにかく、ライブラリーをよく聴くパーティだった。
その理由はじつにシンプルで野田テューター自身が
とにかくテーマ活動がすきで、
そしてとことんライブラリーを聴く方だった。
その習慣が自然にラボっ子にも伝わった。
それは真実だと今も確信している。
聴き込みは野球でいえば素振りやランニングみたいなものだから
回数がある意味重要であることはいうまでもない。
もちろん、流し聴きもありだと思うし、
いろいな聴きかたでいいはずだ。
ただ、そのことばの入力の積み重ねが
深い洞察力、大きな想像力の源泉になる。
「この場面をどうする」などという頭で考えるのではなく、
ことばを蓄えることでコンテンツも豊かになっていく。
音楽CDでできるくらいに、ことばが入ったころになると
ふしぎなくらい、いろいろな表現のアイディアが出始めるのは、
そのことの証明みたいなものだ。
現在の野田知美バーティは、みごとにその遺伝子を引き継いでいた。
ほんとうによく聴いているのがわかった。
聴き込みにうらうちされた表現は、特別なことをしなくても
すっと心にはいってくる。
ちょっと贔屓のひきたおしんなあ。
ともかく、昔を思い出してウルッとしたのはしかたない。
武バーティの『ノアのはこぶね』はどきどきした。
この日の発表のなかで、この作品はぼく自身が制作責任者である
だけでなく、日本語も担当したからだ。
毎回のようにいうが、作品はリリースしたら受けてのものだ。
でも、やっぱり気になる。
これはものづくりに関わる人間の宿命、業、カルマだ。
発表を見ながら、たとえば「大嵐が」なんてナレーションがきこえると
「ああ、なんで大嵐なんて漢語的な熟語にしたんだ!
おおきなあらし、たいへんなあらしとか和語でうけるところだろう」」
なんて、自分で書いたことばに今さらがっかりしたりした。
でも、それは一時的に感情で、当時は何回も推敲し、
何回もパルバース氏と激しい精神バトルをくりひろげながら
選び抜いたことばであるから、それでいいのだと思い返したり…。
さきほどの同心円のまんなか、あるいは地下水脈をつくる仕事。
やはり恐ろしい仕事。でも、こんな幸せなことはあまりない。
もう、発表してくれた子どもたち一人ひとりを抱きしめたかった。
状況を考えればきびしいテーマである。
もちろん、この物語にしたのは震災のはるか以前。
だが、
鳩がオリーブの葉をくわえてもどってきたとき、
会場をつつんだふしぎな一体感はほんものだった。
等身大の登場人物ということばがある。
ラボっ子それぞれの年代に近い登場人物ということだろう。
ライブラリーの要件としても、一巻の物語のなかに
あまり年齢・性別などが偏らない配慮というのは重要な項目になっている。
※たぶん、いまもそうかな。
その意味ではノア役はたいへんだったかもしれない。
でも、がんばっていた。格闘のあとがわかった。
動物は、それぞれの年齢でできる。
たとえば『ワフ家』をやるとすると、幼い子どもはほとんど
自然に四つ足で表現するだろう。
ではテューターや中高生ならどゔだろう。
たぶん二本足で擬人的に表現するのではないか。
この物語で、何歳から二本足で表現するか、また
それは男子と女子で異なるか、というのはとっても興味深い話。
ただ、それにつっこむと、またとても長くなるので別の機会にするけど。
青池パーティの『平知盛』も圧巻だったが、この物語の登場人物も
けっこう年齢としてはラボっ子より上だ。
主人公の知盛は35歳。
それを、おそらくは高校生と小学生の二人で表現していたが。
ぜんぜん違和感がなかった。
それは、この日の発表にはなかったが、『シーザー』や
『ドン・キホーテ』でもそうだ。
これらの物語の登場人物も、かなりのおじさん、あるいはおじいさんだ。
それらの人物とラボっ子がむきあう。必死になりきる。
年の差すごいのに…。
なぜか。
それは、知盛もシーザーもキャシアスもブルータスもキホーテも
それぞれの人生を「生ききっている」という
全力疾走の若わかしさだ。
悲劇的な結末をわかっていても、ぶれない魂が鮮烈だ。
だから、『平知盛』も青春ストーリィになるし、
『ジュリアス・シーザー』も青春群像ドラマのように見える。
「ぶれずに生ききる」ことの困難な時代。
それ自体がいまやファンタジーといえる時代になってしまった。
しかし、物語のなかでそれぞれの登場人物は
たろうも、ロミオも、トムも、ティボルトも、
ブリアンもドニファンも、ウェンディも、だめまちゃんも、
いつもぶれずに、全力で生きている。
それ以上の激励があるだろうか。
最後だが、トリをとった川村バーティの『トム・ソーヤ』
1話2話の英語のみも興味深かった。
単一言語による表現については、いずれまた書く予定。
帰りは、家が近い財団理事の間島氏といっしょだった。
やや西にかたむいたものの、まだ十分に明るい陽射しのなか
東名高速を東へ。
「いい会だったね」とふたりともやさしい気分になった。
間島「夏がきますね。週末はシャペロン合宿です」
ぼく「ああ、夏がくるねえ」
そうこたえながら、ラボを修了したことが
少しさみしくなった自分と、
「ぶれないぞ」とつぶやく新しい自分がいた。
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先日、春は静かに通り過ぎていくなどと書いたものだから、
勢いで「夏がくる!」となってしまった。
でも、ぼやぼやしてるとんとに夏はすぐくる。
沖縄は、もう梅雨入りしてたけんね。
写真は昨日、神奈川支部の川村パーティの31周年記念の会で。
『わんぱく大将トム・ソーヤ』より。
今は母のことなどもあり、基本的には中野で寝起きしているが、
家は川崎にもあり、現役時代は私鉄とJRでラボセンに通っていた。
およそ1時間の通勤だが、
「せめて渋谷発22時の急行で帰りたいなあ」と
まじめに考えていたから恐ろしい。
川村パーティとは国道246号線をはさんで隣町のご近所どおし、
また、「テューター通信」編集委員会などでごいっしょしたこともある。
そんなご縁でお声をかけていただいので、
のこのこでかけた。
そうしたら、あろうことか、
第二部のお茶会で乾杯の発声をたのまれ、しどろもどろの
意味不明なスピーチをして恥をかいてしまった。
それはともかく、『トム・ソーヤ』を
1話~4話通しという、ありそうであまりない企画と
冒頭では『フレデリック』の発表もあるというので
連休初日のお日様がふりそそぎBBQ人であふれる多摩川をこえて
いそいそとおでかけした。
1話から4話までの一気発表だから、いろいろなトムが登場する。
小学生から高校生(たぶん)まで、どれも楽しい。
等身大という点からだけいえば、小6か中1くらいの男子が
いちばんぴったしだと思う。
だけど、高校生でも、女子でも、それぞれのトムが感じられた。
もちろん、聴き込みや物語への突っ込みには、
個人差があり、それは声や身体の表現ではっきりとわかった。
(本当は恐ろしいテーマ活動なんちゃって)
でも、そんなことは本人たちがいちばんわかっていることで、
とにかくトムたちがいたことはまちがいない。
それは、きっとラボっ子の本質のひとつである「少年性」が
小学生にも高校生にも、そして女子にも素直に表れるのが
この『トム・ソーヤ』という物語だということなんだなあ。
あぶなっかしくて、もろくて、好奇心いっぱいで、
空気がいっぱいはいっていて、やさしくて、
大胆で、繊細で、そして男前。
『白雪姫』が少女の物語であるように、
『トム』は少年の物語だ。
原作はいうまでもなくトゥエイン(1835~1910)
の『トム・ソーヤの冒険』。
アメリカの片田舎の一時期を描いた、
ある意味きわめて狭い世界をとりあげたこの物語が
世界じゅうで支持されているのは、
まさに、「少年の本質」がミシシッピィに反射する光のように
あざやかに描かれているからにほかならぬ。
トゥエインは、人気作家になってからも、いろいろお金や
家族のことで苦労がたえなかった人である。
生まれはトムと同様にミズーリ州の
フロリダ(ホントだよ)という町である。
彼は地方と都会をいったりきたりする人生を送る。
※いいとこのお嬢さんと結婚して、なかなかたいへんだったり、
年をとってからもうけ話にのってだまされて財産をへらし、
講演(口演)行脚をしてかせいだりもした。
『トム・ソーヤーの冒険』"The Adventures of Tom Sawyer",
は 1876年、41歳のときの作品。
当初、トゥエインは「子どもむけ」というより、
自分が育った古きよき、地方の、それこそミツバチがブーンというような
おだやかな暮らしへのノスタルジー的小説として
おとなの読者をターゲットにして書こうとしていた。
それを知り合いの編集者に見せたところ、
「これは子どもにむけて書いたほうがいい」という助言をうけ、
書き直すことにしたという。
そういえば、
15年前に、当時は東京女子大学におられた亀井俊介先生と
お会いしたとき、
「そうです。たとえばポリーおばさんが、トムの髪が
あまりにぐしやぐしゃなので、いやがるトムをおさえつけて
櫛を入れる場面で、穝所の原稿では
『おばさんは地獄のようにとかすんだ』"comb to hell"としていたのを
hellは、子どもむけとしてはいかがなものかということで、
"comb to thunder"と書きかえているんですよ」
とおっしゃったのを思い出す。
※そのとき、財団理事の能登路雅子先生ら紹介していただいた。
トムは自由そのもので、彼をとりまく
小市民的だが愛すべき、しかしけっこう自分本位かつ見栄っ張りな
おとなたちを睥睨(へいげい)している。
トムのまわりのおとなたちは
つい「おれが、わたしが」と自分をShow-off、
すなわち見せびらかす。
しかし、トムにもそうした部分がないわけではない。
そして、『帰ってきた海賊』でもわかるように、
馬鹿にしている、そしとびでたいとおもっている
そのおとなたちのいる場所に結局はもどってくる。
Show-offは、アメリカ的なるもののひとつの本質といわれる。
トムは、アメリカというでっかい
木の枝の下からは飛びだすことはなく
その大木によりかかりつつ、
根っこを「ちぇっ、ちぇっ」とかいいながら
けっとばしているガキだともいえる。
だからに自由さだけでいえば、ハックのほうがはるかに上だ。
『ハックルベリー・フィン』になると
ご存じのように、もうハックはぶっとびだして、
どこまでもぃってしまう。
また、文学作品として見ると『ハックルベリー・フィン』は
トゥエインの作家としてのより高い熟成度が見られ、
児童文学の域をこえている。
ノーベル文学賞をとったウィリアム・フォークナーは、
トゥエインを真のアメリカ最初の作家であり、
われわれはすべてトゥエインのsuccessors(相続人)であるといったし、
ヘミングウェイは、すべてのアメリカ文学は
『ハックルベリー・フィン』に由来するとさえいっている。
もちろん、トムがあってこそハックが生まれたのであるが、
ラボっ子には、ぜひハックまで読み進んでほしいなあ。
※でも、ライブラリーのトムは、絶対原作より魅力的だぜ!
やはり、らくだ・こぶにおそるべし。
※この作品は1977年1月の発刊だが、その半年前の夏のある日、
ラボに入社したばかりのとき、
ふらりと氏があらわれて、ぼくも含めて何人かいた事務局員に
「こんどのテープ(※注 懐かしい!)はトム・ソーヤ」と
ぽつりといって、みんなが「ほーっ」といったのを思い出す。
そのころはライブラリー委員会なんてなく、事務局員ですら
新刊の内容や題はぎりぎりまでわからなかった
ともあれ、アメリカを考えるうえできわめて重要な作家であるトゥエインに
幼いときから出会うことは、とってもたいせつなのだと改めて思った。
トムは、今も、アメリカの正面玄関で、それこそ
自由の女神の肩にすわって足をぶらぶらさせて口笛をふいている。

この写真は、やはり川村パーティの『フレデリック』。
じつは、この物語がおさめられたライブラリーSK31は、
ぼくがプロデュースした最後の作品である。
そして、さらにこの『フレデリック』の発表を見るのははじめてである。
どきどき。
しかし、いつも書くことだが、ライブラリーであろうが
小説であろうが、絵であろうが、音楽だろうが、
作品は、世に出た瞬間、読み手、聴き手、鑑賞者のものである。
作り手が「そういう意図じゃない」と泣こうがわめこうが、
もう一人で歩いていく。
ただ、ライブラリーがめぐまれているのが、
ラボっ子やテューターの皆さんが、いっしょうけんめい
愛して育ててくれることだ。
うるうる。
今だから、書くが、ナレーションの市原悦子さんは、
演出の西村先生が「ぜひに」とこだわった人選である。
そこで、NHKエデュケーショナルを通してオファーをだしたが、
所属事務所からは「物語の内容も企画もよいが、
子どもの声とからむと、市原独自の語りの世界観が…」
というNGに近いものだった。
では、他にという話になったが、西村先生は、
「いや、ほぐの演出イメージは彼女なんです」ときっぱり。
うーん、とうなっていたら、どういうわけか
本人がやるといっているからOKだという返事がきた。
その経緯も理由も不明だが、文句をいうすじあいはなしと
本番にのぞんだ。
収録当日、市原さんは赤いスカートに白いブラウスという
かわいらしいコーデイネイトで登場。
つきそいはマネージャーさんと事務所の社長さんも!
ウーム、ハードルあがるなあ。
しというのも杞憂で、じつに収録は順調にすすんだ。
もちろん、例によって無茶な注文や、英語とニュアンスを
あわせるための、めんどうな別パターン撮りなどもお願いしたが、
にこにこと全部つきあってくださった。
最後のOKがでて、おつかれさまの声が響き、
ブースから市原さんがでてきてごあいさつ。
お茶をさしあげると、おいしそうに飲まれてこうおっしゃった。
「先日、江守徹さんがおっしゃってた。
とっても、おもしろくてすてきだけど、
たいへんなお仕事って、意味がわかったわ」
家政婦ならぬ船長は見た!
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